瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:弥谷寺本堂

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弥谷寺本堂
弥谷寺本堂については、私は次のような「仮説」を考えていました。
①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていた。
②それが、いつの時代かに磨崖仏は信仰の対象ではなくなった。
③その結果、磨崖と本堂の間に壁が作られるようになった。
その根拠となるのが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)の弥谷寺本堂について次の記録です。(意訳)
(前略)
さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。

 ここには、弥谷寺本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。

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弥谷寺本堂の正面壁と磨崖

 現在の本堂は背面が壁で閉じられているので、岩壁に彫られた仏像や五輪塔は見えません。礼拝の対象外になっています。つまり岩壁に彫られた仏像とは全く無関係に、現在の本堂は建てらたことになります。

弥谷寺 本堂平面図
弥谷寺本堂平面図

岩壁を覆うように仏堂を建てるのは、岩壁に彫られた仏像に対する儀式を行う場を設けるためと考えられています。その例として、研究者は次のような仏堂を挙げます。
弥谷寺 龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)

龍岩寺奥院礼堂(大分 弘安九年 重要文化財)

龍岩寺奥院礼堂は岩窟に祀られた木彫の薬師・阿弥陀・不動明王の三尊の前に儀式空間の礼堂が設けられています。
弥谷寺 不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)
不動寺本堂(滋賀 南北朝 重要文化財)

不動寺本堂は、岩盤の竃に厨子を置いて、本尊を安置しその前に岩壁に接した仏堂が設けられています。
これらの例のように弥谷寺本堂も18世紀中頃までは、磨崖の本尊を覆うような形で建てられていたと考えるのが自然のように思えます。
今のように壁によって隔てられる前の本堂の姿は、どんなものであったのでしょうか。しかし、それ以上は絵図資料からは分かりません。そこで研究者は屋根形式の変遷をさぐるために、磨崖のレーザー実測図を手がかりにしながら、岩壁の穴や窪みを見ていきます。

弥谷寺 本堂と磨崖
弥谷寺本堂背面岩壁の痕跡
上図を見ると本堂裏の磨崖には、数多くの五輪塔と四角い穴が彫られていたことが分かります。これが今は本堂によって隠されていることになります。東側(右)に五輪塔が密集しています。「四国遍路日記」の「阿弥陀三尊本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。」という記述通りの光景が広がります。西側に四角い穴が3つ見えます。

研究者は、この写真を詳しく検討して本堂は、複数回の建て替えが行われていること、それに伴なって屋根形式も変更されていることを次のように指摘します。
①第42図左下部のAの部分には、地面から3mの高さまで角柄穴が一列に並んでいる。
②地面近くでその1m西に柄穴2個がある。
③これらはこの前に立っていた建物の柱と繋ぐためのもので、前者は間渡しの柄穴、後者は縁葛の柄である。
④この位置は現在の本堂の柱筋とほぼ一致する。
⑤現在の本堂には岩壁へ向かって壁が設けられていた痕跡がないので、岩壁の痕跡はこれ以前の建物のものである。
⑥前身建物の西側の側柱は、現在の建物と同じ位置になる。
以上から次のような事を研究者は推測します。
⑦古くは岩壁に彫られた籠E・F・G・Hを利用して本尊が祀られていた。
⑧その前に儀式の場である本堂が設けられていた
⑨その場合、本堂は現状よりやや西に寄っており、C1~C3がその屋根跡で、今より2mほど低くなる。
⑩屋根葺材もCOや C1は、Bの現在の屋根の傾きから比べると勾配が緩いので、檜皮葺きか板葺と推定できる。
⑪以上から絵図「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年のに本堂は瓦葺ではなく、檜皮葺か柿葺と考えられる。

以上をまとめておくと、この磨崖には四角穴に尊像が彫り抜かれていて、そこにC1~C4までの4回の屋根が改修再建がされたことになります。確かにEは、C期の本堂の中心軸に位置します。そして、その周囲をFが取り囲む配置になります。この棚状の所に、何体かの尊像が安置されていたのでしょう。C期には、磨崖右側の五輪塔は本堂の外にあったことになります。
 Cにあった屋根がBになって大型化するのが18世紀中頃になります。それが「讃岐剣御山弥谷寺全図」天保十五(1844)年に描かれた天守閣のような本堂なのでしょう。ここでは、本堂が1720年の焼失で建て替えられ、それ以後は現状に近い「入母屋造妻入」のスタイルになったこと、その時に本堂は磨崖から切り離されたことを押さえておきます。
弥谷寺 本堂と磨崖

現本堂の棟より下にみえる溝状の痕跡Cを、もう少し詳しく見ていきます。
これも屋根が取り付いていた痕跡のようです。現在の屋根や痕跡Bより低い位置にあり、少なくともCl・C2。C3の三時期分の屋根の痕跡と研究者は考えています。またそれにつながると見られる水平の痕跡COoやC4もあります。これを研究者は次のように推察します。
①COとCl、 C4とC3がそれぞれ一連の屋根の痕跡である。
②COとCl、 C4とC3に向かつて正面側と右側に流れがあるから、寄棟造、平入の屋根が設けられていた可能性が高い。
③これが澄禅が「四国遍路日記」(承応二年=1653)の中で、「片ハエ作」と呼んだ屋根かもしれない。
④C2は、これに連なる痕跡がないので、切妻造か寄棟造かは分からない。

以上の屋根の痕跡から見て、C群の屋根の時期の本堂の中軸は、今より西にあった。
COとC1は2m以上
C4・C3は約1m以上、
C2は0,5m
  本堂は次第に東に移動していったようです。

もういちど第42図にもどり。今度はBの屋根跡を見ていきます。
Bには現在の本堂の屋根よりほんの少し高い所に残った、漆喰の埋められた山形の溝の用です。漆喰の大部分の表面は、黒く塗られています。これは切妻造の屋根が岩盤に突き当たっていた証拠だと研究者は指摘します。屋根と岩盤の取り合い部分を塞ぐために、漆喰を塗ったと云うのです。
 Bの東・西の、それぞれの屋根の流れは現在よりわずかに短いようです。 ただし西側(左側)では漆喰のある部分よりも西まで、その傾斜を延長する位置に岩盤の彫り込みが延びています。この一部は仏竃の上部も彫り込んでいて、漆喰がはがれた痕跡もあるようです。またBの東側(右)では、軒の先端(東端)に反りのある屋根形状に合わせた彫り込みが見えます。これらの漆喰や彫り込みも、前身建物の屋根の痕跡のようです。そうするとBの漆喰部分は、現本堂の屋根とほぼ重なり合うことになります。つまり、規模と傾きが一致する屋根で、表面の黒塗りから屋根は瓦葺だったと研究者は推察します。
それに対して、東側(右)で見られる反りのある彫り込みは、檜皮葺か瓦葺でも中世的な技法の屋根と推察します。以上から同じ位置で2期分の痕跡があることになります。それは、いずれも現本堂とほぼ同じ幅の屋根です。ここからは、現本堂の再建前に、同規模の屋根を持つ本堂が檜皮葺と瓦葺でそれぞれ1回ずつ建てられていたことになります。

弥谷寺 建築物推移表
上表は明和6年(1769)の「弥答寺故事謂」と、昭和6年(1931)の史料(年鑑)に載っている弥谷寺の建築物を、研究者が年代順に並べて整理したものです。
これを見ると、寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立されています。(「年鑑」)
この建物は、大見村庄屋の大井善兵衛をはじめ上高瀬・下高瀬・麻・三井・今津村などの三野郡3か村、多度郡2か村、那珂郡1か村の庄屋クラスの村役人たちの尽力によって建てられたもので、弥谷寺で最も古い建築物になるようです。
その約40年後の宝永6(1709)年にも、本堂(千手観音堂)が建てられています。これはどうも改修再建のようです。この時の千手観音堂(本堂)は、11年後の享保5年(1720)の春に焼失します。
 この時に弥谷寺は、大庄屋上ノ村の字野与三兵衛へ次のように願いでています。
「貧寺殊二無縁地二御座候得は、再興仕るべき方便御座無く迷惑仕り候、これに依り御領内、御表万う御領分共二村々廻り、相対二て少々の勧化仕り度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「我が寺は貧寺で、檀家も持たない無縁地ですの、再興の術がなくほとほと困っています。つきましては多度津御領内、だけでなく丸亀藩の御領分の村々をも廻り、少々の勧進寄付を行いたいと思いますので、許可していただけるように、多度津藩に取り次いでいただけないでしょうか。

