瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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      弘安寺跡 十三仏笠塔婆3
まんのう町四条の弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆
  前回に天霧山の麓の萬福寺の十三仏笠塔婆を見ました。これと同じようなスタイルのものがまんのう町四条の弘安寺跡にあることもお話ししました。
十三仏笠塔婆
         弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆(まんのう町HPより)

この笠塔婆の右側面には、胎蔵界大日如来を表す梵字とその下に

「四條一結衆(いっけつしゅう)并」

と彫られています。
「四條」は四条の地名
「一結衆」は、この石塔を建てるために志を同じくする人々
「并」は、菩薩の略字
  以上の銘文から、この笠塔婆が四條(村)の一結衆によって、永正16(1519)年9 月21日の彼岸の日を選んで造立されたことがわかります。私が注目するのは「一結衆」です。今回は、この言葉を追いかけて、見えて来た事の報告です。 テキストは「川勝政太良 講衆に関する研究」です。結衆とは何だったのかを押さえた後に、笠塔婆の造立過程を物語り化する事を今回のミッションとします。まずは結衆についての情報収集です。
「結衆」は「講衆」から生まれてきたようです。
「講衆」を辞書で調べて見ると「講義を聞く大衆、講会に集る人衆」から転じて「無尽講や頼母子講など金銭の融通を目的とする講の人々」と転化していったと記されていました。よく分からないところもありますが、古代から中世から間に「仏教講義から俗社会的なもの」に変化していったようです。その間に石造物造立などの「仏教的作善」を行ったグループのことを含めて結衆と呼ぶようです。
まず、結集の起源である「講」を押さえておきます。
奈良時代に行われていた最勝会・仁王会・法華会は、それぞれ金光明最勝王経・仁王般若経・法華経を読論し、これを講義する国家的な大法会でした。平安時代に盛行した法華八講は法華経八巻を朝と夕と各二巻ずつとして四日間に八巻を講読する法会です。経を読み講じ、供養することが目的です。こうした講会は、東大寺などの国家的寺院など大きい寺で行われました。それを真似た大貴族は、自宅の仏堂などで、私的な講を行うようになります。
 鳥羽上皇の女院高陽院泰子主催の阿弥陀講について、平信範の日記『兵範記』(仁平三年(1153)六月十五日条)には、次のように記されています。 (意訳変換)
高陽院の御所は今の堀川西洞院の間、竹屋町椹木町の間の二町四方にあった。その中の御堂において阿弥陀講が営まれた。この御堂は九体の阿弥陀像をまつる九体堂で、中尊は丈六像だった。中尊の前に仏鉢に白飯を盛って供え、九体の像それぞれに香、花、燈明を供えられていた。はなやかに堂内は荘厳され、六人の僧の座の前の机に法華経一部八巻と開経(般若心経)結経(阿弥陀経)各一巻、合わせて十巻の他、阿弥陀講の式文が置かれていた。
殿上人、上達部が多く参列し、午后二時に権少僧都相源など六人の僧が着座すると、院司の顕親朝臣が挨拶し、ついで阿弥陀講がはじまった。相源を導師として、法華経開結十巻が供養され、阿弥陀講の讃文を書いた式文が説かれ、これで講は終了し、導師は座を下り、ついで僧六人に布施を下された。
 ここからは、講が講義よりも仏や経の供養に重点が移っていることがうかがえます。そして飾り立てられてヴィジュアル化した美しい行事になっていたようです。
寺での講の例としては、『大鏡』の物語の舞台に使われた雲林院の菩提講があります。
雲林院は、今の紫野大徳寺のある辺りにあったお寺で、毎年五月に菩提のために法華経を講説する法会でした。講師は、大衆にもわかるような説教をしたようです。「法華経講説」と云えば難しそうですが、要は極楽浄土信仰です。その他にも、人々を集めて弥陀来迎のようすを見せる法会の迎講もありました。それが阿弥陀信仰の広がりと供に、念仏講などの講や講衆を生みだすようです。

講や講衆はいつ、どのようにして生まれてきたのでしょうか。
  その源を研究者は、奈良の元興寺極楽坊に求めます。

奈良元興寺
元興寺極楽坊
 現在の極楽坊の本堂は、鎌倉時代中期の寛元2年(1244)の再建です。その内部の柱に、田地寄進文が刻まれています。その一は、鎌倉時代はじめの貞応元年(1222)に、百日講の御仏供料として田地を寄進した文です。百日講は、百日にわたって法華経を講じた講で、極楽往生の信仰があったようです。寛元2年(1244)の本堂棟札の中には「往生講衆一百余人」とあります。ここからは極楽浄土に生れたいという講衆が百余人、本堂再建に協力していることが分かります。この寺では、このような百日講、往生講などの信者のメンバー(講衆)が育っていたと研究者は考えています。
 しかし、講衆という文字の用いられる例は、鎌倉時代のはじめには少ないようです。「仏教的作善に、多くの人が参加した」という記し方の多いようです。その後の動きを見ておきましょう。

愛知県蒲郡市勝善寺の鐘は、もともとは三河国薬勝寺の旧鐘でした。
愛知県蒲郡市勝善寺の鐘銘
三河国薬勝寺の旧鐘の銘文
承元二年(1230)に「大衆ならびに結縁衆」によって造立されたと銘文にあります。これは梵鐘造立にあたって、大勢の人々が費用を出すことに協力したもので、「事業」に参加することで縁を結ぶ人たちが多くできたという意味合いです。ここで注意しておきたいのは、最初から信仰組織があったわけではないことです。

