瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:御手洗

 前回は延岡藩の大名夫人である充真院の金毘羅参拝を見ました。その中で、多度津港に入港後にどうして港の宿に入らないのか、また、どうして日帰りで金比羅詣でを行うのか、金毘羅門前町の宿を利用しないのかなどの疑問が湧いてきました。そこで、90年ほど前の熊本藩の家老級の人物の金比羅詣でと比較して、見ておこうと思います。
テキストは「柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』です。
 肥後藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を残しています。
この旅行の目的は、松洞が江戸詰(家老代)に任命されての上京でした。まず米田松洞について、事前学習しておきます。

□肥後物語 - 津々堂のたわごと日録
肥後物語

米田松洞は、享保五年(1720)11月12日生で、「肥後物語」には次のように記します。
「少きより学問して、服部南郭を師とし、詩を学べり、器量も勝れたる人(中略)当時は参政として堀平太の政事の相談の相手なり」

また『銀台遺事』には
「芸能多識の物也、弓馬軍術皆奥儀を極、殊に幼より学問を好て、詩の道をも南郭に学び得て、其名高し」

彼は家老脇勤方見習・家老脇など諸役を歴任し、寛政9年(1797)4月14日78歳で死去しています。金比羅詣では52歳のことのようです。
それでは『松洞様御道中記』を見ていくことにします。   
晴天2月25日 朝五時分熊本発行新堀発
晴天  26日 五半比 大津発行 所々桃花咲出桜ハ半開 葛折谷辺春色浅し 
晴天  27日 朝六時分 内牧発行 春寒甚し霜如雪上木戸ヲ出し 九重山雪見ル多春山ヲ詠メ霊法院嘉納文次兄弟事ヲ度々噂ス野花咲乱レ見事也
晴天  28日 朝五時分 久住発行 途中処々花盛春色面白し 

旧暦2月末ですから現在の3月末あたりで、桜が五分咲き熊本を出立します。
肥後・豊後街道
熊本から大分鶴崎までの肥後街道
そして、阿蘇から九重を突き抜け、豊後野津原今市を経て、大分の鶴崎町に至っています。この間が4日間です。

今市石畳
野津原今市

熊本藩は「海の参勤交代」を、行っていた藩の一つです。
『熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図』には、江戸から帰国した熊本藩主の船が豊後国鶴崎(大分市)の港に入港する様子が描かれています。
熊本藩の海の参勤交替
熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図
 ひときわ絢爛豪華な船が、藩主が乗った波奈之丸(なみなしまる)で、細川氏の家紋「細川九曜」が見えます。こうした大型の船は、船体に屋形を乗せたことから御座船(ござぶね )と呼ばれていました。熊本藩の船団は最大で67艘、水夫だけで千人にのぼったとい説もあります。いざという時には、瀬戸内海の大きな水軍力として機能する対応がとられていたようです。出港・入港の時は鉦(かね)や太鼓に合せて舟歌を歌ったと云いますから賑やかだったことでしょう。
 一説によると、加藤清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたと云います。「秀吉さまの大阪城へ出向くときに、便利なように」という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れたと云います。その後一国一城令で鶴崎城は廃城とされて、跡には熊本藩の鶴崎御茶屋が置かれ、豊後国内の熊本藩所領の統治にあたります。宝永年間(1704〜)には細川氏の藩船が置かれ、京都や大阪との交易地としても繁栄するようになります。

大分市東鶴崎の劔八幡宮(おおいた百景)
鶴崎の剣神社

 鶴崎には、細川氏建立の剣神社があり、先ほど見た「細川船団」の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられています。"波奈之丸"とはいかなる大波にもびくともしない、という意味で航海の無事を祈願してつけられたようです。 ここでは、熊本藩が大分鶴崎に、瀬戸内海への拠点港を持っていたことを押さえておきます。ここをめざして、米田松洞は阿蘇を超えてきたのです。