 弥谷寺は、多度津藩だけでなく本藩丸亀藩にも、村々を回つて寄附を募ることを、願い出ています。(「奉願正三之覚」、文書2-116-2)。これは藩には認められなかったようです。勧進寄付活動は認められなかったようですが「本尊観音堂」の建立は認められたようです。それは本尊が千手観音の大悲心院が再建されていることから分かります。ここでは、本尊観音堂の建立を「本堂建立」と記しています。つまり、千手観音堂とは本堂のことだと研究者は指摘します。私は、千手観音堂は現在の観音堂のことだと思っていましたがそうではないようです。
本堂(千手観音堂)は近世後期にも焼失し、弘化5(1848)年に再建されています。(「年鑑」)。これが現在の本堂になるようです。
 これを先ほどの本堂裏の磨崖面の屋根跡とつきあわせると、次のようになります。
①寛文11(1671)年の千手観音堂(本堂)が建立(「年鑑」)  →C群のどれか 
②宝永6(1709)年、本堂(千手観音堂)の改修再建。(「年鑑」)、→Bの茅葺き
③18世紀半ばに本尊千手観音の大悲心院(本堂)が再建  →近世後期に焼失 →Bの瓦葺き
④弘化5(1848)年に再建(現本堂)
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弥谷寺本堂東側磨崖の五輪塔
この本堂裏の磨崖には、どんな仏たちが安置されていたのでしょうか。
現在の本堂には、木造彫刻の千手観音・不動・毘沙門が安置されています。本尊千手観音は、弘化四年(1847)の作であることが分かっています。弘化の本堂の再建に併せて、本尊も造られたようです。「元禄霊場記」「寛政名所図会」などにも、本尊は、同じ仏像であった事が記されています。
「元禄霊場記」には弘法大師の事績として、次のように記されています。
三柔の峰東北西に峙てり、その中軸に就て大師岩屋を掘、仏像を彫刻し玉ふ、本堂岩屋より造りつゝ゛けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。

意訳変換しておくと
三柔の峰は東北西に伸びていて、その中軸に大師が岩屋を掘り、仏像を彫刻した。本堂岩屋より造り続けて、欄千雲を帯び、錦帳日をいる。

ここには大師が岩屋を掘って仏像を彫刻し、本堂はその岩屋に続いていたと伝えらていたことがうかがえます。この記事は延宝5年(1677)の「玉藻集」(『香川叢書』第二 所収)の記事を引用したようのなので、延宝五年以前には岩壁の磨崖仏が弘法大師作で貴重なものであるという認識があったようです。それが次第に忘れられ、手作りでつたなく見える石仏造物よりも、プロ職人の作った木像仏が本尊として迎えられ、同時に磨崖と本尊は壁で隔てられたというストーリーが描けそうです。
磨崖の尊像たちは、どのように安置され礼拝されていたのでしょうか。
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「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」(弥谷寺大師堂)

その疑問に答える鍵を、研究者は現在の大師堂の獅子の岩屋内の「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」に求めます。この2枚の扉は、岩屋の向かって右側に立てかけられた形で安置されています。

この扉には慶長9(1609)年に作られた高さ120~130㎝の扉の残欠です。
「讃州三野郡剣五山弥谷寺故事謂」『新編香川叢書 史料編一』所載 「明和故事諄」と略記)には、次のように記されています。
一、大悲心院 一宇 享保十二年未年、幹事宥雄法印
本尊 千手観音  弘法大師御作
脇士鉄扉 右 不動明王
銘云、鋳師河内国(略)
同 鉄扉 左 毘沙門天王
銘云、奉寄進(略)

ここからは次のようなことが分かります。
①大悲心院(本堂)の本尊が千手観音で弘法大師作であったこと。
②右の鉄扉に不動明王
③左の鉄扉に毘沙門天王
つまり、「不動明王・毘沙門天王浮彫鉄扉」は、もともとは大悲心院(本堂)にあったのです。それでは、鉄扉はどのように使用されていたのでしょうか。研究者が注目するのは42図の四角穴Eです。Eは、屋根がC群にあった時期には、本堂のちょうど中央にあった穴になります。Eには、扉の軸摺穴が残っていることを研究者は指摘します。鉄扉がここに填まっていたとすれば、Eに本尊千手観音が安置されていたことになります。この位置は屋根の痕跡COの位置とほぼ揃います。慶長の頃には、Eに本尊を祀り、その前に本堂の建物が取り付いて、不動明王・毘沙門天王が浮彫にされた鉄扉を開けると本尊の千手菩薩を拝むことができたことになります。
正徳四年(1714)の「弥谷寺由来書上」(寺蔵文書1-17-8)には、次のように記されています。
一、当山本尊千手観音堂、炎焼以後者壱丈二五間之片廂仮屋二鎮守権現・千手観音、不動・毘沙門 ハ左右之鉄扉脇士ノ尊像也、弥陀・釈迦・地蔵菩薩一所二安置セリ、然に延宝年中二仮堂大破に及たり、建立之願を発し、遠近の門戸を控、微少の施財を集、三間四面之観音堂建立功畢、参拾餘に及て大地震二、大石堂二落懸り、堂已二大破せり、依之再建造営ノ願、止事なしといへとも、前之堂所ハ、不安穏の地なれは、後代無愁之所を択定、往昔中尊院屋敷江引越、奥行四間、表五間に造営建立、其功令成就畢、
意訳変換しておくと
弥谷寺の本尊千手観音堂は、(天正年中の)戦禍で焼失以後は壱丈二五間之片廂仮屋で、そこに鎮守権現・千手観音を安置し、不動・毘沙門天は左右の鉄扉の脇士尊像であった。つまり、弥陀・釈迦・地蔵菩薩を仮堂の一ケ所に安置していた。ところが延宝年中(1673年~81年)に仮堂も大破してしまった。そこで、再建願いを藩に出たが、大規模な寄進活動は行わず、限られた募金活動で、わずかばかりの施財を集め、三間四面の規模で観音堂(本堂)を再建することにとどめた。 ところがこれも30年ばかり後に大地震に見舞われ、磨崖の上から大石が本堂に落ちてきて、本堂は大破してしまった。再建造営願を藩に提出し、再建に向けて動き出した。その際に、今までの本堂が建っていた所は、再び落石の危険があるので、後代に愁いの無いところへ移して再建されることになった。奥行四間、表五間の規模で造営建立された。其功令成就畢、

ここからは次のようなことが分かります。
①戦国末期の天正年中の兵火で本堂も焼失
②その後は片庇の仮堂を建てて、本尊やその他の尊像を安置していた
③ところがこの仮堂も、延宝年中に大破した。
④そこで、限られた寄進活動で三間四面の小規模な規模で観音堂(本堂)を再建した
⑤ところが約30年後に地震で大石が落ちてきて、これも大破
⑥そこで安全なところに場所を移して奥行四間、表五間の規模で再建された。

これ以外にも「剣五山弥谷日記」(弘化三年 寺蔵文書2-20-1)には、享保五年の本堂火災等の記事もあることは先ほど見たとおりです。
岩壁崩壊後に場所を移動して建てられた本堂が屋根跡C→Bを示すのかも知れません。しかし、どの程度移動したのかはよく分かりません

以上をまとめておくと
①弥谷寺本堂裏の磨崖には、尊像を安置した四角穴が4つほど穿たれている。
②ここには弘法大師作とされる尊像が安置されていた。
③そのためこの尊像が安置された四角穴を覆うように、屋根が被せられそれが本堂とされてきた。
④その本堂は現在のものよりも小型で、現在の位置よりも西へ2mほどよった所に建てられていた。
⑤それが江戸時代中期になると本堂は焼失や落石などで大破し、再建されることが続いた。
⑥その結果、江戸時代後半には参拝客の増加とともに本堂も大型化し、瓦葺きとなっていった。
⑦本尊も弘法大師作という石仏からプロ職人の木像仏へと代わり、磨崖仏との間に壁がつくられるようになった。
⑧磨崖物の本尊千手観音を守っていた脇士の不動明王と毘沙門天の鉄扉像は役割を終えて、現在は太子堂内の獅子の岩屋に収められている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  山岸 常人 弥谷寺の建築の特質     弥谷寺調査報告書263P  香川県教育委員会

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弥谷寺本堂

四国霊場のお寺は、もともとは山林寺院だった所が多く、本堂の奧に奥の院や大師堂があるのが普通です。ところが弥谷寺は、本堂が一番上にあります。獅子の岩屋があるのが「大師堂」です。ちなみに大師堂と呼ばれるようになったのは、この寺が江戸時代に善通寺の末寺となってからのことです。この寺に弘法大師信仰がはいってくるのは近世以後だったことがうかがえます。これについては、また別の機会にふれるとして、先を急ぎます。
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阿弥陀三尊磨崖物

 本堂が一番上にあるのは、ここが一番大切な所であったからでしょう。それは何かと云えば、本堂下の磨崖に彫られた阿弥陀三尊像だと私は思っています。鎌倉時代に弥谷山を拠点とした高野聖や念仏聖たちが信仰したのは阿弥陀さまです。それが彼らの修行場であり、聖なる磨崖に彫られて本尊として信仰されるようになります。後に本尊は観音さまに交代しますが、弥谷寺のスタートは阿弥陀信仰です。そして、この上に本堂は建立されることになります。