これに対して、埼玉県の竜興寺の文永八年(1271)の板碑を見てみましょう。
   龍興寺板碑(青石卒都婆)緑泥片岩、高さ 166Cm 下幅 61Cm)

右志者、毎月廿四日結衆奉造立 青石卒都婆現当二世利益衆生也

この石塔は法界衆生の菩提をとむらうために造立され、造立者は「毎月廿四日を期日とする結衆」と記されます。そして、新平三入道以下十二人ばかりの名が見えます。「藤五郎、藤三、三平太」など、姓がない人が多いので、この土地の中級の百姓たちの結衆で建てられたことがうかがえます。この板碑の上部はなくなっているので、本尊の梵字は分かりません。しかし「毎月二十四日」とあるのは、地蔵菩薩の結縁日なので、この結衆は地蔵信仰で結ばれていたと推測できます。地蔵菩薩は六道に迷う亡者を極楽浄土に導くと説かれましたから、浄土信仰につながるものだったのでしょう。
 「廿四日結衆」の場合は、先に結衆という母胎があって、その結衆の作善として板碑が造立されたことになります。日常的に信仰活動を行うグループが作善行為として、板碑を造立しています。
 
群馬県邑楽郡千代田村赤岩の光恩寺板碑も、文永八(1271)年に造立されています。
光恩寺板碑
光恩寺板碑

板碑上部はなくなっていますが蓮座は残っています。身部に地蔵立像、下方に二十人の交名・紀年銘が次のように刻まれています。
   大檀那、阿闍梨、幸海」
藤原吉宜、紀 真正、弥五郎入道、六郎房、日奉友安、伴 吉定、田中恒吉、藤原光吉、藤原友重、藤原貞盛 藤原兼吉、大春日光行、藤原安重、藤原国元、藤原時守、平 貞吉、藤原貞口、田上則房、藤原助吉
 結集、文永八(1271)辛未、八月時正、仏蓮坊、敬白」

ここからは鎌倉時代中期の文永八年(1271)八月彼岸の中日に、大檀郡阿闇梨幸海をはじめとして、藤原吉宣、藤原兼吉、紀真正など19名が結集し造立したことが分かります。名には姓名があるので、庶民ではなく武士層か名主層の人たちの結衆だったことがうかがえます。しかし、富裕な豪族ではなく、中級階層でだったことを押さえておきます。

結衆は、一結衆とも称するようになります。
 高野山金剛峰寺の鐘は、もともとは弘安三年(1280)造立の河内国高安郡(現在八尾市)教興寺にあったものです。この銘文には「一結講衆同心合力」して奉鋳したとし、施主美乃正吉、僧教善など二十三人の名前があります。大勧進浄縁の名があるので、この勧進僧によって誘われた人々が梵鐘奉鋳のために結衆したことが分かります。一結講衆は一結衆と同じ意味です。この頃から一結衆の文字が見られるようになります。
山形県上山市前丸森板碑は、応長元年(1311)の造立です。
上山市前丸森板碑
前丸森板碑
置賜と村山を結ぶ古くからの旧道のある前丸森山の坊屋敷という所あり、高さ98㎝、最大幅52㎝の砂質の凝灰岩の碑で、次のように刻まれています。
辛四十八日念佛結衆
バン(金剛界大日)應長元年八月二十九日
亥二十人面々各々敬白
大旦那有道坊
 結衆の碑としては山形最古のものになるようです。本尊の梵字は金剛界大日如来の「バン」で、「四十八日念仏結衆等二十人面々各々敬白」とあります。阿弥陀の四十八願にならって四十八日念仏の結衆が二十人の人々で結ばれ、この供養のために板碑が造立されたようです。密教の大日を本尊としているので、密教系の念仏講のようです。中世には高野山も時衆僧侶により念仏化し、高野聖がそれを全国に広めたこと、近世最初の四国霊場では念仏が唱えられていたことは以前にお話ししました。修験者たちの廻国僧侶の活動が背景にうかがえます。

寺と密接な関係を示すのが、滋賀県大津市葛川坊町の明王院の宝簾印塔(正和元(1212)年)です。
明王院の宝簾印塔
           明王院の宝簾印塔

基礎の東側に、次のように刻まれています。
「正和元年(1312)壬子、卯月八日、奉造立之、四村念仏講衆等敬白、常住頼玄」

これは坊村ほか付近の四か村の念仏講衆で、明王院は天台宗延暦寺の別院、頼玄は明王院中興者として有名な僧です。その明王院主が念仏講衆の世話をしたことを語る遺物になります。これは天台系の念仏信仰の講衆です。
一結講衆と刻まれたものが出てくるのは、鎌倉時代末頃になってからのようです。

四条畷町逢坂の延元元年(1338)の五輪塔
    大阪府四条畷町逢坂の五輪塔(延元元年(1338)
  大阪府北河内郡四条畷町逢坂の五輪塔は、「大坂一結衆」の造立です。 地輪正面に「大坂一結衆、延元元年(1336)丙子三月日、造立之」の刻銘があります。大坂は逢坂と同じで、この集落の人たちの結衆で、地名をつけた講衆で、まんのう町四条の笠卒塔婆と同じです。

宝福寺宝塔は、永享十一年(1439)
群馬県高崎市町屋の宝福寺宝塔
この宝塔は、永享11年(1439)の造立で、次のように刻まれています。
一郷五種行結衆、村中、三人、同旦那十二人、敬白
永享十一年二月二十八日

