瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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倭名類聚抄

「和名抄」は正式には「倭名類聚抄」と云うようです。倭は日本、名は品物の名前、物の名前のことで、「類」は分類の類、「聚(衆)」はあつめるという意味です。日本にいろんなものがある、その名前について分類して説明する、今風に云うとジャンル別の百科事典ということになるのでしょうか。
 これが書かれたのは、平安時代の半ばの承平年間の頃です。ちょうど、平将門が東国で反乱を起こし、西の方では藤原純友が反乱を起こすという承平天慶の乱のころになります。そのころ都にいた源順が、わが国最初の百科事典を作った、これが『和名抄』です。
 この中に全国にどんな地名があるのかも書かれていて、その中に讃岐の国のことも書かれています。
まず讃岐の国というのは都からどのくらい離れている、行くのにどの位かかるなんていうことから始まって、次に郡はどういうものがある、国府はどこにあるかまで記されています。便利なことに、いろんな地名・品物の名前に読み仮名が振ってあります。そして地名にも読み仮名があります。ただこの読み仮名は、万葉仮名の表記でなので、なかなか読めません。
和名抄 東讃部
近世の倭名類聚抄の讃岐

 一番最初は大内(おおうち)郡と読みます。読み仮名は「於布知」と表記されていました。そのまま読むとオフチだからオオチとなります。旧大内町は、平安時代以来の呼び名を踏襲していたことになります。郡の中身をみると引田・白鳥(シラトリでなくてシロトリ)、入野・与泰の4郷があったことが分かります。
 次の寒川郡は「サムカワ」と書いています。当時は濁点がなく濁りは表現できないので「サンガワ」でなく「サムカワ」とよむことになります。三木はミキなので読み仮名はありません。山田も、濁音なしの「ヤマタ」です。

和名抄 讃岐西部
   和名抄の香川郡以西の部分 郡名の下に郷名が記される

香川郡の中に、大野・井原・多配とあります。多配(タヘ)は、見慣れない地名ですが現在の多肥のことです。大田は、今は点が入って太田です。次の「笑原」問題です。「笑=野」で野原郷になります。野原郷は、今の高松市街地になります。坂田・成相(合)・河辺・ナカツマ・イイダ・モモナミ・カサオとなっています。
阿野(アヤ)郡は、糸偏の綾、綾絹の綾と読むと記しています。
次に鵜足(ウタ)、最初はウタリと呼んでいのが、後にウタと呼ばれるようになります。那珂ナカ・多度タド・三野ミノ、最後は刈田ですが、これは「カッタ」とつまっていたようです。
このうち刈田郡については平安時代の終わりごろ、十二世紀の半ばには豊田トヨタと呼ばれるようになりますています。トョダと濁っていたかもしれません。なぜ刈田が豊田に変わったのかわかりません。
 ここからは讃岐に11の郡があり、その郡の下にどんな郷があったのかが分かります。また、当時の表記も記されています。今回は和名抄に見える大内・寒川郡の郷名を見ていきたいと思います。テキストは 「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」です。

 和名抄 東讃部
この近世復刻版で、大内郡を見てみましょう。
「讃岐国第百二十二」
下に大内郡と郡名があり、その下に郷名と古名表記が記されています。振り仮名が「オホチ」と振ってあります。大内郡は、ローマ字表記もOCHIでした。これが奈良時代以来の読み方のようです。地元では「オオウチ」と呼ぶ人たちは少ないようです。

古代讃岐郡名

 大内郡には四つの郷名が記されています。
①引田、これは今の読みと全く同じで、比介多(ヒケタ)と読みます。
②白鳥、白鳥はシラトリではありません。之呂止利 (シロトリ)です。高徳線の駅の名前も白鳥(シロトリ)です。
③與泰(ヨタイ:与泰)で、旧大内町の与田のことです。
④入野(ニュウノ)と読んでいますが、丹生のニュウノです。
④の入野は爾布乃也(ニュウノヤ)と読んでいたようです。和名抄は都の役人が作った百科事典です。現地でどう読んでいたか、読み間違いしている所がたくさんあります。例えば、明治になって作られた国土地理院の地図も、漢字表記の分からない現地地名を適当な漢字に技官が置き換えて作られています。北アルプスの白馬岳も、地元の人たちは、田植えの代掻きの時期を教えてくれる山として、代馬(しろうま)と呼んでいたのを、役人は白馬(しろうま)と表記しました。白馬と表記されると駅名は、白馬(はくば)とよばれるようになります。ここから分かることは、地名は時代とともに変化していくことです。
讃岐の古代郡名2 和名抄
古代讃岐の郡と郷

