瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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5c引田

引田の中世の賑わいぶりや近世の引田城には、これまでも何回かお話ししてきました。今回は、引田の城下町について書かれた論文を見ていきたいと思います。テキストは「木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討 香川県埋蔵物文化材調査センター紀要Ⅶ  1999年」です。

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近世城下町の特徴について、研究者は次のようなポイントを挙げます。
①兵農分離と商農分離が進められ、城・重臣屋敷・一般武家屋敷・足軽屋敷・寺社・商人町・職人町が綿密な都市計画(町割)によって配置されている。
②同業者を集住させるため「鍛冶町」「大工町」といった町名がある。
③防御要地や城郭弱点に寺町が「要塞」として配置される
④街路幅が狭く、T字路・カギ型・喰違や袋小路がある。
⑤城下町全体を堀や上塁などによって囲む。
⑥京都の町割をまねて、碁盤日状の整然とした町割を形成
⑦長方形の街区が街路に面して並び、奥行の深い短冊形の町屋敷が続く
⑧街路両面に町屋敷が一体となって町を構成する両側町の形態をとる
以上の8点が指摘されています。 
これらの特徴が引田城に見られるのでしょうか。各項目をチェックしていきましょう。
⑦の町割・屋敷割りを、まず見てみましょう。

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 砂嘴の上に立地していますので少し湾曲していますが、長方形の街区が積み重ねられた構造です。敷地は街路に面する間口が狭く奥行の深い短冊形の屋敷割になっています。長方形街区の長辺の方向は一定ではありませんが、全体としては計画的な町割となっています。ここからは、誉田八幡官付近から南方の足谷川付近までの町割は、同時期に普請されたと研究者は考えているようです。

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②の町名を見てみましょう。
 引田の街は現在は「引田町引田○○番地」で登記されていますが、「松の下」などの町名が残っているところもあります。それを、住宅地図などから挙げると
「松の下」「魚の棚」「久太郎町」「大工町」「草木町」
「北後町」「南後町」「北中の丁」「南中の丁」「寺町」
「大道一~四丁目」「本町一~五丁目「本町六丁目浜」
「本町六丁目岡」「本町七丁目」

などがあります。このうち「大工町」は各地の城下町に見られる職人町名です。また南北の「中の丁」のみ「町」ではなく「丁」の字を使っています。生駒親正によって建設された高松城下や九亀城下では,侍屋敷を一番丁、二番丁と呼んでいます。全国的にも武家町が「丁」、町人町が「町」を用いていた例があるようです。引田町も「丁」は武家町であった可能性があります。
 「中の丁」には近世に大庄屋であった日下家があり、他地域に比べると屋敷面積が広いようです。重臣たちの住居エリアであったことがうかがえます。
第7図は、研究者が地域の人たちからの聞取調査で作成した「町」の範囲のようです。「松の下」と「魚の棚」がひとつになって「松魚」と呼ばれたりして正確でない所もあるようですが⑧の両側町のスタイルであることが見て取れます。

1引田城下町5

③の寺町については、積善坊・善覚寺・高生寺の三寺が一列に並び「寺町」を形成します。
第9図で見ると、寺町の位置は、高松からの讃岐街道が引田の街に入る入口付近になります。
寺社が要地や城郭の弱点と思われる場所に複数まとまって配置
という寺町の規定に当てはまる要衝になる場所です。この3つの寺院の沿革についてはっきりしたことは分からないようです。しかし、三寺はすべて真言宗の寺院です。生駒親正は、讃岐に入部するにあたり讃岐が弘法大師生誕の地であることから真言宗に改宗したことが知られています。真言宗派による国内統治策の一貫だったのかもしれません。
また、誉田八幡宮の南には別当寺で真言宗の城林寺がありました。
 しかし、明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。この寺の唐破風造りの玄関が寺町の積善坊に移築されています。その差物上部には生駒家家紋の「生駒車(波引車文)」の彫物があります。この家紋は『讃羽綴遺録」よると文禄・慶長の役以降に生駒家が使っていたものです。誉田八幡宮別当寺の城林寺は、生駒家ゆかりの寺であったことがうかがえます。
次は④の「街路幅が狭く,街路をT字路・カギ型・喰違いにしたり袋小路にしたりしている」です。
敵の進入路と第1に考えられるのは街道筋です。引田城の場合は、
A 高松側や阿波側から街道筋を通り
B 御幸橋で小海川を渡り
C 引田城へ
というルートになります。
第9図A地点を見ると、それに備えて二つのT字路が造られていのが見て取れます。また道幅は狭く、十字路の多くは筋違いになっているため周囲の眺望がききません。砂嘴が湾曲していることもあって見通しが効かず、よそ者は道に迷いやすい街並みです。これらは城下町として、生駒氏が意図的に造りだした可能性が高いと研究者は考えているようです。