これは、一郷の内で、僧侶が三人、村の富裕層の旦那十二人が結衆して、極楽に往生するための五種行を行った珍しいものです。浄土信仰の結衆であることがうかがえます。
  以上をまとめておくと
  ①仏教的作善の参加者は、古代には上級貴族たちのみであった
  ②鎌倉時代になると、経済的に台頭してきた中流階層にも仏教の浸透が進み、講衆(結衆)として石造物造立塔に参加するようになる。

室町時代前期までの結衆や講衆は、仏教信仰に関するものがほとんどでした。それらがやがて庶民の日常生活と結びつくものに変化していきます。つまり民俗要素が強くなります。それは表向きは、信仰のために集まりますが、念仏をとなえたあとは酒食をたのしむといった風です。それが強くなるのは室町時代中期からです。
まず六斎念仏の講衆があらわれます。
六斎日と称して毎月戒を保つべき特定の日を決めて、身をつつしみます。これと念仏とが結びついたのが六斎日の念仏講です。大阪府岸和田市池尻町の久米田寺五大院の石燈籠竿(文安五年1448年)に「六斎衆等」とあります。これと同じようなものが奈良県・大阪府中心に増えてきます。
この他にも念仏講は、さまざまな形をとるようになります。そのひとつが夜念仏です。

永享八年(1436)夜念仏板碑

 夜念仏(よねんぶつ)板碑(永享八年(1436)東京都
①塔身部表面には、周囲に枠線、上部に天蓋・瓔珞(ようらく)
②その下に阿弥陀三尊を表す梵字3字
 「キリーク〈阿弥陀如来種子〉」
 「サ〈観音菩薩種子〉」
 「サク〈勢至菩薩種子〉」
③下部の中央に
 「永享八年丙辰八月 時正敬白」
 「夜念佛供養一結衆修」
 左右に光明真言が梵字24字で陰刻
ここからは、1436年の秋彼岸に人々が集まり、死後の冥福を祈って光明真言を唱える念仏供養を行ったことを記念し造立したことが分かります。国内に残る夜念仏板碑のなかで最古の紀年銘をもつ板碑になるようです。
私の興味がある庚申板碑が現れるのも室町時代中頃からです。
庚申信仰の歴史は古いのですが、民衆に拡がるのはこの時代からです。東京都練馬区春日町稲荷神社にあった長享二年(1488)の板碑には、「奉申待供養結衆」として十四人の農村の人たちを中心とする名前が刻まれています。
以上をまとめておきます
①古代東大寺などで行われていた法会が、大貴族の舘で講としてきらびやかに行われるようになった
②古代の仏教的作善として寺院建立・仏像造営・石造物造立をおこなったのも、大貴族たちであった。
③中世になると石造物造営などの「仏教的作善」を、中層階層が講、結衆、講衆を組織して行うようになった。
④結集は、仏教信仰からスタートし、室町時代になると娯楽的要素が強くなる。
⑤人々は様々な信仰の下に結衆し、各種の石造物を寺院に寄進するようになる。
以上の情報収集をもとに、弘安寺に十三仏笠塔婆が寄進されるまでの経緯を物語風に描いてみます。
時代背景
応仁の乱が終結してからの16世紀初頭の頃のこと、管領家の棟梁は修験道に凝って、自分は天狗になるんだと女人も寄せ付けず修行三昧の日々。そのため世継ぎもできず、養子を迎える始末。それも事もあろうか3人も。3人の世継ぎ候補が現れれば、世継ぎ争いが起きるのはこの世の習い。この結果、細川家は永正の錯乱と呼ばれる泥沼状態にたたき込まれる。讃岐の有力被官香川・安富・香西などの首領も命を落とし、後継者をめぐって一族の対立が起きて、讃岐では他国に先駆けて戦国時代に突入。天霧城の香川氏も一族内紛で混乱状態へ、そこにつけいるのが丸亀平野南部で勢力を拡大していた長尾氏。長尾氏は、これ幸いにと金倉寺から多度津方面へ勢力拡大を目論む。
 讃岐の戦国時代化が進む中の那珂郡四条
16世紀の弘安寺
 白鳳時代に建立された弘安寺は古代有力者の菩提寺として建立されたが、中世になるとパトロンが力をなくし、お堂だけに小規模化し無住になっていた。そこに定着したのが廻国の高野聖。彼は阿弥陀念仏信仰をもつ修験者でもあり、十三仏信仰の持ち主でもあった。彼の同僚の中には、海運業で賑わう塩飽の海運業者を結衆に組織化し、信者を増やしているものもいた。弥谷寺の石工達に十三仏笠塔婆の制作を依頼し、それを本島や粟島に造立もしていた。さらには、天霧山麓の萬福寺や牛額寺にも寄進しているのを、五岳に修行に行った際に見ていた。それを見ていた弘安寺の聖も、布教活動が軌道に乗ると、有力者達に働きかけて十三仏結衆を組織化した。そして、1519年の秋の彼岸の日に、弥谷寺の石工達によって造られた笠塔婆が馬で四条に運ばれ、弘安寺に寄進された。そのモデルになったのは、天霧山麓の萬福寺に10年前に造立されていた十三仏笠塔婆だった。
(あくまで私のフィクションです。)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
川勝政太良 講衆に関する研究 1973年
満濃町の文化と人物 立薬師の十三仏笠塔婆 満濃町誌1005P
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弘安寺跡 薬師堂
立薬師(弘安寺跡 まんのう町四条)
 まんのう町四条には立薬師と呼ばれるお堂があります。
このお堂の下には、古代の弘安寺跡の礎石が今でも規則正しく並んでいます。
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        弘安寺廃寺 礎石 立薬師堂に再利用されている

