瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:庚申信仰

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三好市三野町田野々の庚申塔
阿波のソラの集落のお堂めぐりをしていると、必ず出会うのが庚申塔です。
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田野々の集落を見下ろす岡の上に建つ庚申塔
庚申塔には、いろいろな姿の青面金剛像や三猿が彫られていて、見ていて楽しくなります。だんだんと庚申塔に出会うのも楽しみになってきました。
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青面金剛が彫られた庚申塔(田野々)
ソラの集落では、お堂の近くに庚申塔が残ります。これは江戸時代後半頃から明治頃に流行した庚申信仰の痕跡のようです。

地域の相互扶助に根付いた庚申信仰 0982アーカイブ(2016・2月) | 0982株式会社・0982charmer
「庚申祭者名簿」(庚申講のメンバー)

集落の信者たちが「庚申講」を組織して、60日に一度の庚申待ちをお堂で行っていたことを示します。そして彼らが庚申塔を建てたのです。それが流行神としてもっとも盛んになるのが幕末期のようです。そこで、今回は改めて庚申信仰と庚申塔、そして青面金剛について、見ていきたいと思います。テキストは「五来重 石の文化」です。

楽天ブックス: 石の宗教 - 五来 重 - 9784061598096 : 本

 なぜ「庚申待」をするかについては、道教の立場から「三尸虫説」が説かれてきました。                 
  
庚申信仰 三戸虫
三尸虫

人間の体には三尸虫というものが潜んでいて、それが庚申の夜には人間が寝ている間に、身体をぬけ出し天に上り、その宿り主の60日間の行動を天帝に報告する。そうするとたいていの人間は天帝の罰をうける。
庚申待2
庚申待のいわれ
そこで寝ずに起きいれば、三尸虫は抜け出せない。そのためには講を作って、一晩中、話をしたり歌をうたったりしているのがよいということになります。この種の庚申待は、祀るべき神も仏もないので「庚申を守る」・「守庚申」と云われました。話だけでも退屈するので詩や歌をつくり、管弦の遊びもします。俗に「長話は庚中の晩」とも云われるようになります。

庚申待ち2
江戸時代の町方のでの庚申待の様子。真剣に祈っているのは2人だけ
 町方の富裕層の間では中国からの流行神の影響を受けて、60日に一度徹夜で夜を明かすことが広がったこと、そして後には、宗教行事でも何でもなく、ご馳走食べての夜更かし、長話の口実になったようです。確かに町方では、そうだったかもしれません。
 しかし、この説明ではソラの村での庚申信仰の広がりや熱心な信仰の姿を説明しきれません。

『女庭訓宝文庫』より「庚申待ちの事」

これに対して庶民信仰の「荒魂の祭」で「祖神祭りの変形」という視点から五来重氏は次のように捉えます。
 もともと古代から日待(ひまち)や月待(月待ち)の徹夜の祭が、庶民の間にはありました。
①日の出を待って夜明かしする行事を「日待」、
②決まった月齢の夜に集まり、月の出を拝む行事を「月待」
それを修験者たちは庚申待に「再編成」していきます。「日待・月待」が「庚申待」に姿を変えていく過程には、先祖の荒魂をまつる「荒神」祭が前提としてあったこと。それが「荒神 → 庚申」へと転化されること。
太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art on Twitter:  "新型コロナウイルスの拡大防止を祈念して、葛飾北斎が20代後半に描いた珍しい仏画をご紹介。青面金剛という庚申信仰のご本尊。病魔や病鬼を除く力があるとされています。下には、見ざる言わざる聞かざるの三猿が  ...
青面金剛(太田記念美術館)
そして、最後に庚申待の神を仏教化して、忿怒形の青面金剛として登場させます。


「日待」「月待」は、もともとはなんだったのでしょうか?
日待は農耕の守護神として正月・5月・9月に太陽を祀っていました。これが後になると伊勢大神宮の天照皇大神をまつるようになります。夜中に祭をするというのは、太陽の祭ではなくて祖霊の荒魂の祭であったことを示します。月待ちで7月23日に夜の月をまつるのもお盆の魂祭の一部で、荒魂の祭で、夜待(夜祀り)です。

 庚申待が先祖祭の痕跡を残すのは、一つには庚申待には墓に塔婆を立てたり、念仏をしたりすることからうかがえます。これが庚申念仏といわれるもので、信州などでは庚申講と念仏講は一つになり、葬式組の機能もはたしているようです。

庚申講の祭壇(長野県)
庚申講は、どんな風に行われていたのでしょうか。
 庚申講の流れを、見ておきましょう。
①庚申の晩に宿になった家は、庚申の掛軸(青面金剛)を本尊として南向きに祭壇をかざり、数珠やお経を出し、御馳走をこしらえて講員を待ちます。
②全員が集まると御馳走を頂戴してから、水や椋の葉で体をきよめます。
③それから講宿主人の「先達」で般若心経を読んでから「庚申真言」
(オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ)
を108回唱えます。
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唱えるときには、立ち上かってからしやがんで、額を畳につける礼拝をくりかえします。これは、六十日間の罪穢れを懺悔する意味があるとされます。これは大変なので後には、一人の羽織を天井から紐で吊り下げておいて、これを引いて上下させ、礼拝に代えるようになります。しかし、どこの庚申帚でも、この「拝み」があったようです。これは庚申本尊(青面金剛)に懺悔することによって、災いから護ってもらえると信じたからでしょう。

青面金剛1
祭壇正面に掲げられる青面金剛
 庚申塔の説明
庚申塔の青面金剛と構成要素
これは先祖祭の精進潔斎にも共通するものです。もともと祖先の荒魂に懺悔してその加護を祈っていました。それが「荒魂→荒神」として祀るようになります。さにこれを山伏が「荒神(こうじん)→ 庚申(こうしん)」として、修験道的な青面金剛童子に代えたと研究者は考えているようです。
流山三町物語散策➂ : 漫歩人の戯言

