瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:平山


兵庫北関入船納帳に出てくる船籍地は、全部で106ヶ所で、その内で讃岐の港は17港です。それを入船の多い順に並べたのが次の表です。
3兵庫北関入船納帳2
兵庫北関入船納帳 讃岐船籍一覧表
17の船籍地は、現在のどの港になるのでしょうか。
すぐには分からないのが、入港数ベスト3に入る「嶋」です。この嶋船籍の船が大量の塩を運んでいるので、研究者は「嶋」は小豆島と判断していることは、以前にお話ししました。
 「嶋」のように兵庫北関入船納帳は、島の港はすべて島名で記されています。例えば塩飽(本島)には泊や笠島などいくつかの港があったはずですが、それらが一括して島船と表記されています。瀬戸内海の海民たちは、昔から港名よりも島名で呼ぶ方が多かったようです。「嶋・塩飽・手嶋・さなき」は島であって、港ではありません。「塩飽・手嶋・さなき」の三島は塩飽諸島の島で、塩飽は本島のことで、さなきは佐柳島のことでしょう。
上から6番目に「平山」が出てきます。
研究者の中には、平山を備中真鍋島とする人もいるようです。しかし、宇多津の平山という説が強いようです。今回は、その理由を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂  瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権」です。
平山船の入港回数は年間19回です。それでは平山船は何を運んでいたのでしょうか。
兵庫北関入船納帳 船籍別の積載品目一覧
兵庫北関入船納帳 讃岐船の積載品一覧表

表4の平山の欄を見ると(塩)2290石とあります。これは生産地が記された産地特定の塩のことです。「讃岐船の積荷の8割は塩」で、讃岐船は塩専用船化していたと云われます。平山船にもその傾向が見えます。
 一番右側の欄の全体合計数を見ると「塩13413石」「(塩・地域指名)12055石」とあります。両方併せると25468石の塩を讃岐船は畿内に向けて運び出していたことになります。しかし、これは讃岐船の塩輸送量であって、讃岐の塩の生産量ではありません。なぜなら他国の船が讃岐にやって来て大量の船を積み込んでいたからです。前回見たように、小豆島で生産された塩の半分以上は牛窓船が輸送していました。讃岐船の塩輸送総数25468石の内の1/10程度の2290石を平山船が運んでいることを押さえておきます。
ます。
それでは、平山船はどこの塩を運び出していたのでしょうか
 私はすぐに、坂出や宇多津、丸亀の塩田を思い浮かべて、ここからの塩を運んでいたと思ってしまいました。しかし、これらの塩田は近世になって開発された塩田で、中世には姿を見せていませんでした。平山船が運んできた塩には「タクマ塩」と記されています。

兵庫北関入船納帳 地名指示商品と輸送船
兵庫北関入船納帳 讃岐産塩を運んでいた船の船籍地一覧
表8は地名指定商品(塩)が、どこの船で何回、兵庫北関を通過したが示されています。
詫間(塩)を運んできた船は36回で、その積載量の合計が6190石となります。詫間周辺では中世に大量の塩が生産されていたことが分かります。詫間塩を積み込みにやって来た船は、宇多津17、平山12、多度津3、香西2、牛窓1、塩飽1です。詫間の塩は、宇多津・平山・多度津の船で畿内に輸送されていたのです。ここで私が疑問に思うのは、詫間港の船が出てこないことです。製塩地には、それを運ぶ輸送船がいたはずなのですが、それが詫間には現れません。他所の港からの輸送船に頼っています。もうひとつは、仁尾の船もやってきていません。このあたりが今の疑問です。
 先ほど見たように、平山船の塩の総輸送量は2290石でした。平山船の一回当たりの輸送量は200石前後になり、小型船が使われていたようです。平山船は兵庫北関に19回やってきていますが、その内15件が積荷は塩です。そして12件が詫間塩を積んでいます。詫間塩は、平山船にとっては大きな商売相手だったことになります。
 視点を塩の生産地・詫間に変えてみます。詫間や三野湾に塩田があったことは史料から分かります。

