瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:平家落人伝説

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

髙松平野とその丘陵部の東西の植田町には、熊野神社が数多く分布すること、その背景として、中世に屋島寺や大内郡の水主神社の熊野行者の活発な活動があったことを以前にお話ししました。熊野行者の痕跡は、香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」として報告されています。この中には、熊野信仰の道と「平家落人の道」・「義経がきた道」が重なりあっていることが指摘されています。今回は、これを見ていくことにします。
 髙松平野から塩江に至るルートには、次のような熊野信仰の痕跡が残されていることを以前にお話ししました。
①松縄町の熊野神社(熊野大社別当・熊野湛増の子孫の建立)
②元山町の熊野神社(元山権現) 大熊氏(熊野湛増の子孫)の建立
③十川西町佐古の熊野神社(吉田神社と同居)
④ヒジリ(聖)の墓  熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡
⑤トンボ越 修験者の聖地
⑥城池 植田美濃神の戸田城 山伏池と祠
⑦戸田城の守護神宝(熊野)権現           
⑧菅沢町の熊野三所権現
⑨塩江の熊野権現
「松縄 → 植田 → 菅沢→ 塩江」までは熊野行者の活動拠点が点々と続きます。これに県史14巻に載せられている平家落人伝説を重ねていきます。
まず②の「かまとこ寺蔵」からみていくことにします。 
 春日川の上流、神村(こうのむら)には、かまとこ地蔵が祀られてある。
平家の落人がここまで逃げてくると馬の足音がする。 追手が来た、とまだ火を入れていない炭焼窯にかくれたところ、源氏の兵たちはその炭焼窯を土でふたをしてしてしまった。それから後、さまざまの怪異が起きたので、源氏でもない平家でもない地元の人たちは炭焼窯の床に地蔵を祀った。窯の床に祀られた地蔵のそばに、桜の古木が植えられてある。
炭焼き窯に隠れた兵への落人を供養して地元の人たちが、その窯の床に寺蔵を祀ったというお話しです。続いて大石には「平家ばあさんの木」の話が伝わります。ここには姫君と乳母の塚があり、木を切るとたたりがあるとされます。桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿、こんなことわざとともに、平家ばあさんの木を切ることを諫めています。
黒岩神社 植田町
黒岩神社 髙松市西植田町
黒岩では平家の宝刀が埋められていると伝えられます。祈願を黒岩神社にこめたところ、病が治ったのでお礼に剣を埋めたと云います。
落人ではありませんが祇王(ぎおう)祇女が隠れ住んだという下谷も近くにあります。 妓王は「平家物語」に登場する白拍子のことで、ふたりとも 平清盛に寵愛されますが、仏御前に寵愛が移ると冷遇され、屈辱から自害を決するが母に止められ出家します。そして二人を追って仏御前もやってきたというのです。そして、それが次のような地名になっていきます。
①仏を背負って越えた峠が仏坂
②祇王たちが住んだ近くの山は祇王山
③これら迷いの多い女たちが煩悩を解脱したのが生枯(はえがらし)
④「もえ出るも枯れるも同じ野辺の草いずれか秋にあわれはつべき」と彼岸に達したところの地名が生枯
こんなストーリーを語るのは、行者や聖が得意とするところでした。全国を廻国して仕入れた情報や話題が「還元」されていきます。
 平家の女人伝説はさらに、綾上町前山に続きます。この周辺には姫塚伝説が各所に残ります。
都が見えるところ、すなわち海が見える高地へ葬られた塚とされます。さらに琴南町雨島にも姫塚があります。姫塚は、どこも屋島から逃れてきた足弱な姫君がみまかったところとされます。今は、山桜の古木が枝を広げています。景色の良い山の上に石組みの塚が造られていたことがうかがえます。それが姫塚として、平家落人伝説に結びつけられていきます。
 しかし、民俗学者は「姫塚」の別の用途を次のように述べます。

卯月八日の「山遊び」は山の神を迎えるため
山の神を迎えに、人々は春の山に登って、積善のために石を積んだ。

「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔(塚)」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願や国見を兼ねて見晴らしの良い山に登ります。そこで積善のために石が積まれたのです。以前にお話ししたように、中寺廃寺のCゾーン(祈り)の石組みも、春の「山遊び」の際に積まれた石組み(塚)と研究者は考えています。讃岐の景色のいい山の頂上近くや川原にも、このような塚が積まれたことがうかがえます。それが後世になって用途が分からなくと、修験者が落人伝説と結びつけて「姫塚」と呼ぶようになったと私は考えています。
中寺廃寺Cゾーン 石組み
中寺廃寺Cゾーンの石組み(まんのう町) これが姫塚とされた?

