瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:弥谷寺調査報告書

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阿弥陀三尊の磨崖仏(弥谷寺本堂下)

四国霊場第71番札所の弥谷寺は、死霊が赴く「イヤダニマヰリ」の習俗が残る寺として紹介されてきました。昭和の時代に弥谷寺を紹介した記事には、どれも死霊が生者に背負われて弥谷に参る様子が描かれ、NHKの新日本紀行にも取り上げられていた記憶があります。私にとっては
「弥谷寺=死霊の集まる山=イヤダニマヰリ(詣り)」

という図式が刷り込まれていました。
 ところが最近の弥谷寺を紹介した記事には、「イヤダニマヰリ」に触れたものが殆ど見られません。これも「流行」なのかなと思っていると、どうもそうではないようです。「イヤダニマヰリ」そのものの立場が揺らいでいるようです。

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イヤダニマイリをめぐって、何が問題になっているのかを見てみることにしましょう。
テキストは「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」です。
  柳田民俗学は
「死者の霊魂は里に程近い山に籠る」
という祖霊観を掲げています。
このテーゼを証明するための数多くの民俗学的な調査が各地で行われてきました。そのような中で戦後の1950年代に、死霊の集まる山=「イヤダニマヰリ」として中央学界に紹介したのが地元、多度津町の民俗学者、武田明氏です。この研究は、柳田民俗学の死霊・祖霊観を立証する例として評価されるようになります。

Amazon.co.jp: 日本人の死霊観―四国民俗誌: 武田明: 本
  1999年刊行の『日本民俗大辞典』には「「イヤダニマヰリ」として、次のように解説されています。
「香川県西部に行なわれる、死者の霊を弥谷山に送って行く習俗。弥谷山は香川県三豊郡三野町と仲多度郡多度津町にまたがる標高382メートルの山で、300メートル付近に四国八十八ヵ所の第71番札所、剣五山弥谷寺(真言宗)がある。この山は香川県西部、ことに三豊郡・仲多度郡・丸亀市およびそれに属する島嶼部一帯で死者の行く山と考えられており、葬送儀礼の一環として弥谷参りが行なわれた。
 特に近年まで盛んだったのは荘内半島(三豊郡詫間町)である。同地の例では、葬式の翌日か死後三日目または七日目に、血縁の濃い者が偶数でまずサンマイ(埋め墓)へ行き、『弥谷へ参るぞ』と声をかけて一人が死者を背負う格好をして、数キロから十数キロを歩いて弥谷寺へ参る。境内の水場で戒名を書いた経木に水をかけて供養し、遺髪と野位牌をお墓谷の洞穴へ、着物を寺に納めて、最後は山門下の茶店で会食してあとを振り向かずに帰る。この間に喪家でヒッコロガシと呼ぶ竹製四つ足の棚を墓前につくり、弥谷参りから帰って来た者が鎌を逆手にもってこれを倒すという詫間町生里などの集落もある。
 山中を死者の行く他界と考え、登山し死者供養を行う例は各地にあるが、死亡後まもない時期に死霊を山まで送る儀礼を実修するところに、この習俗の特色がある。近年は弥谷寺で拝んでもらい、再び死者を負うてサンマイに連れ帰るとするところも多く、弥谷寺ではなく近くの菩提寺ですます習俗も広まっている。なお、イヤダニやイヤを冠した地名(イヤガタニ、イヤノタニ、イヤンダニ、イヤガタキ、イヤヤマなど)は古い葬地と考えられ、弥谷山にもその痕跡がみられる。」
弥谷寺が祖霊参りの山として定着したかのような中で、「異議あり」と名乗りを上げる研究者が出てきます。
日本民俗学 第233号 Bulletin of the Folklore Society of Japan NIHON ...