三野湾中世復元図
          三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
「秋山家文書」には、次のような塩浜が相続の際の譲渡対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここからは本門寺から西側の東浜や西浜には塩田が並んでいたこと、その塩田の薪の確保のために「汐木山」が指定されていたことなどが分かります。詫間や三野湾では大量の塩が生産されていたのです。
 詫間塩を運んでいるのは、いずれも讃岐船です。ここからは、平山船も讃岐船であると研究者は考えています。
それでは平山とは、どこにあった港なのでしょうか.
兵庫北関入船納帳 平山
宇多津湾の中世復元図 太実線が想定海岸線
地図を見ると備讃瀬戸に突き出た聖通寺山の西北部に平山が見えます。現在は埋め立てられて宇多津と一体化していますが、中世の地形復元図では、海岸線が内陸部まで入り込んでいたことは以前にお話ししました。平山のある聖通寺山と宇多津のある青ノ山の間は海が入り込み隔てられていました。
湾を隔てて向かい合う宇多津と平山は、「連携」関係にあったと研究者は考えています。
 上図で中世の平山の集落がどこにあったかを見ておきましょう。
聖通寺山から伸びる砂堆2が海に突き出し、天然の防波堤の役割をはたします。その背後に広がる「集落5」と、聖通寺山北西麓の「集落6」が中世の平山集落に想定できると研究者は考えているようです。「集落5」が現在の平山、「集落6」が北浦になります。これらの集落に本拠地を置く船主たちが、小規模ながらも港町が形成していたようです。集落5の山裾からは、多くの中世石造物が確認されているのが裏付けられます。
①平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
『兵庫北関入船納帳』からは、平山に本拠地を置く船主いて、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。平山の交易活動は、宇多津よりも沖合いに近い立地等を活かして近距離交易を中心としたものでした。つまり、平山の船が周囲から集めてきた近隣商品を、宇多津船が畿内に運ぶという分担ができていたとします。
6宇多津2
中世宇多津復元図

「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦の武功で鵜足・那珂の二郡を賜り、応仁の頃(1467~68)には聖通寺山に城を築いたとあります。その後天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親の軍勢の前に、奈良氏は城を捨て、勝瑞城の十河存保のもとへ敗走します。南海通記の記述が正しいとすると、奈良氏が城を築いていた頃に、その聖通寺山の麓の港で交易活動を展開していたのが平山の住人達だったことになります。


 一方、宇多津は、後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。

宇多津周辺図
宇多津と大束川周辺
大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業集団がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港でもあったようです。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。宇多津は、川津荘の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。  
このように宇多津は後背地の広いエリアからの集荷活動を行う一方
、塩飽諸島、児島を経由して備前に通じる備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する要衝に位置します。その利点を最大限に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

以上から、宇多津と平山の関係を研究者は次のように指摘します。
①両港は相互補完的関係にあり、「棲み分け」共存ができていた。
②平山は坂出の福江・林田・松山・詫間などを商圏とし、宇多津は西讃から備讃瀬戸全域を商圏としていた。

常大坊旦那分書立写に「一、さぬきのくにうたづ ひら山一円」とあります。
常大坊輩下の先達によって導かれる檀徒集団が、宇多津と平山にいたことが分かります。檀徒集団がいたということは、多くの人々がいて、町並みを形成していたのでしょう。平山は聖通寺城の麓という位置から考えても、軍港的役割を果たす港であったと研究者は推測します。
 宇多津の目と鼻の先に平山湊がありました。しかし、宇多津と平山は商圏エリアが異なっていたこと、平山は、御供所と同じく、阿野郡(坂出市周辺)の福江・林田などの港物資を集積する港であると同時に、三野郡詫間の塩を輸送していたいうのです。そう考えれば、隣接して二つの港があったことも説明がつきます。こうして、平山は備中真鍋島ではなく、讃岐平山とします。

もうひとつ平山を特定する根拠があります。海産物の鯛です
もう一度表4を見ると、鯛(干鯛・塩鯛)は、宇多津・平山・塩飽船だけが運んでいます。それも4・5月に限定されています。今は番の州工業地帯で陸続きとなっている瀬居島付近は鯛の良魚場で、ここで獲れる鯛は「金山魚」と呼ばれて評価が高かったようです。加工された金山魚を、瀬居島に近い宇多津・平山・塩飽船の船が淀魚市場へ輸送して商品魚となったと研究者は推測します。ここにも平山と宇多津の連動性が見えます。平山は真鍋島ではないとする根拠のひとつです。

 近世の平山については、以前にお話ししました。
秀吉から讃岐一国を拝領した生駒氏は、丸亀城の築城を開始します。その際に城下町形成のために、鵜足郡聖通寺山の北麓の平山と御供所から「漁夫」280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させたと史料には出てきます。これをそのまま「漁夫」と捉えると何も見えなくなります。平山に住んでいたのは、「海の民」で梶取り(船長)や船主などの海運業者や流通商人たちです。そのため城下町に移住させた狙いは、次のような点にあった研究者は考えています。

①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫編成
②瀬戸内海交易集団の拠点作り
③商業資本集団の集中化
 丸亀城の北の砂浜には、平山・御供所の加古(船員)集団が移住してきます。彼らに割り当てられたエリアは、下図の通りです。
丸亀三浦3
丸亀城の御供所・平山住人の移転先 土器川西側の海岸線

江戸時代半ばまでの丸亀港は土器川河口にありました。そのため平山住人の移住先は港に続く一等地として、繁栄するようになります。金毘羅船で大坂からやってきた参拝客は土器川河口に上陸して、御供所・平山の宿に泊まっています。彼らが丸亀の「商業資本」に成長して行きます。
以上をまとめておきます
①兵庫北関入船納帳に、寄港した船の船籍地として「平山」が出てくる。
②「平山」は、次のような根拠から宇多津の「平山」であると研究者は考えている。
③「平山」には、中世に交易活動を行う「海民集団」が定住していたこと
④宇多津と商圏の棲み分けを行って、宇多津港の補完的な役割を果たしていたこと
⑤詫間・三野湾では、塩浜があり大量の塩を生産されていたこと
⑥詫間産塩を主に運んでいるのが「宇多津・平山・多度津」船であったこと
⑦平山船のほとんどが詫間産塩の輸送のために、兵庫北関に入港していること
⑧瀬居島の鯛は加工されて、宇多津船と平山船が運んでいること
以上から兵庫北関入船納帳に出てくる平山船は、宇多津の平山の船であったと研究者は考えています。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 