また出土した白鳳時代の瓦は、善通寺のものと関連があり、阿波郡里廃寺の瓦と同笵である事を以前に紹介しました。ここには、もうひとつ見るべきものがあります。それが十三仏笠塔婆です。

DSC00918
弘安寺跡の十三仏笠塔婆

柔らかい凝灰岩製なので、今ではそこに何が書かれているのかよく分かりません。調べてみるてみると、次のようなものが掘られているようです
①塔身正面 十三仏
②左側面 上部に金剛界大日如来を表す梵字
③右側面 上部に胎蔵界大日如来を表す梵字
④側面下部に銘文 四條村の一結衆(いっけつしゅう)によって永正16年(1519年)9月21日に造立
十三の仏が笠塔婆に彫られているので十三仏笠塔婆というようです。この石造物には、年号があるので16世紀初頭のもとのと分かります。この時期は、細川家の内紛に発した永正の錯乱に巻き込まれ、在京中だった香川・安富・香西などの棟梁が討ち死にし、その後も讃岐の国人武士達が動員されていた時代です。その時代まで、弘安寺は存続していたことがうかがえます。そうだとすれば、まんのう町域では、最も由緒ある真言寺院であったことになります。 

奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑 - 石造美術紀行
 奈良県 天理市苣原町 大念寺十三仏板碑

話を十三仏笠塔婆にもどします。私は、この塔については何も知らないので、周辺知識をまずは集めていこうと思います。
同じような塔が、天霧山の麓の萬福寺(善通寺市吉原町)にあるようです。その報告記を、まずは見ていきたいと思います。テキスト「海遊博史  善通寺市萬福寺 十三仏笠塔婆について   9P    善通寺文化財教会報25 2006年」です。
萬福寺
萬福寺(善通寺吉原町)
 萬福寺は、さぬき三十三観音の霊場で、中世の讃岐西守護代香川氏の詰城があった天霧山の東山麓にあります。丸亀平野の西の端に位置して、目の前に水田地帯が拡がります。

萬福寺2
萬福寺境内から望む五岳
南側には吉原大池に源をもつ二反地川が、多度津白方方面に流れ、東側には東西神社が鎮座し、西側には十五丁の集落が旧道沿いに並んでいます。位置的には、萬福寺は十五丁集落の東端になります。また、天霧石の採石・加工場であった牛額寺が西奥にあります。
 開基は行基とされますが、不明です。もともとは吉原町本村寺屋敷にあったようですが水害を避けるため現在地に移転したと伝わります。移転時期は『讃州府誌』には正徳元(1711)年、別の記録では天正年間(1573~91)とされます。

東西神社
萬福寺に隣接してある東西神社  
『全讃史』には、「東西大明神の祠令なり」と記されています。東西神社は中世後半の中讃一帯を支配下においていた香川氏の氏神でした。萬福寺は、東西神社の別当寺として栄えていたことが推測できます。
本尊は行基菩薩の作と伝えられる聖観世音菩薩像と馬頭観世音菩薩像であります。馬頭観音が本尊である事は、押さえておきます。現在は讃岐三十三観音霊場第二十四番札所になっています。

さて笠塔婆・十三仏とは何なのでしょうか? 
①基礎の上に板状、あるいは角柱の塔身を置き、
②塔身に仏像などの種子や名号・題目などを刻んで、
③その上に笠をのせ、頂上に宝珠、もしくは相輪を立てた塔
笠塔婆

 板碑の先駆となる石塔で、平安後期に姿を見せ始め、鎌倉後期以降には多くの笠塔婆が造られたようです。最初は、追善供養や逆修供養のために造られますが、時代と共に、五穀豊穣、国家安泰、国土安全などの民衆の信仰心が深く刻まれるようになります。笠塔婆は、その後に登場する板碑の原型でもあり、同時に現在の角柱墓標などの原型ともされる石造物のようです。一番古い笠塔婆は、熊本市本光寺の安元元(1175)年のものとされます。

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真言宗の十三仏
十三仏とは、死者の初七日から三十三回忌までの法事の時に本尊とする十三体の仏・菩薩のことです。
初七日は不動明王、
二七日は釈迦如来、
三七日は文珠菩薩、
四七日は普賢菩薩、
五七日は地蔵菩薩、
六七日は弥勒菩薩、
七七日は薬師如来、
百か日は観世音菩薩、
一周忌には勢至菩薩、
三回忌には阿弥陀如来、
七回忌には阿問如来、
十三回忌には大日如来、
三十三回忌には虚空蔵菩薩
 十三仏笠塔婆は、このような十三仏信仰が基にあります。
寺の門前や村の入口、辻などに立て、先祖の冥福と仏の加護による招福除厄を祈ったのがもともとの起源のようです。成立根拠は経典にはなく、日本で独自に生まれた民間信仰なのです。そのため宗派と直接的な関係はありませんが、真言宗では檀信徒の日用経典にも十三仏の真言が取り入れられるなど、最も密接な宗派となっているようです。
 その出現当初には、九仏や十仏などいろいろな数の仏が描かれたようですが、室町期になると十三仏に定型化します。その中で在銘最古のものは、河内と大和の国境の信貴山にあります。ここと生駒山周辺に十三仏石造物は密集していので、このエリアを中心に全国に普及していったと研究者は考えています。こうして先祖供養と現世利益の両面から十三仏信仰は、庶民の間に広がって行きます。近世になると、十三仏を祀る寺院の巡拝が盛んに行われるようになります。これだけの予備知識を持った上で、萬福寺の十三仏笠塔婆を見ていくことにします。

