瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:弘法大師伝説

岩手県大槌町が発祥の地?東日本大震災、復興の鍵にもなった「新巻鮭」を徹底調査 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

東北日本には「弘法とサケ」話型の伝説が広く伝わっています。
サケ漁の行われていた地域では、「弘法とサケ」の伝説が語られていたようです。この伝説には、自然界を法力で支配する者として漂泊の宗教者が登場します。たとえば、新潟県岩船郡山北町では、昔、カンテツボウズ(寺をもたない放浪の僧)が村を訪れ、人々は坊さんには生臭物は御法度であるということを知っていたにもかかわらず、サケを椿の葉に包んで強引に背負わせます。坊さんは怒って「ここには二度とサケを上らせない、椿を生えさせない」と呪文を唱えます。それ以来、サケが上らないし椿も生えない、という伝説が語られるようになります。

サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)|マルハニチロ株式会社

千葉県香取郡山田町山倉でも、空海が東国巡錫の途次、この地の疫病流行に人々が苦しむのをみて哀れみ、龍宮より生贄としてサケを供します。それから初卯祭には、サケが贄魚とされるようになったとする伝説が伝えられています。ここからは、修験者がサケ漁に深く関わっていたこと、また修験者が特別な呪力を持っていたことが見えてきます。
サケと宗教者の繋がりを示す弘法伝説を、今回は見ていくことにします。テキストは「菅豊   サケをめぐる弘法伝説にあらわれる宗教者     修験が作る民族史所収」です。

修験がつくる民俗史―鮭をめぐる儀礼と信仰 (日本歴史民俗叢書) | 菅 豊 |本 | 通販 | Amazon
それでは、研究者が挙げる弘法大師伝説を読んでいきましょう。
事例1 青森県青森市
青森市の真ん中を流れる堤川は、上流で駒込川と荒川が合流するのである。むかしその駒込川には、サケがたくさん上って来た。たまたま弘法人師がここを通りかかったところ、村人がおおぜいでサケを取っていた。これを見て大師が、その魚を恵んでくれと頼んだところ、村人は川辺に生えていたアシを折り、それにサケを通して与えた。ところが、大師はこの川辺のアシにつまずいて倒れ、しかもアシの茎で片目をつぶしてしまった。そこで大師は大いに怒って、これからはこの川にアシも生えるな、サケも上るな、といった。そのことがあってから、荒川にはサケが上るにもかかわらず、駒込川には全く来なくなり、また川辺にアシも生えないようになった。                    

マス/鱒/ます - 語源由来辞典

事例3 山形県新庄市
むかし、むかし。泉田川じゃあ、せん(昔)には、うんと鮭のよが上る川でしたど。この村のちょっと先の村の人だ、すこだま(多量に)鮭のよば獲ってなおす。ほらほらど、魚、余るほど網さかげでな、いだれば、ほごさ、穢ったこん穢たね色の衣ば着たほえどこ(乞食)みでだ坊主が、切れだ草軽履いで来たもんだど。見れば見るほど良くなし衣ですけど。ほれば村の人だ(達)、本当にはえどこだど思ってしまいあんしたど。
「ほら、坊主。鮭のよば背負えや。ほれっ―」
「いらねごです。欲しぐありゃへん」
て、いらねていうなば、面白がつてですべ。ほれ、坊主の背中さ上げ上げしたなですと。そしてその鮭のよばな、あ葦さ包んで葛の蔓で背負わせだなですと。
「村の衆、ほんげいらねていったなば背負わせなだごんたら、この泉田川さ、鮭のよも来ねたていいべ。今度からこの泉田川さ水が来ねようにしてけっさげな。ええが。あ葦も葛の蔓もみながら無ぐすっさげてな。ええが、忘んねでいろよな」
汚れた衣着たこん穢だね様態の坊主がな、こういうど。村の人だ、
「なにい、このほえど野郎。なにぬがすどごだ。鮭のよもあ章も、葛の蔓も、こんげあるもの無ぐするえが、この鮭のよばあくへっさげて(与えるから)にし(汝)の背中さ、くっつげで行がしやれ」
ほの穢ねて穢ね衣の坊さんは、構んめが構んめだもんだし、衣の上から鮭のよば背負わらつてなおす。ヒタッ、ヒタッと、まだ(また)出掛げあんしたど。ヒタッ、ヒタッと歩きながら、
「来年からはこの川、絶対に水ば通さんね。この村には水通さねで、底通しするさげてな。あぶでね(勿体ない)ごどした鮭のよも、あ葦も葛の蔓も絶対に生やさねさげてな。覚えでろ」
て、言い捨てて行ってしまったど。村の人だ、
「何ば言う、このほえど坊主。さっさどけづがれ(行ってしまえ)。早ぐ行がしやれ」
と言つていだれば、本当に次の年からビダッ、と、水が上つてしまっだどは。ほして、あ章も葛の蔓もな、去年まであんげに(あんなに)蔓延ってグルン、グルン、と、絡まがったりして生えったものが、何も無ぐなってな。何ひとつ無ぐなってしまったなであんしたど。村の人だ、もう困ってなおす。
「あんげこん穢たね坊さんだげんども、あのお方こそ弘法様に違いねべちゃ。まず、まず、大変なごどしてしまったもんだはあ」
て、話し合ったなですと。                   
三陸水産資源盛衰史│25号 舟運気分(モード):機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

以上の話には、旅の僧が呪術でサケがやって来るのを封じ込んでしまったことが記されています。
旅の僧は、「大成徳神」、「阿羅羅仙人」などのように、在地の祭神として語られる場合もあります。しかし、多くは弘法大師とされています。旅僧の意に反したために、呪文を唱えたりする呪法によってサケの遡上が停止されます。
その呪法のひとつとして、「石」が出てくる話を見ておきましょう。

  事例4 岩手県宮古市津軽石 234P
当村何百年以前の事に御座候や。北より南へ通る行人一人参り候て、最早、日暮れにも罷り成り候間一宿下さる可シと、無心仕り候得ば、亭主易き事に御座候え共、貴僧へ上げ申す物御座無く候。行人申すには、そなた衆、給べ申す物下され候て一宿給う可く候。支度は入り申さず候。左様ならば私共給べ候もの上げ申す可く候間、御一宿成さるべくと、とめ申候。朝に成り、行人申すには、紙包み一つ進上致し候、行く行くは村のちょうほうに相成る可くと相渡し、南の方へ参られ候。右紙包み仏だんへ上げ置き、行人出達後、夫婦いだして見申し候えば、石を包み置き申し候。是は何に成る筈、「めのこかて」を洗いながし、うしろの川へなげこみ申し候。然らば、一両年過ぎて、鮭斗らずも登り申し候、後は、村中朝々大勢参り取り申し候、老名共寄り合い、是は、ふしぎの仏神のおさずけと申す物に御座候。稲荷山にて湯釜を立て、いのり申す所に、たくせんに、宿くれ申す行人申すには「我を誰と心得候哉。我は大師に御座候。津軽方面廻り申す所に、津軽には宿もくれず、ことごとく「悪口」いたし、依って津軽石川より石一つ持参、当村の者へくれ申し候。夫れ故、鮭のぼり申すべし」と、たくせんに御座候。
 老名共「扱て扱て有難き仕合わせ、左様ならば村中老名共相談の上、此の度より津軽石」と、申しなしに御座候由、其の前、村名相知れ申さず候。何百年以前の事に御座候や、いいつたえにて、年号は知れ申さず候。                           (宮古市教育委員会市史編纂室 1981)

この弘法伝説は、大師が人々の歓待に報いるためにサケを授けたとする話です。
その呪法に石が用いられています。石は、サケを遡上させる霊的に特別な力をもっていることが描かれています。「弘法とサケ」の伝説が、特殊な石と関係して伝えられることは、東北や中部日本の日本海側に広がっていて特別な例ではないようです。石がどんな風に用いられているのかを見ていきます。

サーモンミュージアム(鮭のバーチャル博物館)|マルハニチロ株式会社

事例5 青森県青森市             
青森市の駒込川に、むかし大水が出て橋もなく、通行人が難儀したので、人夫が出て川渡しをした。ところがある日のこと、その日に限って川魚がたくさん群れて、人夫たちは夢中になって魚を捕っていた。そこへみすぼらしい破れ衣を着たひとりの旅僧がやって来て、川を渡してくれと頼んだ。すると人夫は、このかごに入れてある魚を担いでくれれば、渡してやろうといった。旅僧は仏に仕える身だから、殺生に手を貸すわけにはいかぬと断ると、それでは川を渡してやれぬという。
仕方なく旅僧は、魚のはいったかごを背負い、人夫に背負われて川を渡った。しかし立ち去りぎわにタモトかし小石を三つ取り出して川に投げ、「七代七流れ、この川に魚を上らせない」といった。それから駒込川に魚が上らぬようになったといわれる。           (森山 一九七六¨九六―九七)

       事例6 岩手県下閉伊郡岩泉町
下名目利のセンゴカケ渕は、毎朝サケが千尾も二千尾も掛ったといわれる渕である。また2㎞ほど下流の間の大滝では約200年位前に、もっこで三背おいずつもとれたという。
 この豊漁にわく朝、どこから来たか見すぼらしい旅僧が一尾所望していたのに、村人たちは知らん顔をしていた。旅僧は川の石をひとつたもとに入れてたち去り、下流の浅瀬にその石を沈めたら、そこに大滝(門の滝)ができ、ここから上流にはサケがのぼらなくなった。旅僧は弘法大師であった。

事例7 岩手県下閉伊郡田野畑村
明戸の浜から、唐松沢の入り、いくさ沢まで鮭が上って、明戸村富貴の時があった。行脚して来られた弘法大師を怪しい売僧といって追払ったので、大師は、この因業な人達を教化するために、唐松沢の入口にあった「恵美須石」を持ち上げて、空高く投げられた。石はそのまま行方知れず飛んでいってしまった。そして大師はそこについて来た卯ツ木のつえをさして行かれた。それから、さしも上った鮭がさっぱり上らなくなってしまった。大師が投げた「恵美須石」は南の津軽石に落ちて、それかい津軽石の鮭川は栄え出して今につづいている。

上の3つの事例では、石は次のように使われていました。
①小石を三つ取り出して川に投げ
②川の石をひとつたもとに入れてたち去り、下流の浅瀬にその石を沈めた
③「恵美須石」を持ち上げて、空高く投げ

19 鮭文化とともにある、村上の暮らし | 003 かくも美しき里山の年寄りたち 佐藤秀明 Hideaki Sato | 日本列島 知恵プロジェクト

登場するのは弘法大師ばかりではありません。
事例8 岩手県? 此庭(陸中愧儡坂)
 谷川に村の長が魚梁瀬を掛けて毎年鮭を捕つて居た。或時一人のクグツ即ち此辺でモリコ又はイタコと呼ぶ婦人が通つたのを、村長等無体に却かしてかの鮭を負はせた。クグツは困労に堪えず人に怨んで死んだ。其時の呪詛の為に鮭は此より上へ登らなくなった。箱石は即ち卸して置いたクグツの箱の化したものである故に四角な形をして居る。

ここでは、弘法大師の代わりに、この地域で活躍する巫女やモリコ、イタコが登場します。
また六部や乞食坊主として描かれる場合もあるようです。「弘法とサケ」話型の伝説の主人公には、弘法大師に限らず漂泊する宗教者たちが選ばれているようです。行脚する宗教者の石の呪法は、石を川に投げ込む、しまい込む方法があるようですが、石に「真言」の文字を記すという呪法もあるようです。
以上のように、サケの遡上について、「石」が大きな力をもっているとする信仰があったことがうかがえます。ここから研究者は次のような仮説を設定します。
①「サケ→弘法→石」という繋がりから、サケにまつわる石の信仰を、弘法・六部・乞食坊主・イタコ等たちが儀礼化し、儀式として行っていたのではないか
②そのような信仰・口承文芸を、漂泊する宗教者が、流布・伝播してきたのではないか

まず①の仮説を考えてみましょう。
サケを誘引する石の伝承は、元修験の神主らによって儀礼化されています。その行為は弘法伝説などの説明体系によって裏づけられています。伝説の世界は、単なる空想ではなく、現実の世界で実際に行われていたことが書かれています。つまり登場する人物(宗教者)は、実在していたと研究者は考えています。
 伝説には弘法大師が石を川に投げ込む、あるいは川から石を拾うという場面が描かれています。
ところが、実際の津軽石のサケ儀礼には、宗教者が石を投げ込むような場面はないようです。しかし、民俗事象を細かく検討すると、宗教者が石を投げ込むことによって魚を寄せるという呪法は、いくつかの地域にあるようです。
たとえば、新潟県荒川中流にある岩船郡荒川町貝附では、10月末のサケ漁が始まる前、荒川から握れる程度の大きさの石を10個ほど拾ってきて、ホウイン(法印)に梵字を書いてもらうという民俗があったようです。ホリイシと呼ばれる文字の書かれたこの石は、川に均等に投げ込まれます。上流の岩船郡関川村湯沢ではサケが捕れなくなると、サケ漁をしている場所の川底でこぶし大の石を拾い、ホウインのところへ持て行きます。これをホウインに拝んでもらい、もち帰り川に投げ入れると、とたんにサケが捕れるようになったと伝えられます。
 サケではなくハタハタを捕るための儀礼ですが、秋田県男鹿の光飯寺には、10月1日浦々の漁師たちが小石をもってきて、これに一つずつ光明真言を一字書き、法楽加持します。それを漁師はもって帰り自分の漁場へ投げ入れたと伝えられます。
 このように、魚を寄せ集めるために石を用いる呪法を、宗教者が使っていたようです。
こうしてみると、弘法伝説に登場する宗教者の行為は、空想上の絵空事ではなく、実際の宗教者が現実に行っていたことだったことがうかがえます。そうだとすると、この弘法伝説が生まれた背景には、サケの漁撈活動に宗教者が関わっていたことがあったことになります。
次に、このような弘法伝説を漂泊の宗教者が伝播した、という仮説を研究者は裏付けます。
弘法伝説の拡がりについての研究は、その背景に聖や巡礼の聖地巡拝の全国的流行があったとします。とくに弘法大師を祖師とあおぎ、高野山に本拠を置く旅僧の高野聖たちが、全国を行脚、流浪するうちに広めていったとするのが一般的です。研究者は、その上に東北地方の弘法伝説には、大師信仰の基底にオオイゴ=タイシ(太子)信仰が横たわっていることを指摘します。大師信仰流布以前に「タイシ信仰」があったというのです。「弘法大師の名のもとに統一、遵奉して行った者の姿と、そこでの意志を確実に垣間みるような思いがする」と、弘法伝説を広げた宗教者集団のいたとを指摘します。
 
