15・16世紀には、瀬戸内海に多くの石造物を供給していた弥谷寺石工たちは、17世紀になると急速に衰退していきます。その背景には、軟らかい凝灰岩から硬い花崗岩への石材変化があったことを以前にお話ししました。もうひとつの原因は、ライバルとしての豊島の石工集団の成長があったようです。今回は、豊島石工たちがどのように成長し、弥谷寺石工達から市場を奪っていったのかを見ていくことにします。テキストは「松田朝由 豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討 香川県立埋文センター研究紀要2002年」です。
前回は「日本山海名産名物図会」(1799年刊行)に紹介されている豊島の石切場と石造物について見ました。豊島石製品として「水筒(⑤⑧⑨)、水走(⑥)、火炉、へっつい(小型かまど④)などの類」とありました。さまざまな石造物が制作されているのですが、燈籠や五輪塔については触れられていませんし、挿絵にも燈籠③が一基描かれているだけでした。この図会が出版された18世紀末になると、豊島でも五輪塔の生産は、終わっていたようです。
豊島石の五輪塔は近世(江戸時代)になると、形を大きく変化させ独特の形状になります。これを豊島型五輪塔と呼んでいます。豊島型五輪塔は香川県、岡山県の広域に流通するようになり、それまでの天霧石の石造物から市場を奪っていきます。
豊島石の五輪塔は近世(江戸時代)になると、形を大きく変化させ独特の形状になります。これを豊島型五輪塔と呼んでいます。豊島型五輪塔は香川県、岡山県の広域に流通するようになり、それまでの天霧石の石造物から市場を奪っていきます。
豊島型五輪塔
豊島型五輪塔の特徴を、研究者は次のように指摘します。
①備讃瀬戸を跨いで香川、岡山の両県に分布する②中世五輪塔と比較すると、他よりも大型である③宝医印塔の馬耳状突起に似た突起をもつ特異な火輪が特徴である②風輪と空輪が別石で構成される④少数ではあるが正面に方形状の孔を穿った地輪がある、⑤地輪の下に台石をおく⑥塔内部が彫られて空洞になっている
Ⅰ期 豊島型五輪塔の最盛期Ⅱ期 花崗岩の墓標や五輪塔、宝筐印塔の普及により衰退時期へⅢ要 かろうじて島外への搬出が認められるものの減少・衰退過程Ⅳ期 造立は島内にほぼ限定され、形態的独自性も喪失した、
それではⅠ期の「豊島の五輪塔の最盛期」とは、いつ頃なのでしょうか。
豊島型五輪塔が、出現した時期をまずは押さえます。造立年代が推定される豊島産の石造物は24例で、高松以東が14例、高松から西が10例になるようです。各世紀毎に見ると次の通りです。
15世紀段階では、高松以東では豊島石が2例、豊島石以外が4例で、豊島石が多いとはいえない。この時代の石材の多くは「白粉石」と呼ばれる火山の凝灰岩で、スタイルも豊島型五輪塔独特の要素はまだ見られず、その萌芽らしきものだけです。
16世紀 3例中の2例が豊島石。形態は地蔵と板碑。
17世紀初頭 生駒家当主の墓は超大型五輪塔でつくられるが、石材は豊島石ではなく、天霧石が使われている。
一方、高松から西の地域の状況は次の通りです。
一方、高松から西の地域の状況は次の通りです。
15世紀 豊島石石造物は見つかっていない。16世紀 6例あるも、豊島石ではなく在地の凝灰岩。17世紀初頭 在地の凝灰岩使用
次に豊島石の搬出開始時期について見ていくことにします。
香川県内において年号の確認できる初期の豊島石石造物は次の通りです。
①高松市神内家墓地の文正元年(1466)銘の五輪塔②長尾町極楽寺円喩の五輪塔(1497年)②豊島の家浦八幡神社鳥居(1474年)銘
これらは五輪塔に軒反りが見られないので、15世紀中頃の作成と研究者は推測します。ここからは、豊島型五輪塔が作られるようになる約150年前から豊島石の搬出は、行われていたことが分かります。
