瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:弥谷寺石造物時代区分

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弥谷寺の墓標

前回の弥谷寺境内の作られた年紀が入っている石造物数の推移グラフをを、もう一度見てみましょう。
弥谷寺 紀年名石造物の推移
         弥谷寺の石造物数の推移グラフ
①1651年に最初の紀年名石造物である丸亀藩藩主の山崎志摩守祖母の五輪塔が本堂横に設置される。
②弥谷寺の紀年名石造物の多くは墓標で、地蔵刻出の占める割合が多い。
③その推移は18世紀初頭から急増し、世紀中頃にピークを迎える。
④石造物数は、1761年~70年に半減じ、その後持ち返すが19世紀中頃には激減する。
1830年代以後になると墓標以外に石造物が設置されることはなくなっていきます。
しかし、これは弥谷寺だけの動きのようです。讃岐全体の展開では、1830年代以降に墓標の大型化と多量造立という墓標の最盛期を迎えます。墓標正面に俗名や先祖代々の銘を刻む事例が増加し、一方で梵字や地蔵刻出墓標下部の蓮華坐は省略されていくようになります。墓標に「墓」の字が多くなるのもこの頃です。墓標が家の記念碑的なもへと変化していく時期です。墓標の大型化とともに戒名における院号・居士号の増加、葬式の大規模化などが見られるようになります。そのため天保2年(1831)には幕府によって墓石の大きさを制限するなどの禁令が出されるほどでした。一般的には、「墓標の増加・大型化」という動きの中で、弥谷寺では、1830年代以後に激減していきます。これはどうしてなのでしょうか?

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弥谷寺の墓標
 前回見たようにV期に、数多くの弥谷寺を建てていたのは弥谷寺周辺の人々でした。そこで、研究者は弥谷寺周辺地域の大門、久保谷、国広、西大見、浅津、田所、落合、大屋敷、南原等14ヶ所の共同墓地の墓標の展開を調査します。その対象は1910年までの823基に及んだようです。
次の表21は上が弥谷寺境内の石造物の推移、下が弥谷寺周辺共同墓地の墓標の推移です。
弥谷寺
弥谷寺境内の石造物と周辺集落の共同墓地の墓標推移表

このグラフからは次のようなことが分かります。
①弥谷寺の石造物造立が減少と反比例するように共同墓地の墓標造立が著しく増加していること
②共同墓地に墓標が現れるのは1680年代
③弥谷寺においても1680年代以降に墓石は増加していて、寺檀制度確立に伴う墓標造立の開始期であること。
④弥谷寺境内では1760年代までは造立が盛んで、共同墓地14ヶ所の墓標総数よりも多い。
⑤共同墓地の墓標が増加していくのは1770年代からで1830~60年代にピークを迎える。
⑥この時期の共同墓地のピーク時で、弥谷寺の衰退期と重なる。
⑦共同墓地でも1870年代以降になると減少傾向に転じる
⑧この背景には、明治期になると1基の墓標に刻まれる戒名数が増えていて、個人墓標から家墓へ変容したことが推測される。
以上から、弥谷寺境内における墓標衰退と弥谷寺周辺の共同墓地の墓標増加には、密接な関係があったことが分かります。共同墓地にお墓を建てることが一般化して、それまで弥谷寺に建てていた周辺の人々たちも集落周辺の共同墓地にお墓を建てるようになったようです。確かに、弥谷寺境内には近代の墓標はあまり見かけません。
 弥谷寺境内の墓標は1830年以後に数を減らし、立てられなくなります。しかし、位牌を収める風習は忌日過去帳に見る限り大きな変化は見られないようです。
弥谷寺に最も近い四房の共同墓地の調査の結果を、研究者は次のように報告しています。
①四房墓地は、19世紀前半期には天霧石製墓標が多く、20世紀初頭まで天霧石製が使われていたこと
②ここから19世紀になって再び弥谷寺近くて採石が行われるようになった可能性があること。
③明治初めまで石塔を作る石屋が近くに住んでいたという伝承があること。
④19世紀の絵図や記録には、弥谷寺で石造物生産を行っていたような記録ないので、外部で生産された可能性が強いこと。
西大見の共同墓地については
①他の墓地に比べて地蔵刻出墓標が多く、墓標144基の中で84基にあたること。
②戒名から多くは子墓ではなく大人の墓標としての使用されていて、弥谷寺との密接な関係が見られること
③一番古いのは元禄13年(1700)銘で、18世紀段階では49基中42基が地蔵刻出墓標であること
③の時期は、弥谷寺でも地蔵刻出墓標造立の最盛期で、19世紀になると西大見共同墓地でも他の集団墓地とおなじように地蔵刻出墓標以外の墓標が多くなります。ただ、地蔵刻出墓標も少数派になりますが作られ続けます。その後、明治期になると地蔵刻出墓標の割合が減って1880年代以降は一部に留まるようになります。この動きについて、研究者は次のように記します。
「西大見共同墓地からは墓地形成以降18世紀までは弥谷寺墓標の強い影響下にあったが、19世紀になって各地で墓標造立が普及するようになると、次第に各地の墓地と同じように刻出墓標以外の墓標が選択されるようになる。」