1引田城下町3

  砂嘴を開削した小海川河口部は、次のような点から内堀としての性格をもつと考えられます。
①誉田八幡神社の南側が城主の居宅や上級家臣の居住区である可能性が高い
②河川は砂嘴を横切っており、砂嘴を最短距離で開削していない。これは両岸の町割の方向と合致する
つまり、砂嘴を通した小海川が内堀で、その北側が重臣たちの居住区エリアであり、そこに港もあったということになります。そして、城下町の建設と流路変更は同時期に行われた可能性を指摘します。

第8図は「沖代」の地籍図の部分です

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ここには周囲の地割とは異なる細長い地割が積み木のように重なっています。これは何を意味するのでしょうか?研究者は

「周囲の水路とは異質な幅広の堀状の水路が存在」

を読取り、これを「堀の痕跡」であると推察します。堀状の地割の方向は、城下町の地割の方向と一致します。そして、南側の条里型地割や潟湖跡地の水田地割とは不連続です。このことも城下町外側の堀の痕跡説を補強します。
 城下町南端を区切るように足谷川という小河川が流れています。
 この流れも一部丘陵を開削開削した人工河川だと研究者は指摘します。足谷川の河道はもとは第2図Cの位置であったと推定され,第8図の細長い地割がその痕跡と云うのです。そうであれば小海川や古川の流路固定と同時期に足谷川も流路が変更・固定され、周辺の水田開発が進行ます。そして、その後に現在の流路に付け替えられたことが地割の前後関係から推察されるようです。足谷川は、城下町建設以後に流路変更が行われたことになります。

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   以上から引田城の囲郭ラインは次のようになります。
①東は瀬戸内海
②北と西は砂嘴背後の低湿地という自然地形を利用し,
③砂嘴を開削した小海川河口部が内堀
で総構えの構造となっていたと推定できます。このような構造は戦国末・織豊期の特徴です。
 引田の街は城下町としての性格を持っていることが分かります。

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10図は現在の小海川の流路南側の10cm等高線図です。これは各水田の標高をもとに作られたもので微起伏が等高線で示されています。小海川は左から右へ流れています。ここからは、次のようなことが読み取れます。
①現在の小海川は古川に向かって流れてる
②しかし、低い所に向かって流れるのではなく、一番高いところを通過している
 これは何を意味するのでしょうか。
もちろん、天井川となって周囲に土砂が堆積して標高が高くなっているということもあるでしょう。しかし、これは河道が人の手によって作られ固定されたことを示していると研究者は考えています。
 もう一度確認すると現在の流れは、北側の丘陵の裾に沿って直線状に流れ、砂嘴と西からの丘陵によって最も潟が狭くなる地点を抜け、砂嘴を開削して瀬戸内海に注いでいるのです。一番狭くなっている所から下流の河道左岸には、幅広の堤防が築かれています。このような小海川の人工流路は、洪水流を最も効率的に排水することを目指したものと推察できます。