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弥谷寺本堂軒下の磨崖に置かれた石仏

 弥谷寺本堂は伽藍の最上段に岩盤を削って建てられています。
その西側面と背面には岩盤が垂直に迫ってきて、背面には人が彫った窪みや磨崖五輪塔がいくつも穿たれています。本堂はこの岩盤に接するように建てられ、背面切り妻屋根はそのまま岩盤に繋がれています。
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弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔
 この本堂を最初に見たときに思ったのは、断崖に囲まれた岩窟寺院という印象でした。まわりの断崖の中に、すっぽりと本堂が入り込んでいるような感じです。その後、中国の敦煌や竜門などの石窟寺院を見て、改めてこの本堂を見ると腑に落ちないことがいくつかでてきました。それは、弥谷寺でも磨崖に仏像が彫られ、それが本尊として信仰対象となっていたはずです。それなのに、今の本堂は断崖との間に壁があるのです。
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仏が彫られた磨崖側の本堂の壁(弥谷寺)
これでは、本尊を拝むことは出来ません。私の仮説は、次のようなものです。
①もともとは本堂と磨崖の間には壁はなく、本堂内部から磨崖仏が礼拝できていたい
②それが、いつの時代かに磨崖物は信仰の対象ではなくなり、磨崖との間に壁のある本堂が建てらた。
しかし、素人の悲しさで、これ以上のことは分かりませんでした。どうして壁が作られたのか、また、それがいつ頃のことなのか疑問のままでした。それに答えてくれたのが、「山岸 常人 弥谷寺の建築の特質  弥谷寺調査報告書263P」です。今回は、これをテキストに弥谷寺本堂の謎に迫っていきたいとおもいます。

まず、研究者が押さえるのが弥谷寺が描かれた次の絵画史料です。
①「四国編礼霊場記」 (元禄2(1689)年
②「剣五山弥谷寺一山之図」 (宝暦十(1760)年
③「四国遍礼名所図会」 (寛政十二(1800)年
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年、
⑤「金毘羅参詣名所図会」 (弘化4(1847年 )

これらの絵図で弥谷寺本堂を見ていきましょう。
弥谷寺 四国編礼霊場記
 ①「四国編礼霊場記」では、「観音堂」とあるのが本堂です。
先ほど述べたように伽藍の中で一番高い所にあり、その周辺には、多くの磨崖物や五輪塔が描かれています。本堂(観音堂)は平入の仏堂のように描かれていて、岩壁に接しているようには見えません。現在の本堂は、正面入母屋造、妻入の建物ですが、背面は切妻造になっていて、背面側は土壁で開じられています。背面と向かって左側面に岩壁があり、それらに接するように本堂が立っています。
「四国編礼霊場記」は写実性に乏しいとされるので、すぐに17世紀の本堂の建築形式が今とは違っていたと判断することはできないと研究者は考えています。本堂の右側に描かれているの阿弥陀三尊の磨崖物です。
弥谷寺 一山之図(1760年)
②「剣五山弥谷寺一山之図」(宝暦10(1760)年です。
  本堂は、「正面入母屋造、妻入の建物」ですが、背面は切妻造ではないようです。ここからも本堂が磨崖に接しているようには見えません。本堂周辺部を見ると、山崎家の3つの五輪塔が描かれています。しかし、現在は本堂のすぐ西側にあるので位置が違うような気もします。山崎家五輪塔は、後世に現在地に移動された可能性があります。また、天霧城主の香川氏の五輪塔が100基以上もかつては西院跡にはあったとされますが、それも描かれています。香川氏と山崎氏の墓域であったことを強調しているようにも思えます。現在の大師堂は「奥の院」と標記されています。大師堂と呼ばれるようになるのは弘法大師信仰が強まる江戸後半以後のようです。
弥谷寺 四国遍礼名所図会

③「四国遍礼名所図会」(寛政十二(1800)年の本堂です。
 「正面入母屋造、妻入で、背面は切妻造」の現在の姿に近いようです。背後も磨崖に接しているように見えます。この絵図は、他の絵図と比べても最も写実的な要素が強いようなので「本堂=磨崖設置説」を裏付ける資料にはなりそうです。また、本堂前の坂道が石段化されています。この時期は、曼荼羅寺道なども整備され接待所が置かれ、大地蔵や金剛拳菩薩などの建立が進められていた時期になります。進む境内の整備状況を描いたとも考えられます。金毘羅さんでも見ましたが、境内整備が進むとそれをアピールして、さらに参拝客を増やそうとする「集客作戦」を、当時の大きな寺社は展開していました。このプロモート作戦が功を奏してか、十返舎一九の描くやじ・きたコンビも金毘羅詣でのついでに、弥谷寺にお参りしているのは、以前に紹介しました。この時期から参拝客が激増します。しかし、それは四国霊場の「集客力」ではなく、「金毘羅+善通寺+七ケ所廻り」という誘引戦略のおかげだと私は考えています。

弥谷寺 「讃岐剣御山弥谷寺全図」
④「讃岐剣御山弥谷寺全図」 (天保十五(1844)年です。
この時期は、金毘羅に歌舞伎小屋や旭社が姿を見せ始め金比羅詣客がピークに達した時期になります。それに連れて、弥谷寺参拝客が最盛期を迎える頃になります。そのためか伽藍整備も進んで本堂も天守閣のような立派な建物になっています。旧奥の院も大師堂と名前を変えて、堂々とした姿を見せています。
 本堂西側に山崎氏の五輪塔が集められて墓域を形成しています。この時期に本堂の西側に移された可能性があります。

弥谷寺 金毘羅参拝名所図会
⑤次が「金毘羅参詣名所図会」です。
この本堂や大師堂を見ると「????」です。先ほど見た④と比べて見ると3年しか建っていないのに、描かれている建物がまったくちがいます。それに「大師堂」が「奥の院」の表記に還っています。これはいったいどうしたのでしょうか。火事で全山焼失し、新たな建物となったということもなさそうです。
研究者は⑤の描く本堂や奥の院が②「剣五山弥谷寺一山之図」と、非常によく似ていることを指摘します。つまり⑤は出版に際して、現地を見ずに②を写した可能性があると研究者は考えているようです。今では考えられないようなことですが、当時は現地を訪れずに絵図が書かれることもあったようです。とすると⑤「金毘羅参詣名所図会」は、資料としては想定外となると研究者は判断します。
四国遍路関連古書

絵図はこれだけですが澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)には、次のように記されています。
 剣五山千手院、先坂口二二王門在、ココヨリ少モ高キ石面二仏像或五輪塔ヲ数不知彫付玉ヘリ、自然石に楷ヲ切付テ寺ノ庭二上ル、寺南向、持仏堂、西向二巌二指カカリタル所ヲ、広サニ回半奥へ九尺、高サ人言頭ノアタラヌ程ニイカニモ堅固二切入テ、仏壇一間奥へ四尺二是壬切火テ左右二五如来ヲ切付王ヘリ、中尊大師(弘法大師)の御木像、左右二藤新太夫夫婦ヲ石像二切王フ、北ノ床位牌壇也、又正面ノ床ノ脇二護摩木棚二段二在り、東南ノニ方ニシキ井・鴨居ヲ入テ戸ヲ立ル様ニシタリ、
 拉、寺ノ広サ庭ヨリー段上リテ鐘楼在、又一段ヒリテ、護摩堂在、是モ広サ九尺斗二間二岩ヲ切テロニ戸ヲ仕合タリ、
内二本尊不動其ノ外仏像何モ石也、夫ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル巾二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、又一段上テ本堂在、岩屋ノロニ片軒斗指ヲロシテ立タリ、片エ作トカヤ云、本尊千手観音也。其廻りノ石面二五輪ヒシト切付玉ヘリ、其近所に鎮守蔵王権現ノ社在り。
意訳変換しておくと
弥谷寺・劔五山千手院は、坂口に仁王門があり、ここから上の参道沿いの石面には仏像や五輪塔が数しれず彫付られている。自然石を切りつけた階段で寺の庭に上っていく。寺は南向していて、西向きに持仏堂がある。磨崖の壁に指が架かるところを選んでつたい登っていくと、広さニ回半奥に、九尺、天井は人の頭が当たらないほどの高さに、堅固に掘り抜いた岩屋(獅子の岩屋)がある。そこに仏壇一間奥へ四尺ほど切り開いて左右に5つの如来を彫りだしている。また、そこには中尊大師(弘法大師)の御木像と、その左右に藤新太夫夫婦(弘法大師の父母)の石像がある。北の床は位牌壇で、正面の床の脇には護摩木棚が二段ある。東南のニ方に敷居・鴨居を入れて戸が入るようにしてある。
 寺の広い庭から一段上ると鐘楼在、また一段上がると護摩堂がある。これも広さ九尺斗二間に岩を切り開いて戸をつけてある。その中には、本尊の不動の他に、何体もの仏像があるが、全て石仏である。ここから少し南の方へ行くと水向(岩から染み出す水場)がある。ここの磨崖には二寸五歩もる刷毛で書かれたキリク文字の阿字が彫付られている。文字の廻は円相で、今風の朴法骨多肉少の筆法で書かれている。
その下に岩穴があるが、ここは死骨を納めるところである。水向のキリク字が彫り込まれた脇に空海の名前もある。このあたりの磨崖には、五輪塔が無数に彫り込まれていて数えられないほどである。さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。
 さらに一段上って本堂がある。岩屋の口に「片軒斗指」で建てられている。これを「片屋根造り」と呼ぶという。本尊は千手観音である。本堂の周りの磨崖には、残らず佛像が彫りつけられている。