晴天  29日 朝六時分 野津原発行 今日益暖気 鶴崎町 今度乗船二乗組之御船頭等出迎。直二寛兵衛宅へ休夕飯等馳走 寛兵衛父子も久々二て対面 旧来之事共暫ク咄スル

 鶴崎に着いた日は晴天で、温かい日だったようです。野津原から到着した一行を、船頭などの船のスタッフが迎えます。その後、馴染みの家で夕食を世話になっていると、江戸参府を聞きつけた知人たちが「差し入れ」をもって挨拶にやってきます。それを一人ひとり書き留めています。宿泊は船だったようです。

夕飯 右少雨六ツ比二乗船 御船千秋丸十三反帆五十丁立
右御船ハ元来丸亀二て京極様御船ナリ 故アリテ昔年肥後へ被進候 金具二者今以京極様御紋四目結アリ 甚念入タル仕立 之御船也 暫クして鏡寛治被参候 重田治兵衛も被参候 緩物語二て候熊本へも書状仕出ズ今夜ハ是二旅泊

意訳変換しておくと
今回乗船するのは千秋丸で十三反帆五十丁の規模の船である。この船は、もともとは丸亀の京極様の船である。故あって、肥後が貰い受けたものなので、金具には今も京極様の御紋四目結が残っている。念入に仕立てられた船である。しばらくして鏡寛治と重田治兵衛がやってきて歓談する。その後、熊本へも鶴崎到着等の書状を書いた。今夜は、この船に旅泊する。

千秋丸は、以前には丸亀京極藩で使われていた船のようです。
 それがどんな経緯かは分かりません肥後藩の船団に加えられていたようです。十三反帆とあるので、関船規模の船だったのでしょう。
薩摩島津家の御召小早 出水丸
薩摩島津家の御召小早 出水丸(八反帆)

上図の島津家の小早船)は、帆に8筋の布が見えるので、8反帆ということになります。千秋丸は十三反帆ですので、これより一回大きい関船規模になるようです。

十二反帆の関船
12反帆規模の関銭

 鶴崎に到着したときに出迎えた千代丸の船頭以下の乗船スタッフは次の通りです。
  御船頭   小笹惣右工門       
  御梶取   忠右工門
  御梶替   尉右工門
  御横目   十次郎
  小早御船頭 恩田恕平
  同御船附  茂太夫
  彼らは船の運航スタッフで、この下に水夫達がいたことになります。また、この時には、関船と小早の2隻編成だったようです。
ところが出港準備は整いましたが、風波が強く船が出せない日が続きます。
一度吹き始めた春の嵐は、止む気配がありません。それではと小早舟を出して、満開の桜見物に出かけ、水夫とともに海鼠をとって持ち帰り、船で料理して、酒の肴にして楽しんでいます。その間も、船で寝起きしています。これは、航海中も同じで、この船旅に関しては上陸して宿に泊まると云うことはなかったようです。
 六日目にようやく「風起ル御船頭喜ブ此跡順風卜見へ候」とあり、出港のめどがたちます。このように海路を使用した場合は、天候の影響を受けやかったようです。そのため所用日数が定まらず、予定が立ちません。これでは江戸への遅参も招きかねません。そのため江戸後期になると海の参勤交代は次第に姿を消していくようです。

ようやく晴天になって出港したのは3月8日(新暦4月初旬)のことでした。
晴天 八日
暁前出帆 和風温濤也 朝ニナリ見候ヘハ海面池水ノ如シ 終日帆棚二登り延眺ス。御加子供卜咄ス種 海上之事共聞候 夕方上ノ関二着 船此間奇石怪松甚見事也 已今殊ノ外喜二て候花も種々咲交り面白し 
意訳変換しておくと
晴天八日
夜明け前に出帆 和風温濤で朝に見た海面は、おだやかで湖面のようであった。終日、船の帆棚に登って海を眺望する。水夫達といろいろと話をして、海の上での事などを聞く。夕方に周防上関に着く。その間に見えた奇石や怪松は見事であった。また、桜以外にも、種々の花が咲いていて目を楽しませてくれた。
旧暦3月8日に大分を出港して、そのまま北上して周防の上関を目指しています。ここからは18世紀後半には、上関に寄港する「地乗り」コースですが、19世紀になると一気に御手洗を目指す「沖乗り」コースが利用されるようになるようです。