 弥谷寺に近い西大見地区では、弥谷寺信仰の影響力が強く、地蔵刻出墓標を選ぶ人たちが多かったのが明治後半になると、弥谷寺の影響力を脱して、一般的な墓標を建てることになっていったようです。

最後にもう一度研究者がまとめた弥谷寺石造物の時期区分を見ておきます。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の中世墓地に弥谷寺内部産の五輪塔の造立
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所にで弥谷寺内部産の石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが活発に造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が活発に造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
弥谷寺での石造物生産活動はI~Ⅳ期で、Ⅳ期には外部産石造物が搬入されるようになり、石工たちはいなくなり、弥谷寺での石造物生産活動は衰退・終焉します。弥谷寺に石造物を建てた階層はⅡ~Ⅳ期では弥谷寺を菩提寺とした香川氏や寺院再興をした生駒氏、墓塔を造立した山崎氏など権力者たちでした。それがⅣ~Ⅵ期になると、寺檀制度の確立に伴い弥谷寺周辺の人々によって墓標造立が始まります。藩主などの権力者がやっていたことを、有力者たちが真似出すのです。 
 Ⅵ期の衰退期の背景としては、弥谷寺周辺の共同墓地に墓標が建てられるようになったからです。弥谷寺よりも自分の住む集団墓地の吸引力の方が強くなったようです。その一方で、Ⅵ期は尾州、備前など讃岐外部の人々が弥谷寺に墓標を建てるようになります。
 最後に研究者が、弥谷寺の特徴としてあげるのが納骨施設と地蔵菩薩です。

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本堂西側の磨崖五輪塔の横の方形孔(弥谷寺)
弥谷寺では納骨施設として、鎌倉時代の磨崖五輪塔に方形孔が開けられ、そこに埋葬されていました。以後に生産される層塔・宝塔・五輪塔も、内部を空洞にして納入孔を設けたものが数多く見られます。また、近世になると水場が納骨処として使われていたことが宝暦11年(1761)の灯籠銘文からうかがえます。
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磨崖の水場
 これまで大日如来や薬師如来とされてきた平安時代末期~鎌倉時代の磨崖仏が、実は地蔵菩薩である可能性を研究者は指摘します
また、弥谷寺産の層塔・宝塔の塔身には地蔵の像容の刻まれたものが多いようです。さらにⅢ期なると、境内各所に地蔵坐像が生産され置かれるようになります。V期には、外部産の地蔵刻出墓標を搬入され造立されています。以上から納骨施設と地蔵さまが弥谷寺の石造物の特徴と研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年) 香川県教育委員会」
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弥谷寺本堂からの眺め
弥谷寺石造物の時代区分表
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地で弥谷寺産の天霧石で五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所で石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半) 外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が造立される時期
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
Ⅳ期は、生駒騒動で生駒氏が讃岐を去った後の17世紀後半になります。
この時期は、弥谷寺で石造物が造られなくなり、外から搬入が始まります。つまり、弥谷寺での採石活動が衰退・終焉する時期になります。

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弥谷寺本堂西側の山崎氏墓所五輪塔群

 外から運び込まれた初期のものは、本堂西の山崎氏墓所五輪塔群と法雲橋西にある墓標です。
これらは17世紀中頃の花崗岩製で、天霧石で造られたものではありません。外から運び込まれたことになります。

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中央が慶安4年(1651)没の山崎藩2代目の志摩守俊家のもの

丸亀藩藩主の山崎家墓所五輪塔群の3基を見ていくことにします。
①右が寛永14年(1637)没の山崎志摩守祖母
②中央が慶安4年(1651)没の山崎志摩守俊家
③左が慶安4年(1651)没の大宮四郎衛門尉
①の山崎志摩守祖母の塔が弥谷寺最古の紀年銘資料で、同時に最初の外部産石造物になるようです。年号は没年で、造られた年ではありません。山崎氏は生駒騒動後に讃岐がふたつに分けられた後の寛永18年(1641)に、丸亀城に入封します。そのためそれ以後に造立されたものになります。

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③の慶安4年(1651)没の大宮四郎衛門尉の五輪塔

ここで研究者が注目するのは、この3つの五輪塔の石材です。
石材は左右の①③塔が兵庫県御影石製で、中央②の山崎志摩守俊家のものだけが非御影石の花崗岩製のようです。ここからは、これらの五輪塔が弥谷寺で造られたものでなく、外部から持ち込まれたことが分かります。前回にⅢ期には、香川氏一族の宝筐印塔や生駒一正の五輪塔など天霧石製で、弥谷寺の石工集団によって造られたことを見ました。
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山崎藩の家紋
 17世紀後半になると花崗岩製墓標が流行するようになります。
そんな中で、山崎藩は凝灰岩製をの天霧石を使う弥谷寺の石工たちに発注せずに、花崗岩製の五輪塔を外部に注文していたことになります。天霧石製の石造物は、時代遅れになりつつあったことがうかがえます。