 研究者は、近世になっても「弘法様」と呼ばれる六部、巡礼者が活躍していたことを報告しています。
「弘法様」には、弘法伝説に登場する弘法大師のように、実際に恩を受けた家に突然と笈や奉納帳を置いていったり、呪いを教えていくなど特徴的な宗教活動を行っていました。この「弘法様」との交流の中で、さまざまな弘法大師伝説が生まれ、広げられていったことです。
そrを研究者は以下の三つのタイプに分類します。
①「弘法様」との関わりの経験諄として話者自身が登場する弘法伝説
②「弘法様」は実際に様々な呪法をもち、駆使していたらしいが、それを実際に目のあたりにした話者が観察者として生み出した「世間話」としての弘法伝説
③「弘法様」自体が伝えていった弘法伝説
このうちの②は弘法伝説の形成の場面で、③は、伝播、伝達の場面になります。

 宮城県石巻市生まれの松川法信は、現代の「弘法様」と呼ばれた人物です。
彼は一陸沿岸では青森県八戸地方から宮城県の牡鹿半島まで、日本海側では、秋田県山本郡八森町を北限に、南は山形県最上部の真室川町まで15年間にわたって修業に歩いていたようです。
そして行く先々で、弘法伝説の形成、伝播に一役も二役もかっています。それだけでなく新たな祭祀も創り出しています。
もちろん、現代の漂泊する宗教者松川法信が、中陛の高野聖や、近世の廻国聖へと結びつけることはできません。しかしかつては、このような廻国の主教者が様々な文物、情報を交流させる媒介者として活躍していたのです。綾子踊りにつながる風流踊りや、滝宮念仏踊りにつながる時衆念仏踊り、あるいは秋祭りの獅子舞なども、彼らを仲介者とすることによって広められたと研究者は考えています。
「弘法とサケ」伝説に、現実の宗教者の儀礼的な動作が反映された可能性があること、この伝説には、その話自身を流布させる宗教者の姿も投影されていることを押さえておきます。
 「弘法とサケ」伝説には、想像上の宗教者の活動を語ったものではなく、漂泊する宗教者が、石を用いてサケの遡上に関する呪法を執り行い、石の信仰の形成に大きくかかわったこと、それが修験系統の宗教者たちであったいうことです。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
テキストは「菅豊   サケをめぐる弘法伝説にあらわれる宗教者     修験が作る民族史所収」

  前回は弘法清水伝説が「泉と託宣」にかかわって、古代の祭祀に関係があったことみてきました。今回は別の視点から弘法清水伝説を見ておきたいと思います。この伝説に共通するのは、弘法大師が善人または悪人の家にやってくることです。この国の古代信仰にも家々に客人として訪れる神がいたようです。これを客人(まろうど)神と呼びます。この神は、ちょうど人間社会における客人の扱いと同じで、外からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形になります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためのようです。
客人神 Instagram posts - Gramho.com

 客人(まろうど)神の例として研究者は「常陸国風土記』の富士と筑波の伝説を挙げます。
大古、祖神尊(みおやのまみのみこと)が諸神のところを巡っていました。駿河の幅慈(富士)の神は、新嘗の祭で家内物忌をしていたので、親神なれどもお泊めしなかった。そこで祖神尊はこの山を呪われたので、この山には夏も冬も雪ふりつもり、人も登らず飲食も上らないのだという。
 この祖神尊が筑波の神に宿を乞うたところ、新嘗の物忌にもかかわらず神の飲食をととのえて敬い仕え申した。そこで祖神尊は大いによろこばれて、
愛しきかも 我が胤 魏きかも 神宮
あめつちのむた 月日のむた
人民つ下ひことほぎ 飲食ゆたかに
代のことごと日に日に弥栄えむ
千代万代に 遊楽きはまらじ
と祝福せられたので、筑波は今に坂東諸国の男女携え登って歌舞飲食をするのです
二見町◇蘇民将来
スサノウの宿泊を断る弟の招来

客人神の伝説は、京都の祇園社の武塔天神が有名です。

『釈日本紀』の『備後風土記逸文』には蘇民将来の話として載せられています。この物語は、旧約聖書のモーゼの「出エジプト」を思い出させる内容です。その話の筋はこうです。
昔、北海に坐した武塔神(スサノウ)が南海の神の女子を婚いに出でましたとき、日が暮れたので蘇民と将来という兄弟の家に宿を乞われた。しかるに弟の将来は富めるにもかかわらず宿をせぬ。兄の蘇民は貧しいにもかかわらず、宿を貸し、栗柄を御座として来飯をお供えした。
蘇民将来の神話

後に武塔神が来て前の報答をしようといい、蘇民の女の子だけをのこして皆殺してしまった。そのとき神の日く、
吾は速須佐能雄(スサノウ)の神なり。後の世に疫気あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて茅の輪を腰の上に著けよと詔る。詔のまにまに著けしめば、その夜ある人は免れなむ
武塔天神はスサノオで、疫病の神です。そのため宿を貸した善人の蘇民の娘だけを助けて、他は流行病で全減したようです。まさに、モーゼと同じ恐ろしさです。これが家に訪ね来る客人神で、その待遇の善し悪しによって、とんでもない災難がもたらされることになります。これは、前々回に見た、弘法清水伝説とおなじです。水を所望した僧侶を、邪険に扱えば泉や井戸は枯れ、町が衰退もするのです。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
蘇民招来の木札
  この神話伝説について研究者は次のように指摘します。
「この段階では道徳性が導人されており、善と悪を対比する複合神話の形式をとっている。その発展過程よりすれば客人神の災害と祝福を説く二種の神話が結合したものとみることができる。
 しかもなお原始民族の神観にさかのはれば、神は恐るべきがゆえに敬すべき威力ある実在とかんがえられたから、悪しき待遇と禁忌の不履行にたいして災害をくだす神話が生まれ、次にこの災禍を避けて福を得る方法としての祭祀を物語る神話がきたのであろう。攘災と招福は一枚の紙の裏表であるが、客人神としての大師への不敬が泉を止めたという伝説、したがって井戸を掘ることを禁忌とする口碑はきわめて古い起源をもつものとおもわれる。
 
ここにも意訳変換が必要なのかも知れません。
  水をもらえなかったくらいで、泉を枯らしてしまう無慈悲で気短で恐ろしい人格として弘法大師が描かれるのはどうしてかというのが疑問点でした。その答えは、弘法大師以前の神話では、恐るべき客人神として描かれていたのが、いつの頃からか弘法大師にとって代わられたためと研究者は考えているようです。客人神は、弘法大師に姿を変えて引き継がれたというのです。
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しかし、客人神は上手に対応すれば災いがもたらされることはありません。そればかりか人間の祈願に応えて幸福をあたえてくれます。畏怖心や威力が大きければ大きいほど、その恩寵もまた大きいとかんがえられたようです。ここからは、大師が善女からの水の供養のお礼に泉を出したという伝説は、悪女のために泉を止めたという伝説と表裏一体の関係にあると研究者は考えているようです。
蘇民将来とは?(茅の輪の起源)-人文研究見聞録
 客人神の二つの面が大師にも描かれているのです。
その結果、この種の伝説の性格として、道徳意識は潜り込ませにくかったようです。しかし、後世になってこの伝説が高野聖などの仏教徒の管理に置かれると変わってきます。弘法清水伝説として、道徳的勧懲が強調されて、教訓的色彩が強くなります。そして、厳しく罰する話の方は落とされていくようにもなるようです。
 信濃国分寺 蘇民将来符、ここにあり | じょうしょう気流
 伝説の中の弘法大師が、神話の中の祖神尊や武塔神のように、人々の家々を訪れめぐるとされていたことは押さえておきましょう。
ここからは、次のような話が太子伝説の一つとして流布するようになります。
「今でも大師は年中全国を巡り歩かれるから、高野の御衣替には大師の御衣の裾が切れている」

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地方によると「修行大師」と呼ばれる弘法大師の旅姿がとくに礼拝される所もあるようです。これは古代の家々を訪れ巡る客人神を祀るという古代祭祀の痕跡なのかもしれません。固定した建造物となった神社でおこなわれる今の神祭には、登場しない神々です。

古来は、家々に神を招きまつる祭祀が、一般的であったようです。
そして、弘法清水伝説の中にあらわれる弘法大師は、このような家々に私的に祀られた神の姿をのこしたものなのかもしれません。だから、人々は親しみ深いものとして、語り継いできたようです。そして、この親しさが、弘法清水伝説を今まで支えてきた精神的な根拠と研究者は考えているようです。
修行大師像

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重著作集第4巻 寺社縁起と伝承 弘法大師伝説の精神的意義(中)        法蔵社
客人神

 弘法大師の三つ井戸
大師井戸伝説は、古代の神話の泉(井戸)信仰に「接ぎ木」されたもの考える説があるようです。それでは、古代の人たちは、泉をどのように見ていたのでしょうか。
実在した?海の国、竜宮城 その3(ワイ的歴シ11)|はじめskywalker|note
「古事記」の海幸と山幸の神話に出てくる泉を見てみましょう。
山幸彦がうしなわれた釣針をもとめて綿津見宮に行き、宮門のそばにある井戸の上の湯津香木(ゆずかつら)にのぼって海神の女を待つシーンです。
こゝに海神の女豊玉毘売の従婢、玉器を持ちて水汲まむとする時に、に光あり。仰ぎて見れば麗しき壮夫あり。いと奇しとおもひき。かれ火遠理命、その婢を見たまひて水を得しめよと乞ひたまふ。婢乃ち水を酌みて玉器に人れてたてまつりき。ここに水をば飲なたまはずして、御頸の玉を解かして、口に含みて、その玉器に唾き入れたまひき。こゝにその典い器に著きて婢政を得離たず。かれ典杵けながら豊玉毘売命に進りき。云々
  意訳変換しておくと
海神の女豊玉毘売の従婢が玉器で水を汲もうとすると、井に光が差し込んだきた。仰ぎ見ると麗しき男が立っていた。男は火遠理命で、その婢に水を一杯所望した。婢は水を酌んで玉器に入れて、差し出した。しかし、男は水を飲まずに、首の玉を外して、口に含んで、その玉器に唾き入れた。

読んでいてどきりとするエロスを感じてしまいます。こんなシーンに出会うと古典もいいなあと思うこの頃ですが・・・それは置いて先に進みます。
ここに登場する泉(井戸)を研究者は、どのように考えているのでしょうか
「井が神の光をうつす」ということは「巫女と泉と託宣」を暗示していると云います。泉に玉を落とすということは泉を神とかんがえ、玉をその御霊代とかんがえた証拠とします。
青い泉だけでない由緒ある神社 - 泉神社の口コミ - トリップアドバイザー
  たとえば常陸多賀那坂上村水本の泉神社の泉は『常陸国風土記』にも出てくる名勝です。
ここには霊玉が天降り、そこから霊泉が涌出するようになったという伝説があります。泉神社の御神体はその霊玉だと伝えられます。また、この泉は片目魚の伝説ある那珂郡村松村の大神宮の阿漕浦(泉神社の南二里)と地下で通していると云います。

 これに関連するのが日向児湯郡下穂北村妻の都万神社の御池で、ここにも次のような玉と片目鮒の伝えがあります。
この池の岸に木花開耶姫が遊んでいたとき、神の玉の紐が池に落ちて鮒の日を貫き、それよりこの池には片目鮒が生ずるようになった。それでこの社では玉紐落と書いて鮒とよみ、鮒を神様の眷属と称えるという(『笠狭大略記』)。その他、玉の井、玉蔭井、玉落井、などの名でよばれる泉はいずれも玉と関係があり、泉を神とした時代の信仰をしめすものと研究者は考えているようです。つまり、泉そのものが神と考えられていた時代があったと云うのです。
次に神功皇后の伝説にも、泉は聖地として登場します。
『播磨国風土記』の針間井(播磨井)は、この地が神によって開かれた土地であるとし、次のように記されています。
息長帯日売(おきながたらしひめ)の命、韓国より還り上らし時、御船この村に宿り給ひしに、 一夜の間に萩生ひて根の高さ一丈許なりき。乃りて萩原と名づけ、すなはち御井を開きぬ。故、針間(はりま)井といふ。その処墾かず、又神の水溢れて井を成しき。故、韓清水と号く。その水、朝に汲め下も朝を出でず。こゝに酒殿を作りき。ム々
意訳変換しておくと
息長帯日売(=神功皇后)の命で、韓国より生還した際に、御船をこの村に着けて宿った。すると一夜の間に萩が一丈ほど成長した。そこでこの地を萩原と名づけ、御井を堀開いた。そのため針間(はりま播磨)井と呼ばれる。そして、この井戸の周辺は開墾せず、神の水溢れて湧水となったので、韓清水と名付けた。その水は、朝夕に汲んでも尽きることがない。そこで酒殿を造った。ム々

   息長帯日売(=神功皇后)が上陸した土地は、一夜のあいだに萩が覆い茂る聖地で、神を祭るべき霊地であったようです。そこに神祭のために御井が掘られます。そして開墾されることなく神聖なる土地として管理され、祭のために酒を醸すべき酒殿が造られたとあります。