5
江戸時代の瀬戸内海航路
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路 伊予沖

上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。
上関 → 大津浦 → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

瀬戸内海航路と伊予の島々

この間、潮待ちのために港へと、出入りを繰り返しますが旅籠に泊まることはなく、潮の流れがよくなると夜中でも出港しています。
万葉集の額田王の歌を思い出します。
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
現代語訳(口語訳)
熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。

 潮が適えば、素早く漕ぎ出しています。以前にお話したように、江戸時代の瀬戸内海の寄港地は、すぐに潮の流れに乗れる所に開けている。室津や鞆を見ても分かるように、広い湾は必要なかったのです。それよりも潮流に近い湊の方が利用価値が高く、船頭たちからも好ま
れたようです。

御手洗3
御手洗
そして、芸予諸島では地乗りの拠点港である三の瀬(下蒲刈島)ではなく、18世紀になって新たに拓かれた沖乗り航路の拠点である御手洗(大崎下島)に寄港しています。
晴天十日
今朝 出帆微風ナリ 山々節奏盛ナリ甚見事 夜五ッ比御手洗へ着船 十日温風微瀾暁前出帆 朝飯後華子瀬戸二至ル 奇石怪松甚面白シ 此瀬戸ヲ俗二はなぐり卜云実ハ華子卜云 此地海上之様二無之沼水の趣ナリ 殊二面白シ処 桜花杜鵠花筒躊花其外種々の花咲乱レ見事成事共也 潮合呼しくなり候間暫ク掛ル 其内二洲二阿がり花前二て已 今理兵衛御船頭安平恕平十次郎同伴二て酒ヲ勤メ候 嘉平次も参候そんし懸なき処二て花見ヲ致候 已号殊之外面白がり二て候 上二八幡社アリ是二参詣ス宜キ 宮造ナリ湊も賑ハし昼過比潮宜ク候 由申候二付早速本船へ移り 其まま出帆 暮頃湊二着船
意訳変換しておくと
晴天十日
ぬわ(怒和)を早朝に出帆。山々が新緑で盛り上がるように見える中を船は微風を受けて、ゆっくりと進む。夜五ッ(午後8時)頃に御手洗(呉市大崎下島)へ着船
十一日、温風微瀾の中、夜明け前に出帆し、朝飯後に華子瀬戸を通過。この周辺には奇石や姿のおもしろい松が多く見られて楽ませてくれた。 華子瀬戸は俗には、はなぐり(鼻栗)瀬戸とも呼ばれるが正式には、華子であるという。この辺りは波静かで海の上とは思えず、まるで湖水を行くが如しで、特に印象に残った所である。桜花杜鵠花筒躊花など、さまざまな花咲乱れて見事と云うしかない。潮待ちのためにしばらく停船するという。船頭の安平恕平十次郎が酒を勧め、船上からの花見を楽しんだ。この上に八幡社があるというので参詣したが、宮造りや湊も賑わっていた。昼過頃には潮もよくなってきたので、早速に本船へもどり、そのまま出帆し暮れ頃、に着船。
はなぐり瀬戸

来島海峡は、当時の船は魔の海域として避けていたようです。そのため現在では大三島と伯方島を結ぶ大三島大橋が架かるはなぐり(鼻栗)瀬戸を、潮待ちして通過していたようです。この瀬戸の南側にあるのが能島村上水軍の拠点である能島になります。

