瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:弘法大師信仰

 高野山霊宝館【展覧会について:大宝蔵展「高野山の名宝」】
          弘法大師坐像(萬日大師像) 金剛峯寺

弘法大師を描いた絵図や像は、いまでは四国霊場の各寺院に安置されています。その原型となるものが高野山と善通寺に伝わる2枚の弘法大師絵図(善通寺御影)です。最近、善通寺ではこの御影が公開されていました。そこで、今回はこの善通寺御影を追いかけてみようと思います。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。

弘法大師空海は、承和三年8(835)3月21日に高野山奥之院で亡くなります。
開祖が亡くなると神格化され信仰対象となるのは世の習いです。空海は真言宗開祖として、礼拝の対象となり、祖師像が作られ御影堂に祀られることになります。高野山に御影堂建立の記録がみられるのは11世紀ころからです。弘法大師伝説の流布と重なります。
 高野山に伝わる弘法大師絵図については、次のように伝わります。

 空海が亡くなる際に、実恵が「師の姿は如何様に有るべきか」と聞くと、「このようにあるべし」と示されたものを、真如親王が写した。

 高野山に伝わる弘法大師像は、真如親王が描いたと伝わるところから「真如親王様御影」と呼ばれるようになります。これは、秘仏なので今は、その姿を拝することはできないようです。しかし、承安二年(1171)に僧阿観により、模写されたものが大坂の金剛寺に伝わっています。
天野山 金剛寺|shoseitopapa
金剛寺の弘法大師像 高野山に伝わる弘法大師像の模写とされる

これを見ると、右手に金剛杵、左手には数珠を持ち、大きな格子の上に画面向かって左に向いた弘法大師が大きく描かれています。これを模して、同じタイプのものが鎌倉時代に数多く描かれます。

弘法大師像 文化遺産オンライン
弘法大師像(東京国立博物館) 善通寺様御影

 これに対して、真如親王様御影の画面向かって右上に、釈迦如来が描き加えたものがあります。このタイプをこれを善通寺御影と呼び、香川、岡山などの真言宗寺院に数多く所蔵されています。ここまでを整理しておきます。弘法大師像には次の二つのタイプがある
①高野山の「真如親王様御影」
②讃岐善通寺を中心とする善通寺御影で右上に釈迦如来が描かれている
史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記洲崎寺本

善通寺御影には、どうして釈迦如来が描き込まれているのでしょうか?
高野山の学僧道範(1178~1252)は、山内の党派紛争に関った責任を問われて、仁治四年(1241)から建長元年(1249)まで讃岐に流刑になり、善通寺で生活します。その時の記録が南海流浪記です。そこに善通寺御影がどのように書かれているのか見ていくことにします。
同新造立。大師御建立二重の宝塔現存ス。本五間、令修理之間、加前広廂間云々。於此内奉安置御筆ノ御影、此ノ御影ハ、大師御入唐之時、自ら図之奉預御母儀同等身ノ像云々。
大方ノ様ハ如普通ノ御影。但於左之松山ノ上、釈迦如来影現ノ形像有之云々。・・・・
意訳変換しておくと

新たに造立された大師御建立の二重の宝塔が現存する。本五間で、修理して、前に広廂一間が増築されたと云う。この内に弘法大師御影が安置されている。この御影は、大師が入唐の際に、自らを描いて御母儀に預けたものだと云う。そのスタイルは普通の御影と変わりないが、ただ左の松山の上に、釈迦如来の姿が描かれている

ここには次のような事が分かります。
①道範が、善通寺の誕生院で生活するようになった時には、大師建立とされるの二重の宝塔があったこと
②その内に御影が安置されていたこと。
③それは大師が入唐の際に母のために自ら描いたものだと伝えられていたこと
④高野山の「真如親王様御影」とよく似ているが、ただ左の松山の上に、釈迦如来が描かれていること

DSC02611
空海修行の地とされる我拝師山 捨身ケ岳
道範は、この弘法大師御影の由来を次のように記します。

此行道路.、紆今不生、清浄寂莫.南北諸国皆見、眺望疲眼。此行道所は五岳中岳、我拝師山之西也.大師此処観念経行之間、中岳青巌緑松□、三尊釈迦如来、乗雲来臨影現・・・・大師玉拝之故、云我拝師山也.・・・

意訳変換しておくと
この行道路は、非常に険しく、清浄として寂莫であり、瀬戸内海をいく船や南北の諸国が総て望める眺望が開けた所にある。行道所は五岳の中岳と我拝師山の西で、ここで大師は観念経行の修行中に、中岳の岩稜に生える緑松から、三尊釈迦如来が雲に乗って姿を現した。(中略)・・大師が釈迦如来を拝謁したので、この山を我拝師山と呼ぶ。

DSC02588
出釈迦寺奥の院
ここからは次のようなことが分かります。
①五岳山は「行道路」であり、行道所(行場)が我拝師山の西にあって、空海以前からの行場であったこと。
②空海修行中に雲に乗った釈迦如来が現れたので、我拝師山と呼ぶようになったこと
 
弘法大師  高野大師行状図画 捨身
          我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードとして語られるようになります。それが我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。
これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」で、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺奥の院です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来と伝えるようになります。

DSC02600
出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっていることは以前にお話ししました。
ここでは、我拝師山でで空海が修行中に釈迦三尊が雲に乗って現れたと伝えられることを押さえておきます。

