善通寺の吉原地区は、南側に五岳の急峻な山脈がそびえ立ちます。その中の盟主である我拝師山は弥生時代の人々からも信仰の山と崇められていたようで、銅剣や銅鐸が何カ所からも出土しています。古墳時代になると、独自の系譜を持つ首長墓も作り続けていますし、平安時代には曼荼羅寺が姿を現します。ここからは善通寺の練兵場遺跡を中心とする勢力とは、別の勢力がいたことがうかがえます。その吉原地区にあるのが青龍古墳です。この古墳はかつては、前方後円墳だとされていましたが、発掘調査によって円墳であることが分かりました。今回は、この古墳の発掘調査報告書を見ていくことにします。
善通寺市の吉原小学校の南東に鷺井神社の社叢がこんもりとした緑を見せています。この神社の本殿の後に、青龍古墳はあります。青龍古墳の東側に、本殿や拝殿が建っています。方墳部丘を削ったところに神社が建っています。
善通寺の古墳群で有名なのは有岡古墳群です。
「善通寺の王家の谷」ともされる有岡地区には、国の史跡に指定され整備の進んだ王墓山古墳を筆頭に、菊塚古墳や線刻画の岡古墳群がならびます。これらの首長が空海の祖先で、後の国造佐伯直氏に成長して行くと考えられているので注目度も高いようです。しかし、今回目を向けたいのは、五岳を挟んで有岡の反対側の吉原地区です。
吉原地区は香色山・筆ノ山・我拝山及び中山・火上山(五岳山)北麓と五岳と呼ばれる連山が並びます。この山裾からは、銅剣や銅鐸が出ているので、麓には弥生時代からの集落があったことがうかがえます。古墳時代になると、大窪前方後円墳(積石塚)→ 中期の青龍古墳 → 後期吉原椀貸塚(巨石墳)など各時代の首長墓が継続して造られていくので、独自のエリアを形成していたことが分かります。吉原区域の古墳は、その多くが山裾部から高所に散在しています。平地にあった古墳は耕地開墾によって、ほとんどが消滅したようです。
その中で平野部の中央部には、鷺井神社の境内地には青龍古墳が残されています。墳墓が信仰対象となったおかげでしょう。
鷺井神社の由来は古記に次のように記されています。
鷺井神社の由来は古記に次のように記されています。
「仁寿元年(851)年、現在の境内から東100m程のところに一羽の青鷺が飛来し、ここに清水が吹き出していた。この清水は眼病に効果があるとの神託があり、住民は神水と崇めた。」
眼薬になる泉を鷺の井と呼んだようです。そのため戦国末期には、次のような話が生まれます。
「霧城主香川信景の子(または一族の子)桧之助頼景が眼を患った際、この神水により治癒したため、香川氏及び住民の厚仰するところとなった」
とも伝わります。この頃に青龍古墳を境内として、神社の原型が誕生したと調査書は記します。
鷺井神社
当初は青龍明神(青龍大権現)と呼ばれて、少彦名命を祀っていましたが、明治時代以降はこの地の小字「鷺ノ井(目に効能のある井戸)」から鷺井神社とされ、境内地全域に広がる古墳も信仰対象とされてきたようです。
発掘前の青龍古墳の地形を、調査書は次のように要約しています。
①墳丘の一部は削平され、神社の境内地となっている。周辺は水田地帯であり、南側の我拝師山から派生した尾根の先端部に構築されている。付近の標高は約20mである。
②墳丘の直径は約25mで、東側半分に社殿等が建設されている。
③そのため円墳か前方後円墳か分からない。恐らく円墳か帆立貝式古墳であろう。
④南北側と西側は旧状が保たれていて、特に南側から西側にかけては周庭帯や二重に巡らされた濠の形状が明確である。
⑤墳頂部は古い本殿があったため削平され、墳丘断面に石室と思われる石材の一部が露出している。
⑥鉄刀片の出土も伝わる。墳丘外面は表土の流出が著しく、埴輪片は確認されていない
⑦裾部において礫が多数みられるので、茸石の存在が予想される。
⑦墳丘周囲には幅18mの内濠・周庭が見られる。後世の開発・改変によるものか、構築時の地形に影響されたものであるのかは不明である。