  
 「寺社の由緒記・縁起等は一般には信じ難い」といいながら丸亀市史は、山北八幡神社の由緒記を参考にして、お城が出来る前の丸亀周辺のことを探ろうとします。史料がないので、使えるものは批判的に使わなければ書けません。
山北八幡官の由緒記には、古代の丸亀浦について、次のように記されています。
①神功皇后が三韓へ出兵した帰途、この地の波越山(亀山=丸亀城)に風波を避けた折、土地の人が清水を献じ、船も修理した。
②波越山(亀山)の山麓は近くまで潮の満干があり、船造りや修理などをし、舟山神も祀っていた。
③波越山の形は円く、朝日によって西の方に長く影ができ、亀の這うのに似ており、土地の人は円亀山・神山と書き、「かみやま、かめやま」と呼んだ。
④国司讃岐守藤原楓磨が宝亀二年(771)宇佐八幡官に準じて祠をつくり祀った。この祠を土地の人は石清水八幡と尊崇し氏神とした。
ここからは、古くは亀山まで潮の干満が押し寄せていたこと、そこに浪越神が祀られていたこと、さらに八幡神が勧進され八幡神社が鎮座していたことが記されます。この八幡神社が山北八幡神社のようです。つまり「神山=亀山」として霊山でもあったことがうかがえます。
『万葉集』には、柿本人麻呂が丸亀の西にある「中之水門」から舟出して佐美島へ渡りつくった歌「玉藻よし 讃岐の国は国柄か……」があります。「中之水門=那珂郡の湊=中津」と考える人も多いようです。
「道隆寺温故記」には、延久五年(1073)国司讃岐守藤原隆任が、円亀の山北八幡を旧領に造営したと記されています。堀江港の交易管理管理センターとして機能した道隆寺の傘下に置かれていたようです。山北八幡神社を氏子して信仰する集団が、周辺にはいたこともうかがえます。
 古代の条里制遺構を見てみましょう
丸亀平野北部 条里制

⑥の丸亀城は、鵜足郡と那珂郡の境に立地することが分かります。条里で呼ぶと那珂郡1条24里あたりになるようです。しかし、丸亀城のある亀山周辺には条里制遺構は残っていません。23里より北に条里制が残っているのは微高性の尾根上地域が北に続く2条や4条だけです。
 現在の標高5mラインを仮想海岸線だったすると亀山の麓は海浜で、確かに満潮時には波が打ち寄せていたことが想像できます。そこに浪越神が祀られ、後には八幡宮が勧進されたというストーリーが考えられます。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

以前に見たように地質図からも丸亀城周辺は、砂州であったことが分かります。

南海通記には 『南海通記』、 次のように記します。
①享徳元年(1452)、 細川勝元が室町幕府の管領職となった
②その後に、細川家四天王と称せられた香川・香西・安富・奈良の四氏に讃岐の地を与えた。
③鵜足・那珂の旗頭になった奈良元安は、畿内を本領としていたが、子弟を讃岐に派遣し鵜足津の聖通寺山に居城させた。
④その下に、長尾・新目・本目・法勲寺・金倉寺・三谷寺・円亀の城があった
 ここには、15世紀半の奈良氏統治下の那珂郡には、円亀山に支城があったと記されています。しかし、考古学的には確かめられていません。
その後、阿波三好勢力の侵入の中で、鵜足津エリアは篠原氏が支配することになますが、これもわずかのことで、長宗我部元親の制圧を経て、豊臣秀吉の四国統一の時代に入っていきます。

短期間の仙石・尾藤氏の讃岐支配に代わって、 生駒親正が讃岐の領主としてやってきます。彼の下で讃岐は中世から近世への時代の転換をとげていくことになります。
生駒親正がやってきた頃の丸亀の様子は、どうだったのでしょうか?
『西讃府志』の「市井」には次のように記されています。
此地 今ノ米屋町ヲ限り東側ハ鵜足郡津野郷二属キ、西側ヨリ那珂郡杵原郷二属開城以前ハ海浜ノ村ニテ、杵原郷ハ丸亀浦卜唱ヘテ高四百六石八斗九升三合ノ田畝アリ 津野郷ハ土居村トイヒケルフ、慶長六年(1601)其北辺二宇多津ナル平山ノ里人フ移シ 始テ三浦卜呼テ高百七十二石八斗八升ノ田畝アリヽ(以下略)
 意訳変換しておくと
この地は、今の米屋町から東は鵜足郡津野郷に属し、西側は那珂郡杵原郷に属する。丸亀城が開城される前は、海浜の村で杵原郷ハ丸亀浦と呼ばれていた。石高は468石8斗9升3合の田畝があった。一方津野郷は土居村と呼ばれ、慶長六(1601)年に、この北辺に宇多津の平山の里人を移住させて三浦と呼ぶようになった。その石高は172石8斗8升である。(以下略)