2003年『日本民俗学』誌上に発表された森正人の研究ノートです。
森氏は、「イヤダニマイリ」の習俗がこれだけきちんと分かるのなら、どうして今までの研究書は触れてこなかったのかという疑問から始めます。確かに戦前の『香川縣史第二版』(1909年)や中山城山の『國諄 全讃史』(1937年)、また弥谷寺の地元、三豊郡大見村の『大見村史』(1917年)には、「イヤダニマイリ」の記述は何も載せられていません。
 その理由を、それまでは地元ではなかったものを「死霊の集まる山」にアレンジして発表したからだと、次のように指摘します。

「この習俗は香川県の民俗学者である武田明が発見し、民俗学界にその存在を発表したから」

 そして、武田氏の民俗学者としての成立過程、研究史、調査記録、中央学界との関わりと地方学会(香川民俗学会)における権威化、関係者の証言、さらに現地調査まで含めて詳細に検討していきます。その結果として、弥谷に参る習俗の存在は認めるものの「イヤダニマイリ」という民俗概念はなかったと結論づけます。
  そして、柳田民俗学の祖霊観を実証するために、様々なデータが組み合わされた作為的な研究であると指摘します。これは弥谷参りだけでなく、他の事例も含めた民俗学全体の研究方法への批判も含んでいました。
日本村落信仰論( 赤田 光男 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の ...

このような批判の上に、新たな視点から弥谷参りに取り組んだのが赤田光男氏です。
もともと、武田氏の弥谷参りの研究は両墓制との関連が重要ポイントでした。両墓制とは、
「死体を埋葬する墓地とは別の場所に、石塔を建てる墓地を設ける墓制」

のことで、一般に前者を「埋め墓」、後者を「詣り墓」と呼び、弥谷参りがみられる荘内半島の生里、積、大浜などの集落、仁尾町、高見島、志々島、栗島といった島嶼部一帯に見られます。この地域では、埋め墓を「サンマイ」、詣り墓を「ラントウ」と呼びますが、両墓制が強く残る地域でした。
  武田説を、簡潔にまとめておくと次のようになります。
古来、この地域一帯の村々では「埋め墓」しかなく、霊魂祭祀の場が弥谷山であったのであり、その祭祀行為の残存が「弥谷参り」ではなかったか。そしてその後、弥谷山信仰が衰えていくに連れて村内に「詣り墓」が形成されていったのではないか
 
これに対して、赤田光男は
「弥谷山のすぐ下の大門、大見あたりであればこのことがいえるかもしれないが、両墓制地帯の荘内半島や粟島、志々島のような離れた所が、古くから弥谷山を唯一の霊魂祭祀場としていたか疑問が多い」

としてます。そして、荘内半島の箱集落(約225戸)について平成3年(1991)に両墓制と弥谷参りを中心にした全戸調査を行います。その結果、次のような事を明らかにします。
①初七日に死霊を弥谷山に連れて行くことを「オヤママイリ」、永代経の時(旧2月13から15日)に弥谷山に行くことを「イヤダニマイリ」と呼んで区別していること、
②オヤママイリ(弥谷参り)については、詣り墓が設けられている村内の菩提寺(香蔵寺)の勧めもあって昭和25,6年(1950,1)頃、廃止され、その後は香蔵寺がオヤママイリの対象となった
弥谷寺 九品浄土1
弥谷寺の九品浄土に彫られた南無阿弥陀仏

 一方で、武田説には欠けていた弥谷寺の歴史的研究も進めます。そして境内の祭祀場や宗教遺跡の検討も進め、中世以来弥谷寺を崇敬し保護してきた戦国時代の領主、香川氏や生駒氏、その後の山崎氏との関わりも考察していきます。
結局、荘内半島・箱集落の霊魂祭祀の場の変遷は、
①原始古代においては紫雲出山ないし家の盆正月に臨時に作られる霊棚
②中世においては、浦島太郎の墓伝説をともなう惣供養碑的残欠五輪塔、さらに香蔵寺、弥谷山
③近世においてはラントウ内の家型石厨子や詣墓石碑
④明治以降においてはサンマイのオガミバカ(拝墓)
の4段階を経ていることを明らかにします。
 この赤田説では、弥谷山は「中世」に霊魂祭祀の場として登場してきたことになります。その背景を次のように指摘します。

「香川氏は天霧山に貞治元年(1362)頃に城を築き、またこの頃に弥谷寺の檀越となり、山内に一族の墓地を作って菩提寺とし、弥谷山信仰を高め、そのことが庶民のイヤダニマイリを拡大、助長したと推定される」

