瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:引田城

 
正保元年(1644)に幕府は、各藩に「正保国絵図」の制作を命じます。慶安初年1648)にかけて国絵図が、国毎に作られ幕府に提出されます。ちなみに讃岐国の担当大名は、松平讃岐守頼重でした。
 この時期の讃岐国は、寛永17年(1640)に生駒高俊が封地の讃岐国を収公され、翌18年に西讃岐五万石の領主として山崎家治が、翌19年に松平頼重が讃岐高松12万石の領主として移封を命じられています。生駒藩一国体制から、高松藩と丸亀藩の二藩体制への移行期でした。山崎藩・藩主家治は、九亀城を居城として、廃城となっていた丸亀城の修築を始めます。つまり正保国絵図には、生駒家が讃岐一国の領主であった時期の讃岐国開発の最終的な姿が、描かれていると研究者は考えているようです。
 それでは引田はどう描かれているのでしょうか。
まずは「正保国絵図」(国立公文書館)の大内郡の様子を見てみましょう。
引田 大内郡 正保国絵図
①古城山(引田城跡)の背後の入江には引田濱があります。
②馬宿川の河口と、馬宿村には舟番所が置かれています。
③遠見新番所も、後から設置されたようです。
④高松・阿波街道が引田濱を通過しており、西に向かうと大坂峠を経て阿波へ
⑤東には白鳥を経て、高松へ
⑥引田濱の注記には次のように記されています。
「是より庵治へ七里二十三町 磯より沖の舟路まで十七町 西北風に船掛かりよし
ここからは引田浦が後背地や街道に面して、交易湊として栄える地理的な条件を持っていたことがうかがえます。何より、海に開けた港があり、讃岐では最も大坂に近い所だったのです。生駒氏が讃岐にやって来たときに、最初の城を構えようとしたのも納得がいきます。生駒氏の引田城造営については、以前にもお話ししましたので、今回は別の視点から引田城下を見ていくことにします。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
 絵図をもう少し拡大して見ましょう。
「正保国絵図」の引田城跡の周辺部の拡大図です。
引田 小海川流路変更

この絵図から読み取れることを挙げておきます。
①中央左手に「古城山」と記入されている山が引田城跡。
②右上から流下している小海川が「古城山」の西側を流れ海に流れ込んでいる
③その河口西側に安戸池がある
④引田濱を高松・阿波街道が通過している
⑤高松街道の小海川には橋が架かっている
⑥橋の東側の高松街道沿いに●が2つついている。これが一里塚の印であった。
下図は、約200年後の「天保国絵図 讃岐国」の大内郡のエリアを切り取ったものです。
引田 大内郡 天保国絵図

天保国絵図は、幕府の命により作られた最後の国絵図になるようです。完成は天保9年(1838)とされるので、さきほどの正保国絵図の約二百年後の引田が描かれていることになります。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に閲覧可能です。

  画面を引田にズームアップしていきます。
引田 大内郡 天保国絵図拡大

まず気づくのは、①小海川の流路の変化です。正保国絵図では、古城山の西麓を通り、安戸池の西側で海へ注いでいました。ところが、天保国絵図では、小海川は、古城山の東麓を流れて海に注いでいます。安戸池側には流れていません。現在の河道と同じです。
 また、旧河道跡には⑤「塩濱」(塩浜)と記されています。「正保国絵図」後に、小海川の河道は変更されていることが分かります。つまり、江戸時代に小海川の川筋は付け替えられたのです。
その付け替えが行われたのは、いつのことなのでしょうか。
その資料として研究者は、ほぼ同じ時期に描かれたとされる2つの絵図を比較します。

引田 小海川流路変更2
①共通するのは、引田城(城山)と誉田八幡が鎮座する宮山と引田浦の間は海として描かれている②右の「高松国絵図」では、小海川の河道は宮山の西側を通り「安穏池」(安戸池)は、川の一部として描かれています。つまり、小海川の河道は安戸池側にあったことを示しています。ここからは、この二つの絵図が書かれた時には、小海川は安戸池側に流れていたことが分かります。

【図5】は引田の「地理的環境説明図」(木下晴一氏の作成)です。
引田の地理的環境

流路変更前の小海川の河道を、上図でたどってみましょう。
①小海川は、内陸部の条里型地割と山地のエリアでは、真っ直ぐに北へ流れてきます。
②それが潟湖跡地にはいると蛇行し、
③海岸部の砂嘴・浜堤に沿って両方へ流れを変え、
④誉田八幡の南部を経て、城山西麓(安戸池)海へ注いでいた。
その復元図を見てみましょう。
HPTIMAGE.jpg引田

【天保国絵図】にあった塩浜は、城山西麓のかつての干潟に当たるようです。
【図4】のふたつの絵図では、城山と宮山との間は海で隔たれていました。そして、城山と誉田八幡との間もかつての潟で、満潮時には海水が流入していたようです。この場所は、一番最初に見た「正保国絵図」では陸続きとして描かれていたので、それまでに埋積されたのでしょう。
引田城下町復元図
それでは、小海川の付け替えの目的は、どこにあったのでしょうか
① 小海川の現在の河道は、古川に向かって低くなる方向には流れず、最も高いところを流れている。
②これは河道を入為的に固定していることを示す。
③北側の丘陵の裾部に沿って直線状に流れ、砂嘴と西から延びる舌状の丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいる。
④狭い部分から下流の河道左岸側には高さは低いが幅広の堤防が築かれている。
以上のように、小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に海に排水することを目指したもので、小海川のルート変更を行う事で、砂嘴上にある引田の水害防止策がとられたと研究者は考えているようです。
1引田城3