宝治二年(1248)に、善通寺の弘法大師御影について、高野二品親王が善通寺の模写を希望したことが次のように記されています。

宝治二年四月之比、依高野二品親王仰、奉摸当寺御影。此事去年雖被下御使、当国無浄行仏師之山依申上、今年被下仏師成祐、鏡明房 奉摸写之拠、仏師四月五日出京、九日下堀江津、同十一日当寺参詣。同十三日作紙形、当日於二御影堂、仏師授梵網十戒、其後始紙形、自同十四日図絵、同十八日終其功。所奉摸之御影卜其御影形色毛、無違本御影云々。同十八日依寺僧評議、今此仏師彼押本御影之裏加御修理云々。・・・・

意訳変換しておくと
宝治二(1248)年4月に高野二品親王より、当寺御影の模写希望が使者によって伝えられた。しかし、讃岐には模写が出来る仏師(絵師)がいないことを伝えた。すると、仏師成祐(鏡明房)を善通寺に派遣して模写することになった。仏師は4月5日に京都を出発、9日に堀江津に到着し、十一日に善通寺に参詣した。そして十三日には、絵師は御影堂で梵網十戒を受けた後に、紙形を作成、十四日から模写を始め、十八日には終えた。模写した御影は、寸分違わずに本御影を写したものであった。寺僧たちは評議し、この仏師に本御影の裏修理も依頼した云々。・・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①宝治二(1248)年に高野二品親王が善通寺御影模写のために、絵師を讃岐に派遣したこと
②13世紀当時の讃岐には、模写できる絵師がいなかったこと。
③仏師は都から4日間で多度郡の堀江津に到着していること、堀江津が中世の多度郡の郡港であったこと
④京都からの仏師が描いた模写は、出来映えがよかったこと
⑤「寺僧たちは評議し・・」とあるので、当時の善通寺が子院による合議制で運営されていたこと

善通寺御影が、上皇から「上洛」を求められていたことが次のように記されています。
此御影上洛之事
承元三年隠岐院御時、立左大臣殿当国司ノ之間、依院宣被奉迎。寺僧再三曰。上古不奉出御影堂之由、雖令言上子細、数度依被仰下、寺僧等頂戴之上洛。御拝見之後、被奉模之。絵師下向之時、生野六町免田寄進云々。嘉禄元年九条禅定殿下摂禄御時奉拝之、又模写之。絵師者唐人。御下向之時、免田三町寄進ム々。・・
意訳変換しておくと
承元三(1209)年隠岐院(後鳥羽上皇)の時代、立左大臣殿(藤原公継(徳大寺公継?)が讃岐国司であった時に、鳥羽上皇の意向で院宣で善通寺御影を見たいので京都に上洛させるようにとの指示が下された。これに対して寺僧は再三に渡って、古来より、御影堂から出したことはありませんと、断り続けた。それでも何度も、依頼があり断り切れなくなって、寺僧が付き添って上洛することになった。院の拝見の後、書写されることになって、絵師が善通寺に下向した。その時に寄進されたのが、生野六町免田だと伝えられる。また嘉禄元(1225)年には、九条禅定殿下が摂禄の時にも奉拝され、この時も模写されたが、その時の絵師は唐人であった。この時には免田三町が寄進されたと云う。

この南海流浪記の記録については、次の公式文書で裏付けられます。
承元三年(1209)8月、讃岐国守(藤原公継)が生野郷内の重光名見作田六町を善通寺御影堂に納めるようにという次のような指示を讃岐留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 

 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その御影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が善通寺御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったと研究者は考えています。
空海ゆかりの国宝や秘仏などが一堂に 生誕1250年記念展示会が開幕|au Webポータル国内ニュース
善通寺御影(瞬目大師(めひきだいし)の御影) コピー版

この背景には弘法大師信仰の高まりがあります。

それは弘法大師御影そのものに霊力が宿っているという信仰です。こうして、各地に残る弘法大師御影を模写する動きが有力者の間では流行になります。そうなると、都の上皇や天皇、貴族達から注目を集めるようになるのが、善通寺の御影です。これは最初に述べたように、弘法大師が入唐の時、母のために御影堂前の御影の池に、自分の姿を写して描いたとされています。空海の自画像です。これほど霊力のやどる御影は他にはありません。こうして「一目みたい、模写したい」という申出が善通寺に届くようになります。
 この絵は鎌倉時代には、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として世間で知られるようになります。その絵の背後には、釈迦如来像が描かれていました。こうして高野山の「真如親王様御影」に並ぶ、弘法大師絵図として、善通寺御影は世に知られるようになります。ちなみに、この絵のおかげで中世の善通寺は、上皇や九条家から保護・寄進を受けて財政基盤を調えていきます。そういう意味では  「瞬目大師の御影」は、善通寺の救世主であったともいえます。
 以後の善通寺は「弘法大師生誕の地」を看板にして、復興していくことになります。
逆に言うと、古代から中世にかけての善通寺は、弘法大師と関係のない修験者の寺となっていた時期があると私は考えています。その仮説を記しておきます。
①善通寺は佐伯直氏の氏寺として7世紀末に建立された。
②しかし、佐伯直氏が空海の甥の世代に中央官人化して讃岐を去って保護者を失った。
③その結果、古代の善通寺退転していく。古代末の瓦が出土しないことがそれを裏付ける。
④それを復興したのが、修験者で勧進聖の「善通」である。そこで善通寺と呼ばれるようになった。
⑤空海の父は田公、戸籍上の長は道長で善通という人物は古代の空海の戸籍には現れない。
⑥信濃の善光寺と同じように、中興者善通の名前が寺院名となった。
⑦江戸時代になると善通寺は、「弘法大師生誕の地」「空海(真魚)の童子信仰」「空海の父母信仰」
を売りにして、全国的な勧進活動を展開する。
⑧その際に、「空海の父が善通で、その菩提のために建てられた善通寺」というストーリーが広められた。

