瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:弥谷寺賽の河原

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賽の河原の地蔵尊(弥谷寺)

 Ⅴ期は、石造物の紀年銘から1700年~1830年頃に当たります。この時期は、地蔵が彫られた「地蔵刻出墓標」が外部から運び込まれ、境内に設置され続けた時代のようです。
弥谷寺の地蔵刻出墓標には、次の3あります。

弥谷寺 地蔵墓標
①舟形光背の中に地蔵立像が陽刻された舟形光背型(写真116)
②丸彫型(写真117)
③櫛形や方角柱形の正面上部に地蔵を刻出したタイプ(写真118)

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舟形光背型(弥谷寺)
①は舟形地蔵の背後に船の形をした飾りを背負わせた地蔵菩薩です。②③は、そこから船形がなくなったもので、丸彫り地蔵や姿地蔵などがあります。地蔵さまは子供が好き、あるいは守ってくれるという考え方から水子地蔵として墓域内に建てられることががあるようです。
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墓標地蔵刻出型(弥谷寺)

讃岐でも地蔵刻出墓標の多くは子墓ですが、弥谷寺では大人の戒名が見られ、大人の墓標として地蔵刻出墓標が使われているのが特徴のようです。
弥谷寺 紀年名石造物の推移

  弥谷寺の年代が分かる石造物を、その形態毎に分類したのが次のグラフです。
このグラフから次のようなことが分かります。
①弥谷寺の最初の紀年名石造物は、1651年に造られた丸亀藩藩主の山崎志摩守祖母の五輪塔である。
②弥谷寺の紀年名石造物の多くは墓標で、地蔵刻出の占める割合が多い。
③その推移は18世紀初頭から急増し、世紀中頃にピークを迎える。
④石造物数は、1761年~70年に半減じ、その後持ち返すが19世紀中頃には激減する。

ここからも舟形光背型の地蔵刻出墓標がよそから運び込まれ、境内に増えていったことが分かります。現在の境内の地蔵さまたちは、この時期に設置されたようです。それが18世紀初頭から19世紀半ばのV期の特徴になります。
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賽の河原の参道沿いの地蔵尊(弥谷寺)

ここからは次のような疑問・課題が浮かんできます。
Q1 どうして18世紀になって、弥谷寺境内に数多くの墓標が建てられるようになったのか?
Q2 弥谷寺に建てられた墓標のスタイルが「子供用」とされる地蔵刻出の比率が高いのはどうしてか?
Q3 19世紀中頃になると、弥谷寺境内に墓標が造立されなくなるのはどうしてか?

Q1については、18世紀初頭は寺檀制度の確立が背景にあるようです。
仏性とは?捉われた心を解放する、迷いの窓と悟りの窓。源光庵 | Niwasora にわそら

寺檀制度の整備によって、広い階層の人たちが墓標を建てるようになります。「墓標造立エネルギー」が高まったのです。
弥谷寺の墓標の銘文には、次のような俗名や地名が刻まれています。
俗名称「滝口、鳥坂、藤田、入江、三谷、落合、佐野、神原」等
地名「本村、西大見、大見、宮脇、長田、多度津、丸かめ」
これらの名称や地名から弥谷寺に墓標を建てたのは三野・多度・那珂郡の人々だったことが分かります。自分の家の周辺や集落の中に墓標を建てるのではなく、弥谷寺に建てるというのは、中世以来の弥谷寺周辺の人々の葬送習俗から来ていると研究者は考えています。

弥谷寺 大山の石積石塔
伯耆大山の賽の河原の石積石塔 
弥谷寺と同じように「死霊のおもむく山」とされたのが伯耆大山です。
大山では、里の人々は四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積みます。これも霊をともらう積善行為です。三十三年目の弔いあげには、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから川に流します。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があるされました。