 小海川の旧河道であった安戸・松原には明治末年まで塩田が拡がっていました。
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白鳥町の教蓮寺の享保11(1726)年の教蓮寺縁起には,天正15(1587)年に生駒親正が旧任地の播州赤穂郡の人たち数十人を白鳥松原に移住させ、製塩を始めたことが記されています。また寛永19(1642)年の「讃岐国高松領小物成帳」には松原・安戸に塩222石3斗が課せられています。ここからはこの地域で製塩が行われていたことが分かります。引田に近い阿波国撫養でも天正13(1585)年に、播州龍野から阿波に転封された蜂須賀家政が,播州荒井から2人の製塩技術者を招き塩田開田を始めています。近世初頭の瀬戸内海沿岸の大名にとって製塩は、最重要の殖産事業でした。
引田町歴史民俗資料館に「旧安堵浦及浜絵図」が保管されています。
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これは引田塩政所(庄屋)であった菊池家が所蔵していたもので「天明八年」(1788年)の記載から18世紀後半以降の安堵(戸)浦の塩田が描かれています。絵図中央に「大川」という(旧)河川が右から左へ流れ、左の河口部には塩田を守るために石垣堰堤が築かれています。
そして(旧)と括弧書きにしてあります。これが小海川の旧河道である大川の当時の姿のようです。大川は締め切られて現在の小海川と連続していなかったことが分かります。  川のひとつの流れは誉田八幡と引田城の間から引田港へ抜け、河口部は「江の口」と記されています。
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写真6は、河口付近を拡大したものです
大川の河口部沿岸は堤が築かれ、各所に石水門やユルが描かれています。満潮時に大川を上がってくる塩水を引き入れる入浜系塩田が開かれていたことが分かります。引田の塩田開発当初の状況がうかがえます。ここからは、小海川の流路を変更することによって、淡水の流入や洪水による被害を防止し、本格的な塩田開発が行われたことがうかがえます。小海川のルート変更は、
①引田城の防衛ラインである内堀
②引田城下町の洪水対策
③旧河口(大川)の安堵への本格的製塩の殖産
という「一挙三得」を実現したものだったようです。
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以上のように,引田城下町は小海川のルート変更とともに備された可能性が高いと研究者は考えます。
 生駒親正は引田に入部した翌年に、高松城の築城を開始します。しかし、引田城がこの時に1年未満で完成したとは云えないようです。生駒親正が本格的に高松城の築城を始めるのは、発掘調査の瓦の出土量などから関ヶ原以後であることが分かってきました。それ以前の政治情勢を考えると
①秀吉生存中は、朝鮮出兵で多額の戦費が係り、藩主も不在であったこと
②天正年間では大名たちの国替えが頻繁に行われ、腰を落ち着けての国作りや城作りに着手していないこと
というこたが指摘されます。慶長2(1597)には、支城として丸亀城を築き、嫡子・一正に守らせています。高松城だけでなく支城を築き一門を配しています。引田城も同様の性格があったようですが、ここに本格的な城が築かれるのも関ヶ原以後のことになるようです。
白鳥町の与田神社の『若一王子大権現縁起』は享保年の記載があることから18世紀以降のものとされますが、ここにはつぎのようなことが記されています
「 銀杏樹在 寒川郡奥山長野。因国君生駒讃岐守俊正公弟,
生駒甚助某受 封於大内郡而居引田与治山城
慶長十九年 応大坂召予兵而往拠城 明年元和元年夏五月七日城陥。於是甚助逃帰而匿奥山
俊正公属関東 故尋求執而誅之 葬諸銀杏樹下
意訳すると
銀杏の木が寒川郡の奥山長野にある。讃岐国藩主生駒俊政の弟・生駒勘助は、大内郡引田与治山城を治めていたが、慶長十九年の大坂の陣に豊臣方を支援し、大阪城に参陣するも破れ、明年元和元年夏五月七日に大阪城が陥落すると讃岐に逃げ帰り、引田の奥の山に逃げ隠れた。藩主俊正は関東の家康方についたので、弟での勘助を探索し捕らえ誅殺した。そして銀杏樹下に葬った。

とあります。「讃羽綴遺録』にも、生駒甚助が大坂夏の陣の際に、豊臣方につき元和元年に讃岐国において誅殺されるという記載があります。
 ここからは生駒甚介(三代藩主正俊の弟)は、引田城主として、東讃岐を支配してことが分かります。そして大坂夏冬の陣には、大阪城に立て籠もったというのです。生駒藩藩主の兄弟の間にも「路線対立」があったようです。大阪城陥落後は、引田に戻りますが、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。
 その所領を継いだのが生駒隼人になります。
 生駒隼人は、四代藩主壱岐守高俊の弟になります。引田城は代々藩主の弟が守るお城であったようです。彼の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しています。これは引田城の「城主」であったからでしょう。彼の下に配された侍数は26人ですが、生駒騒動の際には、その全てが集団ボイコットに参加し、生駒家を去っています。讃岐に根付いていない在地性弱い外来の侍集団であったことがうかがえます。
どちらにして、生駒藩では知行地制が根強く残り、引田城は藩主の弟が「城主」として治められていたことがわかります。つまり、関ヶ原以後に、「城主」となった「藩主の弟」たちがお城はともかく、城下町については整備したとも考えられる余地は残ります。

