瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:弘安寺廃寺

弘安寺跡 薬師堂
まんのう町四条本村の公民館と立薬師堂
 まんのう町四条本村の公民館と並んで立薬師堂が祀られています。お堂は1mほどの土壇の上に方二軒で南面して建っています。

弘安寺 礎石1
弘安寺廃寺 礎石

土壇に上がって薬師堂の西側を回り込んでいくと、大きな石が置かれています。これが古代寺院「弘安寺」の礎石です。1937年のお堂改築の時に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあると云います。さらに裏側(北側)に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられています。
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弘安寺廃寺 礎石 立薬師堂に再利用されている

これらの4つの礎石は移動されずに、そのままの位置にあるようです。礎石間の距離は2,1mです。

弘安寺 塔心跡
弘安寺廃寺(原薬師堂)の塔心(手水石)
 薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が手水石として置かれています。塔の心礎だったようで、中央に径55㎝、深さ15㎝で柄穴があります。この塔心は、この位置に移動されて手水石となっているので、もとあった場所は分かりません。塔があった所は分からないということです。薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があります。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と研究者は考えています。それは布目瓦が出土したエリアとも一致するようです。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区の条里方向とは一致しません。西に15度傾いています。ここから弘安寺は、条里制以前の白鳳時代に建立された古代寺院とされます。

弘安寺について書かれた文章を、戦前の讃岐史淡に見つけました。
讃岐史談(讃岐史談会編) / 光国家書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
讃岐史淡
讃岐史淡は、琴平の草薙金四郎が1936年から1949年まで発行した郷土史研究雑誌です。それを3冊に復刻したものが刊行されています。これも私の師匠から「もっと、勉強せえよ」との励ましとともにいただいて、何年も「積読(つんどく)」状態になっていたものです。やっと開いて見ていて見つけたのが 「 田所眉東 (七)仲多度郡四條村弘安寺に就いて 讃岐史談下巻 第4巻第2号   1939年」です。戦前に弘安寺のことが、書かれた文書はほとんどないので、読書メモ代わりに現代文に意訳変換してたものを以下にアップしておきます。
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立薬師堂(まんのう町四条本村)
仲多度郡四條村弘安寺に就いて    田所眉東
愚息を見途り早めに琴平の定宿に入り、草薙金四郎氏を訪ねた。話が四條村の立薬師のことになって、翌日に立薬師に詣でた。立薬師は昔は弘安寺と云ったようである。この弘安寺は医王山浄願院城福寺の末寺となっているが、その際の昭和四年十二月十二日に、両寺の本末決定のための提出明細帳(同五年十二月廿五日許可)には、次のように記されている。
中に本尊薬師立像 行基作三尺六寸
口碑に依れば大同年間、弘法大師の創立弘安寺と称し往古七堂伽藍備はりたるも、天正年間長曾我部の兵火に羅り、遂に復興するに至らす小堂を備へ、本尊を安置したるを当山末寺なりし城福寺獨り存して維持し今日に及びたるものなり。
これ以外の立証資料として、
全讃史に 「弘安寺行基創立本拿薬師如来。今則慶篤小庵」
玉藻集には「薬師一宇方二間四條村弘安寺本箪行基菩薩作」
地元の伝えでは「大門観音堂あり。」
浄願院の文書中には、弘安寺のことが次のように記されている。
「薬師堂弐間四面瓦葺.薬師如来行基之御作、境内東西八間、市北拾間、右弘安寺前々より浄願院支配なきあり。」
「讃岐国中郡有西楽寺一宇改称医王院なり」
当山先師手数の書始めに臀王山西楽寺□□院大同二歳建立内伽藍八丁四方宛二御免地二有之候所 長曾我部燒討相成共後追々致断絶大同年中より寛文迄之累代先佳一墓ニ相約改宥存代寛文ニ城福寺浄願院興右有宥存代より中興一世給也当山先師年敷法印宥存  元禄七戊より百六拾七戊より百六拾五歳也
以上の記述については、浄願院と弘安寺を混同しているところがあり、正確なものではない。弘安寺は、もともとは境内方八町あったと伝わっている。
以上から分かるように、文献史料からは確かな手がかりを得ることはできない。弘安寺の遺物として確かなものは、本堂下の土壇や塔婆石のみである。
弘安寺は、後世には何かの事情で墓地になっていたようで、この墓地の南側に溝があり、それに添って小道がある。その南側に宅地(644ノ第二地番)があり、その間に自然の区画がある。
 これを伽藍配置の南限として、宅地(699地番)と畑地(648地番)の間の畦線と官地(642ノ内地番)の西側の道路の彎曲の頂点を南北に見通し、以上の並行線を北に延長じ道路696ノ8の地面)東北.西北両隅に近い道路の交又点を見通し、最も自然のままの彎曲線を見定め墓(648八)南添の道路と並行に東西に線を引けば、赤丸でかこんだ長方形のエリアを得ることができる。この範囲は東西両側線か40間になるので、南北両側線の長さも自然と決まる。そうすれば塔の土壇は、西塔が建っていた位置と推測できる。何んの伝説もないので、東塔はなかったようだ。そうすると墓地(648番地)辺りに、中門があったことになる。どちらにしても、塔の土壇を廻廊の内へ入れなければ伽藍配置は描けない。
 出土古瓦の文様から、弘安寺は「薬師寺式」を基本として計画したものであろう。
薬師寺食堂の調査(平城第500 次調査) 現地説明会 配布資料(2013/1/26)
薬師寺式伽藍

