①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていた。②それが、いつの時代かに磨崖仏は信仰の対象ではなくなった。
③その結果、磨崖と本堂の間に壁が作られるようになった。
その根拠となるのが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)の弥谷寺本堂について次の記録です。(意訳)
(前略)
さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。
ここには、弥谷寺本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。
弥谷寺本堂の正面壁と磨崖
現在の本堂は背面が壁で閉じられているので、岩壁に彫られた仏像や五輪塔は見えません。礼拝の対象外になっています。つまり岩壁に彫られた仏像とは全く無関係に、現在の本堂は建てらたことになります。
弥谷寺本堂平面図
岩壁を覆うように仏堂を建てるのは、岩壁に彫られた仏像に対する儀式を行う場を設けるためと考えられています。その例として、研究者は次のような仏堂を挙げます。
龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)
龍岩寺奥院礼堂は岩窟に祀られた木彫の薬師・阿弥陀・不動明王の三尊の前に儀式空間の礼堂が設けられています。
不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)
不動寺本堂は、岩盤の竃に厨子を置いて、本尊を安置しその前に岩壁に接した仏堂が設けられています。
これらの例のように弥谷寺本堂も18世紀中頃までは、磨崖の本尊を覆うような形で建てられていたと考えるのが自然のように思えます。
今のように壁によって隔てられる前の本堂の姿は、どんなものであったのでしょうか。しかし、それ以上は絵図資料からは分かりません。そこで研究者は屋根形式の変遷をさぐるために、磨崖のレーザー実測図を手がかりにしながら、岩壁の穴や窪みを見ていきます。
弥谷寺本堂背面岩壁の痕跡
上図を見ると本堂裏の磨崖には、数多くの五輪塔と四角い穴が彫られていたことが分かります。これが今は本堂によって隠されていることになります。東側(右)に五輪塔が密集しています。「四国遍路日記」の「阿弥陀三尊本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。」という記述通りの光景が広がります。西側に四角い穴が3つ見えます。
研究者は、この写真を詳しく検討して本堂は、複数回の建て替えが行われていること、それに伴なって屋根形式も変更されていることを次のように指摘します。
①第42図左下部のAの部分には、地面から3mの高さまで角柄穴が一列に並んでいる。
②地面近くでその1m西に柄穴2個がある。
③これらはこの前に立っていた建物の柱と繋ぐためのもので、前者は間渡しの柄穴、後者は縁葛の柄である。
④この位置は現在の本堂の柱筋とほぼ一致する。
⑤現在の本堂には岩壁へ向かって壁が設けられていた痕跡がないので、岩壁の痕跡はこれ以前の建物のものである。
⑥前身建物の西側の側柱は、現在の建物と同じ位置になる。
以上から次のような事を研究者は推測します。
⑦古くは岩壁に彫られた籠E・F・G・Hを利用して本尊が祀られていた。
⑧その前に儀式の場である本堂が設けられていた
⑨その場合、本堂は現状よりやや西に寄っており、C1~C3がその屋根跡で、今より2mほど低くなる。
⑩屋根葺材もCOや C1は、Bの現在の屋根の傾きから比べると勾配が緩いので、檜皮葺きか板葺と推定できる。
⑪以上から絵図「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年のに本堂は瓦葺ではなく、檜皮葺か柿葺と考えられる。
以上をまとめておくと、この磨崖には四角穴に尊像が彫り抜かれていて、そこにC1~C4までの4回の屋根が改修再建がされたことになります。確かにEは、C期の本堂の中心軸に位置します。そして、その周囲をFが取り囲む配置になります。この棚状の所に、何体かの尊像が安置されていたのでしょう。C期には、磨崖右側の五輪塔は本堂の外にあったことになります。