  関ヶ原前後に高松城も含めて、近世的城郭を3つ同時に整備する背景には何があったのでしょうか?
生駒親正の構想は
中央に高松城、
西讃の丸亀城
東讃の引田城
を配して、讃岐防衛と瀬戸内海交易ルートの確保にあった思われます。しかし、3つの城の建設が関ヶ原の戦いの前か、後かで仮想敵勢力は変わってきます。
①関ヶ原の前に築城されたとすると、秀吉の死後の東西抗争に備えてということになります。
②関ヶ原の後だとすると、家康の意をくんで毛利や島津の西国大名への備えのため
ということになるのではないでしょうか。

以上をまとめておきます。
①生駒親正は讃岐における最初の拠点を引田に置いた
②引田城の本格的な整備は関ヶ原の戦い前後に始まる
③引田は、マチ割り、寺町・職人町・街路構造等に近世城下町の要素もつ
④引田城下町の整備は小海川の付け替えと密接に結びついている
⑤新しく開削された小海川は「内堀 + 運河 + 洪水対策 + 旧河道河口の塩田化」など多くのプラス面をもたらした。
⑥生駒藩では、引田城には藩主の弟が入り大内郡を「城主」として治めた。
⑦引田城主の生駒勘助は大坂の陣では豊臣方について参戦し、大阪城落城後に逃げ帰り切腹した。

ここからも生駒藩では知行制が温存され「城主」や家臣団の「自由度」が高かった気配が感じられます。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木下 晴一 引田城下町の歴史地理学的検討     

   
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江戸時代の讃岐を描いた絵図は、北の岡山県上空あたりから俯瞰する視点で描かれたものが多いようです。この地図も、そのパターンで下側(北)に、瀬戸内海やそこに浮かぶ小豆島が細長く描かれています。その上(南)が屋島・志度になるようです。そして、一番東(左)にある湊町が引田になります。引田が「讃岐の東の端」と云われる所以でしょう。
 しかし、それは高松を中心とした見方です。引田は北に播磨灘が開け、沖には淡路島・鳴門海峡が眺望できる位置にあります。視点を変えると、近畿圏に一番近い湊町なのです。その地の利を生かして、古くから海運業が盛んな土地柄だったようです。
 おきゆく船がこの港には、立ち寄らなければならない理由がありました。
4讃岐国名勝図解 引田絵図

讃岐国名勝図会の引田
 幕末の「讃岐国名勝図会」には引田のことを、
当国東第一の大湊にして大賈大船おびただしく漁船も多し、諸国の船出入絶すして、交易、士農工商備れり」
と記します。江戸時代は引田浦は「当国東第一の大湊」で、廻船業や漁業が発達し、上の絵図のような街並みや立派な神社仏閣並ぶ湊町でした。引田の廻船は、瀬戸内海はもちろん江戸・九州・北国へ讃岐の特産品の砂糖や塩などを運んでいたことが分かってきています。
「名勝図会」を見ると、手前に大きな寺院があり、その向こうに密集する家並みと帆を下ろして停泊する廻船が描かれています。海運と結びついた引田浦の姿をよく描かれています。もうひとつ見逃してはならないのが港の向こうの山の上にある引田城跡です。この城の城下町として現在の引田の街並みが整備されたことは前回お話ししました。今回は、引田港の繁栄の背景を探ることです。
5c引田
 瀬戸内海南航路における引田が重要な港であった理由は?
 ペリーがやって来る約10年前の江戸末期に、引田港を利用する諸国入船の船主などから波戸を築いてほしいとの要望書が出てきます。これを受けて引田浦の商人たちにより波戸工事が計画されます。この頃に行われた丸亀藩や多度津藩の港湾整備などの「公共事業」は、藩主導ではなく富商が中心になって講を組織して行うのが一般的になっていました。「民間資本」の導入なしで、藩単独では大きな公共事業は行えない時代になっていたのです。幕藩体制は行き詰まり、未来を切り開く公共建築物を作ることもできないほど藩財政は行き詰まりを見せていたようです。引田の波戸工事も「民間資金導入による建設」が行われることになり、資金集めのための趣意書が廻されます。
  「讃州引田浦湊普請御助情帳」には、波止建設の必要性を次のように記しています。
「(前略)其向ふ名高き阿波の鳴門にて、諸国の船々此鳴門を渡海いたさんとする時、則此山下に繋て、潮時を見合すに随一の処也」
とあり、引田港は鳴門海峡を抜けるための「潮時を見合すに随一」の港で、重要な潮待港であることが強調されています。この「募金活動」に対して、屋島西岸の浦生や寒川郡津田浦、阿波国の大浦・撫養・粟田村、大坂砂糖会所や大坂砂糖問屋など讃岐国・阿波国・大坂の大坂への航路を中心とする地域からの寄付が集まっています。寄付のあった地域が引田浦の商人・廻船業者の商業取引のエリアであり、特に砂糖に関わる主要取引先であったようです。同時に、海上交易活動に携わる人たちにとって引田の「潮待ち港」としての重要性がよく認識されていたことも分かります。