風景 - 今治市、鼻栗瀬戸展望台の写真 - トリップアドバイザー


 難所のはなぐり瀬戸で潮待ちして、それを抜けると一気に鞆まで進んで夕方には着いています。鞆は、朝鮮通信使の立ち寄る港としても名高い所で、文人たちの憧れでもあったようですが、何も触れることはありません。
江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と

 さて、前回に幕末に延岡藩の大名夫人が藩の御用船(関舟)で、大坂から日向に帰国する際に金毘羅詣でをしていることを見ました。
そこで疑問に思ったことは、次のような点でした。
①御用船の運行スタッフやスタイルは、どうなっているのか。
②どうして入港しても港の宿舎を利用しないのか? 
③金比羅詣でに出かける場合も、金毘羅の本陣をどうして利用しないのか?
以上について、この旅行記を読むとある程度は解けてきます。
まず①については、熊本藩には参勤交替用の「肥後船団」が何十隻もあり、それぞれに運行スタッフや水夫が配置されていたこと。それが家老や家中などが上方や江戸に行く時には運行されたこと。つまりは、江戸出張の際には、民間客船の借り上げではなく藩の専用船が運航したこと。
②については、潮流や風任せの運行であったために、潮待ち・風待ちのために頻繁に近くの港に入ったこと。そして、「船乗りせむと・・・ 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」で、潮流が利用できる時間がくれば、即座に出港すことが求められたこと。時には、「夜間航海」もすることがあったために、宿舎を利用すると云うことは、機動性の面からも排除されたのかもしれません。
 また、室津などには本陣もありましたが、御手洗や上関などその他の港には東海道の主要街道のような本陣はなかったようです。そのために、港では御座船で宿泊するというのが一般的だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

   18世紀半ばすぎから19世紀初頭の半世紀で御手洗の人口は4倍に激増しています。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
明治5年(1872) 戸数369
そして、明治10年(1877)には400戸を越えています。このあたりが御手洗の繁栄のピークだったようです。そして明治20年代に入ると、戸数はしだいに減少に転じていきます。それは塩飽や小豆島など島嶼部の港が共通にたどる道です。
どうして、明治二〇年代に瀬戸内海の港町の勢いが失われていくのでしょうか。いくつかの要因がありますが
まず第1に考えられるのが鉄道の到来です。
 日清戦争の際に広島に大本営が置かれるのは、広島まで鉄道が延びていたからです。明治27年の日清戦争の開戦時には、鉄道が広島までやってきていたのです。これは輸送革命をもたらします。輸送手段の主役は、船から鉄道へと代わっていくことになります。人とモノの流れが変わります。芸予の人たちは、船で大阪に向かっていましたが山陽沿いに鉄道が走るようになると、尾道や三原に出て鉄道に乗るようになります。御手洗をはじめとする瀬戸の港町は「瀬戸内海という海のハイウエーのSA(サービスエリア)」の地位を、次第に追われるようになったようです。
 2つめは、ライバル港の登場です。
明治になると、御手洗の北側にある大崎上島の東をぬける航路が整備されます。この航路に沿って燈台建設などが進められ、そのルート沿いの木之江や鮒崎が御手洗のライバル港として現れます。それまで御手洗を中心に形成されていた商業圏が崩れ始めます。
3つめは、船の変化です。
7 機帆船