 ここには、17世紀中頃の弥谷寺の様子が詳しく書かれていて貴重な一級資料です。本堂は一番奥の高い所に断崖にへばりつくように「片軒斗指ヲロシテ立タリ、片ハエ作(片流れの屋根)」で建てられていると記されています。「片軒斗指」をどう解釈したらいいのか迷いますが「断崖に柱穴を開けた片軒屋根」と私は考えています。どちらにしても澄禅は、弥谷寺本堂は、片流れの屋根であったと記しています。この記事は十七世紀中期には本堂の屋根が、いまのような入母屋造妻入でなかったことを教えてくれます。片流れ屋根なら磨崖仏を本尊とする本堂には相応しいものになります。

それでは本堂が「片流れの屋根」から「入母屋造妻入」姿を変えたのはいつのことなのでしょうか?
本堂が焼失した記録は、享保5(1720)にあります。また18世紀前半のものと思われる次のような文書があります
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、・・・・」

と境内に墓所のある人たちに寄進を依頼しています。(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)。ここからは1720年に焼失した本堂が18世紀半ばまでには、新たに再建されたことが分かります。先ほど見てきた絵図が書かれた時代をもう一度見てみると、次のようになります。
澄禅の「四国遍路日記」承応二(1653)年   片流れ屋根
①「四国編礼霊場記」 元禄2(1689)年 平入の仏堂
②「剣五山弥谷寺一山之図」宝暦10(1760)年   入母屋造妻入の本堂
ここからは17世紀には、片流れの屋根であったのが、1720年の焼失後に再建されたときに、入母屋造妻入の本堂になったと考えることが出来そうです。元禄年間前後に屋根形式の変更があった可能性を押さえておきます。

しかし、これだけでは本堂が本尊とされる磨崖仏の上に被せるように屋根があったことは証明できません。それを研究者はレーザー透視で撮られた写真をもとに解明していきます。それはまた次回に・・・
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弥谷寺本堂背後の磨崖仏や五輪塔

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  山岸 常人 弥谷寺の建築の特質     弥谷寺調査報告書263P  香川県教育委員会
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弥谷寺の磨崖五輪塔 岩壁の中程に並ぶ
弥谷寺は境内の岩壁に数多くの磨崖五輪塔や磨崖仏が刻まれて独特の雰囲気を生み出しています。また、石仏、五輪塔、墓標などが境内のあちらこちらに数多く見られます。一方で弥谷寺は境内に、石切場が中世にはあったと研究者は考えています。つまり、石造物の設置場所と生産地の2つの顔を弥谷寺は持つようです。これまで中世に瀬戸内海で流通していた石造物は豊島石製と考えられてきました。それが近年になって天霧石製であることが明らかにされました。天霧石の採石場があったのが弥谷寺と研究者は考えているようです。
 弥谷寺の石造物については、いつ、何のために、だれによって造られたのかについて、系統的に説明した文章になかなか出会えませんでした。そんな中で弥谷寺石造物の時代区分について書かれた「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」に出会えました。これをテキストに弥谷寺の石造物を見ていくことにします。
 研究者は弥谷寺の石造物を次のような6期に時期区分します。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地に天霧石の五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所に石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半)外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が設置
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
今回はⅠ期の「平安時代末期~南北朝時代(12世紀後半~14世紀)」の弥谷寺の石造物を見ていきます。
この時期は磨崖仏、磨崖五輪塔が中心で、石造物はほとんど造られていません。
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本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)

磨崖仏として最初に登場するのは、本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏です。この仏は凝灰岩の壁面に陽刻され、舟形光背を背後に持ちます。今は下半身は分からないほど表面は、はがれ落ちています。

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         本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏

中央と左像は像下に蓮華坐が見られます。中央像はよく見ると肉系と二定印が見えるので、阿弥陀如来像とされます。左脇侍は観世音菩薩像、右脇侍は勢至菩薩像で、鎌倉時代末のものと研究者は考えています。
南無阿弥陀仏の六字名号
弥谷寺では阿弥陀三尊像に向って右に二枠、 左に一枠を削り、南無阿弥陀仏が陰刻されています。それは枠の上下約2.7m、横約3mの正方形に近い縁どりをし、その中に「南無阿弥陀仏」六号の名号を明確に三句づつ ならべたもので、3×3で9つあります。これが「九品の阿弥陀仏」を現すようです。

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南無阿弥陀仏の六字名号が彫られていたスペース
 今は表面の磨滅が進み今ではほとんど読み取れず、空白のスペースのように見えます。
弥谷寺 阿弥陀如来磨崖仏 1910年頃
阿弥陀如来三尊磨崖仏(弥谷寺)左右のスペースに南無阿弥陀仏がかすかに見える

約110年ほどの1910年に撮られた写真を見ると、九品の「南無阿弥陀」が阿弥陀如来の左右の空間にはあったことが分かります。仏前この空間が極楽往生を祈る神聖な場所で、この周辺に磨崖五輪塔が彫られ、その穴に骨が埋葬されていました。

弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の下に書かれた南無阿弥陀仏(金毘羅名所図会)


弥谷寺 磨崖仏分布図
弥谷寺の磨崖仏分布図
 次に古い磨崖仏があるのは、現在の大師堂にある獅子窟です。
弥谷寺 大師堂入り口
大師堂入口から見える獅子の岩屋の丸窓

獅子窟は大師堂の奥にあります。凝灰角礫岩を刳り抜いて石室が造られています。もともとは屋根はなかったのでしょう。獅子が口を開いて吠えているように見えるので、獅子窟と呼ばれていたようです。
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大師堂の中をぐるりと廻って獅子の岩屋へ
弥谷寺 獅子の岩屋2
獅子の岩屋(弥谷寺大師堂)
獅子窟の奥には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が東壁と北壁の2ヶ所の小区画内に陽刻されています。
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壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。
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一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 一番手前は弘法大師

側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。
弥谷寺 獅子の岩屋 大日如来磨崖仏
従来は大日如来とされた磨崖仏(弥谷寺)

ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、地蔵菩薩の可能性が高いと研究者は指摘します。そうだとすると阿弥陀如来と地蔵菩薩という仏像の組合せと配置は特異で、独自色があります。「九品の浄土」と同じく「阿弥陀=念仏信仰」の聖地であったことになります。
 どちらにしても獅子窟の磨崖仏は、表面の風化と 護摩焚きが行われて続けたために石室の内部は黒く煤けて、素人にはよく分かりません。風化が進んでいるので年代の判断は難しいようですが、これらの磨崖仏は、平安時代末期~鎌倉時代のものと研究者は考えているようです。ここで押さえておきたいのは、最初に弥谷寺で彫りだされた仏は、阿弥陀如来と地蔵菩薩であるということです。
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護摩堂内部 一番左に安置されているのが道範像
どうして、弥谷寺に最初に造られたのが阿弥陀如来なのでしょうか?
任治4年(1243)に讃岐国に流された高野山のエリート僧侶で念仏僧でもある道範は、宝治2年(1248)2月に「善通寺大師御誕所之草庵」で『行法肝葉抄』を著しています。その下巻奥書には「是依弥谷上人之勧進、以諸国決之‐楚忽注之」とあります。

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道範像(弥谷寺護摩堂)
ここからこの書が「弥谷上人」の「勧進」によって記されたものであることが分かります。これが「弥谷」が史料に出てくる最初のようです。「弥谷上人」とは、弥谷山周辺で活動した修者や聖のような宗教者の一人と研究者は考えます。
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阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)
 阿弥陀三尊の磨崖仏が弥谷寺に姿を現すのは鎌倉時代のことです。
元文2年(1738)の弥谷寺の智等法印による「剣御山爾谷寺略縁起」には、阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯が、「九品の浄土」と呼ばれてきたと記します。
弥谷寺 九品来迎図jpg