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潅頂川にかかる法雲橋周辺の磨崖五輪塔

 創立期の弥谷寺では、阿弥陀如来と地蔵菩薩が主役だったことは以前にお話ししました。
弥谷寺の境内を流れる灌頂川は「三途の川」で、仁王門からこの川に架けられた法雲橋までの参道や川縁の全域が「賽の河原」とされてきました。そこでは大山と同じように、石が積まれてきたのです。そして裕福な人たちは、磨崖五輪塔を周辺の磨崖や岩に彫りつけ、遺骨や遺品をおさめたのです。それを先祖供養だと説いたのは高野聖たちでした。こうして、中世以後、連綿と磨崖五輪塔が彫り続けられ、それが五輪塔へ変わり、さらに地蔵さまを伴う墓標へと移り替わって行きます。
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賽の河原の地蔵尊(弥谷寺)

V期において弥谷寺は墓標が建てられるだけではなかったようです。
納骨の場でもあり続けたようです。水場の横にある宝暦11年(1762)灯籠には「弥谷寺納骨処」とあります。この時期には水場の洞窟が納骨所となっていたことがうかがえます。

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水向の洞窟 近世には納骨所となっていた

澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)には、弥谷寺が次のように記されています。
 (前略)護摩堂ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル巾二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、(後略)

意訳変換しておくと
護摩堂から少し南の方へ行くと水向(岩から染み出す水場)がある。ここの磨崖には二寸五歩もる刷毛で書かれたキリク文字の阿字が彫付られている。文字の廻は円相で、今時の朴法骨多肉少の筆法で書かれている。その下に岩穴があるが、ここは死骨を納めるところである。水向のキリク字が彫り込まれた脇に空海の名前もある。このあたりの磨崖には、五輪塔が無数に彫り込まれていて数えられないほどである。さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。

 ここからは水向の岩穴は「死骨」を葬る場所になっていたことが分かります。中世には磨崖五輪塔の中に納骨するという風習は、五輪塔が彫られなくなった近世になっても、形を変えて脈々と引き継がれていたようです。阿弥陀如来三尊磨崖仏の「九品の浄土」などに、祖先の墓を建て納骨することが祖先慰霊のための最善の供養だと人々は考えていたのでしょう。そのために、弥谷寺に墓標を運び込み、納骨して亡くなった人たちの慰霊としたのでしょう。こうして、寺檀制度の確立とともに、墓標を建てる風習が広がると、多くの人たちが「死霊のおもむく山」である弥谷寺を選ぶようになります。家の集落の周辺に墓標を建てるよりも、その方が相応しいと考えたのでしょう。こうして、18世紀なると弥谷寺には、墓標が急増することになります。

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 磨崖の阿弥陀三尊像(弥谷寺)

 弥谷寺に墓を建て納骨した人たちは、弥谷寺の寺院経営にも協力していくことになります。
 弥谷寺境内に建てられた金銅制の金剛拳菩薩は、20年間の勧進活動の末に1811年頃に完成しています。その際に、建立方法として一口一両以上を集める寄進活動を行っています。その募金活動の成果が次の表です。
弥谷寺 金剛拳菩薩趣意書
 一番多いのは地元の大見村の77人前、
次いで隣村の松崎村の42人前で、
郡ごとでは三野郡が190人前と多いようです。
全体で271人前となっています。
施主1人前金1両とされていたので、金271両の寄附があったことになります。大日如来(金剛拳菩薩)の建立には地元の大見村や松崎村をはじめとして、多度津藩。丸亀本藩領内、またそれ以外の各地の人々の支援によって行われていたことが分かります。彼らの多くは、弥谷寺に墓標を建てている人たちと重なり合うことが考えられます。

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金剛拳菩薩(弥谷寺)

 弥谷寺の本堂改築の寄付依頼文(「小野言衛門書状」、文書2-96-100)には、次のように記されています。
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」

意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、」

ここには境内に墓所のある人たちに、本堂改築寄進を依頼しています。本堂が焼失した記録は享保5(1720)にあるようです。そうだとすれば、弥谷寺境内に周辺農村の有力者が墓を建て始めたころになります。弥谷寺は檀家は持ちませんでしたが、墓を弥谷寺に造立した有力者は有力は保護者となったことがうかがえます。

