①舟形光背の中に地蔵立像が陽刻された舟形光背型(写真116)②丸彫型(写真117)③櫛形や方角柱形の正面上部に地蔵を刻出したタイプ(写真118)
舟形光背型(弥谷寺)
①は舟形地蔵の背後に船の形をした飾りを背負わせた地蔵菩薩です。②③は、そこから船形がなくなったもので、丸彫り地蔵や姿地蔵などがあります。地蔵さまは子供が好き、あるいは守ってくれるという考え方から水子地蔵として墓域内に建てられることががあるようです。墓標地蔵刻出型(弥谷寺)
弥谷寺の年代が分かる石造物を、その形態毎に分類したのが次のグラフです。
このグラフから次のようなことが分かります。
①弥谷寺の最初の紀年名石造物は、1651年に造られた丸亀藩藩主の山崎志摩守祖母の五輪塔である。②弥谷寺の紀年名石造物の多くは墓標で、地蔵刻出の占める割合が多い。③その推移は18世紀初頭から急増し、世紀中頃にピークを迎える。④石造物数は、1761年~70年に半減じ、その後持ち返すが19世紀中頃には激減する。
ここからも舟形光背型の地蔵刻出墓標がよそから運び込まれ、境内に増えていったことが分かります。現在の境内の地蔵さまたちは、この時期に設置されたようです。それが18世紀初頭から19世紀半ばのV期の特徴になります。
賽の河原の参道沿いの地蔵尊(弥谷寺)
ここからは次のような疑問・課題が浮かんできます。
Q1 どうして18世紀になって、弥谷寺境内に数多くの墓標が建てられるようになったのか?Q2 弥谷寺に建てられた墓標のスタイルが「子供用」とされる地蔵刻出の比率が高いのはどうしてか?Q3 19世紀中頃になると、弥谷寺境内に墓標が造立されなくなるのはどうしてか?
Q1については、18世紀初頭は寺檀制度の確立が背景にあるようです。
寺檀制度の整備によって、広い階層の人たちが墓標を建てるようになります。「墓標造立エネルギー」が高まったのです。
寺檀制度の整備によって、広い階層の人たちが墓標を建てるようになります。「墓標造立エネルギー」が高まったのです。
弥谷寺の墓標の銘文には、次のような俗名や地名が刻まれています。
俗名称「滝口、鳥坂、藤田、入江、三谷、落合、佐野、神原」等地名「本村、西大見、大見、宮脇、長田、多度津、丸かめ」
これらの名称や地名から弥谷寺に墓標を建てたのは三野・多度・那珂郡の人々だったことが分かります。自分の家の周辺や集落の中に墓標を建てるのではなく、弥谷寺に建てるというのは、中世以来の弥谷寺周辺の人々の葬送習俗から来ていると研究者は考えています。
弥谷寺と同じように「死霊のおもむく山」とされたのが伯耆大山です。
大山では、里の人々は四十九日に大川寺の金門の上の「さいの河原」で石を積みます。これも霊をともらう積善行為です。三十三年目の弔いあげには、大山寺の阿弥陀堂で小さな塔婆を作ってもらい、河原で石を積んでから川に流します。盆の時に阿弥陀堂に参詣したり、盆花を採りに大山を訪れる人もでてきます。死者の着物を持って大山寺に参り、附近の地蔵に着せると死者に逢えるとか、供養になるといわれるようになります。とくに幼児の死んだ場合には、御利益があるされました。
潅頂川にかかる法雲橋周辺の磨崖五輪塔
創立期の弥谷寺では、阿弥陀如来と地蔵菩薩が主役だったことは以前にお話ししました。
弥谷寺の境内を流れる灌頂川は「三途の川」で、仁王門からこの川に架けられた法雲橋までの参道や川縁の全域が「賽の河原」とされてきました。そこでは大山と同じように、石が積まれてきたのです。そして裕福な人たちは、磨崖五輪塔を周辺の磨崖や岩に彫りつけ、遺骨や遺品をおさめたのです。それを先祖供養だと説いたのは高野聖たちでした。こうして、中世以後、連綿と磨崖五輪塔が彫り続けられ、それが五輪塔へ変わり、さらに地蔵さまを伴う墓標へと移り替わって行きます。
賽の河原の地蔵尊(弥谷寺)
V期において弥谷寺は墓標が建てられるだけではなかったようです。
納骨の場でもあり続けたようです。水場の横にある宝暦11年(1762)灯籠には「弥谷寺納骨処」とあります。この時期には水場の洞窟が納骨所となっていたことがうかがえます。
水向の洞窟 近世には納骨所となっていた
澄禅の「四国遍路日記」(承応二年=1653)には、弥谷寺が次のように記されています。
(前略)護摩堂ヨリ少シ南ノ方へ往テ水向在リ、石ノ二寸五歩斗ノ刷毛ヲ以テ阿字ヲ遊バシ彫付王ヘリ、廻り円相也、今時ノ朴法骨多肉少ノ筆法也、其下二岩穴在、爰二死骨を納ル也、水向ノル巾二キリクノ字、脇二空海卜有、其アタリニ、石面二、五輪ヲ切付エフ亨良千万卜云数ヲ不知、又一段上り大互面二阿弥陀三尊、脇二六字ノ名号ヲ三クダリ宛六ツ彫付玉リ、九品ノ心持トナリ、(後略)
意訳変換しておくと
護摩堂から少し南の方へ行くと水向(岩から染み出す水場)がある。ここの磨崖には二寸五歩もる刷毛で書かれたキリク文字の阿字が彫付られている。文字の廻は円相で、今時の朴法骨多肉少の筆法で書かれている。その下に岩穴があるが、ここは死骨を納めるところである。水向のキリク字が彫り込まれた脇に空海の名前もある。このあたりの磨崖には、五輪塔が無数に彫り込まれていて数えられないほどである。さらに一段上ると大磨崖に阿弥陀三尊、その脇に六字ノ名号を三下りずつ六(九?)ち彫付てある。九品の阿弥陀を現すという。
