
近世の藩と村の支配ヒエラルヒーは、高松藩では次のようになります。
大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓
讃岐では、名主が「庄屋や政所」と呼ばれました。また、各郡の庄屋を束ねるが大庄屋(大政所)とされました。
ここで、注意しておきたいのは、兵農分離の進んだ近世の村には、原則的には代官以下の武士達は村にいなかったことです。そのため村の支配は、庄屋を中心とする村役人で行われました。そのため村で起こったことは、大庄屋に報告し、代官の指示を仰ぐ必要がありました。これらの連絡・指示・報告等は、すべて文書で行われています。今回は、どの程度のことまでを庄屋は、報告していたのか、その具体的な事例を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。

綾川町畑田八幡神社の農耕絵馬
例えば、田値えが終了したら庄屋は次のように大庄屋に報告しています。
一筆啓上仕り候。当村田代昨十九日までに無事植え済みに相なり申し候間、左様御聞き置きくださるべく候。以上。(弘化四年)五月二十日 西二村 香川与右衛門
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。当村西二村(現丸亀市西二村)は、昨日5月19日までに、田植えが無事終了しました。このことについて、報告します。以上。弘化四(1847)年五月十日 西二村 香川与右衛門

二村郷
西二村は、飯野山南麓の土器川の西側にあった村です。現在は川西町の春日神社を中心とするあたりになります。西二村のこの年の田植終了日時は、旧暦5月20日だったようです。現在の新暦では、約1ヶ月遅れになるので6月20日前後のことでしょうか。西二村の庄屋香川与右衛門が法勲寺の大庄屋に、田植え完了を報告しています。大庄屋は、鵜足郡南部の各村々からの報告をまとめて、藩の役所へ報告する仕組みだったようです。柴を背負って家路を急ぐ牛たち(葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田(静岡県富士市)」
牛の盗難事件についての報告を見ておきましょう。
覚一、女牛壱疋但し歳弐才、角向い高いくらい、勢三尺ばかり右の牛阿野郡南新居村百姓加平治所持の牛にて、牛屋につなぎこれ有り候所、去月二十五日の夜盗まれ候につき、方々相尋ね候えども今に手掛りの筋これ無く候間、その郡々村々これを伝え、念を入れられ、詮儀を遂げ、見及び聞き及び候儀は勿論、手掛りの筋もこれ有り候や。右の者来たる十日までにそれぞれ役所へ申し出ずべきものなり。(安永二年)巳七月 御 代 官右大政所中
意訳変換しておくと
覚一、雌牛一頭牛の歳は2才で、角は向いあって、高いくらい、勢(せい:身長)90㎝ばかりこの牛は阿野郡南新居村の百姓加平治の牛で、牛小屋につないであった所、先月25日の夜に盗まれた。方々を尋ね探したが、手掛がないので、近隣の郡々村々に聞き合わせを行うものである。ついては、見聞したことや、手掛になることがあれば、10日までに役所へ申し出ること。安永二(1773)年巳七月 御代官右大政所中
阿野郡南新居村で雌牛が盗まれたようです。そのことについて郡を越えて代官所から大庄屋(十河家)への情報提供依頼が廻ってきています。書状を受けた十河家の主人は、写しを何通かしたため、それと大庄屋の指示書を添えて、鵜足郡の拠点庄屋に向けて使者を遣わします。受け取った庄屋は、リレー方式で通達書を回覧していきます。その際に、庄屋たちは回覧文書を書写したり、自分の意見などをしたためて対応を協議していくことになります。当時の庄屋たちは文書を通じて頻繁にやりとりしています。ここでは百姓が飼っていた牛が盗まれても、代官に報告が上がり、情報的提供指示が出ていることを押さえておきます。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の柴を背負う牛の拡大図
今度は、土器川に現れた二頭の離れ牛についてです。
一筆啓上仕り候一、女牛 壱疋但し毛黒、勢三尺九寸、角ぜんまい、歳八才一、男牛 壱疋但し毛黒、勢三尺六寸、角横平、歳八才右は去る二十四日朝当村高津免川堤に追い払い御座候て、村内百姓喜之助・平七両人見付け、私方へ申し出候間、村内近村ども吟味仕り候えども、牛主方相知れ申さず。もっとも老牛にて用立ち申さず、追い払い候義と相見え申しり候間、何卒御回文をもって御吟味仰せ付けられくださるべく候。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。(弘化四(1847)年 二月二十八日土器村庄屋 近藤喜兵衛