萬福寺
萬福寺本堂への階段

十三仏笠塔婆は、階段を登った本堂横の墓地内に安置されています。
笠塔婆は南側を正面にして立てられています。基礎・塔身・笠はもともとのものですが、笠は別部材の可能性があると研究者は指摘します。部材ごとの研究者が観察所見を見ておきましょう。

万福寺笠塔婆正面
萬福寺十三仏笠塔婆(正面)

 基礎は、
①高さ31cm、幅51cm、奥行き52cm。平面はほぼ正方形。
②どの面もやや粗く整形され、上面は斜めに緩く傾斜。
③石材は火山、天霧山麓に分布するの弥谷Aと分類されている
 塔身は、
④高さ71cm、幅35、奥行き35cmの直方体。
⑤側面に大きな月輪があり、加工当初から正面を意識していた可能性が高い。
⑥塔身には、方向にいろいろな印刻あり。
⑦正面(南面)には、十体以上の仏の略像が印刻
⑧略像は五段形式で、上段中央に1体、その下段に3体ずつ横並びで、3段まで確認できる。
⑨下部は剥落して確認は出来ないが、さらにもう1段があった。
⑩つまり、上段から順に1・3・3・3の計13体の略像が陰刻されていた
以上から、この塔が十三仏信仰に基づいて作られた笠塔婆であると研究者は判断します。
萬福寺十三仏笠塔婆実測図
           萬福寺十三仏笠塔婆(正面)

ここに刻まれている略像を、研究者は次のように推察します。
①最上段が虚空蔵菩薩、
②2段目が左側から順に大日如来・阿悶如来・阿弥陀如来、
③3段目が勢至菩薩・観音菩薩・薬師如来、4段目が弥勒菩薩・地蔵菩薩・普賢菩薩、
④欠損している最下段には、文殊菩薩・釈迦如来・不動明王
これらは右下から左へ右上への順に並んでおり、千鳥式に配列されていると研究者は考えています。
 右側面(東面)には、上端から21cmの所に、直径約15cm、幅1,5cmの月輪が箱彫りされています。 左側面(西面)にも、上端から21cmの所に、右側面とほぼ同じ大きさの月輪が刻まれています。その下側には3行にわたり縦書きで次のようにあります。
 「永正五口(年?)」
 「戊口(辰?)」
 「八月升二日」
 この年号から室町時代中期末の永正5(1508)年に造立されたことが分かります。まんのう町の弘安寺のものが永正16年(1519年)9月21日でしたから、それよりも10年近く前に作られています。
背面(北面)には、なにも彫られていません。石材は、基礎と同じもので、同一の石塔部材と研究者は考えています。
 笠は、
①幅65cm、高さ31cm、軒厚は中央で9cm、隅で11cm
②笠幅と高さのバランスは比較的取れており、全体的に均整な形状
③軒四隅の稜線の反りは殆どなく、軒口は若干斜めに切られている。
④石材は灰褐色の火山傑凝灰岩で、安山岩と玄武岩の爽雑物を含む。
作者が指摘するのは笠の石材が基礎・塔身とは、同じ天霧石ですが異なる性質の石材が使われいることです。見た目には基礎・塔身とほぼ一致するように見えますが、石材が異なることから本来は別の部材であった可能性を指摘します。寺院が移転した時に、この笠塔婆も移動したはずです。その際に別の石造物の笠と入れ替わった可能性があるようです。しかし、笠のスタイルや塔身の年代に大きな時期差はありません。同時期の複数基の石造物があって、その間で入れ替わったとしておきましょう。以上から、この十三仏笠塔婆は、讃岐では銘のあるもっとも古い三仏笠塔婆だと研究者は判断します。
十三仏笠塔婆
まんのう町弘安寺跡十三仏笠塔婆 

讃岐で他に紀年銘があるのは、まんのう町弘安寺跡十三仏笠塔婆で、永正16(1519)年9月21日銘でした。
この石造物も萬福寺と同様に1・3・3・3・3の5段形式の十三仏略像で、その上部には天蓋が線刻されています。左右側面には月輪が、その内部には大日如来の種子が刻まれているなど、萬福寺例と比べて丁寧に作られています。そして、紀年銘に加えて四條村一結衆との文言もあり、造立者が推定できます。

萬福寺笠塔婆2
          萬福寺十三仏笠塔婆
この他に讃岐で笠塔婆スタイルの十三仏石造物は、次の3つがあります。
善通寺市吉原町牛額寺奥の院、
丸亀市本島町東光寺、
三豊郡詫間町粟島梵音寺
これらには紀年銘がありませんが、笠部スタイルから室町中期以降のものとされます。これらの分布位置を見ると讃岐の十三仏笠塔婆は、全てが中讃地域に分布していることになります。また、その内の2つが本島と粟島という塩飽の島です。
  このことからは塩飽諸島を拠点として海上輸送業務などで活躍した勢力が十三仏信仰と密接に関わっていたことがうかがえます。そこに、十三仏信仰を伝えた宗教集団として思い浮かぶのは次の通りです。
①庄内半島までの沿岸や塩飽に教線を伸ばしていく多度津の道隆寺
②児島を拠点に瀬戸内海に教線を伸ばす五流修験
③多度津を拠点に、瀬戸内海交易で利益を上げようとする香川氏
④高野聖や念仏聖などの活動拠点であった天霧山背後の弥谷寺
⑤弥谷寺信仰の瀬戸内側の受口であった多度津白方の仏母寺や海岸寺の前身勢力。
 対岸の吉備地域と比較検討が進めば、中世の十三仏信仰の受容集団や信仰のあり方などが見えるようになってくるかもしれません。

誰が造ったのか?