次に寒川郡を見ておきましょう。
⑤難破(ナニワ)というのは、今はありません。後でみることにします。
⑥石田、伊之多(イシダ)と書いてありますが、石田高校がある石田のことです。
⑦長尾(奈賀乎)は今も変わっていません。
⑧造田は爽敗(ソウタ)と書いてありますが、地元では、ゾウダと濁って呼びます。
⑨鴨部・神前(加無佐木)と続いて、一番下に多知とありますが、多和の間違いのようです。

和名抄は、時代を経て何度も写本されたので、写し間違いがおきます。こんなふうに見ていくと、讃岐全体で90余りの郷が出てきます。
それでは、郷の大きさはどうだったのでしょうか。それが実感できる地図に出会いましたので紹介します。
讃岐の古代郡名2東讃jpg
古代大内・寒川の郷と位置と大きさ
この地図を見ると、郷の大きさがは大小様々なことが分かります。研究者は郷を次のような3つのタイプに分類します。
1 類型Ⅰ 郡の中心となる郷 神崎郷
2 類衛2 郡の周辺部となる郷          田和郷・石田郷・造田郷
3 類家3 郡の外縁部となる郷          引田郷・白鳥郷・与泰郷・入野郷・難破郷

郷の大きさは、類型ⅠやⅡは小さく小学校の校区程度、類型Ⅲになると旧引田町、旧白鳥町、旧大内町など旧町の広さほどもあったことが分かります。
郷は、どのようにして成立したのでしょうか?
 律令体制が始まった奈良時代の初めは、血縁関係のある一族で「戸」を組織しました。戸は、現在のような小家族制ではなく、百人を越えるような大家族制で、戸主を中心に何世代もの一族がひとつの戸籍に入れられました。その戸籍に書かれた人間を、男が何人、女が何人、何才の人間が何人というぐあいに数え上げ、水田を男はどれだけ、女はどれだけというぐあいに戸毎に口分田が支給されます。つまり、口分田は家毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されたわけです。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。つまり班田主従の法というのは、戸単位に戸籍を作り、土地を分けたり税を集めたりするシステムでした。地方役所としては、一族や地域の人を束ねる役の人が欲しいんで、五十戸そろったら、それで一つの郷とします。郷は音では「ごう」ですが、訓では実際に「さと」と読みます。つまりそれが自分の村だということになります。こうして、だんだん人が増えてきて、五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。そして、郷長が置かれます
  荒っぽい説明ですが、これで郡の中心になる郷は小さく、周辺部にある郷は大きいことの理由が推測できます。つまり、50戸になったら新しく郷を新設するということは、類型1の郷は早くから開発が進み人口が多く、早い時点で50戸に到達したのでエリアが狭い。それに対して、類型Ⅲは、周縁部で人口が少なく50戸が広い範囲でないと確保できず広くなった。そして、その後も人口増加が見られなかったために新たな郷の分離独立はなかった、と云えそうです。そういう目で、ついでに西讃も見てみましょう。
讃岐古代郡郷地図 西讃
古代讃岐の郷 西讃