 屋島から矢が飛んできたという岩、平家の落人と地元の兵たちが戦った弓取橋など、名もない塚などはすべて落人の塚として今に伝わっています。

大滝山 龍王山から大川 讃岐国図2
                  江戸時代初期の讃岐国絵図 
山田郡の下司 → 塩江 → 貝の脵川 → 堂床 → 雨島 → 横畑というルートが見えてくる
   美合村(まんのう町)横畑集落の宮本家に伝わる平家落人伝説について、香川県史14巻民俗編540Pは、次のように記します。
屋島の源平合戦に敗れた平久盛以下数十人の集団は海上へ逃がれることができずに、屋島の津から山へ山へと入りこんだ。春日川沿いを上流へ上流へとさかのぼる。途中、①高松市西植田町あたりに、馬切りだとか平家落人の塚というのが点在する。さらに川沿いの道は谷に入りこむ。炭焼窯に身を隠して果てた落人を祀ったと言う②かまとこ地蔵、③平家乳母の塚、落人ゆかりの伝説がいくつか語り残されている。春日川上流の峰を越えると香川郡香川町、さらに山道は綾歌郡綾上町仲多度郡琴南町へと一直線上にけもの道が隠されている。 
ここからは横畑への落人の道は、次の2つのルートがあったようです。
A 塩江町から貝股川沿いに、浅木原を越えて、横畑へ入りこんだルート
B 綾上町柏原から西谷川沿いに郡境を越えて、まんのう町の雨鳥の郡境尾根から浅木原→横畑というルート
大滝山 龍王山から大川 讃岐国図

そしてこれらのルート途中には、次のような落人伝説があるようです。
雨島に平家落人の塚
前の川に四方塚
長谷に、体の弱った兵たちがはぜの木にまけたという地名由来
雨島峠4
           綾川方面からの美合への入口となった雨島峠

こうしてみると、どちらのルートにも落人伝説が散在しています。これは、熊野行者や高野聖などの修験者が、このエリアを行場や霞として通ってきていたからだではないでしょうか。それが横畑の宮本家に残る平家落人伝説につながることは以前にお話ししました。

雨島峠の寺蔵
雨島峠に建つ「二界万霊」地蔵
 香川県史14巻468Pには、通説のルートとは違うもうひとつの「義経が来た道」紹介されています。それは吉野川をさかのぼり、まんのう町勝浦を越えて来たというルートです。それを最後に見ておきましょう。
 勝浦(かつうら)とは縁起のよい地名だと勇みたった義経軍は、通る道が二つ分かれた、右するか左するか、ええい、真ん中を通るべしと野原の中央を通る。中通(なかと)と現在呼ばれる地点である。流れの激しい渕では馬を休める、渕の石には義経の馬のあとが岩にきざまれる。駒が淵を通り、物見の兵が山へあがる。雨島の遠見山である。平家姫君の塚がある山である。日が暮れて道がよくわからないので、松明に火を点じたところ、牛の尾に火がついて山の木立が燃えはじめた。このあかりで峠を越える。これが焼尾峠、琴南町から綾上町へ抜ける峠道である。
 