 讃岐の5つの十三仏石造物は、どれも天霧山周辺の凝灰岩で作られています。ここからは、弥谷寺や牛額寺の石工集団がこれらを制作したことが推測できます。彼らは、多量に五輪塔を作って、三野湾を経て瀬戸内海全域に供給していたことが分かっています。しかし、十三仏石造物は、讃岐で5つだけで、数が少ないので、造立者の注文でその都度、オーダーメードで製作したのかもしれません。
弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院墓地で弥谷寺産天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部からの流入品である五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
萬福寺の十三仏笠塔婆が制作されたのは、Ⅱ期にあたります。
中世讃岐石造物分布表
讃岐中世の主要な石造物分布図
最後に萬福寺の十三仏笠塔婆をめぐる「物語」をまとめておきます。
①管領細川氏の讃岐西守護代とやってきた香川氏は、多度津に拠点を構え、天霧城を山城とした。
②細川氏は氏神を東西神社、氏寺を弥谷寺として保護した
③氏寺となった弥谷寺には、数多くの五輪塔が造られ安置された
④弥谷寺周辺には、凝灰岩の採石場が開かれ専門の石工集団が活動するようになった。
⑤弥谷寺の石工は、坂出の白峰寺の石造物造営などに参加する事で技術を磨き成長した。
⑥弥谷寺石工集団は、三野湾から瀬戸内海エリア全体に石造物を提供するようになる。
弥谷寺 石造物の流通エリア
           天霧石製石造物の流通エリア

このように、香川氏の保護の下で成長した石工集団がいたことが、弥谷寺や牛額寺の採石場の存在からうかがえます。そこに、十三仏信仰という新たなモニュメントが宗教集団によって持ち込まれてきます。それを最初に受けいれたのは、塩飽の海上運輸に関わる人たちだったのでしょう。彼らが天霧山周辺の石工に制作を注文します。そこで、作られたものが自分たちの島に安置されます。同時に、香川氏の縁のある寺院にも寄進されたと私は推察します。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     海遊博史  善通寺市萬福寺 十三仏笠塔婆について   9P    善通寺文化財教会報25 2006年
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まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦は、同じ木型(同笵)からつくられたものが次の3つの古代寺院から見つかっています。
① 阿波国美馬郡郡里廃寺
②さぬき市極楽寺
③さぬき市上高岡廃寺
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺が郡里廃寺のこと

上図を見れば分かるとおり、同笵瓦ですから同じデザイン文様で、同じおおきさです。ひとつの木型(同笵)が4つの寺院の間を移動し、使い回されてことになります。研究者が実際に手に取り比べると、傷の有無や摩耗度などから木型が使われた順番まで分かるようです。
 木型の使用順番について、次のように研究者は考えています。
①弘安寺の丸瓦がもっとも立体感があり、ついで郡里廃寺例となり、極楽寺の瓦は平面的になっている。
②彫りの深さを引き出しているのは弘安寺と郡里廃寺である
③さらに、両者を比べると郡里廃寺の瓦の方が蓮子や花弁がやや膨らんでおり、微妙に木型を彫り整えている。
以上から弘安寺 → 郡里廃寺 → 極楽寺の順で木型が使用されたと研究者は推測します。

この木型がどのようにしてまんのう町にもたらされて、どこの瓦窯で焼かれたのかなど興味は尽きませんが、それに応える史料はありません。
まずは各寺の同笵の白鳳瓦を見ていきましょう
弘安寺出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」
弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      阿波美馬の郡里廃寺の瓦 上側中央が同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、古代寺院建立者同士の何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ

  郡里廃寺の近くには、終末期の横穴式古墳群があります。
これが郡里廃寺の造営者の系譜につながると考えられてきました。さらに、その古墳が段ノ塚穴型石室と呼ばれ、美馬地域独特のタイプの石室です。墓は集団によって、差異がみられるものです。逆に墓のちがいは、氏族集団のちがいともいえます。つまり、美馬地方には阿波の中で独特の氏族集団がいたことがうかがえます。