Cにあった屋根がBになって大型化するのが18世紀中頃になります。それが「讃岐剣御山弥谷寺全図」天保十五(1844)年に描かれた天守閣のような本堂なのでしょう。ここでは、本堂が1720年の焼失で建て替えられ、それ以後は現状に近い「入母屋造妻入」のスタイルになったこと、その時に本堂は磨崖から切り離されたことを押さえておきます。
現本堂の棟より下にみえる溝状の痕跡Cを、もう少し詳しく見ていきます。
これも屋根が取り付いていた痕跡のようです。現在の屋根や痕跡Bより低い位置にあり、少なくともCl・C2。C3の三時期分の屋根の痕跡と研究者は考えています。またそれにつながると見られる水平の痕跡COoやC4もあります。これを研究者は次のように推察します。
①COとCl、 C4とC3がそれぞれ一連の屋根の痕跡である。
②COとCl、 C4とC3に向かつて正面側と右側に流れがあるから、寄棟造、平入の屋根が設けられていた可能性が高い。
③これが澄禅が「四国遍路日記」(承応二年=1653)の中で、「片ハエ作」と呼んだ屋根かもしれない。
④C2は、これに連なる痕跡がないので、切妻造か寄棟造かは分からない。
以上の屋根の痕跡から見て、C群の屋根の時期の本堂の中軸は、今より西にあった。
COとC1は2m以上C4・C3は約1m以上、C2は0,5m
本堂は次第に東に移動していったようです。
もういちど第42図にもどり。今度はBの屋根跡を見ていきます。
Bには現在の本堂の屋根よりほんの少し高い所に残った、漆喰の埋められた山形の溝の用です。漆喰の大部分の表面は、黒く塗られています。これは切妻造の屋根が岩盤に突き当たっていた証拠だと研究者は指摘します。屋根と岩盤の取り合い部分を塞ぐために、漆喰を塗ったと云うのです。
Bの東・西の、それぞれの屋根の流れは現在よりわずかに短いようです。 ただし西側(左側)では漆喰のある部分よりも西まで、その傾斜を延長する位置に岩盤の彫り込みが延びています。この一部は仏竃の上部も彫り込んでいて、漆喰がはがれた痕跡もあるようです。またBの東側(右)では、軒の先端(東端)に反りのある屋根形状に合わせた彫り込みが見えます。これらの漆喰や彫り込みも、前身建物の屋根の痕跡のようです。そうするとBの漆喰部分は、現本堂の屋根とほぼ重なり合うことになります。つまり、規模と傾きが一致する屋根で、表面の黒塗りから屋根は瓦葺だったと研究者は推察します。
Bの東・西の、それぞれの屋根の流れは現在よりわずかに短いようです。 ただし西側(左側)では漆喰のある部分よりも西まで、その傾斜を延長する位置に岩盤の彫り込みが延びています。この一部は仏竃の上部も彫り込んでいて、漆喰がはがれた痕跡もあるようです。またBの東側(右)では、軒の先端(東端)に反りのある屋根形状に合わせた彫り込みが見えます。これらの漆喰や彫り込みも、前身建物の屋根の痕跡のようです。そうするとBの漆喰部分は、現本堂の屋根とほぼ重なり合うことになります。つまり、規模と傾きが一致する屋根で、表面の黒塗りから屋根は瓦葺だったと研究者は推察します。
それに対して、東側(右)で見られる反りのある彫り込みは、檜皮葺か瓦葺でも中世的な技法の屋根と推察します。以上から同じ位置で2期分の痕跡があることになります。それは、いずれも現本堂とほぼ同じ幅の屋根です。ここからは、現本堂の再建前に、同規模の屋根を持つ本堂が檜皮葺と瓦葺でそれぞれ1回ずつ建てられていたことになります。
上表は明和6年(1769)の「弥答寺故事謂」と、昭和6年(1931)の史料(年鑑)に載っている弥谷寺の建築物を、研究者が年代順に並べて整理したものです。
これを見ると、寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立されています。(「年鑑」)
この建物は、大見村庄屋の大井善兵衛をはじめ上高瀬・下高瀬・麻・三井・今津村などの三野郡3か村、多度郡2か村、那珂郡1か村の庄屋クラスの村役人たちの尽力によって建てられたもので、弥谷寺で最も古い建築物になるようです。
その約40年後の宝永6(1709)年にも、本堂(千手観音堂)が建てられています。これはどうも改修再建のようです。この時の千手観音堂(本堂)は、11年後の享保5年(1720)の春に焼失します。