高松市中山町の原荒神五輪塔群高松市香西の善光寺五輪塔群芝山五輪塔群宇佐神社五輪塔群で数基屋島寺や下田井町、木太町など
ここからはその流通エリアは高松市内に限られることがうかがえます。木田郡から東は火山石など凝灰石を用いた石造物が多く、豊島石はほとんどありません。また、高松市から西にも、豊島石はみられず、天霧石など凝灰岩がほとんどです。
かつては、豊島石は天霧石によく似ていて、その違いは「豊島石は礫の大きさが均一で、黒く、白色の礫である長石が目立つ点」です。また、「日本山海名産名物図会」に「讃岐の石材はほとんどが豊島石」と記されたために、天霧石の存在が忘れられていた時期があります。そのため白峰寺の十三重塔(西塔)も、豊島石とされてきたことがありました。しかし、その後の調査で豊島石ではなく、天霧石であることが分かっています。今では、香川県西部に豊島石石造物はないと研究者は考えています。
かつては、豊島石は天霧石によく似ていて、その違いは「豊島石は礫の大きさが均一で、黒く、白色の礫である長石が目立つ点」です。また、「日本山海名産名物図会」に「讃岐の石材はほとんどが豊島石」と記されたために、天霧石の存在が忘れられていた時期があります。そのため白峰寺の十三重塔(西塔)も、豊島石とされてきたことがありました。しかし、その後の調査で豊島石ではなく、天霧石であることが分かっています。今では、香川県西部に豊島石石造物はないと研究者は考えています。
ここでは、次のことを押さえておきます。
①中世後半段階において豊島石は高松市を中心とした局地的な分布であり、それ以外の地域への供給はなかったこと。②高松市内においても、弥谷・天霧山からの凝灰岩が多数派で、豊島石は少数派であったこと。
豊島石は高松地域のみで使用されていたようです。
天霧系・火山系石造物の分布図(中世前期に豊島石は存在しない)
次に生駒3代当主と豊島型五輪塔との関わりを見ていくことにします。
高松市役所の裏にある法泉寺は、生駒家三代目の正俊の戒名に由来するようです。
生駒一正と三代・生駒正俊の五輪塔
これは弥谷寺の五輪塔に比べると小さなもので、それぞれ戒名が墨書されています。天霧石製なので、弥谷寺の採石場から切り出されたものを加工して、三野湾から船で髙松に運ばれたのでしょう。
法泉寺生駒氏廟
この寺の釈迦像の北側の奥まった場所に小さな半間四方の堂があります。この堂が生駒廟で、生駒家二代・生駒一正(1555~1610)と三代・生駒正俊(1586~1621)の五輪塔の墓が並んで安置されいます。生駒一正と三代・生駒正俊の五輪塔
これは弥谷寺の五輪塔に比べると小さなもので、それぞれ戒名が墨書されています。天霧石製なので、弥谷寺の採石場から切り出されたものを加工して、三野湾から船で髙松に運ばれたのでしょう。
まず2代目一正の五輪塔から見ていきます。
彼はは1610年に亡くなっているので、これらの五輪塔は、それ以後に造られたことになります。
生駒家二代生駒一正(左)と三代・生駒正俊の五輪塔(右)
火輪は豊島型五輪塔の形態で、空輪、風輪もその特徴を示します。ところが空輪や水輪のスタイルは、豊島型五輪塔とはちがう要素です。同じ水輪スタイルとしては、仁尾町金光寺にある細川頼弘墓を研究者は挙げます。細川頼弘は1579年に亡くなっているので、一正の五輪塔の水輪の特徴は、16世紀の時代的な特徴とも考えられます。 このように一正の五輪塔は、全体的には豊島型五輪塔と云ってもいい属性を持っています。ところが問題は、石材が豊島石ではないのです。この石材は、天霧山麓の碑殿町の牛額寺奥の院に新しく開かれた石切場から切り出されたものであることが分かっています。これをどう考えればいいのでしょうか?