類型Ⅰの郷は、綾北平野・丸亀平野・三豊平野に集中し、そのエリアもおしなべて小型なものが「押しくら饅頭」をしているように並びます。そして、丘陵部に類型Ⅱ、さらに阿讃山脈の麓に広い面積をもつ郷が、どーんどーんと並びます。これは、それぞれの郷の形成史を物語っているようです。
もう一度、引田、白鳥、入野、与泰という大内郡の4つの郷を見ておきましょう。この4つの郷が中世にはどうなっていくのかを史料で見てみましょう
⑦[安楽寿院古文書]正応四年三月二十八日亀山上皇書状案
 浄金剛院領讃岐国大内庄内 白馬(鳥)・引田
⑦の「安楽寿院古文書」は鎌倉時代のもので、「浄金剛院領讃岐国大内庄内白馬(馬は鳥の誤写)・引田」とあります。ここからは大内郡全体が「大内荘」という浄金剛院の荘園になって、その中に白鳥、引田という所が含まれていたことが分かります。浄金剛院は、13世紀中頃(建長年間)に、後嵯峨上皇が建立し、西山派祖証空の弟子道観証慧を開山させた寺院で、浄金剛院流(または嵯峨流)の本山として多くの寺領を持っていたようです。
⑧[『讃岐志』所収文書】観応三年六月十九日足利義詮御判御教書案
 浄金剛院領讃岐国大内庄内白鳥・与田・入野三箇郷事
⑧の「讃岐志」は、江戸時代の地誌で、ここに収められた室町幕府三代将軍の足利義詮の教書案の中にも「浄金剛院領讃岐国大内庄内白鳥・与田・入野三箇郷事」とあります。⑦の史料と併せると大内荘は引田、白鳥、入野、与田の四箇郷のすべてを含んでいたことが分かります。つまり、四か郷全部が含んだまま大内郡は一つの荘園になったようです。巨大荘園大内荘の成立です。ひとつの郡がそのまま荘園になることを郡荘と呼びます。郡荘の成立自体は、全国的に見ると珍しいことではなく、よく起きているようです。一般的に云えるのは、都から離れた所ほど、大きな荘園ができています。つまり、中央政府の目が行き届かない所に巨大な荘園が生まれる傾向があったようです。律令制度の根幹である公地公民の原則を無視して、私有地化していくので目につきやすい中央部よりも、外縁部の方が都合が良かったのかもしれません。
 これを讃岐一国のレベルで見ると、郡庄と呼ばれる大きな荘園の出現は、大内荘のように讃岐の国のいちばん端の所で起きることになるようです。讃岐国府は坂出府中にありました。国司は国府にいて、讃岐を見ています。国司からすると国有地が荘園(私有地)になってしまうと税が入らなくなりますから、なるべく私有地(荘園立荘)の増加は抑えたいのが職務上の立場です。そうすると、国司の目の届く国府周辺を避けて、国府から遠い所で荘園化か進みます。そのため讃岐の荘園化も、中央部と外縁部では地域的な格差があったと研究者は考えています。つまり、国府周辺が最先進地域で、その周りに中間地域があって、その先に辺境地域があるという意識が国司にはあったと研究者は考えているようです。
今度は寒川郡の長尾・造田の立荘文書を見てみましょう。
⑨[『伏見宮御記録』所収文書 承元二年(1208)閏四月十日後鳥羽院庁下文案
 院庁下す、讃岐国在庁官人等。
  早く従二位藤原朝臣兼子寄文の状に任せ、使者国使相共に四至を堺し膀示を打ち、永く最勝四天王院領と為すべし、管寒河郡内長尾 造太(造田)両郷の事。
  東は限る、石田並に神崎郷等の堺。
  南は限る、阿波の堺。
  西は限る 井戸郷の堺
  北は限る 志度庄の堺・
意訳変換しておくと
 後鳥羽院庁は、讃岐国の在庁官人に次の命令を下す。
  早急に従二位藤原朝臣兼子寄文の状の通りに、寒河郡内長尾と造太(造田)の両郷について、使者と国使(在庁官人)の立ち会いの下に、境界となる四至膀示を打ち、永く最勝四天王院領の荘園とせよ。境界線を打つ四至は次の通りである
  東は限る、石田並神崎郷等の境。
  南は限る、阿波国の境。
  西は限る 井戸郷の境
  北は限る 志度庄の境
⑨の「伏見宮御記録」は、かつての宮家、伏見宮家関係の記録です。伏見宮家は音楽の方の家元で、楽譜の裏側にこの文書が残っていたようです。鎌倉時代初めのもので承元二年(1208)、後鳥羽院庁の命が「寒河郡内長尾。造太両郷の事」とあって、大内郡の長尾と造田の両郷を上皇の御願寺の荘園にするという命令を出したものです。これが旧長尾町の町域となったようです。長尾、造田は、同じ時に最勝四天王院領となった、いわば双子の荘園と言えそうです。
この荘園の東西南北の境界を、地図で確認しながら見ておきましょう。