墓標の他に、弥谷寺と周辺の人々との関係を示すものが弥谷寺に残された位牌です。研究者は近世の位牌をまとめた忌日過去帳から被供養者の没年推移数を次のようにグラフ化しています。

弥谷寺 過去帳推移

ここからは次のようなことが分かります。
①1680年代から数を増し、1710年に年代に倍増すること
②1711年~20年の10年間で、その数がまた倍増すること。
これは先ほど見た墓標の数と連動しているようです。しかし、忌日過去帳に見る戒名と墓標の戒名が一致する事例は少ないようです。墓標138基中で、忌日過去帳と同一戒名だったのは、わずか27基だけのようです。檀家に伝えた戒名と過去帳に書かれた戒名が異なると云うことです。これは何を意味するのでしょうか?  

 Q2について、考えていきます。地蔵刻出墓標は一般的には水子墓などのように子供用の墓として建てられることが多かったようです。
ところが、弥谷寺の場合には大人用の墓の半数以上に地蔵刻出墓標が使われています。その背景について、研究者は弥谷寺周辺の集落の共同墓地を調査します。その結果、集落の墓地では大人の墓標の多くが一般的な櫛形・廟形・方角柱形で、地蔵刻出墓標は少数に留まっていると報告します。ただ、弥谷寺に近い西大見集落の共同墓地では多量の大人の戒名の刻まれた地蔵刻出墓標が見つかっています。これは弥谷寺境内と同じ傾向で、両者には密接な関わりがうかがえます。
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  地蔵菩薩は墓地の入口に六地蔵を建てたり、葬送の時に六地蔵をまつる習いは今でも広く見られます。 
「死霊のおもむく山」とされてきた弥谷寺と「地蔵信仰」は、相性のいい関係だったことは先述したとおりです。Ⅰ期の鎌倉時代末に彫られた獅子の岩屋(現大師堂)の磨崖仏の10体の内の8体までは、地蔵菩薩でした。地蔵菩薩は、弥谷寺では祖先慰霊のシンボル的な仏像とされてきたようです。
  弥谷寺の「賽の河原」とされた潅頂川に沿った参道には、六道にさまよう衆生の救済をする地蔵菩薩の石像がたくさん祀られています。賽の河原は西院河原ともいわれていて、法華経方便品には子供がたわむれに砂をあつめて仏塔をつくると、この子供は仏道を成就したことになると説きます。このような弥谷寺の説く死生観に基づいて、地蔵を刻んだ墓石を信者たちは建てたのでしょう。彼らは、次の供養として高野山に参ることを勧められるようになります。高野山は、日本中の霊が集まるところと説かれていました。そこにお参りするのが何よりの供養ですということになります。

 弥谷寺周辺で地蔵刻出墓標が大人用にも選択された要因として研究者は次のように推察します。
①Ⅲ期に多量に天霧石製の地蔵坐像が造立され、それが慣例化していたこと。
②弥谷寺では、平安末期~鎌倉時代の獅子窟磨崖仏など地蔵さまが古くから造られ境内に設置され、見慣れていたこと
これは弥谷寺の伝統的信仰・風習なのかもしれません。