『常陸国風土記』の夜刀の神の伝説にも「椎の井」の話があり、これは夜刀の神のかくれた池と伝えられます。井を掘り出したのではありませんが、この池の主が蛇であるとします。すなわち池が神の住家であるとするのです。
水の神が蛇であるという信仰は現代ではよく知られています。
そして蛇は姿を変えて龍となります。つまり「蛇=龍」なのです。龍と雨乞いは、空海により結びつけられ「善女龍王」信仰になります。しかし、その前提には、「雨乞い」と「龍蛇」の間を、古代の「水(泉)の神」信仰が結びつけていたと研究者は指摘します。泉信仰があって、古代の人々は「善女龍王」伝説をすんなりと受けいれることができたようです。ある意味、ここでも「泉信仰」に「善女龍王」伝説は「接ぎ木」されているのかも知れません。弘法清水伝説の源泉を遡れば古事記や日本書紀の神話にまで、たどり着くと研究者は考えているようです。
泉が神話に、どんなふうに登場するのでしょうか。そのシーンは3つに分類できると研究者は考えているようです。
第1は穢れを浄める場としての泉です。
古代祭礼は、神主は神僕であるとともに神自体でした。今、私たちが祀る神々の中には、もとは神への奉仕者であったらしい神(人)もいるようです。神に仕える者が身を清めるための泉は、祭祀に必須条件となります。これが弘法清水伝説の伊勢多気郡丹生村の「子安の井」では、産婦の水垢離(コリトリ)にのみもちいられ、これを日常用に汲めばかならず崇りがあるとされます。尾張知多都生路村の「生路井」のように、穢れあるものがこれを汲めば、すぐに濁ってしまうとつたえられます。
 人が神に仕えるためには、身を清める場が必要でした。それが聖なる神の住む泉だったのです。この考えは修験道にも入り込み「コリトリ」のための瀧修行などへ「発展」していくようです。
第二に泉は、神祭に必要不可欠だった酒醸造の聖地になります。
 居酒屋では今でも、御神酒と呼んだりします。御神酒は、祭礼の際に君臣和楽するためや、神人和合の境地をつくり出す「手段」として必要不可欠なものでした。酒は、託宣者を神との交感の境に導くための「誘引剤」としても用いられました。御神酒は、神と人のあいだの障壁をとりのぞき、神語を宣るに都合のいい雰囲気を作り出す役割も果たします。こうして託宣者は「御託をなヽらべる」ことができるようになります。 酒は神物であり、神から授けられたものだったのです。
『古事記』中巻にある「酒楽の歌」は、こうした信仰を歌いつたえたものなのでしょう。
この御酒は、吾が御酒ならず、酒(くし)の上、
常世にいます、石立たす、少名御神の、
神壽(かむはぎ)、壽狂ほし、豊壽、壽廻(はぎもとほ)し、献(まつ)り来し、御酒ぞ、涸ずをせ、さゝ
  意訳変換しておくと
この御酒は、私たちの御酒ではなく、天の上、常世にいらっしゃいます少名御神のものです。
神を祝い、豊作を祝い愛で、喜びをめぐる、
献(祀り)がやってきた、御酒ぞ、枯らすことなく浴びるほど飲め
涌泉伝説には、酒の泉の伝説もかなりあるようです。そして、養老瀧の酷泉伝説につながっていくものも数多くあります。たとえば『播磨国風土記』には印南郡含芸の甲に酒山の酒泉が涌出した話があり、揖保郡萩原の里の韓清水にも酒殿が立てられたことが記されています。また『肥前国風土記』、基粋の郡、酒殿の泉にも酒殿があり、孟春正月の神酒を醸したようです。
泉の第3の効用は、ここで託宣が行われたことです。
原始神道のもっとも大きな特色は託宣だと研究者は云います。
託宣を辞書で調べると次の通りです
託宣」(たくせん)の意味
「神が人にのりうつり、または夢などにあらわれて、その意思を告げ知らせること。神に祈って受けたおつげ。神託。→御託宣」
 
 戦後直後の昭和の時代には、まだ選択者が「市子、守子、県、若、梓神子など死霊生霊の口寄せ」として残っていた地域もあったようです。中世には八幡神は、この託宣を使って八幡信仰を全国に広げました。それを真似るように熊野、諏訪、白山なども好んで巫女に憑って託宣を下しました。大きな神社でなくても、「祟の神さん」といわれる祠のような小さな神社でも、巫女達が託宣を下しました。
たたりはたたへ(称言)、またはたとへ(讐喩)と語源をおなじくする託宣の義」

と研究者は指摘します。これには巫女、市児、山伏の類から僧侶までもくわわります。それは託宣の需要が多く、その収入も多かったからでしょう。
 『大宝令』『僧尼令』には、僧尼の古凶卜相、小道鳳術療病者を還俗させる法令があります。養老元年(717)4月の詔にも、僧尼の巫術卜相を禁ずるとあります。ここからは、奈良時代には託宣が盛んに行われていたことがうかがえます。託宣が古代祭祀のかなり大きな部分を占めていたようです。
日本巫女史|国書刊行会

 しかし、奈良時代になると託宣は託宣のための託宣であって、古代の祭儀としての託宣とは、かなりかけ離れていたようです。その背景には、神への奉仕者と託宣者とが分化したことが挙げられます。神社をはなれた漂泊の託宣者が手箱や笈を携えて祈疇と代願をおこなうようになります。神社専属の神子はんや神主からは、彼らは「歩き巫、叩き巫、法印、野山伏」と侮りをうけるようになっていきます。

それでは、託宣(神託)は、どこでおこなわれていたのでしょうか
  それは神が住む泉で行われたと研究者は考え、次のように記します。
  巫女は林下の泉に臨んでこれをのぞき見、ある所作をなすことによつて悦惚たる人神の境地にはいり、時間的・空間的な制約を超脱して神意を宣ることができたのであろう。

これは現在でも、選択者の流れを汲む市子、縣たちは必ず水を茶碗に汲んで笹の葉でかきまわし、所謂「水を向け」を行った後に託宣を告げます。これは、泉で託宣が行われた時の痕跡と研究者は考えているようです。
日本最古いの一つとされる数えられる安積の采女の歌とには、
浅香山かげさへ見ゆる山の井の浅き心を吾おもはなくに

この歌に出てくる「山の井」は、采女が託宣をおこなうべき場所であった井戸とも考えれます。また小野小町、小野於通、和泉式部などの全国に足跡を残す女性たちも『和式部』の作者であるよりは、実は采女であったと考える研究者もいるようです。これも采女が泉にゆかりをもとめた証となります。

原始信仰にとって、泉とは一体なんのなのでしょうか?     
  『古事記』『日本書紀』は、死後に行く世界、現世から隔絶された世界、すなわち幽界を「よみ」として、これに黄泉または泉の文字をあてます。泉を幽界への通路、または幽界を覗き見るべき鏡とかんがえたことがうかがえます。そして研究者は次のように述べます。
 泉は林間樹下に蒼然と湛えて鳥飛べば鳥をうつし、鹿来れば鹿をうつし、人臨めば人を映す。泉は、古代人にとって神秘以上のものであったろう。鏡を霊物とする思想が泉を霊物とする思想から発展したとかんがえるのは、あながち無理な想像ではあるまい。かがみということば自身「影見」であり、泉の上に「かがみ(屈み)見る」から出たということも思える。
 鏡が幽界、地獄界をうつすというかんがえは野守の鏡のみならず、松山鏡の伝説にもある。中世の地獄、古代の幽界は遡れば現世から隔絶された世界、顕国の彼方の世界、常世、神の世界である。ゆえ泉に拠って神人の交通を企てるということは、古代人にとってはきわめて自然のこととかもしれない。姿見の井戸などの幽怪なる伝説も、こうした泉の霊用をかんがえてはじめて理解し得るのである。
泉信仰から鏡信仰へとスライド移行して行ったというのです。
古代の神泉伝説で、采女がなぜか投身人水をします。どうしてなのでしょうか?
  これは古代祭祀における人身供犠と関係があるようです。 フレーザーは未開民族のあいだにおける人身供犠について次のように述べます。
  人身供犠記(生け贄)は。古代社会にとっては普通のことで、それは穀神にささげられる生贄であり、人を殺すことによって土地を肥し収穫を増すという信仰から出ている。それゆえ南洋諸島の人身供犠には、できるだけ肥った人を選ぶ。

『今苦物語集』巻二十六、〔飛騨国の猿神生贄を止むる語第八〕などでも供えられる僧は、できるだけ食べさせて肥らされます。この話は人身御供をとる猿神を身代わりの僧が退治する話です。そこでは、年々選ばれる人身御供は未婚の美女でなければならず、これを供えることによって猿神の神怒を和げ、田畠の収穫を増加させたされています。
ファイル:人身御供.gif - Docs

 巫女は古代の祭祀では最終的には、神になることを求められます。そのためには泉に身を投ずることによって神として祀られた時代があったと研究者は考えているようです。この国の祖先たちは、このような死を単なる死と見ずに、死を通じて永遠の生命を獲得するとかんがえたようです。しかし、生のままの人身御供ということは、古墳時代の埴輪の登場にみられるようにだんだん「時代遅れ」の感覚になります。そこで、人間の代わりに魚の片目を潰して池に放すこととなります。池に放すのは、人間にとっては死ですが、魚にとっては生であり放生です。この日本古来の人身御供を慈悲放生のシーンへと巧みに換えたのは、仏教の功績のひとつなのかもしれません。
 このようにして泉は、古代祭祀において重要なシーンを演じてきました。そのためいくつもの神話が生まれ伝説化します。そのうえに弘法清水伝説や大師井戸は「接ぎ木」されたと研究者は考えているようです。しかし、どうして弘法大師が選ばれたのでしょうか。考えられることを挙げておくと次のようになります
①中世の精神生活における仏教の絶対優位、とくに密教的なるものの優勢ということ、
②弘法大師の法力、加持力
③古代信仰とその伝説の荷担者が密教と親近性をもっていたこと、
しかし、これだけでは説明はつきません。古代の神々と弘法大師が混同されるような何かがあったと考えたいところです。この泉の由来はと聞かれて、どなたか尊い方が来て出された泉だという伝承があった上で、それこそ弘法大師だったのだと納得されるには、何かかくれた根拠が必要です。2段構えの説明が求められます。
  「大師は太子であって神の子である」

という柳田国男の説がよぎります。
古代の泉の廻りをうろうろしただけのとりとめのない話になってしまいました。しかし、大師井戸の背後には、古代の泉伝説が隠されているという話は私にはなかなか面白い話でした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重作集第四巻 寺社縁起と伝承文化 


善通寺と空海 : 瀬戸の島から

弘法大師伝説のなかに、「弘法清水」や「大師井戸」とよばれる涌泉伝説があります。
まんのう町真鈴峠に伝わる「大師井戸」については、以前紹介しました。この伝説について民俗学の研究者達は、どんな風に考えているのかを見ていくことにします。テキストは「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」です

この伝承は、民間伝承と太子伝に載せられているものの二つがあります。最初に太子伝に載せられた「大師井戸」を追いかけてみましょう。
1弘法大師行状記

  一番古いのは寛治一年(1089)の『弘法大師行状集記』〔河内国龍泉寺泉条第七十七〕で、次のように記されています。
この寺は蘇我大臣の大願で、寺を建設するのにふさわしい所が選ばれて伽藍が建立された。ところがこの寺に昔からある池には悪龍が住むと伝えられ、山内の池に寄りつく人畜は被害を受けた。そこで大臣は冠帯を着帯して爵を持ち、瞬きもせずに池底を七日七夜の間、凝視し続けた。すると龍王が人形として現れて次のように伝えた。大臣は、猛利の心を発して祈願・誓願した、私は仏法には勝てないので、他所に移ることにする。そうつげると元の姿に復り、とどろきを残して飛び去った。
 その後、池は枯渇し、山内には水源がなくなってしましった。伽藍は整備されたが、水源は十数里も遠く離れた所にしかなく、僧侶や住人は難儀を強いられた。そこで大師が加持祈誓を行うと、もともと棲んでいた龍が慈心になって池に帰ってきた。以後、泉は枯れることなく湧きだし続け絶えることがない。そこで寺名を改めて龍泉寺とした。

ここからは、次のような事が分かります。
①もとから龍が住むという霊地に、寺が建立されたこと
②そのため先住者の龍は退散したが、泉も枯れたこと
③弘法大師が祈祷により、龍を呼び戻したこと。そして泉も復活したこと
寛治一年(1089)の文書ですから、弘法大師が亡くなって、約150年後には弘法清水の涌出伝説は出来上がっていたことが分かります。
和漢三才図会 第1巻から第6巻 東洋文庫 寺島良安 島田勇雄 竹島淳夫 樋口元巳訳注 | 古本よみた屋 おじいさんの本、買います。

後の『和漢三才図会』は、この清水を龍穴信仰とむすびつけて、次のように記します。
昔此有池、悪龍為害、大臣(蘇我大臣)欲造寺、析之、龍退水渇建寺院、後却患無水、弘法加持
涌出霊水、今亦有、有一龍穴常以石蓋ロ、如旱魃祈雨開石蓋忽雨 (『和漢三才図会』第七十五、河内同龍泉キ村龍泉寺)
意訳変換しておくと
昔、この寺には、悪龍が害をなす池があった。蘇我大臣が寺を作ることを願い、龍を退散させると水が涸れた。寺院はできたが、水がなく不自由していた。そこで、弘法大師が加持しすると霊水が涌き出した。今でもこの寺には、龍穴があるが、日頃は石で蓋をしている。旱魃の時には、この石蓋を開けるとたちまちに雨が降る。

ここには、後半に旱魃の際の際の雨乞いのことが付け加えられています。どちらにしても、弘法清水伝説は、水の神の信仰と関係あると研究者は指摘します。
☆駅長お薦めハイク 大淀町散策(完)弘法大師井戸と薬水駅 : りんどうのつぶやき

