空海の家系についての研究史について、代表的な四つの空海伝を見ていきます。
第一は、守山聖真編音『文化史上より見たる弘法大師伝』が挙げられるようです。
この本は、空海の入定1100年を記念して刊行されたもので、いまから90年以上もまえのものです。当時の空海へのアプローチは、信仰対象としての空海像を描くことにあったようですが、鋭い問題意識や指摘が至る所にちりばめられていて、刺激的な内容です。それまでの空海伝の集大成という内容で、諸説を全て併記・紹介し、あえて結論を出さない姿勢で貫かれています。結論を急がずに読者にゆだねる方法は、読者である私たちが考えるという姿勢を生み出すことにも繋がり好感が持てます。
この本の中で、空海の家系については次のように書かれています。
①佐伯氏には数系あるが、『御遺告』、『空海僧都伝』、『新撰姓氏録』の史料から、空海の家系は神別の佐伯氏であること
②その証拠として、空海の父・田公に連なる11名が宿爾の姓を賜わったときの「貞観三年記録」をあげる。
③これらの諸書と『弘法大師年譜』とを綜合して、つぎの佐伯氏の系譜を提示します。
四男一女を出す、今其女を掲ぐ、而して之を分の説により仮に二男って圏績を以てす。
④これは「貞観三年記録」と合わせると不合理な点がいくつか出てきます
⑤そこで、空海の兄弟姉妹の数等を検討し、次のように問題点を指摘しています。
大師の御生母玉依御前と云う方が是等の男女の兄弟を全部生んだか、さうとすると真雅以下の兄弟の年齢と玉依御前との間に首肯し得ない年齢の相違もあり、大師と貞観寺僧正(真雅)が兄弟であって27歳の年齢の隔たり、真雅と真然と伯父甥の間柄で僅かに年齢が3歳しか違って居ない点からすると、真然の父が真雅の弟であり得ないと思われる点等の疑問が生じて来るのである。
「その通り」と、相づちをうちたくなるのは私だけでしょうか。
空海についての本は、毎年沢山出版されていますが、真雅を初めとする空海の弟たちや甥たちとの関係をきちんと系図を用いて説明したものはほとんどないような気がします。90年前の疑問がいまだに解けていないのが現状なのかもしれません。空海の父母と兄弟の関係、そして空海と甥との関係は、いまだにミステリアスです。
2番目は、渡辺照宏・宮坂宥勝著『沙門空海』です。
この本は、中世以後に書かれた2次、3次史料を排して、できる限り根本史料にもとづき、人間空海像を描き出そうとした労作で、画期的なものだと評価されています。戦後の自由な空気の中でこそ生まれた研究成果です。その新しい見解と問題提起は、以後の空海伝研究の指針となったと云われます。しかし、空海の家系に関しては、次のような簡略な記述しかありません。
①まず「貞観三年記録」をひいて、讃岐の佐伯直と大伴・佐伯の両宿爾が同祖であること、空海の父が田公であったことを述べ
②空海も天長五年(828)、按察使として陸奥国におもむく伴国道に詩文を贈り、大伴と佐伯とはふるくから兄弟であったと「佐伯氏=大友起源説」を紹介し、
③佐伯氏には二系統あり、一つは播磨・讃岐などに配置された蝦夷を支配していた地方の佐伯直、 一つはその佐伯直を中央で統括していた佐伯連であって、空海は讃岐の佐伯直の出身であった、と記すだけです。空海の家系については
①佐伯氏が大伴室屋から出ていること②空海の出自が讃岐の佐伯直であったこと③父が田公であったこと
に触れているに過ぎません。
3番目は、櫛田良洪著「佐伯氏をめぐる問題」です。
この本では讃岐の佐伯氏について、次のようなことが論じられています。
①空海が讃岐の佐伯氏の出身で、田公を父として生をうけたこと。
②その根拠に「貞観三年記録」全文が挙げられ、当時の讃岐多度郡には実恵流、道雄流、そして空海・真雅流などの佐伯氏が広く分布していたことと、讃岐の佐伯氏から多くの名僧が輩出したことを指摘する。
③『新撰姓氏録』などにもとづいて、大伴氏と佐伯氏の関係、中央で活躍していた佐伯氏の人々および佐伯氏の全国的な分布を紹介し、空海は神別の佐伯氏であり、播磨の佐伯氏は皇別とする。
④空海が上洛し、大学に学び、官吏への道に進ませたのは佐伯氏を取り巻く状況が仕向けたとして、一族の佐伯毛人・真守・今毛人らの華々しい功績が紹介される。
⑤最後に、佐伯院の建立など、都を中心に活躍した佐伯今毛人・真守らの事績を記して終わる。
ここからは、空海が生まれる前後の佐伯氏の広がりはある程度は分かりますが、空海の出自については、分からないままです。空海の家系が明確になったとは思えません。家系の説明には系図は不可欠ですが、それもありません。
最後が、高木諌元著『空海 生涯とその周辺』です。
これまでの伝記研究を集大成したともいえる本です。
「今日手にすることができる空海伝の白眉」とも云われているようです。しかし、空海の家系については『沙門空海』同様に、次のように簡略に記されているだけです。
①田公の男・鈴伎麻呂など十一名に宿而の姓が勅許されたときの「貞観三年記録」を全文あげ②上奏するにいたった背景を推測し③姓(かばね)に言及する。④改姓・改居をゆるされた11名はすべて空海の兄弟、甥たちで、このなかに真雅も含まれていたとし、⑤父の田公とその息子たちをあげ、豊雄が伴善男を介して上奏したのは、大伴氏と佐伯氏が遠祖を同じくすると信じられていたからであった。
と述べます。
そして最後に、「伴氏系図」を次のように紹介します。
そして最後に、「伴氏系図」を次のように紹介します。
佐伯の氏姓を最初に賜ったのは、健日命(武日命)から四代目の歌連のときとするけれども(『続群書類従』七下)、佐伯の姓は佐伯部に由来する。もともと佐伯部は、五、六世紀のころに大和朝廷に征服された蝦夷の存囚であったが、隷民として播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波などに分散配置された。これらの佐伯部を管掌していた地方の国造は佐伯直の姓を称していたのである。空海はその讃岐地方の佐伯直の戸口(ごく)として出生したのである。
と、
①佐伯の名の由来を佐伯部にもとめ、②歌連から佐伯を称するようになったこと、③空海は讃岐の佐伯直の生まれであること、
を述べて終わっています。
以上、空海の家系についての先行研究をみてきましたが、用いられている史料は
①昭和初期は天保四年(1823)の得仁の『弘法大師年譜』②第二次世界大戦後は、「貞観三年記録」
という傾向が見られるようです。
先行研究を見る中で「何かが足りない」と感じます。
その第1は、系図です。
空海の家系についての研究を深めていくためには、「佐伯家の系図」が必要不可欠であることを実感します。系図に基づき一族の人物を紹介していくのが、普通のやり方です。それがないまま空海の家系を紹介したことにはならないでしょう。系図が示されているのは90年前の『文化史上より見たる弘法大師伝』だけなのです。
空海の家系についての研究を深めていくためには、「佐伯家の系図」が必要不可欠であることを実感します。系図に基づき一族の人物を紹介していくのが、普通のやり方です。それがないまま空海の家系を紹介したことにはならないでしょう。系図が示されているのは90年前の『文化史上より見たる弘法大師伝』だけなのです。
21世紀になってやっと、系図を示して空海の家系が語られる環境が整いだしてきます。それを次回は見てきたいと思います。