平面図だけ見ると、確かに周壕がめぐらされた前方後円墳のような気もしてきます。このような古墳の姿が農地開墾だけが原因で変形したとも、築造期の姿がそのまま残るとも考えにくく、「まことに奇異な形態」だと発掘前に担当者は記しています。
青龍古墳が円墳か前方後円墳かは、どんな意味を持つのでしょうか
前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化は、なにを背景にしているのでしょうか。研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
つまり、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減った」ということでしょうか。それにヤマト政権が関わっていると云うことです。
①左側の高松平野では、前方後円墳祀りに参加しなかった岩清尾山勢力が次第に姿を消し、周辺部に前方後円墳が築かれ、最終的には今岡古墳に統合されていきます。
②津田湾周辺では、最初は津田湾周辺に造られた前方後円墳が、後背地に築かれるようになり
③最終的には、けば山古墳や三谷石船古墳のエリアまで統合した富田茶臼山古墳が登場します。これは四国最大の前方後円墳で、全長139mもありました。しかし、これに続く前方後円墳は、ここにもありません。このような前方後円墳の変遷は、他地域でも見ることができます。
③最終的には、けば山古墳や三谷石船古墳のエリアまで統合した富田茶臼山古墳が登場します。これは四国最大の前方後円墳で、全長139mもありました。しかし、これに続く前方後円墳は、ここにもありません。このような前方後円墳の変遷は、他地域でも見ることができます。
丸亀平野の代表的な古墳を河川流域毎に歴史順に並べた編年図です。
ここからは次のような点が読み取れます。
①ヤマトに卑弥呼の墓とも云われる前方後円墳の箸墓が造られた時期(第1期)に、丸亀平野でも首長墓とされる前方後円墳が各河川毎に登場している。
②第2期には、それが大型化し、領域が拡大する。しかし、三豊に前方後円墳は現れない。
③第3期には、地域統合が進み丸亀平野東部の前方後円墳は快天塚古墳だけになった。
ここでも初期には、河川流域毎にあった小さな前方後円墳が、だんだん減って最後に快天塚古墳が登場しています。
このプロセスを研究者は、どうかんがえているのでしょうか?
このプロセスを研究者は、どうかんがえているのでしょうか?
前期末から中期はじめ頃に見られる前方後円墳の減少と大型化について、研究者は次のように考えているようです。
①各地域の政治的統合が進み、地域権力の寡占化が反映されている②中期前半に前方後円墳が讃岐から消えるのは、大和政権との関係に劇的な変化があった
前方後円墳はただの墓ではなかったと研究者はかんがえています。前方後円墳に祀られる被葬者と、その後継者はヤマト連合のメンバーで、地域の首長であったというのです。その手始めに造営されたのが卑弥呼の墓ともされる箸墓で、このタイプの墓の造営は首長だけに許されます。前方後円墳は、ステイタスシンボルであり、自分が地域の支配者であることを主張するモニュメントでもあったことになります。そのためにヤマト連合政権に参加した首長たちは、自分の力に見合った大きさの前方後円墳の造営を一斉に始めたようです。讃岐は初期の前方後円墳が多いエリアになるようです。早くからヤマト連合政権の樹立に関わった結果かもしれません。
その後、各流域では政治的統合が進みます。その結果、現代風に云うなら「町村合併で首長の数が減少」していきます。同時に周囲の首長を従属下においた快天塚の主の権勢は大きくなり、巨大な古墳が登場することになります。
三豊の特殊性
しかし、こうした「首長権の統合」が進んだのは鳥坂以東のようです。三豊では7期になるまで前方後円墳は造られません。今述べてきた論理からすると、三豊はヤマト連合政権に参加していなかったことになります。確かに三豊の古墳には、石棺などにも九州色が強く出ています。ヤマトよりも九州を向いていたいのかも知れません。