次に隣の生駒正俊(1621年没) の五輪塔を見ておきましょう。
火輪は、一正五輪塔と同じ豊島型五輪塔のスタイルです。空輪、風輪も豊島型五輪塔の属性をもちます。全体的に、一正の五輪塔よりも、より豊島型五輪塔の特徴を備えているようです。しかし、この正俊塔も石材は豊島石ではなく、碑殿町の天霧石が使われています。
このように宝泉寺生駒廟のふたつの五輪塔は、豊島型五輪塔Ⅰ期古段階に位置付けることができます。しかし、台石がないことと、石材が豊島石でないという問題点があります。
生駒家当主の墓のスタイル変遷から見ると、次の系譜の先に豊島型五輪塔が姿を見せると研究者は考えているようです。
①志度寺の生駒親正墓→ ②法泉寺の生駒一正供養塔 →
③法泉寺の生駒正俊供養塔
これら生駒家の五輪塔は、今見てきたように形は豊島型ですが、石材はすべて天霧山からの採石です。
弥谷寺は、生駒一正によって菩提寺とされ再興された寺院です。そして天霧石の採石場が境内にありました。弥谷寺と、生駒家には深い関わりがあったのです。
弥谷山と天霧山の関係については、以前に次のようにまとめました。
①弥谷寺は、西讃岐守護代だった香川氏の菩提寺で、その五輪塔創立のために採石場があり、石工集団がいた。②弥谷寺境内には、凝灰岩の露頭や転石に刻まれた磨崖五輪塔が多数あること③弥谷山産の天霧石五輪塔は、県内を越えて瀬戸内海全域に供給されたこと④長宗我部元親の讃岐占領、その後の秀吉の四国平定で、香川氏が没落して弥谷寺も一時的に衰退したこと⑤讃岐藩主となった生駒氏の菩提寺として、弥谷寺は復興したこと。そこに、超大型の五輪塔が藩主墓碑として造立されたこと。⑥その際に弥谷寺採石場に替わって、天霧山東側の牛額寺奥の院に新たに採石場がつくられたこと
こうして天霧山周辺には、弥谷寺境内と、牛額寺奥の院というふたつの採石場ができます。
弥谷寺磨崖五輪塔と、牛額寺奥の院の磨崖五輪塔を比べると、次のような相違点が見られます。
①火輪の軒隅が突出している②空輪が大型化している③水輪が扁平化している
特に①②は近世的変化点で、違いの要因は時期差であると研究者は考えます。つまり、磨崖五輪塔は「弥谷山(弥谷寺) → 天霧山(牛角寺)」への変遷が推測できます。ここからも、牛額寺奥の院が新たに拓かれた採石場であることが裏付けられます。
どうして、時期差が現れたのでしょうか
採石活動の拠点が、弥谷山から天霧山へ移ったと研究者は考えています。中世には採石は、弥谷山でも天霧山でも行われていたようです。しかし、最初に採石が行われるようになったのは、弥谷山でした。それは、磨崖五輪塔が弥谷寺本堂周辺に集中していることから推測できます。弥谷山には、天霧城主で西讃守護代とされる香川家の歴代墓が今も残っています。弥谷寺は香川氏の菩提寺でもありました。ここからは、香川氏など有力者に提供する五輪塔製作のために、周辺で採石が行われていたことが考えられます。それが次第に販路を広げていくことになります。一方、天霧山は天霧山がある山で、城郭的性格が強く採石場としては弥谷山よりも規模は小さかったと研究者は考えます。
こうした中、16世紀後葉の阿波三好氏の来襲によって、香川氏は一時的に天霧城退場を余儀なくされています。この時に、菩提寺の弥谷寺も荒廃したようです。戦国末期の混乱と、保護者である香川氏をなくして弥谷寺は荒廃します。それを再興したのが生駒家二代目の一正で、「剣御山弥谷寺略縁起」には、次のように記されています。
『武将生駒氏、当国を鎮ずる時、当時の廃絶ぶりを見て悲願しに勝ず、四隣の山峰を界て、当寺の進退とし玉ひ、住侶別名再興の願を企てより以来、吾先師に至て中興暫成といへども、住古に及ぶ事能はず』(香川叢書第一)
意訳変換しておくと
『生駒氏が当国を支配することになった時、当寺の廃絶ぶりを見て復興を決意して、周囲の山峰の境を決めて、当寺の寺領を定めた。僧侶たちも再興の願の元に一致協力し、先師の時代に中興は、あらかた成った。しかし、かつての隆盛ぶりには及ばない』
ここからは、生駒一正による再興が行われ、それまでの弥谷寺の景観が一新されたことがうかがえます。信仰の場として弥谷寺の伽藍再整備が進む中で、境内にあった採石場の天霧山東麓への移転が行われたと研究者は考えているようです。逆に言うとそれまでは、弥谷寺境内の中で採石や五輪塔への加工作業が行われていたことになります。