段の塚穴

この横穴式石室の違いから阿波三国説が唱えられてきたようです。
律令にみられる粟・長の国以外に美馬郡周辺に一つの国があったのではないかというのです。段ノ塚穴は、王国の首長墓にふさわしい古墳なのです。
 しかし、美馬郡周辺のことは古代の阿波の記録にほとんど登場しません。東に隣接する麻植郡とは大きなちがいです。麻植郡は阿波忌部氏の本拠地として、たびたび登場します。しかし、横穴式石室では,規模,築造数などから美馬郡の方がはるかに凌駕する質と量をもっています。そういう意味では、 段ノ塚穴型石室は大和朝廷とはあまり関係のない一つの氏族集団の墓だったのかもしれません。ところが、その勢力が阿波最古の寺院である郡里廃寺を建立するのです。中央との関係が薄いとされる氏族が、どのようにして建立したのでしょうか。また、造営したのは、どんな氏族なのでしょうか?
この寺の造営氏族については次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②もうひとつは、讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  どちらにしても佐伯氏の氏寺だとされているようです。
ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。
「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 美馬の古代文明が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 しかし前回、まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説をお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏に建立された寺院です。
美馬郡の佐伯氏が讃岐の佐伯氏と、同族としての意識された氏族同士であり、古墳時代以降連綿と交流が続けられてきた氏族であるとすれば、阿波で最初の寺院建立に讃岐の佐伯氏が協力したとも考えられます。
 極楽寺は、さぬき市寒川町石田にあって、寒川郡や大内郡の有力な氏族であった讃岐氏の建立した寺院とされています。
讃岐氏は、このお寺以外にも石井廃寺、願興寺、白鳥廃寺などを建立したとされ、一族の活発な活動がうかがえます。発掘調査によって、単弁蓮花文軒丸瓦6型式が出土していますが。その中のGK101はGK102とともに初期のモデルのようです。
研究者は次のように指摘します。
「他寺の同笵瓦と比べると、平板的で粘土の抜きが十分でなく、 しかも間弁の部分では撫でて整えた印象があります。胎土には石英粒が混じっていて、須恵質の堅い焼き」

弘安寺同笵瓦関係図
弘安寺と同笵瓦の関係図

以上からは同笵の木型は、弘安寺で最初に使われ阿波郡里廃寺から
さぬき市の極楽寺へと伝わっていったことになります。それでは、弘安寺で木型が作られたのでしょうか? それだけの先進性を弘安寺は持っていたのでしょうか? 研究者は、そうは考えないようです。
上の図で弘安寺の瓦に先行する善通寺の瓦を見て下さい。同笵ではありませんが、共通点も多いようです。弁の数を減らし省略化し、製造方法を簡略化したモノが弘安寺の瓦だと研究者は考えています。つまり、この木型が作ったのは善通寺造営に関わった集団だったというのです。善通寺の瓦を祖型とする系譜を研究者は次のような図で表しています。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
ここからは善通寺が丸亀平野や東讃の古代寺院建立に、技術提供する立場にあったことが分かります。同時に瓦の木型を提供された側には、善通寺の造営者の佐伯氏との間に、なんらかの「友好関係」や「一族関係」があったことがうかがえます。
それでは、木型を提供した佐伯氏と提供された豪族間の緊密な関係は、どのようにして生まれたのでしょうか?
佐伯氏と因支氏等の場合は、多度郡と那珂郡というお隣関係で、丸亀平野一帯の開発や金倉川の治水・灌漑めぐる日常的な利害の中から生まれてきたものなのでしょう。それが、まんのう町への弘安寺建立になった可能性はあります。
東讃の讃岐氏などの旧国造家とされる有力氏族との関係は、前代以来連綿と続いた様々な交渉事の結果と推測できます。彼らは、白村江の敗北後の危機感の中で、屋島寺や城山の築城や南海道建設など、共通の目標に向けて仕事を進める立場に置かれました。その中で対立から協調・協力関係へと進んだ豪族たちも出てきたのではないでしょうか。
 阿波郡里廃寺の造営主体と見られる佐伯氏については、同族関係に加え、両地域の間で、弥生から古墳時代を通じて文化的交流がさかんであったことが挙げられます。

白鳳から奈良時代前期にかけての時期は、各地で寺院の建立が活発化した時代です。
 高い技術を必要とする造寺造仏のための人材や資材を、地方の造営氏族が自前で準備し、調達できたとは研究者は考えません。確かに飛鳥時代は、蘇我本宗家や上宮王家などに代表される政権中枢の有力氏族の下にだけ技術者集団が独占的に組織され、その支援がなければ寺院の建立はできませんでした。そのためかつては、瓦のデザインだけで有力豪族や有力寺院とのつながりを類推することに終始していた時代がありました。例えば、法隆寺で使われた瓦と同じデザインの瓦が故郷の寺院で用いられていることが、郷土愛を刺激した時代があったのです。
 しかし、7世紀中葉から8世紀初頭のわずか半世紀の間に400カ寺もの白鳳寺院が建立された背景には、 もっと複雑で多元的な動員の形態があったと研究者は考えるようになっています。 
 藤原京に建立された小山廃寺の造営に際しての動員について、近江俊秀氏は次のように指摘します。

瓦工は供給する建物単位で組織され、量の生産とともに解体される。さらに、個々の瓦工は同時期に生産を行なうのではなく、伽藍の造営順に従って、時期を違えて生産を行なうとしている。自前の工人が専従で造営に携わるので.建てものごとの速やかな動員によって建立がなった

これは多くの寺が密集し、幾通りもの工人集団が存在した畿内だからできたことです。地方豪族の佐伯氏が小山廃寺のようなスケールで工人を招集し、造営ができたとは思えません。しかし、善通寺周辺の工人の動向からは、地方にも工人や資材を準備し、供給する機能が整備されてきていたと研究者は考えています。瓦などの木型をはじめ供給する側と、される側の独自の繋がりのなかで地方寺院の建立が行われていたようです。
 もう少し具体的に云うと善通寺を建立した佐伯氏は、その時に蓄積した寺院建立技術を周辺の一族や有力豪族にも提供したということです。その木型が弘安寺 → 阿波の郡里廃寺 → 東讃の極楽寺などに提供され、使い回されたということでしょう。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで一      香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年
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 まんのう町に白鳳期の古代寺院跡があるという。

