瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:弘安寺

まんのう町吉野
   吉野は土器川と金倉川に挟まれた遊水地で、大湿原地であった。
まんのう町の条里制跡
大湿地帶だった吉野は古代条里制が施行されず開発が遅れた
まんのう町吉野と四条

前回はまんのう町の吉野が古代の条里制施行の範囲外におかれていたことと、その理由について見てきました。それでは四条や吉野の開発のパイオニアたちは、どんな人達だったのでしょうか。それに答えてくれる遺跡が見つかっています。その遺跡を今回は見ていくことにします。テキストは 「まんのう町吉野下秀石遺跡」です。
まんのう町吉野下秀石遺跡4

  吉野下秀石遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、まんのう町役場と土器川の間にありました。
まんのう町吉野・四条 弘安寺
           吉野下秀石遺跡(まんのう町役場と土器川の間)
吉野下秀石遺跡は、土器川の氾濫原で条里地割区域外に位置するので、遺跡がないエリアと考えられてきました。しかし、地図で見ると次のようなことが分かります。
「白鳳時代の寺院跡」である「弘安寺跡」から約500mしか離れていないこと
土器川対岸の中津山には安造田古墳群など中・後期古墳が群集すること
発掘の結果、弥生時代から平安時代に掛けての住居跡が出土しました。その中で研究者が注目するのは、古墳時代の14棟の竪穴住居です。時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。そして14棟全てに竃(カマド)がありました。「カマド=渡来系住居」の指標であることは、以前にお話ししました。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強いカマド付の住居群の住人たちは渡来系集団であった可能性が高くなります。彼らによって「遊水池化した葦野原」だった四条や吉野の開発がにわかに活発化した気配がします。時期的には「日本唯一のモザイク玉」が出てきた安造田東3号墳の造営と重なります。「吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の渡来系開発集団」が安造田東3号墳の被葬者の拠点集落というストーリーにつながります。だとすれば、吉野や四条の開発は渡来人によって始められたことになります。
想像はこのくらいにして調査報告書で、古墳時代の竪穴住居跡のひとつであるSH04を見ていくことにします。

まんのう町吉野下秀石遺跡 SH04カマド付縦穴式
左上がSH04で、竪穴住居跡の配列は、南北方向に縦長に並びます。これは最初に成立したグループに続いて、後から一定の距離を保って次のグループが住居を建てたためとします。そして各グループに挟まれた空白地域が、「広場」的な共有空間となっています。
吉野下秀石遺跡SB04 カマド付縦穴式
 吉野下秀石遺跡 カマド付縦穴住居 SH04
カマドは住居の壁に据え付けられ、住居外に煙突を延ばす構造です。
①床面部に柱穴跡がないので、柱材は床面に据え置かれていた
②竃(カマド)は、北壁面の北東隅部寄りの位置。
③煙道部の上部構造の一部は、原形を保っていたが、燃焼部、器設部各上部構造は完全損壊
④燃焼部と器設部は、高さ約15cmの下部構造が保存
⑤下部構造の基底部の規模は、原形は幅約50cm、 奥行き約80cm、 高さ約50cmの規模
⑥煙道部は、住居側が地下構造
 吉野下秀石遺跡の竪穴住居跡の竃で、保存状態が良好な竃は次の5基です。
吉野下秀石遺跡 カマド分類

残された下部構造の壁が、直立か傾斜しているかによって「半球型」と「箱型」に復元されました。
以上からは、古墳時代からこの2つタイプのカマドが使用されていたことが分かります。
吉野下秀石遺跡 カマド分類2


カマドは、韓半島から新しい厨房・暖房施設として列島にもたらされたものです。
竪穴式住居内にカマドが造りつけられ、一般化していくのは4世紀末から5世紀だとされます。この時期になると近畿では、カマドと一緒に「韓式系軟質土器」が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」とカマドは、渡来人の存在を知る上で欠かせない指標であることは以前にお話ししました。
このカマドの導入によって食事のスタイルが一変します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器によそって住居中央で食べるスタイルに変化します。そのため個人個人の食器が必要になりました。
竈と共に、次のようなさまざまな食器や調理具(韓式系軟質土器)が登場することになります。
 