  槙尾寺の智恵水の伝承の三段変化
  『弘法大師行状集記」の〔槙尾柴千水条第―五〕には、槙尾山智恵水のことが次のように記されています。まずホップです。
此寺是依為出家之砌、暫留住之間、時々以檜葉摩浄手、随便宜投懸椿之上 其檜葉付椿葉、猶彼種子今芽生、而椿葉生附檜木葉、或人伝云、大師誓願曰く、我宿願若可果遂者、此木葉付彼木葉
意訳変換しておくと
この寺では弘法大師が出家する際に、しばらくここに留まり生活した。その時に、ときどき檜葉を揉んで手を浄めた。それを、椿の木に投げ置いた。すると檜葉がそこで成長して、椿葉の上に檜が茂るようになった云う。これは弘法大師の誓願に、「我、願いが適うものなら、この木葉をかの木葉につけよ」からきているのかもしれない

ここには、檜葉を揉んで手を浄めたことはでてきますが、湧水や井戸のことについてはなんら触れられていません。それが約20年後の永久、元永ごろ(1113)の『弘法大師御伝』では、次のように変化します。  これがステップです。
和泉国槇尾山寺、神呪加持、平地
、此今存之、号智恵水、又以木葉按手投棄他木、皆結根生枝、今繁茂也
  意訳変換しておくと
和泉国の槇尾山寺には、神に願って加持すれば、平地から清泉が涌きだすという。これを智恵水と呼んでいる。又木葉を手で揉んで他の木に付けると、生枝に根を付けて繁茂する。

ここでは「智恵水」が加えられています。うけひの柴手水が弘法清水に変化したようです。
せいざんしゃ.com / [仏教百事問答]塵添壒嚢鈔―抄訳
それが『塵添墟嚢妙』巻十六の〔大師御出子受戒事〕になると次のように「成長」していきます。ジャンプです。
空海が槙尾寺に滞在していた時に、住持がこの寺には泉がないことを嘆いた。そこで弘法大師は次のように云われた、悉駄太子が射芸を学んで釈種とその技量を争われた。弦矢が金鼓を貰ぬいて地に刺さると、そこから清流が湧きだし、水は絶えることなく池となった。それを人々は箭泉と呼ぶようになった。と
 ならば私もと、空海が密印を結んで加持を行うと、清泉が湧きだだし、勢いよく流れ出した。これを飲むと、精神は爽利になるので智恵水と名付けられた。

  ここにはインドの悉駄太子の射芸のことまで登場してくるので、民間伝承ではありません。当時の高野山の僧侶達の姿が垣間見れるようです。
河野忠研究室ホームページ 弘法水

整理すると板尾山智恵水とよばれる弘法清水は、次のように三段階の成長をとげていることが分かります。
①檜葉を揉んで、手を浄めそれを椿の上に投げっていた。これはうけひの柴手水の段階
②そこへ智恵水が加えられ
③智恵水のいわれがとかれるようになる
これが槙尾寺の弘法清水の形成過程のようです。
以上からは、弘法清水の伝説は11世紀末には大師伝に載せられるようになり、ある程度の成長をとげていたことをが分かります。しかし、「弘法大師伝」という制約があるので、自由に改変・創造して発展させることはできなかったようです。大師伝の編者たちは、大師の神変不可思議な出来事に驚きながらも、おっかなびつくりこれを載せていた気配がします。
大師の井戸 - 橋本市 - LocalWiki

次に、民間伝承で伝えられてきた「大師井戸」を見てみましょう。
 民衆のあいだに広がった大師井戸伝説は、大師の歴史上の行動にはまったくお構いなしに、自由にのびのびと作られ成長していくことになります。
  寛永年(1625)刊の「江戸名所記』にのせられた谷中清水稲荷の弘法清水伝説は、この種の伝説の1つのパターンです。見てみましょう。
谷中通清水のいなりは、むかし弘法大師御修行の時此所をとをり給ひしに、人に喉かはき給ふ。
一人の媼あり。水桶をいたゞき遠き所より水を汲てはこぶ。大師このうばに水をこひ給ふ。媼いたはしくおもひ本りて水をまゐらせていはく、この所更に水なし。わが年きはまりて、遠きところの水をはこぶ事いとくるしきよしをかたり申しけり。又一人の子あり。年ころわづらひふせりて、媼がやしなひともしく侍べりと歎きければ、大師あはれみ給ひ、独鈷をもつて地をほり給へば、たちまちに清水わき出たりしその味ひ甘露のごとく、夏はひやヽかに冬は温也‐いかなる炎人にもかはくことなし。大師又みづからこの稲荷明神を勧請し給ひけり。うばが子、此水をもつて身をあらふに病すみやかにいへたり。それよりこのかた、この水にてあらふものは、よくもろもろのやまひいへずといふことなし、云々
  意訳変換しておくと
谷中通の清水の稲荷は、昔に弘法大師が御修行の際に通られた所です。その時に喉が渇きました。すると、一人の媼が水桶を頭に載せて、遠くから水を汲んで運んできます。大師は、この媼に水を乞いました。媼は、不憫に思い水を差し出しながら次のように云います。「ここには水がないのです。私も年取って、遠くから水を運んでくるのは難儀なことことで苦しんでいます。」「子どもも一人いるのですが、近頃患い伏せってしまい、私が養っています」と歎きます。
 これを聞いて、大師は憐れみ、独鈷で大地を掘りました。するとたちまちに清水が湧き出します。その味は甘露のようで、夏は冷たく冬は温かく、どんな日照りにも涸れることがありません。そして大師は、この稲荷明神を勧請しました。媼の子も、この水で身を洗うと病は、たちまち癒えました。以後、この水で洗い清めると、どんな病もよくなり、癒えないことがないと云います。
弘法大師ゆかりの湧水!大阪・四條畷「照涌大井戸」 | 大阪府 | LINEトラベルjp 旅行ガイド
ここからは次のようなことが分かります。
①親切な女性の善行が酬いられて清水が涌出したこと、
②この女性には、病気の子どもがいること
③大師が独鈷をもって清水を掘り出すこと、
④この清水に医療の効験あり、ことに子供の病を癒すこと、
⑤ここに稲荷神が勧請されていること、
この「タイプ1」弘法清水は、女性の善行が酬いられて泉が涌出する話です。ここでは弘法大師が慈悲深き行脚僧として登場します。
これに似た伝説として、上野足利郡三和村大字板倉養源寺の「弘法の加治水」(加持水)を研究者は挙げます。
往昔、婦人が赤子を抱き、乳の出が少ないのを嘆きながらたたずんでいた。そこに、たまたま行脚の僧が通りかかり、その話を聞いた。僧侶が杖を路傍に突き立てて黙疇すると水が噴出した。旅僧は「この水を飲めば、乳の出が多くなる」と告げた。飲んでみるとその通りであった。この旅僧こそ弘法大師であった

  『能美郡誌」には次のように記されています。
能登の能美郡栗津村井ノ口の「弘法の池」は村の北端にある共同井戸であり、昔はここに井戸がないために遠くから水を汲んでいた。ある時、大師が来合わせて、米を洗っている老婆に水を乞うたのでこころよく供養した。すると大師は旅の杖を地面に突き立てて水を出し、たちまちにこの池ができたという。
 
これらの説話では、大師が使うのは、杖になっています。
「錫杖や独鈷、三鈷などとするのは、仏者らしい作為をくわえた転移」と研究者は考えているようです。もともとは、杖で柳の木だったようです。
勝道上人の井戸と弘法大師』 - kuzuu-tmo ページ!
四国の伊予および阿波の例を見てみましょう
伊予温泉郡久米村高井の西林寺の「杖の淵」、阿波名西郡下分上山村の「柳水」など、いずれも大師に水を差し上げた女性の親切という話は脱落していますが、大師が杖によって突き出されたという清水です。阿波の柳水の話には、泉の傍に柳の柳が繁っていたというから、その杖は柳だったようです。 (『伊予温故録』阿州奇事雑話)。

女性の親切に大師の杖で酬いた説話の中で、涌出した泉が温泉であったという話もあるようです。上野利根那川場村の川場温泉につたわる弘法清水伝説です。この温泉は「脚気川場に療老神」といわれるほどの脚気の名湯とされてきたようです。それにはこんな伝説があるからです。
 昔、弘法大師巡錫してこの村に至り行暮れて宿を求めた。宿の主人は、大師をむかえて家に入れたが洗足の湯がなかった。すると大師は主人のために杖を地に立てて湯を涌かした。それでこの湯は脚気に効くのであり、風呂の傍に弘法大師の石像をたてて感謝しているのだという(『郷土研究』第2編)

研究者が注目するのは、次のポイントです
①大師に洗足の湯を出すこと
②この温泉が脚気に効くということ、
③大師が水を求めるのでなく宿をかりること
これは大師伝説の弘法大師が、「行路神」の性格や祭の日に家々をおとずれる「客人神」の要素をもっていたと研究者は考えているようです。
以上のように、この「タイプ1」に属する説話に共通の特色は、
①大師が行脚の途次水を求め、これを与えた女性の親切が酬いられて泉が涌き出したこと、
②大師は杖を地面に突き立てて泉を出したこと、
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次にタイプ2「  弘法大師を粗略に扱い罰を受ける」を見てみましょう。 大師にたいして不親切な扱いをしたために、泉を封じられた話です。
会津耶麻郡月輪村字壺下の板屋原は、古くは千軒の繁華なる町であった。ところが、昔、弘法大師がこの地を通過した際に、ある家に立ち寄り水を求めた。家の女がたまたま機を織っていて水を持参しなかった。大師は怒って加持すると水は地下にもぐって出なくなった。さしもの繁華な町もほろびたとつたえている
(『福島県耶麻郡誌』)。

   常陸西茨城郡北山村字片庭には姫春蝉という鳴き声が大きな蝉がいます。これも大師に関係ありと、次のように伝えらます。
昔、一人の雲水が片庭に来って、家の老女に飲水を乞うた。老女は邪怪にも与えなかった。然るにこの僧が立ち去るや否や老女の家の井戸水は涸れ、老女は病を得て次第に体が小さくなって、ついに蝉になってしまった。これがすなわち姫春岬で、その雲水こそ弘法大師であった
(『綜合郷上研究』茨城県下巻
「水一杯のことで、そこまでするのか? 弘法大師らしくない」というのが、最初の私の感想です。道徳観や倫理観などがあまり感じられません。何か不自然のように感じます。

若狭人飯郡青郷村の関犀河原は、比治川の水筋なのに水が流れません。もとはこの川で洗濯もできたのに、ある洗濯婆さんが弘法大師の水乞に応じなかったため、大師は非常に立腹せられて唱え言をしたので、川水は地下を流れるようになってしまった。(若狭郡県志』)。
 阿波名西郡上分上山村字名ケ平の「十河原」には、弘法大師に水を与えなかったため、大師が杖を河原に突き立てると水は地中をくぐって十河原になったと伝えます「郷土研究」第四編)。
  「大師の怒りにふれて井戸を止められた」という話は、自分の村や祖先の不名誉なことなのではないのでしょうか。それを永く記憶して、後世に伝えると云うのも変な話のように私には思えます。どうして、そんな話が伝え続けられたのでしょうか。
浜島の人たちは昔から、海辺の近くに住んでいたので井戸が少なく、たいへん水に不自由をしていました。 また、井戸があっても海が近いのでせっかく掘った井戸水も塩からかったりすることがあったのです。  今から、二百年も前のある年に、長い間日照りが ...

次の弘法清水伝説は「タイプ1+タイプ2」=タイプ3(複合バージョン)です 
 ここでは善人と忠人が登場してきて、それぞれに相応した酬いをうけます。ここでも悪人への制裁は過酷です。それは、弘法大師にはふさわしくない話とも思えてくるほどです。
 弘法清水分布の北限とされる山形県西村山郡川十居村吉川の「大師井戸」をみてみましょう
 大師湯殿山を開きにこの村まで来られたとき、例によって百姓家で水を求められた。するとそこの女房がひどい女で、米の磨ぎ汁をすすめた。大師は黙って、それを飲んで行かれた。ところが驚いたことには、かの女房の顔は馬になっていた。
 大師はそれから三町先へ行って、また百姓の家で水を所望された。ここの女房は気立てのやさしい女で、ちょうど機を織っていたがいやな顔もせずに機からおりて、遠いところまで水を汲みに行ってくれた。大師はそのお礼として持ったる杖を地面に突き立て穴をあけると、そこから涌き出た清水が現在の大師井戸となったという。
この説話の注目ポイントを確認しておきましょう
①邪悪な女房が大師にたいして不親切に振舞ったため禍をうけ
②親切な女房が大師に嘉せられて福を得たこと、
③大師に米の磨ぎ汁をすすめたこと
④邪悪な女房の顔が馬になったということ
⑤善良な女房が機を織っていたこと
これらについて研究者は次のように指摘します。
①については、弘法大師伝説の大師と、古来の「客人神」との関係がうかがえる
②米の磨き汁も、大師講の信仰に連なる重要な暗示が隠されている
③馬になった女房は、東北地方に多い馬頭形の人形、すなわちオシラ神との関係が隠されている
大垣市湧き水観光:十六町の名水 弘法の井戸 : スーパーホテル大垣駅前支配人の岐阜県大垣市のグルメ&観光 ぷらり旅
  常陸鹿島郡白鳥村人字札「あざらしの弘法水」も同村人字江川と対比してつたえられています。
この話では江川の女は悪意でなく仕事に気をとられて水を与えなかったとなっていますが、それにたいしても大師は容赦しません。去って次の集落に入ると、杖を地に突きさして清水を出します。その結果、札集落には弘法水があり、江川集落は水が出ないのだと伝えられます。(『綜合郷L研究』茨城県)

どうしてこんな厳しい対応をする弘法大師が登場するのでしょうか?
現在の私たちの感覚からすると「そこまでしなくても、いいんではないの」とも思えます。一神教信仰のような何か別の原理が働いているようにも思えます。これについて研究者は次のように述べます
わが民族の固有信仰における神は常に無慈悲と慈悲、暴威と恩寵、慣怒と愛育、悪と善の二面をもち、祭祀の適否、禁忌の履行不履行によって、まったく相反する性格を人間の前にあらわされるものだからである。