 流山三町物語散策➂ : 漫歩人の戯言

最後に「申上げ」として、南無阿弥陀仏の念仏を21回ずつ3度となえます。念仏を唱えることに研究者は注目します。
これは念仏行者や聖などの修験者による「念仏布教の成果」ともとれます。中世後半には霊山と呼ばれる寺社には、多くの高野聖や修験者(山伏)など野念仏聖が庵を構えて住み着き、そこを拠点にお札配布などの布教活動を展開していたことは以前にお話ししました。阿波の高越山や、讃岐の弥谷寺などはその代表でしょう。伊予新宮の熊野神社や仙龍寺や三角寺などを拠点とする修験者たちもそうだったかもしれません。修験者たちが庚申信仰をソラの集落に持込み、庚申講を組織し、その信仰拠点としてお堂を整備していく原動力になったのではないかと、私は考えています。それを阿波では蜂須賀藩が支援した節があります。つまり、ソラの集落に今に残るお堂と、庚申塔は修験者たちの活動痕跡であり、テリトリーを示すのではないかという思いです。
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庚申講と念仏の関係を報告した書
また、庚申講で念仏が唱えられる意味は、念仏講が庚申講が結合したことを示しています。
これによって庚申講は遠い先祖と近い祖霊の両方を祀ることになります。1年に庚申の日はだいたい6回まわってきますが、十数年に一度、7回庚申の日がまわってくる年があります。この年を「七庚申」と呼ぶようです。七庚申年を迎えると念仏によって供養された祖霊が、神になったことをしめすために、「弔い切り塔婆」である庚申塔婆が建てられるようになります。「弔い切り(上げ)」というのは、年忌年忌の仏教の供養によって浄化された霊は、三十三年忌で神になり、それ以後は仏教の「弔い」を受けないという庶民信仰です。
 これと庚申塔出現の過程を簡単にまとめておきます。
①神になった祖霊神は、神道式のヒモロギ(常磐木の梢と皮のついたままの枝)で祀られる。
②これを仏教や修験道は塔婆と呼び、庚申塔婆へと変化する
③やがて塔婆は「板碑」(いたび)になり、これに青面金剛が浮彫された庚申石塔が登場する。
簡略化すると次のようになるのでしょうか。
「ヒモロギ → 塔婆 → 庚申塔婆 → 板碑 → 青面金剛の庚申塔」

庚申信仰が庶民に広く、深く浸透していった背景を見ていきました。
そこには念仏聖や高野聖などの修験者の存在が浮かび上がってきます。
それを五来重氏は「石の文化」の中で、次のようにも記します。

 庚申待は、庶民信仰の同族祖霊祭が夜中におこなわわていたところに、道教の三尸虫説による守庚申が結合して、徹夜をする祭になった。そして、この祭りにはもとは庚中神(実は祖霊)の依代(よりしろ)として、ヒモロギの常磐本の枝を立てたのが庚申塔婆としてのこったのです。これがもし三尺虫の守庚申なら、庚申塔婆を収てる理由がない。しかしこの庚申塔婆も塔婆というのは仏教が結合したからで、庶民信仰のヒモロギが石造化した場合は自然石文字碑になり、仏教化した塔婆が石造化した場合は、青面金剛を書いた板碑形庚申塔になったものと、私は理解している。
そして、庚申信仰を次のように捉えます。

庚申信仰=山伏形成説

①庚申信仰は、仏教でも神道でも道教でもない素朴な庶民信仰を基盤に持つ。
②庚申信仰は修験道を媒介として、仏教、神道、陰陽道に結合する
③修験道は、庚申信仰の神をまつるのに、仏教も神道も道教も混合して、すこしも嫌わない
④庚申信仰の青面金剛や庚申真言も山伏がをつくりあげた。

以上からすると、ソラの集落に残る庚申塔は、修験者(山伏)たちによって広げられたということになります。『修験宗神道神社印信』にも、次のように記します。
庚申待大事 無所不至印
ヲツコシンレイコシンレイ マイタリ マイタリ ソワカ
諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽
摩利支天印 宝瓶印
ヲンマリシエイ ソワカ                 
各地の庚申講では、この印信を受けている所が多いようです。これは、山伏がもたらしたものであることが分かります。ここからも庚申信仰を村々に担ってきたのが山伏たちであることが裏付けられます。

踊り念仏の風流化と勧進聖 | 大森 惠子 |本 | 通販 | Amazon

庶民の願いである「現世利益と来世安楽・祖先供養」などを、受け止めたのが、聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのが高野聖であったことが分かります。庚申信仰も、彼らが組織していったことがうかがえます。
二所山神力院史 | 研究成果一覧 | 長岡造形大学 卒業・修了研究展

高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。
修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 また、高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったとする研究者も数多くいます。ソラの集落の信仰には、里山伏(修験者)たちが大きな役割を果たし、庚申講も彼らによって組織されたとしておきます。
 しかし、解けない謎はまだあります。阿波のソラの集落にはお堂があり、そこで庚申待ちが行われ、庚申塔が数多く見られます。ところが讃岐の里の集落にはお堂も、庚申塔もあまりありません。庚申信仰の痕跡が余り見られないのです。これはどうしてなのでしょうか?
庚申信仰が庶民に流行するのは、江戸時代後期になってからです。それをもたらしたのは修験者(山伏)でした。そこで、私は次の2つの背景を考えています。
①阿波では高越山・箸蔵山など修験者勢力が強かった。
②讃岐が浄土真宗王国となり、修験者たちの活動が制限された。
讃岐では真宗興正寺派のお寺が多く、活発な活動を展開します。真宗は「鬼神信ずるべからず」という方針を打ち出すので、庚申さまの信者となることは排斥されたことが考えられます。つまり熱心な真宗信者は、庚申信仰を受けいれなかったという説です。
そんなことを考えながらのソラの集落への原付ツーリングは続きます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      五来重 石の文化
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江戸時代の村々の動きを見ていると、山伏の動きが視野の中に入ってきます。盆踊りや風流踊り、雨乞い、獅子舞などを村に持込プロデユースしたのも、山伏だったようです。時には、神社の神主の役割も果たしています。村役人の庄屋さんの相談相手でもあったような感じもします。村々で山伏は、どんな役割を果たし、待遇を受けていたのかについて興味を持っています。そのような中で、宇和島藩での山伏について記した文章に出会いましたので紹介します。
テキストは「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」です 