ここには南北朝時代以後に讃岐守護代として天霧城を拠点に勢力を野伸ばした香川氏と関係を持ち、その菩提寺となることによって弥谷寺は寺勢を伸ばしたと、在地勢力との関係を重視します。
以上から赤田説をまとめると
①弥谷参りと両墓制は、分離して取り扱うべきである
②弥谷参りという習俗の背後に、天霧領主・香川氏の影響力があった
つまり、武田氏の示したように弥谷寺詣りは古代からの祖先神祀りに、仏教が後からやって来て組織化されたものではなく、弥谷寺が中世に作り出したものであるとします。
ここまで来ると、次の射程に入ってくるのが「死霊、さらにそれが浄化された祖霊は、里近くの山に籠る」という柳田民俗学の命題そのものです。このテーゼは、柳田國男が戦後直後(1946年)に「先祖の話」で定式化したものです。
柳田國男著「新訂 先祖の話」

これに対して歴史学者の中には
「定式ではなく、仮説として捉えなおし、再考すべきだ」

という考えも出てきているようです。
 例えば、赤田氏は次のように述べています。
「身体から離脱した霊魂が、身体が朽ちてもなおどこかに住み続け、時々わが家を訪れて子孫の生活を守護するという考えがまさに祖霊信仰の根幹をなすものであり、そうした宗教意識がいつ頃発生したのか明確な答えは今のところない。」

控えめな指摘ですが、ここには柳田民俗学の祖霊信仰が古代に遡るという命題への疑義がうかがえます。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」

佐藤弘夫は、この問題に正面から答えようとして、次のように指摘します
「柳田國男が論じ、多くの研究者が祖述してきた山に宿る祖霊のイメージは、けっして古代以来の日本の伝統的な観念ではない。人々が絶対者による救済を確信できなくなり、死者が他界に旅立たなくなった近世以降(17世紀~)に、初めて形成される思想だった」

 山に祖霊が宿るというのは古代以来のものではないと、柳田民俗学への疑義をはっきと打ち出した上で、それが近世以降の歴史的なものであると主張します。
 佐藤氏の到達した地点からは、次の新たな課題が見えてきます。
弥谷寺の祖霊信仰が古代まで遡るものでないとすれば、それでは中世の弥谷信仰とは何であったのかという疑問です。
この疑問に応えようと現在の研究者は、調査研究を続けているようです。
今後の弥谷寺研究の課題の方向性を探ると次のようになるようです。
①中世に祖霊信仰を広げた宗教勢力とはなんであったのか。
②その宗教者たちと弥谷寺の関係は、どうであったのか
③どのような過程を経て、祖霊信仰の霊山から真言密教の霊場へと弥谷寺は変身をとげたのか
 ここには、武田氏によって戦後華々しく打ち出された古代以来の祖霊信仰の霊山としての弥谷さんの姿はないようです。ひとつの仮説が
研究によって批判・検証され克服されていく姿がここにはあります。
それが歴史学の発展につながるようです。

参考文献テキスト
「白川 琢磨  弥谷寺の信仰と民俗  弥谷寺調査報告書2015年所収」
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弥谷寺2
弥谷寺仁王門
四国霊場第71番札所・弥谷寺は八十八ケ所霊場の中でも、霊山らしい雰囲気がするお寺です。ここには大師が修行したと伝えられる窟があり、岩壁には阿弥陀三尊像をはじめとして南無阿弥陀仏の六字名号、五輪塔、梵字などが数多く刻まれています。
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阿弥陀三尊(弥谷寺本堂下の磨崖仏)
さらに近世初頭には異端の弘法大師伝を流布するなど、善通寺とは別系統の僧侶集団がいたことがうかがえます。その僧侶集団は、以前お話しした宇多津の郷照寺と同じ、高野山の時衆念仏系の高野聖たちであったようです。
弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の磨崖仏の下には「南無阿弥陀仏」の六文名号
彼らの弥谷寺での活動ぶりを追ってみることにしましょう。
テキストは「 武田和昭  弥谷寺と四国辺路 ―室町時代後期から江戸時代初期の展開―弥谷寺調査報告書」所収です。