話がそれました。弘法大師御影について、まとめておきます。
①弘法大師御影は、ひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったこと
②善通寺御影は各地で模写され、信仰対象として拡がったこと。
③さらに、立体化されて弘法大師像が作成されるようになったこと。
④時代が下ると弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとして弘法大師の御影や像を安置し、大師堂を建立するようになったこと。
今では、四国霊場の真言宗でない寺にも大師堂があるのが当たり前になっています。そして境内には、弘法大師の石像やブロンズ像が建っています。これは、最近のことです。ある意味では、鎌倉時代に高まった弘法大師像に対する支配者の信仰が、庶民にまで拡がった姿の現代的なありようを示すといえるのかもしれません。
今日はこのくらいにしておきます。次回は、善通寺の弘法大師絵図のルーツを探って見たいと思います。

弘法大師御誕生1250年記念「空海とわのいのり―秘仏・瞬目大師(めひきだいし)御開帳と空海御霊跡お砂踏み巡礼―」 |  【公式】愛知県の観光サイトAichi Now
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」
関連記事

    現在の常識からすると霊場札所で「南無阿弥陀仏」を唱えるのは非常識とされるでしょう。霊場では般若心経が「常識」です。ところが、江戸時代初期の遍路さんたちは、札所で南無阿弥陀仏を唱えていたようです。それを前回は追いかけて見ました。 それでは四国霊場を廻りながら南無阿弥陀仏を唱えるという人たちの心の中は、どうなっていたのでしょうか。「数式」にすると
弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」=初期の四国霊場巡礼者

になるのかもしれません。これを「真言系阿弥陀信仰(真言念仏)」と研究者は呼んでいるようです。

この真言系阿弥陀信仰を広げたのが高野聖たちだったようです。
 五来重氏は「高野聖」の中で、次のような事を明らかにしました
①高野山の千手院聖をはじめとして、後期高野聖が時衆化したこと、
②室町時代以降には、高野聖の多くが念仏化したこと
③高野聖は廻国性があり、諸国をめぐり弘法大師伝説や念仏信仰を流布したこと
④その拠点となったのが全国の有力寺院であること
こうして、南無阿弥陀仏を唱える高野系念仏聖が大きな寺院の周辺に住み着き、坊や院を構え勧進活動を行うようになります。修験者たちが修行のために訪れていた四国辺路の霊場寺院にも、このような動きはやってきます。こうして弘法大師伝説と南無阿弥陀仏は、霊場周辺でも「混淆」していきます。
 それでは、その「混淆」はどのような形で現在に残っているのでしょうか。
今回は「真言系阿弥陀信仰の遺物」めぐりを行って見たいと思います。テキストは前回に続いて「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」です
高野山 名号(みょうごう)板碑

最初に訪れるのは高野山奥の院です
奥の院参道の芭蕉句碑から御廟側へ約30m行った左側にある板のように薄い石碑に大きく南無阿弥陀仏(名号)と刻まれています。これを名号版碑(いたび)と呼ぶようです。石材は、徳島県北部の吉野川沿の緑泥片岩製が使われています。阿波には、庚申信仰などの板碑が数多くある所で、阿波式板碑(あわしきいたび)として知られていることは以前にお話ししました。
 この板碑も、徳島県で作られたものが奥の院まで運ばれてきたようです。康永3年(1344)3月中旬に建てられたもので、碑面には、次のように刻されています。
中央 南無阿弥陀佛
右側 為自身順次往生? 亡妻亡息追善也、奉謝二親三十三廻
左側 恩徳阿州国府住人、康永参?甲申暮春中旬沙弥覚佛敬白

阿波国府の住人が、亡妻追悼と33ケ所詣の成就のために建てたもののようです。これを最初に見たときには「なんで、高野山に南無阿弥陀仏を???」という感じでした。しかし、14世紀頃の高野山の状況を考えると納得します。先ほど見たように、念仏聖化した聖達によって、高野山は阿弥陀信仰の中心地のひとつとなっていたのです。だから時宗念仏の一遍もやってきたのです。
 こうした背景の中で、「南無阿弥陀仏」の六文字を記す板碑が、高野山の最も聖域である奥の院に建立されたようです。今ならば決して許されることではないでしょう。しかし、当時の高野山は弘法大師信仰と阿弥陀信仰が混淆した時代です。その後、「真言原理主義」運動が高揚し、高野聖たちは高野山から追放されます。それと同時に、高野山から阿弥陀信仰も消し去られていくことになります。その中でわずかに残った念仏信仰の遺物といえそうです。
 
次に研究者が向かうのは高知県の名号念仏です。

大日如来 種字2
大日如来の種字(サンスクリット文字)

須崎市神旧飛田の名号碑を見てみましょう。
(ア一) 南無阿弥陀仏  
    明応五天五月十六日
この名号石の梵字のアは大日如来の種子で、その下に南無阿弥陀仏とあります。真言密教の核心仏・大日如来 + 南無阿弥陀仏」ですからまさに「密教的阿弥陀信仰」です。真言念仏と研究者は呼んでいるようです。
大日如来 種字1