 山が燃えたので雨が降り出した。しぼり谷でぬれた衣をしぼったものの兵たちに生気がない。そこで義経は牛の子堂に祈願をこめる。「勝利に導きたまえ。我にお力添えをいただけるのなら、あかしを見せ給えと。そのとき山上から赤い子牛が下りてきて、先へ先へと歩いてゆく。木が茂り曲がりくねったところも牛に続いて歩けば道は開ける。曲木(もじき)・開(ひらき)と呼ばれるところ。萩戸から菖蒲を通り、四歩市、九十谷へ来たとは、いつの間にか牛が九〇匹となり、千疋へ来たときは牛が千匹にもなっていた。矢坪で矢の用意をし、牛の角松明をつけて屋島へと向かった。義経弁慶石のあるあたりは柴折り神さんとなり、柴を折って手向ける。
 東谷には、義経の馬の病気を治したという神職の話も残されている。
これらの話も、大川神社の別当を務めていた山伏たちが祭りや庚申講の時に夜を徹して話したことが伝わったものでないかと私は考えています。「平家落人伝説の影には、山伏あり!」です。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 
香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」
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近世半ばまでの阿波の修験者たちは、高越山を中心に動いていたことを前回は見ました。そのような中で近世半ばになると剣山が開山されます。剣山は高越山に比べて高く、広く、地形も複雑で、行場となるべき所が数多くある修行ゲレンデです。修験道場としては、最適で多くの山伏を一時に多く受け入れることができました。人気の修行地となった剣山は急速に発展して、先進の高越山をしのぐようになります。こうして近世の阿波の山伏修験道は高越山・剣山の二大修験センターを道場として、阿波だけでなく、四国・淡路・備前など近国に剣山講・高越講を組織して発展することになります。今回は剣山開山を進めた木屋平の龍光寺と、祖谷の円福寺について、今まで紹介できなかったことを見ていくことにします。

徳島の研究6
テキストは「  阿波の山岳信仰     徳島の研究6(1982年) 236P」です。

剣山は、古くから開山された山ではないようです。18世紀によって修験者が活動を始めた山で、剣山と呼ばれるようになったのも開山後のことです。それまでは「太郎笈」「立石山」「篠山」と地元では呼ばれていたようです。それが修験者によって開山されると、それらしき山名の「剣」と呼ばれるようになったことは以前にお話ししました。
 剣山の開山については、次の東西ふたつ寺の開山活動がありました。そして、それぞれの寺が次のような「登山基地」を開設します。
①東側の木屋平村の龍光寺が、富士の池に
②西側の祖谷村菅生の円福寺が見ノ(蓑)越に
山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
木屋平村の長福院龍光寺

まず龍光寺について見ていくことにします。『阿波志』に次のように記します。
「(木屋)平村谷口名に在り、平安大覚寺に隷す。旧長福寺と称す。大永二年(532)重造する。享保二年(1717) 今の名に改む。其の甚だしくは遠からざるを以って、剣祠を祀る」

意訳変換しておくと

「龍光寺は木屋平村の谷口名にある寺で、京都の大覚寺に属す。旧名は長福寺で、大永二年(532)の建立である。それが享保二年(1717)に、今の名に改められた。この寺では、それほど古くからではないが剣(神社)祠を祀る別当職を務めている。」

龍光寺は、享保二年(1717)までは長福寺と呼ばれていました。
 長福寺は中世に結成されたとされる忌部十八坊の一つとされます。
江戸時代に入ると長福寺(龍光寺)は、剣山修験を立て「剣山開発」プロジェクトを進めるようになります。その一環が、福の宇をもつ長福寺という寺名から龍光寺へと改名でした。修験者(山伏)たちの好む「龍」の字を入れた「龍光寺」への寺名変更は、忌部十八坊からの独立宣言だったと研究者は考えています。
   龍光寺への寺名の改変と、剣山の名称改変はリンクします。
 修験の霊山として出発した剣山は、霊山なる故に神秘性のベールが求められます。それまでの「石立山」や「立石山」や「篠山」は、どこにでもある平凡な山名です。それに比べて「剣」というのは、きらりと光ります。きらきらネームでイメージアップのネーミング戦略です。こうして、美馬郡木屋平村の龍光寺の「剣山開発」は軌道に乗ります。
ところが後世の『阿波名勝案内』には、次のように記します。
「弘仁五年(八一四)弘法大師の開基にかかり、利剣山長福寺と号す。伝え言ふ安徳天皇の蒙塵に当り、当寺に行在所を設け以って安全を祈り、平国盛一族中剃染して竜光房と名づけ、寺号をも龍光寺と改む。剣権現の本寺。」
意訳変換しておくと
「弘仁五年(814)に弘法大師が開基し、利剣山長福寺と号する。伝え聞くところに拠ると源平合戦で安徳天皇が当地に落ちのびてきた際には、当寺に行在所を設けた。その際に、平国盛は天皇の安全を祈って、一族が剃髪して竜光房と名乗り、寺号を龍光寺と改めた。剣山権現社(神社)の本寺(別当寺)である。」
 