 ここからは、先ほど見たように丸亀は鵜足郡と那珂郡の境に位置して、米屋町より西は、那珂郡杵原郷に属する丸亀浦で、東は鵜足郡津郷の上居村だったことが分かります。生駒時代までに、海→海浜→農漁村へと「成長」していったようです。
 周辺の地形復元でも、那珂郡の海岸線には、いくつかの砂堆が南北に走っていたことが分かっています。扇状地としての丸亀平野が終わるとそこには、東西に砂堆が広がっていたことは、以前にもお話ししました。
丸亀城周辺 正保国絵図

元禄十年(1697)の「城下絵図」には、現在の通町の中ほどまでが入海となっています。③の砂州上に、三浦からやって来た人たちが人々が住み着きます。④の中洲は「中須賀」と呼ばれ、後に福島町に発展していきます。
 関ヶ原の戦いの後に、西国雄藩を押さえるために生駒親正・一正父子は高松城と丸亀城・引田城の同時築城を始めます。
それは瀬戸内海を北上してくる毛利軍や豊臣恩顧の大名達を仮想敵としての対応でした。このような緊張関係の中で、丸亀城や高松城は築かれたことは以前にお話ししました。生駒親正は西讃岐の鎮として亀山に築城し、この地を円亀と称すようになります。これが丸亀城の誕生になります。
 築城に先だって土器川と金倉川のルート変更を行ったことが指摘されています。
 亀山の東にある鵜足・那珂両郡の境界を流れていた土器川を約800mほど東へ移した。その川跡が外堀であるという説もあるようです。この外堀は、東汐入川によって海に連なります。
一方西側では、金倉川が北にある砂州によって流れを東へ東へと変えて、現在の西汐入川のルートでを流れていたようです。
金倉川流路変更 

これも上金倉で流路変更を行い、現在のルートにしたことが指摘されています。そして、外堀よりL字形の掘割をつくり海に連絡するようにします。こうして、土器川と金倉川の流路変更を行うことで、外堀の東西から海に続く東汐入川と西の掘割の間が城下となります。

丸亀城 生駒時代

尊経閣文庫の所蔵する生駒時代の丸亀城の絵図「讃州丸亀」を見てみましょう。
亀山の山頂には矢倉が設けられ、山下の北麓には山下屋敷があり、それらを囲んで内堀があります。内堀とその外にある外堀との間を侍屋敷とし、外堀の北方を城下町としています。築城以前は、こここは、海浜の砂堆で畑もあったかもしれません。
山下屋敷は、藩主一族かそれに次ぐ高級武土の居館だと研究者は考えているようです。この山下屋敷は、東・北・西の三方は高さ八間の石垣に囲まれた高台で、南は山腹に連なっています。広さは東西八〇間、南北三〇間の長方形の台地で、そこに屋敷があったようです。現在の紀念碑・観光案内所・うるし林の南の部分にあたるエリアです。この高台の北端は内堀より約20間南に当たります。
 丸亀城築城に伴い城下町形成も行われます。
そのために移住政策がとられます。記録に残る移住者達を視ておきましょう
①那珂郡の郡家に大池をつくり、南条郡国分村の関池を拡張し、香西郡笠井村の苔掛池などを掘ったと伝えられます。このとき、関池付近の住人が城下へ移されところが南条町であると云われます。南条町は地形的には亀山の西に続く高地にあたり、丸亀浦ではもっとも高く、もっとも早く人々が住み着き人家のできたところのようです。
丸亀市南条町塩飽町

また、南条町は西汐入川と外堀を結ぶ運河が城乾小学校の東側から北向地蔵堂を経て外堀にもつながっていました。いわゆる運輸交通網に面していたエリアです。ここに最初の人々が居を構えるのは納得できます。
② 豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、生駒氏が朝鮮に出兵した時には、塩飽の水夫や鵜足津の三浦の水夫が従軍したと云われます。水軍整備の一環として、塩飽島民の一部が城下へ移されたと伝えられます。これらの人々は、南条町の東側に定住地が指定されたようです。これが塩飽町と呼ばれるようになります。

宇多津平山からの三浦漁夫の移住 
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐことが自らの存在意義になると考えます。徳川秀忠をとうせんぼした真田家の瀬戸内版と云えばいいのでしょうか。そのための水城築城と水軍の組織強化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を、関ヶ原以後に行ったのは、このようなことが背景にあるようです。