讃岐の古代郡名2東讃jpg
立荘文書から、周辺にあった荘園や郷名が分かる
東は限る、石田並に神崎郷等の境。 
  造田と長尾の東は石田と神前です。
南は限る、阿波の境
  長尾の一番南は阿波に接しています。
西は限る、井戸郷の境
  井戸郷は三木町の一番東側になります。
北は限る 志度荘の境、
ここからは、造田・長尾の周囲には、それをとりこむように荘園や郷が鎌倉時代の初期(1208年)には、できあかっていたことが分かります。
寒川郡の郷名で、現在は行方不明なのが難破郷です。どこへ行ったのでしょうか?
手がかりになるのは「安楽寿院古文書」康治二年八月十九日太政官牒案(図1)には富田荘のエリアが次のように記されます。
字富田庄、讃岐国寒(川字脱)郡内にあり

富田荘の四至を見ておきましょう。
東は限る、大内郡境。確かに大川町の東側は大内郡旧大内町です。
西は限る、石田郷内東寄り艮の角、西は船木河並に石崎南大路の南泉の畔。
南は限る、阿波国境。
北は限る、多和奇(崎)、神前、雨堺山の峰。
これは多和の崎と神前の二つに接しているという意味で、具体的には、雨堺山の峰が境になるようです。雨堺の山は、雨滝山のことでしょう。雨滝山の分水嶺が荘園の境界となったようです。ここからは、富田荘が、かつての難破郷だったことがうかがえます。

ここで、研究者は雨滝山を中心に、周辺の郷や荘園の位置を確認していきます。

東讃 雨瀧山遺跡群
雨滝山遺跡とその周辺

津田の松原から南側を見ると、目の前にある山が雨滝山です。雨滝山を南側へ抜けると、寒川町の神前に出ます。先ほど見たように、かつての大内郡は、引田、白鳥、入野、与田で、だいたい地名が残っていました。これが一郡=一荘の大内庄という大きな庄名になりました。そのため大内郡は消滅しす。そこへ、「長尾、造田荘」と、富田庄の立荘の際にでてきた四至膀示の地名を入れて研究者が作成したのが下の地図になるようです。

讃岐東讃の荘園
中世の大内・寒川郡の郷と荘園

 例えば先ほど長尾・造田の立荘の際に、東の堺となった井戸郷というのは、左下の所に井戸と見えている所です。ここが三木町の井戸です。北側が志度、それから鴨部郷、神前、石田というぐあいに出てきます。そうすると、この地図の中にも難破郷が出てきません。立荘の際に出てくるのは富田庄です。難破郷が、どこかの時点で富田荘になったようです。旧大川町の富田には、茶臼山古墳という巨大な前方後円墳があります。古墳時代にはこのエリアの中心であった所で難破郷とよばれていたのです。現在の富田に、元の難破があったはずです。
どうして難破という地名が消えて、富田にすり変わったのでしょうか。これは、現在のところ分からないようです。

神崎郷も、後には荘園になって興福寺へ寄付されます。長尾も造田も荘園になりました。結局このあたりで荘園にならなかったのは、鴨部郷と石田郷の二か所だけです。鴨部郷は鴨部川の中流域です。その上流に石田郷はありました。
  こうしてみると、かつての東讃八町域は、ほとんどが荘園になってしまったということになります。べつの言い方をすると、古代の郷が中世には荘園になり、そして東讃8町として姿を変えて最近まで存続していたと云えるのかも知れません。
讃岐古代郡郷地図

「辺境変革説」という考え方があります。
中央のコントロールや統制の効かない辺境のカオスの中から、つぎの時代のスタイルが生み出されるという考えです。大内・寒川は国府のある府中から見れば「讃岐の辺境」だったかもしれません。しかし、京都を視点に見れば、寒川郡は南海道や瀬戸内海航路の入口にも当たります。もともと讃岐という意識よりも、阿波や紀伊・熊野との一体感の方が強く、海に向かっての指向が強かったようです。それが中央寺社の寺領となることで、国府のコントロールを離れて、自立性を一層強め、いち早く中世という時代に入っていったのが大内・寒川地域であるという見方もできます。
 それは以前にお話しした与田寺の増吽に、象徴的に現れているように私には思えます。
 与田山の熊野権現勧進由来などからは、南北朝初期には熊野権現が勧請されていたことがうかがえます。周囲を見ると、南朝方について活躍した備中児島の佐々木信胤が小豆島を占領し、蓮華寺に龍野権現を勧請しているのもこの時期です。背景には「瀬戸内海へ進出する熊野水軍 + 熊野本社の社領である児島に勧進された新熊野(五流修験)」が考えられます。熊野行者たちの活発な交易活動と布教活動が展開されていた時期です。その中で南北朝時代の動乱の中で、熊野が南朝の拠点となったため、熊野権現を勧進した拠点地も南朝方として機能するようになります。つまり
熊野本社 → 讃岐与田寺 → 志度寺・小豆島 → 備中児島 → 塩飽本島 → 芸予大三島

