大師入唐渡海 遣唐使船

東シナ海を行く遣唐使船(高野空海行状図画)

大使と空海の乗った第1船は8月10日に、帆は破れ、舵は折れ、九死に一生の思いで中国福州(福
建建省赤岸鎮)に漂着します。

空海・最澄の入唐渡海ルート
空海と最澄の漂着先
空海入唐地 赤岸鎮
空海入唐之地 赤岸(1998年建立)

正史である『日本後紀』に載せられた大使藤原葛野麻呂の報告書を、まず見ておきましょう。

大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州(福州)之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。


  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。
「常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。」と。
そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。

唐では許可なく外国船や船籍不明船が、上陵するのは禁止されていました。浜にやってきた県令は「自分には許可を出す権限がない」と、省都福州へ使いを出します。その間、空海たちは上陸も許されないまま、船の中で2カ月間過ごすことになります。役人達は、国書や印を持たない遣唐使船を密繍船や海賊船と疑っていたようです。結局、役人の指示は次のようなものでした。
 
「州の長官が病で辞任しました。新しい長官はまだ赴任していません。だから、われわれは何もしてあげられません。とにかく州都の福州に行きなさい。陸路は険しいので海路にていかれよ」

 
遣唐使 赤岸鎮から福州


一行は、長渓県赤岸鎮での上陸を許されず、観察使のいる福州に向かうことになります。
2ヶ月後の10月3日に、福建省の省都の福州にたどり着きます。福州は、河口から30㎞ほど遡った所にある大都市です。遣唐使船は、その沖にイカリを下ろしたはずです。当時の規則では、外国船は岸壁に着船し、直接に入国することは禁じられています。

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           小舟に乗り換えての福州上陸(弘法大師行状絵詞)

大使藤原葛野麻呂の報告書には、福州でのことが次のように記されています。

十月三日、州(福州)ニ到ル。新除監察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

意訳変換しておくと
新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

ここからは次のようなことが分かります。
①福州の監察使は閻済美であったこと
②長安に使者を出し、23人が遣唐使団と長安に入京することになったこと
③福州到着から1ヶ月後の11月3日に出発して、長安に12月21日に到着したこと

ここには、国書を紛失して不審船と扱われたことや、当初は空海が上京メンバーに入っていなかったこや、空海の活躍ぶりなどには一切触れられていません。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』には、この間のできごととして次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

  「然りといえども、船を封じ、人を追って湿地の上に居らしむ」

とあり、 停泊するや否や、役人が乗りこんできて、乗組員120人ばかりを船から降ろして、船を封印してしまったというのです。役人達は、遣唐使船を密貿易船と判断したようです。もし。国書を亡くしていたとするなら、それも仕方ないことです。正式の外交文書を持たない船の扱いとしては、当然のことかも知れません。しかし、プロの役人であれば、国書は最も大切なモノです。それを嵐でなくすという失態を演じることはないと私は考えています。
空海によると一行は、宿に入ることも、船にもどることも許されず、浜の砂上で生活しなければならなくなります。ここからが高野空海行状図画の記すところです。

「私は日本国の大使である」と蔵原葛野麻呂は、書簡を書いて福州長官に送った。しかし、その文書は、あまりにつたなく役人は見向きもしない。」

文書の国では、国書を持たない外交使節団など相手にするはずがありません。そこで登場するのが空海と云うことになります。誰かが空海の能筆ぶりを知っていて、大使に推薦したのでしょう。空海が大使の代筆を務めることになります。
この場面を描いた高野空海行状図画の福州上陸図を見ておきましょう。

福州漂着代筆 高野空海行状図画
福州での役人とのやりとりと、空海代筆(高野空海行状図画)
①は遣唐使船が岸壁に着岸しています。「沖合停泊」という「時代考証」が無視されています。その姿は大風や波浪で、船上施設が吹き飛ばされて、何ひとつ残っていないあばら舟姿です。
②福州の役人は「厄介者がやってきた、仕事を増やしたくない」との素っ気ない対応ぶりです。
③は、大使みずからが書簡をかいて提出しますが、役人は読み終えると放り出して取り合ってくれないところ。
④万策つきた大使からの依頼で、空海が長官に宛てて書をしたためているところ。
⑤空海がしたためる手もとを見ているのが、福州監察使の閻済美。
⑥中央は、空海の文章と書の力によって、やっと日本からの正式の遣唐使であることが認められ、仮岸の中に通されて、安堵している大使と空海

同じ場面を、弘法大師行状絵詞で見ておきましょう。

福州着岸 代筆. 弘法大師行状絵詞JPG
             福州での空海代筆その1(弘法大師行状絵詞)