弥谷寺の古代の仏たちが語るものは
弥谷寺の寺名が史料で確認されるのは鎌倉時代に入ってからですが、仏像の中には、それよりも古いものがいくつかあります。
まず木造吉祥天立像
弥谷寺 吉祥天立像
(像高59.1センチメートル)はヒノキ材による一本造りで、10世紀末期ころとされ最古のものです。
 『大見村史』掲載の地蔵菩薩立像(2)(像高不明)も10世紀後半頃まで遡る古像ですが、造立当初から弥谷寺にあったかどうかは分かりません。仏像は移動するものなのです。寺勢の強い寺には、自然に仏像の方から集まってくることは以前お話ししました。
次に古いのが鎮守とされている11世紀前半頃の深沙大将椅像です。

弥谷寺 深沙大将椅像
深沙大将椅像
像高138.5㎝のほぼ等身の像で、全国的にも珍しい像容の深沙大将像として注目されます。しかし、この像は、どうした訳か近代になるまで蔵王権現として伝えられてきたようです。蔵王権現は、弥谷寺の縁起に登場し深く関わる権現さんです。山岳信仰の拠点として、蔵王権現を祀るのは当然のことだったのでしょう。吉野山や石鎚山に関わりのある後世の山岳修験者の関与があったとしておきましょう。

弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (2)

 なお深沙大将像の信仰は、水と関わり祀られることが多いようです。おそらく弥谷寺鎮守とともに三野平野を潤す水源を守る意味をも兼ねそなえていたのかもしれません。弥谷寺の下流の大見地区は、西遷御家人として甲斐からやってきた秋山氏の所領として、中世に開発が進んだ所です。秋山氏はこの弥谷寺を見上げながらも、自らは法華信仰に基づいて本門寺を開いて行ったことになります。
弥谷寺 深沙大将 鎮守堂 (3)

これらの古代の仏像たちから、弥谷寺の創建は平安時代中期、10世紀後半頃と考えられ、その後、古代寺院として整備されるのが11世紀に入ってからのようです。ただ当初の本尊千手観音が現存しないことや建物の遺構などが明確でないことから、これ以上のことは分かりません。しかし、本尊が千手観音であったことや讃岐という地域性を考慮すれば、真言系の密教寺院として創建されたことは間違いないようです。注意したいのは、創建に善通寺勢力の関わりは見られないという点です。

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磨崖に彫られたキリク文字(弥谷寺本堂下)

次に文献史料から弥谷寺を見てみましょう。
南海流浪記- Google Books
南海流浪記
鎌倉時代前期、仁治4年(1243)高野山のエリート僧であった道範が、内部抗争で罪を問われ讃岐に流されてきます。彼は、善通寺で庵を結んで8年ほど留まり、案外自由に各地を巡っています。それが『南海流浪記』に記されています。道範は、高野山で覚鑁(かくはん)がはじめた真言念仏を引き継ぎ、盛んにした人物でもありました。彼は、讃岐にも阿弥陀信仰を伝えたことが考えられます。例えば善通寺に近い三豊市高瀬町麻地区の法蓮寺の本尊阿弥陀三尊立像は、宝治2年(1248)に造立されています。状況から見て、道範の影響があったと考えられているようです。

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弥谷寺磨崖に彫られた石仏や五輪塔(レーザー撮影)
 弥谷寺と道範の関係が見える直接的な資料は、「行法肝葉抄』に「弥谷上人」とあるものの詳しいことは分かりません。本堂下の磨崖阿弥陀三尊像が鎌倉時代の制作とするなら、これも道範の影響かもしれません。どちらにしても弥谷寺は、道範の来讃後の鎌倉末期ころには阿弥陀信仰の霊地になりつつあったようです。

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弥谷寺本堂下の磨崖

 時衆と阿弥陀信仰、南無阿弥陀仏は関連性が強いこと、それを担ったのが高野山の時衆系高野聖たちであったことを以前にお話ししました。
時衆思想の痕跡が弥谷寺に、どのような形で残されているのでしょうか。
まず(1)六字名号(南無阿弥陀仏)です。

弥谷寺 時衆の六字名号の書体
時衆の六字名号の書体

弥谷寺本堂の周辺は凝灰岩がむき出して、大きな壁面がいたるところにあります。ここに阿弥陀三尊仏像が半肉彫りされ、その周辺に「南無阿弥陀仏」の六字の名号が彫られていたようです。しかし、柔らかい凝灰岩のため風蝕が激しく、その多くが読み取れなくなっています。

弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
⑩が九品浄土で釈迦三尊の下に南無阿弥陀仏が9つ彫られていた

研究者は、ここに刻まれた六字名号を、さらに深く見ていきます。
まず、その書体ですが弥谷寺の六字名号と同じような書体が、徳島県の名号板碑にも見られるようです。板野郡辻見堂の名号板碑(正和4年 1315)は、蓮台の上に南無阿弥陀仏の名号が楷書体で力強く刻まれています。名号板碑には名号、阿弥陀仏号、一仏房号を刻んだものが多いようですが、この種のものは時衆に関わるもので時衆系板碑と呼ばれるようです。
IMG_0017弥谷寺磨崖仏

 また絵画では滋賀・高宮寺の他阿上人真教像の傍らには同様の書体の名号が書かれています。ここからこれらの書体は「時衆二祖真教様」と称され、時衆の二祖真教上人が始めたものとされています。弥谷寺のものも、時衆の六字名号の書体と研究者は考えているようです。
 以上から弥谷寺の六字名号は、時衆に関わる人物の手になるとみて間違いないようです。香川県内にはこの種の遺品は、わずかに出釈迦山捨身ケ嶽と屋島寺参道に自然石の「時宗二祖真教様」の六字名号がだけが残されているようです。

続いて、時衆の二河白道思想と弥谷寺の関係です。                         
明和6年(1769)の『多度津公御領分寺社縁起』の「讃州三野郡。剣五山弥谷寺故事譚」には、次のような記事があります。
一-、御願堂之事
東ノ御堂 亦云東院  本尊撥遣釈迦  行基作
多宝塔  名中尊院  本尊盧舎那仏  同作
西ノ御堂 又云西院  本尊引阿弥陀  同作
(中略)
此地に就て弥陀・釈迦二仏の尊像を造して、撥遣引接の教主として東西の峯におゐて、各七間の梵宇構へて二仏を安置し、蓮華山八国寺と号して、一夏の間、菩薩愛に安居し玉ふ、(以下略)
山内現在之堂社仏像等の事
一、大悲心院 一宇 享保十二未年、幹事宥雄法印
ここからは、かつての弥谷寺には東の峰に釈迦如来、西の峰に阿弥陀如来が安置され、二尊合わせて「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」と考えられていたことが分かります。そして、その仏像が戦国時代の争乱から逃れて本堂に安置されていたと読み取れます。
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弥谷寺本堂からの東の峰
残念ながら、この釈迦と阿弥陀の二尊は今はありませんが、江戸時代中期頃まではあったことが分かります。この「撥遣釈迦、来迎阿弥陀」については、中国・吾時代の善導大師の『観経四帖疏』「散善義」(『大正蔵』37巻。272頁)に次のように説かれているようです。

弥谷寺 時衆二河白道図
 旅人(往生者)が西に向かって百千里の旅をすると、まもなく水火の二河に至る。水の河は衆生の憎しみに、火の河は衆生貪愛に喩えられます。やがて幅四、五寸の細い白道があるが、道には水火が押し寄せ、そして後ろからは群賊悪獣が追いかけてくる。旅人はためらうが、東岸に釈迦、西岸に阿弥陀がおり、白道を渡るようにとの励ます声がある。旅人はその声を信じ白道をわたり往生できた。」

これを法然上人が『選択本願念仏集』(『大正蔵』83巻・11頁)で引用したことから、浄土宗では特に重視されるようになります。これを絵画化したものが、いわゆる「二河白道図」です。
 これが、やがて一遍上人の目に留まります。文永8年(1271)春、信濃の善光寺に参詣した際に二河白道図に出会い、以後はこれを本尊として、日々を送ったと伝えられます。
 『遍上人語録』は次のように説きます。

「水と火の二河は我々の心である。二つの河に犯されることがないのは名号である。白道は南無阿弥陀仏のことである。」

一遍上人は、伊予窪寺で二河白道図を掲げ、三年間の念仏を行い「十一不二掲」を感得します。ここからも分かる通り、この教えは時衆の根幹をなすもので、その後の時衆に大きな影響をあたえるようになります。そして
「現世における撥遣釈迦、来世における来迎阿弥陀」