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④カマドにかけられた羽釜(はがま)
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑(こしき)
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠

 八尾の古墳時代中期-後期の渡来文化(土器) : 河内今昔物語
⑥の移動式のカマドに、③の長胴甕と⑦の甑
かまど利用の蒸し調理
    韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。
 全羅道出土須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
全羅道出土須恵器(左側)とその影響を受けた列島の須恵器編年試案(中久保2017に一部加筆)
この中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。

SB03とSB04から出てきた土器について、報告書は次のように記します。

吉野下秀石遺跡SB03 遺物
              
①50は、口縁部がラッパ形に開口する大型品である。
②51の外面には、 2本の斜線で構成された大小2種類のV字形の線刻文が施されている。
③53と54の原形は、長胴の形態が考えられる。
④58は、口縁部から把手の接合部までが均整のとれた円筒型の形態である。(→甑)
⑤60は、縁端部が外側の下方向に折り曲げられた後に、先端部が器壁に接着されないままで成形を終えている。
⑥61は全体の器壁が一定の厚さで精巧につくられた資料で、特に口縁部が明瞭な稜線が形成されるように丁寧に仕上げられている。
⑦63と64は65~72に比べて、口縁端部が内側へ折り曲げられるように成形されたために、同部が垂直気味の形態を示す。
58は形状からして、甑(こしき)でしょう。

吉野下秀石遺跡SB03・4 遺物

⑧73~87は、かえし部が短い器形で、同部の内側への傾斜角度が大きい特徴がある。
⑨88の口縁部外面には、矢羽状のタタキロが認められる。
⑩89の片面には金属のヘラ状工具で鋸歯文と斜格子文が線刻されている
調査報告書は、2007年に書かれているので「 韓式系軟質土器」という用語はでてきません。
しかし、「小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑」などのオンパレードです。「カマド+韓式系軟質土器」とともに渡来人の姿が見えてきます。
古代の調理器具

以前に「韓式系軟質土器 + 初期群集墳 + 手工業拠点地」=渡来系の集落という説を紹介しました。
前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎)
次に、渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。
「初期群集墳」は、「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握のひとつの方法として群集墳が出現したと研究者は考えています。[和田 1992]。「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いたヤマト政権は「産業殖産」を次のように展開します。

①5世紀初頭 河内湖南岸の長原遺跡群で開発スタート
②5世紀中葉 生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)、上町台地(難波宮下層遺跡)へと開発拡大
③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)へ進展

①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。これを参考に、四条や吉野で進められた湿地開拓を私は次のように考えています。
①河内湖開拓事業の小型版が丸亀平野南部の四条や吉野でも進められることになった。
②そのために送り込まれ、入植したのが先端技術をもつ渡来人であった。
③彼らは、土器川近くの微高地にカマド付の竪穴式住居を計画的に建てて集落を形成した。
④カマドや
韓式系土器などで米を蒸して食べる調理方法で彼らは用いた。
⑤首長は、土器川対岸の初期群集墳である安造田古墳群に埋葬された。
彼らは、四条方面の開発整備後に、その西側の吉野地区の開拓にとりかかった。
⑦吉野地区の開拓は、その途上で挫折し、吉野が条里制地割に加えられることはなかった。
⑧しかし、彼らの子孫は氏寺である弘安寺を四条に建立した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉野下秀石調査報告書2007年
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丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制跡    

丸亀平野の条里制跡です。これを見ると整然と条里制跡が残っているのがよく分かります。

丸亀平野条里制4

よく見ると条里制跡のない白いスペースがあることに気がつきます。
A海岸線  当時は現在の標高5mの等高線が海岸線であった
B岡田台地 丘陵上で近世までは台地だった
C旧金倉川流路の琴平→善通寺生野→金倉寺の氾濫原
D土器川の氾濫原
Cの旧金倉川については、⑤の生野町の尽誠学園あたりで流れが不自然に屈曲しています。ここで人為的に流路を換えたという説もあります。そのため生野あたりの旧流路は、川原石が堆積して耕地に適さずに明治になるまで放置され大きな樹林帯が続いていたこと。讃岐新道や讃岐鉄道は、そこを買収したために短期間で工事が進んだとされることなどは以前にお話ししました。
今回、見ていくのは丸亀平野南部の①の東側部分です。ここは土器川と金倉川に挟まれた部分で、現在の行政地名は、まんのう町吉野です。ここも条里制が及んでおらず、真っ白いエリアになっています。
それはどうしてなのでしょうか?
   国土地理院の土地条件図を見ると、土器川の旧河道がいくつも描かれています。