「九品の弥陀」(くぼんのみだ)とは、九体の阿弥陀如来のことです。この阿弥陀たちは、往生人を極楽浄土へ迎えてくれる仏たちで、最上の善行を積んだものから、極悪無道のものに至るまで、九通りに姿をかえて迎えに来てくれるという死生観です。そのため、印相を変えた9つの阿弥陀仏が必要になります。本堂東の水場のエリアも、「九品の浄土」して阿弥陀如来が彫られ、「南無阿弥陀仏」の六文字名号が9つ彫られます。ここから感じられるのは、強烈な阿弥陀=浄土信仰です。中世の弥谷寺は阿弥陀信仰の聖地だったことがうかがえます。
それを支えたのは高野聖などの念仏行者です。彼らは周辺の村々で念仏講を組織し、弥谷寺の「九品の浄土」へと信者たちを誘引します。さらにその中の富者を、高野山へと誘うのです。

 中世の弥谷寺には、いくつもの子院があったことは、前回お話ししました。

弥谷寺 八丁目大師堂
子院アト(跡)が参道沿いにいくつも記されている
天保15年(1844)の「讃岐剣御山弥谷寺全図」には跡地として、遍明院・安養院・和光院・青木院・巧徳院・龍花院が書き込まれています。それら子院のいくつかは、中世後期には修験者や念仏僧の活動拠点となっていたはずです。それが近世初頭には淘汰され、姿を消して行きます。それが、どうしてなのか今の私にはよく分かりません。
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磨崖五輪塔(弥谷寺)

承応2年(1653)に弥谷寺を訪れた澄禅は、次のように記します。
「山中石面ハーツモ不残仏像ヲ切付玉ヘリ」

山中の磨崖一面には、どこにも仏像が彫られていたことが分かります。
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磨崖に彫られたキリク文字
その30年後に、訪れた元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』(寂本)は、次のように記します。
「此あたり岩ほに阿字を彫、五輪塔、弥陀三尊等あり、見る人心目を驚かさずといふ事なし。此山惣して目の接る物、足のふむ所、皆仏像にあらずと言事なし。故に仏谷と号し、又は仏山といふなる。」
意訳しておくと
 水場の当たりの磨崖には、キリク文字や南無阿弥陀仏の六字名号が彫りつけられ、その中に五輪塔や弥陀三尊もある。これを見る人を驚かせる。この山全体が目に触れる至る所に仏像が彫られ、足の踏み場もないほど仏像の姿がある。故に「仏谷」、あるいは「仏山」と呼ばれる。

ここからは江戸時代の初めには、弥谷寺はおびただしい磨崖仏、石仏、石塔で埋め尽くされていたことが分かります。それは、中世を通じて掘り続けられた阿弥陀=浄土信仰の「成果」なのかもしれません。この磨崖・石仏群こそが弥谷信仰を担った宗教者の活動の「痕跡」だと研究者は考えているようです。
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苔むした磨崖五輪塔(弥谷寺)
次に弥谷寺の磨崖五輪塔を見てみましょう。  磨崖五輪塔は何のために作られたのでしょうか。
五輪塔は死者の慰霊のために建立されますが、磨崖五輪塔も同じ目的だったようです。 弥谷寺の五輪塔は、空、風、火、水、地がくっきりと陽刻されています。そして地輪の正面に横20 cm前後、上下約25 cm 、深さ15 cm 程の 矩形の穴が掘られています。水輪にもこのような穴があけらたものもあります。この穴は死者の爪や遺髪を紙に包んで六文銭と一緒に納めて葬られたと伝えられます。このため納骨五輪塔とも呼ばれたようです。

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弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔 奉納孔が開けられている

弥谷寺の磨崖五輪塔は、次の3ケ所の岩や磨崖に集中しています。
①仁王門から法雲橋付近の「賽の河原」
②大師堂付近
③水場から本堂付近
③については、今まで説明してきたように、「九品の浄土」とされる聖なる空間で、阿弥陀三尊が見守ってくれます。ここが五輪塔を作るには「一等地」だったと推測できます。
②については、先述したように大師堂は獅子窟があるところです。ここも弥谷寺の2番目の「聖地」(?)と私は考えています。そこに、多くの磨崖五輪塔が作られたのも納得いきます。
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レーザー撮影で浮かび上がる磨崖五輪塔(弥谷寺)
①の法雲橋付近に多いのは、どうしてなのでしょうか? 
 弥谷寺では、灌頂川は「三途の川」で、仁王門からこの川に架けられた法雲橋までの参道や川縁の全域が「賽の河原」とされてきたようです。
弥谷寺の『西院河原地蔵和讃』には、次のように謡われています。
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり 二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする 娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく (ただ明け暮れの嘆きには) (酷や可哀や不憫やと)
親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる 我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す
その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌へに いだきかかえなでさすり 哀れみたまうぞ有難き
このエリアには、六道にさまよう衆生の救済をする地蔵菩薩の石像がたくさん祀られています。賽の河原は西院河原ともいわれていて、法華経方便品には子供がたわむれに砂をあつめて仏塔をつくると、この子供は仏道を成就したことになると 説きます。そのために、このエリアにも早くからに五輪塔が掘り込まれたようです。

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潅頂川にかかる伝雲橋近くに彫られた磨崖五輪塔

 弥谷寺と同じように「死霊のおもむく山」とされたのが、伯耆大山です。
大山では、里の人々は四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積みます。これも霊をともらう積善行為です。三十三年目の弔いあげには、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから、川に流します。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。
  死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があると云われるようになります。
 大山と弥谷寺では、同じように阿弥陀如来と地蔵菩薩が主役です。「さいの河原」に石を積むように、磨崖五輪塔を造立することも積善行為で、先祖供養だったと私は考えています。
 この教えを広げたのは修験者や高野聖たちだったようです。弥谷寺は時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたともいえそうです。当寺の高野山は、一山が時宗化した状態にあったことは以前にお話ししました。慰霊のために磨崖五輪塔が作られてのは、弥谷寺の聖地ベスト3のエリアであったとしておきます。

弥谷寺 磨崖五輪塔
弥谷寺の磨崖五輪塔の変遷
 弥谷寺磨崖五輪塔の初期のものは、空輪の形からは平安時代末~鎌倉時代中期のものと想定されます。しかし、軒厚で強く反る火輪を加味すれば平安時代末まで遡らせることは難しいと研究者は考えているようです。結論として、弥谷寺の磨崖五輪塔は鎌倉時代中期のもので、三豊地域ではもっとも古いものとされます。

弥谷寺 五輪塔の変化
火輪は軒の下端部が反るものから直線的なものに変遷していく。(赤線が軒反り)

 磨崖五輪塔は、多くが作られたのは鎌倉時代中期から南北朝時代です。室町時代になるとぷっつりと作られなくなります。磨崖五輪塔の終焉がⅠ期とⅡ期を分けることになると研究者は考えています。そして、 磨崖五輪塔が作られなくなったのと入れ替わるように石造物製作が始まります。 それがⅡ期(15世紀~16世紀後半)の始まりにもなるようです。ここまで見てきて私が感じることは、「弘法大師伝説」はこの時期の弥谷寺には感じられないことです。「弥谷寺は弘法大師の学問の地」と言われますが、弘法大師伝説はここでも近世になって「阿弥陀=念仏信仰」の上に接ぎ木されたようです。
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潅頂川の賽の河原に彫られた磨崖五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておきます。
①鎌倉時代に、弥谷寺の磨崖に仏像や五輪塔が彫られるようになった。
②磨崖仏は阿弥陀仏と地蔵菩薩がほとんどで、磨崖五輪塔は納骨穴があり慰霊のためのものであった。
③その背景には、「念仏=阿弥陀=浄土」信仰を広めた高野聖たちの布教活動があった。
④高野聖は弥谷寺を拠点に、周辺郷村に念仏信仰を広め念仏講を組織し、弥谷寺に誘引した。
⑤富裕な信者たちは弥谷寺の「聖地」周辺に、争うように磨崖五輪塔を造るようになった。
⑥弥谷寺は慰霊の聖地であり、高野聖たちは富裕層を高野山へと誘引した。
⑦こうして弥谷寺と高野山との間には、いろいろなルートでの交流が行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」
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阿弥陀三尊の磨崖仏(弥谷寺本堂下)

四国霊場第71番札所の弥谷寺は、死霊が赴く「イヤダニマヰリ」の習俗が残る寺として紹介されてきました。昭和の時代に弥谷寺を紹介した記事には、どれも死霊が生者に背負われて弥谷に参る様子が描かれ、NHKの新日本紀行にも取り上げられていた記憶があります。私にとっては
「弥谷寺=死霊の集まる山=イヤダニマヰリ(詣り)」