この時に弥谷寺は、大庄屋上ノ村の字野与三兵衛へ次のように願いでています。
「貧寺殊二無縁地二御座候得は、再興仕るべき方便御座無く迷惑仕り候、これに依り御領内、御表万う御領分共二村々廻り、相対二て少々の勧化仕り度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「我が寺は貧寺で、檀家も持たない無縁地ですの、再興の術がなくほとほと困っています。つきましては多度津御領内、だけでなく丸亀藩の御領分の村々をも廻り、少々の勧進寄付を行いたいと思いますので、許可していただけるように、多度津藩に取り次いでいただけないでしょうか。
弥谷寺は、多度津藩だけでなく本藩丸亀藩にも、村々を回つて寄附を募ることを、願い出ています。(「奉願正三之覚」、文書2-116-2)。これは藩には認められなかったようです。勧進寄付活動は認められなかったようですが「本尊観音堂」の建立は認められたようです。それは本尊が千手観音の大悲心院が再建されていることから分かります。ここでは、本尊観音堂の建立を「本堂建立」と記しています。つまり、千手観音堂とは本堂のことだと研究者は指摘します。私は、千手観音堂は現在の観音堂のことだと思っていましたがそうではないようです。
本堂(千手観音堂)は近世後期にも焼失し、弘化5(1848)年に再建されています。(「年鑑」)。これが現在の本堂になるようです。
これを先ほどの本堂裏の磨崖面の屋根跡とつきあわせると、次のようになります。
①寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立(「年鑑」) →C群のどれか②宝永6(1709)年、本堂(千手観音堂)の改修再建。(「年鑑」)、→Bの茅葺き③18世紀半ばに本尊千手観音の大悲心院(本堂)が再建 →近世後期に焼失 →Bの瓦葺き④弘化5(1848)年に再建(現本堂)
弥谷寺本堂東側磨崖の五輪塔
この本堂裏の磨崖には、どんな仏たちが安置されていたのでしょうか。
現在の本堂には、木造彫刻の千手観音・不動・毘沙門が安置されています。本尊千手観音は、弘化四年(1847)の作であることが分かっています。弘化の本堂の再建に併せて、本尊も造られたようです。「元禄霊場記」「寛政名所図会」などにも、本尊は、同じ仏像であった事が記されています。
「元禄霊場記」には弘法大師の事績として、次のように記されています。
三柔の峰東北西に峙てり、その中軸に就て大師岩屋を掘、仏像を彫刻し玉ふ、本堂岩屋より造りつゝ゛けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。
意訳変換しておくと
三柔の峰は東北西に伸びていて、その中軸に大師が岩屋を掘り、仏像を彫刻した。本堂岩屋より造り続けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。
ここには大師が岩屋を掘って仏像を彫刻し、本堂はその岩屋に続いていたと伝えらていたことがうかがえます。この記事は延宝5年(1677)の「玉藻集」(『香川叢書』第二 所収)の記事を引用したようのなので、延宝五年以前には岩壁の磨崖仏が弘法大師作で貴重なものであるという認識があったようです。それが次第に忘れられ、手作りでつたなく見える石仏造物よりも、プロ職人の作った木像仏が本尊として迎えられ、同時に磨崖と本尊は壁で隔てられたというストーリーが描けそうです。
その疑問に答える鍵を、研究者は現在の大師堂の獅子の岩屋内の「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」に求めます。この2枚の扉は、岩屋の向かって右側に立てかけられた形で安置されています。
この扉には慶長9(1609)年に作られた高さ120~130㎝の扉の残欠です。
「讃州三野郡剣五山弥谷寺故事謂」『新編香川叢書 史料編一』所載 「明和故事諄」と略記)には、次のように記されています。
一、大悲心院 一宇 享保十二年未年、幹事宥雄法印本尊 千手観音 弘法大師御作脇士鉄扉 右 不動明王銘云、鋳師河内国(略)同 鉄扉 左 毘沙門天王銘云、奉寄進(略)
ここからは次のようなことが分かります。