丸亀市平山

 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に移住さています。この三浦とは現在の御供所・北平山・西平山の三町になります。彼らをただの漁民とか水夫と見ると、本質は見えなくなります。塩飽の人名とアナロジーでとらえた方がよさそうです。この3つの浦は、中世には活発に交易活動を営んでおり、多くの廻船があり、交易業者がいた地区です。彼らはこれより前の文禄元年(1592)、 豊臣秀吉の命により朝鮮へ出兵した生駒親正に、 塩飽水夫650人、三浦の水夫280人が従軍しています。塩飽水軍と共に、水夫としてだけでなく、後方物資の輸送などにも関わっていたようです。彼らを城下町の海沿いエリアに「移住」させるということは何を狙っていたのか考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
妙法寺(香川県丸亀市富屋町/仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)) - Yahoo!ロコ
妙法寺
 生駒氏以前には、丸亀にはお寺はほとんどなかったようです。
古いお寺としては文正元年(1466)に、鵜足津から中府へ移り東福寺と称し、さらに天正年間高松へ移り見性寺と改称された寺があるくらいです。多くの寺社は、生駒氏の城下町形成に伴って移って(移されて?)きたようです。その例として丸亀市史が挙げるのが、次の寺院です。
①豊田郡坂本村から日蓮宗不受不施派であった妙法寺
②鵜足津から丸亀へ、さらに高松へと移った日妙寺
③聖通寺山麓から280人の水夫の移住に伴い、真光寺・定福寺・大善院・吉祥院・威徳院・円光寺などが丸亀の三浦に移ってきます
これらの寺のうち定福寺・大善院・吉祥院・威徳院は、丸亀城の鎮護として鬼門に当たる北東に並んで建立され、俗に寺町四か寺と称されるようになります。
山北八幡宮と御野屋敷跡(丸亀市) | どこいっきょん?
山北八幡神社
亀山の南にあるのに、山北八幡と云うのはどうして?
 先ほど見たように山北八幡宮は、もともとは亀山の北麓に鎮座していました。そのため「山北」と呼ばれていました。ところが築城のために移転させられ、現在の杵原村の皇子官の社地に移りました。この結果、亀山の南に鎮座ずることになりました。しかし、社名は「山北八幡」のままです。
富屋町の稲荷大明神も田村から慶長四年(1599)に移ってきたと伝えられます。
移転してきた時は、社殿のすぐ北まで海水が満ちていたと云います。築城とともに人が集まり、上下の南条町を中心に、塩飽町、 さらにその東に兵庫町(現富屋町)、 北に横町(現本町)、浜町へと人家が広がり、その家々に飲み込まれていったようです。
「生駒記」には慶長七年、一正が丸亀城から高松城に移り、城代を置いたとあります。このときには、町人の中から高松へ殿様に付いていった人たちもいたと云われます。現在高松にある商店街丸亀町は、このときに丸亀からの移住者によって作られた町とされます。私には「希望移住」と云うよりも「指名移住」であったようにも思えます。
お城ウンチク(松江城・萩城)│inazou blog

 元和元(1615)年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると一国一城令が出され、丸亀城は廃城になります。
私は、これに伴い城下町も消滅したのかと思っていました。しかし、どうもそうではないようです。生駒時代の末期に当たる寛永十七年(1640)に記された「生駒高俊公御領分讃州郡村丼惣高覚帳」の丸亀城下に関係のある所を見てみましょう。
那珂郡の内
一高四〇六石八斗九升一合    円(丸)亀浦
内 一八石 古作              見性寺領
四七石三斗五升七合          新田悪所
鵜足郡の内
一高一七二石八斗八升            三浦
翌十八年の「讃岐国内五万石領之小物成」に、
仲郡之内
一 銀子二一五匁 但横町此銀二而諸役免許      円亀村
一 米三石 但南条町上ノ町此米二而諸役免許    同 村
一 米五石 但三町四反田畑共二請米          同 村
一 塩八五一俵二斗九升六合 但一か月二      同 村
宇足郡之内
一 千鯛一〇〇〇枚                三浦運上
一 鱗之子一五〇腸               同 所
このとき、田村の総高が803石余です。円亀浦は406石ですので、農地は、田村の約半分ぐらいはあり、相当広い農地がお城の北側に広がっていたことが想像できます。同じように、三浦は172石です。これは円亀浦の約四割強に当たります。ここにも、ある程度の広さの農地があったことがうかがえます。農地が広がるなかに街並みが続いていたようです。
ここで丸亀市史が指摘するのは、小物成(雑税)として円亀村では銀子や米を上納していることです。丸亀村からは「銀子二一五匁」が収められ、その内の「横町此銀二而諸役免許」と「諸役免許」の特権が与えられています。ここからは商人や海運者などが廃城後も住み着いていたことがうかがえます。
 また塩851俵とあります。これは塩屋村からの上納品と考えられますが、すでにこれだけの塩の生産力があったことを示します。また、三浦からは運上(雑税)として「干鯛・鱗之子」が納めています。これは東讃大内郡の「煎海鼠・海鼠腸」とともに讃岐の特産物で、江戸・京では珍重されていたようです。三浦に移住してきた水夫達は、漁民として活動し、特産品の加工なども行っていたことが分かります。
   私は、政治的に強制力を持って集められた集団なので、一国一城令による丸亀城の取り壊しと共に、人々は去り、町は消えたように思っていました。しかし、ここからうかがえるのは、生駒藩が形成した旧城下町には、集められた住民はそのまま丸亀に残って、経済活動を続けていた者の方が多かったことが分かります。それは、横町のようにここに住む限りは、様々な特権や免除が約束されていたからでしょう。城は消えたも、街は残ったとしておきましょう。
丸亀城 正保国絵図注記版