という図式が刷り込まれていました。
 ところが最近の弥谷寺を紹介した記事には、「イヤダニマヰリ」に触れたものが殆ど見られません。これも「流行」なのかなと思っていると、どうもそうではないようです。「イヤダニマヰリ」そのものの立場が揺らいでいるようです。

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イヤダニマイリをめぐって、何が問題になっているのかを見てみることにしましょう。
テキストは「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」です。
  柳田民俗学は
「死者の霊魂は里に程近い山に籠る」
という祖霊観を掲げています。
このテーゼを証明するための数多くの民俗学的な調査が各地で行われてきました。そのような中で戦後の1950年代に、死霊の集まる山=「イヤダニマヰリ」として中央学界に紹介したのが地元、多度津町の民俗学者、武田明氏です。この研究は、柳田民俗学の死霊・祖霊観を立証する例として評価されるようになります。

Amazon.co.jp: 日本人の死霊観―四国民俗誌: 武田明: 本
  1999年刊行の『日本民俗大辞典』には「「イヤダニマヰリ」として、次のように解説されています。
「香川県西部に行なわれる、死者の霊を弥谷山に送って行く習俗。弥谷山は香川県三豊郡三野町と仲多度郡多度津町にまたがる標高382メートルの山で、300メートル付近に四国八十八ヵ所の第71番札所、剣五山弥谷寺(真言宗)がある。この山は香川県西部、ことに三豊郡・仲多度郡・丸亀市およびそれに属する島嶼部一帯で死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環として弥谷参りが行なわれた。
 特に近年まで盛んだったのは荘内半島(三豊郡詫間町)である。同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃い者が偶数でまずサンマイ(埋め墓)へ行き、『弥谷へ参るぞ』と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰る。この間に喪家でヒッコロガシと呼ぶ竹製四つ足の棚を墓前につくり、弥谷参りから帰って来た者が鎌を逆手にもってこれを倒すという詫間町生里などの集落もある。
 山中を死者の行く他界と考え、登山し死者供養を行う例は各地にあるが、死亡後まもない時期に死霊を山まで送る儀礼を実修するところに、この習俗の特色がある。近年は弥谷寺で拝んでもらい、再び死者を負うてサンマイに連れ帰るとするところも多く、弥谷寺ではなく近くの菩提寺ですます習俗も広まっている。なお、イヤダニやイヤを冠した地名(イヤガタニ、イヤノタニ、イヤンダニ、イヤガタキ、イヤヤマなど)は古い葬地と考えられ、弥谷山にもその痕跡がみられる。」
弥谷寺が祖霊参りの山として定着したかのような中で、「異議あり」と名乗りを上げる研究者が出てきます。
日本民俗学 第233号 Bulletin of the Folklore Society of Japan NIHON ...

2003年『日本民俗学』誌上に発表された森正人の研究ノートです。
森氏は、「イヤダニマイリ」の習俗がこれだけきちんと分かるのなら、どうして今までの研究書は触れてこなかったのかという疑問から始めます。確かに戦前の『香川縣史第二版』(1909年)や中山城山の『國諄 全讃史』(1937年)、また弥谷寺の地元、三豊郡大見村の『大見村史』(1917年)には、「イヤダニマイリ」の記述は何も載せられていません。
 その理由を、それまでは地元ではなかったものを「死霊の集まる山」にアレンジして発表したからだと、次のように指摘します。

「この習俗は香川県の民俗学者である武田明が発見し、民俗学界にその存在を発表したから」

 そして、武田氏の民俗学者としての成立過程、研究史、調査記録、中央学界との関わりと地方学会(香川民俗学会)における権威化、関係者の証言、さらに現地調査まで含めて詳細に検討していきます。その結果として、弥谷に参る習俗の存在は認めるものの「イヤダニマイリ」という民俗概念はなかったと結論づけます。
  そして、柳田民俗学の祖霊観を実証するために、様々なデータが組み合わされた作為的な研究であると指摘します。これは弥谷参りだけでなく、他の事例も含めた民俗学全体の研究方法への批判も含んでいました。
日本村落信仰論( 赤田 光男 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の ...

このような批判の上に、新たな視点から弥谷参りに取り組んだのが赤田光男氏です。
もともと、武田氏の弥谷参りの研究は両墓制との関連が重要ポイントでした。両墓制とは、
「死体を埋葬する墓地とは別の場所に、石塔を建てる墓地を設ける墓制」

のことで、一般に前者を「埋め墓」、後者を「詣り墓」と呼び、弥谷参りがみられる荘内半島の生里、積、大浜などの集落、仁尾町、高見島、志々島、栗島といった島嶼部一帯に見られます。この地域では、埋め墓を「サンマイ」、詣り墓を「ラントウ」と呼びますが、両墓制が強く残る地域でした。
  武田説を、簡潔にまとめておくと次のようになります。
古来、この地域一帯の村々では「埋め墓」しかなく、霊魂祭祀の場が弥谷山であったのであり、その祭祀行為の残存が「弥谷参り」ではなかったか。そしてその後、弥谷山信仰が衰えていくに連れて村内に「詣り墓」が形成されていったのではないか
 
これに対して、赤田光男は
「弥谷山のすぐ下の大門、大見あたりであればこのことがいえるかもしれないが、両墓制地帯の荘内半島や粟島、志々島のような離れた所が、古くから弥谷山を唯一の霊魂祭祀場としていたか疑問が多い」

としてます。そして、荘内半島の箱集落(約225戸)について平成3年(1991)に両墓制と弥谷参りを中心にした全戸調査を行います。その結果、次のような事を明らかにします。
①初七日に死霊を弥谷山に連れて行くことを「オヤママイリ」、永代経の時(旧2月13から15日)に弥谷山に行くことを「イヤダニマイリ」と呼んで区別していること、
②オヤママイリ(弥谷参り)については、詣り墓が設けられている村内の菩提寺(香蔵寺)の勧めもあって昭和25,6年(1950,1)頃、廃止され、その後は香蔵寺がオヤママイリの対象となった
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の九品浄土に彫られた南無阿弥陀仏

 一方で、武田説には欠けていた弥谷寺の歴史的研究も進めます。そして境内の祭祀場や宗教遺跡の検討も進め、中世以来弥谷寺を崇敬し保護してきた戦国時代の領主、香川氏や生駒氏、その後の山崎氏との関わりも考察していきます。
結局、荘内半島・箱集落の霊魂祭祀の場の変遷は、
①原始古代においては紫雲出山ないし家の盆正月に臨時に作られる霊棚
②中世においては、浦島太郎の墓伝説をともなう惣供養碑的残欠五輪塔、さらに香蔵寺、弥谷山
③近世においてはラントウ内の家型石厨子や詣墓石碑
④明治以降においてはサンマイのオガミバカ(拝墓)
の4段階を経ていることを明らかにします。
 この赤田説では、弥谷山は「中世」に霊魂祭祀の場として登場してきたことになります。その背景を次のように指摘します。

「香川氏は天霧山に貞治元年(1362)頃に城を築き、またこの頃に弥谷寺の檀越となり、山内に一族の墓地を作って菩提寺とし、弥谷山信仰を高め、そのことが庶民のイヤダニマイリを拡大、助長したと推定される」

ここには南北朝時代以後に讃岐守護代として天霧城を拠点に勢力を野伸ばした香川氏と関係を持ち、その菩提寺となることによって弥谷寺は寺勢を伸ばしたと、在地勢力との関係を重視します。
以上から赤田説をまとめると
①弥谷参りと両墓制は、分離して取り扱うべきである
②弥谷参りという習俗の背後に、天霧領主・香川氏の影響力があった
つまり、武田氏の示したように弥谷寺詣りは古代からの祖先神祀りに、仏教が後からやって来て組織化されたものではなく、弥谷寺が中世に作り出したものであるとします。
ここまで来ると、次の射程に入ってくるのが「死霊、さらにそれが浄化された祖霊は、里近くの山に籠る」という柳田民俗学の命題そのものです。このテーゼは、柳田國男が戦後直後(1946年)に「先祖の話」で定式化したものです。
柳田國男著「新訂 先祖の話」

これに対して歴史学者の中には
「定式ではなく、仮説として捉えなおし、再考すべきだ」

という考えも出てきているようです。
 例えば、赤田氏は次のように述べています。
「身体から離脱した霊魂が、身体が朽ちてもなおどこかに住み続け、時々わが家を訪れて子孫の生活を守護するという考えがまさに祖霊信仰の根幹をなすものであり、そうした宗教意識がいつ頃発生したのか明確な答えは今のところない。」

控えめな指摘ですが、ここには柳田民俗学の祖霊信仰が古代に遡るという命題への疑義がうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

佐藤弘夫は、この問題に正面から答えようとして、次のように指摘します
「柳田國男が論じ、多くの研究者が祖述してきた山に宿る祖霊のイメージは、けっして古代以来の日本の伝統的な観念ではない。人々が絶対者による救済を確信できなくなり、死者が他界に旅立たなくなった近世以降(17世紀~)に、初めて形成される思想だった」