つぎは高岡都中土佐町上ノ加江のものです。
(サ一)             天正―九年 敬
(キリーク一)(キャカラバア) 為周陽侍者禅師也
(サク一)            三月二十七日 白
最上部に阿弥陀三尊、その上に五輪のキャ・カ・ラ・バ・アがあります。
五輪塔 種字


これも阿弥陀三尊と密教の五輪(水・火・風・空)が融合したもので真言念仏のひとつの形でしょう。同じものが
①香北町猪野々の猪野家住職逆修碑(天正三年(1575)十月二十一日銘
②土佐山田町須江の須江念仏供養塔(慶長十九年(1614)三月―五日銘
などがあるようです。時代は、中世末~近世初期のもののようです。これらの供養塔からは、この時期・この地域に真言的念仏信仰が拡がり、念仏講が形成されていたことがうかがえます。
そしてこれは土佐ばかりではなく、四国全体に広がっていた痕跡があります。この真言系の阿弥陀・念仏信仰を伝え、さらに近世初期に駒形の墓石の形式を持ち込んだのは、誰なのでしょうか。
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の岩壁に刻まれた南無阿弥陀仏

真言系阿弥陀信仰の遺物は、四国霊場の弥谷寺にもあるようです
 弥谷寺は死者が集まる祖霊の寺と言われてきました。本堂のすぐ近くの石壁面には、浮き彫りの阿弥陀一尊や南無阿弥陀仏の六字名号が彫られています。弥谷寺が古くからの阿弥陀信仰の霊地であることを示しています。
弥谷寺 舟石名号

 この寺は、近世初期には、弘法大師の父をとうしん太夫、母をあこや御前とする「空海=多度津海岸寺誕生説」の像が安置されていました。つまりこの寺は「阿弥陀信仰(念仏信仰)と異端の弘法大師伝説」を流布していた寺なのです。中世には念仏聖が拠点として活動していた所だと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
 本堂のすぐ下の墓地の中に、次の念仏講の碑を研究者は見つけています
    延宝四内辰天八月口□日
大見村□□念仏講中二胆安楽也
建てられたのは延宝四(1677)年です。澄禅や真念のやってきた時期に当たります。大見村は、弥谷寺の南麓の村です。その時代に念仏講があったことが分かります。大見地区は三野平野に袋状に入り込んでいた三野湾の東部に位置し、瀬戸内海交易に活躍した勢力の存在がうかがえる地域です。
少し想像力を膨らませて、この地に念仏講が組織されるまでの経緯を描いてみましょう。
 高野山の念仏聖が瀬戸内海の熊野水軍の交易ルートに沿いながら紀州の湊を出て、次のような聖地を廻国します。
①引田湊背後の大内郡・水主神社周辺
②児島五流修験のテリトリーである小豆島・直島・本島
③そして塩飽を経て、多度津・道隆寺
④道隆寺の末寺である白方・海岸寺へ 
⑤そして海岸寺の奥の院(?)である弥谷寺へ 
こうして弥谷寺には高野系の念仏聖が何人も住み着き、坊を開き子院を形成していくようになります。彼らは生活のためにも周辺住民への布教活を行います。病気治療や祈祷などで、住民の心を捉えながら、念仏講へと導いていく。さらに瀬戸内海交易に乗り出す地元有力者を熊野水軍のネットワークに紹介し、彼らも信者に加えていく。こうして大見村の階層を越えた人々の間に念仏講を作り、その指導者に収まっていく。これを念仏聖の周辺部への浸透と呼ぶのかもしれません。こうして近世初頭には弥谷寺周辺には念仏講があり、念仏信者が数多く存在していたという仮説に至ります。

念仏講1
昭和50年頃の念仏講
 この石碑の周辺には、念仏講に関係したと思われる次のような墓もあります。
「(ア) □□妙昌呂仲定尼  明暦二年□月□□日」
「自性妙蓮禅定尼霊位 延宝五年丁巳一月二十七日」
(ア)は大日如来の種字です。
大日如来 種字4

これらの墓は当時としては上質の石(御影石)が使われていて、念仏講には経済的に恵まれた人たちも参加していたことがうかがえます。

DSC03896父母院
仏母院(多度津白方 熊手八幡神社の旧別当寺)

古代善通寺の外港として栄えた多度津町白方の仏母院にも、次のような念仏講の石碑があります
寛丈―三年
(ア)為念仏講中逆修菩提也
七月―六日
寛丈十三(1673)の建立です。四国霊場を真念や澄禅が訪れていた時代になります。先ほど見た弥谷寺のものと型式や石質がよく似ていて、何らかの関係があると研究者は考えているようです。
仏母院は霊場札所ではありませんが、『四国辺路日記』の澄禅は、弥谷寺参拝後に天霧山を越えて白方屏風ケ浦に下りて来て、海岸寺や熊手八幡神社とともに神宮寺のこの寺に参拝しています。