宇和地方では山伏のことを「お山さん」と親しみを込めて呼んでいたようです。
それでは、宇和地方には、「お山さん」がどのくらい、どこに住んでいたのでしょうか。明治3年6月宇和島藩戸口調査(宇和島図書館蔵)によると、宇和地帯における修験・山伏は、宇和島藩だけで880人になります。これは神官・僧侶の人数よりも修験・山伏の方が多かったようです。各村落における分布状況は、宇和島図書館蔵の「天保五年午二月津島組宗門人高」によると、山伏は家数112軒に1人の割でいたことが分かります。比較のために土佐を見ると、江戸時代の初めには250人、幕末には150人位の修験者がいたことが史料から分かります。宇和島藩のお隣の土佐幡多郡を見ると、修験者の数は
本山派の龍光院に属する40人
当山派の南光院に属する20人
です。土佐藩と比べると石高や人口からしても、宇和島藩の880人は非常に多いことになります。どうして、こんなに多くの修験者たちが村々にいたのでしょうか。山高く、海深い宇和地方では、自然崇拝に根ざした山岳信仰の信者が多かったとしても、その比率が高いように感じます。その背景を、研究者は次のように推察します。
①宇和地方は、密教系寺院が領主祈祷寺院として栄えたこと
②対岸の九州国東半島の六郷満山寺院群の影響を受けて、それに匹敵する仏教文化地帯となっていたこと
③中世以来、土佐からの熊野行者の流入が見られ、修験者文化が根付いていたこと
それでは、宇和地方の修験者たちが、どのような形で地域に定着し、根付いたのか、また何を生業にして生活していたのか、山岳信仰の布教方法はどんなものだったのかなどを見ていきます。

最初は、鬼北町の日吉神社の別当を勤めていた金蔵院です。
 日吉神社は、道の駅「日吉夢産地」の北1㎞ほどの小高い丘の上に鎮座します。日吉の氏神として古くからの信仰を集めてきた鎮守さんです。もともとの元宮は、下鍵山の大神山山腹にあったと伝えられます。大神山はこのエリアの交通の要衝であったようで、近世初めに日吉神社は、日吉の地に下りてきたようです。日吉神社の神主は、神社の下にある山本家で、屋号は宮本(ミヤモト)というようです。旧九月二十日秋の大祭のヨイ祭の夜には、神主の家で大神楽がう舞われます。そのためこの家は、床も天井も神楽堂式で高く、とりはずし自由という珍しい構造だったようです。

愛媛県 日吉村 牛鬼(うしおに) 2007.11.11 : すう写真館
日吉神社の牛鬼
 一方、別当職にあったのが金蔵院の松岡家でした。

つまり、日吉神社の神官は山本家、山伏は松岡家という関係だったようです。金剛院も神職の家と同じように、日吉神社の下にあったようです。
「天保十五年四月上鍵山村仏閣修験世代改帳」には、次のように記されています。
  一、堂一軒
    但一丈四方            
    天井仏壇前格子戸二枚 杉戸二枚
    後板囲芽葺           
    宝暦元(1751)年建之
中略
  一、本尊
   弘法大師 座像石仏・長一尺
   千手観音 立像木像・長八寸         ・
   不動明王 立像木仏・長五寸
   庚申立像石仏・長七寸
   鰐口 一個

さらに松岡正志氏所蔵の「松岡家系」による松岡家由緒には、次のように記されています。

 藤原秀郷御在関東之時常州松岡留廉洸其子孫相続住手彼地意外松岡為氏後年至元亀天正之間天下大乱於干戈之中松岡氏族悉敗当此時数氏之家譜等悉之失矣。于時長院志学之歳也。漂泊而来遊手当国惣拾弐器学修験号増長院住于下鎗山村里人其才器推之為村長不得止許之爰有芝氏女迎之室生三男子及老年遂於下鏑山村終士人呼其地長院家地云又呼墓基長院之伝墓跡今猶在同村峠云所
意訳変換しておくと
 藤原秀郷が関東を支配していた頃、常州松岡には廉洸やその子孫がいて、その地を支配相続してきた。元亀・天正年間になって天下大乱となり、松岡一族は戦乱の中で敗者となり、家は途絶えた。この時に長院は十歳を超えたばかりであった。漂泊・来遊し修験者となった長院は、修行のために当地の下鎗山村にやってきた。里人は彼の才器を見て村長になることを求め、長院はこれを受けた。こうして長院は芝氏の娘を嫁に迎え、三男子を得た。老年になっては下鏑山村の終士人と呼ばれた。そして、この地は長院の土地と云われるようになった。長院の墓は今も村峠にあるという。

 ここからは、関東からやって来た修験者が村人に迎え入れられ、土地の有力者の娘を娶り、村の宗教的な指導者に成長していく過程が記されています。そして、次のような後継者の名前が記されます。
  元祖    昌院  年月日相知不 中侯                       
 二代実子 光鏡院  年月日相知不申候一
 三代実子 本復院  年月日相知不申候                        
 四代実子 大宝院  年月日同断
 五代実子 金蔵院安重 権大僧都大越家 延宝四(1677)年七月十九日滅
 六代実子 天勝院  官位同断 元禄十四年五月一日滅
 七代実子 金蔵院  官位右同断 享保五年一月十五日滅
 八代実子 天勝院大徳  官位右同断 元文元年七月十六日入峯 明和八年十月二十七日滅
 九代養子 光徳院安勝  官位右同断 寛延四年七月十六日入峯 寛政七年五月十八日滅
 十代実子卜大龍院安定  官位右同断 天明元年七月十六日入峯 寛政八年十一月二十七日滅
 十一代養子 光鏡院安隆  官位右同断 享和三年七月十六日入峯 嘉永六年六月二十四日滅
 なお十二代以降は他の資料によると次の通りである。
 十二代 天正院安経  天保十一年七月十三日入峯
 十三代 金蔵院安伝  万延元年七月十六日入峯 明治三十九年十一月八日滅
 十四代 真龍院安臭  大正三年一月二十日滅
ここからは松岡家が、金蔵院(鬼北町日吉)を守りながら17世紀末から大正期まで山伏を業としていたことが分かります。
 五代金蔵院安重は、権大僧都とあるので大峯に33度の峯入を果たしています。この地区の修験者(真言僧侶)の指導的な地位にあったことがうかがえます。その長男嘉右衛門は。母方の家系をつぎ上鍵山村庄屋職を勤めていますが、母方の姓芝氏を後に松岡姓に改めているようです。三男某は、吉田に移住して同じく松岡を名乗り、俗に吉田松岡を名乗り、吉田の名家となっています。
 日吉村の金蔵院が庄屋芝氏と縁故関係をもち、後には長男が芝氏を継いで、芝氏を松岡姓に改め、兄は庄屋職、弟は山伏職を世襲したことが金蔵院の史料から分かります。庄屋の家から嫁を貰うということからも、当時の山伏の社会的地位の高さがうかがえます。