ここからは水向の岩穴は「死骨」を葬る場所になっていたことが分かります。中世には磨崖五輪塔の中に納骨するという風習は、五輪塔が彫られなくなった近世になっても、形を変えて脈々と引き継がれていたようです。阿弥陀如来三尊磨崖仏の「九品の浄土」などに、祖先の墓を建て納骨することが祖先慰霊のための最善の供養だと人々は考えていたのでしょう。そのために、弥谷寺に墓標を運び込み、納骨して亡くなった人たちの慰霊としたのでしょう。こうして、寺檀制度の確立とともに、墓標を建てる風習が広がると、多くの人たちが「死霊のおもむく山」である弥谷寺を選ぶようになります。家の集落の周辺に墓標を建てるよりも、その方が相応しいと考えたのでしょう。こうして、18世紀なると弥谷寺には、墓標が急増することになります。
磨崖の阿弥陀三尊像(弥谷寺)
弥谷寺に墓を建て納骨した人たちは、弥谷寺の寺院経営にも協力していくことになります。
弥谷寺境内に建てられた金銅制の金剛拳菩薩は、20年間の勧進活動の末に1811年頃に完成しています。その際に、建立方法として一口一両以上を集める寄進活動を行っています。その募金活動の成果が次の表です。
一番多いのは地元の大見村の77人前、次いで隣村の松崎村の42人前で、郡ごとでは三野郡が190人前と多いようです。全体で271人前となっています。
施主1人前金1両とされていたので、金271両の寄附があったことになります。大日如来(金剛拳菩薩)の建立には地元の大見村や松崎村をはじめとして、多度津藩。丸亀本藩領内、またそれ以外の各地の人々の支援によって行われていたことが分かります。彼らの多くは、弥谷寺に墓標を建てている人たちと重なり合うことが考えられます。
「御本尊御開扉成さるべく候処、御本堂先年御焼失後、御仮普請未だ御造作等御半途二付き、御修覆成され度」
意訳変換しておくと
「御本尊を開帳したいが、本堂が先年焼失したままで、まだ仮普請状態で造作の道の半ばに過ぎない。本堂改築の資金調達のために、」
ここには境内に墓所のある人たちに、本堂改築寄進を依頼しています。本堂が焼失した記録は享保5(1720)にあるようです。そうだとすれば、弥谷寺境内に周辺農村の有力者が墓を建て始めたころになります。弥谷寺は檀家は持ちませんでしたが、墓を弥谷寺に造立した有力者は有力は保護者となったことがうかがえます。
ここからは次のようなことが分かります。
①1680年代から数を増し、1710年に年代に倍増すること②1711年~20年の10年間で、その数がまた倍増すること。
これは先ほど見た墓標の数と連動しているようです。しかし、忌日過去帳に見る戒名と墓標の戒名が一致する事例は少ないようです。墓標138基中で、忌日過去帳と同一戒名だったのは、わずか27基だけのようです。檀家に伝えた戒名と過去帳に書かれた戒名が異なると云うことです。これは何を意味するのでしょうか?
Q2について、考えていきます。地蔵刻出墓標は一般的には水子墓などのように子供用の墓として建てられることが多かったようです。
ところが、弥谷寺の場合には大人用の墓の半数以上に地蔵刻出墓標が使われています。その背景について、研究者は弥谷寺周辺の集落の共同墓地を調査します。その結果、集落の墓地では大人の墓標の多くが一般的な櫛形・廟形・方角柱形で、地蔵刻出墓標は少数に留まっていると報告します。ただ、弥谷寺に近い西大見集落の共同墓地では多量の大人の戒名の刻まれた地蔵刻出墓標が見つかっています。これは弥谷寺境内と同じ傾向で、両者には密接な関わりがうかがえます。
地蔵菩薩は墓地の入口に六地蔵を建てたり、葬送の時に六地蔵をまつる習いは今でも広く見られます。
「死霊のおもむく山」とされてきた弥谷寺と「地蔵信仰」は、相性のいい関係だったことは先述したとおりです。Ⅰ期の鎌倉時代末に彫られた獅子の岩屋(現大師堂)の磨崖仏の10体の内の8体までは、地蔵菩薩でした。地蔵菩薩は、弥谷寺では祖先慰霊のシンボル的な仏像とされてきたようです。
弥谷寺の「賽の河原」とされた潅頂川に沿った参道には、六道にさまよう衆生の救済をする地蔵菩薩の石像がたくさん祀られています。賽の河原は西院河原ともいわれていて、法華経方便品には子供がたわむれに砂をあつめて仏塔をつくると、この子供は仏道を成就したことになると説きます。このような弥谷寺の説く死生観に基づいて、地蔵を刻んだ墓石を信者たちは建てたのでしょう。彼らは、次の供養として高野山に参ることを勧められるようになります。高野山は、日本中の霊が集まるところと説かれていました。そこにお参りするのが何よりの供養ですということになります。
弥谷寺周辺で地蔵刻出墓標が大人用にも選択された要因として研究者は次のように推察します。
①Ⅲ期に多量に天霧石製の地蔵坐像が造立され、それが慣例化していたこと。②弥谷寺では、平安末期~鎌倉時代の獅子窟磨崖仏など地蔵さまが古くから造られ境内に設置され、見慣れていたこと
Q3 19世紀中頃になると、弥谷寺境内に墓標が造立されなくなるのはどうしてか?
これについては、また次回に見ていくことにします。今回はこれまでです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年) 香川県教育委員会」
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