前回は空海への大師号下賜について、次のように見てきました。
ここで注目したいのが④⑤です。④で観賢がお願いした大師号は「本覚大師」でした。ところが、⑤で下賜されたのは「弘法大師」だったのです。どこで、誰が、何を根拠に、「本覚大師」を「弘法大師」に変更したのでしょうか。今回は、このことについて見ていくことにします。テキストは、武内孝善「弘法大師」の誕生 大師号下賜と入定留身信仰 春秋社」です。
「弘法大師」という大師号は、何を根拠に命名されたのでしょうか?。
その代表的な説は、賢宝の『久米流記』所収の「無畏三蔵懸記」で次のように記します。
のちの世に、必ず法を弘め衆生を利益する菩薩があらわれ、この秘密の教えを世界中に広めるであろう、と。正に、これは空海にぴつたりです。あたかも割符のようある。
つまり、「無畏三蔵懸記」に依拠したものである、とします。しかし、この賢宝説について研究者は、
「久米流記」の成立は鎌倉時代のもので、大師号下賜より後の時代の書物であると、次のように指摘します。
①「国書総目録」によると、「久米寺流記』の1番古い写本は、元亨3年(1323)書写の高野山大学蔵本であること。②『久米寺流記」の活字本(「続群書類従」第27輯下所収)には、ここに引用した一文がないこと③『国書総目録』には、「無畏三蔵懸記』は載っていないこと。
以上から、賢宝説を認めることは出来ないと研究者は判断します。
それでは「弘法大師」という大師号は、どもに出典があるのでしょうか?
それは空海の著作の中から取られたものと考えた研究者は、『定本弘法大師全集』で「弘法」を検索します。弘法大師の著書の中で「弘法」という言葉が出てくるのは次の3つのようです。
①「弘法利人(りにん) 三ヶ所
「広付法伝」「恵果和尚」の項
「龍猛阿闍梨」の項
「十二月十日付けの藤原三守あて書状)②「弘法利人之至願」 一ヶ所(弘仁六年(815)4月の「勧縁疏」)③「弘法利生」 一ヶ所(弘仁12年(821)11月の藤原冬嗣・三守あて書状)
「弘法利人」とは、「法=密教の教えを弘めて、人びとを利益し救済すること」、
「弘法利生」とは、「法=密教の教えを弘めて、生きとし生けるものすべてを利益し救済すること」
の意味のようです。この言葉がどんな場面に使われているかを見ておきましょう。
①の「弘法利人」は、『広付法伝』「恵果和尚」の項に引用されている呉慇(ごいん)纂「恵果阿閣梨行状』に出てきます。それは恵果和尚の人となりを記した一節で、次のように記します。
恵果(右)と空海(左)
【史料12】『広付法伝』『定本弘法大師全集』第一、111P)
【史料12】『広付法伝』『定本弘法大師全集』第一、111P)
大師は唯心を仏事に一(もっぱら)にして意を持生に留めず。受くる所の錫施(しゃくせ)は一銭をも貯えず。即ち曼茶羅を建立して弘法利人を願い、灌頂堂の内、浮屠(ふと)塔の下、内外の壁の上に悉く金剛界及び大悲胎蔵両部の大曼茶羅及び十一の尊曼茶羅を図絵す。衆聖厳然として華蔵(けぞう)の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜(きよう)して密厳の旧容に還れり。一たび視一たび礼するもの、罪を消し福を積む。
〔現代語訳〕
大いなる師・恵果和尚のみこころは、つねに仏さまに関することだけであつて、いのちをいかに永らえるかなどは眼中になかつた。すなわち、施入された財貨などは一銭たりとも蓄えることはなさらなかった。もつぱらの願いは、いかにすれば法を弘めひとびとを救うことができるかであって、曼茶羅の図絵を精力的になされました。たとえば、濯頂堂の中は、仏塔の下といい、内外の壁といい、金胎の両部曼茶羅とたくさんの別尊曼茶羅がすきまなく画かれていました。そこは大日如来の密厳浄土そのものであって、光り輝く仏さまの満ち満ちた世界が厳然とあらわれていました。その注頂堂をひとたび見、ひとたび礼拝するだけで、これまでの罪をすべて消し去り、さとりへの功徳がえられるのでした。
ここには、恵果和尚が何を願い、いかなる日々を送られていたかが描かれています。それを一言で言うのなら「弘法利人=いかにすれは法を弘めひとひとを救うことかできるか」ということになります。
帰国したあと、空海は困難なことに出会ったとき、指針としたのが恵果和尚の人となりであり、恵果和尚のことばであったとされます。こう考えると、空海の後半生は、「弘法利人」の精神をいかに具現化するの日々とも云えます。
つぎは、「弘法利人之至願」を見ておきましょう。
このことばは、弘仁6年(815)4月の『勧縁疏』に出てきます。
勧縁疏
『勧縁疏』は、空海帰朝後9年目に、空海が密教をわが国に広め定着させる運動を本格的にはじめた巻頭に書いた文章で、次のように記します。
勧縁疏
『勧縁疏』は、空海帰朝後9年目に、空海が密教をわが国に広め定着させる運動を本格的にはじめた巻頭に書いた文章で、次のように記します。