外部からやってきたよそ者を、こんなふうに村の人たちはリスペクトを以て受けいれたのでしょうか?
  お隣の土佐は、遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。俗聖などの中にも土佐で、生を終える者も多かったようです。やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものがあります。また、熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしています。そのような影響が宇和にも及んでいて、熊野行者や高野聖など定着をリスペクトをもって迎え入れたとしておきましょう。

    次に法性院(旧城辺町字緑中大道 土居氏)を見てみましょう。
 一、大本山聖護院末 寛文三(1663)年正月十五旧 清徳開山             
 ニ、境内一三畝一歩  但年貢此高 一斗四升五合
 三、祈祷檀家 三百十二軒                            
 四、由緒 真宗寺末山称名寺は延宝年中廃寺となっていたが、本尊を智恵光寺に移したものを、後檀家の農夫市之助が一寺創立した。
 五、世代(城辺町真宝寺蔵過去帳による)                      
   龍泉寺殿前吏部良山常清大居士 寛永六年三月二十四日寂
   権大僧都清徳法印 享保六(1721)年七月二十八日
  同権大僧都海見法印 延享二年四月二十三日           
  同権大僧都義寛法印 宝暦十一年七月十五日
  同権大僧都義海法印 文化二年五月十四日
  同権大僧都義顕法印 天保三年九月一日
  同権大僧都義徳法印 安政五年十二月二日         
  同権大僧都法性院義快法印 明治三十一年十月九日
  同権小僧都法蔵院清胤 大正六年九月十五日
17世紀後半に開山された本山派の聖護院に属する山伏寺院のようです。320戸の檀家を持ちます。18世紀前半には権大僧都の位を得ているので、活発な修験活動が行われていたことがうかがえます。

観音岳(愛南町)再訪20191022 / KIRINさんの篠山の活動データ | YAMAP / ヤマップ
観音岳(斗巍山)

 このお寺のあった御荘平野の北に、どっしりとした山容でそびえるのが観音岳(斗巍山)です。

この山は「北斗信仰」の霊山だったようです。その信仰を担っていたのが法性院を中心とした修験者たちで、御荘平野周辺では相当の信者を持っていたようです。法性院に伝わる「斗巍(観音岳)権現由来記」には、次のように記されています。
 抑此斗巍山ノ由来ヲタズヌレバ何レノ時 何ノ人乃開基卜云フコトヲ知ラ不。世俗二云フ戸木山モコヘ阿ルベケレドモトギノ音ヲ以ツラツラ考フル 爾斗巍ハ字茂ルシ如印トナレ。斗北斗ナリ。論給フ日北辰又大文志二日北極是也。
 巍ハ高キナリ。集韻二高ク大ナル見ヘリ。此峯二観世音ヲ安置シテトギ山一云フヲ以ツテ見口口、往昔開運ヲ祈ルニ此峯二北斗ヲ勧請シ奉ルニ北辰日星ノ擁護ヲ蒙ハ志願ヲ遂ケソナルベシ。北斗垂迫ノ感徳広大ナルヲ以ツテ御本地観世音菩薩ヲ安置シ奉ルナルベシ。
 経二日夕観世音菩薩威神シカ巍々如是卜。是ハ観音ノ威神カハ広大円満ナリテ無膜大悲心ナル義也。然ハ則北斗尊星ノ加護力与観音ノ大悲カト共二巍4トシテ広大ナル事斗巍ノ文字能ク当ルナルベシ。
 北斗星垂述アルヲ以ツテ権現ノ義亦可【口】因茲自今以後斗巍権現卜奉崇然シテ微運ノ人ハ正心滅意ニテ開運ヲ祈ラバ感応アルコト疑ナシ。尤感応ノ成否ハ信心ノ厚薄二依り利益ノ遅速ハ渇仰ノ浅深二従フ事ナレバ疎略ニシテ神仏ヲノ疑フベカラズ
 開運ヲ祈ル法
 何レノ処ノ人モ此ノ山ノ方二向ツテ毎朝早朝二清浄ノ水ニテ中水ヲ遣フ時
 開運印
定メ 大指ヲ伸恵ノ五指ヲ以ツテ左ノ大指ヲ握り指頭ヲ少シ出シ是ヲ北斗尊星ニナソラヘテ額二当テー心二販命北斗尊星予が運ヲ開カセ玉ヘト心ノ内ニテ至心二念ジテ左ノ掌ノ内二在ル滴ヲ戴テ嘗ル也已上
意訳変換しておくと
 斗巍山(観音岳)の由来については、いつ、だれが開山したかについては分からない。しかし、世間に伝わる話をつなぎ合わせて考えると「斗巍」という文字は「茂」という如印となる。これは「北斗」のことである。
 ある書には「北辰は北極也」と記されている。「巍」は高いことである。集韻には高くとは「大」とも見える。この高峯に観世音菩薩を安置して「巍山」と呼ぶ。往昔から開運を祈る時には、この峯に北斗を勧請して奉まつると北辰日星の加護を受けて、志願を遂げることができると云われる。北斗の感徳は広大であるので、本地観世音菩薩を安置するべし。
 2日後の夕に観世音菩薩は威神を巍々如是と発揮する。これは観音の威神で、広大円満で無膜大悲心である。さあ、北斗尊の加護力と観音の大悲カを共に受け、広大な斗巍の文字を受け止めるべし。
 北斗星の垂述が権現の来訪である。そして今ここから斗巍権現となって微運の人にも正心滅意に開運を祈れば効果疑いなしである。もっとも感応のあるなしは、信心の厚薄による。利益の遅速は渇仰の浅深によるものであれば、効果がないと神仏を疑ってはならない。
 開運を祈る法
 この山の方角に向かって、毎朝早朝に清められた水で中水を行うときに、開運印を決めておき大指を五指で左の大指を握り指頭を少し出して、これを北斗尊星になぞらえて額に当てー心に「北斗尊星よ 私が運を開かせたまえ」と心の内にで念じて、左の掌の中にある滴を戴くこと。以上

ここからは、当時の山伏達が北斗信仰を、どのようにひろげていったのかが分かります。夜空にかがやく北斗星と、その真下に高く大きくそびえる霊山・観音岳。霊山と観音信仰とを結びつけて、そこに「行とまじない」のスパイスを隠し味にして、民衆の信仰心を刺激した山伏達のやりかたはあざやかです。とくに「開運印」などという特殊な印を教えたことも民衆にとってはたまらなく魅力的におもえたでしょう。
天文編 | 知恵ブクロウ&生きものハンドブック | シリーズ | ECOZZERIA 大丸有 サステイナブルポータル
最後に、旧一本松村で研究者が見つけた資料から、山伏の活躍を見ておきましょう。