 明治後半になると、江戸時代以来の帆船に変わり機帆船の数が増えはじめます。この時代になると人もモノも鉄道に流れ、北前船の姿は消えます。瀬戸内海物流の主役は、石炭になります。北九州の石炭を大阪に運ぶ機帆船が多くなります。この船は御手洗に入港しますが、その積み荷の石炭を御手洗商人が買い入れて、地域で売るということはできません。御手洗商人の活躍の場が無くなったのです。
 また、機帆船は焼玉エンジンを積んだ動力船なので、それまでの帆船のように風待ち、潮待ちを重ねながら航海をするということはなくなります。目的地の大坂を目指して、御手洗を素通りしてしまう船が多くなります。それに加えて、先ほど行ったように大崎上島の木之江、鮒崎が寄港地として台頭します。減った船を、ライバル港と奪い合うよう状況になっていったようです。
 それまで、芸予諸島西部の商業圏を、江戸時代に広島藩の海駅だった下蒲刈島の三之瀬と御手洗が二分してきました。ところが大正時代にはいると、大崎上島の木之江がめざましい成長をとげ、御手洗の北部の商圏は木之江のものとなっていきます。 御手洗を中心とする経済圏が、次第に狭められていきます。

 4つめは、焼玉エンジンが海のストロー現象を引き起こします。
7 御手洗 焼玉g
動力船の一般化によって島の人々の線の行動範囲は、ぐーんと広がりました。尾道、竹原、今治などの大きなまちに、一日で往復できる時代がやってきたのです。島の人たちは、動力船に乗り合わせて「都会」に買物にでかけるようになります。動力船が普及する前は、手こぎ船で往復できる御手洗、三之瀬、木之江というまちが商圏でした。御手洗商圏を動力船が突き崩してしまったのです。近年の高速道路や新幹線が、お洒落な人たちを三宮や梅田まで買い物に出かけさせるようになったのと似ています。百年前のストロー現象が瀬戸内海で起きていたのです。
  「繁栄」を続けていたのは、御手洗のどの地区なのでしょうか?
当時の地籍図からそれが読みとれるようです。明治28年の地籍図には、地租徴税のために御手洗の10の町毎にの宅地評価ランクが1~5等で示されています。ここからは屋敷地の評価価値を読みとれます。評価が高い町は、活発な活動が行われていると考えられます。
 
7 御手洗 M28

 一等の黒い宅地部分はは、住吉町の海岸通りと相生町です。
住吉町は、江戸時代後期に新しい波止場築かれ、船宿、置屋のある歓楽街として賑わいをみせてきました。それが、帆船がまだ多かった明治二〇年代には、寄港する船乗り相手に賑わいを維持していたことがうかがえます。また、相生町は、御手洗の商業の中心地です。中継的商業が衰退しても、賑わいの「残照」が残っていたようです。

 二等の斜線部分は、蛭子町と、住吉町、榎町、天神町のI部です。
蛭子町は、住吉神社の前の波止場が出来る前までは、北前船の荷揚げ場の中心でした。そのため蛭子町は、相生町にも増して賑わいをみせたところと思われますが、この頃には多くの宅地が二等となっています。
   三等の格子状部分、常盤町に多く分布します。
常盤町は、今でも古い町並みを残す一角で、江戸時代のある時期までは、御手洗の商業の中心であったところでした。しかし、明治二〇年代には、相生町、蛭子町より等級は落ちています。かつての賑わいがなくなっていたことがうかがえます。
それでは、これが16年後の明治44年には、どう変化しているでしょうか?
明治44年版は、25ランクに細分化されています。しかし、一等の黒い部分が一番高く評価されている宅地であることに変化はないようです。
7 御手洗 M44
 前回の明治28年に一等だった住吉町は、一~三等の三ランクに区分されています。大東寺付近が一等で、南に行くと三等となるようです。しかし、住吉町がトップランクなの変わりないようです。石炭をはこぶ機帆船が主流になっても、船員たちは大坂からの帰路には、馴染みの女がいる住吉町に立ち寄る者は少なくなかったようです。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」
という船宿の主人の言葉が思い出されます。
 16年前は二等であった相生町は九等まで下がっています。蛭子町は、大部分が10等です。やはり、住吉町の色町の輝きは船乗りを引きつける魅力があったようです。
戦前の御手洗の「主力商品」は、なんだったのでしょうか?
7 御手洗 交易表