確かに「古事記』『風土記』等に出てくる客人神は、非常に厳しい神々で曖昧さはありません。それが時代が下るにつれて「進化=温和化」(角が取れた?)し、次第に慈悲と恩寵の側に傾いていったようです。古き神々は人を畏怖させる力を持っていて、それを行使することもあったのです。インドのインデラやユダヤ教のエホヴァ(ヤーベ)と同じく怒れる神になることもあったようです。その神々に弘法大師が「接ぎ木」されて、弘法大師伝説に生まれ変わっていくようです。
 ここにみえる二重人格のような弘法大師は、古来の「客人神」の台木の上に接ぎ木されています。それが複合型伝説というタイプの弘法大師伝説となっていると研究者は考えているようです。
井戸寺:四国八十八箇所霊場 第十七番札所 – 偲フ花
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「五来重作集第四集 寺社縁起と伝承文化 弘法大師伝における弘法清水    273P」


弘法大師については、実像と死後に作られた伝説とがあり、これが渾然一体となって大きな渦(宇宙)を作り出しているようです。ここでは、それをとりあえず次のふたつに分けておきます。
太子伝  史料等で明確に出来る年表化が可能な事項
大師伝説  大師死後に生み出された民間伝承・信仰
大師伝説が大師伝の中にあらわれたのが、いつ頃のことなのでしょうか
大師没後255年の寛治三年(1089)、東寺の経範法務の『弘法大師御行状集記』が一番古いようです。この本は『今昔物語集』と同じじ時代のもので、霊異説話集の影響を受けたせいか、大師行状の中の伝説的部分に強い関心を示す大師伝と言われます。
その序には、次のように記されています。(意訳)
大師が人定したのが承和二年乙卯で。現在は寛治三年己巳で、その間に255年の歳月が過ぎた。入城直後の行状には、昼夜朝暮(一日中)いろいろな不思議なことを聞かされたが、時代が離れるに従って、伝え聞くことはだんだん少なくなり、1/100にも及ばなくなった。これはどうしたことだろうか。これより以後、末代のために、伝え聞いたことは、すべて記録に残すことにする。後々に新たな事が分かれば追加註していく。

このような趣意で、できるだけ多くの大師に関する伝聞を記録しようとしています。そのために、大師の奇蹟霊異も多く集められ収録されているようです。注目したいのはこの時点で、すでに多数の伝説が語り伝えられていて、記録されていることです。『弘法大師御行状集記』に収録されている弘法大師伝説を挙げて見ます。
1、板尾山の柴手水の山来。
2、土佐の室戸に毒龍異類を伏去すること。
3、行基菩薩出家前の妻と称する播磨の老姫、大師に鉄鉢を授くること。
4、唐土にて三鈷を上すること。
5、豊前香春(かすい)山に木を生ぜじめること。
6、東大寺の大蜂を封ずること。
7、わが国各所の名山勝地に唐より伝来の如意宝珠をうづむること。
8、神泉苑祈雨の龍のこと。
9、祈雨に仏合利を灌浴すること。
10観行にしたがって其の相を現ずること。
11五筆和尚のこと。                                         5
12伊豆柱谷山寺にて虚空に大般若経魔事品を吉すること。
13応天門の額のこと
14河内龍泉寺の泉を出すこと。
15大師あまねく東国を修行すること。
16陸奥の霊山寺を結界して魔魅を狩り籠めること。
17生栗を加持し蒸茄栗となし供御して献ずること。
18日本国中の名所をみな順礼し、その御房あげて計うべからざること。
19高野山に御入定のこと。
20延喜年中(901~)、観賢僧正、御人定の巌室に大師を拝することの
以上の項目を見てみると、のちの大師伝が伝説としてかならずあげるものばかりです。
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『弘法大師御伝』(11世紀末)と『高野大師御広伝』(12世紀)になると、弘法大師伝説はさらに増えます。ふたつの弘法大師伝に追加された項目を挙げると次のようになります。
1、唐にて大師の流水に書する文字、龍となること
2 大師筆善通寺の額の精霊と陰陽師晴明の識神のこと。
3、大師筆皇城皇嘉門の額の精霊のこと。
4、土佐国の朽本の梯(かけはし)に三帰をさずくること
5、石巌を加持して油を出すこと。
6、石女児を求むれば唾を加持して与えるに児を生むこと。
7、水神福を乞えば履を脱いでこれを済うこと。
8、和泉の国人鳥郡の寡女の死児を蘇生せしむること。
9、摂津住古浦の憤のこと。
10行基菩薩の弟子の家女に「天地合」の三字を柱に書き与うるに、その柱薬となること。
11河内高貴寺の柴手水に椿の本寄生すること。
12天王寺西門に日想観のこと。
13高雄寺法華会の曲来と猿の因縁。
14讃岐普通寺・曼荼羅寺の塩峰と念願石のこと。
15阿波高越山寺の率都婆のこと。
上の大師伝説は、伝記の本文から離して「験徳掲馬」の一条を立てて別立てにしています。そしては次のようなことが序文に書かれています。
今、大師御行状を現したが 神異を施し、効験を明らかにすために、付箋を多く記した。世俗では多くの弘法大師伝が語られるようになり、それが多すぎて、詳しく年紀をしるすことができない。書くことができないものは、左側に追加して記すことにした。

年紀(年表)に、民間に伝わる大師伝説を入れていこうとすると、無理が起きてきたようです。弘法大師伝説が多すぎて、年紀の中に入りきれなくて、はみ出さざるを得なかったのです。世に伝わる大師伝説を全て収録しようとすると、大師伝の中に伝説がどんどん流入してきます。その結果、「或人伝云」「或日」「世俗説也」「世俗粗伝」などの註記を増やす以外に道がなくなったようです。

 私は最初は、弘法大師伝説は歴代編者の「捏造」と単純に考えていました。
しかし、どうもそうではないようです。世の中に伝わる弘法大師伝説が時代とともに増え続けていたのです。つまり、生み出され続けたのです。編者は世俗の説(弘法大師伝説)にひきずられる形で書き足していたようです。
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深賢の『弘法大師行化記』二巻は、奥書に編集方針が次のように記されています。
この書の上巻裏書には、やや詳しく大師の伝説をのせています。しかし、ここでは「世俗説也」「彼土俗所語伝也」の註があります。伝記と伝説を区別すべきものであるという編集姿勢が見えます。そして、この伝が書かれた鎌倉初期までに、大師伝中の大師伝説は固定したようです。これから新たに伝に加えられるものは出てきません。

 しかし、鎌倉時代末以後に書かれた大師伝のスタイルは大きな変化を見せるようになります。
このころの大師伝は伝記と伝説のあいだの区別がまったくうしなわれてしまうのです。そして、伝記と云うよりも奇瑞霊験に重点を置き説話化していきます。
 これは鎌倉中末期という時代に『法然上人行状絵図』『一遍上人絵伝』などの高僧絵伝が多数つくられたことと関係するようです。これとおなじ時期に、弘法大師初めての絵図である『高野大師行状画図』十巻が作られます。これは他の高僧絵伝の説話化とおなじで絵入物語です。
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 正中一年(1325)の慈尊院栄海の『真言伝』に見える弘法大師伝などは、まさにこの行状画図路線をいくものです。
こうして伝説は伝記の中に織り込まれて説話化、物語化するようになります。この傾向が進むと次第に大師伝説は、「歴史」として扱われるようになります。そうなると編者の次の課題は、大師の奇瑞霊異の伝説がいつのことであったのかに移っていきます。伝説に年紀日付を付けて、年表化する作業が始まります。こうなると伝説と歴史事実との境がなくなります。「伝説の歴史化」が始まります。
その研究成果が結実したものが報恩院智燈の『弘法大師遊方記』四巻(天和四年(1684)になるようです。
その成果を見てみましょう
①大滝獄捨身が延暦十一年(791)、大師19歳とされ、
②播州に行基の妻より鉢を受くる奇伝と伊豆桂谷山寺の降魔は延暦12年、大師20歳
③横尾山に智慧水を湧かし、高貴寺の泉の檜木に椿を寄生せしめる伝説が大同二年(807)
こうして「遊方記」では、編者の智燎の手に負えない伝説は、みな捨てられてしまいます。その上、伝悦をそのまま歴史事実とする無理は寂本の『弘法大師伝止沸編』一巻(貞享三年(1685)によつて指摘せられます。そして、高野開創の逢狩場神や逢丹生神の物語なども、紀年を附すべき事実でないことがあきらかにされていくのです。
 これ以後、大師伝説は大師伝の編者にとっては、あつかいに苦慮する部門になっていきます。
これはそれまでの編者が、伝記と伝説のちがいや立場を認識することなしに、「伝記の伝説化」や「伝説の伝記化」を行ってきた結果とも云えます。これに対して、この区別を認識して不審は不審、不明は不明のままに、伝えられてきた記録をもらさず集録したものが得仁上綱の『続弘法大師年譜』巻六です。できるだけ多く採録して、後の世代に託すとする態度には好感が持てます。多くの集録された史料の中から伝説の変化がうかがえます。
 以上をまとめておくと
①初期の弘法大師伝では、伝記と伝説は分けて考えられていた
②その間にも民間における弘法大師伝説は、再生産され続けた
③増え続ける弘法大師伝説をどのように伝記に記すのかが編者の課題となった。
④宗法祖信仰が高まるにつれて伝記は説話化し、伝記と伝説の境目はなくなっていった
⑤弘法大師伝説も年紀が付けられ年表化されるようになった。
しかし、これは編者の捏造とおいよりも、弘法大師伝説の拡大と深まりの結果である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
五来重 弘法大師伝説の精神史的意義 寺社縁起と伝承文化所収


前回は、大学中退後の空海が正式に得度し、修行生活に入ったと絵巻物には書かれていることを見ました。平城京の大学をドロップアウトして、沙門として山林修行に入った空海のその後は、絵巻ではどのように描かれているのでしょうか。今回は空海の山林修業時代のことを見ていきます。舞台は、四国の阿波の太龍寺と土佐の室戸岬です。
まず、山林修行のことが次のように記されます

〔第二段〕空海の山林修行について
大師、弱冠のその上、章塵(ごうじん)を厭ひて饒(=飾)りを落とし、経林に交はりて色を壊せしよりこの方、常しなへに人事を擲って世の煩ひを忘れ、常に幽閑を栖(すまい)として寂黙を心とし給ふ。
山より山に入り、峰より峰に移りて、練行年を送り、薫修日を重ぬ。暁、苔巌の険しきを過ぐれば、雲、経行の跡を埋み、夜、羅洞の幽(かす)かなるに眠れば、風、坐禅の窓を訪ふ。煙霞を舐めて飢ゑを忘れ、鳥獣に馴れて友とす。
意訳変換しておくと
大師は若い頃に、世の中の厭い避けて、出家して山林修行の僧侶の仲間に入って行動した。人との交わりを絶って世間の憂いを忘れ、常に奥深い山々の窟や庵を住まいとして、行道と座禅を行った。
山より山に入り、峰より峰に移り、行く年もの年月の修行を積んだ。
 夜明けに苔むす巌の険しい行道を過ぎ、雲が歩んできた道跡を埋める。夜、窟洞に眠れば、風が坐禅の窓を訪ねてくる。煙霞を舐めて餓を忘れ、鳥獣は馴れてやがて友とする。
  ここからは、空海が山林修行の一団の中に身を投じて、各地で修行を行ったことが記されています。

   当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、まずは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。そのためには、生活を支えてくれる支援者(下僕)を連れていなければなりません。室戸岬の御蔵洞は、そのような支援者が暮らしたベースキャンプだったと研究者は考えているようです。ここからすでに、私がイメージしていた釈迦やイエスの苦行とは違っているようです。

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も阿波の大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。

それを絵詞は次のように記します。
或は、阿波の大滝の岳に登り、虚空蔵の法を修行し給ひしに、宝創(=剣)、壇上に飛び来りて、菩薩の霊応を顕はし,件の例〈=剣〉、彼の山の不動の霊窟に留まれり)、

意訳変換しておくと
あるときには、阿波の大瀧山に登り、虚空蔵の法を修行していると、宝創(=剣)が壇上に飛んできた。これは菩薩の霊感の顕れで、この時の剣は、いまも大瀧山の不動の霊窟にあるという。
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大瀧山の不動霊窟で虚空蔵法を念ずる空海と 飛来する宝剣

空海の前の黒い机には、真ん中に金銅の香炉、左右に六器が置かれています。百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。
  雲海が切れて天空が明るなります。すると雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。雲海の向こう(左)は、室戸に続きます。
室戸での修行
或は、土佐(=高知県)の室戸の崎に留まりて、求聞持の法を観念せしに、明星、口の中に散じ入りて、仏力の奇異を現ぜり。則ち、かの明星を海に向かひて吐き出し給ひしに、その光、水に沈みて、今に至る迄、闇夜に臨むに、余輝猶簗然たり。大凡、厳冬深雪の寒き夜は、藤の衣を着て精進の道を顕はし、盛夏苦熱の暑き日は、穀漿を絶ちて懺悔の法を凝らしまします事、朝暮に怠らず、歳月稍(ややも)積もれり。
意訳変換しておくと
 土佐(高知県)の室戸岬に留まり、求聞持の法を観念していた。その時に明星が、口の中に飛んで入り、仏力の奇異を体で感じた。しばらくして、明星を海に向かひて吐き出すと、波間に光が漂いながら沈んでいった。しかし、燦然と輝く光はいつまでも輝きを失わない。闇夜に、今も輝き続けている。厳冬の深雪の寒い夜でも、藤の衣を着て精進の道を励み、盛夏苦熱の暑き日は、穀類を絶って木食を行って、懺悔法を行うことを、朝夕に怠らず、修練を積んだ。