その時期は現在の所は、正保国絵図が作成された後から、天保国絵図の作成までの200年間の間としかいえないようです。生駒時代に行われたものではないようです。
5引田unnamed (1)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
   田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)


5c引田

引田の中世の賑わいぶりや近世の引田城には、これまでも何回かお話ししてきました。今回は、引田の城下町について書かれた論文を見ていきたいと思います。テキストは「木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討 香川県埋蔵物文化材調査センター紀要Ⅶ  1999年」です。

5引田3
近世城下町の特徴について、研究者は次のようなポイントを挙げます。
①兵農分離と商農分離が進められ、城・重臣屋敷・一般武家屋敷・足軽屋敷・寺社・商人町・職人町が綿密な都市計画(町割)によって配置されている。
②同業者を集住させるため「鍛冶町」「大工町」といった町名がある。
③防御要地や城郭弱点に寺町が「要塞」として配置される
④街路幅が狭く、T字路・カギ型・喰違や袋小路がある。
⑤城下町全体を堀や上塁などによって囲む。
⑥京都の町割をまねて、碁盤日状の整然とした町割を形成
⑦長方形の街区が街路に面して並び、奥行の深い短冊形の町屋敷が続く
⑧街路両面に町屋敷が一体となって町を構成する両側町の形態をとる
以上の8点が指摘されています。 
これらの特徴が引田城に見られるのでしょうか。各項目をチェックしていきましょう。
⑦の町割・屋敷割りを、まず見てみましょう。

5hiketaHPTIMAGE

 砂嘴の上に立地していますので少し湾曲していますが、長方形の街区が積み重ねられた構造です。敷地は街路に面する間口が狭く奥行の深い短冊形の屋敷割になっています。長方形街区の長辺の方向は一定ではありませんが、全体としては計画的な町割となっています。ここからは、誉田八幡官付近から南方の足谷川付近までの町割は、同時期に普請されたと研究者は考えているようです。

1引田城下町4
②の町名を見てみましょう。
 引田の街は現在は「引田町引田○○番地」で登記されていますが、「松の下」などの町名が残っているところもあります。それを、住宅地図などから挙げると
「松の下」「魚の棚」「久太郎町」「大工町」「草木町」
「北後町」「南後町」「北中の丁」「南中の丁」「寺町」
「大道一~四丁目」「本町一~五丁目「本町六丁目浜」
「本町六丁目岡」「本町七丁目」

などがあります。このうち「大工町」は各地の城下町に見られる職人町名です。また南北の「中の丁」のみ「町」ではなく「丁」の字を使っています。生駒親正によって建設された高松城下や九亀城下では,侍屋敷を一番丁、二番丁と呼んでいます。全国的にも武家町が「丁」、町人町が「町」を用いていた例があるようです。引田町も「丁」は武家町であった可能性があります。
 「中の丁」には近世に大庄屋であった日下家があり、他地域に比べると屋敷面積が広いようです。重臣たちの住居エリアであったことがうかがえます。
第7図は、研究者が地域の人たちからの聞取調査で作成した「町」の範囲のようです。「松の下」と「魚の棚」がひとつになって「松魚」と呼ばれたりして正確でない所もあるようですが⑧の両側町のスタイルであることが見て取れます。

1引田城下町5

③の寺町については、積善坊・善覚寺・高生寺の三寺が一列に並び「寺町」を形成します。
第9図で見ると、寺町の位置は、高松からの讃岐街道が引田の街に入る入口付近になります。
寺社が要地や城郭の弱点と思われる場所に複数まとまって配置
という寺町の規定に当てはまる要衝になる場所です。この3つの寺院の沿革についてはっきりしたことは分からないようです。しかし、三寺はすべて真言宗の寺院です。生駒親正は、讃岐に入部するにあたり讃岐が弘法大師生誕の地であることから真言宗に改宗したことが知られています。真言宗派による国内統治策の一貫だったのかもしれません。
また、誉田八幡宮の南には別当寺で真言宗の城林寺がありました。
 しかし、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。この寺の唐破風造りの玄関が寺町の積善坊に移築されています。その差物上部には生駒家家紋の「生駒車(波引車文)」の彫物があります。この家紋は『讃羽綴遺録」よると文禄・慶長の役以降に生駒家が使っていたものです。誉田八幡宮別当寺の城林寺は、生駒家ゆかりの寺であったことがうかがえます。
次は④の「街路幅が狭く,街路をT字路・カギ型・喰違いにしたり袋小路にしたりしている」です。
敵の進入路と第1に考えられるのは街道筋です。引田城の場合は、
A 高松側や阿波側から街道筋を通り
B 御幸橋で小海川を渡り
C 引田城へ
というルートになります。
第9図A地点を見ると、それに備えて二つのT字路が造られていのが見て取れます。また道幅は狭く、十字路の多くは筋違いになっているため周囲の眺望がききません。砂嘴が湾曲していることもあって見通しが効かず、よそ者は道に迷いやすい街並みです。これらは城下町として、生駒氏が意図的に造りだした可能性が高いと研究者は考えているようです。