  一番下の昭和13年の輸入金額でみると、最も多いのは「弁甲」とあります。私は、最初は「鼈甲」と勘違いしていて、不思議に思っていたことがあります。弁甲とは、九州日向産の杉のことです。これが木造船には最もいい用材とされたようです。それが御手洗港の輸入取扱額の半分以上を占めます。丸太材も10%ありますので、6割は木材ということになります。輸出に至ると、「弁甲」は8割近くになります。
 明治には米の取扱が半分だったのが、主役は「弁甲」に代わっているのが分かります。この背景には何があったのでしょうか?
弁甲は宮崎から御手洗に送られてきて、ここから阪神地方へと送られていたようです。丸太材は宮崎、高知、徳島から御手洗にはいり、やはり阪神地方に運ばれています。
 瀬戸内海は、古くから「海民」の活躍の場であり、その機動力として多くの船が作られてきた土地柄です。御手洗の近くにも広島県倉橋島や岡山県牛窓などの船大工が集まり、船造りが盛んな所がありました。
 明治末期から大正時代にかけ、その船大工の伝統をもとに、大規模な造船地が生まれてきます。大正時代にはいると巨大な造船地帯を形成するようになり、第一次世界大戦の戦争景気ではおびただしい数の船が作られて、造船景気を生み出します。
 御手洗の港で弁甲が大量に取引されるようになったのも、芸予諸島の造船地帯の勃興が背景にあったようです。御手洗は、弁甲産地の宮崎と、主な需要地の阪神地方のほぼ中間に位置し、また、瀬戸内各地に造船地帯を背後に持ちます。そのことが御手洗を船材の中継地としての役割を持たせることになったと研究者は考えているようです。
 もちろんそこには、中継的商業の伝統のノウハウが御手洗に根づいていたこともあります。御手洗は大正時代に「北前船の米」から、「造船所で使う弁甲」の中継地へと転進したようです。
 しかし、これも木造船から鋼鉄船へと変わる時代がやって来ます。それに対応する術は、なかったようです。

 現在の御手洗で、約百年前の昭和初年からの商売を引き続いて行っている家は、10軒もないと言います。大きな変動の中で多くの人が、ここから出て行ったのです。
 御手洗のまちを歩くと、塗寵造りの商家の二階の格子窓をぶちぬき、物干し場をとりつけたり、表通りの倉庫が蜜柑納屋に変わっている光景がかつてはありました。商家の多くが仕舞屋に変わったばかりでなく、いつの頃からか町中にみかん農民が住みはじめたのです
 戦後、御手洗の商業がまったくふるわなくなると、人びとは家を空けて、他の土地に稼ぎに出かけ、そのまま出先に住みつく人が増えました。あるいは旅稼ぎに出かけず、店をしまったまま老後を御手洗ですごした人もいました。その家もいつしか代替わりをし、次の世代を受けつぐ者が、よその土地で暮らしをたてはじめます。そこで、その空家を買い取り、新たな人びとが御手洗の地に住みついていったのです。
 戦後、住民が交替した家を研究者が調べてみると、現在の212戸の中で、53戸までが大長出身者であったようです。大長集落は、「大長みかん」で有名なところです。かつては、「農船」(農耕船)で、周辺の無人島に出作りに出かけていました。その範囲は、芸予諸島のほか、呉市から竹原市にかけての山陽沿岸、菊間町から今治市にかけての四国地方までも及んでいたことがあります。
 大長みかんはブランド化され、みかん農家は豊かになりました。このため末子相続制のこの集落では、自立した長男たちが分家の際に御手洗の空家を手に入れるようになったのです。そのためかつては商家だった家屋に、みかん農家が入り、みかんの納屋が建てられているという姿が普通に見られたこともありました。
 何もなかった御手洗の浜に、潮待ち風待ちに入り込んだ船を相手に商売を始めたのも大長の人たちでした。社会変動の中で、人びとがまちをあとにした後に、かつての親村である大長から人々が入って行って住み始めるのを、先祖たちはどんな風に見ているのでしょうか。
 いろいろなよそ者がやってきたが、最後は地元の大長の者の手に帰ってきたと、苦笑いしているのかもしれません。
参考文献  廻船寄港地御手洗町の繁栄とそのなごり
                