DSC03860

 当時のこの寺は「空海=白方誕生説」が流布されていました。
 それは空海は、多度津白方で生まれで、父は藤新太夫と母はあこや御前とされていました。父母寺は、その名の通り空海の父母が住んでいた館跡と自称します。ここを訪れた澄禅は『四国辺路日記』に、父母寺・御影堂の弘法大師像を開帳し、その霊験を住持が説くのを聞いたと記します。先ほど見た念仏講逆修碑からすると、この寺の住持も、高野山系の念仏聖であったのかもしれません。どちらにしても仏母院にも、弥谷寺と同じように念仏講があったようです。そして、その講を組織する念仏聖が異端の弘法大師伝説を流布していたとしておきます。
仏母院の墓地には、この他にも次のような二基の墓石が見つかっています。
右  文化九(1812)壬申天
   六月二十一   行年七十五歳
正面 (ア) 権大僧都大越家法印甲願
   法華経一百二十部
左  向左奉謡光明真言五十二万
   仁王経一千部
(裏面には刻字無し)
(向右)天保(1833)四巳年二月十七日
正面(ア) 権大僧都大越家法雲
(左・裏面には刻字無し)
研究者が注目するのは「権大僧都」です。これは「当山派」修験道の位階のことで、醍醐寺が認定したものです。この位階を下から記すと
①坊号 ②院号 ③錦地 ④権律師 ⑤一僧祗、⑥二僧祗、⑦三僧祗、⑧権少僧都 ⑨権大僧都、⑩阿閣梨、⑪大越家 ⑫法印の12階からなるようです。そうすると⑪大越家は、大峰入峰36回を経験した者に贈られる高位者であったことが分かります。ここからは、19世紀前半の仏母院の住持は、吉野への峰入りを何度も重ねていた醍醐寺系当山派修験者の指導者であったことがうかがえます。
享保二年(1717)「当山派修験宗門階級之次第」によると、仏母院は江戸時代初期以前には、念仏聖が住居する寺院であることが確認できるようです。さらに文化年間(1804~18)には山伏寺であったことも分かります。仏母院は熊手八幡神社の別当を勤めていた関係もありそうです。
 以上のように、仏母院は近世初期の住持は念仏聖で、「空海誕生地」説を流布していたようです。「空海=白方誕生説」を流布した仏母院や弥谷寺は、善通寺とは別の系譜の僧侶や聖がいたことがうかがえます。その後、弥谷寺は善通寺からの指導者を受入れるようになり、「空海=白方誕生説」の流布を止めますが、白方では父母寺に代わって海岸寺がこれを流布し、奥の院を建立します。それを本寺の道隆寺も保護します。これが善通寺と海岸寺の争論へと発展していくことは以前にお話ししましたので省略します。
DSC03829
海岸寺奥の院

続いて75番善通寺の真言系阿弥陀信仰の痕跡を探してみましょう
この寺には、御影堂の西にある墓地に多くの歴代院主の墓石が建立されています。その中に次の墓石があります
(サ)    明暦四□年
(キリーク) 為□□□□禅定問
(サク)   □月二十日 施主 近藤喜三
明暦四年(1658)の建立で、上部に阿弥陀三尊の種子、両側面には五輪塔が浮き彫りされておいるようです。このような例はほとんどない珍しい形式だと研究者は指摘します。これも「真言系阿弥陀信仰の遺物」と言えるようです。

72番出釈迦寺奥院(いわゆる「禅定」)にも自然石に刻まれた名号石があるようです。
禅定は捨身ケ岳ともいわれ、弘法人師が幼いときに捨身修行した時に、釈迦如来が現れ救った所として、中世の修験者の中では聖地として有名だったようです。
DSC02600

西行もここへ来て何年も修行しています。この山は弘法大師修行の地と修験者たちには聖地で、我拝師山と呼ばれてきました。

DSC02575

現在の我拝師山は、塔跡といわれるところに大師堂と鐘楼があます。そこから東に捨身ケ岳を仰ぎ見ることができます。名号石は本堂・鐘楼堂のすぐ下に、北面して建てられています。これが当初からあった場所なのかどうかは分かりません。「南無阿弥陀仏」あるだけで、建立年代などはありません。研究者は、江戸時代中期頃以前と見ているようです。
 この名号石の少し上の場所に釈迦如来の石像があります。こちらは天保七年(1836)と刻まれています。江戸時代末のものです。この周辺に十王石像が十体並べられています。我拝師山には地蔵菩薩の世界と通じる信仰の痕跡がうかがえるようです。
 この我拝師山について、五来重氏は西行『山家集』などの記事から「我拝師山(がはいし)」は、もともとは「わかいち」のことで、熊野の若王子が祀られていたと指摘します。若一王子は、熊野修験者が信仰したものです。熊野信仰の痕跡もあることになりますが、ただ現在は、その遺物は何も確認されていないようです。ここにも熊野信仰に、後から弘法大師信仰が接木された跡はあるようです。
屋島寺縁起絵
屋島寺縁起絵
84番屋島寺にも六字名号があります。
自然石に刻まれていて、我拝師山の禅定にあるものに比べると風化が進んでいるようです。建立年代は江戸時代中期以前と研究者は見ています。場所は、旧遍路道治いの屋島山上に近い場所で、坂道を登ってきた遍路達を迎えたのでしょう。当時の遍路達は、ここで手を併せて南無阿弥陀仏を唱え、拝したのかもしれません。
屋島寺は、鎮守が熊野神社です。寛文十年頃の『御領分中寺々由来』には、次のように記されます。
当山鎮守十二社権現(熊野権現)、弘法人師之勧進之也