1引田城下町3

  砂嘴を開削した小海川河口部は、次のような点から内堀としての性格をもつと考えられます。
①誉田八幡神社の南側が城主の居宅や上級家臣の居住区である可能性が高い
②河川は砂嘴を横切っており、砂嘴を最短距離で開削していない。これは両岸の町割の方向と合致する
つまり、砂嘴を通した小海川が内堀で、その北側が重臣たちの居住区エリアであり、そこに港もあったということになります。そして、城下町の建設と流路変更は同時期に行われた可能性を指摘します。

第8図は「沖代」の地籍図の部分です

1引田城下町6

ここには周囲の地割とは異なる細長い地割が積み木のように重なっています。これは何を意味するのでしょうか?研究者は

「周囲の水路とは異質な幅広の堀状の水路が存在」

を読取り、これを「堀の痕跡」であると推察します。堀状の地割の方向は、城下町の地割の方向と一致します。そして、南側の条里型地割や潟湖跡地の水田地割とは不連続です。このことも城下町外側の堀の痕跡説を補強します。
 城下町南端を区切るように足谷川という小河川が流れています。
 この流れも一部丘陵を開削開削した人工河川だと研究者は指摘します。足谷川の河道はもとは第2図Cの位置であったと推定され,第8図の細長い地割がその痕跡と云うのです。そうであれば小海川や古川の流路固定と同時期に足谷川も流路が変更・固定され、周辺の水田開発が進行ます。そして、その後に現在の流路に付け替えられたことが地割の前後関係から推察されるようです。足谷川は、城下町建設以後に流路変更が行われたことになります。

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   以上から引田城の囲郭ラインは次のようになります。
①東は瀬戸内海
②北と西は砂嘴背後の低湿地という自然地形を利用し,
③砂嘴を開削した小海川河口部が内堀
で総構えの構造となっていたと推定できます。このような構造は戦国末・織豊期の特徴です。
 引田の街は城下町としての性格を持っていることが分かります。

1引田城下町7

                 
10図は現在の小海川の流路南側の10cm等高線図です。これは各水田の標高をもとに作られたもので微起伏が等高線で示されています。小海川は左から右へ流れています。ここからは、次のようなことが読み取れます。
①現在の小海川は古川に向かって流れてる
②しかし、低い所に向かって流れるのではなく、一番高いところを通過している
 これは何を意味するのでしょうか。
もちろん、天井川となって周囲に土砂が堆積して標高が高くなっているということもあるでしょう。しかし、これは河道が人の手によって作られ固定されたことを示していると研究者は考えています。
 もう一度確認すると現在の流れは、北側の丘陵の裾に沿って直線状に流れ、砂嘴と西からの丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいるのです。一番狭くなっている所から下流の河道左岸には、幅広の堤防が築かれています。このような小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に排水することを目指したものと推察できます。

 小海川の旧河道であった安戸・松原には明治末年まで塩田が拡がっていました。
5引田3

白鳥町の教蓮寺の享保11(1726)年の教蓮寺縁起には,天正15(1587)年に生駒親正が旧任地の播州赤穂郡の人たち数十人を白鳥松原に移住させ、製塩を始めたことが記されています。また寛永19(1642)年の「讃岐国高松領小物成帳」には松原・安戸に塩222石3斗が課せられています。ここからはこの地域で製塩が行われていたことが分かります。引田に近い阿波国撫養でも天正13(1585)年に、播州龍野から阿波に転封された蜂須賀家政が,播州荒井から2人の製塩技術者を招き塩田開田を始めています。近世初頭の瀬戸内海沿岸の大名にとって製塩は、最重要の殖産事業でした。
引田町歴史民俗資料館に「旧安堵浦及浜絵図」が保管されています。
1引田城下町8

これは引田塩政所(庄屋)であった菊池家が所蔵していたもので「天明八年」(1788年)の記載から18世紀後半以降の安堵(戸)浦の塩田が描かれています。絵図中央に「大川」という(旧)河川が右から左へ流れ、左の河口部には塩田を守るために石垣堰堤が築かれています。
そして(旧)と括弧書きにしてあります。これが小海川の旧河道である大川の当時の姿のようです。大川は締め切られて現在の小海川と連続していなかったことが分かります。  川のひとつの流れは誉田八幡と引田城の間から引田港へ抜け、河口部は「江の口」と記されています。
1引田城下町9

写真6は、河口付近を拡大したものです
大川の河口部沿岸は堤が築かれ、各所に石水門やユルが描かれています。満潮時に大川を上がってくる塩水を引き入れる入浜系塩田が開かれていたことが分かります。引田の塩田開発当初の状況がうかがえます。ここからは、小海川の流路を変更することによって、淡水の流入や洪水による被害を防止し、本格的な塩田開発が行われたことがうかがえます。小海川のルート変更は、
①引田城の防衛ラインである内堀
②引田城下町の洪水対策
③旧河口(大川)の安堵への本格的製塩の殖産
という「一挙三得」を実現したものだったようです。
5引田unnamed (1)