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Q3 19世紀中頃になると、弥谷寺境内に墓標が造立されなくなるのはどうしてか?
これについては、また次回に見ていくことにします。今回はこれまでです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年) 香川県教育委員会」
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弥谷寺の磨崖五輪塔 岩壁の中程に並ぶ
弥谷寺は境内の岩壁に数多くの磨崖五輪塔や磨崖仏が刻まれて独特の雰囲気を生み出しています。また、石仏、五輪塔、墓標などが境内のあちらこちらに数多く見られます。一方で弥谷寺は境内に、石切場が中世にはあったと研究者は考えています。つまり、石造物の設置場所と生産地の2つの顔を弥谷寺は持つようです。これまで中世に瀬戸内海で流通していた石造物は豊島石製と考えられてきました。それが近年になって天霧石製であることが明らかにされました。天霧石の採石場があったのが弥谷寺と研究者は考えているようです。
 弥谷寺の石造物については、いつ、何のために、だれによって造られたのかについて、系統的に説明した文章になかなか出会えませんでした。そんな中で弥谷寺石造物の時代区分について書かれた「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」に出会えました。これをテキストに弥谷寺の石造物を見ていくことにします。
 研究者は弥谷寺の石造物を次のような6期に時期区分します。
Ⅰ期(12世紀後半~14世紀) 磨崖仏、磨崖五輪塔の盛んな製作
Ⅱ期(15世紀~16世紀後半) 西院の墓地に天霧石の五輪塔が造立される時期
Ⅲ期(16世紀末~17世紀前半)境内各所に石仏・宝筐印塔・五輪塔・ラントウが造立される時期
Ⅳ期(17世紀後半)外部産の五輪塔・墓標の出現、弥谷寺産石造物の衰退
V期(18世紀初頭から1830年頃) 外部産の地蔵刻出墓標が設置
Ⅵ期(1830年以降)  外部産地蔵刻出墓標の衰退
今回はⅠ期の「平安時代末期~南北朝時代(12世紀後半~14世紀)」の弥谷寺の石造物を見ていきます。
この時期は磨崖仏、磨崖五輪塔が中心で、石造物はほとんど造られていません。
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本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)

磨崖仏として最初に登場するのは、本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏です。この仏は凝灰岩の壁面に陽刻され、舟形光背を背後に持ちます。今は下半身は分からないほど表面は、はがれ落ちています。

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         本堂東の阿弥陀三尊磨崖仏

中央と左像は像下に蓮華坐が見られます。中央像はよく見ると肉系と二定印が見えるので、阿弥陀如来像とされます。左脇侍は観世音菩薩像、右脇侍は勢至菩薩像で、鎌倉時代末のものと研究者は考えています。
南無阿弥陀仏の六字名号
弥谷寺では阿弥陀三尊像に向って右に二枠、 左に一枠を削り、南無阿弥陀仏が陰刻されています。それは枠の上下約2.7m、横約3mの正方形に近い縁どりをし、その中に「南無阿弥陀仏」六号の名号を明確に三句づつ ならべたもので、3×3で9つあります。これが「九品の阿弥陀仏」を現すようです。

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南無阿弥陀仏の六字名号が彫られていたスペース
 今は表面の磨滅が進み今ではほとんど読み取れず、空白のスペースのように見えます。
弥谷寺 阿弥陀如来磨崖仏 1910年頃
阿弥陀如来三尊磨崖仏(弥谷寺)左右のスペースに南無阿弥陀仏がかすかに見える

約110年ほどの1910年に撮られた写真を見ると、九品の「南無阿弥陀」が阿弥陀如来の左右の空間にはあったことが分かります。仏前この空間が極楽往生を祈る神聖な場所で、この周辺に磨崖五輪塔が彫られ、その穴に骨が埋葬されていました。

弥谷寺 九品浄土1
阿弥陀三尊の下に書かれた南無阿弥陀仏(金毘羅名所図会)


弥谷寺 磨崖仏分布図
弥谷寺の磨崖仏分布図
 次に古い磨崖仏があるのは、現在の大師堂にある獅子窟です。
弥谷寺 大師堂入り口
大師堂入口から見える獅子の岩屋の丸窓

獅子窟は大師堂の奥にあります。凝灰角礫岩を刳り抜いて石室が造られています。もともとは屋根はなかったのでしょう。獅子が口を開いて吠えているように見えるので、獅子窟と呼ばれていたようです。
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大師堂の中をぐるりと廻って獅子の岩屋へ
弥谷寺 獅子の岩屋2
獅子の岩屋(弥谷寺大師堂)
獅子窟の奥には曼荼羅壇があり、10体の磨崖仏が東壁と北壁の2ヶ所の小区画内に陽刻されています。
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壁奥の2体は頭部に肉髪を表現した如来像で、左像は定印を結んでいるので阿弥陀如来とされます。
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一番奥の磨崖仏が阿弥陀如来 一番手前は弘法大師