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近代に入っても引田の潮待ち・風待ち港としての重要性は変わらなかったようです。
『香川県引田港調書』の「引田港ノ現状及将来」の項には、引田港と鳴門海峡の関係が次のように記されています。
 瀬戸内海ノ関門タル鳴門海峡渡航セントスル船舶ハ、海上静カナルトキト雖モ必ズ引田港湾二潮待チ又ハ潮造り卜称シ、仮泊セザルベカラズコトニナレリ(鳴門潮流干満ノ関係上)、況ンヤ天候険悪二際シテハ、避難寄港スベキハ引田港ヲ除キテ他二求ムルコトヲ得ザルナリ、

 戦後の『引田町勢要覧』(昭和27年〈1952)でも、前年の引田港には年間貨客船1795隻(汽船274)隻・機帆船(1521隻)、漁船10552隻(機帆船3816隻・無動力船6736隻)、避難船285隻(機帆船60隻・無動力船225隻)の入港を記録しています。戦後直後には漁船の6割は無動力船であったことに注意してください。
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南海道に通じる瀬戸内海南航路と鳴門海峡
 鳴門海峡は両側は瀬戸内海と紀伊水道で、干満の差によって大きな渦潮が発生するため「海の難所」として船乗りには恐れられてきました。しかし、潮の流れをうまく利用すれば「海のハイウエー」にもなり、古くから重要な交通路として利用されてきました。
   鳴門海峡の潮待ち港という役割は、古墳時代に瀬戸内海南航路が開かれて以来、引田が果たしてきたことかもしれません。吉備勢力のテリトリーである瀬戸内海北航路を使わずに瀬戸内海を通過するルートを開くことは、ヤマト勢力の悲願でした。その先陣を果たし、南航路を切り開いたのは紀伊を拠点とする紀伊氏であったようです。紀伊氏は日向勢力と協力しながら讃岐・愛媛・豊前・豊後の勢力を懐柔し、この航路を開いていきます。津田古墳群の勢力もその先兵か協力部隊であったのかもしれません。このルートを通じて、朝鮮半島で手に入れた鉄が畿内に運ばれていったのでしょう。吉備方面を通過する瀬戸内海北航路と同じく、讃岐沖から鳴門海峡を抜けて紀伊や摂津に抜ける南航路も重要な役割を果たしていたようです。どちらにしても、早くから鳴門海峡を通過する瀬戸内海南航路は開かれ、この航路をなぞるように「南海道」は整備されたと私は考えています。
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中世の瀬戸内海航路が分かる資料としては朝鮮の高申叔舟が成宗二年(文明三年(1471))に著した『海東諸国紀』があります。ここには載せられた「日本本国之図」には、播磨灘と紀伊水道を通る海路として次の3つの航路が描かれています。
①和泉・紀伊と淡路を結ぶ二つの海路、
②讃岐から淡路島西岸を経て兵庫に通じる海路、
③阿波から淡路島東岸を経て兵庫へ通じる海路
ルート②は、淡路島西岸を通る航路のため秋から冬にかけては、強い北西の季節風が吹くため、安全面で問題がありました。昭和になっての動力船の時代にも、引田と大阪と結ぶ定期航路の客船は、春・夏は淡路島の西岸各港に寄港しながら北上しますが、北西の季節風が強く吹く秋から冬にかけては、ルート変更して淡路島の東岸を航行していました。つまり、ルート②は春から夏までの季節航路で、それ以外の季節はルート③の鳴門海峡を抜けるコースに、季節的な使い分けが古くから行われていたようです。もちろん、畿内を結ぶ瀬戸内海のルートで最も一般的なのは、山陽沿岸の瀬戸内海北航路ですが、四国北岸から鳴門海峡を通る瀬戸内海南航路もサブルートとして使用されていたのです。
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ちなみに鳴門にはふたつの海峡があります。
ひとつは渦潮で有名な「大鳴門」です。これに対して大毛島・高島・島田島と対岸の撫養の間には100~500mの水通のような小鳴門海峡(小鳴門)があります。小鳴門海峡は大鳴門ほど潮流が速くないので、古代から小鳴門も海路として利用されてきました。
 引田の船乗り達は、は鳴門海峡を通過することを「鳴門をおとす」といい「何時ごろおとす(何時ごろ通る)」や「大鳴門おとすんかヽ小鳴門おとすんか(大鳴門を通るのか、小鳴門を通るのか)」と表現していたそうです。動力船で引田から鳴門まで約一時間くらいの距離であったようです。
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船はどのようにして鳴門海峡を越えていたのでしょうか?
 引田の元船大工や元船員は次のように話しています。
①満潮のときに紀伊水道から瀬戸内海に流れ込む海流にのって入り(南から北への流れ)、
②干潮のときに、瀬戸内海から流れ出す海流に載って紀伊水道に出る(北から南への流れ)。
③満潮の上、北西の風であれば海が荒れるが、北西の風でも干潮であれば逆に追い風となる
など、潮流や風により航行が大きく左右されたようです。

