前回はインドのシヴァ神の化身だった大黒天が、日本にやって来て「打出の小槌と俵」をアイテムに加えることで富貴のシンボルとして信仰されるようになるとともに、日本神話の大国主神と混淆していく過程をみてきました。今回は、大黒天のその後の発展過程を見ていくことにします。 テキストは「切 旦 日本における大黒天の変容について 東アジア文化交渉研究 第13号 2020年」です。

室町時代になると、打出の小槌を持ち、俵の上に乗る日本独自の大黒天は、盛んに信仰されるようになります。
そして室町時代末期に七福神が考え出されると、大黒天はそのメンバーに仲間入りします。夷・大黒天・毘沙門天・弁才天・福禄寿・寿老人・布袋の七つを、七福神といいます。福禄寿と寿老人は同じものであるので、このどちらかのかわりに吉祥天を加えることもありました。
七福人に仲間入りした大黒天
大黒天の流行の中から新たに登場してくるのが三面大黒天と勝軍大黒天です。
三面大黒天は、大黒天・弁才天・毘沙門天を合体させて三面六胃像になります。三面大黒天の持ち物は、一定してないようですが、延暦寺のものは俵に乗り、その中面は大黒天で剣と宝珠を持ち、左面は弁才天で鍵と鎌を持ち、右面は毘沙門天で鉾と宝棒を持っています。まずは、この登場の背景について見ておきましょう。
大黒天は『仁王経』弁才天は『金光明経』毘沙門天は『法華経』
つまり、この三天を祀ることは護国の三部経を信仰することになるとされたのです。三面大黒天を祀ることは三部卿信仰にもつながることになります。この言い伝えを拠り処にして、三面大黒天は成立したと研究者は考えています。


こうして比叡山で登場した三面大黑天は、今までは黒くて怖い顔から、次第に柔和な親しみやすい面相に変化していきます。蓮の葉の上に立っていた木像も、俵の上に載せられるようになります。
三面大黒天へと変身することによって、新たな「流行神」として、京都の人々に受け入れられて大流行します。文化の中心である京都での流行は、地方に伝播していきます。こうして、比叡山で信仰されていた大黒天が、三面大黑天に変身することで、全国的デビューを果たしたことになります。それは室町末期の風流や流行神の時代背景の中でのことのようです。

こうして誕生した三面大黒天のその後を見ておきましょう。
室町末期に七福神がグループとしてデビューし、大黒天はそのメンバーに迎え入れられます。そして、七福人の人気が高まるにつれて、大黑神の認知度も上昇し、より多くの人々に信仰されるようになります。この上昇気流が、三面大黒天という新たな大黒天を生み出したことを押さえておきます。大黒天信仰が盛んなのを見た延暦寺の僧は、全く新しい民衆のニーズにあった大黒天をつくって、民衆の信仰を得ようとします。それだけの柔軟性が比叡山にはあったことになります。
勝軍大黒天(目黒区大園寺)
三面大黒天と同時に考案されたのが勝軍大黒天のようです。
勝軍大黒天は黒い唐風の甲冑をまとい、左手に金嚢、右手に宝棒を持ち、火焔を背負って、臼の上に右足を垂らして座っています。臼に座っているのが勝軍大黒天がポイントのようです。臼は脱穀や精白を行うための道具で、精白をした米を入れる容器です。俵と臼は密接につながっています。俵に乗る大黒天の影響を受けて、勝軍大黒天は臼に座わる姿で登場したようです。
比叡山延暦寺大黒堂の勝軍大黒天は、左手に金嚢、右手に宝棒を持ち、火焔を背負い、額上に如意宝珠の付いた宝冠を戴き、身に甲をまとい、自の上に左足を垂らしています。延暦寺本坊の勝軍大黒天は、右手に手三量貢を持ち、左手に宝棒を持ち、宝冠をかぶって、臼の上に右足を垂らして座っています。
.東京都目黒区大園寺の勝軍大黒天は、左手に金嚢を持ち、右手に宝棒を持ち、火焔を背負い、甲冑をまとい、臼の上に左足を垂らして座っています。


京都大将軍八神社の大将軍神
勝軍大黒天の成立の背景を研究者は次のように考えています。
①延暦寺の食厨の神として、片手に金嚢を持ち、片足を垂らして小さな台の上に座る大黒天②大将軍八神社にある大将軍神
①②を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天であるというのです。大将軍神像は、衣冠束帯の座像と立像が二十二体、武装の座像と半珈像が四十三体あります。


武装の半珈像(京都の大将軍八神社)
武装の半珈像の中には、右手に剣を持ち、左手の人差し指と中指を揃え立てて印を結び、唐風の甲冑をまとい、岩座の上に左足を垂らして座ったものもあります。このような大将軍神半珈像と、『南海奇帰内法伝』に出てくる大黒天半珈像を合体させて生まれたのが、勝軍大黒天と研究者は考えています。勝軍大黒天の勝軍は、大将軍神の将軍と、音も同じです。「大黒天+大将軍神」=勝(将)軍大黒天
ということになるというのです。そうだとすれば勝(将)軍大黒天の甲冑は、大将軍神から貰ったものになります。
江戸時代になると大黒天はさらに人気が高まり、様々な種類の大黒天像が造られます。
江戸期の『仏像図彙』には、次の六種の大黒天が載せられています。
「摩訶迦羅大黒、比丘大黒、王子迦羅大黒、夜叉大黒、摩訶迦羅大黒女、信陀大黒」の六種です。これについては、また別の機会に
以上をまとめておくと
①大黒天はシバ神の化身として仏教の守護神に取り入れられ、軍神・戦闘神、富貴福禄の神として祭られるようになった。
②日本に伝わってきた大黒天は「富貴福禄」が信仰の中心で、軍神・戦闘神の部分は弱まった。
④大黒天の持っていた財貨を入れる小さな嚢は大袋になり、それを背負うために立姿になった。
⑤鎌倉中期になると、大きな袋を背負う大黒天は、打出の小槌を持ち俵の上に立つ姿へと変化していく。
⑥知名度が上がった大黒天は、大きな袋を背負った大国主神と名前も似ているので混交し、同一視されるようになった。
⑦室町時代になって七福人の仲間入りすることで流行神の性格を帯びるようになり、新たな大黑新が生まれてくる
⑧比叡山では三面大黑天や勝(将)軍大黒天が登場し、京都の庶民の流行神となる。
⑨それが各地に伝播し、江戸時代になると大黒天ファミリー版の六種大黒も登場する
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献




