林求馬 大塩平八郎の書
大塩平八郎の書(林求馬邸)
前回は多度津奥白方の林求馬邸に、大塩平八郎の書が掲げられていることを紹介しました。
  慮わざれば胡ぞ獲ん
為さざれば胡ぞ成らん
(おもわざればなんぞえん、なさざればなんぞならん)
意訳変換しておくと
考えているだけでは何も得るものはない。行動を起こすことで何かを得ることができる

「知行一致」「行動主義」と云われる陽明学の教えが直線的に詠われています。平八郎の世の中を変えなくてはならないという強い思いが伝わってきます。これが書かれたのは、大塩平八郎が大坂で蜂起する数カ月前で、多度津町にやって来たときのものとされます。どうして、大塩平八郎が多度津に来ていたのでしょうか?
今回は、平八郎と多度津をつないだ人物を見ていくことにします。テキストは「林良斎 多度津町誌808P」です。

大塩平八郎の乱(日本)>1

多度津で湛浦の築造工事が行われている頃の天保6年(1835)、大塩平八郎が多度津にやってきています。
平八郎は貧民救済をかかげ、幕府に反乱を起こした大坂町奉行の元与力です。多度津にやってきたのは金毘羅参りだけでなく、ある人物に会いにやって来たようです。それが林良斎(りょうさい:直記)です。林良斎は、多度津の陣屋建設に尽力した多度津藩家老になります。彼が林求馬邸を建てた養父になります。

林良斎

林 良斎については、多度津町史808Pに次のように記されています。
文化5年(1808)6月、多度津藩家老林求馬時重の子として生まれる。 通称は初め牛松、のち直記と言い、名は時荘、後に久中、隠居して良斎と改めた。字は子虚、自明軒と号した。父時重は厳卿と号し、文化4年多度津に藩主の館を建て、多度津陣屋建設の基礎をつくった。母は丸亀藩番頭佐脇直馬秀弥の娘で、学問を好み教養高い婦人であった。父求馬時重は、伊能忠敬の測量に来た文化5年9月良斎の生後わずか3か月で死去し、兄勝五郎が家督を継いだ。文化14年(1817)勝五郎は病と称して致仕したので、10歳にして家督を継ぎ、藩主高賢の知遇を得て、文政9年家老となり、多度津陣屋の建設の総責任者として、文政11年(1828)これを完成した。ときに林直記は弱冠21歳であった。多度津藩は初代高通より代々丸亀の藩邸に在って、政を執っていたのであるが、文政12年6月、第四代高賢はじめて多度津藩邸に入部した。多度津が城下町として発展するのはこの時からである。

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ここからは次のようなことが分かります。
①父時重は良斎の生後3か月の時に、陣屋建設途上で亡くなったこと
②兄に代わって10歳で家老職を継ぎ、陣屋建設の総責任者となり、21歳で完成させたこと。

そして天保4年(1833)、26歳のとき、甥の三左衛門(林求馬)に家督を譲ります。
良斎の若隠居の背景は、よく分かりません。自由の身になった彼は天保6年(1835)、大阪へ出て平八郎の洗心洞の門を叩き、陽明学を学びます。その年の秋、平八郎が良斎を訪ねて多度津に来たというわけです。このときは、まだ湛浦(多度津新港)は完成していないので、平八郎は、桜川河口の古港に上陸したのでしょう。二人の年齢差は、14歳ほど違いますが惹きつけ合う何かがあったことは確かなようです。
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良斎の言葉
良斎は「中斎(平八郎)に送り奉る大教鐸(きょうたく)の序」に次のように記しています。

 「先生は壯(良斎)をたずねて海を渡って草深い(多度津の)屋敷にまでやって来てくれた。互いに向き合って語ること連日、万物一体の心をもって、万物一体の心の人にあるものを、真心をこめてねんごろにみちびきだしてくれた。私どもの仲間は仁を空しうするばかりで、正しい道を捨てて危い曲りくねった経(みち)に堕ちて解脱(げだつ)することができないでいる。このとき、先生の話をじっと聞いていた者は感動してふるい立ち、はじめて私の言葉を信用して、先生にもっと早くお目にかかったらよかったとたいへん残念がった。」

 翌年の天保7年(1836)にも、良斎は再び大坂に行って洗心洞を訪ね、平八郎に教えを乞いています。
この頃、天保の大飢饉が全国的に進行していました。長雨や冷害による凶作のため農村は荒廃し、米価も高騰して一揆や打ちこわしが全国各地で激発し、さらに疫病の発生も加わって餓死者が20~30万人にも達します。これを見た平八郎は蔵書を処分するなど私財を投げ打って貧民の救済活動を行います。しかし、ここに至っては武装蜂起によって奉行らを討つ以外に解決は望めないと決意します。そして、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、窮民救済を求め、幕政刷新を訴えて、天保8年3月27日(1837年5月1日)、門人、民衆と共に蜂起します。しかし、この乱はわずか半日で鎮圧されてしまいます。平八郎は数ヶ月ほど逃亡生活を送りますが、ついに所在を見つけられ、養子の格之助と共に火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。明治維新の約30年前のことです。
この大岡平八郎の最期を、多度津にいた良斎はどのよう感じていたのでしょうか?
 それが分かる史料は今は見つかっていません。ただ、良斎はその後も陽明学の研究を続け、「類聚要語(るいしゅうようご)」や「学微(がくちょう)」など多くの著書を書き上げます。「知行一致」の教えのもとに、直裁的な蜂起を選んだ大岡平八郎の生き方とは、別の生き方を目指します。
弘濱書院(復元)
再建された弘浜書院(林求馬邸)