まんのう町吉野
吉野付近の旧河道跡
木崎(きのさき)で、それまで狭い山間部を流れ下ってきた土器川が解放されて丸亀平野に解き放たれます。ここが丸亀扇状地(平野)の扇頂で、西方面に向かっていくつもの頭を持つ蛇のように流れを変えながら流れ下っていたことが分かります。
 また金倉川も現在は水戸で大きく流れを西に変えて、琴平方面に西流しています。しかし、もともとのながれは、水戸から北流して四条方面に流れて居たので「四条川」と呼ばれていたことは以前にお話ししました。現在のベーカリー「カレンズ」さんのある水戸で流路変更が行われています。そうすると、土器川と北流する旧金倉川(四条川)に挟まれたエリアは、洪水の時には大湿原となっていたことが予測されます。つまり、現在の満濃南小学校からまんのう中学校、まんのう町役場あたりは、広々とした葦の生える湿原だったのです。だから吉野(葦の野)と呼ばれるようになったと地名研究家は云います。そのために吉野エリアは、古代の条里制施工工事から外されたということになります。以上をまとめておきます。
①土器川は、木崎を扇頂に扇状地を形成している
②吉野には、旧金倉川も含めて網状河川が幾筋にも流れていた。
③吉野は、洪水時には遊水池で低湿地地帯(葦野)であった。
④そのため条里制適応外エリアとされた。
もう一度、条里制施行図を見ておきましょう。
  
まんのう町の条里制跡
まんのう町の条里制跡 吉野には条里制跡はない。四条にはある。
  旧金倉川と土器川に挟まれた吉野はほとんど条里制の痕跡がありません。ところが四条から南側と西側には条里制跡が残っています。その一番東側の微高地に建立されたのが古代寺院の弘安寺です。

イメージ 5

弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
               弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺は、四条の微高地の上に立地します。そこから東は葦原の続く大湿原でした。そういう意味では弘安寺は、四条の開発拠点に建立された寺院という性格も持ちます。どんな勢力が、四条の開発を進め、弘安寺を建立したのかを次回は見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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    買田岡下遺跡と弘安寺
買田岡下遺跡(R32号満濃バイパスとR377号の交叉点東側)
国道32号のバイパス工事の際に、買田の西村ジョイの南側から古代から近世まで続く村落遺跡が出てきています。これが買田岡下遺跡です。今回は、この遺跡を見ていくことにします。
テキストは「買田岡下遺跡調査報告書 2004年」です。

買田岡下遺跡 写真
買田岡下遺跡
 まず、その位置を確認しておきます。国道32号線と国道377号線の交差する買田交叉点の東側、西村ジョイの南側のバイパス下なります。現場に立って見ると、南側の恵光寺のある尾根から緩斜面が拡がります。北側は、金倉川が蛇行しながら東西に流れ、金毘羅山の丘陵(石淵)にあたって、北側に流れを変えます。

買田岡下遺跡の周辺遺跡について、調査報告書は次のように記します。
「背後の丘陵上には古墳時代中・後期の小古墳群の存在が知られるがその実態は詳らかではない。また白鳳期創建の弘安寺(廃寺)は 金倉川を挟んで約1,3km北方に位置する。律令制下、那珂郡真野郷は金倉川湾曲部以南の南岸部分一帯に比定され、買田地区はその西部に位置する。以東の地区とは標高120m前後の買田峠の丘陵によって隔てられており、鎌倉期には園城寺領買田庄が成立する。」