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候一、雌牛一頭 毛黒、身長三尺九寸、角はぜんまい、歳は八才一、雄牛一頭 毛黒、身長三尺六寸、角は横平、歳は八才この二頭の牛が2月24日の朝、土器村の高津免川堤にいるのを、村内の百姓・喜之助・平七の両人が見付けて、届け出た。村内や近隣の村々に問い合わせしたが、牛の飼主は現れない。もっとも二頭共に老牛で使い物にはならないので、「追い払」ったも思える。とりあえず、御回文を送付しますので、吟味いただいて指示をいただきたい。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。(弘化四年(1847)年 .二月二十八日土器村庄屋 近藤喜兵衛
土器川の河原に牛が二頭、放れているとの土器村庄屋からの報告です。村人達は異常があればなんでも庄屋に報告せよといわれていたのでしょう。「放れ牛の発見 → 村民の報告 → 庄屋の近隣村への問い合わせ → 大庄屋 」という「報告ルート」が機能しています。
牛耕による田起こし(戦後・詫間)
このことについて大庄屋の十河家当主は、約2ケ月後の「御用留(日記)」に、次のように記します。御領分中村々右牛主これ無きやと回文をもって吟味致し候えども、牛主これ無き段申し出に相なり候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。(弘化四年)四月二十三日 こなた両人
意訳変換しておくと
高松藩の御領分中の村々に、牛の飼い主について問い合わせを回文(文書)で行った。が、牛の飼主であるとの申出はなかった。このことについて、知り置くように。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。(弘化四年)四月二十三日 こなた両人
年老いた牛が、土器川に放たれていたことについて、大庄屋は回文(文書)を出して、飼い主の「探索」を行っています。牛は農家の宝であり、年老いた牛については殺さずに河原へ追い放したこともあったようです。
最後に、年中行事の中から農民生活に関係の深いものを見ておきましょう。
立春後の第五の戊(つちのえ)の日を春の社日といい、この日には地神祭が行われていました。
徳島県(「阿波藩」)の「地神さん」の祭礼を見ておきましょう。

立春後の第五の戊(つちのえ)の日を春の社日といい、この日には地神祭が行われていました。
徳島県(「阿波藩」)の「地神さん」の祭礼を見ておきましょう。

徳島の地神祭(日々是好日 地神祭HP)よりの引用
徳島県内のどの神社(村)に行っても、頂上の石が五角形の「地神さん」が見られる。神社の境内に祀られている事が多い。寛政2年 藩主:蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に「地神さん」を設置させた。「地神塔」を建てると共に、社日には祭礼を行わせた。社日は、春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日。その日は、農耕を休み「地神さん」の周りで祭礼を行う。その日に農作業をすると地神さんの頭に鍬を打ち込むことになるといわれ、忙しい時期ではあるが、総ての農家が農作業を休んだ。「地神さん」の周りには注連縄を張り、沢山の供物が供えられた。時間が来ると、その供え物は子供達に分け与えられる。その日、子供は「地神さん」の周りに集まりお下がりを頂くのが楽しみであった。子供達はこの日のことを「おじじんさん」と呼び、楽しい年中行事の一つとしていた。
日々是好日 地神祭 よりの引用
https://blog.goo.ne.jp/ktyh_taichan/e/3b464e70359f789bb712c67319bd894b
https://blog.goo.ne.jp/ktyh_taichan/e/3b464e70359f789bb712c67319bd894b
地神塔(まんのう町新目神社)
讃岐鵜足郡の神社で行われた地神祭を見ておきましょう。口 上来たる八日社日に相当り候につき、例歳の通り御村内惣鎮守五穀成就地神奈義ならびに悪病除け御祈祷二夜三日修行仕り候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。なおなお村々へも御沙汰よろしく,願い上げ奉り候。以上。(弘化四年)二月 土屋日向輔
意訳変換しておくと
来たる2月日は社日に当たるので、例年通りに村内惣鎮守で五穀成就の地神奈義と悪病除の祈祷を二夜三日に渡って(山伏たちが)おこなうことについて、聞き置きくださるようお願いします。なお村々へも沙汰(連絡)よろしく願い上げ奉り候。以上。弘化四(1847年2月 土屋日向輔