以上のように,引田城下町は小海川のルート変更とともに備された可能性が高いと研究者は考えます。
 生駒親正は引田に入部した翌年に、高松城の築城を開始します。しかし、引田城がこの時に1年未満で完成したとは云えないようです。生駒親正が本格的に高松城の築城を始めるのは、発掘調査の瓦の出土量などから関ヶ原以後であることが分かってきました。それ以前の政治情勢を考えると
①秀吉生存中は、朝鮮出兵で多額の戦費が係り、藩主も不在であったこと
②天正年間では大名たちの国替えが頻繁に行われ、腰を落ち着けての国作りや城作りに着手していないこと
というこたが指摘されます。慶長2(1597)には、支城として丸亀城を築き、嫡子・一正に守らせています。高松城だけでなく支城を築き一門を配しています。引田城も同様の性格があったようですが、ここに本格的な城が築かれるのも関ヶ原以後のことになるようです。
白鳥町の与田神社の『若一王子大権現縁起』は享保年の記載があることから18世紀以降のものとされますが、ここにはつぎのようなことが記されています
「 銀杏樹在 寒川郡奥山長野。因国君生駒讃岐守俊正公弟,
生駒甚助某受 封於大内郡而居引田与治山城
慶長十九年 応大坂召予兵而往拠城 明年元和元年夏五月七日城陥。於是甚助逃帰而匿奥山
俊正公属関東 故尋求執而誅之 葬諸銀杏樹下
意訳すると
銀杏の木が寒川郡の奥山長野にある。讃岐国藩主生駒俊政の弟・生駒勘助は、大内郡引田与治山城を治めていたが、慶長十九年の大坂の陣に豊臣方を支援し、大阪城に参陣するも破れ、明年元和元年夏五月七日に大阪城が陥落すると讃岐に逃げ帰り、引田の奥の山に逃げ隠れた。藩主俊正は関東の家康方についたので、弟での勘助を探索し捕らえ誅殺した。そして銀杏樹下に葬った。

とあります。「讃羽綴遺録』にも、生駒甚助が大坂夏の陣の際に、豊臣方につき元和元年に讃岐国において誅殺されるという記載があります。
 ここからは生駒甚介(三代藩主正俊の弟)は、引田城主として、東讃岐を支配してことが分かります。そして大坂夏冬の陣には、大阪城に立て籠もったというのです。生駒藩藩主の兄弟の間にも「路線対立」があったようです。大阪城陥落後は、引田に戻りますが、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。
 その所領を継いだのが生駒隼人になります。
 生駒隼人は、四代藩主壱岐守高俊の弟になります。引田城は代々藩主の弟が守るお城であったようです。彼の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しています。これは引田城の「城主」であったからでしょう。彼の下に配された侍数は26人ですが、生駒騒動の際には、その全てが集団ボイコットに参加し、生駒家を去っています。讃岐に根付いていない在地性弱い外来の侍集団であったことがうかがえます。
どちらにして、生駒藩では知行地制が根強く残り、引田城は藩主の弟が「城主」として治められていたことがわかります。つまり、関ヶ原以後に、「城主」となった「藩主の弟」たちがお城はともかく、城下町については整備したとも考えられる余地は残ります。

  関ヶ原前後に高松城も含めて、近世的城郭を3つ同時に整備する背景には何があったのでしょうか?
生駒親正の構想は
中央に高松城、
西讃の丸亀城
東讃の引田城
を配して、讃岐防衛と瀬戸内海交易ルートの確保にあった思われます。しかし、3つの城の建設が関ヶ原の戦いの前か、後かで仮想敵勢力は変わってきます。
①関ヶ原の前に築城されたとすると、秀吉の死後の東西抗争に備えてということになります。
②関ヶ原の後だとすると、家康の意をくんで毛利や島津の西国大名への備えのため
ということになるのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①生駒親正は讃岐における最初の拠点を引田に置いた
②引田城の本格的な整備は関ヶ原の戦い前後に始まる
③引田は、マチ割り、寺町・職人町・街路構造等に近世城下町の要素もつ
④引田城下町の整備は小海川の付け替えと密接に結びついている
⑤新しく開削された小海川は「内堀 + 運河 + 洪水対策 + 旧河道河口の塩田化」など多くのプラス面をもたらした。
⑥生駒藩では、引田城には藩主の弟が入り大内郡を「城主」として治めた。
⑦引田城主の生駒勘助は大坂の陣では豊臣方について参戦し、大阪城落城後に逃げ帰り切腹した。

ここからも生駒藩では知行制が温存され「城主」や家臣団の「自由度」が高かった気配が感じられます。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討     

     前回、讃岐中世の港町めぐりで引田を紹介したら、もう少し詳しく知りたいというリクエストを頂きました。そこで、引田について見ていきます。引田は、戦国末に生駒氏が讃岐領主として入ってきて最初に築城したところで、城下町も整備されたようです。そのために、生駒氏以前と以後では、街の姿が大きく変わりました。生駒藩以前と、新たに引田城が築かれた後の引田を比べることで見えてくるものを探したいと思います。
1引田城3

 まずは現在の引田を見ておきましょう。
引田の目の前は播磨灘が広がります。かつては島だった城山に向かって南東から北西に弓なりに海岸が湾曲します。地図だけ見ていると、伯耆の米子から境港に伸びる弓ヶ浜とよく似ているように見えてきます。
3引田