①大悲心院(本堂)の本尊が千手観音で弘法大師作であったこと。②右の鉄扉に不動明王③左の鉄扉に毘沙門天王
つまり、「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」は、もともとは大悲心院(本堂)にあったのです。それでは、鉄扉はどのように使用されていたのでしょうか。研究者が注目するのは42図の四角穴Eです。Eは、屋根がC群にあった時期には、本堂のちょうど中央にあった穴になります。Eには、扉の軸摺穴が残っていることを研究者は指摘します。鉄扉がここに填まっていたとすれば、Eに本尊千手観音が安置されていたことになります。この位置は屋根の痕跡COの位置とほぼ揃います。慶長の頃には、Eに本尊を祀り、その前に本堂の建物が取り付いて、不動明王・毘沙門天王が浮彫にされた鉄扉を開けると本尊の千手菩薩を拝むことができたことになります。
正徳四年(1714)の「弥谷寺由来書上」(寺蔵文書1-17-8)には、次のように記されています。
一、当山本尊千手観音堂、炎焼以後者壱丈二五間之片廂仮屋二鎮守権現・千手観音、不動・毘沙門 ハ左右之鉄扉脇士ノ尊像也、弥陀・釈迦・地蔵菩薩一所二安置セリ、然に延宝年中二仮堂大破に及たり、建立之願を発し、遠近の門戸を控、微少の施財を集、三間四面之観音堂建立功畢、参拾餘に及て大地震二、大石堂二落懸り、堂已二大破せり、依之再建造営ノ願、止事なしといへとも、前之堂所ハ、不安穏の地なれは、後代無愁之所を択定、往昔中尊院屋敷江引越、奥行四間、表五間に造営建立、其功令成就畢、
意訳変換しておくと
弥谷寺の本尊千手観音堂は、(天正年中の)戦禍で焼失以後は壱丈二五間之片廂仮屋で、そこに鎮守権現・千手観音を安置し、不動・毘沙門天は左右の鉄扉の脇士尊像であった。つまり、弥陀・釈迦・地蔵菩薩を仮堂の一ケ所に安置していた。ところが延宝年中(1673年~81年)に仮堂も大破してしまった。そこで、再建願いを藩に出たが、大規模な寄進活動は行わず、限られた募金活動で、わずかばかりの施財を集め、三間四面の規模で観音堂(本堂)を再建することにとどめた。 ところがこれも30年ばかり後に大地震に見舞われ、磨崖の上から大石が本堂に落ちてきて、本堂は大破してしまった。再建造営願を藩に提出し、再建に向けて動き出した。その際に、今までの本堂が建っていた所は、再び落石の危険があるので、後代に愁いの無いところへ移して再建されることになった。奥行四間、表五間の規模で造営建立された。其功令成就畢、
ここからは次のようなことが分かります。
①戦国末期の天正年中の兵火で本堂も焼失②その後は片庇の仮堂を建てて、本尊やその他の尊像を安置していた③ところがこの仮堂も、延宝年中に大破した。④そこで、限られた寄進活動で三間四面の小規模な規模で観音堂(本堂)を再建した⑤ところが約30年後に地震で大石が落ちてきて、これも大破⑥そこで安全なところに場所を移して奥行四間、表五間の規模で再建された。
これ以外にも「剣五山弥谷日記」(弘化三年 寺蔵文書2-20-1)には、享保五年の本堂火災等の記事もあることは先ほど見たとおりです。
岩壁崩壊後に場所を移動して建てられた本堂が屋根跡C→Bを示すのかも知れません。しかし、どの程度移動したのかはよく分かりません
以上をまとめておくと
①弥谷寺本堂裏の磨崖には、尊像を安置した四角穴が4つほど穿たれている。
②ここには弘法大師作とされる尊像が安置されていた。
③そのためこの尊像が安置された四角穴を覆うように、屋根が被せられそれが本堂とされてきた。
④その本堂は現在のものよりも小型で、現在の位置よりも西へ2mほどよった所に建てられていた。
⑤それが江戸時代中期になると本堂は焼失や落石などで大破し、再建されることが続いた。
⑥その結果、江戸時代後半には参拝客の増加とともに本堂も大型化し、瓦葺きとなっていった。
⑦本尊も弘法大師作という石仏からプロ職人の木像仏へと代わり、磨崖仏との間に壁がつくられるようになった。
⑧磨崖物の本尊千手観音を守っていた脇士の不動明王と毘沙門天の鉄扉像は役割を終えて、現在は太子堂内の獅子の岩屋に収められている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 山岸 常人 弥谷寺の建築の特質 弥谷寺調査報告書263P 香川県教育委員会