熊野権現を弘法大師が勧進したというのです。まさに熊野信仰と弘法大師信仰の合体の典型例を見るようです。いつ頃に熊野権現が勧請されたかは分かりません。しかし、周囲の状況から推察すると
①讃岐大内郡の増吽による水主三山への熊野権現勧進
②備中児島への新熊野(五流修験)の勧進
③佐佐木信綱の小豆島への熊野権現勧進
などと同時期のことと考えられます。熊野水軍の瀬戸内海交易の展開や、それに伴う熊野行者の活動などが背景にあることは以前にお話ししました。
熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 
という熊野修験者のテリトリー拡大の時期のこととしておきましょう。
 大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時代の応永十四(1407)年の行政坊有慶吐那売券には「八島(屋島)高松寺の引 高松の一族」とあり、屋島寺周辺に熊野先達がいたことが分かります。彼らによる勧進かもしれません。
 屋島寺には「熊野本地絵巻」があります。熊野絵巻は熊野比丘尼が絵説きしたといわれますので、熊野比丘尼がいたこともうかがえます。
屋島寺 金毘羅参拝名所2

さらに本堂の東方には「皿の池」が残ります。これは源平合戦で、戦の後に刀を洗ったと伝えられます。しかし、熊野比丘尼がいたとすると『血盆経』と関係がありそうです。「血盆経」は血の穢(けが)れのために地獄へ堕ちた女人を救済するための経典とされます。

霊場に残る念仏・阿弥陀信仰の痕跡を追いかけ見ました。
これらをもたらしたのは、時宗念仏化した高野聖だったと研究者は考えているようです。彼らは弘法大師信仰も同時に持っていました。こうして修験者や聖などの廻国性の宗教者が集まる寺院では、「弘法大師信仰 + 阿弥陀・念仏信仰」が広がっていきます。
 しかし、高野山本山での「原理主義運動」の高揚の結果、高野聖達が排斥され、念仏信仰も粛正されていきます。その影響は、四国霊場寺院にも及びます。高野山と同じように、念仏信仰の痕跡は消えていくことになるのです。
そして、札所で南無阿弥陀仏が唱えられることはなくなります。代わって光明真言が最初に唱えられることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰」
関連記事

四国霊場71番弥谷寺NO3 阿弥陀=浄土観を広げた念仏行者たち

  

 増吽には4つの顔があることを以前に確認しました。
①讃岐・虚空蔵院(与田寺)を拠点とする書写センターの運営者
②熊野修験者としての熊野先達
③讃岐の覚城院・無量寿院、備前の蓮台寺・安住院、備中の国分寺など、荒廃した寺院を数多く復興した勧進僧
④弘法大師信仰をもつ高野山真言密教僧
今回は④について見ていきたいと思います。
増吽の幼年期について、諸史料には次のように記します。
幼年期から利発な増吽に目をつけたのが、近くの水生神社神宮寺薬師院(与田寺)の増慧法師で、弟子入りさせた。増吽は、仏典などの学習に優れた才能を発揮する一方、画才にも並外れたものをもっていた。
與田寺 (香川県)の初詣・初日の出情報 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)

与田寺には、増吽の画力を伝える次のような民話が語り継がれています。
むかし、中筋村与田寺に、絵の上手な金若(かなわか)と呼ぶ小僧さんがおりました。この小僧は、お経よりも絵の方が上手でありました。ある日、お経がすんだので、またすきな絵を住職さまの居ないときに描き始めました。
 不動尊の絵を書きあげたとき、ふいに住職さんが帰ってまいりましたので見つけられたら大変と急いで畳の下にその不動尊の絵をかくしました。さて用事が終わると、多勢の小僧たちと室に入ってみると、室内いつぱいに煙がたちこめて畳が焼けているので驚いて水をかけ畳をあげてみると、つい今の先にかいた不動尊の火焔で焼けたということがわかりました。この金若(かなわか)が後の与田寺の中興の祖といわれる増吽です

まるで一休さんと雪舟の話をミックスしたような話です。増吽の描いた仏画が見事だったために後に語られるようになった話なのでしょう。
 この他にも増吽の描いた馬は、夜が来ると絵から出来て、周辺の田畑を走り回り悪さをするので百姓達から苦情を受けた。半信半疑に住職達が、見張っていると夜になると本当に絵馬は額を抜け出して行ったという話もあります。この伝説は有名で、今でも与田寺境内の不動尊堂の絵額として、掲げられているといいます。 増吽の作品が与田寺には残っています。
 山桜の板を材料に日天、月天、梵天、風天など十二天の像を彫った版木12枚です。
この版木は完全な形で伝えられ、応永十四年(1407)に増吽が開版したとの銘もあり、県の有形文化財に指定されています。この版で刷られた作品は「与田寺版」と呼ばれて、全国のお寺に残っているようです。見てみましょう。
十二天
十二天
その前に十二天の「存在理由」を押さえておきましょう
仏教の世界では、8つの方角と上下をつかさどる神に、日・月の神を加えた十二尊を十二天と呼びます。室町時代の初頭には、肉筆の仏画の代用となるような大判の仏教版画の制作がさかんになり、幅広い需要に応えるようになります。