平成10年(1998)に、この弓なりの上に位置する本町三丁目で、防火水槽設置工事が行われました。その掘削断面から、ここが砂堆であることが分かりました。引田の街は、大きな砂堆(砂堆1)の上に形成されているようです。砂堆上には海岸線に沿って、北から川向、小海川を挟んで松の下、魚の棚、中ノ丁、本町一丁目~七丁目、木場(きば)、大明神などが並んでいます。
5引田3
 小海川河口部をはさんで北側(川向側)と南側(松の下側)では、北側の方がやや高いことから、北側がより安定した地形のようです。砂堆の最も高い所を、通る旧街道が縦断するように伸びて松の下、中ノ丁、本町一~七丁目の街並みが続きます。この旧街道は、昭和30年代に新しく国道11号線が開通するまでは阿讃の主街道で、この街道に面してマチスジ(町筋)、オカと呼ばれる商家や住宅が建ち並ぶ商店街を形成されていました。
中世引田の復元図から見えてくることを挙げておきましょう。
砂堆Iの上に街並みが形成され、その東西両側に向かって地形は広がっています。
②砂堆Iの西側には潟湖跡(潟湖Ⅰ)があります。
『元親記』では土佐の長宗我部群が「引田の町」を囲んで陣取ったとあり、続いて「本陣と町の間に深き江」があり、潮が満ちているとありました。引田の「町」と城は、「江」によって隔てられていたことが分かります。
③この「江」は城山の南側にある安戸から引田港まで入り込んでいた潟1と砂堆2のことで、現在は陸地となっていますが、明治までは塩田だったようです。
④この「江」は安戸塩田(砂堆3)で作られた塩を引田港まで運ぶ運河でもあったと地元では伝えられています。中世には小型船の往来や船着場として利用していたようです。
⑤『元親記』に記された引田の「マチ」は、引田城と「江」の対岸の宮の後や川向の集落Iと集落2にあたるようです。ここは安定した地形ですから、当時の引田の港町があったのはここのようです。

5引田八幡神社
⑥川向の亀山と呼ばれる高台に、引田の氏神である誉田八幡宮が鎮座します。この八幡宮は延久元年1069)に現在地に遷座したと伝えられます。県の自然記念物に指定の社叢が生い茂っているため、今は引田港は見えません。が、かつては眼下に引田港が見下ろせたはずです。この八幡宮は海上の安全を願って建立されたもので、航海や漁師にとって当て山となっていたようです。

5引田7
 今の八幡宮本殿は南面していますか、かつては北面していたと伝えられています。それはこの神社の北側に引田城があったからでしょう。八幡宮が北面していたは、引田城に向かって鎮座していたということになります。ここにも八幡宮が引田沖や潟1を往来する船の管理や引田城の鎮護を担う役割があったことがうかがえます。この神社を中心に、中世の港は形成されていたようです。
5引田unnamed (1)

⑦当時の引田の町の中心は、この八幡宮周辺の川向や宮の後でした。現在の中ノ丁から本町があるマチ(砂堆1)には、家屋は少なかったようです。
⑧今度は西南の塩屋方面を見てみましょう。ここには低湿地でかつての潟(潟2)が埋積したものとのようです。この潟の西には塩屋や小海(おうみ)という製塩やその景観を表す地名が残っていて、古代・中世にはここまで海が入り込んで入江を形成してたことがうかがえます。『入船納帳』にみえる引田船の塩は、この塩屋付近で作られたのかもしれません
引田が大きく変化するのは、生駒親正の引田城の築城です 。
讃岐領主として、やってきた生駒氏は最初に引田の城山に築城を始めます。一緒にやって来た家臣団も生活のためには屋敷を構えなければなりません。城下町の整備は火急の重要課題です。引田には、その際の屋敷割りが、現在の町割や地名に残っています。

5hiketaHPTIMAGE
 引田の城下町復元図から見えてくることを挙げてみましょう。
碁盤目状の町割りがされている。
②道幅は狭く十字路も筋違いになっているところがいくつかある
③本町六丁目には箸箱町と呼ばれる地域がある。これは建物の並びが、箸箱の蓋のように出し入れできるのが一方だけで行き止まりとなっていることを表すもの。
以上からは城下町として、防衛上のために造られていることがうかがえます。
 その他にも引田のマチには魚の棚や草木町、大工町といった城下町によく見られる市場や職人町を示す地名も残ります。また中ノ丁や本町というように村役人や町人・商人が居住する地域や、寺町のようにまとまって寺院が配置された地域もあります。
引田城下町の中心はどこだったの?
 生駒親正が引田城の後に築いた高松城下や丸亀城下では、侍屋敷が並ぶ地域を一番丁や二番丁のように「丁」、町人町を「町」と表記して区別しています。引田の中ノ丁も武家町であったと考えられます。中ノ丁には生駒時代に庄屋役を仰せつかり、以降明治まで引田村庄屋を勤めた日下家や、松の下には先祖が生駒氏に仕えたという佐野家や岡田家などの有力商家がありました。これらの家が中ノ丁や松の下に集まっていることは、この地区が引田の政治の中心であり、城下町がここを中心に整備されたことがうかえます。本町は北から一丁目・二丁目・三丁目……七丁目と並びます。これは北側の中ノ丁を基点に、順序に付けられたと考えられます。
 さらに北後(きたうしろ)町や南後(みなみうしろ)町は地名からすると、中ノ丁や大工町・草木町から次第に広がっていった地域のようです。このように引田城下町は中ノ丁を中心に町が展開していったと研究者は考えているようです。