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         山崎志摩守祖母の五輪塔
 一番早く造られたと考えられる山崎志摩守祖母塔の特徴を、研究者は次のように挙げています。
①は、空輪と風輪間に首部が見られないこと
②空輪の突起下端部に下位との明瞭な屈曲点があること。
③基壇の反花坐が和泉石石造物からの系統を引くモチーフであること
以上から寛永期の特徴を備えているので、入封して間もない寛永年間(1640年代)に造立されたと研究者は考えています。②③の2基は、空輪と風輪の間に首部が形成され、基壇の反花坐は17世紀後半に多いモチーフなので、17世紀中頃~後半の造立とします。
 山崎藩2代藩主の志摩守俊家は1651年10月に35歳で、丸亀で亡くなっています。山崎家の墓所は京都瑞光院で、俊家の本墓もここにあります。弥谷寺や高野山竜泉院にあるものは供養塔と研究者は考えています。そのため弥谷寺の五輪塔建立は、高野聖が活動拠点としてきた弥谷寺が建立を勧め、死後何年か後になって、祖母の五輪塔が建てられた弥谷寺本堂横に建てらたものかもしれません。その際にも、弥谷寺の石工には発注されていません。
次に法雲橋西の墓標(第56図)を見ておきましょう。  

弥谷寺 法雲橋西の墓標

この墓標は、上半部が欠損した竿石残欠です。竿石下端部にはホゾが見られ、17世紀以前の特徴がうかがえます。正面掘り窪め内に銘文が見られ、上の拓本には次のように記されています。

「宗祐 承応四年(1655)二月廿二日 妙意逆修善根」

忌日過去帳に被供養者の記載が弥谷寺に残っていて、宗祐は「桂月宗祐信士」で施主が笠蔦屋藤右衛門母とあります。一方、妙意は「一月四日」の月日と「自覚妙意信女」の戒名があり、施主が円(丸)亀笠嶋屋清左衛門室とあります。墓標の形式は戒名・年号のある掘り窪めの下部にさらに方形の掘り窪めを設け、中に蓮華坐を表現しています。これは塩飽本島を中心に分布する人名墓の系譜を引く墓標のスタイルだと研究者は指摘します。
 以上から、「円(丸)亀笠嶋屋」の銘を持つこの墓標は、塩飽本島の笠島の人名の墓であることがうかがえます。石材は本島の花崗岩の可能性が高いようです。本島は徳川幕府による大阪城再築の際に、採石場が何カ所かに開かれたことを以前にお話ししました。そこには石工集団が残っていたのかも知れません。海を越えて三野湾に運び込まれた墓標が弥谷寺に運び上げられたことになります。同時に塩飽の人名たちの中にも、弥谷寺信仰を持つ人たちがいたことが分かります。
豊島石 : 男のロマンは女の不満
豊島石花崗岩

17世紀後半になると、豊島石製が搬入されはじめます。
運び込まれた豊島石製の石造物には墓標、ラントウ・櫛形墓標があります。
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櫛形墓標(弥谷寺)
天霧石製はⅢ期に中心であった地蔵坐像、宝筐印塔の生産はストップし、ラントウだけがかろうじて継続生産されている状況です。

弥谷寺 ラントウ
ラントウ(家形墓) 徳島県海部町鞆浦

そして、18世紀になると、弥谷寺での石造物の生産は見られなくなります。石工集団が姿を消したのです。ここでは、17世紀後半になると、中世以来の弥谷寺の石工集団は衰退・解体されたことを押さえておきます。
 しかし、善通寺市側の天霧山周辺では別の石工集団が採石を行なっていたようです。前回に紹介した善通寺市牛額寺薬師堂付近では、この時期にも活動していた痕跡があります。
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牛額寺薬師堂(善通寺市)
17世紀後半は讃岐各地で花崗岩製石造物が広がり、天霧石など中世以来の凝灰岩石造物は急速に衰退していった時期になるようです。その背景として研究者は次の2点があると考えているようです。
①寺檀制度の成立による墓標需要の増大
②新たな石工(豊島)の勃興
①の寺檀制度の成立は、寺院の境内に多量の墓標造立をもたらすようになります。それが大きなうねりとなるのが次のV期です。Ⅳ期はその始まりになるようです。そのようなうねりの中で、弥谷寺の石工集団は時代の流れに飲み込まれていったようです。
以上をまとめておくと
①生駒騒動で生駒藩が取り潰された後の17世紀後半は、花崗岩製の石造物が流行になる
②そのため凝灰岩製の天霧石製石造物は時代遅れとなり、注文が激減するようになる。
③弥谷寺本堂東の丸亀藩主山崎家の五輪塔も播磨から持ち込まれ石材で造られたものある。
④法雲橋西墓標は、塩飽本島の笠島の人名のものと考えられるが、これも本島産の花崗岩の可能性が高い。
⑤17隻後半になって境内に姿を見せる墓標も花崗岩製で外から持ち込まれたものである。
⑥以上のように、弥谷寺で中世以来活動してきた石工集団は時代に取り残され、姿を消して行くことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年) 香川県教育委員会」
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