 山に祖霊が宿るというのは古代以来のものではないと、柳田民俗学への疑義をはっきと打ち出した上で、それが近世以降の歴史的なものであると主張します。
 佐藤氏の到達した地点からは、次の新たな課題が見えてきます。
弥谷寺の祖霊信仰が古代まで遡るものでないとすれば、それでは中世の弥谷信仰とは何であったのかという疑問です。
この疑問に応えようと現在の研究者は、調査研究を続けているようです。
今後の弥谷寺研究の課題の方向性を探ると次のようになるようです。
①中世に祖霊信仰を広げた宗教勢力とはなんであったのか。
②その宗教者たちと弥谷寺の関係は、どうであったのか
③どのような過程を経て、祖霊信仰の霊山から真言密教の霊場へと弥谷寺は変身をとげたのか
 ここには、武田氏によって戦後華々しく打ち出された古代以来の祖霊信仰の霊山としての弥谷さんの姿はないようです。ひとつの仮説が
研究によって批判・検証され克服されていく姿がここにはあります。
それが歴史学の発展につながるようです。

参考文献テキスト
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
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弥谷寺2
弥谷寺仁王門
四国霊場第71番札所・弥谷寺は八十八ケ所霊場の中でも、霊山らしい雰囲気がするお寺です。ここには大師が修行したと伝えられる窟があり、岩壁には阿弥陀三尊像をはじめとして南無阿弥陀仏の六字名号、五輪塔、梵字などが数多く刻まれています。
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阿弥陀三尊(弥谷寺本堂下の磨崖仏)
さらに近世初頭には異端の弘法大師伝を流布するなど、善通寺とは別系統の僧侶集団がいたことがうかがえます。その僧侶集団は、以前お話しした宇多津の郷照寺と同じ、高野山の時衆念仏系の高野聖たちであったようです。
弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の磨崖仏の下には「南無阿弥陀仏」の六文名号
彼らの弥谷寺での活動ぶりを追ってみることにしましょう。
テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 ―室町時代後期から江戸時代初期の展開―弥谷寺調査報告書」所収です。

弥谷寺の古代の仏たちが語るものは
弥谷寺の寺名が史料で確認されるのは鎌倉時代に入ってからですが、仏像の中には、それよりも古いものがいくつかあります。
まず木造吉祥天立像
弥谷寺 吉祥天立像
(像高59.1センチメートル)はヒノキ材による一本造りで、10世紀末期ころとされ最古のものです。
 『大見村史』掲載の地蔵菩薩立像(2)(像高不明)も10世紀後半頃まで遡る古像ですが、造立当初から弥谷寺にあったかどうかは分かりません。仏像は移動するものなのです。寺勢の強い寺には、自然に仏像の方から集まってくることは以前お話ししました。
次に古いのが鎮守とされている11世紀前半頃の深沙大将椅像です。

弥谷寺 深沙大将椅像
深沙大将椅像
像高138.5㎝のほぼ等身の像で、全国的にも珍しい像容の深沙大将像として注目されます。しかし、この像は、どうした訳か近代になるまで蔵王権現として伝えられてきたようです。蔵王権現は、弥谷寺の縁起に登場し深く関わる権現さんです。山岳信仰の拠点として、蔵王権現を祀るのは当然のことだったのでしょう。吉野山や石鎚山に関わりのある後世の山岳修験者の関与があったとしておきましょう。

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)

 なお深沙大将像の信仰は、水と関わり祀られることが多いようです。おそらく弥谷寺鎮守とともに三野平野を潤す水源を守る意味をも兼ねそなえていたのかもしれません。弥谷寺の下流の大見地区は、西遷御家人として甲斐からやってきた秋山氏の所領として、中世に開発が進んだ所です。秋山氏はこの弥谷寺を見上げながらも、自らは法華信仰に基づいて本門寺を開いて行ったことになります。
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

これらの古代の仏像たちから、弥谷寺の創建は平安時代中期、10世紀後半頃と考えられ、その後、古代寺院として整備されるのが11世紀に入ってからのようです。ただ当初の本尊千手観音が現存しないことや建物の遺構などが明確でないことから、これ以上のことは分かりません。しかし、本尊が千手観音であったことや讃岐という地域性を考慮すれば、真言系の密教寺院として創建されたことは間違いないようです。注意したいのは、創建に善通寺勢力の関わりは見られないという点です。

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磨崖に彫られたキリク文字(弥谷寺本堂下)

次に文献史料から弥谷寺を見てみましょう。
南海流浪記- Google Books
南海流浪記
鎌倉時代前期、仁治4年(1243)高野山のエリート僧であった道範が、内部抗争で罪を問われ讃岐に流されてきます。彼は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えたことが考えられます。例えば善通寺に近い三豊市高瀬町麻地区の法蓮寺の本尊阿弥陀三尊立像は、宝治2年(1248)に造立されています。状況から見て、道範の影響があったと考えられているようです。

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弥谷寺磨崖に彫られた石仏や五輪塔(レーザー撮影)
 弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄』に「弥谷上人」とあるものの詳しいことは分かりません。本堂下の磨崖阿弥陀三尊像が鎌倉時代の制作とするなら、これも道範の影響かもしれません。どちらにしても弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。

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弥谷寺本堂下の磨崖

 時衆と阿弥陀信仰、南無阿弥陀仏は関連性が強いこと、それを担ったのが高野山の時衆系高野聖たちであったことを以前にお話ししました。
時衆思想の痕跡が弥谷寺に、どのような形で残されているのでしょうか。
まず(1)六字名号(南無阿弥陀仏)です。

弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体

弥谷寺本堂の周辺は凝灰岩がむき出して、大きな壁面がいたるところにあります。ここに阿弥陀三尊仏像が半肉彫りされ、その周辺に「南無阿弥陀仏」の六字の名号が彫られていたようです。しかし、柔らかい凝灰岩のため風蝕が激しく、その多くが読み取れなくなっています。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
⑩が九品浄土で釈迦三尊の下に南無阿弥陀仏が9つ彫られていた

研究者は、ここに刻まれた六字名号を、さらに深く見ていきます。
まず、その書体ですが弥谷寺の六字名号と同じような書体が、徳島県の名号板碑にも見られるようです。板野郡辻見堂の名号板碑(正和4年 1315)は、蓮台の上に南無阿弥陀仏の名号が楷書体で力強く刻まれています。名号板碑には名号、阿弥陀仏号、一仏房号を刻んだものが多いようですが、この種のものは時衆に関わるもので時衆系板碑と呼ばれるようです。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏

 また絵画では滋賀・高宮寺の他阿上人真教像の傍らには同様の書体の名号が書かれています。ここからこれらの書体は「時衆二祖真教様」と称され、時衆の二祖真教上人が始めたものとされています。弥谷寺のものも、時衆の六字名号の書体と研究者は考えているようです。
 以上から弥谷寺の六字名号は、時衆に関わる人物の手になるとみて間違いないようです。香川県内にはこの種の遺品は、わずかに出釈迦山捨身ケ嶽と屋島寺参道に自然石の「時宗二祖真教様」の六字名号がだけが残されているようです。

続いて、時衆の二河白道思想と弥谷寺の関係です。                         
明和6年(1769)の『多度津公御領分寺社縁起』の「讃州三野郡。剣五山弥谷寺故事譚」には、次のような記事があります。
一-、御願堂之事
東ノ御堂 亦云東院  本尊撥遣釈迦  行基作
多宝塔  名中尊院  本尊盧舎那仏  同作
西ノ御堂 又云西院  本尊引阿弥陀  同作
(中略)
此地に就て弥陀・釈迦二仏の尊像を造して、撥遣引接の教主として東西の峯におゐて、各七間の梵宇構へて二仏を安置し、蓮華山八国寺と号して、一夏の間、菩薩愛に安居し玉ふ、(以下略)
山内現在之堂社仏像等の事
一、大悲心院 一宇 享保十二未年、幹事宥雄法印
ここからは、かつての弥谷寺には東の峰に釈迦如来、西の峰に阿弥陀如来が安置され、二尊合わせて「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」と考えられていたことが分かります。そして、その仏像が戦国時代の争乱から逃れて本堂に安置されていたと読み取れます。
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弥谷寺本堂からの東の峰
残念ながら、この釈迦と阿弥陀の二尊は今はありませんが、江戸時代中期頃まではあったことが分かります。この「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」については、中国・吾時代の善導大師の『観経四帖疏』「散善義」(『大正蔵』37巻。272頁)に次のように説かれているようです。