2月の地神祭りに2夜3日に渡って、村内の鎮守で山伏による祈祷祈願が行われたようです。それには神職ではなく、山伏たちが深く関わっていたことが分かります。当時の戸籍などには、村々に山伏の名前が記されています。また、神事をめぐって、社僧や神職・山伏などの間で、いろいろないざこざが起きていたことは以前にお話ししました。ここでは村の神事は、神仏分離以前は山伏たちによって行われていたことを押さえておきます。
春の市は、今では植木市が中心になっています。しかし、江戸時代は農具市だったようです。観音寺の茂木町の鍛冶屋たちが周辺の寺社に出向いて、農具などを販売していたしていたことは以前にお話ししました。鍛冶市の回覧状を見ておきましょう。(意訳)
一筆申し上げ候。来たる3月18日・19日は、栗熊東村住吉大明神の境内で例年通り農具市が開かれる。ついては、このことについて聞き置き、回覧いただきたい。以上。弘化四年三月十六日 くり(栗)熊東村庄屋 清左衛門
栗熊東村の住吉大明神(神社)で、開催される農具市の案内回状の依頼です。各村々の地神祭や農具市などのイヴェントについては、その村だけでなく周囲の村々にも「庄屋ネットワーク」で情報や案内が流され、村人達に伝えられていたことが分かります。このような情報を得て、周辺の多くの人達が市や祭りに参加していたのでしょう。
田植えが終わると虫がつかないように、虫送りが行われていました。
田植えが終わると虫がつかないように、虫送りが行われていました。
一筆啓上仕り候。しからば当村立毛(たちげ)虫付きに相なり申し候間、王子権現において御祈祷相頼み、来たる四日虫送り仕りたき段、一統百姓どもより申し出候。もっとも入目(いりめ)の義は持ち寄りに仕り侯段とも申し出候。この段お聞き置きくださるべく候。右申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。(弘化四年)七月一日 庄屋 弥右衛門
意訳変換しておくと
これも十河家に送られてきた虫送り実施の許可願です。どこの村かは書かれていません。当事者同士には、これで分かったのでしょう。こうして見ると、祭りやイヴェントの案内状まで庄屋は作成し、大庄屋に願い出て、地域に回覧していたことが分かります。一筆啓上仕り候。しからば当村では稲に害虫がついてしまいました。つきましては、王子権現で(山伏)に祈祷を依頼し、4日に虫送りを実施したいと、百姓どもから申し出がありました。その入目(いりめ:費用)については、各自の持ち寄りとすると申し出ています。この件について、お聞き届けくださるよう申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。(弘化四年)七月一日 庄屋 弥右衛門
このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
藩からの通達や指示は、文書によって庄屋に伝達されます。また庄屋は、今見てきたようにさまざまな種類の文書の作成・提出を求められていした。文書が読めない、書けないでは村役人は務まらなかったのです。年貢納税には、高い計算能力が求められます。
地方凡例録
地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。「持高身代も相応にして算筆も相成もの」
(石高や資産も相応で、文章や形成能力も高い者)
経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。
辻本雅史氏は、次のように記します。
「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」
そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。
このような「17世紀メデイア革命」を準備したのが、村役人になんでも報告を求めた、藩の「文書主義」だったのかもしれません。これに庄屋や村役人が慣れて適応したときに「メデイア革命」が起きたことを押さえておきます。これは現在進行中のメデイア革命に通じるものがあるのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
このような「17世紀メデイア革命」を準備したのが、村役人になんでも報告を求めた、藩の「文書主義」だったのかもしれません。これに庄屋や村役人が慣れて適応したときに「メデイア革命」が起きたことを押さえておきます。これは現在進行中のメデイア革命に通じるものがあるのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯山町史330P 農民の生活」「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」
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