まんのう町条里制と遺跡

買田岡下遺跡周辺遺跡(赤は条里制跡)
以上を要約整理すると
①東の買田峠にはかつては、数多くの群集墳があり、岸の上の椿谷には中型の横穴石室を持つ古墳
②南の永生病院の西側には中世山城の丸山城跡
③北側や東側の平野部に白鳳期創建の弘安寺(廃寺)
④丸亀平野の条里区画の南端部の外側に位置する、
以上からは、買田岡下遺跡の周辺には
古墳時代の群集墳
→ 古墳後期の中型横穴式石室 
→ 白鳳期創建の弘安寺 
→ 那珂郡条里制の最南端
などが継続して、作られてきたことが分かります。ここからは、丸亀平野の南端エリアの開発を進めた古代有力者の存在が垣間見えると私は考えてきました。弘安寺の白鳳時代の瓦は、善通寺の影響を受けながら作られ、その同笵鏡が讃岐山脈を越えた阿波郡里(美馬市)の古代寺院から見つかっていることは以前にお話ししました。ここからは、古代から塩などの交易を通じて古代から阿波三好地域との活発な交流が行われていたことがうかがえます。そのような拠点集落が買田岡下遺跡であったのではないかという期待が私にはありました。

さて、発掘の結果何が出てきたのでしょうか。
買田岡下遺跡からは、古代・中世・近世の3つの時代の柱穴がたくさん出てきました。掘立柱建物跡は、下図のよう3つのエリアで見つかっていますが、それぞれ建てられた時代が次のように異なります。

買田岡下遺跡 区域

Ⅰ区中央は中世
Ⅱ区西南は古代
Ⅵ区は近世
 ここからは古代以来、集落が形成され続けてきたことが分かります。そして、古代と中世では、その存立基盤が次のように異なるとします。
古代 金倉川沿いのエリアを生産基盤として、阿波との交易拠点。
中世 恵光寺方面の南に延びる谷を開発し、谷田開発進めた勢力の拠点


買田岡下遺跡の注目点は、古代の大型の掘立柱建物の柱穴が大量に出てきたことです。
買田岡下遺跡 SB20 庇付
Ⅱ区南の大型の掘立柱建物 SB20とSB21

真っ直ぐに並ぶ柱穴を見たときには、「倉庫群」と思いました。「古代倉庫群=郡衙跡」とされています。そうだとすると、ここに那珂郡南部の郡衙跡的な施設があったことになります。さてどうなのでしょうか。

買田岡下遺跡SB20
Ⅱ区南のSB20を見ていくことにします。

買田岡下遺跡 SB20
SB20の平面図(南から)
この平面図からは次のようなことが分かります。
①梁間2間 (6.4m)× 桁行 5間(8,4m)
②柱穴平面は、径約0,4~0,7mの 円形か隅丸方形
③下側3列目の小さな柱穴は庇用。
④建物内部から須恵器杯蓋のつまみ、 土師質土鍋口縁部片(7世紀中頃~9世紀中頃)が出土
研究者は床面積が40㎡以上の古代の建物を「大型建築物」と呼んで「特殊用途」的建物と考えています。その基準からすれば床面積が約54㎡あるので、特殊用途の建築物です。しかし、よく見ると、3列の柱穴は小さいことです。これが庇用の柱穴だったようです。南側に庇があったことになります。倉庫ではなく有力者の居館だったと研究者は考えています。Ⅱ区を拡大して見ます。

買田岡下遺跡 古代部分拡大図
買田岡下遺跡Ⅱ区南 (左から SB20・SB21・SB25)
 3つの大型建物が並列して並んでいます。この中で廂や床束があるのが一番左のSB20で、これが主屋のようです。これを中心に2棟の副屋が配置されます。つまり、買田岡下遺跡には、9世紀半ばに廂付大型建物が3棟並んで建っていて、これは有力者の居館であったと研究者は判断します。