弥谷寺 時衆二河白道図
 旅人(往生者)が西に向かって百千里の旅をすると、まもなく水火の二河に至る。水の河は衆生の憎しみに、火の河は衆生貪愛に喩えられます。やがて幅四、五寸の細い白道があるが、道には水火が押し寄せ、そして後ろからは群賊悪獣が追いかけてくる。旅人はためらうが、東岸に釈迦、西岸に阿弥陀がおり、白道を渡るようにとの励ます声がある。旅人はその声を信じ白道をわたり往生できた。」

これを法然上人が『選択本願念仏集』(『大正蔵』83巻・11頁)で引用したことから、浄土宗では特に重視されるようになります。これを絵画化したものが、いわゆる「二河白道図」です。
 これが、やがて一遍上人の目に留まります。文永8年(1271)春、信濃の善光寺に参詣した際に二河白道図に出会い、以後はこれを本尊として、日々を送ったと伝えられます。
 『遍上人語録』は次のように説きます。

「水と火の二河は我々の心である。二つの河に犯されることがないのは名号である。白道は南無阿弥陀仏のことである。」

一遍上人は、伊予窪寺で二河白道図を掲げ、三年間の念仏を行い「十一不二掲」を感得します。ここからも分かる通り、この教えは時衆の根幹をなすもので、その後の時衆に大きな影響をあたえるようになります。そして
「現世における撥遣釈迦、来世における来迎阿弥陀」

の思想は、時衆の中で重要な教えになります。
弥谷寺の伽藍の中で、釈迦と阿弥陀の置かれている位置は、まさに二河白道図を現実化したものといえます。その上に、先ほど見た六字名号と重ねると、弥谷寺は時衆思想に基づいて伽藍が作られていたと研究者は考えています。

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潅頂川にかかる橋

 現在の境内で、灌頂川と称されている細い川が「水火の河」で、その東方の山に現世としての釈迦、そして現在の本堂や阿弥陀三尊がある西方が極楽浄土と見立てていたと研究者は考えているようです。
 この思想がいつ頃、弥谷寺に伝わったのかは、『多度津公御領分寺社縁起』の記事から、戦国時代以前であることは間違いないようです。もう少し絞り込むと、六字名号などから推察して室町時代前期以降と研究者は考えているようです。室町時代の弥谷寺は、時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたようです。

時衆の影響を伝える船石名号 
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
④が南無阿弥陀仏が彫られた舟形名号                       
弥谷寺境内には鎌倉時代から現在に至るまで塔や墓石などが数多く造られて、境内全体が仏の世界を表しています。その中で、仁王門の近くに建立されている高さ約2mの凝灰岩製の船形の石造物に研究者は注目します。
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仁王門の上の「船墓(舟石名号)」
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舟形名号
私が見ると表面は剥落して、原型も分からない石に見えます。レーザー撮影された写真が次のものです。
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             舟形名号
確かに五輪塔が浮かび上がっています。形式からみて、室町時代頃と研究者は考えています。 この石造物については寛成12(1800)年の『四国遍礼名所図会』には、次のように記されています。
船石名号 長一丈斗の石にあり。六字名号ほり(彫)給う」

さらに江戸時代後の「剣五山弥谷寺一山之図」の刷物には二王門の近くに「船ハカ」(墓)とあり、船形の表面には「南無阿弥陀仏」と記されていることが確認できます。以上から研究者はこの石造物を、舟形の名号石と判断します。つまり「船ハカ」(墓)の表面には五輪塔の右側に「南無阿弥陀仏」の六名名号が彫られていたようです。
 「船石名号」という呼び方は耳慣れない言葉ですが、これについては説経『苅萱』「高野巻」につぎのような記事があります。空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のことです。

社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内よりも六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、舟の船杜に彫り付け給ふによって、船板の名号と申なり。

とあり、留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。県下の天福寺には版本船板名号が残されています。

弥谷寺 板本船板名号

大きな蓮台の上に、やはり「時衆二祖真教様」の六字名号が船形光背とともにみられ、「空海」と御手判があり、その上下にキリークとアの梵字と掲があります。これらの遺品は、空海筆銘六字名号として、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。
以上から、弥谷寺の船石名号の石造物は、「高野巻」に記される船板名号を石造に代えて建立した物のようです。
今は、六字名号は見えなくなっていますが、書体は本堂横の壁面と同様に「時衆二祖真教様」であったのでしょう。そしてかすかに見える五輪塔は真言(密教)と念仏の混淆を表し、そこには弘法大師信仰がうかがえます。これも時衆思想がこの寺に大きな影響を与えていた痕跡のひとつのようです。
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弥谷寺本堂横の磨崖に彫られた五輪塔
 弘法大師信仰と阿弥陀信仰の念仏を一体化させたのは、どんな僧侶たちだったのでしょうか? 

弥谷寺 高野聖

『説経苅萱』「高野巻」については、時衆系の高野聖が関わったことが分かってきているようです。弥谷寺の船石名号も時衆系高野聖の活動の痕跡と考えられるようです。
  次の3つは、出現時期が室町時代末期に重なり合います。
①弥谷寺の船石名号
②愛媛県・観自在寺の船板名号の版木
③「高野巻」
ここからは、研究者は次のように考えています。

この頃に弘法大師空海作の船板名号が時衆系高野聖の手によって創作されたこと、さらに、それが弥谷寺の石造船石名号に「発展」した。

ここにも時衆の影響が濃厚に見られます。そして、弘法大師信仰と念仏信仰の両方を持った存在として、時衆系高野聖が浮かび上がってきます。室町時代の弥谷寺には、時衆系高野聖がいて、高野山との直接的な関係があったことが推察されます。
弥谷寺 高野聖2
一遍と弟子たち
それではいつ頃、弥谷寺に時衆思想が伝わってきたのでしょうか
 阿波の板碑が正和4年(1315)頃に作られているので、14世紀前半には阿波には時衆思想が及んでいるようです。また高野山奥院の康永3年(1344)の名号板碑は阿波から運ばれたと考えられています。それを行ったのは高野聖だとされていて、四国と高野山との間には時衆思想の交流があったことが分かります。

また、弥谷寺のある天霧山周辺から採掘された石材(天霧石)を用いて鎌倉時代末期の石造層塔(35)が高野山に建立されています。これは、讃岐(弥谷寺)と高野山との人とモノの直接的交流があったことを示します。
紀伊天野社多宝塔
高野四社明神図
 逆に、弥谷寺には室町時代初期の絹本著色高野四社明神図が伝来されています。高野四社明神とは高野山の鎮守四神(高野・丹生・気比・厳島)で、高野山独自のものであり弥谷寺には関係のないものです。この図が何時、誰によって持ち寄られたのかは分かりません。しかし、状況証拠はこの明神図をもたらしたのも高野聖であることを示しているようです。物の動きからは、高野山と弥谷寺が深く結ばれていたことがうかがえます。
 古くから高野聖は、高野山に納骨を信者に勧めました。

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弥谷寺水場近くのキリク文字
 澄禅の『四国辺路日記』には弥谷寺について次のように記されています。
「其下二岩穴在、爰に死骨ヲ納ル也。水向ノ舟ハ中ニキリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」

 ここからは近世以前から納骨の風習があったことが分かります。ここには「キリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」と阿弥陀如来と空海が結びつけられています。つまり念仏信仰と弘法大師信仰が結合されているのです。これも、時衆系高野聖の「流儀」です。


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本堂横磨崖の五輪塔 穴は納骨場所でもあった
 弥谷寺の磨崖五輪塔については、三輪塔の地輪や水輪部に方形の穴を穿つて、死骨を納めたことが澄禅の記事に出てきます。
これがいつの時代に始まるのかは、高野の聖たちが弥谷寺を拠点に活動を始めたのがいつなのか、とリンクすることのようです。
以上から弥谷寺における納骨の風習も、高野山の時衆系高野聖がもたらしたのではないかと研究者は考えているようです。以上をまとめておきます。

弥谷寺の阿弥陀浄土への道
①平安時代中期に真言密教の寺院として弥谷寺が創建された。
②その後、南北朝時代頃に高野山との直接的な交流が行われるようになった
③当時の高野山は時衆念仏聖に占領され、弥谷寺も善通寺の「別所」として念仏聖の拠点となった
④室町時代になり時衆系高野聖によって、弘法大師信仰と念仏信仰が持ち込まれ、浄土教的寺院(念仏信仰)へと変貌した。
⑤時衆の二河白道思想などから「弥谷=死霊が集まる霊地」としての信仰が形成されていく
⑥念仏聖(行人達)は「寄人」として村々の堂や庵を拠点に、宗教的活動を展開し「弥谷=阿弥陀浄土」観を拡げた。
⑤このような念仏聖の活動が、周辺住民を「弥谷参り」へと向かわせる原動力となった。
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。    2024年11月20日改訂版
 参考文献 
武田和昭  弥谷寺と四国辺路  弥谷寺調査報告書

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