弘安寺周辺地遺跡図

にわかには信じられなかった。調べて見ると、香川県史にも、新編満濃町誌にも触れられている。そして、礎石と白鳳期の瓦が出土していると書かれている。これは行かねばなるまい。地図で当たりをつけながら四条小学校の西周辺の道を原付バイクで散策。目標は四条本村の薬師堂。すぐそばに公民館も同居と聞いていたが、なかなかわかりにくい。
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薬師堂 まんのう町四条本村

細い道を入り込んでいくと、それらしき空間が開けてきた。高さ1㍍の土壇の上に薬師堂が建てられている。方二間の南面する薬師堂の西側に回り込んでいくと、大きな石が不規則に置かれている。これが古代寺院「弘安寺」の礎石のようだ。1937年に、お堂を改築する際に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあるという。

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 さらに裏側に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられている。移動されなかったと思われるの四つ礎石についてみると、土壇場にあった旧建物は南面してわずかに西に向いている。礎石間の距離は2,1㍍である。これが本堂跡だろうか。

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薬師堂の下の礎石

以下 満濃町誌によると (満濃町誌107P) 

薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が置かれている。塔の心礎であったと思わる。中央に径55㎝、深さ15㎝ の柄穴がある。しかし、塔の位置は確認することができない。

弘安寺 塔心跡
弘安寺 塔心跡

 薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があるそうだ。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と考えられ、布目瓦が出土した範囲とも一致する。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区に見られる条里の方向とは一致せず、西に15度傾いている。このことからこの寺の建立は、条里制以前の白鳳時代にまでさかのぼると考えられる。
 本尊の薬師如来は、像高131㎝ 一木作りで大きく内ぐりが施された立像である。各部に大修理が加えられているが、胸のあたりから腹部に流れる衣文の線が整って美しく、古調を漂わせている。
 弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
  弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
           
 境内から出土した瓦のなかには、十六葉単弁蓮華文軒瓦瓦(径19㎝)など、法隆寺系の白鳳時代の瓦が含まれている。
この中で興味深いのは、ここから出土した軒丸瓦とおなじ木型で作られた瓦が以下の寺院から見つかっていることです。

弘安寺軒丸瓦の同氾

①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
これらの寺院ら出土した瓦と同じ木型で作られた瓦が、弘安寺でも使われていたようです。さらに、木型の使用順も弘安寺が一番早く、①②③と木型が使い回されていたことが分かっています。弘安寺とこれらの寺院、造営氏族との関係がどうなっていたのかが次の課題となっているようです。それはまたの機会にすることにして・・


イメージ 4

もうひとつこの立薬師堂で見ておきたいものがあります。
立薬師本堂左には小さなお堂があり、そこには古い石造物が安置されています。
DSC00917
 弘安寺跡 十三仏笠塔婆
柔らかい凝灰岩製なので、今ではそこに何が書かれているのかよく分かりません。調べてみるてみると、次のようなものが掘られているようです
①塔身正面 十三仏
②左側面上部に金剛界大日如来を表す梵字
③右側面上部に胎蔵界大日如来を表す梵字
④側面下部に銘文 四條村の一結衆(いっけつしゅう)によって永正16年(1519年)9月21日に造立
DSC00918
弘安寺跡 十三仏笠塔婆
 塔身の高さは58㎝、幅と奥行は28㎝で二段組の台座40㎝の上に立つ。笠と五輪塔の空輪が乗せられて総高は142㎝
この石造物は、中世の16世紀初頭の石造物になるようです。その時代まで、ここには古代創建の寺院が存続していたのでしょうか。そうだとすれば、法然がやってきた13世紀にも、この弘安寺はあったことになります。多分、まんのう町域では、最も由緒ある真言寺院であったことでしょう。しかし、法然の記録には、この寺院のことは出てきません。小松荘で彼が拠点としてのは、別のお寺であったことは、以前にお話ししました。
 四条本町周辺には、条里制施行に先行する7世紀後半の白鳳神社があり、16世紀近くまで存続していたとしておきましょう。四条本町が、このエリアの中心だったことがうかがえます。

白鳳期の丸亀平野南部において、古代寺院を建立した古代豪族とは?
善通寺では,有岡古墳群から古代寺院の「善通寺」建立へと続く佐伯氏の存在が思い浮かぶ。この地域の古代寺院を建立するだけの力を持った豪族とはだれか?

満濃町誌は因首氏(改名後は和気氏)だと次のように推論しています。

 本尊の薬師如来については、枇杷(びわ)の大木を刻んで造ったという『讃留霊王皇胤記』島田本に見られる和気氏の枇杷伝説に付会した伝承がある。また、木徳の和気氏が弘安寺以来の大旦那であったことが語り継がれている。
現在薬師堂に伝わる記録の中にも「和気氏が常に多額の金を寄付して第一の大旦那であった」ことを示す記事がある。この寺は、和気氏の氏寺として建立されたとも考えられる。
 一般の家屋が平床の掘立小屋で、藁や板で屋根を葺いていた当時、弘安寺の瓦が金毘羅山を背景にしてそびえ立つ姿は、美しい一幅の絵であったであろう。仏教は、すぐれた仏教文化の広がりという形で満濃町にも浸透した。

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