の思想は、時衆の中で重要な教えになります。
弥谷寺の伽藍の中で、釈迦と阿弥陀の置かれている位置は、まさに二河白道図を現実化したものといえます。その上に、先ほど見た六字名号と重ねると、弥谷寺は時衆思想に基づいて伽藍が作られていたと研究者は考えています。

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潅頂川にかかる橋

 現在の境内で、灌頂川と称されている細い川が「水火の河」で、その東方の山に現世としての釈迦、そして現在の本堂や阿弥陀三尊がある西方が極楽浄土と見立てていたと研究者は考えているようです。
 この思想がいつ頃、弥谷寺に伝わったのかは、『多度津公御領分寺社縁起』の記事から、戦国時代以前であることは間違いないようです。もう少し絞り込むと、六字名号などから推察して室町時代前期以降と研究者は考えているようです。室町時代の弥谷寺は、時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたようです。

時衆の影響を伝える船石名号 
弥谷寺 「讃州剣御山弥谷寺全図」
④が南無阿弥陀仏が彫られた舟形名号                       
弥谷寺境内には鎌倉時代から現在に至るまで塔や墓石などが数多く造られて、境内全体が仏の世界を表しています。その中で、仁王門の近くに建立されている高さ約2mの凝灰岩製の船形の石造物に研究者は注目します。
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仁王門の上の「船墓(舟石名号)」
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舟形名号
私が見ると表面は剥落して、原型も分からない石に見えます。レーザー撮影された写真が次のものです。
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             舟形名号
確かに五輪塔が浮かび上がっています。形式からみて、室町時代頃と研究者は考えています。 この石造物については寛成12(1800)年の『四国遍礼名所図会』には、次のように記されています。
船石名号 長一丈斗の石にあり。六字名号ほり(彫)給う」

さらに江戸時代後の「剣五山弥谷寺一山之図」の刷物には二王門の近くに「船ハカ」(墓)とあり、船形の表面には「南無阿弥陀仏」と記されていることが確認できます。以上から研究者はこの石造物を、舟形の名号石と判断します。つまり「船ハカ」(墓)の表面には五輪塔の右側に「南無阿弥陀仏」の六名名号が彫られていたようです。
 「船石名号」という呼び方は耳慣れない言葉ですが、これについては説経『苅萱』「高野巻」につぎのような記事があります。空海が入唐に際し、筑紫の国宇佐八幡に参詣した時のことです。

社壇の内が震動雷電つかまつり、火炎が燃えて、内よりも六字の名号が拝まるる。空海は「これこそ御神体よ」とて、舟の船杜に彫り付け給ふによって、船板の名号と申なり。

とあり、留学僧として唐に渡る時に、宇佐八幡に航海安全を祈願し参拝した時に「南無阿弥陀仏」の六字名号が降されます。空海はこれを御神体として船に彫りつけたことから「船板名号」と呼ばれるようになったというのです。船形の名号は「船板名号」と呼ばれ、弘法大師と深く関わるもののようです。県下の天福寺には版本船板名号が残されています。

弥谷寺 板本船板名号

大きな蓮台の上に、やはり「時衆二祖真教様」の六字名号が船形光背とともにみられ、「空海」と御手判があり、その上下にキリークとアの梵字と掲があります。これらの遺品は、空海筆銘六字名号として、弘法大師信仰と念仏信仰が混じり合ったもので真言宗寺院に残されていることが多いようです。
以上から、弥谷寺の船石名号の石造物は、「高野巻」に記される船板名号を石造に代えて建立した物のようです。
今は、六字名号は見えなくなっていますが、書体は本堂横の壁面と同様に「時衆二祖真教様」であったのでしょう。そしてかすかに見える五輪塔は真言(密教)と念仏の混淆を表し、そこには弘法大師信仰がうかがえます。これも時衆思想がこの寺に大きな影響を与えていた痕跡のひとつのようです。
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弥谷寺本堂横の磨崖に彫られた五輪塔
 弘法大師信仰と阿弥陀信仰の念仏を一体化させたのは、どんな僧侶たちだったのでしょうか? 