広島県呉市「御手洗」は懐かしい故郷のような町並み | 広島県 | LINE ...
 江戸時代の街並みは、大火災に見舞われた経験をどこも持っています。御手洗のまちも、元文、宝暦、文政、天保と、四度の火災にみまわれているようです。なかでも宝暦九年(1759)宝暦の大火は、延焼が127世帯におよんでいます。全世帯が300軒余りでしたから半数近くの家が失われたことになります。この大火の後、まちでは年寄紋右衛門(柴屋)以下四名が、豊田郡代官所にあて、救助を願い出で次のような家屋再建の用材を求めています。
壹軒分諸入用左之通
柱八本 長貳間廻り壹尺六七寸
梁、桁六本 長貳間廻り壹尺六七寸
合掌、向差、角木、拾本 壹丈壹尺位
家なか、垂木、ゑつり、ぬいほこ 共大から竹三乗 貳尺五寸手抱
藁 三拾乗 五尺手抱
縄 貳乗半 三拾尋操
   ここからは火災後に、どのような構造の家が建てられたかが推察できると研究者は云います。
「壹軒分諸入用左之通」とありますので、一軒の家再建のために次の材料を用いるということなのでしょう。この材料を使って再建されたのは、二間四方の藁葺き家だったようです。
①柱八本 長貳間廻り壹尺六七寸
 梁、桁六本 長貳間廻り壹尺六七寸
 柱を一間間隔に四方にたて、柱の上に四本の桁と二本の梁をのせて木組みをした構造
②合掌とは、草屋根をささえる材、
③向差とは、妻側で草屋根をささえる材、
④角木は、家屋の四隅にわたして草笛根をささえる材
で、それぞれ、四本、二本、四本の計10本が必要です。
⑤家なか(屋中竹)は、合掌材の上にくくる竹。
⑥ゑつりは、藁の下地をなす桟竹
⑦ぬいほこは、藁をおさえる矛竹
⑧藁の量や縄の長さ 
ここからは、宝暦九年の大火で、更地になった跡地にあまり時をおかずに、御手洗商人たちは同規格の新たな家屋を一斉に新築していったことがうかがえます。一八世紀中期という時代は「戦後の高度経済瀬長期」と同じように、そんな再築方法が進められるだけの経済力と機運があった時代だったようです。

 今、常盤町に残る「妻入り本瓦葺き、塗寵造り」の家屋は、デザインだけでなく防火建築としても優れたものだと研究者たちは評価しています。それは「モデル住宅」を基準に、工法やデザインを共通にして建てられた建物群だからできたのではないかと研究者は考えているようです。常盤町では、古い土蔵をとりこわした際に、安永期(1772~80)の棟札が出てきたそうです。その頃には、すでに主屋の再建が一段落し、土蔵を建てる時代に移っていたのかもしれません。
 瀬戸内海の港町を歩くと「妻入り本瓦葺き塗寵造り」の町屋建築物がその「街並みの顔」となっている姿をよく見かけます。この建築様式は、18世期中期に確立されたと云われます。御手洗に今日に残る町並みも、
①宝暦の大火の後に、二間四方の藁葺き建物群が再建された
②その後、安永期にかけて現在のタイプに再建された
と研究者は考えているようです。それは
「御手洗の商人が、中継的商業を興しながら財力を築き、その力をもって生み出した町並み」
であるようです。