しかし、こうした「首長権の統合」が進んだのは鳥坂以東のようです。三豊では7期になるまで前方後円墳は造られません。今述べてきた論理からすると、三豊はヤマト連合政権に参加していなかったことになります。確かに三豊の古墳には、石棺などにも九州色が強く出ています。ヤマトよりも九州を向いていたいのかも知れません。
観音寺の一の谷池の西側に全長44mの青塚古墳(観音寺市)が築かれるのは五世紀後半になってからです。しかも、これも墳形は前方部が短い帆立貝式古墳です。帆立貝式古墳については、大和政権が各地の首長墓の縮小を図るため、規制をしたために出現した墳形と研究者は考えているようです。古代三豊の政治状況は、讃岐全体からみると異質です。ここは別の時間が流れているような気配がします。古代の三豊は「三豊王国」を形成していたとしておきましょう。
そのような中で弘田川流域の善通寺エリアでは、前方後円墳が「野田院 → 摺臼山 → 北向八幡」と継続されます。
ここからは快天塚の首長のテリトリーが土器川を越えては及ばなかったこと、善通寺王国は独立を守り抜いていることがうかがえます。
白方の古墳群
さらに弘田川下流の目を転じてみると、白方湾の西の丘陵地帯には、いくつもの初期前方後円墳が並びます。しかし、善通寺勢力が「摺臼山古墳 → 北向八幡古墳」を築く頃になると白方湾から前方後円墳は姿を消します。ここでも大束川流域で信仰したことと同じ事が起こっていたようです。つまり、弘田川中流の善通寺勢力がその河口まで勢力を伸ばし、白方の首長たちを配下に組み入れたということでしょう。その結果、白方の首長たちは前方後円墳が築けなくなったと研究者は考えているようです。
そういう中で、登場するのが青龍古墳です。
もし、青龍古墳が前方後円墳だとすると、首長が吉原地区にいたことになります。善通寺エリアには、北向八幡古墳が造られて以後の5・6期には前方後円墳が築かれていません。空白期です。つまり、善通寺地区から吉原地区に首長の交代があったことが考えられることになります。そういう意味でも青龍古墳が前方後円墳なのか円墳なのかは、私にとっては興味深いことでした。
発掘結果は「大型の円墳」でした。
前方後円墳ではなかった=青龍古墳の被葬者は、善通寺の首長の従属下に組み入れられ、ヤマト政権からは前方後円墳造営が認められなかったということになります。
前方後円墳が作れなくなった元首長たちは、大型円墳や小規模な帆立貝式古墳などを築造するようになります。善通寺市の青龍古墳や多度津町の盛土山古墳は直径42mに二重の周溝をもち、埴輪や須恵器から五世紀後半とされています。それぞれ旧首長でありながら前方後円墳が築けなくなったための「代用品」とも考えられます。
前方後円墳ではなかった=青龍古墳の被葬者は、善通寺の首長の従属下に組み入れられ、ヤマト政権からは前方後円墳造営が認められなかったということになります。
前方後円墳が作れなくなった元首長たちは、大型円墳や小規模な帆立貝式古墳などを築造するようになります。善通寺市の青龍古墳や多度津町の盛土山古墳は直径42mに二重の周溝をもち、埴輪や須恵器から五世紀後半とされています。それぞれ旧首長でありながら前方後円墳が築けなくなったための「代用品」とも考えられます。
さらに時代が下り、善通寺勢力が有岡の谷に「王墓山 → 菊塚」と連続して横穴式の前方後円墳を築いた頃になると、白方や吉原地区ではさらに小型の横穴式円墳しか築けなくなっています。ここにはヤマト政権の全国支配と同じように、善通寺王権が周辺地域への直接支配の手を伸ばしていく姿がうかがえます。
そういう意味で、吉原の青龍古墳や白方の盛土山古墳は、善通寺王国の従属下に組み込まれながらも、まだ旧首長としての力があったころの被葬者が眠っているのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 青龍古墳調査報告書 平成6年3月31日発行
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