弥谷寺 高野聖

『説経苅萱』「高野巻」については、時衆系の高野聖が関わったことが分かってきているようです。弥谷寺の船石名号も時衆系高野聖の活動の痕跡と考えられるようです。
  次の3つは、出現時期が室町時代末期に重なり合います。
①弥谷寺の船石名号
②愛媛県・観自在寺の船板名号の版木
③「高野巻」
ここからは、研究者は次のように考えています。

この頃に弘法大師空海作の船板名号が時衆系高野聖の手によって創作されたこと、さらに、それが弥谷寺の石造船石名号に「発展」した。

ここにも時衆の影響が濃厚に見られます。そして、弘法大師信仰と念仏信仰の両方を持った存在として、時衆系高野聖が浮かび上がってきます。室町時代の弥谷寺には、時衆系高野聖がいて、高野山との直接的な関係があったことが推察されます。
弥谷寺 高野聖2
一遍と弟子たち
それではいつ頃、弥谷寺に時衆思想が伝わってきたのでしょうか
 阿波の板碑が正和4年(1315)頃に作られているので、14世紀前半には阿波には時衆思想が及んでいるようです。また高野山奥院の康永3年(1344)の名号板碑は阿波から運ばれたと考えられています。それを行ったのは高野聖だとされていて、四国と高野山との間には時衆思想の交流があったことが分かります。

また、弥谷寺のある天霧山周辺から採掘された石材(天霧石)を用いて鎌倉時代末期の石造層塔(35)が高野山に建立されています。これは、讃岐(弥谷寺)と高野山との人とモノの直接的交流があったことを示します。
紀伊天野社多宝塔
高野四社明神図
 逆に、弥谷寺には室町時代初期の絹本著色高野四社明神図が伝来されています。高野四社明神とは高野山の鎮守四神(高野・丹生・気比・厳島)で、高野山独自のものであり弥谷寺には関係のないものです。この図が何時、誰によって持ち寄られたのかは分かりません。しかし、状況証拠はこの明神図をもたらしたのも高野聖であることを示しているようです。物の動きからは、高野山と弥谷寺が深く結ばれていたことがうかがえます。
 古くから高野聖は、高野山に納骨を信者に勧めました。

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弥谷寺水場近くのキリク文字
 澄禅の『四国辺路日記』には弥谷寺について次のように記されています。
「其下二岩穴在、爰に死骨ヲ納ル也。水向ノ舟ハ中ニキリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」

 ここからは近世以前から納骨の風習があったことが分かります。ここには「キリクノ字(阿弥陀の種子)、脇二空海卜有」と阿弥陀如来と空海が結びつけられています。つまり念仏信仰と弘法大師信仰が結合されているのです。これも、時衆系高野聖の「流儀」です。


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本堂横磨崖の五輪塔 穴は納骨場所でもあった
 弥谷寺の磨崖五輪塔については、三輪塔の地輪や水輪部に方形の穴を穿つて、死骨を納めたことが澄禅の記事に出てきます。
これがいつの時代に始まるのかは、高野の聖たちが弥谷寺を拠点に活動を始めたのがいつなのか、とリンクすることのようです。
以上から弥谷寺における納骨の風習も、高野山の時衆系高野聖がもたらしたのではないかと研究者は考えているようです。以上をまとめておきます。

弥谷寺の阿弥陀浄土への道
①平安時代中期に真言密教の寺院として弥谷寺が創建された。
②その後、南北朝時代頃に高野山との直接的な交流が行われるようになった
③当時の高野山は時衆念仏聖に占領され、弥谷寺も善通寺の「別所」として念仏聖の拠点となった
④室町時代になり時衆系高野聖によって、弘法大師信仰と念仏信仰が持ち込まれ、浄土教的寺院(念仏信仰)へと変貌した。
⑤時衆の二河白道思想などから「弥谷=死霊が集まる霊地」としての信仰が形成されていく
⑥念仏聖(行人達)は「寄人」として村々の堂や庵を拠点に、宗教的活動を展開し「弥谷=阿弥陀浄土」観を拡げた。
⑤このような念仏聖の活動が、周辺住民を「弥谷参り」へと向かわせる原動力となった。
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。    2024年11月20日改訂版
 参考文献 
武田和昭  弥谷寺と四国辺路  弥谷寺調査報告書

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