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 画面は右の太龍寺の霧の海からは、左の土佐室戸へとつながっています。 大海原は太平洋。逆巻く波濤を前に望む岬の絶壁を背にして瞑想するのが空海です。拡大して見ましょう。
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幾月もの行道と瞑想の後、明星が降り注いだと思うと、その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を身を以て体感し悟りに近づいていきます。ここまではよく聞く話ですが、次の話は始めて知りました。
〔第三段〕  空海 室戸の悪龍を退散させる 
室戸の崎は、南海前に見え渡りて、高巌傍らに峙(そばだ)てり。遠く補陀落を望み、遥かに鐵(=鉄)囲山を限りとせり。松を払う峯(=峰)の嵐は旅人の夢を破り、苔を伝ふ谷の水は隠士の耳を洗ふ。村煙渺々(びょうびょう)として、水煙茫々たり。呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」など言ふ句も、斯かる佳境にてやと思ひ出でられ侍り。大師、この湖を歴覧し給ひしに、修練相応の地形なりと思し召し、やがて、この所に留まりて草奄(庵)など結びて行なひ給ひしに、折に触れて物殊に哀れなりければ、我が国の風とて三十一字を斯く続け給ひけるとかや。
法性の室戸と聞けど我が住めば
 有為の波風寄せぬ日ぞなき
又、夜陰に臨むごとに、海中より毒竜出現し、異類の形現はれ来りて、行法を妨げむとす。大師、彼等を退けむが為に、密かに呪語を唱へ、唾を吐き出し給ふに、四方に輝き散じて、衆星の光を射るが如くなりしかば、毒竜・異類、悉くに退散せり。その唾の触るヽ所、永く海浜の沙石に留まりて、夜光の珠の如くして、昏(くら)き道を照らすとなむ。
意訳変換しておきます。
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海の中から現れた毒龍 
室戸岬の先端は太平洋を目の前にして、後に絶壁がひかえる。遠くに観音菩薩の住む補陀落を望み、その遥かに鉄囲山に至る。松を払うように吹く峰の嵐は、旅人の夢を破り、苔をつたう谷の水は行者の耳を洗ふ。村の煙が渺々(びょうびょう)とあがり、水煙は茫々と巻き上がる。
 思わず「呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」などという句も浮かんでくる。
 空海は室戸周辺を見てまわり、修行最適の地として、しばらくここに留まり修行をおこなうことにした。この周辺は、何を見ても心に触れるものが多く、三十一字の句も浮かんでくる。
   法性の室戸と聞けど我が住めば
         有為の波風寄せぬ日ぞなき
 浜辺の松が、強い海風にあおられて枝が折れんばかりにたわむ。海は逆巻く怒濤となって押し寄せる。そして夜がくるごとに、海中より毒竜がいろいろな異類の姿で現はれて、大師の行法を妨げようとする。そこで大師は、密かに呪語を唱へて、唾を吐き出した。すると四方に輝き散じて、あまたの星の光をのように飛び散り、毒竜・異類は退散した。その唾が触れた所は、海浜の沙石に付着して、夜光の珠のように、暗い道を道を照らしていたという。
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現れた毒龍や眷属に向かって、空海は一心不乱に呪文を唱え、目を見開き海に向かって唾を吐き出します。唾は星の光のように、辺りに四散します。すると波もやみ静かになります。見ると毒龍や異類も退散していました。
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毒龍に向かって唾を吐き出す空海

ここでは「陰陽師」と同じように、祈祷師のようなまじないで毒龍や悪魔を退散させます。まさにスーパーヒーローです。
次は場面を移して、金剛頂寺です。
〔第四段〕
室戸の崎の傍らに、丹有余町を去りて勝地あり。大師、雲臥(うんが)の便りにつきて草履の通ひを為し、常にこの制に住み給ひし時、宿願を果たさむが為に、 一つの伽藍を立てられ、額を金剛定寺と名け給へり。此の所に魔縁競ひ発りて、種々に障難を為しけり。大師、則ち、結界し給ひて、悪魔と様々御問答あり。
「我、こヽに在らむ限りは、汝、この砌に臨むべからず」
と仰せられて、大なる楠木の洞に御形代(かたしろ)を作り給ひしかば、其の後永く、魔類競ふ事なかりき。彼の楠木は、猶栄へて、枝繁く葉茂して、末の世迄、伝はりけり。その悪魔は、同国波多の郡足摺崎に追ひ籠めらると申し伝へたり。
 昔、釈尊、月氏の毒龍を降し給ふ真影を窟内に写して、隠山の奇異を示し、今、大師、土州(土佐)の悪魔を退くる影像を樹下に残して、古今の勝利を施し給ふ。何ぞ、唯、仏陀の奇特を怪しまむ。尤も、又、祖師の霊徳を尊むべき物をや。
  意訳変換しておくと

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金剛定(頂)寺に現れた魔物や眷属達
室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
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 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。
その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。
 大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
ここには、室戸での修行のために 西方20㎞離れた所に金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺はそこから遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、室戸岬で座禅するという修行が行われていたことがうかがえます。
 絵詞に描かれた金剛頂寺は、壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいる姿が描かれています。退廃した本堂に空海は住止し、日夜の修行に励んだと記されます。
五来重氏は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマであったと指摘します。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。

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 空海の修行するお堂の周りに、有象無象の魔物が眷属を従えてうごめいています。そこで、空海は修行の邪魔をするな、この決壊の中には一歩も入るな」と威圧します。そして、空海がとった次の行動とは?
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 庭先の大きな楠の下にやってきます。この老樹には大きな洞がありました。大師は、ここに人形を彫り込めます。一刻ほどすると、そこには大師を写した人形(真影)が彫り込まれていました。以後、魔物は現れませんでした。という伝説になります。これは、金剛頂寺にとっては、大きなセールスポイントになります。
 これに続けと、他の札所もいろいろな「空海伝説」を創り出し、広めていくことになります。江戸時代になるとそれは、寺にとっては大きな経営戦略になっていきます。

今回紹介した大師の修行時代を描いた部分は、「史実の空白部分」で謎の多い所です。
それをどのように図像化するかという困難な問題に、向き合いながら書かれたのがこれら絵巻になります。見ているといつの間にか、ハラハラどきどきとしてくる自分がいることに気づきます。ある意味、ここでは空海はスーパーマンとして描かれています。毒龍などの悪者を懲らしめる正義の味方っです。勧善懲悪の中のヒーローとも云えます。それが「大師信仰」を育む源になっているような気もしてきました。作者はそれを充分に若手いるようです。他の巻では説話的な内容が多いのですが、この巻では様々な鬼神を登場させることによって、「謎の修業時代」を埋めると共に、「弘法大師伝説」から「弘法大師神話」へのつないで行おうとしていると思えてきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
     小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊
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 空海については、さまざまな伝説が作られ語り継がれてきました。それは、高野聖などによって各地に広められていったようです。では、その原型となったものは何なのでしょうか。それはひとつには、空海の生涯を描いた絵伝巻物ではないかと思います。巻物を通じて空海の生涯は語られ、伝説化し、それを口伝で高野聖たちが庶民に語ったのでないのでしょうか。そこで今回は、絵巻物で空海の生涯がどのように描かれ、語られてきたのかをみていくことです。
テキストは 小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊です。
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  まずは「誕生霊瑞」の段から見ていきます。

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孝徳天皇の御時、初めて佐伯の姓を賜はれり。其の祖、日本武尊に随ひて東夷(=蝦夷)を鎮めし功勲、世に覆ふによりて、讚岐国に地を班(わか)ち賜ひき。この所に家居して、胤葉相継ぎて、子孫県令たり。尊堂(母)は阿刀の氏の人也。
夢に天(竺国(=インド)より牢人飛び来りて懐に入ると見て、妊胎あり。
光仁天皇の御宇、宝亀五年〈七七四〉に当たりて、十二の建辰を満ち、十指の爪掌を合はせて、辛酉の日を以て誕生の瑞を示せり。懐妊月余つて、佳期歳に満ちしかども、着帯身を苦しめず、出産の事穏やか也。
彼の聖徳太子の斑鳩に述を垂れ、広智三蔵の神竜に生を降し給ひし奇異の佳祥も、知斯くやと覚え侍り。
意訳変換しておきます。
空海の生まれた佐伯直家は、孝徳天皇の時に、初めて佐伯の姓を賜わった。その祖は、日本武尊に随って東夷(=蝦夷)を鎮めた功勲が認められ、讚岐国に所領を得た。ここに家居して、子孫は県令を代々勤めてきた家柄である。母は阿刀氏出身である。
 母親が天竺(=インド)から聖人が飛んできて、懐に入る夢を見て、懐妊したという。
光仁天皇の御宇、宝亀五年〈774〉に、手を合はせて、辛酉の日に生まれるという吉兆を見せた。懐妊して、出産予定日を過ぎても生まれなかったが、母親は着帯などで苦しむことはなく、出産も穏やかであった。聖徳太子の斑鳩での誕生や、広智三蔵の神竜に生を降した出産もこんな様子だったのだろうと思える。
続いて、絵を見ていきましょう
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讃岐国屏風ヶ浦の大師の生家。佐伯直田公の屋敷。多度郡郡司らしい地方豪族の館。
広い庭には犬が飼われています。
けたたましい鳴き声で鳴き立てる犬の声に「何事ぞ 朝早くからの客人か」といぶかる姿
板戸を開けて外をうかがうのが大師の父田公のようです。
その奥に夫婦の寝室が見えます。枕をして寝入るのが大師の母。

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空中に雲に乗った僧侶が描かれます。母君の夢の中に、インドより飛来した聖人が懐に入ろうとするシーンです。
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屋敷の裏手は、下部達の部屋。
寝乱れる男達の姿
早くも起き出した親子の使用人。
父は水を汲み馬屋に運び、子どもは箒で庭掃除
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中庭には厩があり、異変を感じた馬が蹄で床を蹴り上げます。
厩の屋根は板葺きで、重しに木が乗せられています。その向こうには、三鉢の盆栽が並んでいます。この絵巻が書かれたのは14世紀後半のこととされます。その頃には、禅僧達を通じて盆栽ももたらされていたようです。
ここまでの冒頭シーンを見ると、寝殿造りの本宅や厩があり、馬がいます。まるで中世の武士の居館を見ているような気になります。書かれた時代の空気がしっかりと刻印されています。「誕生霊瑞」は、旧約聖書の「マリア受胎告知」を連想させます。空海の誕生が神秘な物として描かれます。

〔第二段〕    大師蓮華座に載って仏と話す

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大師、御年五、六歳の間、夢に常に八葉の蓮花の上に坐して、諸仏と物語すと御覧ぜられけり。
しかあれども、父母にもこれを語り給はず。況や他人をや。
耶嬢(=父母)偏へに慈しみ奉りて、たな心(掌)の玉をも玩ぶが如し。御名をば、多布度(↓貴とうと)物とぞ申しける。
意訳変換しておきます
大師が五、六歳の頃に、いつも夢の中でみることは、八葉の蓮花の上に座って、諸仏と物語することでした。しかし、その夢は父母にも話しませんでした。もちろんその他の人にも。父母は大師を、手の中の玉を玩ぶように慈しみ、多布度(↓貴とうと)物と呼びました。
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蓮華上に座して仏達と夢の中で談話する大師
同じシーンを別の絵巻で見てみましょう。
弘法大師行状図画3
高野大師行状図画  蓮華に乗り仏と語り合うエピソードは「稚児大師像」のモチーフともなっていく
次は泥土で仏を作って礼拝した話です。
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十二歳の御時、父母相語り給ふ様、「我が子は昔の仏弟子なるべし。夢に大竺の聖人来りて、懐に入ると見て妊胎せり。しかあれば、この子を以て仏家に入れ、沙門となして釈氏を継がしむべし」と。幼少の御耳に是を聞き給ひて、深く喜ぶ御心あり。
幼き御歳なれども、更に芥鶏の遊び、竹馬の戯れなくして、常に泥上を以て仏像を作り、卓木を以て童堂を建て内に据へ礼拝するを事とし給ひけり。
意訳変換すると
十二歳の頃には、父母は「我が子は昔の仏弟子なのでしょう。夢の中に天竺からの聖人が飛来して、懐に入るのを見たら懐妊しました。そうならば、この子を仏門に入れ、沙門とて釈氏を継がさせましょうか」と、話し合いました。それを聞いて、大師は深く喜んだようです。
 幼いときから闘鶏や竹馬の戯れなどには興味を示さずに、いつも泥土で仏像を作り、卓木で堂舎堂を建て、内に据へて礼拝していました。
弘法大師 行状幼稚遊戯事
高野大師行状図画の同じシーン
 
 できだぞ! 今日もりっぱな仏様じゃ。早う御堂に安置しよう。
真魚(弘法大師幼名)は、毎日手作りの泥仏を作って、安置する。
その後は地に伏して深々と礼拝します。兄弟達もそれに従います。

〔第3段〕 四天王執蓋事」
朝廷から讃岐国に派遣された巡察使が、他の子どもたちと遊ぶ大師の後ろに四天王が従う様子を見て驚き、馬から降りて拝礼したという場面を描きます。

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されば、勅使を讚岐国へ下されたりけるに、大師幼くして、
片方の章子に交はりて遊び給ひけるを見奉りて、馬より下り、礼拝して日く、「公は凡加人にあらず。その故は、四人天王白傘を取りて前後に相随へり。定めて知りぬ、これ前生の聖人なりといふ事を」と。
意訳変換すると
民の愁いを問ひ、官吏の誤りを糺すために、当時は巡察使を地方に派遣していました。讃岐へ派遣された勅使が、善通寺にもやってきました。大師は幼いので、周りの子ども達と一緒に遊んでいました。それを見た巡察使は突然に、馬を下りて、礼拝してこういったというのです
「あの方は、尋常の人ではありません。四天王が白傘を持って、前後に相随っているのが私には見える。あの方の前生が聖人であったことが分かる」と。
その後、隣里の人々は、この話を伝えて、大師を神童と呼ぶようになりました。
弘法大師 行状四天王執蓋事
「四天王執蓋事」
 画面右には大師の頭上に天蓋を差しかける持国天はじめ、増長天、広目天、多聞天の四天王が大師を守ります。この左側には馬から降りた勅使が拝礼している様が描かれていますが省略します。