ここでは平国盛の「平家落人伝説」が付け加えられています。そして、安徳天皇伝説ともリンクさせます。こういう手法は、修験者や山伏の特異とする所です。ここでは、次のような伝説が付け加えられています。
①空海開基で、長福寺と号した。
②平家伝説を取り込み、平国盛が剃髪して竜光房と名乗ったので、寺号も龍光寺と改めたこと。
結果的に、龍光寺への寺名変更が、鎌倉時代まで引き下げられます。
木屋平 富士の池両剣神社
富士の池周辺
  江戸時代の龍光寺の「剣山開発プロジェクト」の目玉として取り組んだのが、富士(藤)の池周辺の施設整備です。

剣山 龍光寺は、弘法大師により密教が開祖された四国八十八カ所の総奥の院

龍光寺は、剣山頂上の法蔵岩直下の剣神社の管理権を持っていました。その北側斜面の石灰岩の岩穴や岩稜が修行場でした。その剣修行のベースキャンプとして建設されたのが八合目の藤の池の「富士(藤)の池本坊」です。ここが山頂の剱祠の祀る剱山本宮になります。こうして多くの参拝信者を集めるようになり、龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
木屋平 宗教的概観
文化9年の木屋平村の権現
龍光寺が別当寺であった剣神社(剣山本宮)を見ておきましょう。
 その「由緒」には、次のように記します。(要約)
「元暦二年(1185)平家没落当時、平家の家人である田口左衛門尉成直は、父の阿波国主紀民部成長と相談して、安徳天皇一行を長門の壇浦より、伊予大三島へ落ちのびさせて、その後伊予と阿波の山路を伝って祖谷山に導き入れた。その後、木屋平村に遷幸したと伝える。
 後世になって、祖谷山・木屋平二村の平家遺臣の子孫は相談して、富士の池を仮の行在所とした。また平家の再興を祈って、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。これが剣山大権現の呼称の由来とされ、以後はこの山を剣山と称するようになった。
 (中略)仏教の伝来とともに修験道の霊場となり、南北朝時代阿波山岳武士の本拠地となった龍光寺は、大同三年(808)僧行基の開基とされる。」
ここに書かれていることを要約すると
①安徳天皇一行は、壇ノ浦から大三島を経て祖谷に落ちのびてきて、最後に木屋平村に遷幸した。
②平家の子孫は、平家の再興を祈って富士(藤)の池を仮の行在所とし、(剣山頂上の)宝蔵石に安徳天皇の剣を納めて斎祀した。
③龍光寺の開祖は行基である。

もともと平家落人伝説と安徳天皇伝説は、祖谷地方に伝えられたものです。それを「安徳天皇が木屋平村に遷幸」として、伝説の本家取りをしています。先ほど見たように、龍光寺が剣山を開山し、権現さまを奉ったのは18世紀になってからです。また富士の池を開発したのは、さらに後のことになります。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
文化9年木屋平村の宗教景観
徳島氏方面の平野部から剣山に登るには、木屋平を目指しました。
そのため東側表口として木屋平は賑わったようです。『木屋平村史』には、村内に宿泊所として機能する修験寺が次のように挙げられています。
 持福院、理照院、持性院、宝蔵院、正学院、威徳院、玉蔵院、亀寿坊、峯徳坊、徳寿坊、恵教坊、永善坊、三光院、理徳院、智観坊、玉泉院、満主坊、妙意坊、長用坊、玉円坊、常光院、学用坊、般若院、吉祥院、新蔵院、教学院、理性院