 生駒氏以前の中世の引田は、集落1と集落2にあたる川向や宮の後が町の中心でした。それが生駒親正による城下町の整備で、砂堆の南側にも家臣団の屋敷が「町割り」されて建ち並ぶようになります。そして、町の中心が松の下や中ノ丁に移ります。川向は「川の向こう」という意味ですから小海川の南側の地域が中心となってから使われるようになったのでしょう。
 また北面していた八幡宮を、南面に改めたのも生駒親正と伝えられます。南面させて引田のマチを望む方向に変えたのは、八幡宮の役割が引田城の鎮護から引田のマチの鎮護に変わったことを示しているのでしょう
 復元図には魚の棚や草木町・大工町といった城下町によく見られる市場や職人町が見えます。魚の棚には江戸後期まで魚問屋があったようです。また、本町の旧街道に面したマチスジは近世にも数十件の商家が建ち並び、最近まで商店街を形成していました。ここに住んでいた商工業者たちが、このマチの経済的な役割を担っていたようです。
引田の寺町は?           
寺町には積善坊(真言宗)・善覚寺(浄土真宗)・萬生寺(真言宗)の三つの寺院が一列に建ち並んでいます。小規模ですが寺町を形成していたようです。積善坊は、もともとは内陸部の吉田にあったがいつのころか現在地に移り、天正年間の長宗我部勢の兵火により焼失したようです。それを生駒親正が修復したといいます。
 善覚寺も小海にあったのを明暦年中(1655)゛に中興沙門乗正が現在地に移したと伝えられます。萬生寺は天文10年(1541)に当時引田城主であった四宮氏の菩提所として建てられたという縁起が残ります。
 このようにそれぞれ異なる縁起を持つ寺院が寺町に集まっていることは、誰かが意図的に移転・配置したのでしょう。寺町は引田では、西の入口にあたります。東の入口にも本光寺(真言宗)があります。東西入口に、防御施設として寺院が配置されたようです。
 このように引田は、生駒親正による都市計画により城下町が整備され、町の中心が移り武家町や職人町・商人町・寺町が形成されたことが分かります。
 しかし、生駒親正の都市計画は町割の整備だけではなかったようです。最も大事業でだったのが小海川の付け替え工事でした。
 小海川は川向と松の下を隔てるように流れます。この川は、今は丘陵部に沿って直線的に播磨灘に流れていますが、元々は安戸方面(潟1・砂堆3)に流れて「運河」の役割も果たしていました。それを砂堆Iを切り開いて直線的に海に出るルートにしたようです。これだけ見ると、この河口が果たしていた運河や船着き場の役割が果たせなくなることになります。
なんのための大規模な河川付け替え工事だったのでしょうか?
潟1と砂堆2・砂堆3にあたる小海川の旧河道の安戸には、明治44年(1912)まで塩田があり、大正年間に耕地整理が進められ現在は田地となっています。つまり旧河道は塩田に姿を変えたようです。
  大内郡松原村(東かがわ市松原)の教蓮寺に伝わる享保11年(1726)の『松雲山教蓮寺縁起』によると、
天正15年(1587)に生駒親正が引田に入部した際、播磨国赤穂から人民数十人を松原村に移住させ、塩浜を拓いたと記します。同じように引田の安戸でも、赤穂から住民が移住して塩田を造ったと伝わっています。中世以来、引田では塩屋(潟2)で製塩が行われていましたが、より海水を引き入れやすい安戸(潟I・砂堆3)で大規模な製塩を行おうとしたことがうかがえます。小海川の付け替え工事は、安戸への淡水の流入や洪水の被害を防止し、新たな塩田開発のためだったようです。
 さらに安戸だけでなく『元親記』でみた「江」も塩田に拓いた可能性もあります。安戸塩田の開発の背景には、塩屋の潟が上流からの埋積で埋まり塩田が仕えなくなった可能性もあります。
 小海川の付替工事は、塩田開発だけでなく、潟を排水することによる水害防止、そして堀として城下の防御の三点が考えられます。小海川付け替え工事に関する文献史料はありません。そのため年代などは明確にできませんが、この工事は生駒親正の城下町の整備と同時期に行われ、以前からあった製塩業を城下町の重要産業として発展させたと研究者は考えているようです。

引田に残る伝承からも、生駒親正による城下町の整備をうかがえるものがあります。
坂ノ下にある岩崎観音には、次のような伝承が伝えられます。
この辺りは船泊まりで、餓鬼が度々出没していました。生駒親正が引田にやって来たときに、この訴えを聞き、安全を願って祠を建て、聖観世音を安置した。これが岩崎観音である
というものです。ここには「岩崎観音付近が船泊まり」だったとあり、小海川が付け替えられる前の景観を裏付けるものとなります。同時に、小海川旧河道(潟I)には、船が行き来していたこと分かります。
 また八幡宮の秋祭りには、引田の各地区で獅子連や奴連が、大明神にあるお旅所まで旧街道往復2㎞を練り歩きます。八幡宮に奉納される奴の起源は、天正年間に生駒親正によって八幡宮が再建されたのを喜んだ引田の人々が「やり踊り」を奉納したのが始まりと伝えられています。ここにも数百年経った現在も引田の人々の記憶に城下町整備を行った生駒親正が「郷土の恩人」として、後世にも語り継がれています。