   以上が弘法大師行状絵詞の「誕生霊瑞」に描かれた空海の幼年期のエピソードです。
  東寺蔵の「弘法大師行状絵詞」十二巻本は、応安七年〈1274〉より康応元年〈1289〉までの15年の間に制作されたもので、弘法大師の絵伝の中では、もっとも内容の完備したものとされます。しかし、何かが足りないような気がします。
五岳我拝師山での捨身行のエピソードが抜けています。これを補っておきましょう。

弘法大師高野大師行状図画 捨身
      「誓願捨身事」(第四段)

六~七歳のころ、大師は善通寺の背後にある我拝師山から請願して身を投げます。そこに仏が出現して大師を受け止めたというシーンです。ここは熊野行者の時代から行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していたようです。西行や道範らも弘法大師修行の憧れの地であったようで、ここを訪れ修行しています。
 しかし、この弘法大師行状絵詞には載せられていません。

  稚児大師像の成立
 幼年期の空海を描いた像は、独立してあらたな信仰対象を生み出して行きます。それが「稚児大師像」です。幼年姿の空海の姿がポートレイト化されたり、彫像化され一人歩きをするようになります。その例を見ていましょう。
稚児大師像 与田寺
 稚児大師像  興田寺13世紀

画面いっぱいに広がる光輪のなかで、たおやかに花開いた蓮華の上に合掌して坐る幼子。愛らしさとのなかにも気品漂う幼少時の姿です。「弘法大師御遺告」の冒頭に、空海は弟子たちに次のように語ったとされます
「夫れ吾れ昔生を得て父母の家に在りし時、生年五六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語ると見き。然ると雖も専ら父母に語らず、況や他の人に語るをや。この間、父母ひとえに悲しみ字を貴物と号す。」
 絵詞の文章が「弘法大師御遺告」の文章をそのまま引用しているのが分かります。ある意味、それを絵画で表現するのが弘法大師行状絵詞のひとつの使命であったのかもしれません。
専門家の評価を見ておきましょう。
禿型の髪はきれいに杭られ、白色の肌、上品な衣服が高貴な育ちにあることをイメージさせる。切金で縁どられた光輪の内部は、金泥と群青を塗る。著彩には明度があり裏彩色などの効果かとも思われる。白い小花文を散らした小袖は、褐色の地色の間に金泥を注している.髪部は濃い群青を塗った上に墨で細かく毛筋を描く。肉身を描く線は細く鋭い。目は、瞳を墨でくくり中心に墨をおき、虹彩を金泥で塗り、目尻と目頭には群青をぼかす。実在空海の幼少期の姿が、人間を超えて捉えられる。
 今度は善通寺の御影堂の稚児大師像を見てみましょう。
弘法大師稚児像
善通寺誕生院
 頭髪を美豆良(みずら)に結い、抱衣(ほうい)を着て、腹前に重ねた両手に五輪塔を捧げ持ち、木目をあらわにした着衣部には、金泥で雲文を描いている。美豆良を結った童子形の立像には、聖徳太子十六歳の姿をあらわした孝養太子像の作例が数多く知られているが、本像の形姿はその影響を受けたものと考えられ、また、腹前に捧げ持つ五輪塔は、弘法人師と同体とされる弥勒菩薩の図像に基づく表現とみなされる。ふつくらとした九顔の面相、わずかに厳しさをはらんだ表情などに理想化された弘法大師の姿をみてとることができる。

 寺伝では、大師の叔父・佐伯道長卿の作とされますが、専門家は江戸時代のものと考えているようです。江戸時代になって善通寺で作られた物のようです。 江戸時代になると善通寺では、空海やその父や母の像が作られ始めます。
その背景には、伽藍勧進のための開帳があったことは以前にお話ししました。
京都や江戸で開帳を行う際に、善通寺の呼び物は「空海誕生の地」です。そこで欲しい展示物は? と考えると空海の幼年期の姿や、その父や母の姿ということになります。開帳の目玉として、空海の稚児大師像は展示されるようになり、それが信仰対象にもなっていったようです。弘法大師信仰のひとつの発展系です。そして、父母像も登場します。
空海父 佐伯善通
  空海の父親は、現在の善通寺周辺にあたる讃岐国多度郡を本拠とした当地の有力豪族佐伯直氏の一族田公です。
空海母

 空海の母は、学者の家系である阿刀氏出身の女性とされます。
ちなみに現在も善通寺は父を善通とし、母を「玉寄姫」てしています。そのためこの像も善通公と「玉寄姫」像と呼ばれています。このふたつの専門家の評価を見ておきましょう。
ふたつの像は一木造で、「善通」公像は衣冠東帯を着けた貴族の姿である。母「玉寄姫」像は頭から衣を被り、薄い緑色の地に青海波風(せいがいは)の文様をあしらつた衣を身に着けている。それぞれの厨子には左記の銘文が陰刻され、高祖大師すなわち弘法大師の作とされるが、作風から江戸時代、おそらくは厨子が制作された明和八年(1771)をさほど遡らない時期の作と推定される。

空海の両親像があるのは、善通寺だけでしょう。
まさに誕生院にふさわしい像とも云えます。江戸や上方での開帳の際にも珍しくて人気を集めたようです。イエスとマリアのように母子愛を刺激するのかも知れません。
以上、弘法大師行状絵図の生誕と幼年期について見てきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

同行二人 蓑笠

  私が持っている笠にも同行二人(どうぎょうににん)と書かれています。「同行二人」とは、お遍路さんがお大師さんと二人づれという意味と教えられました。遍路では一人で歩いていても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けているとされています。そして、遍路で使われる杖には弘法大師が宿ると言われています。そのため杖は大切に扱うように教えられます。
 それでは「同行二人」という考え方は、いつ頃どのようにして生まれてきたのでしょうか。
  「同行二人」のことを説明するときに語られるのが、右衛門三郎のお話です。この話を最初に見ておきましょう。
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。三郎はお金持ちで権力もありましたが、強欲で情けがなく、民の人望もありませんでした。ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。
その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし、鉢を割ってしまいました。以降、僧侶は現れなくなりました。

その後、三郎の家では不幸が続きました。
8人の子供たちが毎年1人ずつなくなり、ついに全員がなくなってしまいました。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、三郎はその時、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。
以前の振る舞いが自らの不幸を招いたことを悟り、己の行動を深く後悔した三郎は、全てを人へ譲り渡し、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。
しかし、20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回ります。
しかし巡礼の途中、徳島の焼山寺(12番札所)の近くで、病に倒れてしまいました。

死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家(愛媛の領主)に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残していきを引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書き、その手に握らせました。

   翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれました。その子は左手を固く握って開こうとしません。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきました。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたといいます。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっています。


同行二人 右衛門三郎伝説

右衛門三郎伝説の「石」は現在も石手寺(松山市)に奉られているようです。また、松山市恵原町には、衛門三郎の八人の子を祀ったと言われる「八塚(やつづか)」が今も点在しています。右衛門三郎伝説は、近世になって石手寺の高野の念仏聖たちによって作られたと研究者は考えているようです。
この話が四国遍路の始まりと先達は語ります。
ここには、亡き子の菩提を弔い、悪業を悔い、大師にわびるための巡礼という回向を重ねることにより、やがて大師にめぐり合えるという話です。これが大師が今も四国を回っておられ、一心にお四国めぐりをするうち、いずれかどこかで大師に巡りあえるという信仰になります。つまり弘法大師は、今も四国霊場を巡礼すると同時に、巡礼者達を見守っているという「同行二人」信仰につながっていくのでしょう。
 そのためには、弘法大師は今もなお生き続けているという信仰が前提となります。
それは「弥勒入定信仰」から生み出されたもののようです。同行二人の基になる弥勒入定信仰を探ってみようと思います。テキストは武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程  です。

 右衛門三郎伝説以前の「同行二人」信仰について見てみましょう。
元禄三年(1690)の真念「四国遍礼功徳記」賛録は、次のように記されています
 遍礼(遍路)の事、或人のいへるに、大師の御記文(御遺告)
とて伝ふるに、身を高野の樹下にとどめ、魂を都率の雲上にあそばしめ、所々の遺跡を検知して、日々の影向をかずかずとあり。
 此文世の人信じあへる事にて、人々の口耳にとどまる事となんぬ。御遺跡へは大師、日々御影向あるにより、八十八ケ所の内いづれにてぞは大師にあひ奉といひなせるは、此よりなりと予江戸にありし時、ある人のいふをきけば、四国遍礼すれば大師にかならずあひ奉ると聞しにより、
 われ遍礼せし時、日々心をかけて、けふはけふは待しに、二十一日にてありしに、あんのごとく大師にあひ奉りこそ有がたけれと、手をあわせてかたりける。予いか様のすがたにてましましけるやといひければ、くろきぬの衣をめしけると覚え、征鼓を御頸にかけさせ給ひ、念仏を申とをり玉へ征鼓は見つれども、御顔ハ見ず、ただ目を閉じ拝み奉る計にてすぎぬとなり、此たぐひ又おほし。
意訳変換しておきましょう
遍礼(遍路)のことについて、ある人から聞いた話によると、大師の残した文書には、身は高野の地に留めるが、魂は都率の雲上に遊び、四国の遺跡(霊場)を、日々巡り訪ねると書かれている。
この文章を信じる人たちによって、世に広められめられたようだ。大師が今も四国辺路を廻っているのなら、四国辺路すれば必ず弘法大師にあえるというのはここから来ているのだと思うようになった。真念が江戸にいた時に、弘法大師に会うために四国辺路した人から次のような話を聞いた。
 今日こそ、今日こそ出会えるかと心待ちに願っていたが、ついに21日目に弘法大師に出合うことができたという。まことに有難いことで、手を合わせて語りかけたという。真念が「どんな姿をなさっていましたか」と聞くと、「黒い衣を着て、征鼓を首にかけ、念仏を唱えられていました。征鼓は見えましたが、御顔は見えませんでした。ただ目を閉じ、拝んでいただき過ぎていかれました。」と言う。これはたぐいなく貴いことである。

 ここからは『御遺告』にあるように
「身は高野山の樹下に留めているが、魂は都率の雲上におられ、御遺跡(四国霊場)には日々御影向(巡礼)する」

ので「四国辺路すれば八十八ケ所の内のいずれかで弘法大師に出合える」と主張しています。これが弥勒下生信仰・人定信仰のようです。四国辺路には、古代・中世の弥勒信仰や弘法大師人定信仰が大きく影響していると、研究者は考えているようです。
次に進む前に、弥勒信仰の予習メモを見ておきます。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

兜率天(とそつてん)は、仏教の宇宙観にある天上界の一つで、欲界の第四番目の世界です。ここに住むのが弥勒菩薩です。上の図では一番上のゾーンになるようです。弥勒菩薩の登場は、お釈迦様の滅後56億7000万年後とされています。長くて待てない、との思いから弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)が生まれます。輪廻転生を繰り返して成仏を待つより、兜率天へ往生し弥勒菩薩から直接教えを聞く方が早道である、との考え方から兜率天往生の信仰がさかんになったようです。兜率天は弥勒菩薩の浄土として描かれることもありますが、天界は輪廻する世界のひとつですから、阿弥陀様の極楽浄土とはちがいます。浄土は、そこで成仏することができる究極の世界で、寿命は永遠です。兜率天は成仏できる世界ではなく、寿命に限りがあります。
兜率天(とそつてん)って ? : お寺で開運(お祓い・供養・修行)

 古代新羅では、弥勒信仰が盛んだったようです。そのため新羅系の渡来人の中には信者が多く、大きな影響力を持っていたようです。また花浪集団の組織化や「聖徳太子伝説」などとも関わりがあったとされます。空海が生まれた時代にも、弥勒信仰が受けいれられていたようです。それが平安時代の後半から”兜率天へ行こう”の弥勒信仰から”極楽へ行こう”の阿弥陀信仰へと仏教界の流れは変わっていくようです。
仏像の種類:弥勒菩薩・弥勒如来とは】56億7千万年後に降臨する未来の救世主! | 仏像リンク

次に、弘法大師に弥勒信仰がどのように関わっているのかを見ていきましょう。
弘法大師と弥勒信仰との関係は『三教指帰』の中に、すでに見られます。それが高野山の弥勒浄上説や弘法大師入定説などへ展開し、弘法大師伝説へと成長して行きます。

① 弘法大師は『三教指帰』巻下「仮名乞児論」のなかで次のように記しています。
 所以に慈悲の聖帝(弥勒菩薩)、終を小したまう日、丁寧に補処の儲君、旧徳の受殊等に顧命して、印璽を慈尊(弥勒)に授け、撫民を摂臣に教ゆ、(中略)
余、忽に微旨を承って、馬に林ひ、車に脂して装束して道を取り、陰陽(道教)を論ぜず、都史(兜率天)の京に向かう。
とあり、若き日の空海が陰陽の道を進まず、弥勒菩薩がいる兜率天に向かったと、儒教・道教・仏教の中から仏教を選んだ理由を述べています。ここからは空海が弥勒菩薩の上生信仰(じょうしょうしんこう)を持っていたことが分かります。

②「性霊集』巻八「藤左近将監、先枇のために。七の斎を設くる願文」には、
所謂大師、異人ならむや 阿糾哩也 摩訶味鉾紺冒地薩錘(弥勒菩薩)即ち是也。法界宮に住して人日の徳を輔け、都史殿(兜率天)に居して能寂の風を扇ぐ。尊位は昔満じたれども権に辰宮に冊す。元元を子として塗炭を抜済す。無為の主宰、誰か敢えて名け言はむ。伏して推みれば、従四位下藤氏、担には四徳を蛍きて、晩、三宝を崇む。朝に閻浮を厭ひ、夕に都率(兜率)を願う。身は花と共に落ちつれども、心は香と将に飛ぶ。
とあり、「朝に閻浮(この世)を厭い、タベには都率天を願う」と、弥勒信仰を述べ、兜率上生を願っていたことが分かります。
同行二人 遺告