歴メシを愉しむ(63)】<br>今年の「夏越の祓」~アマビエと鱧で疫病封じ | 丸ごと小泉武夫 食マガジン

 夏越祓は6月26日に行なわれていたようで、期日の入った夏越祓護符が残っています。また歯痛には揚枝守を出しています。これは揚枝守と朱印した護符内に、木製の揚枝を入れてあります。歯痛のときは、この揚枝で痛い歯をつつくと歯痛がとまるといって配布していたようです。諸病安産にも、守札を出しており、山伏たちは阿弥陀信仰も盛んに弘めていたことが推測できます。

旧城辺町の加古那山当山寺の記録には、次のように記されています。
    中用 庄や 又惣 あげ日まち事
  一、山日待
  一、家祈祷 二体分  蔵米引おこし 壱典
  一、ふま 六升六合
  一、札米 一斗二升
        (以下略)
    五人組 清八・幸助・五郎・伝六
     役人  団右衛門
     横目  孫左衛門
        永代売渡証文
   申年十一月 日
     僧都村 正応院
     同   五人組岩治郎
     甲子講御世話方

「あげ日待」「山日待」について、歴史事典には次のように記されています。
「御日待」のことで、前夜から身を清めて、寝ないで日の出を待って拝むこと。「まち」は元来神のそばにいることであったが、のち待つに転意した。日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもので、1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的。講を作り部落で共通の飲食をします。

これは庚申信仰とも重なり、庚申講として組織されることもあったようです。村々で行われていた、御日待や甲子講にも山伏たちは関わっていたことがこの史料からは分かります。
市民ハイキング 篠山 ( 1065m 高知県宿毛市・愛媛県愛南町) 2014年4月25日(金) 晴れ しらかわ 記 天気予報では一日中晴れ。  早朝5時30分に丸亀を出発。 松山自動車道、宇和島道路、R4を通り、篠山トンネルを抜けて直ぐ左折し、狭い車道を ...

篠山は、土佐と伊予の両方から信仰を集めていた霊山でした。

 旧一本松村正木では、篠山権現に6月1日から8月1日まで「篠山権現の日参詣り」といって毎日登拝していました。部落の中から交替で、毎日二人が五穀豊熟・家内安全のため登山します。大きな杓子をかついで行き、「ナンマイドーナンマイドー(南無阿弥陀仏)」唱えながらとリレーします。2ヶ月の期間中に、2~3回は廻ってきたようです。そして、最後の日の8月1日に当たった人は火縄をもって登り、篠山神社神官から火をもらい下山して、各部落に火を分けます。部落では、タイマツにその火をともし各家に分け、最後にタイマツを焼いて終りです。これを火送り行事といいます。
 城辺町緑では8月1日に二人組で代参して、篠山の火を貰って、その火で村中を松明を持って廻っていたと云います。篠山権現も山伏が管理運営していたのです。篠山
篠山稜線上の国境碑
  以上をまとめておくと 
①宇和藩には幕末には880人の山伏がいて、さまざまな宗教活動を行っていた。
②中には、吉野や熊野での修行を積んで修験者として高い地位にある者もいた。
③山伏として高位の位を持つ者は、村社などの神社の別当を勤め、村でも有力者になっていた。
④ある山伏寺では、観音岳を「北斗信仰」の聖地として霊山化し、多くの信者を得ていた。
⑤篠山権現は、宇和地方の人々を集めた霊山で、ここを管理していたのも山伏寺であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」
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参考文献 愛媛県史

 


庚申待とその建塔の目的は? 

「庚申塔」の画像検索結果

庚申待ちには、祖霊供養とおなじで先祖の加護によって厄難をのがれ、豊作を願うのが目的がありました。これが仏教化すると「七難即滅、七福即生」というようになり、七色菓子が必須の供物となります。また六道の苦をのがれるという信仰も生まれてきたことが『庚申尊縁起』には見えます。
 山伏達の指導で、仏教唱導に利用されたことがうかがえます
この縁起には庚申の十徳が次のように挙げられています
一に諸病悉除、
二に女子悪子を生まず、
三に寿命長遠、
四に諸人愛敬、
五に福徳円満、
六に三毒消滅、
七に火難水難を除き、
八に盗人悉除、
九に怨敵退散、
十に臨終正念
このような庚申の利益をうけるためには、精進潔斎をしなければならないと説かれます。
扨テ庚申祭ノ前夜ヨリ肉食五辛ヲ断チ、
精進潔白ニシ重不浄ノ行ヲナサズ、
とあり、とくに「不浄ノ行」という男女同会を禁ずるタブーがきびしかったようです。近世の『女庭訓大倭嚢』には、 
庚申の日 射緋いいの日 男女さいあいを致し候へば二天ながら大毒にて、年をよらせ命短くなし。病者になり候。
若し其夜子種定り候へば、その子一生巾開病者に候か、盗人か大悪人かに候。
むかしより例ちがひ申さぬ禍にて候まま、能そ御つつしみあるべく候。
とあり、庚申の夜のタブーは有名です。しかしこのタブーは興味本位にかたられるだけです。なぜタブーなのかという考察がなされていません。別の視点から見ていくことにしましょう。
先祖祭の代表的な祭として新嘗祭があります。
祭りの前一ヵ月間の致斎(ちさい)は厳重でした。この新嘗の先祖祭は、民間では仏教化して「大師講」とよばれ、その夜は祖霊の来訪を待って徹夜し、大師風呂という風呂を立てて潔斎しました。また、新嘗の夜には男女が別々の家に寝たことをしめす『万葉集』(巻十四)の歌があります。  
 誰そ 此の屋の戸押そぶる 擁獣に
         我が背を遣りて 斎ふこの戸を
という歌は、新嘗の祖霊祭には夫を他所へやって、妻一人が忌み箭って祖霊をまつったことを示しています。しかし、奈良時代にはこのタブーを無視して、女一人の家に入ろうとする不埒な輩がいたことを、この歌は伝えています。