十二天屏風 国宝

 この絵は案外大きい物で、屏風に表装され残っている所があるようです。増吽作と云われる与田寺版の風神を見てみましょう
十二点 風神 与田寺版

風天はその名のとおり風の神で、脚を交差させて後方を振り返るポーズには躍動感があります。顔に刻まれたしわや、風になびくあごひげが細かく表現されています。靴のヒョウ柄で台座には獅子が描かれます。彩色は後で、筆でおこなっているようです。なにかしら現代的なイメージがして、漫画家が描いたイラストのようにも私には見えます。
与田寺の十二天版本は桜材の板に、五枚は両面に、三枚は片面に彫られています。その中の梵天像の武器の柄に、つぎののような文字が彫られています。
 讃州大内郡与田郷神宮寺虚空蔵院 
応永十四丁亥三月二十一日敬印
十二天像以憑仏法護持央 大願主増吽 同志嘘凋聖宥
ここからは次のような事が分かります。
①応永十四(1407)年3月21日に制作されたこと
②与田郷神宮寺虚空蔵院で作られたこと
③増吽42歳の時の作品であること。
与田寺は室町時代初期には、神宮寺虚空蔵院と呼ばれていたことも分かります。神宮寺とは、水主神社に対しての神官寺(別当寺)のことでしょう。ここでも神仏混交体制が進んでいたようです。
 制作日となっている3月21日という日は、弘法大師の入定の日になります。高野山で学んだ増吽は、この日を選んで奉納したのでしょう。ここからは増吽の弘法大師に対する信仰がうかがえます。
 この十二天版木の制作目的は、仏法を護持するためのものです。
それを制作したのは聖宥です。このように与田寺の版本は開版場所、開版日時、開版目的、願主、制作者などが分かり、その大きさとともに全国的にも貴重な遺品であると研究者は指摘します。
 同時に、与田寺には書経センターだけでなく、仏画などの工房センターもあり、全国からの需要に応える体制ができたことがうかがえます。そのために充実したスタッフがいて、大般若経書写の際などにはフル稼働したと私は考えています。そのような体制を作り上げた大締め(先達)が増吽だったのです。

なお、研究者は風天図の構図を見て
「月天が真横に表されており、特徴的であるが、これは詫間勝賀が建久二年(1191)に描いた京都東寺本に近い」

と指摘します。ここからも、増吽が京都の東寺を初めとする寺院の仏画類を「調査・研究」していたことがうかがえます。

これと同じ十二天版木は、備中の霊山寺(岡山県浅口郡里庄町)にあります。また、増吽が描いたといわれる十二天画像は岡山県英田郡英田町の長福寺にも伝えられています。

増吽の作品のなかで各地の寺院に残っているのが弘法大師画像です。
  1弘法大師1

大師御影は、高野山の真如親王の筆と伝えられるものが一般的です。右方斜面向きにして、右手に五古杵を非竪非横に持て胸に当て、左手に念珠を持ちになり、胸を開いて、椅子に安座する姿です。これを真如様式とよびます。
これに対して、善通寺様式と呼ばれるものがあります。

「影の上に山端,佛形を図するあり。これなにごとぞ。これは讃州善通寺にこの仏像御筆ありと云々その御影に書き加えるか。いま所々にこれあり。その起こりをいふに、讃州多度の郡屏風の浦はご誕生の地たるによって、彼ここに還って遍覧し給しに、海岸浦の松、尋常の姿にあらず。丹青の綵を交えたる事、屏風を立てたるがごとし。仍て此の地名あるなり。此地勝境たる故に大師練行し給時、弧峯の上片雲の中に、釈迦如来安祥として形を現し給いき。大師歓喜のあまり則その姿を写し留め御座しける也。それよりしてこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽ともなずけ給うものなり。」

意訳変換しておきましょう。
影(弘法大師)の上に山端と佛形(釈迦如来)が書き加えられた弘法大師御影がある。
これは讃州善通寺で御影に書き加えられるようになったものだと云われ、所々の寺にある。その起こりは、讃州多度郡の屏風浦は、弘法大師の誕生地にあたる。この姿は、海岸浦の松は尋常の姿ではなく、丹青の綵を交え、屏風を立てたように見える。そのためにこの名前で呼ばれるようになった。この地は景勝地で霊山でもあるために、大師が修行している際に、弧峯の上の片雲の中に、釈迦如来が現れた。大師は歓喜のあまりに、その姿を写し留めたという。そこからこの山を我拝師山とも号し、又湧出嶽(出釈迦)ともなずけたのである。
弘法大師御影 善通寺様式

御影の左上に釈迦如来が描かれるようになったというのです。
醍醐三宝院のこの様式の御影の軸表紙には「善通寺形大師」と記されています。そこで、「善通寺形御影」と呼ばれているようです。
その中で京都・智積院蔵の善通寺式御影の裏面に次のように記されています。
奉施人弘法大師御影壱鋪讃岐同多度津之御影供一衆流通物
(中略)
高祖末資之阿闍梨(増吽)本写大師二伝之正影令施入当津之流通物者也(中略)
咋閣梨七十九而書之
文安元年四月仏誕生日 大願主平野弾正忠暁月願尭書□啓

「高祖末資の阿闍梨」とは増吽のこととされます。そうだとすれば、この善通寺式御影は文安元年(1444)に増吽が79歳で描いたことになります。増吽が直接に筆を執ったのではなく、制作に関しての指示・指導を行ったと研究者は考えているようです。それなら増吽不在でも、機能する工房が与田寺にはあったことになります。
 また「多度津の御影供一衆」とは、道隆寺を中心とする「結衆」が考えれます。
道隆寺も、塩飽や庄内半島に末寺を数多く持ち、備讃瀬戸南岸の交易権に大きな影響力を持っていた寺院であったことは以前にお話ししました。ここにも結衆(書写集団や仏画工房)などがあったことがうかがえます。道隆寺などの備讃瀬戸に影響力を持つ寺院群とのネットワークを、増吽は持っていたようです。彼らを結びつけるものが熊野信仰であり、後には弘法大師信仰だったと私は考えています。