という熊野水軍と熊野行者の活動ルートが想定できます。このルート上で引田湊を外港とする与田山(大内郡)は、南朝や熊野方にとっては最重要拠点であったことが推測できます。そこに熊野権現が勧進され、熊野の拠点地の一つとされたとしておきましょう。そして、引田を拠点に東讃地域への勢力拡大を図っていきます。同時に、ここは熊野勢力にとっては、瀬戸内海の入口にあたります。その拠点確保の先兵となったのが熊野行者たちで、そのボスが増吽だったと私は考えています。どちらにしても、大内郡の与田寺や水主神社が、活発な活動が展開できたのは、早くから荘園化され国府の管理外にあったことがひとつの要因だったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「田中健二 中世の讃岐-郡の変遷-    香川県文書館紀要創刊号 1997年」
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正保元年(1644)に幕府は、各藩に「正保国絵図」の制作を命じます。慶安初年1648)にかけて国絵図が、国毎に作られ幕府に提出されます。ちなみに讃岐国の担当大名は、松平讃岐守頼重でした。
 この時期の讃岐国は、寛永17年(1640)に生駒高俊が封地の讃岐国を収公され、翌18年に西讃岐五万石の領主として山崎家治が、翌19年に松平頼重が讃岐高松12万石の領主として移封を命じられています。生駒藩一国体制から、高松藩と丸亀藩の二藩体制への移行期でした。山崎藩・藩主家治は、九亀城を居城として、廃城となっていた丸亀城の修築を始めます。つまり正保国絵図には、生駒家が讃岐一国の領主であった時期の讃岐国開発の最終的な姿が、描かれていると研究者は考えているようです。
 それでは引田はどう描かれているのでしょうか。
まずは「正保国絵図」(国立公文書館)の大内郡の様子を見てみましょう。
引田 大内郡 正保国絵図
①古城山(引田城跡)の背後の入江には引田濱があります。
②馬宿川の河口と、馬宿村には舟番所が置かれています。
③遠見新番所も、後から設置されたようです。
④高松・阿波街道が引田濱を通過しており、西に向かうと大坂峠を経て阿波へ
⑤東には白鳥を経て、高松へ
⑥引田濱の注記には次のように記されています。
「是より庵治へ七里二十三町 磯より沖の舟路まで十七町 西北風に船掛かりよし
ここからは引田浦が後背地や街道に面して、交易湊として栄える地理的な条件を持っていたことがうかがえます。何より、海に開けた港があり、讃岐では最も大坂に近い所だったのです。生駒氏が讃岐にやって来たときに、最初の城を構えようとしたのも納得がいきます。生駒氏の引田城造営については、以前にもお話ししましたので、今回は別の視点から引田城下を見ていくことにします。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
 絵図をもう少し拡大して見ましょう。
「正保国絵図」の引田城跡の周辺部の拡大図です。
引田 小海川流路変更

この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①中央左手に「古城山」と記入されている山が引田城跡。
②右上から流下している小海川が「古城山」の西側を流れ海に流れ込んでいる
③その河口西側に安戸池がある
④引田濱を高松・阿波街道が通過している
⑤高松街道の小海川には橋が架かっている
⑥橋の東側の高松街道沿いに●が2つついている。これが一里塚の印であった。
下図は、約200年後の「天保国絵図 讃岐国」の大内郡のエリアを切り取ったものです。
引田 大内郡 天保国絵図

天保国絵図は、幕府の命により作られた最後の国絵図になるようです。完成は天保9年(1838)とされるので、さきほどの正保国絵図の約二百年後の引田が描かれていることになります。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に閲覧可能です。