「庚申は日木固有の祖霊祭(先祖供養)の一つの形態」

という視点からすれば、庚申の夜のタブーは、この祖先祭の名残りと考えられます。

   「庚申塔」の画像検索結果  

庶民の庚申真言の唱え方について

 この唱え言は、山伏の方で

オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ

いう真言に変えます。これは「マイタリヤ」すなわち弥勒菩薩(マイタレーヤ)と庚申を同一視する信仰をあらわします。これに添えて、諸行無常の四句偶を唱えたのです。
だから、庚申信仰を通して諸行無常の仏教の根本教理を自覚させ、合わせて先祖祖雲の供養をしたことがわかります。ここにも庶民教化に山伏が影響力を持っていたことが分かります。 
三猿の起源は?
 それでは貴族たちの庚申の礼拝対象は何だったのでしょうか。
貴族達はこれは三尺虫を礼拝するのでなくて、これを追い出そうとする祭でした。
庚申信仰 三戸虫
三尸虫

「三尸虫(彭侯子、彭常子、命児子)よ、真暗なところへ向かって、我が身を離れ去れ」

というのですから、守庚申とは眠らずに夜明しをして、三尸虫が身を抜け出さないようにするという教説ともちがうようです。
 ここでも別の視点から見てみましょう。
「三尸虫を離れ去らしむ」という志向が庚申塔の三猿になっていると考えられないでしょうか。猿は庚申の申(さる)とも関係があるけれども、これを三匹とするのは三尸虫を「去る」ことを寓したものではないでしょうか。だから三猿は、すべて否定的にできており、災禍を見ず、災禍を言わず、災禍を聞かずという意味なのだと推察しています。

庚申の鶏は?

 庚申塔の鶏は夜を徹しての行事であるので、夜明けを告げる鶏をあらわします。、同時に鶏の鳴声ですべての禍が去ることもあらわしています。よく昔話にあるように、鬼は鶏が鴉けば夜が明けないうちに立ち去るというのも、この意味です。この鬼は常世、または幽冥界(黄泉)へ去るので鶏は「常世(常夜)の長鳴鳥」といわれます。

庚申の本尊は?

 庶民の側の庚申には礼拝対象があります。
庚申講には庚申の本尊というものがあって、神式ならば「庚申」または「猿田彦大神」という文字の掛軸です、仏教式ならば「青面金剛」という仏像の掛軸です
いずれにせよ庶民の庚申講には、神なり仏なりが存在して、これをまつり、供養することによって禍を去り豊作を得ようとしたことが、貴族の守庚申とまったくちがう点です。 
庚申の神を「猿田彦大神」とするのは、申と猿の相通からきた
ことはもちろんのことです。が、そればかりではなく天孫降臨のとき、その道の露払いをしたとあるように、禍をはらう力がこの神にあるとされたからでしょう。したがって、この神は「道の神」として道祖神ともなります。
 しかしそれよりも重要なのは、猿田彦神は「大田神」ともよばれて、「田の神」すなわち豊作の神とされることです。庶民のあいだの庚申講は、後世になるほど豊作祈願が強くなります。そのために「田の神」と同格の猿田彦神を、庚申講の本尊として拝んだのです。貴族の信じた三尸虫説とはまったく異質的な庚申信仰でした。
 そこにいるのは決して外来の神ではなくて、農耕を生活の手段とする日本固有の神でした。

 日本人の固有信仰では「田の神」は山から降りてくるものであって、田圃の耕作が済めば山へ帰る神と信じられていました。だから冬は「山の神」となり、春から秋にかけては「田の神」として耕作を護るとされます。これが「山の神・田の神交代説」という考え方です。
 猿は「山の神」の化身として山王ともよばれるので、猿田彦という神名は「山の神」と「田の神」の二面性をあらわし、豊作祈願の庚申講の神たるにふさわしいとかんがえられたのでしょう。

 庚申信仰の仏教化も猿田彦神の神道化も職業的僧侶や神官のかんがえたことです。
どちらの
場合でも民衆は、庚申は豊作の神と信じていました。その豊作も庚申講で供養する先祖のおかげと信じていました。そのため庚申講には念仏がつきものでした。だから庚申塔には「申待供養」とか「庚申供養」という供養の文字を入れることが多いのでしょう。祭の本尊は猿田彦でも青面金剛でも、これを通して先祖をまつり、そのおかげて 豊作を得ようという信仰構造が、庶民信仰というものです。

庚申信仰の拡大の上で山伏の果たした役割は?

 この庶民の信仰をよく理解して、これに沿うように庚申信仰をひろめ、民間の庚申講を結成させていったのが修験道の山伏です。かれらは神仏も区別せずに礼拝したので、両部神道に近付きやすかったようです。ことに真言密教系の山伏は伊勢系の両部神道を根底とした習合思想をもっていたために、伊勢神道の豊受大神即金剛神の理論に『陀羅尼集経』の「大青面金剛呪法」をとりいれて、日本独自の庚申本尊六腎青面金剛神像をつくりあげていったのではないでしょうか。

庚申信仰=山伏形成説

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


従来の庚申信仰の説明は、道教の三尸虫説だが・

 庚申信仰については、従来は次のように説明されてきました。
中国の道教では、人間の体には三尸虫というものが潜んでおり、それが庚申の夜には体をぬけ出し天に上り、その宿り主の60日間の行動を天帝に報告するという。
そうするとたいていの人問は人帝の罰をうけ命を縮める。 だから庚申の夜には寝ずに起ていなければならない。
そのためには講を作って、一晩中詰をしたり歌をうたったりしているのがよい。
「庚申塔」の画像検索結果

 しかし、三尸虫説からだけでは庚申信仰は捉えきれないし、説明しきれないようです。例えば
なぜ庚申塔をつくるのか、
なぜ庚中塔や庚中塔婆を立てるのか、
これに庚申供養と書くのか、
庚申と猿や鶏の関係は何か、
庚申に七の数を重んずるのは何故か、
庚申年の庚申塔に酒を埋めるのは何故か
などの疑問が説明できません。
そこで、庶民信仰の視点から見直していこうとする動きがあります。その代表的な存在である宗教民族学者の五来重の主張の結論部を提示します。
① 庚申待は、庶民信仰の同族祖霊祭が夜中におこなわわていたところに、道教の三尸虫説による守庚申が結合して、徹夜をする祭になった。
② この祭りにはもとは庚中神(実は祖霊)の依代(よりしろ)として、ヒモロギの常磐本の枝を立てたのが庚申塔婆としてのこったのである。これがもし三尺虫の守庚申なら、庚申塔婆を収てる理由がない。
③ 庚申塔婆も塔婆というのは仏教が結合したからで、庶民信仰のヒモロギが石造化した場合は自然石文字碑になり、仏教化した塔婆が石造化した場合は、責面金剛を書いた板碑形庚申塔になった。
庶民信仰から「庚申待」を解釈すると、荒魂の祭で先祖神祭り
 「庚申塔」の画像検索結果
60日ごとに巡ってくるの庚申の日に、当番の宿に講中があつまって夜明しをするのが庚申待です。もともと「侍」には日待、月待などがあって、月の出を待つように解されますが、本来は夜通しで神をまつることを待と言いました。すなわち「待」は「祭」のことです。
 すでに民間にあった日待や月待の徹夜の祭が、修験道の影響で庚申待になったります。これは室町以降のことでしょう。その間には、先祖の荒魂をまつる「荒神」祭があり、音韻の類似から庚申に変化していきます。というのは、古くは「庚申」も「かうじん」  と発音したからです。そのために庚申待の神を、荒神の仏教化した忿怒形の青面金剛として表現されるようになります。 