岡山・法万寺旧蔵の善通寺式御影の軸本内に、次のような墨書があったといいます。
本修補高祖弘法大師尊像絵、備前国瓶井山先住増吽僧正真筆、
後花園院御宇鳳徳年画、古軸増吽自賛曰、宛如身、有之、元来此尊容備前牧石郷法万寺什宝央、有故同国岡山大工町大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚収領之、至迂今 伝当寺、古苫記云、慶長十六年一月二十一日共後宥伝、寛永十四年今年法輪寺僧全修覆、天保三壬辰十一月日修補 施主瓦町高田屋清吉 母 表具師石園町住人江長い左衛門利之

意訳変換しておきましょう。
本寺に伝わる弘法大師尊像絵は、備前国瓶井山の先住である増吽僧正の真筆である。後花園院御宇鳳徳(宝徳)年間に描かれたもので、古軸には増吽の自賛があり次のように記されていた。
宛如身、有之、もともとこの弘法大師御影は備前牧石郷法万寺にあったものであるが故あって、岡山大工町の大円坊勝髭山法輪密寺宥伝和尚の下に修められた。それから当寺に伝わってきた。(以下略)
備前瓶井山(みかいさん)とは、安住院のことのようです。
安住院住持だった増吽が宝徳年間(1449~52)に、この善通寺式御影を描いたというのです。この寺院も増吽が住持を勤めたと伝わっているようです。確かに「瓶井山禅光寺安住院縁起』(享保十年(1725)には、同寺は応永2年に増吽中興とされ、さらに増吽自筆の書簡が二通所蔵されています。この軸木の墨書の記述内容を裏付けます
  以上の例が示すように善通寺式御影には、増吽が深く関与していることが分かります。この他の善通寺式御影にも、増吽筆の伝承を持つものがあります。
仁尾城跡(覚城院)~覚城院沿革【三豊市仁尾町】 - 讃州菴

中でも仁尾町の覚城院本には裏面に「増吽増正筆」と墨書されています。そして覚城院は室町時代の応永年間に増吽が再興したと伝え、書簡も残されています。この図は増吽が直接関与したものなのでしょう。同時に、そこには熊野勢力の浸透がうかがえます。

増吽と岡山方面をつなげるのは何でしょうか。
岡山の増吽について調べている前田幹氏は、岡山県には「善通寺形御影」が伝わっている寺院が数十ヵ寺あると云います。そして「善通寺形御影」がある寺は、必ずといってよいほど増吽の足跡が見つかるようです。
 これらの「善通寺形御影」については、私は最初は善通寺の工房で作られていたものと考えていました。しかし、次第に与田寺の工房で作られてものではないかと思うようになりました。書写や版木を作り仏画が作られていた与田寺の工房で、「善通寺形御影」も作られ、熊野水軍の定期船によって、備讃瀬戸一円の寺院に供給されたと考えるのが自然のように思えてくるのです。
 同時に、以前にもお話ししたように当時は
熊野・紀伊 → 引田湊(背後の水主神社) → 小豆島・直島・本島 → 児島(五流修験) → 芸予大三島 

という熊野修験者のテリトリー拡大の時期でもあります。それは、熊野水軍の瀬戸内海進出とも密接に結びついていました。このような動きの中で、増吽の備讃瀬戸沿岸への勧進活動があり、その結果として真言系の山伏寺に「善通寺形御影」が残っていると私は考えています。
 増吽の岡山方面で活動は、彼の人生の後半期に当たるようです。讃岐で十二天版木の開版や大般若経の書写活動を行ったのは、増吽三十歳代のことです。それが岡山を中心とする備讃瀬戸での活動は五十歳近くになってからというのが定説のようです。

増吽筆とされる善通寺様式の空海御影が讃岐や岡山の真言寺院に、多く残されているのはどうしてでしょうか?
善通寺寺式御影を用いて弘法大師信仰を広めたのではないか、と研究者は考えているようです。

弘法大師御影 県立ミュージアム版

香川県立ミュージアム本の弘法大師像には、顎髭や日髭が描かれています。さらに智積院本には都率三会のことが記されており、普通寺式御影には、人定信仰・弥勒信仰が影響を与えているとされます。これは、以前にお話しした通り「同行二人」や四国遍路の入定信仰の伝播や流布という面から重要な意味を持ってくると研究者は考えているようです。

以上、十二天版木や善通寺式御影から、増吽が弘法大師信仰に厚かつたことを見てきました。増吽が関与した虚空蔵院(与田寺)、白峯寺、覚城院、無量寿院は、どれも真言宗寺院ですので当然のことかもしれません。

以上をまとめておきましょう。
①増吽には、熊野信仰 + 弘法大師信仰のふたつの側面がある。
②増吽の当時の課題は、熊野信仰と弘法大師信仰を備讃瀬戸エリアに広げることであった
③増吽は与田寺にあった「書経センター + 仏画工房」の「所長」でもあった。
④大般若経の書経や弘法大師御影配布を通じて、寺院の勧進活動を展開した
⑤それは、熊野水軍の瀬戸内海交易活動を援助することにもつながった
⑥増吽が勧進した寺院ネットワークは、熊野詣でのルート拠点としても機能した。
⑦増吽が復興した水主の熊野三所権現は、四国の熊野詣での拠点としても繁栄するようになった
⑧同時に引田湊は、讃岐東端の熊野への出発港として機能した。
⑨四国辺路は、このような熊野詣でルートを「転用」することから始まった。
⑩金毘羅詣でが盛んになるまで、四国遍路の受入湊が引田港であったのは、そのような歴史的経過がある。
後半は、多分に仮説です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

このページのトップヘ