買田岡下遺跡 大型建物が並列する遺跡の類例
前田東・汲仏遺跡との比較
これと同じように、廂付の大型建物が「L」字に配置されているのが前田東・汲仏遺跡で、時代的には10世紀中頃のものとされます。これらは、丘陵の裾部にあったので地形的な制約があって真っ直ぐには配置されなかったためL字上になっているようです。
 研究者が注目するのは、建物の間に広場的空間があるかどうかです
中国の古代王朝の王宮などには、宮殿に南面して広場があり、ここが儀式やイヴェントの会場となる政治的空間でした。これが日本の藤原京や平城京にも取り入れられ、それが讃岐の国府にも見られます。そして、善通寺の稻木北遺跡には広場的空間を持つので、多度郡の郡衙候補を研究者は考えているようです。つまり、政治的空間である郡衛などには、南面して広場があるのです。
稻木北遺跡(8世紀前葉)

 買田岡下遺跡には、それがありません。あるのは居住に適した庇付大型建物です。そのため古代の郡衛などの政庁的建物ではなかったと研究者は判断します。私の期待は、見事に外れました。しかし、SB20からは、土師質土鍋口縁部片(7世紀中頃~9世紀中頃)がで出土しています。ここからは、空海が満濃池再築に帰省したときには、ここには集落拠点が姿を現していたことが考えられます。
広場を持たず、大型建物が並列する遺跡の類例を見ておきましょう。
買田岡下遺跡 古代大型建物配置

前田東・中村遺跡と汲仏遺跡(10世紀前葉)
③真っ直ぐではなく方位がやや振れた廂付大型建物が3棟並ぶのが買田岡下遺跡(9 世紀中葉~9世紀後葉)
④廂付を含む大型建物が「L」字にレイアウトされているのが前田東・中村遺跡・汲仏遺跡になる。
そして③④の発展系になるのが、


⑤東山田遺跡(10c 中葉~ 11 世紀前葉)
⑥下川津遺跡(11 世紀前葉)
⑦西村遺跡10c末葉~11c)
この段階になると、主屋と副屋の関係がはっきり見えてくるようです。

 このタイプが発展して、中世方形館へ成長して行くと研究者は考えています。
古代城郭教室(Ⅴ) 中世城館はどのように誕生したのか?] - 城びと
中世方形舘

このタイプの特徴は、「主屋と幅屋の明確化」でした。讃岐の中世前半期の方形館の特徴は、溝により囲まれた空間の中央の主屋、その周囲に複数の副屋が配置されることです。ここからは、両者の間に系統性が見られます。
改めて、買田岡下遺跡の発展系を整理して起きます。
①買田岡下遺跡の建物配置は、廂付き・床束を備えた1棟の大型建物(SB20)に並んで、副屋と見られる小型建物(SB21・SB25)がある。
②その発展系の西村遺跡などは、大型建物の近くに1棟の副屋がある。買田岡下遺跡との共通性は、廂付きの大型建物に床束をもつこと、大型建物が集落経営者の居住であること。
③西村遺跡(11 世紀末~ 12 世紀前半)は、溝で囲まれた空間の中に主屋と複数の副屋が配置されている
④空港跡地遺跡1は、溝区画内部に中央の主屋を中心に副屋が整然と配置されている。
以上からは、11 世紀中頃から集落断絶期を経て、③の西村遺跡には2棟あったの大型建物が 1棟のみに絞りこまれ、溝の内側に数棟の小型建物が集約されるようになったことが分かります。このような流れの中で、中世前半期に方形館が姿を見せると研究者は考えています。そこでは、買田岡下遺跡のSB20のような床束をもつ大型建物が中世方形館の主屋に多く採用されることになります。ここでは、買田岡下遺跡の10世紀の建物群は、古代後半に出現し、中世前半の方形館(武士の舘)に繋がるタイプであることを押さえておきます。