庚中待の源をなす日待、月待は何か?

 庶民の庚申待が荒魂としての先祖祭であったとおもわれるのは、一つには庚申待には墓に塔婆を立てたり、念仏をしたりするからです。信州には庚申念仏といわれるものがあり庚申講と念仏講は一つになり、葬式組の機能もはたしています。
 日待は農耕の守護神として正月・五月・九月に太陽をまつるといわれ、のちには伊勢大神宮の天照皇大神をまつるようになります。夜中に祭をするというのは、太陽の祭ではなくて祖霊の荒魂の祭であった証拠です。そして月待ち七月二十三夜の月をまつるというけれども、これもお盆の魂祭の一部

 日待や霜月祭(新嘗祭または大師講)で、まつっていたものを、庚申の日にかえたものです。
もとから夜を徹して祭をおこなっていました。庚申の晩に宿になった家は、庚申の掛軸(青面金剛)を本尊として南向きに祭壇をかざり、数珠やお経を出し、御馳走をこしらえて講員を待ちます。
全員が集まるとまず御馳走を頂戴してから、水や椋の葉で体をきよめ、それから「拝み」になります。講宿主人の「先達」で般若心経を読んでから「庚申真言」を唱えます。
 これは、 オンーコウシンーコウシンメイーマイタリーマイタリヤーソワカ
 または、 幽晦青山金剛童。
を少なくとも108回となえるだけでなく、その数だけ立ち上かってからしやがんで、額を畳につける礼拝をくりかえします。この苦行は、六十日間の罪穢れを懺悔する意味であります。 

「庚申塔」の画像検索結果

これは先祖祭にともなう精進潔斎にも共通するものです。

 もともと祖先の荒魂に懺悔してその加護を祈ったのが、荒魂を荒神としてまつり、これを山伏が修験道的な青面金剛童子に代えたものと推定できます。このあとで「申上げ」と称して、南無阿弥陀仏の念仏を二十一回ずつ三度となえる所もあります。この念仏というのは、念仏講が庚申講と結合したことをしめすものです。
 このことから、この講は遠い先祖も近い祖霊もまつっていたことが分かります。
念仏によって供養された祖霊はやがて神の位になったことをしめすために、七庚申年になると「弔い切り塔婆」である庚申塔婆を立てたと考えられます。「弔い切り」というのは年忌年忌の仏教の供養によって浄化された霊は、三十三年忌で神になり、それ以後は仏教の「弔い」を受けないというのが庶民信仰です。
「庚申塔」の画像検索結果

 神の位に上った祖霊は神道式のヒモロギによってまつられるが、このヒモロギが常磐木の梢と皮のついたままの枝です。これを仏教または修験道式に塔婆とよんだので、庚申塔婆となりました。このようなヒモロギが変化して、やがて「板碑」(いたび)になったとき、これに半肉彫で青面金剛が浮彫された石塔が、庚申石塔なのです。このように自然石文字碑と青面金剛板碑とのあいたには、大きな区別があります。
庚申塔婆が青面金剛板碑となる過程について

「庚申塔」の画像検索結果
 五来重氏は、石造塔婆のひとつである板碑の「五輪塔起源説」も否定して、ヒモロギから板碑が発生したことを結論づけます。
 そして庚申待ちについて
一本の常磐木の枝をヒモロギとして立て、そこに祖霊を招ぎおろして祭をする、原始的な同族祖霊祭が庚申待(庚申祭)の本質
と指摘します。


西阿波の庚申塔には、何が彫られているの?

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天空(ソラ)の集落を訪ねていると、お堂は集落の聖地であり、念仏踊りなどもここで行なわれるなど文化センターでもあったことが分かる。

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端山巡礼第80番観音堂
端山巡礼第80番観音堂にやって来た。
半田から落合峠を経て祖谷に入っていく街道沿いにあるお堂だ。
お堂の前にはカゴノキの巨樹が木陰を作っている。
旅人達の休息所だったことが想像できる。

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        端山巡礼第80番観音堂の庚申塔
その巨樹の前には庚申塔が建っている。

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建立は天保3年9月吉日。シーボルト事件が発覚し、伊勢のお陰参りが大流行した頃だ。200年近く前のものだが、朱で彩られた文字がくっきりと残る。
「光明真言三百万遍」
と読める。
「光明真言」とは、お四国巡りの際などに、般若心経の最後に唱える
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらはりたや うん」

という呪文のような真言のことである。これを、三百万回も唱え終えたことを記念として建立された記念碑ということになる。
旅行く人たちは驚きの気持ちで、これを見上げたのではないか。
そして、建てた地元の人たちは誇らしげに感じたのではないか。

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穴吹の口山の猪滝堂
こちらは穴吹の口山の猪滝堂。
ここにも真言百万遍の庚申塔が建っている。

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こちらは江戸末期の嘉永年間 なんと三百万回だ。

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そして西阿波で最高回数は・・・これ
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なんと七百万回と刻まれている。
最大の大きさのものは、加茂町にある。
誰が? どこで? いつ? 光明真言を唱えたのか。
 日本に伝えられた道教の教えで、
「人の体の中には3匹の虫がいる。
1つは頭の中に居て彭■(ほうきょ)と言い、首から上の病気をおこす。
2つめは彭質(ほうしつ)と言い、腹の中にいて五臓を病気にする。
3つめは足にいて彭矯(ほうきょう)と言い、人を淫乱にする。
これを三尸(さんし)の虫と言い、庚申の夜に人が眠ると人体から抜け出て天にのぼり、その人の犯した罪過を天帝に報告して、その人の生命を縮める。
そのため
「庚申の夜に身を慎み徹夜すると虫が人体から抜け出すことができない。」
と言われ、庚申の夜には眠らずに「守庚申」(まもりこうしん)が行われるようになった。