側壁の磨崖仏については従来は、金剛界の大日如来坐像、胎蔵界の大日如来坐像、 地蔵菩薩坐像が左右対称的に陽刻(浮き彫り)とされてきました。
弥谷寺 獅子の岩屋 大日如来磨崖仏
従来は大日如来とされた磨崖仏(弥谷寺)

ふたつの大日如来も両手で宝珠を持っているうえに、頭部が縦長の円頂に見えるので、地蔵菩薩の可能性が高いと研究者は指摘します。そうだとすると阿弥陀如来と地蔵菩薩という仏像の組合せと配置は特異で、独自色があります。「九品の浄土」と同じく「阿弥陀=念仏信仰」の聖地であったことになります。
 どちらにしても獅子窟の磨崖仏は、表面の風化と 護摩焚きが行われて続けたために石室の内部は黒く煤けて、素人にはよく分かりません。風化が進んでいるので年代の判断は難しいようですが、これらの磨崖仏は、平安時代末期~鎌倉時代のものと研究者は考えているようです。ここで押さえておきたいのは、最初に弥谷寺で彫りだされた仏は、阿弥陀如来と地蔵菩薩であるということです。
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護摩堂内部 一番左に安置されているのが道範像
どうして、弥谷寺に最初に造られたのが阿弥陀如来なのでしょうか?
任治4年(1243)に讃岐国に流された高野山のエリート僧侶で念仏僧でもある道範は、宝治2年(1248)2月に「善通寺大師御誕所之草庵」で『行法肝葉抄』を著しています。その下巻奥書には「是依弥谷上人之勧進、以諸国決之‐楚忽注之」とあります。

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道範像(弥谷寺護摩堂)
ここからこの書が「弥谷上人」の「勧進」によって記されたものであることが分かります。これが「弥谷」が史料に出てくる最初のようです。「弥谷上人」とは、弥谷山周辺で活動した修者や聖のような宗教者の一人と研究者は考えます。
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阿弥陀三尊磨崖仏(弥谷寺)
 阿弥陀三尊の磨崖仏が弥谷寺に姿を現すのは鎌倉時代のことです。
元文2年(1738)の弥谷寺の智等法印による「剣御山爾谷寺略縁起」には、阿弥陀三尊の磨崖仏の一帯が、「九品の浄土」と呼ばれてきたと記します。
弥谷寺 九品来迎図jpg

「九品の弥陀」(くぼんのみだ)とは、九体の阿弥陀如来のことです。この阿弥陀たちは、往生人を極楽浄土へ迎えてくれる仏たちで、最上の善行を積んだものから、極悪無道のものに至るまで、九通りに姿をかえて迎えに来てくれるという死生観です。そのため、印相を変えた9つの阿弥陀仏が必要になります。本堂東の水場のエリアも、「九品の浄土」して阿弥陀如来が彫られ、「南無阿弥陀仏」の六文字名号が9つ彫られます。ここから感じられるのは、強烈な阿弥陀=浄土信仰です。中世の弥谷寺は阿弥陀信仰の聖地だったことがうかがえます。
それを支えたのは高野聖などの念仏行者です。彼らは周辺の村々で念仏講を組織し、弥谷寺の「九品の浄土」へと信者たちを誘引します。さらにその中の富者を、高野山へと誘うのです。

 中世の弥谷寺には、いくつもの子院があったことは、前回お話ししました。

弥谷寺 八丁目大師堂
子院アト(跡)が参道沿いにいくつも記されている
天保15年(1844)の「讃岐剣御山弥谷寺全図」には跡地として、遍明院・安養院・和光院・青木院・巧徳院・龍花院が書き込まれています。それら子院のいくつかは、中世後期には修験者や念仏僧の活動拠点となっていたはずです。それが近世初頭には淘汰され、姿を消して行きます。それが、どうしてなのか今の私にはよく分かりません。
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磨崖五輪塔(弥谷寺)