もとより田舎の事なので、建立にかかったものの、その一部だけしか完成しなかったのかもしれない。畑地(696ノ8)の北側まで、古瓦の破片が散見する。墓地(648)の南側道より約30間位南に離れた田地に大門の地名が残っているのが、南大門の名残であろう。これで弘安寺は平野の真ん中に、南面して建っていたことが分かる。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
出土した古瓦を見ておこう。
立薬師には甲・乙の2つの古瓦が残されている。甲は誰が見ても「白鳳期」のものである。乙は奈良期のものと云いたい所だが、今は平安初期としておこう。この二つの鼓瓦(軒丸瓦)を、突きつけられては、弘安寺は弘法大師によって建立されたとは云えなくなる。なぜなら弘安寺が姿を現したのは白鳳時代の7世紀後半で、空海が登場するよりも百年近く前のことになるからだ。大師が生まれる前に、この寺は出来ていた。大師建立など云うのは、大師の高徳を敬慕するよも勧進開山のためであろう。

 瓦の裏文様も種々ある。採取した瓦の破片の中には、奈良末期や平安中期のものもたくさんある。縄文様のものは、片面に布目もある。鎌倉時代の瓦はまだ出てこないが、室町時代末のものは、少数ではあるが出てくる。ここからは、この寺院が室町後期までは、なんとか存続していたことがうかがえる。

弘安寺礎石2
立薬師堂と礎石 古代の弘安寺の礎石がそのまま使用されている

土壇の上の塔礎石をもう一度見ておこう。
 礎石の中には元のままの位置にあって、その上に今も薬師堂の柱が載っているものもある。特に北側の4つの礎石の位置は、動かされていないようだ。両端の礎石の距離は15尺(約4、5m)ある。南側は、床下が暗くてよく分からない。その中の西側にある礎石は、東西径6尺南北径3三尺9寸で、これが一番大きい。その中央に今は手洗鉢となっている心礎があったのであろう。心礎以外には加工したものは、今のところ見当たらない。
弘安寺 塔心跡
手水石となっている塔心跡

室町末の唐卓瓦がわずかに出ているので、この寺院の廃絶時期が推察できる。
 弘安寺の廃絶は、長曾我部の兵火と文書史料は記すが、それは巷で伝えられる長曾我部兵火説と同じで事実ではない。弘安寺は何度も火災にあったことが、出てくる燒瓦から分かる。寺院の振興は、それを支える信者集団の有無にある。弘安寺は平安期には火災にあって、再建されている。しかし、鎌倉期には遺物が少なくなる。。ここからは寺運の盛衰がうかがえる。弘安寺には白鳳期の鼓瓦(軒丸瓦)がある。
 弘安寺からさほど遠くない所に讃岐忌部氏の祖神を祀る大麻神社が鎮座する。
その背後の大麻山には、積石塚古墳が数多く造営されている。これらの経済力を持った氏族が氏寺として弘安寺を建立したものと思う。このような豪族の勢力の衰退が中世になって衰退し、弘安寺が廃絶したと考える。

以上が約80年前の研究者の弘安寺廃寺に関する記述です。ここから読み取れることをまとめておくと次のようになります。
①文献史料には、弘安寺について記した同時代史料はない
②弘安寺廃寺の伽藍について、1町(108m)四方の大きさを想定
③塔は西塔だけで、現在の土壇上に建っていたと想定
④手水石は、かつての西塔の心礎でかつては、土壇上の礎石群の真ん中にあったものが、現在地に下ろされ手水石として利用されていると推測。
⑤出土した瓦から創建は、白鳳時代まで遡り、廃絶は室町時代末とされる。
⑥造営氏族は、大麻神社を氏神として祀る讃岐忌部氏を想定。

ここからは、文献史料からは弘安寺の歴史に迫ることはできないようです。考古学的な手法で迫るほかありません。 弘安寺の軒丸瓦については、以前にもお話ししたように、以下の古代寺院から出てきたものと同じ木型が使われていることが分かっています
①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺は美馬町の郡里廃寺のこと
次回は、この瓦を通して弘安寺の歴史に迫ってみましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「 田所眉東 (七)仲多度郡四條村弘安寺に就いて 讃岐史談下巻 第4巻第2号   1939年」