昔はもっとあったとようです。西側の拠点円福寺翼下一万人といわれる先達よりもはるかに多くの修験者を、龍光寺は支配下に持っていたことを押さえておきます。

円福寺 祖谷山菅生
円福寺(東祖谷山村菅生)
剣山修験の西の拠点は、東祖谷山村菅生の円福寺でした。
円福寺は菅生氏の氏寺で、この寺も「忌部十八坊」の一つとされます。現在本尊とするのは江戸時代の作といわれる不動明王(剣山大権現)です。しかし、「阿波誌」に「元禄中(1688~1703)繹元梁、重造阿弥陀像を安ず」とあります。ここからは、もともとは本尊は阿弥陀如来であったことが分かります。それがどこかの時点で、修験者の守り仏ともされる不動明王に入れ替えられたようです。それは、この寺に住持した修験者が行ったことと私は考えています。

祖谷山菅生 円福寺 阿弥陀如来
円福寺のもともとの本尊 阿弥陀如来像

 木屋平の龍光寺が富士の池に登攀センターを建設したように、円福寺も見ノ(蓑)越に、不動堂を建立します。

剣山円福寺
見ノ越の剣山円福寺
これが現在の「見ノ越の円福寺」のスタートになります。本尊は安徳天皇像を剣山大権現として祀り、両側に弘法大師像と供利迦羅明王像を配します。見ノ越の円福寺は、もともとは菅生の円福寺の不動堂として建立されました。ところが貞光側からの、見ノ越への登山道が整備されると、先達に引き連れられた信者達は、このルートを使って見ノ越の円福寺にやって来るようになります。それまで祖谷経由のルートは、距離が長いので利用者が少なくなります。その結果、参拝者が立ち寄らなくなった本家の菅生・円福寺は衰退していきます。こうして、現在では円福寺と云えば見ノ越の寺を指すようになったようです。
 神仏混淆化で円福寺が別当として管理していたのが剣神社(旧剣権現)です。
この神社は、見ノ越の駐車場から長い階段を登った上にある神社です。剣神社のHPには、その由緒が次のように記されています。

「口碑に仁和時代へ九世紀末)」の創立。祖谷山開拓の際に、大山祗命を勧進して祖谷山の総鎮守とする。寿永年中(1185)、源平合戦に敗れた平家の一族が安徳天皇を奉じて祖谷の地にのがれ来たり、平家再興の祈願のため安徳天皇の『深そぎの御毛』と『紅剣』を大山祗命の御社に奉納。以来剣山と呼ばれ、神社も剣神社と称されるようになった。」

現在のHPには、別当寺の西福寺の管理下にあったことは一言も触れられていません。もともとは円福寺の社僧が管理する剣権現だったことを押さえておきます。剣神社の先達(出験者)たちも信者を連れて剣山北面の「鎖の行場」「不動の岩屋」「鶴の舞」「千筋の手水鉢」「引日舞」「蟻の塔渡り」などの行場で修業します。ちなみに剣神社の本社が、御塔石(おとうせき)を御神体とする大剣神社(おおつるぎじんじゃ)になるようです。
伴信友の『残桜記』には、大剣神社のことが次のように記されています。(意訳)

東祖谷山村と菅生の境界になる剣山頂上に鎮座する剣神社のある所は、木屋平村のものとも、また東祖谷山村のものとも云われ諍いが起きる原因となっていた。そこで明治初年頃に、美馬麻植郡の神職が剣神社の祭典に出社した際に、拝殿の中央に線を引き、これを境界とした。そして線の内側にあったものを、それぞれの村が収入した。その後、明治九年に郡界標石が建設され、以来今まで木屋平村のものとされていた山上の剣神社は祖谷山村に属することになった。

ここからは、拝殿の中央に線を引いて境界として、両者が共同管理していた時期があったことが分かります。これを剣神社をめぐる祖谷の円福寺と木屋平の龍光寺の対立とみることも出来ます。しかし、研究者は次のような別の視点を教えてくれます。

 当山派・本山派共に大峰山を聖地として共有している。金峰山は金剛界を、熊野三山は胎蔵界を現わし、その中心である大峰山はこの二つを統一する一乗両部の峰であり、画部不二の曼陀羅の霊地である。そこで両派とも大峰山に結縁することを本願とする。こうした両派の発想と剣山頂上を聖地として共有しようとする阿波修験道の意図と等しい。

龍光寺と円福寺は競い合い、対立を含みながらも、剣山を聖地とする修験者の行場をともに運営していたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 阿波の山岳信仰     徳島の研究6(1982年) 236P
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