正保の城絵図です。これは山崎藩時代に幕府に提出されたものです。
地図では古町を黒く塗りつぶしています。
⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前からあった街並みを指します。古町は微髙地の南条町を中心に、生駒時代に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していった所といえるようです。
 お城がなくなっても、水夫や海運業者や商人たちは残って経済活動を続けていたことが裏付けられます。

丸亀城 正保国絵図古町と新町
⑦新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。
このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記された広い場所が東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって、計画された町なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。
20200619074737

  以上をまとめておくと
①丸亀城築城以前は、亀山まで海が迫り、遠浅の砂浜が土器川から金倉川まで続いていた。
②このエリアが、古代の条里制施行の範囲外となっていることも「低湿地」説を裏付ける
③そのため生駒氏は、土器川・金倉川のルート変更を行い、水害からの防止策を講じた
④その上で、亀山を中心とする縄張りと城下町造りが始まった
⑤最初に街並みが形成されたのは亀山から西の城乾小学校に続く微髙地で、ここに南条町が出来た。
⑥その後、この南条町を中心とする微髙地に、塩飽町などの街並みが形成される。これが「古町」であった。
⑦一国一城令で殿様が高松に去った後も、古町の住人達はこの地を去らずに、丸亀での生活を続けた。
⑧讃岐東西分割後に、西讃に入ってきた山崎藩は、旧城下町の経済活動が活発に行われていた丸亀にお城を「復興」することにした。
⑨そして、古町の東側に新町を計画した。しかし、その東は畑や水田が続いていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 



6宇多津1
香川県立ミュージアムの特別展『海に開かれた都市~高松-港湾都市九〇〇年のあゆみ~』で提示された一五世紀~一六世紀前半の宇多津の景観復元図を見ていくことにしましょう
この復元のためには、次のような作業が行われているようです。
①幕末の『讃岐国名勝図会』・『安政三年奉納宇夫階神社に七』・『網浦眺望 青山真景図絵馬』から町割など近世後期の景観を復元する
②そこから延享二年(1745)頃に作られた古浜塩田、浜町・天野新開を消す
③塩田工事と同時に行われた大束川河口部の付替工事を、それ以前の景観にもどす
④伊勢町遺跡発掘調査から近世前期にできた形成を消す
⑤大足川を近世以前の位置にもどす
これらの作業を経てできあがった14世紀の復元図を見てみましょう。
6宇多津2
①青ノ山北麓と聖通寺山北端部を突端部とし、大きく湾入するように海域が入り込む
②その中央付近に大束川が流れ込む。
③河口入江には東と西に突端した砂堆がある(砂堆2・3)
④大束川河口部をふさぐように砂堆が細長く延び(砂堆I)、先端付近では背後に潟がある
⑤砂堆Iの海側には遠浅地形が広がっていた
⑥居住可能なエリアは、青ノ山山裾とそこから海際までの緩斜面地と砂堆、
⑦平山では聖通寺山と平山の山裾の狭陰な平坦地
                