 39歳の秋には、読書講学の塾を多度津の堀江に建てています。
その塾が弘浜(ひろはま)書院で、そこでまなんだ子弟が幕末から明治になって活躍します。教育者としては、陽明学を身につけ行動主義の下に幕末に活躍する多度津の若者達を育てたという評価になるようです。この弘浜書院は、現在は奥白方の林求馬邸の敷地の中に再建されています。そこには「自明軒」という扁額が掲げられています。これは大塩平八郎から贈られたもので、林良斎が洗心洞塾で学んでいたとき、平八郎が揮号(きごう)したものと伝えられます。良斎の教えを受けた人々の流れが、多度津では今も伝えられていることがうかがえます。思想家としては、良斎は陽明学者としては讃岐最初の人だとされ、幕末陽明学の讃岐四儒と称されるようになります。

良斎の残した漢詩「星谷観梅歌」を見ておきましょう。(読み下し文)
星谷観梅歌     林良斎
明呈夜、天上より来る     
巨石を童突して響くこと宙の如し
朝に巨石を看れば裂けて二つと為る   
須愈にして両間に一梅を生ず      
恙無(つつがな)きまま東風幾百歳
花を著くること燦々、玉を成して堆(うづたか)し
騒人、鐘愛して清友と称ふ 
恨むべし一朝、雪の為に砕かる    
又、他の梅を聘したひて嗣と為す
花王宰相をもて良き媒(なかだち)と定む      
我、来りて愛玩し聊(いささ)か酒を把れは
慇懃に香を放ち羽杯を撲(う)つ        
汝も亦、天神の裔なることを疑はず
風韻咬として、半点の埃(ちり)無し
 高吟して試みに問へども黙して答へず
唯見る、風前の花の嗤ふが如し
良斎は、大潮平八郎が没してから12年後の嘉永2年(1849)5月4日、43歳で没しました。
田町の勝林寺には良斎の墓が門人達の手によって建立されています。
 多度津町家中(かちゅう)の富井家には、大塩平八郎の著書といわれている「洗心洞塾剳記(せんしんどうさつき)」と「奉納書籍聚跋(ほうのうしょせきしゅうばつ)」の2冊が残されているそうです。いずれも「大塩中斎(平八郎)から譲られたものを良斎先生より賜れる」と墨書きされています。ここからは、この書が大塩平八郎が良斎に譲ったもので、その後に富井泰藏(たいぞう)に譲られたことが分かります。
林良斎~シリーズ陽明学27 - 読書のすすめ

 良斎が亡くなると、その門弟の多くは池田草庵について、学んだ者が多いようです。
但馬聖人 池田 草庵 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典 さん
池田草庵は但馬八鹿の陽明学者で、京都で塾を開いていましたが、郷里の人々の懇望で、宿南の地に青然書院を開いて子弟に教えていました。良斎の人柄に感じ、生前には書簡で親睦を深め、自らの甥、池田盛之助を多度津の弘浜書院に行かせて学ばせています。ここからは、弘浜書院と青繁書院とは、人的にも親密に結ばれ活発な交流があったことがうかがえます。
 池田草庵は名声高く、俊才が集まり、弘化4年(1847)から明治11年(1878)までの青鉛社名簿には、多度津から入門者が次のように記されています。
讃岐多度津藩士 林求馬・岡田弥一郎・庭村虎之助・古川甲二郎
白方村高島喜次郎 藩医小川束・林凝・名尾新太郎・服部利三郎・塩津国人郎・野間伝三・大久保忠太郎・河口恵吉・早川真治
以下は明治以後)
菅盛之進・名尾晴次・字野喜三郎・畑篤雄・菅半之祐・神村軍司・大久保穐造・長野勤之助・小野実之助・奥白方村山地喜間人。

   良斎の影響で多度津の向学に燃える青年たちが京都に出て学んでいたことが分かります。

以上をまとめておくと
①林家は多度津藩の家老の家柄で、林求馬の祖父や養父である良斎が多度津陣屋建設に尽力した。
②良斎は、若くして家老として陣屋建設の責任者として対応したが完成後は若隠居した
③良斎は26歳で、大坂の大塩平八郎の門を叩き、陽明学を学び交流を深めた
④そのため良斎の元には、大庄平八郎の書や書物などが残り遺品として、現在は林求馬邸に残っている
⑤良斎は、教育機関として弘浜書院を開設し、行動主義の陽明学を多度津に広めた。
⑥この中から登場する若者達が明治維新の多度津の躍進の原動力になっていった。
⑦良斎の後、林家を継いだ甥の林求馬は、幕末の混乱期に多度津藩の軍事技術の近代化を進めた。
⑧長州遠征後の軍事衝突に備えて、藩主や家老の避難先として奥白方が選ばれ、そこに新邸が建設された。
⑨それは明治維新直前のことで、明治になって林家はここで生活した。
⑩そのため、林家に伝わる古文書や美術品が林求馬邸に、そのまま残ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 多度津町誌808P