中世初期の武士の館~文献史料・絵巻物から読み解く~ | 武将の道

つまり、買田岡下遺跡については、
①7世紀の白鳳時代からこの地を拠点にしていた古代の有力者の系譜につながる勢力
②あらたに買田の地域開発を進め中世の開発型名主につながるような新勢力の拠点の両面をもっていて①から②へ脱皮していった勢力であったことが推測できます。また、この遺跡のすぐ上には、江戸時代に庄屋を務めた永原家があります。永原家は、中世には買田丸山城の城主で、近世に帰農したと伝えられます。そうだとすれば、古代から中世、そして近世の永原家につながる系譜とも云えます。
 もっと大きな目で見れば、最初に見たように「古墳時代の群集墳 → 古墳後期の中型横穴式石室 → 白鳳期創建の弘安寺 → 那珂郡条里制の最南端」に追加して「買田地区の中世開発者(永原家の祖先)」という系譜が描けるのかも知れません。しかし、これはあくまで「想像」の世界です。どちらにしても、買田岡下遺跡は、古代の郡衛的施設ではないが、中世につながる有力者の拠点集落であったとは云えるようです。
 私がもうひとつ気になるのは、この遺跡が真野郷西部にあって、条里区画外であることです。
条里制 丸亀平野南部

上の条里制遺構図をみても赤い条里制跡は、買田岡下遺跡には及んでいません。これはここが古代の郷の中心部ではないことを示します。そういう目で、真野・吉野方面を見ると、四条方面から岸の上方面へと条里制は伸びています。丸亀平野の条里制のスタートは、7世紀末頃にスタートしたことが発掘調査から分かっています。そして、それを担ったのが国造クラスの豪族達で、彼らがその論功行賞で郡司へと成長して行くと研究者は考えています。そうだとすれば、このエリアにも条里制工事を進めた豪族がいたはずです。それが古墳時代に、買田峠に群集墳を造り、岸の上の椿谷に横穴式古墳を造営し、白鳳期になると四条地区に氏寺として弘安寺を建立したと私は考えています。しかし、その氏族の拠点としては、買田岡下遺跡は相応しくないように思えます。
以上、買田岡下遺跡について、まとめておきます。
①この遺跡は、古代には真野郷西部の条里区画外にあること。郷の中心部ではない。
②真野・吉野郷の中心は、弘安寺のあった四条地区にあったと考えられる。
③にもかかわらず買田岡下遺跡からは、帯金具や緑釉や、瓦片が多数出土しているので、この遺跡は特別な役割を持った拠点だった。
④その性格として、香川~阿波~高知のルート上にあるという立地を最大限に評価すべきと研究者は考えていること。
⑤建物配置から、郡衛の様な政治拠点ではなく、古代有力者の屋敷群であったと研究者は考えている。
⑥古代の屋敷群を継承するような形で、中世・近世の建物群が続いてあった。
⑦この遺跡のすぐ南には、丸山城城主が帰農した永原氏の家が現存すること。
⑤古代と中世では、この集落は全く別の意図で成立したことが集落であったこと。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
買田岡下遺跡調査報告書 2004年
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徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ
郡里廃寺(こおざとはいじ)復元図
郡里廃寺跡は,もともとは立光寺跡と呼ばれていたようです。
「立光寺」というのは、七堂伽藍を備えた大寺院が存在していたという地元の伝承(『郡里町史』1957)により名付けられたものです。何度かの発掘調査で全体像が明らかになってきて、今は国の史跡指定も受けています。
郡里廃寺跡 徳島県美馬市美馬町 | みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"

郡里廃寺跡が所在する美馬市美馬町周辺は,古墳時代後期~律令期にかけての遺跡が数多く分布しています。その遺跡の内容は,阿波国府周辺を凌ぐほどです。そのため『郡里町史』(1957)は、阿波国には,元々文献から確認できる粟国と長国のほかに,記録にはないが美馬国とでもいうべき国が存在していたという阿波三国説を提唱しています。
段の塚穴
段の塚穴
 阿波三国説の根拠となった遺跡を、見ておきましょう。
まず古墳時代について郡里廃寺跡の周辺には,横穴式石室の玄室の天井を斜めに持ち送ってドーム状にする特徴的な「段の塚穴型石室」をもつ古墳が数多くみられます。この古墳は石室構造が特徴的なだけでなく,分布状態にも特徴があります。