宇多津地形復元図
中世宇多津の復元図
宇多津の中心軸(道路)の  両端には宇夫階神社と聖通寺が鎮座します
①宇多津の中心軸は、西光寺がある砂堆Iの真ん中を東西方向伸びる道路である。
②河口部は、深く入り込んだ入江に沿って聖通寺山の麓の平山まで続く。
③内陸部へ伸びる南北道路は、砂堆1の付根で東西道路と交差し東西・南北の基軸線となる。
④東西道と南北道の交差点付近に港があり、海上交通と陸上交通の結節点となり最重要エリアになる
④東西軸は丸亀街道、南北道路は金毘羅街道へと継承されていく主要路である。
宇多津の東西に位置する聖通寺と宇夫階神社を見ておきましょう
聖通寺の建立時期の古さは何を物語るのか?
 大束川の河口は深く入り込んだ入江となっていて、宇多津と聖通寺山とは湾で隔てられています。その山裾に修験道の醍醐寺開祖・理源大師と関係が深いとされる聖通寺(真言宗)があります。寺伝では貞観10年(868)の創建、文永年間の再興を経て、貞治年間に細川頼之の帰依を受けて復興したとあります。創建時期が、宇多津の諸寺院よりもはるかに古いこを研究者は指摘します。
  聖通寺には、長享二年(1488)に常陸国六反田(茨城県水戸市)六地蔵寺の僧侶が聖通寺で書写したという記録が残っています。
ここからはこの寺が、各地の僧侶が集まる様々な書籍や情報を所蔵した「学問所」であったことがうかがえます。理源大師も若い頃に、この寺で学んだと伝えられます。道隆寺や金蔵寺なども学問所であったと云われ、諸国からの修験者たちがやってきたお寺です。この寺も奥の院は、聖通寺山の山中にあり、大きな磐座(いわくら)が聖地となっていたようです。同時に、この地域には沙弥島・本島・聖通寺山・城山と理源大師に関係の深い「聖地」が残っていて、修験者が活発な活動を行っていた形成がうかがえます。
宇夫階神社も勧請時期は古く、聖通寺の同じ時期に従五位に叙せられています
この神社は、産土神として古くから宇多津の総鎮守的な存在です。復元地図で見ると、大束川を挟んだ宇多津の領域の両端に宇夫階神社と聖通寺が鎮座していることになります。ここからも宇多津における両者の重要性がうかがえます。九世紀後半の宇多津において、この両者が登場してくる「事件」があったのかもしれません。
6宇多津2135
 宇多津の中世集落は、どのあたりにあったのでしょうか
①東西・南北道路が交差する場所(集落I・現西光寺周辺)
②郷照寺の門前周辺で砂堆1と砂堆3が形成する湾入部の一番奥の付近(集落2)、
③砂堆Iの背後の潟周辺で、長興寺(安国寺)の門前周辺(集落3)、
④宇夫階神社の門前で、砂堆3の付根(集落4)
の4つに分かれて集落があったようです。伊勢町遺跡の調査報告書には、各集落が港湾施設(船着場)を伴っていた可能性が高く、『兵庫北関入船納帳』にある「中丁」「西」「奥浜」という三つの集落の存在との対応関係」があることを記しています。

宇多津
宇多津(讃岐国名勝図会)
そして、さらに次のように推論しています
①「中丁」は集落I、
②「西」は集落2ないし4、
③「奥浜」は集落3ないし2
に当たると研究者は考えているようです。
 内陸・海上交通の結節点になる集落1が、宇多津の中心集落のようです。『兵庫北関入船納帳』に出てくる船頭の「弾正」は、ここを本拠地に活動したのかもしれません。さらに、集落1の発掘調査からは、次のような集団がいたことが分かっているようです。
①鍛冶屋等の職人がいたこと
②大規模で多様な漁労活動を行っていた集団がこと
③いち早く「灯明皿」を使うなど「都市的なスタイル」を取り入れた「先進的生活」を送っていた人たちが生活していたこと
このように4つの港湾施設をもる集落が複合体として、宇多津という港町を形成していたと研究者は考えているようです。

6宇多津2213
中世の船着き場の変遷 
中世宇多津の港(船着場)は、どんなものだったのでしょうか?
伊勢町遺跡からは、14世紀初めの石を積み上げた護岸と、16世紀の礫敷きが出てきました。石積み護岸は絵画資料では『遊行上人縁起絵』など、15世紀の室町期になって描かれるようになります。この遺跡も15世紀頃のものなのでしょう。研究者が注目するのは、海際の集落が港湾施設を持ち、それが石材を用いて整備されている点です
6宇多津2
  宇多津への寺社勢力の進出の背景は・
 青野山の山裾や、南北道路の高台、砂堆Iの背後の潟(河口部)に各宗派の寺院が立ち並んでいます。このような景観は『義満公厳島詣記』や文献資料からも見えますし、今でも同じ光景を見ることが出来ます。
宇多津に多くの宗派の寺院がそろっているのはどうしてなのでしょうか。
 まず挙げられるのは、港町宇多津の経済力の高さでしょう。各寺院の瀬戸内海の港町への布教方法を見ると、そこに住む人びとを対象とした布教活動とともに、流通拠点となる港町に拠点をおいて円滑に瀬戸内海交易を行おうとする各宗派のねらいがあったことが分かります。僧侶は、中世の荘園を管理したように、港町の寺院を「交易センター」として管理していたのです。
6宇多津の寺院1
各宗派の進出状況を時期別にまとめると、次のような表になります
①鎌倉期には真言宗寺院、
②南北朝~室町前期には守護細川氏と関連が深い禅寺、
③室町後期にも細川氏の帰依を受けた法華宗寺院、
④戦国期には浄土真宗寺院
が年代順に建立されていて、各宗派の寺院が段階的に進出したことが分かります。一度に姿を現したのではないのです。このことは13世紀後半~16世紀代を通して、宇多津が成長し続けたことを物語ると同時に、各時代の歴史的なモニュメントとも言えます。
本妙寺(法華宗)の建立については以前も取り上げました。
宇多津本妙寺
本妙寺
この寺はの開祖日隆は、細川氏の保護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教活動を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立します。いずれも内海屈指の港町で、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動を展開したことがうかがえます。細川氏が本妙寺を保護していたことは、守護代安富氏が寺中諸課役を免除したことからも分かります。(『本妙寺文書』)。
戦国期には青ノ山南東麓にあった寺院が、西光寺と名前を変えて町内に移転してきます。
 西光寺は、それまでの寺院が青ノ山の山裾に建立されていたのに対し、河口の港のそばに寺域を設けます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺 港のそばに立地
その背景には、浄土真宗寺院の海上流通路掌握といった動きがうかがえます。西光寺は石山合戦に際して本願寺顕如の依頼に応えて、物資を援助をするなど、経済力も高いものがあったようです。
これらの14世紀後半期の法華宗寺院、15世紀後半期における浄土真宗寺院の動きは瀬戸内海各地の港町と同時進行の動きで、当時の瀬戸内海港町で共通する動向だったようです。
宇夫階神社の担った役割は?
宇多津では、このように多くの宗派が林立したために、住民がひとつの寺院の下に集まり宗教活動を行い結集の機会を作り出すことはありませんでした。集落や諸宗派・各寺院の檀家といったレベルのちがう単位がモザイク状に並立した状況だったのです。こうしたある面でばらばらな集団単位を結びつける役割を担ったのが宇夫階神社だったようです。