関連記事

 まんのう町に白鳳期の古代寺院跡があるという。

弘安寺周辺地遺跡図

にわかには信じられなかった。調べて見ると、香川県史にも、新編満濃町誌にも触れられている。そして、礎石と白鳳期の瓦が出土していると書かれている。これは行かねばなるまい。地図で当たりをつけながら四条小学校の西周辺の道を原付バイクで散策。目標は四条本村の薬師堂。すぐそばに公民館も同居と聞いていたが、なかなかわかりにくい。
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薬師堂 まんのう町四条本村

細い道を入り込んでいくと、それらしき空間が開けてきた。高さ1㍍の土壇の上に薬師堂が建てられている。方二間の南面する薬師堂の西側に回り込んでいくと、大きな石が不規則に置かれている。これが古代寺院「弘安寺」の礎石のようだ。1937年に、お堂を改築する際に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあるという。

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 さらに裏側に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられている。移動されなかったと思われるの四つ礎石についてみると、土壇場にあった旧建物は南面してわずかに西に向いている。礎石間の距離は2,1㍍である。これが本堂跡だろうか。

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薬師堂の下の礎石

以下 満濃町誌によると (満濃町誌107P) 

薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が置かれている。塔の心礎であったと思わる。中央に径55㎝、深さ15㎝ の柄穴がある。しかし、塔の位置は確認することができない。

弘安寺 塔心跡
弘安寺 塔心跡

 薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があるそうだ。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と考えられ、布目瓦が出土した範囲とも一致する。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区に見られる条里の方向とは一致せず、西に15度傾いている。このことからこの寺の建立は、条里制以前の白鳳時代にまでさかのぼると考えられる。
 本尊の薬師如来は、像高131㎝ 一木作りで大きく内ぐりが施された立像である。各部に大修理が加えられているが、胸のあたりから腹部に流れる衣文の線が整って美しく、古調を漂わせている。
 弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
  弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
           
 境内から出土した瓦のなかには、十六葉単弁蓮華文軒瓦瓦(径19㎝)など、法隆寺系の白鳳時代の瓦が含まれている。
この中で興味深いのは、ここから出土した軒丸瓦とおなじ木型で作られた瓦が以下の寺院から見つかっていることです。

弘安寺軒丸瓦の同氾

①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
これらの寺院ら出土した瓦と同じ木型で作られた瓦が、弘安寺でも使われていたようです。さらに、木型の使用順も弘安寺が一番早く、①②③と木型が使い回されていたことが分かっています。弘安寺とこれらの寺院、造営氏族との関係がどうなっていたのかが次の課題となっているようです。それはまたの機会にすることにして・・


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もうひとつこの立薬師堂で見ておきたいものがあります。
立薬師本堂左には小さなお堂があり、そこには古い石造物が安置されています。
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 弘安寺跡 十三仏笠塔婆
柔らかい凝灰岩製なので、今ではそこに何が書かれているのかよく分かりません。調べてみるてみると、次のようなものが掘られているようです
①塔身正面 十三仏
②左側面上部に金剛界大日如来を表す梵字
③右側面上部に胎蔵界大日如来を表す梵字
④側面下部に銘文 四條村の一結衆(いっけつしゅう)によって永正16年(1519年)9月21日に造立
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弘安寺跡 十三仏笠塔婆
 塔身の高さは58㎝、幅と奥行は28㎝で二段組の台座40㎝の上に立つ。笠と五輪塔の空輪が乗せられて総高は142㎝
この石造物は、中世の16世紀初頭の石造物になるようです。その時代まで、ここには古代創建の寺院が存続していたのでしょうか。そうだとすれば、法然がやってきた13世紀にも、この弘安寺はあったことになります。多分、まんのう町域では、最も由緒ある真言寺院であったことでしょう。しかし、法然の記録には、この寺院のことは出てきません。小松荘で彼が拠点としてのは、別のお寺であったことは、以前にお話ししました。
 四条本町周辺には、条里制施行に先行する7世紀後半の白鳳神社があり、16世紀近くまで存続していたとしておきましょう。四条本町が、このエリアの中心だったことがうかがえます。

白鳳期の丸亀平野南部において、古代寺院を建立した古代豪族とは?
善通寺では,有岡古墳群から古代寺院の「善通寺」建立へと続く佐伯氏の存在が思い浮かぶ。この地域の古代寺院を建立するだけの力を持った豪族とはだれか?

満濃町誌は因首氏(改名後は和気氏)だと次のように推論しています。

 本尊の薬師如来については、枇杷(びわ)の大木を刻んで造ったという『讃留霊王皇胤記』島田本に見られる和気氏の枇杷伝説に付会した伝承がある。また、木徳の和気氏が弘安寺以来の大旦那であったことが語り継がれている。
現在薬師堂に伝わる記録の中にも「和気氏が常に多額の金を寄付して第一の大旦那であった」ことを示す記事がある。この寺は、和気氏の氏寺として建立されたとも考えられる。
 一般の家屋が平床の掘立小屋で、藁や板で屋根を葺いていた当時、弘安寺の瓦が金毘羅山を背景にしてそびえ立つ姿は、美しい一幅の絵であったであろう。仏教は、すぐれた仏教文化の広がりという形で満濃町にも浸透した。

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