「わが国に密教を弘めることを誓って帰国し多年をへたけれども、その教えはまだ広く流布していない。それは密教の経論が少ないからである。そこで、顕教にあらゆる点で勝るこの密教に結縁していただき、密教経論三十五巻を書写してほしい」
と有縁のひとびとにお願いし、秘密法門=密教経論の流布を図っています。この「勧縁疏」は、短いものですが、密教の特色が簡潔に記されているので、空海の思想の成立ちを考える上で、よく引用・利用されています。その中で「弘法利人之至願」という表現は、『勧縁疏』の最後の「願意」をのべたところに次のように出てきます。
【史料13】『勧縁疏』(『定本弘法大師全集』第八、 176P)
庶(こうねが)わくは、無垢の限を刮(ほがら)かにして三密の源を照らし、有執(うしゅう)の縛を断じて五智の観に遊ばしめん。今、弘法利人の至願に任(た)えず。敢えて有縁の衆力を憑(よ)り煩わす。不宣、謹んで疏(もう)す。
〔現代語訳〕
わたくしの願いは、人びとをして、けがれなき清きまなこをかっと見ひらいて、密教の真髄である三密喩伽の根源を見きわめ、煩悩にしばられた心を断ちきつて、大日如来のさとりの世界たる五智の観想を味わっていただきたいことであります。いま、この最勝最妙なる密教の教えを弘め人びとを救いたい、ただそのことだけを願って、特にこ縁のある方々に密教経論の書写への助力をお願いする次第であります。意を尽しませんが、心からお願い中しあげます。
研究者は「今、弘法利人の至願に任えず」を、「いま、この最勝最妙なる密教の教えを弘め人びとを救いたい、ただそのことだけを願って」と解釈します。ここで空海は、初めて大々的に密教宣布を表明しています。その中で「最新の仏教=密教」を弘めることによって、日々苦しんでいる人たちに何とか手を差しのべたい、お救いしたい」と宣言しています。これはさきほどみた恵果和尚の弘法利人と共通する精神が読みとれます。以上から、わが国への密教の宣布を誓われた最初のことばが「弘法利人の至願」であり、この「弘法利人」をつづめて「弘法」とし、空海への大師号「弘法大師」としたと研究者は判断します。
それでは、この「弘法」を空海の著書から抜き出していきた人物はだれなのでしょうか。
空海への大師号下賜に、中心的な役割を果たしたのは次の3人でした。
①二度上表した観賢 「本覚大師」の下賜を願う②禅譲後に真言宗僧侶として見識を高めていた寛平法皇(宇多天皇)③大師号を下賜された醍醐天皇
①の観賢は、最初に見た通り具体的に「本覚大師」という名前を挙げて下賜を願いでています。そして彼は、申請時には第2代醍醐寺座主、第4代金剛峯寺座主を兼務する立場です。彼の申請をはねつけて別の大師号にするという僧侶は、③の醍醐天皇周辺の真言宗のお抱え僧侶の中にはいないはずです。そうだとすれば、②の寛平法皇が自然と浮かび上がってきます。
寛平法皇
寛平法皇の譲位後の真言僧侶としての活動を年表化して見ておきます。
①寛平9年(897)7月2日、30歳で醍醐天皇に譲位②昌泰2年(899)10月24日、仁和寺で益信を戒師として落飾し、空理、または金剛覚と称す③同年11月24日東大寺戒壇院にて具足成を受け④延喜元年(901)12月13日、東寺灌頂院において、益信を大阿開梨として伝法灌頂を受法⑤延喜18年5月には、東寺濯頂院において法三宮真寂親王はじめ六名に、伝法灌頂⑥同年8月には嵯峨大覚寺で寛空はじめ七名に、伝法灌頂
ここからは、延喜21(921)年の時点で寛平法皇が「すでに真言密教に精通され」ていたことが裏付けられます。真言宗と空海への知識と理解の上で、寛平法皇が「本覚大師」を退けて「弘法」案を出したと研究者は推測します。
以上を整理・要約しておきます。
以上を整理・要約しておきます。
①921年年10月2日に、観賢は2回目上奏を行い、諡号「本覚大師」下賜を願いでた。
②その月の下旬に、醍醐天皇より諡号が下賜されたが、それは「弘法大師」であった。
③「弘法」という言葉は、空海の著作の中には「弘法利人」「弘法利生」などが出てくる。
④これは空海の師匠である恵果和尚の人となりに触れたもので、空海のその後の生き方に大きな影響をもたらした言葉でもある。
⑤申請された「本覚大師」に換えて「弘法大師」下賜案の影の人物としては、真言僧侶として研鑽に努めていた寛平法皇の存在が見え隠れする。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武内孝善「弘法大師」の誕生 「弘法大師」の誕生と入定留身信仰 春秋社」
③「弘法」という言葉は、空海の著作の中には「弘法利人」「弘法利生」などが出てくる。
④これは空海の師匠である恵果和尚の人となりに触れたもので、空海のその後の生き方に大きな影響をもたらした言葉でもある。
⑤申請された「本覚大師」に換えて「弘法大師」下賜案の影の人物としては、真言僧侶として研鑽に努めていた寛平法皇の存在が見え隠れする。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武内孝善「弘法大師」の誕生 「弘法大師」の誕生と入定留身信仰 春秋社」