 ところで生駒親正が引田を拠点としたのどのくらいの期間だったのでしょうか?
資料的には数力月で引田から宇多津に移っています。彼の引田時代はきわめて短期間でした。引田から宇多津に移った理由は『生駒家始末興廃記』には次のようにあります。
生駒雅楽頭近規ハ、永禄・元亀・天正等之兵乱、太閤秀吉公幕下に属し、数度之武功依之有、天正十五年讃岐之守護尾藤甚右衛門没落之跡 高十七万六平石受封して、讃岐国大内郡引田之城え入部被成候所、引田ハ国之東端ニて、西方難治より、鵜足郡聖通寺山の城に居住、此城往昔仙石権兵衛殿築被申由伝候、然ルに近規国政被仰付るに、当国先々衆呼出し、相応之扶助を宛て国務被仰付、当地境内狭故、天正十六年、香東郡野原庄二初て城を築、天正之頃迄は、在々小城共多故、海辺仁保・多度津・笠居・津田・三本松・引田杯船付二ハ商売人有之、其外在々分散して繁昌之地も多くハなし、
ここには次のようなことが記されています
①生駒氏が秀吉から讃岐国領主に任じられ、最初は引田を拠点とした
②しかし「引田は讃岐の東端で、西方が治め難し」として 宇多津の聖通寺山に移ったこと
③さらに聖通寺山では手狭になったために香東郡野原(高松)で新城に着工したこと
④天正の頃までは仁保(仁尾)・多度津・笠居・津田・三本松・引田が有力な港町で、ここに商人達がいたようです。この引田の商人たちが居住していたのが『元親記』で仙石氏に包囲された引田の町なのでしょう。