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 阿波の人々が盛んに、講を組織し庚申待を行うようになるのは江戸時代後期になってからだ。

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 こんな姿を刻んだ庚申塔も現れるようになる。青面金剛だ。
「一身四手で、左の上手には三股、下手には棒を、
右の上手の掌には宝輪、下手には羂索をもつ。
身体は青色で口を大きく開き、目は血のように赤く三眼である。
髪はほのおのように聳立しどくろをいただいている。
両足の下には二鬼をふんでいる。本尊の左右には香炉をもった青衣の童子が一人づつ待立し、また右側にはほこ、刀、索をもつ赤黄の二薬叉(やしや)が立っている」
庚申塔の説明

青面金剛はもと「病を流行らせる悪鬼」だが、改心して「病を駆逐する善神」に変化した。
やがて、

「三尸虫を封じ込める」→「力づくで病魔を駆逐してくれる神様」
 として、庚申の本尊に採用された。
  西阿波では、青面金剛が彫られた庚申塔が多い。
庚申塔(こうしんとう)って何:目黒区公式ホームページ

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 申(さる)は干支で、猿に例えられるから「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものも多い。

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 当時の人々にとって庚申の夜は、地域のニュースを交換したり生活知識を入手する唯一の場であった。一晩徹夜をするのがつらいので、飲み食いをしたり、踊ったりして信仰はそっちのけで遊びの会になってしまった講もあったようだ。

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 一方、領主側からすると細かな取締り方針の伝達の場であり、時には民情を探るための諜報(穏密情報)集収の場にも利用されたようだ。そこで人々は保身のために、庚申待で語られた御政道批判や不用意な噂ばなしなどは
「一切不見(みず)、不聞(きかず)、不言(いわず)」
を守ることが大切なことだと経験から学び、庚申塔に彫り込んだのかもしれない。

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 戦後、生活様式の変遷等と合理思想の波に洗われて、お堂も姿を消し、庚申の行事も途絶え、庚申塔はあってもその名称さえも知らない人達が多くなった。
そうしたなかで西阿波には、全国でも珍らしく庚申信仰の習俗が残存している地域があるという。 いつか見てみたい、参加してみたいという願いを持ちながらソラのお堂巡りは続く。

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美馬市穴吹町 中野・渕名の天空(ソラ)のお堂を訪ねて、その起源を考える。 
 端山霊場巡礼を一巡したので、その周辺の天空(ソラ)の集落とお堂めぐりを開始。今回は清流穴吹川の西側の尾根の集落を訪ねてみることにした。

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穴吹町から小学校の上の道を登っていく。
中野集落にある仏成寺に御参りして、ここから上へ伸びる道を歩く。

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家の前のカヤ場(肥場・肥野・肥山)と呼ばれる採草地から、カヤが刈り取られ、コエグロが作られている。冬の準備が進められている。

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茅場の向こうに赤い屋根のお堂が見えてきた。

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消防屯所の上の丘に、中野集落のお堂はあった。
登ってみよう。

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オレンジ色の屋根が青い空に映える。
お堂は誰が、何のために、いつ頃から立て始めたのだろう?
貞光のお堂が寛政5年(1793)の夏、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が祖谷を旅行した時の紀行文に出てくる。(意訳)
26日、朝、貞光を出て西南の高山にのぼった。その山は険しく岩場もあり、足を痛めた。汗をぬぐいながらようやく頂上に着いたが、そこには五間四方の辻堂があった。里人に聞くと折々に、人々が酒さかなを持って、ここに集り、祈りを捧げたあとに、日一日夜一夜、詠い舞うという。万葉のいわゆる筑波山歌会に似ている。深山には古風が残っているものだと思った。 
ここからは集落の人たちが氏堂に集まり酒食持参し、祖霊の前で祈り・詠い・踊るという。祖霊と交歓する場としてのお堂の古姿が見えてくる。

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吹き抜けのお堂からは、吉野川の河口付近を経て淡路島も望めるようだ。
 氏堂の発生については
最初は、景観のよい所を先祖の菩提所として、いろいろな祈りを捧げていた。やがて草葺小堂が建てられ、日ごろからお祈りしている石仏の本尊が安置される。さらに先祖への祈願の建物としてお堂が現れる。

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 江戸時代のキリスト教禁制とセットになった仏教保護政策とからんで、阿波藩は庶民のお堂建立を奨める。その結果、修験者や僧侶の指導で、経済的に安定してきた元禄時代頃より各集落で建立されるようになった。お堂の棟札からも裏付けられるという。

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 大きな集落では複数建てたり、7、8戸の小部落でも建てている。競うように各集落で建てらた風潮があったようだ。
 当時の庶民負担は大きかったはずだ。にもかかわらず修築、屋根の葺替等が世代を超えて引き継がれてきた。里のお堂が姿を消す中、ソラの集落では今日に到るまで神社とならぶ信仰施設として健在である。

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中野堂近くの民家では、庭先に干し柿をつるす作業が始められていた。

 お堂を維持する力となったのは祖霊への信仰心。
中祖谷地方では、旧盆のゴマ供養が今に続いている。
那賀郡沢谷では盆には「火とぼし」の行事が行われ、念仏供養をしている。いまはすたれているが戦前までは、お盆にはお堂の庭で「まわり踊」が行われ先祖の霊の供養をしていたという。

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次にやって来たのは西山集落のお堂。ここからの展望も素晴らしい。

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 山村を旅行する場合、宿のない所ではお堂に泊って旅をしたという。現在でいえば無料宿泊所のような役割をはたし、村人もこれを認めていたという。

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 ソラのお堂めぐりをしていて気付くのは、庚申信仰の影響が見られること。庚申塔や光明真言を何万遍唱えたことを示す碑文が数多く残る。しかし、庚申講を今でも開いている集落は殆どない。

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このお堂に導いてくれたことに感謝を捧げる。

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いろいろなことを考えながら煩悩まみれのお堂巡りが続く。


参考文献 
荒岡一夫         お堂の発生について 松尾川流域の庶民信仰の一端
徳島県郷土研究発表会紀要第18号
  
 




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