郡里廃寺 段の塚穴
段の塚穴型古墳の分布図
この石室を持つ古墳は,旧美馬郡の吉野川流域に限られて分布することが分かります。古墳時代後期(6世紀後半)には、この分布地域に一定のまとまりが形成されていたことをしめします。そして、この分布範囲は後の美馬郡の範囲と重なります。ここからは、古墳時代後期に形成された地域的まとまりが、美馬郡となっていったことが推測できます。そして、古墳末期になって作られるのが、石室全長約13mの県内最大の横穴式石室を持つ太鼓塚古墳です。ここに葬られた国造一族の子孫たちが、程なくして造営したのが郡里廃寺だと研究者は考えています。
 
1善通寺有岡古墳群地図
佐伯氏の先祖が葬られたと考えられる前方後円墳群
 比較のために讃岐山脈を越えた讃岐の多度郡の佐伯氏と古墳・氏寺の関係を見ておきましょう。
①古墳時代後期の野田院古墳から末期の王墓山古墳まで、首長墓である前方後円墳を築き続けた。
②7世紀後半には、国造から多度郡の郡司となり、条里制や南海道・城山城造営を果たした。
③四国学院内を通過する南海道の南側(旧善通寺西高校グランド)内の善通寺南遺跡が、多度郡の郡衙跡と推定される
④そのような功績の上で、佐伯氏は氏寺として仲村廃寺や善通寺を建立した。

郡里廃寺周辺の地割りや地名などから当時の状況を推測できる手がかりを集めてみましょう。
郡里廃寺2
郡里廃寺周辺の遺跡
①郡里廃寺跡付近では,撫養街道が逆L字の階段状に折れ曲がる。これは条里地割りの影響によるものと思われる。
②郡里廃寺跡の名称の由来ともなっている「郡里」の地名は,郡の役所である郡衙が置かれた土地にちなむ地名であり,周辺に郡衙の存在が想定される
③「駅」「馬次」の地名も郡里廃寺跡の周辺には残っていて、古代の駅家の存在が推定できる
 このように郡里廃寺跡周辺にも,条里地割り,郡衙,駅家など古代の郡の中心地の要素が残っています。ここから郡里が古代美馬郡の中心地であった可能性が高いと研究者は考えています。そして,郡衙の近くに郡里廃寺跡があるということは、佐伯氏と善通寺のように、郡里廃寺が郡を治めた氏族の氏寺として建立されたことになります。

それは、郡里を拠点として美馬王国を治めていたのは、どんな勢力だったのでしょうか?
 
郡里が阿波忌部氏の拠点であったという研究者もいます。
 郡里廃寺からは、まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦と同じ木型(同笵)からつくられたもの見つかっていることは以前にお話ししました。
弘安寺軒丸瓦の同氾
       4つの同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)

弘安寺(まんのう町)出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」

弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      郡里廃寺の瓦 上側中央が弘安寺と同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、両者に何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
郡里廃寺の造営一族については、次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  播磨からきたのか、讃岐からきたのは別にしても佐伯氏の氏寺だと云うのです。ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説を以前にお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏を継続して建立された寺院です。
美馬郡の一族がなんらかの関係で讃岐の佐伯氏と、関係を持ち人とモノと技術の交流を行っていたことは考えられます。そうだとすれば、それは讃岐山脈の峠道を越えてのことになります。例えば「美馬王国」では、弥生時代から讃岐からの塩が運び込まれていたのかもしれません。そのために、美馬王国は、善通寺王国に「出張所」を構え、讃岐から塩や鉄類などを調達していたことが考えられます。その代価として善通寺王国にもたらされたのは「朱丹生(水銀)」だったというのが、今の私の仮説です。
 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制の中では郡司となり、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった多度郡の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。

 善通寺の大麻山周辺に残されている大麻神社や忌部神社は、阿波忌部氏の「讃岐進出の痕跡」と云われてきました。しかし、視点を変えると、佐伯氏と美馬王国の主との連携を示す痕跡と見ることも出来そうです。ここまで見てきて感じるのは、古代の美馬には忌部氏の痕跡がないことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木本 誠二   郡里廃寺跡の調査成果と史跡保存の経緯
*                                     阿波学会紀要 第55号 2009年
郡里町(1957):『郡里町史』.

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