utadu_02 宇夫階社・神宮寺・秋庭社・神石社:
産土階神社(宇多津)

この神社は、祭礼をとおして複数の集落や単位を統合させる宇多津の重要な核として機能します。そのことは、宇多津の中心軸である東西道路の西端正面に鎮座する立地が示しています。総鎮守的な単一の神社であるを宇夫階神社は宇多津の大きな求心力として機能していたようです。
領主勢力は、直接的に宇多津を支配していたのか?
 宇多津には守護所が置かれたと云われますが、これについては研究者は慎重な態度のようです。『兵庫北関入船納帳』にみる国料船や本妙寺・長興寺・普済院・聖通寺等守護細川氏との関わりが深い寺院の建立・再興などに、守護勢力の影はうかがえます。しかし、宇多津町内に城郭があった形成はありません。封建勢力が港町宇多津への直接的支配権を持っていたとは云えないようです。
 守護所跡と考えられる円通寺・多聞寺、南隆寺の城郭的施設も領主勢力の居城としては、根拠が弱いのです。集落内にも領主の平地居館は、見当たりません。つまり、守護を中心とした領主勢力の宇多津への直接的な関与はあまり感じられないのです。それよりも寺社勢力や「弾正」や「法徳」などの有力海運業者を通じて間接的に関与していたと研究者は考えているようです。

宇多津地形復元図

隣接する港町 平山の役割は?
 湾内を隔てて、聖通寺山の麓にある平山も港町だったようです。『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てきます。宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。自立した港ですが、機能面では連動した相互補完的関係にあったと研究者は考えているようです。
平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)、
聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
が想定できるようです。
 『兵庫北関入船納帳』の記載からも平山に本拠地を置く船主の姿がいたようで、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。また、宇多津よりも沖合いに近い立地や、広域的な沖乗り航路とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。


川津と宇多津の関係は?
 一方、宇多津は後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業者がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。

連雀商人

連雀商人
連雀商人の活動と衰退
連雀商人の衰退要因

このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港であったと研究者は考えています。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。そうすると尾道のや倉敷のように、宇多津も荘園の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。そして広いエリアからの集荷活動を行い、備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する塩飽を背景に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

4344102-42宇多津海側
宇多津の海側(讃岐国名勝図会)

     江戸時代になっての宇多津は?
 天正期には豊臣配下の仙石氏が平山に聖通寺山城を築きます。しかし、それも一時的でその後にやって来た生駒親正は、讃岐支配の新たな拠点として高松と丸亀に城を築城し、城下町を開きます。その際に、宇多津や平山からは多くの寺院、町が高松と丸亀に移転させました。港町宇多津は重要な機能を失うことになります。その背景には商人の街である港町宇多津が、新たな領主にとっては解体すべき対象であったのでしょう。同時に、宇多津から「引抜」いていかないと、新たな城下町として高松や丸亀の建設は難しかったとも考えられます。
 大足川の埋積作用は河口部や砂堆前面を着実に埋没させて行きました。讃岐を代表する港町宇多津は、政治的経済的な中心性だけでなく、港湾機能も奪われていくことになり、やがて地方的な港町になっていきました。
江戸期になると高松藩米蔵が設置され、新たな展開をむかえます。
髙松藩米蔵一覧

高松藩米蔵は、東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に置かれますが、宇多津は他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。これにともない現在の地割が整備されていきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
大束川沿いに置かれた米蔵(讃岐国名勝図会)
 しかし、大束川の堆積作用は、港に深刻な状況をもたらします。それを克服するため18世紀前半には、他の港町に先駆けて湛甫形式の港湾施設を完成させ、港湾機能の維持に努めます。しかし、やがては金比羅詣での船が寄港するようになった多度津や丸亀にその役割も譲ることになります。
  参考文献
Amazon.co.jp: 中世讃岐と瀬戸内世界 (港町の原像 上) : 市村 高男: 本
   中世讃岐と瀬戸内世界 所収    中世宇多津・平山の景観 松本和彦

このページのトップヘ