その石造物製品は、お参りにきた信者の求めに応じて、彼らの住む地域に「発送」されたかもしれません。また、弥谷寺には多くの高野聖たちや修験者が布教活動の拠点としていました。彼らによって、石造物建立が行われる場合には、弥谷山の採石場に注文が入ったことも考えられます。突っ込んだ言い方をすると、弥谷寺が採石場を管理していたということになります。石工たちも、その経営下にあったとしておきます。
それが近世になって生駒氏による再興の折に、信仰と生産活動の分離が行われ、採石場は天霧山東南麓の碑殿町に移されたという説になります。
吉原大池から望む天霧山(金毘羅参詣名所図会)
これらの材質が天霧山南斜面の牛額寺の奥の院(善通寺市碑殿町)で採石されていることが分かっています。
碑殿町の石材は、地元で「十五丁石」と呼ばれていて、丸亀市本島宮本家墓や善通寺歴代住職墓に使用されていること、それに加えて、超大型五輪塔はすべてが碑殿産(十五丁石)が用いられていることが分かっています。ここからは、中世末に姿を現す超大型の五輪塔が墓観念や姿形からして、豊島型五輪塔と深く関係していると研究者は考えているようです。
そして超大型五輪塔の出現背景には、藩主生駒家が深く関わっているとする裏付けは次の通りです。
生駒親正夫妻墓、生駒一正供養塔など、超大型五輪塔10基のうちの4基が生駒家のものです。超大型五輪塔ではありませんが高松市法泉寺の生駒廟に安置されている生駒家二代正俊の五輪塔は、スタイルは豊島型五輪塔です。
ここには、生駒家の関わりがうかがえます。このような生駒家の五輪塔から影響を受けて、登場するのが豊島五輪塔だと研究者は考えています。それは豊島型五輪塔の祖型いうべき要素が、弥谷寺の五輪塔には見られるからです。例として挙げるのが、弥谷寺の磨崖五輪塔には地輪に方形状の孔が穿たれたものがあります。この孔からは、遺骨が確認されています。ここからは五輪塔が納骨施設として使用されていたことがうかがえます。弥谷寺の納骨孔が、豊島型五輪塔の地輪にもある方形状の孔に系譜的につながると研究者は考えています。以上のように「超大型五輪塔 + 生駒家歴代当主墓」が最初に姿を現す弥谷寺や天霧山の石切場には、豊島型五輪塔の祖形を見ることができます。これらの要素は、中世豊島石の五輪塔にはありません。以上を図示化すると以下のようになります。
豊島型五輪塔の系譜
豊島型五輪塔の成立背景を、まとめておきます。
①中世豊島石の五輪塔系譜の上に、生駒氏が弥谷寺で作らせた大型五輪塔のインパクがあった
②それを受けて豊島型五輪塔が高松地区で姿を現す
③その際に豊島の石工集団に対して、生駒藩が何らかの「介入・保護」があった
④県内の石切場の終焉と豊島型五輪塔の広域搬出は、時期が一致する。
③④については、「生駒氏という新しい領主による社会秩序形成を目的とした政治的側面」があったと研究者は指摘します。具体的には、生駒氏が政治的にも豊島の石工集団を保護下において、生産流通に特権を与えたということです。
豊島型五輪塔が出現するのは、案外遅くて17世紀初頭になるようです。そして、急速に天霧石の五輪塔を駆逐し、市場を占有していきます。こうして天霧山の石造物は忘れ去られ、近代にはそれが豊島産と誤解されるようになっていきます。
以上をまとめておくと
①14・5世紀には、弥谷寺石工達が瀬戸内海各地に石造物を提供するなど活発な生産活動を行っていた
②その背後には、西讃守護代としての香川氏の保護があった。
③16世紀末の長宗我部元親の侵攻と、秀吉の四国平定の戦乱の中で香川氏は滅亡し、弥谷寺も衰退する
④それを救ったのが生駒氏で、弥谷寺を菩提寺としてそこに超大型の五輪塔を造立する。
⑤生駒氏は天霧山東麓の牛額寺奥の院に新たに採石場を設けて、高松に天霧石を供給させる。
⑥その際に、加工を命じられたのが豊島石工で、天霧石を使った豊島型五輪塔が高松に登場する。⑦それまで高松地区にだけに石造物を提供するだけだった豊島石工集団は、生駒氏の保護育成を受けて、天霧石石造物を駆逐する形で、瀬戸内海への流通エリアを拡大していく。
⑧しかし、それも長くは続かずに花崗岩産の石造物へと好みが変化すると、豊島石工達は豊島石の特長を活かして、石カマドや、石筒、火鉢などの製品開発を行うようになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松田朝由 豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討 香川県立埋文センター研究紀要2002年」
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