③『御遺告二十五箇条』「後生の末世の弟子、祖師の恩を報進すべき縁起第十七条に
吾れ、閉眼の後には必ず、まさに兜率天に往生して弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後には必ず慈尊と御共に下生し、祗候して吾が先跡を問うべし。

とあります。これは弘法大師自身が、兜率天に往生し五十六億七千万年後に弥勒とともに下生して、自から修行した地を訪れるという意味ととれます。ここでは、弘法大師自身が兜率天に上生し、弥勒の下生とともに弘法大師も下生すると云っています。『御遺告』は、現在では後世に書かれたものというのが定説になっていますが、かつては承和三年(835)3月15日付けで、弘法大師入定の一週間前に弟子に与えた遺戒とされ、権威と効力をもってきました。

  やがて人定後170年後ころになると弘法大師は、生きたまま高野山に入定しているという信仰が登場してきます。
④『栄華物語』に道長が高野に参議した時のことが、次のように記されています。
 高野に参らせ給ひては、大師の御人定の様を覗き見奉らせ給へば、御髪青やかにて、奉りたる御衣いささか塵ばみ煤けず、鮮かに見えたり、御色のあはひなどぞ、珍かなるや。ただ眠り給へると見ゆり。あはれに弥勒の出世龍花三会の朝にこそは驚かせ給はめと見えさせ
意訳変換しておくと
 高野山に参拝し、弘法大師の入定の様子を覗き見させていただいた。髪は青々(黒々)として、着ている衣は塵もついておらず、煤けてもおらず鮮やかに見え、そのお顔の色など、生きているかのようで、眠られているように見えた。弥勒の出世(下生)の時には、目覚めるであろうと思われるほどである。

 ここでは実際に、大師入定の堂を開いてその姿を見たという設定で、その様子が記述されています。ドキメンタリーではなく「物語」なので、許される記述としておきましょう。その姿は「まるで生きているように眠っていて、弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現すであろうことが記されています。
⑤ 康和五年(1103)   十一月の高野山大塔供養願文には
「紀州高野山者、弘法大師延暦年中、入唐求法之後、帰朝解純之時、遙隔万岨遠投三鈷、為値慈尊(弥勒菩薩)之出世、久結禅座而人定之地也」

というように、弥勒下生を願うために大師は、入定したというように変化していきます。
⑥康和六年(1104)に没した経範の『大師御行状集記』では、
「吾入定後、必住兜率他天、可待弥勒慈尊出世、五十六億余之後、必慈尊下生之時、出定祗候、可問吾先跡」

と記されます。ここではいろいろな経過を経て、弥勒信仰から弘法大師の入定説が成立したことが記されています。
⑦これに関連して、町旧市立国際版画美術館本の弘法大師図の賛文を研究者は比較検討します。
我昔遇薩錘 親悉伝印明 発無比誓願 陪辺地異域 昼夜万民 住普賢悲願 肉身証三味 待慈氏下生

読み下し変換すると
「我れ(弘法大師)は昔、薩睡(師)に遇い、親(まのあ)たりに、悉く印明を受け、無比の願いを発して、辺地やあらゆる場所において、昼夜の別なく万民を救済し、普賢菩薩の慈悲に住し、肉身のまま一味に入って、弥勒苦薩の下生を待つ

ここでも弘法大師が五十六億七千万年後の弥勒菩薩の下生を待つとされています。
 
⑧これに関連して、鎌倉時代作の三重・大生院本弘法大師図には、次のように記されています。
卜后於高野之樹下 遊神於都率之雲上  不?日々之影向 検知処々之遺跡

書き下し変換すると
「高野山奥院に住居し、兜率天に遊神し、日々影向し、各地の遺跡を検知す」
意訳すると
「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知(巡礼)する」

となるのでしょうか。これが室町・江戸時代を通して弘法大師御形に、常套句として見られるようになります。この文は「日々影向文」と言われるものです。この起源については、
⑨ 賢宝(1333~98)の『弘法大師行状要集』第五に、
興然閣梨自筆記云、或御筆丈云、卜居於高野樹下。心神雖遊兜率天上 不?間日々之影向。検知処々遺跡、云々東寺定額勝実 善通寺別当下向讃州。件下有此御筆文ム。勝実閑梨岨醐頼昭アサリ弟子也。

とあり、寛治年中(1078~94)に、東寺の定額僧勝実が善通寺の別当として讃岐に勤務したときに、善通寺で大師御筆の「日々影向文」をみたと記します。
⑩ さらに『阿波国太龍寺縁起』には、
卜居於之□□高野樹下 遊神於都率之雲上。庶貨坐会之雲。不閉日々之影向。移大滝之月。検知処々之遺跡。

とあり、兜率天の雲上にありながら、大瀧山に移る月を見るように、四国霊場を今も見守っていると記します。この縁起は承和3年の真然選とされますが、それをそのまま信じることはできないようです。

以上から「日々影向文」は、『御遺告』などに基づき成立したことがが分かります。
これが盛んに使われ出すのは鎌倉時代中期になってからのようです。そして興然(1121~1203)や勝実などのことを考慮すれば、平安時代後期には、「日々影向文」は知られていたようです。「日々影向文」を記した『阿波国大龍寺縁起』が、21番札所の縁起となっていることは「処々の遺跡を検知」という信仰、つまり弘法大師が聖跡を巡るという信仰と同じ地平に建っていることを示します。
 以上から「弥勒下生の時、人定を出て、私の旧跡(四国霊場)をたずねよう」とすることは、『御遺吉』から展開してきたものであることが分かります。
 弥勒下生説は、弥勒が下生する時に弘法大師も高野山奥院の人定から出て、自らが修行した旧跡をたずねるというのです。しかし、これでは、弘法大師に逢うためには、五十六億七千万年後の弥勒下生の時まで待たなくてはなりません。
Discover 4 弥勒菩薩 | 仏像フィギュアのイスムウェブショップ

 そこで、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えるという説が登場してきます。
 熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者にとって、弘法大師の聖跡を廻る目的の一つは「日々影向文」にあるように弘法大師に出会うことでした。これが大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることに発展したのではないでしょうか。近世になって庶民が辺路巡りをするようになると、その傾向が益々強いものになります。その要望に応えて「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出しいったと研究者は考えているようです。

真念『四国偏礼功徳記』贅録の内容を再確認してみましょう              
 八十八ケ所霊場を巡る目的の一つに、弘法大師の遺跡(八十八ケ所霊場)を巡ることにより、大師に逢い奉ることが記されています。真念は、辺路の意義をしっかりと認識していたことは間違いありません。その背景や起源にある、弥勒下生信仰や人定信仰を継承していたとも言えます。
 このような弘法大師と弥勒との関係は、弘法大師の本地は弥勒菩薩だという考えを生み出します。
つまり弘法大師=弥勒菩薩説の始まりです。
ここから新たな弘法大師像が作り出されます。通常の弘法大師図は右手に金剛杵、左手に数珠を持ちます。しかし、弘法大師=弥勒菩薩説では左手に弥勒菩薩の持物である五輪塔が載せられます。こうしたスタイルの弘法大師像が江戸時代中期頃に作られるようになります。これが弘法大師の弥勒信仰の最終的な展開と研究者は考えているようです。
同行二人 密教の弥勒菩薩

四国霊場の中に、弥勒信仰はどのように残されているのでしょうか。
14番常楽寺は八十八ヶ所の中で唯一、本尊が弥勒菩薩です。その像高は八寸と云いますから30㎝足らずで、本尊としては本当に小さい仏様です。詳しい緑起などもなく、その来歴は不明のようです。
51番石手寺には、大師堂に隣接して弥勒堂があります。そこに安置される弥勒菩蔭坐像は、鎌倉末~南北朝ころの作とされ、この時期の弥勒信仰の四国への広がりを知ることができます。
65番三角寺は慈尊院と呼ばれ、境内に御堂があり、等身に近い弥勒如来が安置されています。ここでも、弥勒に対する信仰が一時期は大きなものがあったことがうかがえます。
讃岐に入って69番観音寺には、やはり弥勒菩薩が安置された弥勒堂があります。寂本『四国偏礼霊場記』の境内図にも描かれていて、現在もほぼ変わらぬ位置に建っています。
77番道隆寺には寂本『四国偏礼霊場記』の中に弥勒堂が描かれていますが、現在は弥勒像はありません。
 以上のように霊場寺院には、弥勒菩薩信仰の痕跡が残るのはわずかです。これ以外にも本堂や大師堂などの諸堂内に、弥勒菩薩の像があるはずです。例えば、竹林寺の大日如来坐像とされる宝冠を戴く像は、専門家は弥勒菩薩(如来)と考えています。八十八ケ所寺院でも弥勒信仰が広がっていた時期があるようですが、それは大きな流れにはならなかったようです。
弥勒信仰に基づく、弘法大師入定信仰を広めたのは誰なのでしょうか。
多くの研究者は、それは高野聖(こうやのひじり)達であったと考えているようです。高野聖にとって、四国の地に弘法大師人定説を広めることは、さほど難しいことではなかったかもしれません。
その例として、研究者は平安時代の歌人として著名な西行を挙げます。
彼を高野聖として位置づけたのは、五来重氏です。それは西行の「回国性・勧進・世俗性」などの特性を根拠としますが、重要なことは彼が長く高野山に滞住していたことです。仁安3 年(1168)十月、西行が讃岐を訪れた目的は、以前にお話ししたように崇徳上皇の墓前に詣でることと、弘法大師師誕生地や所縁地を訪ねることでした。
 実際に、西行は我拝師山で捨身行を行い、近くに庵を構えて何年も修行生活を送っています。そこには、弘法大師が幼いときに修行したところで自分も修行しているという思いが記されています。すでにこの頃には、高野山では弘法大師人定説が広がっていて、「日々影向文」のことも西行は知っていたはずです。弘法大師信仰者の西行にとって、弘法大師の聖跡地に詣でることは、重要な修行のひとつであったのでしょう。

  高野聖ではありませんが高野山と根求寺との紛争から責任をとり、仁治3年(1242 )に讃岐に流された高僧の道範も善通寺の傍らの庵に住みつきます。そして、弘法大師の聖跡や各地の真言宗寺院を訪ねています。
 このように高野山との直接的な交流の中で、弘法大師人定信仰は讃岐をはじめ四国内の諸国に、高野聖を通じて浸透したと研究者は考えているようです。

以上をまとめておきます
①弥勒菩薩がいる兜率天に死後生れ変わりたい、と望む上生信仰(じょうしょうしんこう)を空海は受けいれていた
②空海死後に高野山は「56億年の弥勒が下生するときには、大師も一緒に生まれ変わって姿を現す」という弥勒下生説を流布するようになる。
③そして弘法大師は亡くなったのではない。弥勒下生を願うために大師は、入定したとする
④「日々影向文」=「身は高野山に居き、神は兜率人に遊び、毎日現れて修行した遺跡を検知する」
 という「弘法大師=四国辺路巡礼現在進行形説」が生み出される
⑤そこでは、四国辺路を廻ればすぐにでも弘法大師に出会えると云われるようになる。
⑥熊野修験者や廻国型・高野聖など弘法大師信仰者が弘法大師に出会うために、大師の修行地であるとされる八十八ケ所霊場を巡ることになる。
⑦「日々影向文」の内容が、右衛門三郎伝説の内容に変化し、さらに同行二人という思想を生み出す。
⑧弘法大師伝説として新たな展開を示すようになった

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 参考文献   武田和昭 四国辺路と弥勒・入定信仰 四国辺路の形成過程 


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真鈴峠は、香川県から徳島県への山越えのみち。
峠近くの高尾家の屋敷内には、泉があります。
こんこんと水の湧き出る泉には、こんな話が語り伝えられています。

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真鈴峠への道
むかし、日照りが何日も何日も続きました。
山の奥、それも少々高所なので水には不自由していました。
とても暑い日に、お坊さまが来られました。
汗とほこりで、べとべとです。

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勝浦の四つ足峠
高尾家のおばあさんは、
「まあ、おつかれのご様子、一体みなさいませ」
と、声をかけ、お茶をさしあげました。
汗をふ拭きおえたお坊さまは、
「すまんことだが、水を一[祢いただけないものかな」
と、おばあさんに頼みます。
「このごろは日照り続きで、水も少ないのだけどお坊さまが飲むくらいの水はあるわな」
「そんなに水が、不自由なのかい」
「はい、峠の下まで汲みに行きます」

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真鈴の民家
お坊さまは、お水をおいしそうに飲んだあと、杖をついて屋敷のまわりを歩きます。
歩きながら、しきりに地面を突いているではありませんか。
何度も杖で地面を突くと、ふしぎなことに水がにじみ出てきます。
「おばあさん、ここ掘ってみい、水が出るぞ」
おばあさんは、水が湧いてくるという地面を、一升ますの大きさくらい手で掘ってみました。
すると、たちまち水はいっぱいになります。
おばあさん、こんどは一斗ますくらいの大きさに土を掘ります。
たちまち水は、いっぱいになってあふれ出ます。
近所の人たちを呼んできて、さらに大きく掘ってみました。
水は、ますますあふれるように流れ出るではありませんか。
「これは、枡水じゃ、増水じゃ」
と、人々はおおよろこびです。
おばあさんは、お坊さまにお礼を申さねばとあたりを探しましたが、お姿は見えません。
「ありがたいことじや、ふしぎなことだ」
おばあさんは、よろこびのあまり水に手を入れてみました。すると、
「ちろん、ちろん」
と、音がします。お坊さまが持っていた鈴のような音がして、水が湧き出てきます。
「ちろん、ちろん…」
と湧き出る水に人々は「真鈴の水」と名付けました。

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真鈴の民家
隣村から、少し水を分けてもらえないかと言ってきました。
おばあさんは、水のないのは不自由なことだと快く承知しました。
隣村といっても県境、阿波(徳島県)から水をもらいに来たのです。
    水を、にないに入れ一荷にして、県境を越えて帰って行きます。
お礼は、蕎麦一升。水と、蕎麦とを交換して、仲良く暮らした山の村でした。
真鈴の水は、今日も、ちろんちろんと湧き出ています。

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