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 高松方面から鳴門海峡を通過するのは干潮のときで、それまで船は引田港で潮待ちすることになります。志度や津田、三本松などの港もありますが、引田ほど天然の入江が発達した潮待ち・風待ちに格好の港はないと船乗り達は云います。四国(特に東讃地方)の北岸を通ってきた船が、潮待ち・風待ちした港が鳴門海峡から海上の直線距離で約25㎞のある引田港だったのです。昭和三〇年代まで引田で潮待ち・風待ちをしている船の船員が、買物や飲食する姿が多くみられ賑やかだったといいます。
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 中世の瀬戸内海航路はどうだったのでしょうか?
 中世の瀬戸内海を行き来する交易船は、順風であれば帆走し、風が悪ければ漕ぎ、暴風雨に遭えば船を港に引き上げて避難する、そんなことを繰り返しながら海を進んでいきました。まさに、潮まかせ、風まかせのために潮待ち、風待ちのために、多くの湊に寄港しながらの航海だったのです。
 動力船が普及した1960年代でも、激しい流れに逆らって海峡を乗り切るのは難しく潮待ち・風待ちを必要とした船もありました。鳴門海峡は「阿波の鳴門か、銚子の口(千葉県銚子市)か、伊良湖渡合(愛知県渥美半島)の恐ろしや」と、船乗りに恐れられた全国有数の海の難所だったのです。
 その難所を抜けるには、引田港で潮待ちして情報やアドバイスを得てから鋭気を養って出港していく必要があったのでしょう。
参考文献 
萩野憲司 中世讃岐における引田の位置と景観  
中世讃岐とと瀬戸内海世界 所収

                                
 「兵庫北関入船納帳』(文安二年〈1445〉には、中世讃岐の港町として、引田・三本松など17の港町が記されています。これらの港町について、中世の地形を復元した作業報告が香川県立ミュージアムから出版されています。復元されている港町を見ていくことにします。
その前に、準備作業として「中世港町の要素」とは何かを押さえておきましょう。
 中世港町を構成する要素としては、次の六つです。
  ①船舶が停泊できる場所……   繋留岸壁、桟橋等
  ②積荷の積み下ろしのできる場所…… 荷揚げ場
  ③船舶の港湾周辺での航行の目標…… 寺社、城郭等
  ④港湾内施設の管理事務所……   寺社、居館、城郭等
  ⑤港町を横断もしくは縦貫する街路
  ⑥内陸部へのアクセス方法……    道路、船舶
 作業の手始めとしては、後世の干拓や埋立地を地図上で取り去り、現地でわずかな起伏等を観察します。それを地図上に復元していく根気の要る作業です。その結果、見えてきたことは、讃岐の中世港町は、次の2つがあるところに成立していたことが分かってきたようです
入り込んだ内湾する浜
②それに付随する砂堆(小規模な砂丘)
 穏やかな瀬戸内海とはいえ、天然の波止的な役割を果たす砂堆は港には有り難い存在だったのでしょう。砂堆は、海浜部の波が運ぶ砂が堆積するものと、河口部の河川が運ぶ砂が堆積するもののふたつがあります。内湾する浜と砂堆と、周辺に展開する集落について「復元地図」を見ていくことにしましょう。
 1 引田
3引田