 引田か短期間で拠点を移動させた理由は、次の2点のようです
①引田は瀬戸内海東部での軍事拠点としては機能するが、讃岐を治める拠点としては東に偏りすぎていること、
②本格的な城下町建設には、砂堆Iの地域は狭すぎて大規模な埋め立て造成工事を行わないと、岡山や姫路のような城下町は造れないという地形的制約があった
とされているようです。 
 生駒親正は引田から移った翌年の天正2(年(1588)には香東郡野原に高松城の築城に着手します。
そして慶長2年(1597)には丸亀に高松城の支城を築き、ここには親正の子・一正を入れます。これは西讃地方の支配のための支城的な役割もありました。東讃地方にも支城が必要であるという認識があったようです。当時は、関ヶ原の戦い直前で、臨戦態勢が整えられていく時期でもあります。
 享保年間(1716)の『若一王子大権現縁起』や寛政四年(1792)の『小神野夜話』では、慶長年間に生駒甚助(一正の次男)が大内郡一万石を領し、引田城に拠ったとあります。引田城が東讃地方の支城として整備が続けられたことがうかがえます。
 また発掘調査によっても数多く出てくる瓦は、関ヶ原直前のもので、入部当時のものではないことが分かってきました。引田城や城下町の工事は、関ヶ原の直前に活発化したと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと
①中世の引田の町は、八幡宮周辺を中核として川向や宮の後に集落があり、現在マチと呼ばれる中ノ丁から本町がある砂堆には集落が限定的であった。
②駒親正の引田城と城下町の整備により景観は一変する。
③町の中心が八幡宮周辺から現在のマチに移り、武家町や職人町・商人町、そして寺町が計画的に配置された
④小海川付替え工事が行われ、安戸塩田の開発などの殖産事業も実施された。
⑤しかし、生駒氏の拠点は短期間で宇多津を経て高松に移された。⑥そのため引田城や城下町整備は、関ヶ原直前から本格化した
以上、生駒氏による引田の城下町整備についてでした。
萩野憲司 参考文献中世讃岐における引田の位置と景観  中世讃岐とと瀬戸内海世界 所収
1584 天正12 (甲申)
 県内  6・11 土佐の長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡
 1585年 天正13 (乙酉)
   4・26 仙石秀久および尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し屋島に上陸,喜岡城・香西城攻略
   5・15 仙石秀久,阿波より讃岐に引揚げ牟礼・高松に陣取る(仙石家譜)
   7・25 秀吉と長宗我部軍との和議が成立し,長宗我部元親は土佐へ退却
   7・- 仙石秀久,秀吉から讃岐を与えられる.ただし2万石は十河存保の支配
   仙石秀久,抵抗した香東郡安原山百姓100余人の首領13人を聖通寺山麓で処刑する
   この年 フランシスコ・パシオ,上京の途中塩飽に寄る(イエズス会日本年報)
1586年 天正14 (丙戌)
   12・13 仙石秀久,戸次川で島津軍と戦って大敗し,十河存保ほか多くの讃岐武將戦死
   12・22 仙石秀久,戸次川の戦いでの不覚を責められ豊臣秀吉とり讃岐国没収
   12・24 尾藤知宣,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる
1587年 天正15 
   6・- 尾藤知宣,日向国根白坂の合戦で豊臣秀吉の怒りをかい讃岐国没収
   8・10 生駒親正,豊臣秀吉より讃岐国を与えられる(生駒家宝簡集)
   8・17 加藤清正,讃岐の平山城(聖通寺城カ)を生駒親正に引き渡す
   12・- 播磨国赤穂から数十人が白鳥の松原に移住し塩田を開く(教蓮寺文書「教蓮寺縁起」)
1588年 天正16 (戊子)
   この年 生駒親正,香東郡野原庄の海浜で高松城築城に着手する
1589年 天正17 (己丑) 2・晦 豊臣秀吉,塩飽1250石の領知を船方衆650人に認める
   3・- 生駒親正,5000余人の軍勢を率い北条氏討伐に参陣
   この年 豊臣秀吉の北条氏討伐に際し,塩飽船,兵糧米を大阪より小田原に運ぶ,
1591年 天正19 (辛卯)9・24 豊臣秀吉,朝鮮出兵を命じる
1592年 文禄1 12・8 (壬辰)
   3・- 生駒親正・一正父子,秀吉の命で5500人を率いて朝鮮半島へ出兵する
   10・23 豊臣秀次,塩飽に大船建造を命じ船大工・船頭を徴用
1594年 文禄3 (甲午)生駒親正,大坂に滞在.一正は再び朝鮮に出兵
   10・16 豊臣秀吉,生駒一正に来春の朝鮮出兵のための水主・船の準備を命じる
   7・12 夜,大地震.田村神社の神殿壊れる(讃岐一宮盛衰記)
1597年 慶長2 (丁酉)
   2・21 生駒一正,朝鮮出兵で第7番に属し,2700人の兵を率い渡海し昌原に在陣
   生駒親正,一正と計り,西讃岐支配のため亀山に城を築き,丸亀城と名付ける
   この頃 生駒藩の検地が始まる
  1600年 慶長5 (庚子)
   6・- 生駒一正・正俊父子,上杉景勝討伐のため家康軍に従い関東に赴く
   7・- 生駒親正,豊臣秀頼の命により丹後国田辺城攻撃のため,騎馬30騎を参陣
       この後,高野山に入り家康に罪を謝る
   9・15 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
   9・- 生駒親正,高野山で出家
 生駒藩,香西加藤兵衛(往正)ほか20名を登用し,佐藤掃部に「国中ノ仕置」を命じる
1601年 慶長6 (辛丑)
1602年 慶長7 (壬寅)
    生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
    播磨国の人々が坂出(内浜・須賀)に移住する(西光寺文書)
1603年 慶長8 (癸卯)
   2・13 生駒親正,高松で没する.78歳
1605年 慶長10 (乙巳)
   9・- 生駒一正,初めて妻子を江戸へ住まわせる(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
1609年 慶長14 (己酉)
   5・23 生駒一正,妻子を江戸に住まわせたことにより,徳川秀忠より「半役」
       (国役を半分にする)を申しつけられる(生駒家宝簡集)
   2・2 生駒一正,国分寺より梵鐘を召し上げ,その代りとして荒田1町を寄進
   3・14 生駒藩,国分寺へ梵鐘を返却する(国分寺文書)
   この年 生駒一正,親正の菩提のために弘憲寺を建立し,寺領50石を寄進する
1610年 慶長15 (庚戌)
   (2)・8 駿府に参勤していた生駒一正,名古屋城築城を急ぐため名古屋へ赴く
   3・18 生駒一正没する.56歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   4・- 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.
この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1611年 慶長16 (辛亥)
1613年 慶長18 (癸丑)
   10・1 徳川家康大坂征討の出陣を命じ,大坂冬の陣おこる.
   11・1 生駒正俊,大坂木津川口に陣をしく(徳川実紀)
   11・17 生駒正俊,住吉で家康に参見する.家臣森出羽・生駒将監・萱生兵部の活躍めざま しく家康・秀忠より感賞される
   8.- 全国的に踊りが広がり,これを伊勢神踊と号する(讃岐国大日記)
   10・25 大地震起こる(讃岐国大日記)
1596~1615年 慶長年間
   この頃 生駒藩,高松城下魚棚の住人の一部を野方町に引き移し,水主役を勤め
       させる(英公外記)
   この頃 金倉(蔵)寺の諸堂が復興する(金倉寺文書「由緒書」)
1615年 元和1 7・13 (乙卯)
  政治・経済
   2・12 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により塩910石を大坂城へ納め
       る(菅家文書)
   3・22 小豆島草加部村の年寄ら,大野治長の命により薪3500束を大坂城へ
       納める(菅家文書)
   4・6 徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
   夏   生駒正俊,大坂夏の陣で徳川方につき,軍用金5000両を家臣に配分して
       生玉庄に陣取る(生駒記)
   5・7 大坂城落城
   (6)・13 一国一城令により丸亀城廃城
1621年 元和7 (辛酉)
   6・5 生駒正俊,没する.36歳(近世史料Ⅰ「讃羽綴遺録」)
   7・- 生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見

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