港に船着き場はなく、沖合に投錨し小舟で浜にこぎ寄せるスタイルで描かれています。
大使が長官への書簡をしたためているところ
役人が福州長官に見せると、一瞥して「見難い」と書簡が捨てられたところ。これが3度繰り返されます。

福州上陸2
            福州での空海代筆その2(弘法大師行状絵詞)
大使の依頼を受けて空海が「代筆」します。
⑤ その書簡を読んだ福州長官は、書の主を「文人」認め、態度を一変させます。

この時に空海が代筆したのが「大使のために福州の観察使に与うる書」です。
   「賀能(藤原葛野麻呂の別名)啓す」からはじまるこの文章を要約しておきます。

①皇帝に対して、自分たちの入唐渡海がいかに困難なもので、国書や印を失ったこと伝え
②その上で昔から中国と日本が友好関係にあるのに。役人達が自分たちを疑うの何ごとか
③いまさら国書や印符などにこだわる必要はないほど両国は心が通じあっているはずだ。
④しかし、役人である以上はその職務に忠実であらねばならず、その対応も仕方ない
⑤それにしても自分たちを海中におくのは何ごとと攻め、まだ天子のの徳酒を飲んでもいないのに、このような仕打ちをうけるいわれはない
⑥自分たちを長安へ導くことが、すべての人々を皇帝の徳になびかせることではないか

 論理的に、しかも四六駢儷体の美文で、韻を踏んで書かれています。しかも、形式だけではなく、内容的にも「文選」や孔子や孟子の教え、老子の道教の教えなどが、いたるところにちりばめられています。名文とされる由縁です。
   空海は讃岐から平城京にのぼった時に、母の弟・阿刀大足に儒学知識や漢文については、教え込まれたとされます。親王の家庭教師を務めた阿刀大足によって磨かれた素養があったと研究者は考えています。この書を見た長官の閻済美は篤きます。科挙試験を経て、文章でもって出世するのが中国の高級官僚たちですが、これだけの文章をかけるだけの者はいないと思ったと従来の書は評します。この書によって、中国側の対応は一変します。「海賊船」との疑いを捨て、日本からの遣唐使船と再認識し、相応しい仮宿舎を提供します。同時に空海の評価が高まったとされるエピソードです。

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福州に建てられた仮宿舎(高野空海行状図画)

赤字錦を張った仮屋が急ぎ建てられます。束帯で威儀を正した大使と副詞、その後の仮屋には従者達が控えます。国の使者らしい威厳を取り戻します。

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大使達を迎える福州長官(弘法大師行状絵詞)
その向かいに福州長官(監察使)が座し、その前を着替えの衣装や食事が運ばれて行きます。正面に座るのが空海です。まるで、空海に謁見する臣下のような構図です。空海がカリスマ化される要素がふんだんに盛り込まれています。
       
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遣唐使仮屋周辺の福州の人々

日本からの遣唐使がやって来たというので、物見高い人々が集まってきます。
荷駄を運ぶ人や、物売りが行き交います。真ん中のでっぷりと肥えた長者は、モノ読みの口上に耳を傾けているようです。こうして、長安へ遣唐使到着の知らせが出され、それに応じて長安からの迎えの使者がやってくることになります。それは約1ヶ月後のことになります。それまで、一行は福州泊です。
ところが発表された長安入京組名簿の中に、空海の名前がありません。長安に行けないと、入唐求法の意味がなくなります。そこで空海は、長安行きの一行に、自分も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」を提出します。

入京嘆願書1

「福州の観察使に請うて入京する啓」
福州の観察使に請うて入京する啓

 「日本留学の沙門空海、敬す」という文で始まるこの文章を、要約すると次のようになります。
①空海が20年の長期留学僧に選ばれるようになった経緯
②長安への道が閉ざされようとしていることへの思い
③観察使へ上京メンバーに加えてもらえるようにとの伏しての願い
空海は、福州で次の2つの文章を作っています。
A 大使に替わって書かれた「大使のために福州の観察使に与うる書」
B 長安行きの一行に空海の名前がなかったので、空海も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」
この2通は『性霊集』巻5に収録されています。前者を以下に全文載せておきます。

「大使のために福州の観察使に与うる書」
                        
「大使のために福州の観察使に与うる書」NO1

「大使のために福州の観察使に与うる書」2
「大使のために福州の観察使に与うる書」3

「大使のために福州の観察使に与うる書」5

「大使のために福州の観察使に与うる書」6

ここからは、福州でのピンチを空海は自らの書と漢文作成能力や語学力で救ったという印象を受ける記述になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」

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