 引田は「兵庫北関入船納帳』文安二年(1445)以下「人船納帳」)には、この港の積荷としては、塩・材木などの記載が見えます。景観地図からは大きく内湾した浜の北西部に突き出た半島の付け根あたりに中世の港が復元できます。現地踏査の結果、現在の本町周辺から北の城山に向かって、砂堆状の高まりが確認できるようです。この砂堆は、本町周辺では狭い馬の背状になっていたことがうかがえるようです。また、砂堆の北端の誉田八幡神社付近には安定した平坦地が広がります。
DSC03875引田城
 戦国時代末期に讃岐に入封した生駒氏が最初に城を築いた城山は、北西からの季節風を避ける風よけとしては有り難い存在です。こうしたことから中世の港湾施設は、現在の引田港付近にあったと研究者は考えているようです。また、この港の管理権は誉田八幡神社が持っていたと推測しています。
港からのアクセスについては、砂堆を縦断する街路を南に抜け、南海道へ接続していたようです。
また、誉田八幡神社の北から西にかけては、近代以前には、塩田が広がっていたこと、現在も水はけの悪い水田が広がることなどから、当時は、干潮時に陸地化する潟湖のような状態であったと考えています。さらに本町周辺の砂堆の西側にも低湿地が広がっていたようで、「入船納帳」に見られる積荷の塩は、このあたりの低湿地で生産されていた可能性が高いようです。
  引田は、古代から細長い砂堆の先に伸びる丘陵が安定した地形があって、その上に土地造成と町域の拡大が進められてきたようです。それは住民結合の単位としての「マチ」の領域、本町一~七丁目などに痕跡がうかがえます。このように中世の引田の集落(マチ)の形成は誉田八幡神社周辺を中心に、砂堆中央から基部に向けて進みますが「限定的」だったようです。つまり狭すぎて、これ以上の発展の可能性がなかったとも言えます。そのために戦国末期に讃岐にやって来た生駒氏は、最初に引田城に着手しますが、後には丸亀・高松に新城を築くことになるようです。
 引田は瀬戸内海を睨んだ軍事拠点としては有効な機能をもつものの、豊臣大名の城下町建設地としてはかなり狭く線状都市です。大幅な人工造成を行わなければ近世城下町に発展することはできなかったようです。
 三本松
3三本松
 三本松は、湊川河口と与田川河口との間でJR三本松駅周辺に中世の港があったようです。現地を詳細に観察すると、次のような事が見えてきます。
①三本松駅の北側に大きな砂堆1が確認できる
②現在の三本松港の東側の海岸線に、砂堆状の高まりが二つ(砂堆2・3)ある
③砂堆2・3の後背地はかなり地割が乱れているので、湊川に連続していると考えられる
④当時は湊川の河口部が現在よりもかなり東西に広がっており、河口部の縁辺に砂堆2・3が形成された
⑤砂堆2の後背地は、砂堆Iとの切れ目につながり、砂堆1の東側に大きく湾入した部分がある。
⑥この付近(現在の西ノ江付近)に港湾施設があった
⑦集落は、砂堆Iを南北に横断する街路(本町筋)とそれに直交する街路(中町筋)に沿って広がっていた。
 港湾施設へのアクセスについては、砂堆Iの後背地にも河川状の低地があり、阿波街道(南海道)からは離れているので、内陸部との交通は不便だったことがうかがえます。しかし、河川水路の利用という点から見れば、湊川上流には水主神社があり、与田川上流には与田寺などの有力寺社があります。三本松湊は、これらの寺社が管理をおこなっていたと研究者は考えているようです。