承応2年(1653)に弥谷寺を訪れた澄禅は、次のように記します。
「山中石面ハーツモ不残仏像ヲ切付玉ヘリ」

山中の磨崖一面には、どこにも仏像が彫られていたことが分かります。
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磨崖に彫られたキリク文字
その30年後に、訪れた元禄2年(1689)の『四国偏礼霊場記』(寂本)は、次のように記します。
「此あたり岩ほに阿字を彫、五輪塔、弥陀三尊等あり、見る人心目を驚かさずといふ事なし。此山惣して目の接る物、足のふむ所、皆仏像にあらずと言事なし。故に仏谷と号し、又は仏山といふなる。」
意訳しておくと
 水場の当たりの磨崖には、キリク文字や南無阿弥陀仏の六字名号が彫りつけられ、その中に五輪塔や弥陀三尊もある。これを見る人を驚かせる。この山全体が目に触れる至る所に仏像が彫られ、足の踏み場もないほど仏像の姿がある。故に「仏谷」、あるいは「仏山」と呼ばれる。

ここからは江戸時代の初めには、弥谷寺はおびただしい磨崖仏、石仏、石塔で埋め尽くされていたことが分かります。それは、中世を通じて掘り続けられた阿弥陀=浄土信仰の「成果」なのかもしれません。この磨崖・石仏群こそが弥谷信仰を担った宗教者の活動の「痕跡」だと研究者は考えているようです。
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苔むした磨崖五輪塔(弥谷寺)
次に弥谷寺の磨崖五輪塔を見てみましょう。  磨崖五輪塔は何のために作られたのでしょうか。
五輪塔は死者の慰霊のために建立されますが、磨崖五輪塔も同じ目的だったようです。 弥谷寺の五輪塔は、空、風、火、水、地がくっきりと陽刻されています。そして地輪の正面に横20 cm前後、上下約25 cm 、深さ15 cm 程の 矩形の穴が掘られています。水輪にもこのような穴があけらたものもあります。この穴は死者の爪や遺髪を紙に包んで六文銭と一緒に納めて葬られたと伝えられます。このため納骨五輪塔とも呼ばれたようです。

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弥谷寺本堂西側の磨崖五輪塔 奉納孔が開けられている

弥谷寺の磨崖五輪塔は、次の3ケ所の岩や磨崖に集中しています。
①仁王門から法雲橋付近の「賽の河原」
②大師堂付近
③水場から本堂付近
③については、今まで説明してきたように、「九品の浄土」とされる聖なる空間で、阿弥陀三尊が見守ってくれます。ここが五輪塔を作るには「一等地」だったと推測できます。
②については、先述したように大師堂は獅子窟があるところです。ここも弥谷寺の2番目の「聖地」(?)と私は考えています。そこに、多くの磨崖五輪塔が作られたのも納得いきます。
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レーザー撮影で浮かび上がる磨崖五輪塔(弥谷寺)
①の法雲橋付近に多いのは、どうしてなのでしょうか? 
 弥谷寺では、灌頂川は「三途の川」で、仁王門からこの川に架けられた法雲橋までの参道や川縁の全域が「賽の河原」とされてきたようです。
弥谷寺の『西院河原地蔵和讃』には、次のように謡われています。
これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語 聞くにつけても哀れなり 二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが 父恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は この世の声とは事変わり 悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向の塔を組む 一重組んでは父のため 二重組んでは母のため 三重組んではふるさとの 兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども 日も入り相いのその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする 娑婆に残りし父母は 追善供養の勤めなく (ただ明け暮れの嘆きには) (酷や可哀や不憫やと)
親の嘆きは汝らの 苦患を受くる種となる 我を恨むる事なかれと くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す
その時能化の地蔵尊 ゆるぎ出てさせたまいつつ 汝ら命短かくて 冥土の旅に来るなり 娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と 思うて明け暮れ頼めよと 幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御肌へに いだきかかえなでさすり 哀れみたまうぞ有難き
このエリアには、六道にさまよう衆生の救済をする地蔵菩薩の石像がたくさん祀られています。賽の河原は西院河原ともいわれていて、法華経方便品には子供がたわむれに砂をあつめて仏塔をつくると、この子供は仏道を成就したことになると 説きます。そのために、このエリアにも早くからに五輪塔が掘り込まれたようです。