  画面を引田にズームアップしていきます。
引田 大内郡 天保国絵図拡大

まず気づくのは、①小海川の流路の変化です。正保国絵図では、古城山の西麓を通り、安戸池の西側で海へ注いでいました。ところが、天保国絵図では、小海川は、古城山の東麓を流れて海に注いでいます。安戸池側には流れていません。現在の河道と同じです。
 また、旧河道跡には⑤「塩濱」(塩浜)と記されています。「正保国絵図」後に、小海川の河道は変更されていることが分かります。つまり、江戸時代に小海川の川筋は付け替えられたのです。
その付け替えが行われたのは、いつのことなのでしょうか。
その資料として研究者は、ほぼ同じ時期に描かれたとされる2つの絵図を比較します。

引田 小海川流路変更2
①共通するのは、引田城(城山)と誉田八幡が鎮座する宮山と引田浦の間は海として描かれている②右の「高松国絵図」では、小海川の河道は宮山の西側を通り「安穏池」(安戸池)は、川の一部として描かれています。つまり、小海川の河道は安戸池側にあったことを示しています。ここからは、この二つの絵図が書かれた時には、小海川は安戸池側に流れていたことが分かります。

【図5】は引田の「地理的環境説明図」(木下晴一氏の作成)です。
引田の地理的環境

流路変更前の小海川の河道を、上図でたどってみましょう。
①小海川は、内陸部の条里型地割と山地のエリアでは、真っ直ぐに北へ流れてきます。
②それが潟湖跡地にはいると蛇行し、
③海岸部の砂嘴・浜堤に沿って両方へ流れを変え、
④誉田八幡の南部を経て、城山西麓(安戸池)海へ注いでいた。
その復元図を見てみましょう。
HPTIMAGE.jpg引田

【天保国絵図】にあった塩浜は、城山西麓のかつての干潟に当たるようです。
【図4】のふたつの絵図では、城山と宮山との間は海で隔たれていました。そして、城山と誉田八幡との間もかつての潟で、満潮時には海水が流入していたようです。この場所は、一番最初に見た「正保国絵図」では陸続きとして描かれていたので、それまでに埋積されたのでしょう。
引田城下町復元図
それでは、小海川の付け替えの目的は、どこにあったのでしょうか
① 小海川の現在の河道は、古川に向かって低くなる方向には流れず、最も高いところを流れている。
②これは河道を入為的に固定していることを示す。
③北側の丘陵の裾部に沿って直線状に流れ、砂嘴と西から延びる舌状の丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいる。
④狭い部分から下流の河道左岸側には高さは低いが幅広の堤防が築かれている。
以上のように、小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に海に排水することを目指したもので、小海川のルート変更を行う事で、砂嘴上にある引田の水害防止策がとられたと研究者は考えているようです。
1引田城3


その時期は現在の所は、正保国絵図が作成された後から、天保国絵図の作成までの200年間の間としかいえないようです。生駒時代に行われたものではないようです。
5引田unnamed (1)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)


桶狭間の戦いが行われて数年後の永禄九(1566)年、備中新見から京都までの移動記録があります。「備中国新見庄使入足日記」です。高梁川を遡った新見は、京都の東寺の荘園でした。そこでこの荘園と東寺との間には人とモノの行き来があり、それを記録した文書ももたくさん残されています。この文書は新見荘を管理するために派遣されていた役人が、都へ帰ってくるときの旅費計算記録です。だから途中でいくらかかった、どこに泊まっていくらかかったという旅費計算がしてあります。お金が絡むことなので、丁寧に書かれています。しかし、残念ながらそれ以外の記述は何もありません。実に実務的な文書ですが、このコースの中に何故か讃岐が出てくるのです。
 戦国時代の旅費計算書を見てみましょう。
新見庄を出発して高梁川を下って松山、それから高山、それから倉敷、塩飽、引田、兵庫、堺、大坂、守口、枚方、淀、八幡(石清水八幡宮)というルートです。
引田 新見1

永禄九年(1566)備中国新見庄使入足日記
教王護国寺(東寺)文書
永禄九年九月廿一日使日記
廿一日、二日 十六文  新見より松山へ参候、同日休み
廿八日     三文 人夫 高山より舟付迄

 「永禄九年九月廿一日使日記」、これがタイトルのようです。
9月21日に新見を出発しています。歩いての移動ではありません。高梁川の川船で下っていくのです。
高梁川3
廿一日、二日、二日間で十六文、日付の後には費用が書かれます。ここでは松山の宿代のようです。
「新見より松山へ参候、同日休み」
とあります。松山は「備中松山」で今の高梁のことです。ここで休憩のようですです。