 3 志度
3志度
 志度は、海女の玉取伝説で有名な志度寺付近が、港として考えられています。
現在の弁天川やその支流の流域は浅い入江や低湿地であったようで、一番奥は現在の花池あたりまで深く入り込んでいました。入江の入口は弁天川の河口付近で、そこにはランドマークとして弁天島があったことになります。今では埋め立てられて陸地化して、ただの丘ですが、この島は「志度道場縁起」などでは、島として描かれています。また、河口付近の低湿地では、製塩が行われていたようです。
 志度寺が位置する大きな砂堆の海側に広がる浜が、港としての機能を果たしていた
と研究者は考えているようです。ここでもその中央部の志度寺が、港を管理する役割も担っていたのでしょう。港湾施設へのアクセスについては、西側から砂堆の中央部を縦断するように街路2が志度寺へ通じているので、これが主要アクセスとなっていたのでしょう。
 4 宇多津と平山
3宇多津
 宇多津は、中世においては細川氏の拠点として讃岐国における政治・経済の中心地でした。
この港町は、坂出市の綾川河口にあった松山津が、綾川の堆積作用で古代末期に港として機能しなくなったのに代わって台頭してきたようです。港の位置は、青ノ山の裾部あたりから東側の大束川河口にかけて、現在の西光寺周辺に小規模な浜が想定されています。
 平山は、聖通寺山の西側、大束川の河口の東側に広がる入江を港として利用していたと考えられます。平山と宇多津は、それぞれ丘陵を背後に持ち、丘陵にはさまれた大束川の河口は、波や風の影響が少なくいい港だったようです。特に宇多津は、中世から続く寺社が多く集まって、中世は讃岐の文化的な中心であったことは、以前紹介した通りです。
仁尾                                       
3仁尾
仁尾は燧灘に面して、いまは夕日が美しい町として有名になりました。
かつては 「兵庫北関入船納帳』には「仁保」とも書かれていたので広島県の仁保とされていましたが、その後の研究で、三豊市仁尾町であるとされるようになりました。この港は、平安時代に賀茂神社の「内海御厨」として設定されるなど、古くから栄えており、近世では、「千石船が見たけりや、仁尾へ行け」とまでいわれるほどの繁栄ぶりだったようです。
 現在の仁尾は、干拓や埋立で海岸線が大きく海側へ移動していますが、中世ごろは賀茂神社境内から南へ延びる街路付近が海岸線だったようです。当時の港としては、古江と呼ばれている北側の入江から海岸線に沿った場所が考えられます。南側は、江尻川河口付近まで延びますが、この川は河口から少し内陸部に入ったところで、大きく屈曲しているので、河口から北側に大きな砂堆があったことが推測されます。この砂堆の中央を縦断するように伸びる街路Iが主要な街路として機能していたようです。
 仁尾については、北側に賀茂神社、南側の江尻川河口付近に草木八幡神社があり、それぞれの別当職である覚城院、吉祥院などの寺社が多く残ります。かつては、この両社は対立・拮抗を関係にあったようで、両社の勢力範囲の境界付近には「境目」という字名も残っています。

中世讃岐の港町を類型化してみると
1 類型I(松山津・三野津)
 氾濫を繰り返す河口部が大きく入り込んだ入江に港湾機能をもつ港です。砂堆は小規模で、元々はは河口奥に港湾機能があったのが、堆積作用で河口が埋没し、次第に船の出入りに支障をきたし、衰退していった港です。古代の港に多く見られ、松山津や三野津があてはまります。松山津は讃岐国府、三野津は宗吉窒跡との密接なつながりありました。しかし、古代末期の内陸部での完新世段丘崖の形成など、大規模な地形環境の変化で、河口部の埋積が急速に進み、港としては姿を消していきました。
3綾川河口復元地図
2 類型Ⅱ
 小さな河川の河口部に位置し、大きな砂堆の内側の入江に港湾機能を持っていた港です。砂堆や内湾部の入江の状況により、3つに細分化しています。
Ⅱの①型 砂堆の上に集落が広がり、内湾部に港湾機能をもつ港です。三本松・方本(屋島)・観音寺などがこれにあたります。
3観音寺

Ⅱの②型 砂堆が波止の役割を果たし、砂堆上には集落がないもの。その多くは、後背地に山を控え、海との間の狭い平地に集落が展開します。そのため、内陸へのアクセスが難しい港になります。庵治・佐柳島などがこれにあたります。

3庵治
Ⅱの③型 大きく内湾した入江に砂堆が付随し、河川の河口部に港湾機能をもつ港です。砂堆の外側にも船舶の停泊機能があり、複合的な港湾施設になり、その後の発展につながった港です。宇多津・野原(高松)がこれにあたります。

 以上を見てきて、改めて気付いたことをまとめておきます。
①見慣れた現在の港を基準に、中世の湊をイメージすると見えてこない
②河口やその周辺には砂堆が形成され、それが港の機能を果たしていた。
③港は港湾関係者や船乗り、交易者・商人などが「混住」する異空間を形成する
④港を管理するのは、管理能力のある僧侶達で寺院や神社が管理センターの役割を果たす
⑤中世後期には、交易ルートが布教ルートとなり各宗派の寺院が進出してくる
⑥政治的な勢力は港を直接支配下には置けていない
こんなところでしょうか。
 参考文献  北山健一郎 中世港町の地形と空間構成 「中世讃岐と瀬戸内世界」所収
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