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潅頂川にかかる伝雲橋近くに彫られた磨崖五輪塔

 弥谷寺と同じように「死霊のおもむく山」とされたのが、伯耆大山です。
大山では、里の人々は四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積みます。これも霊をともらう積善行為です。三十三年目の弔いあげには、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから、川に流します。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。
  死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があると云われるようになります。
 大山と弥谷寺では、同じように阿弥陀如来と地蔵菩薩が主役です。「さいの河原」に石を積むように、磨崖五輪塔を造立することも積善行為で、先祖供養だったと私は考えています。
 この教えを広げたのは修験者や高野聖たちだったようです。弥谷寺は時衆思想の下に阿弥陀信仰の影響下に置かれたお寺で、運営は高野山と直接関係のある高野聖たちによって為されていたともいえそうです。当寺の高野山は、一山が時宗化した状態にあったことは以前にお話ししました。慰霊のために磨崖五輪塔が作られてのは、弥谷寺の聖地ベスト3のエリアであったとしておきます。

弥谷寺 磨崖五輪塔
弥谷寺の磨崖五輪塔の変遷
 弥谷寺磨崖五輪塔の初期のものは、空輪の形からは平安時代末~鎌倉時代中期のものと想定されます。しかし、軒厚で強く反る火輪を加味すれば平安時代末まで遡らせることは難しいと研究者は考えているようです。結論として、弥谷寺の磨崖五輪塔は鎌倉時代中期のもので、三豊地域ではもっとも古いものとされます。

弥谷寺 五輪塔の変化
火輪は軒の下端部が反るものから直線的なものに変遷していく。(赤線が軒反り)

 磨崖五輪塔は、多くが作られたのは鎌倉時代中期から南北朝時代です。室町時代になるとぷっつりと作られなくなります。磨崖五輪塔の終焉がⅠ期とⅡ期を分けることになると研究者は考えています。そして、 磨崖五輪塔が作られなくなったのと入れ替わるように石造物製作が始まります。 それがⅡ期(15世紀~16世紀後半)の始まりにもなるようです。ここまで見てきて私が感じることは、「弘法大師伝説」はこの時期の弥谷寺には感じられないことです。「弥谷寺は弘法大師の学問の地」と言われますが、弘法大師伝説はここでも近世になって「阿弥陀=念仏信仰」の上に接ぎ木されたようです。
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潅頂川の賽の河原に彫られた磨崖五輪塔(弥谷寺)
以上をまとめておきます。
①鎌倉時代に、弥谷寺の磨崖に仏像や五輪塔が彫られるようになった。
②磨崖仏は阿弥陀仏と地蔵菩薩がほとんどで、磨崖五輪塔は納骨穴があり慰霊のためのものであった。
③その背景には、「念仏=阿弥陀=浄土」信仰を広めた高野聖たちの布教活動があった。
④高野聖は弥谷寺を拠点に、周辺郷村に念仏信仰を広め念仏講を組織し、弥谷寺に誘引した。
⑤富裕な信者たちは弥谷寺の「聖地」周辺に、争うように磨崖五輪塔を造るようになった。
⑥弥谷寺は慰霊の聖地であり、高野聖たちは富裕層を高野山へと誘引した。
⑦こうして弥谷寺と高野山との間には、いろいろなルートでの交流が行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」
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