高梁川1
高梁と高梁川
どうして松山で休息し、長逗留するのでしょうか。
当時は、松山に備中の国の守護所がありました。そこで、挨拶に上がったようです。守護所関係者に黙って通過というわけにはいかないのでしょう。ちなみに当時の備中守護は京兆家の細川氏で、本家の方の讃岐の宇多津に守護所を構える細川家の分家筋にあたるようです。そのため備中と讃岐の間に開ける備讃瀬戸は、細川氏の支配下にあったことになります。つまり、瀬戸内海の海上交通を細川家は真ん中で押さえることができていました。
備中松山というと、ずいぶん内陸に引っ込んでいるように見えますが、実は高梁川を使っての川船で瀬戸内海につながっていたことが分かります。

高梁川2
廿八日 三文 人夫 高山より舟付迄
「廿八日三文」、これは人夫賃です。荷物を運んでもらってます。
舟付というのは船着場のことです。高山は総社市高山城(幸山城・こうざんじょう)の近くにあった川港のようです。標高162mの山城からはゆっくりと流れ下る高梁川は眼下に見えます。重要輸送ルートである高梁川防備の戦略的な位置にあります。倉敷の手前までやってきたようです。
「廿八日夕、九日朝、四十文、旅籠、舟付迄」。
28日は高山に泊まって、翌日に旅籠をでて船着場に向かい、再び川船で倉敷に向けて下っていきます。

1 塩飽本島
塩飽本島(上が南)

倉敷から塩飽へ
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 
          十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て、高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。高梁川の川船の船賃は書かれていません。
ここまでは、船賃が請求されていないのはどうしてでしょうか?
高梁川は、新見庄の舟で下ってきたようです。鎌倉時代の史料から新見庄には、荘園に所属している水夫がいたことが分かります。カヌーで高梁川を下ると分かるのですが、この川は緩やかな川で初心者クラスでも川下りが楽しめます。特に高梁から下流は瀬もほとんどなく、ゆったりのんびりとした流れです。ここを昔は川船が行き来たことが納得できます。新見・松山・高梁と倉敷は高梁川でつながっていたことがよく分かります。
十文つゝの二人分
というのは二人で移動しているので経費はすべて二人分です。宿賃はどこの宿も十文です。そして150文が倉敷から塩飽までの二人分船賃です。宿代に比べると船賃が高いという気がします。塩飽のどこに着いたのかは何も書かれていません。しかし、当時の様子から考えると本島北側の笠島集落が最有力のようです。

本島笠島
「九月晦日より十月十一日迄、旅寵銭」、
9月29日から10月11日まで、塩飽での長逗留です。
ここで疑問
①なぜ塩飽にやって来たのでしょうか? 
牛窓方面から室津と山陽道沖合航路を進まないのでしょうか?
②なぜ塩飽で11日間も留まるのでしょうか。
①は、倉敷から塩飽への船賃は150文と記されますが、塩飽から次の寄港地までの船賃はありません。ここから先ほどの川船と同じように東寺の持舟を利用したことが考えられます。
本島笠島3

②については
当時は「定期客船」などはないので、商船に便乗させてもらっていました。当時の塩飽諸島は瀬戸内海という交易ハイウエーのサービスエリア的な存在で、出入りする商船が多かったのでしょう。そこに寄港する便のある東寺所属の商船の到着を待っていたのかもしれません。
十二日 十二文    米一升、舟上にて
 同日  五文     はし舟賃
十三日 舟二文    旅篭 引田
十四日  二文    同所    
十五日  二文    同所
   四十二文   米三升五合 たうの浦にて
十六日より十九日迄  同所
十九日 十文     宿賃
廿日より廿四日迄 百六十文   兵後(兵庫)にて旅篭
 壱貫百五十文 しはくより堺迄の舟賃
塩飽(本島)から引田へ
12日になって「舟の上で米を1升買った」とあります。ここから12日、塩飽のどこかの港から出港したことが分かります。
同日12日の「五文 はし舟(端舟)賃」とは、
端舟は、はしけのことのようです。港まで入港できず沖で待つ客船への渡賃が五文のようです。どこに着いたのかは翌日の旅籠代の支払先で分かります。なんと引田です。

引田 新見2
京都に向かうのにどうして引田へ?
  引田は讃岐の東端の港町です。今では香川の「辺境」と陰口をいわれたりしていますが視点を変えて「逆手にとって発想」すると、近畿圏に一番近い港町ということにもなります。そして、背後には古代のハイウエー南海道が通ります。そのため、都と讃岐の往来の一つの拠点が引田でした。
例えば
①平家物語の屋島合戦への義経ルート、
②鎌倉時代の南海流浪記の道範ルート、
など、讃岐への入口は引田です。

siragi
   引田の地理的な重要性について
引田は、南海道と瀬戸内海南航路という陸上交通と海上交通が連結ポイントになっていたようです。讃岐の人が都へ上ろうと思ったら、引田まで行けばいいわけです。そこまで行くのは、自分で歩いいく。これは、ただでいけます。そして引田から舟に乗るのです。宇多津あたりから乗ると、宇多津から引田までの船賃がかかります。だからなるべく東の方へ、東の方へと歩いて行く。そして、引田から乗るというのが中世の「作法」でした。
中世の和船
 「兵庫関雑船納帳」に出てくる引田舟を見てみましょう
当時、兵庫津(神戸港)には、海の関所が設けられていました。これを管理していたのは、東大寺です。後に春日大社、興福寺も加わります。この文書は、東大寺の図書館に残っていたもので、室町時代の終わり頃の文安二年(1455年)のものです。ここには、小さな船についての関税の台帳が載っています。一艘につき一律四五文の関税が課せられています。
『兵庫関雑船納帳』(東大寺図書館所蔵)
(文安二年(一四四五)七月)廿六日(中略)
四十五文 引田 人舟 四十五文 大木五六ハ 人舟 引田
四十五文 引田 四郎二郎    大木ハ五ハ
「人舟」とあるのは、人を運ぶ船、
「大木五十ハ」の「ハ」は一把二把の把だそうです。一束が一把になります。
大木五十把とは、何を運んでいたのでしょうか。
この舟は薪を運んでいたようです。都で使うための薪が、瀬戸内海沿岸の里山で集められ、束にして船で都に運ばれていたのです。木を運ぶ船という意味で木船と呼ばれていたようです。都の貴族達の消費生活は、燃料までもが地方からの物品によって支えられていたことが分かります。日常品が大量に瀬戸内海を通じて流通していたのです。
兵庫北関1
   兵庫北関を通過した舟が一番多い讃岐の港は?
  この表からは宇多津・塩飽・島(小豆島)に続いて、NO4に引田が入っていることが分かります。その数は20艘で、宇多津や塩飽の約半分です。
兵庫湊に入ってきた讃岐船の大きさを港毎に分類したのが下の表です。
兵庫北関2
200石を越える大型船が宇多津や塩飽に多いのに対して、引田は50石未満の小型船の活動に特徴があるようです。
  どんなものが運ばれていたかも見ておきましょう。
兵庫北関3
  積み荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の八〇%にあたります。
ちなみに塩の下に(塩)とあるのは塩の産地名が記入されていたものです。例えば「小豆島百石」と地名が書かれていて「地名指示商品」と研究者は呼んでいるようです。これが塩のことです。塩が作られた地名なので、( )付きで表しています。

中世関東の和船
  関東の中世和船
 こうしてみると讃岐の瀬戸内海港とは「塩の航路」と呼べるような気がしてきます。古代から発展してきた塩田で取れた塩を、いろいろな港の舟が運んでいたことが分かります。塩を中心に運ぶ「塩輸送船団」もあったようです。それは片(潟)本(古高松)・庵治・野原(高松)の船で、塩専門にしており、資本力もあったので、持船も比較的大きかったようです。
 話を引田に戻すと、引田にも中世から塩田があったので、地元産の塩を運ぶと同時に、周辺の塩も運んでいたようです。こうして引田湊は、港湾管理者としての役割を担っていた誉田八幡神社を中心に、商業資本の蓄積を進めていきます。この旅行者達がやってきてから20年後には、秀吉のもとで讃岐領主となった生駒親正は、この引田に最初の城を構えます。それは、東讃一の繁栄ぶりを見せていた湊の経済力を見抜いたからだと私は考えています。
   引田で長居しすぎたようです。結局10月12日に塩飽からやってきて、19日まで引田に逗留していたようです。引田の交易上の重要性を再確認して、今日はこれくらいしにします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 県立文書館紀要3号(1999年)

                          

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