19世紀はじめの御手洗の人たちの職業は?
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」には、次のように記します。
当村町形勢気候民戸産業之事(前略)
御手洗町之儀者
問屋中買店商  三歩(3割)
船宿客屋風呂等焚キ渡世仕候もの三歩(3割)
農業並びに船抄日雇中背相混シ渡世仕候もの四歩(4割)
つまり、①問屋仲買人が3割  ②船宿・風呂屋が3割 ③農業と日雇い4割  という職業構成だったようです。当時、大長村と御手洗町をあわせた家数は、736軒。うち百姓481軒、社人2軒、医者4軒、町人118軒、職人13軒、浮過(日雇い)118軒とあります。百姓は大長に住んでいたので、
736軒 - 百姓481軒= 255軒
が御手洗の戸数と考えられます。そして、その3割が商人であり、日雇い無産階級の人々と同数であったということになります。
 三割を占める問屋、仲買、店商いは、どのような品物をあつかっていたのでしょうか?
  穀物 あいもの 荒物 小間物 酒 塩 薪 茶 味噌 醤油 酢 油 粕 蝋燭 呉服類 木綿 綿 紙 章汗子 銘酒 瀬戸物 琉球芋 桃 柿 諸茸類、金物細工もの類 野菜類 かう類
 以上の29品目です。主力商品は穀物(米)でした。3月から8月までは北国登りの廻船をを扱い、日本海の荒れはじめる9月から翌年の2月には、伊予、中国、九州の米穀を扱っていたようです。
  この頃には、御手洗は周辺の島々の商圏の中心地になっていました。そのため周囲の米需要を御手洗の米穀問屋が引きうけていたようです。芸予諸島の耕地は、水田耕作をするところが少なく、江戸時代は、麦や甘藷の栽培が主流でした。この畑は明治期を迎えると桃や蜜柑等の果樹園に変わり、以後も水田となることはありませんでした。そのため、島じまでは裕福な人たちは、御手洗商人から米を買っていたようです。寄港する船が購入する米も、少なくはなかったのでしょう。御手洗には、米の小売業を営む者が戦前まで多かったようです。
 小間物屋が多いのも、この町の特徴ですが遊女屋の女性たちの需要があったようです。船宿、客屋、風呂屋等については、次のように記します。
   茶屋については、
(前略)右遊女平常勤方之儀者、昼者かりと唱宿屋或者船杯ヘモ遊二参り申候、夜分者暮合頃より夜店ヲ出し時節流行之唱歌ヲ唱ひ三味線小弓杯ひき 四つ時限り夜店相仕舞申候
とあり、夜昼となく賑わいをみせていた様子がうかがえます。室町時代に、外交使節団長としてやってきた李氏朝鮮の儒学者が
「日本の港では、昼間から遊女が客を町中でひいている」
と、おどろいていましたが、時は経っても変わらない光景が日本にはあったようです。
   風呂屋については
 風呂屋之儀者貸座敷と中懸ヶ行燈ヲ出し 遊女芸子等すすめ候儀二御座候
とあり、風呂屋が貸座敷となり、客に遊女をすすめていたようです。
前回もお話ししましたが船乗りたちは船宿に到着すると茶湯の接待を受けた後,風呂に入り酒宴に興じます。この時に馴染みの女性が湯女として世話し、宴会にも侍ります。船宿に泊まるのは原則は船頭だけでしたが、船員の中には「ベッピン」と呼ばれる芸娼妓を伴い,船宿や旅館で一夜を共にすることも少なくなかったようです。置屋は,こうした芸娼妓たちの居住の場でした。芸娼妓たちは,置屋から船宿や料理屋へ出張したり,おちょろ船に乗って沖に出たりするだけでなく,置屋へ客を引き入れる場合もあったと云います。これらの業種は, 千砂子波止に近い築地通り沿いの住吉町にあったのです。住吉神社が姿を現して以後は、ここが御手洗の歓楽街だったようです。
   舟稼ぎ、旦雇、中背(沖仲仕)等については記載がありません
 船の荷物の積み卸しなどの作業には港湾労働者が必要です。彼ら「無産階級」が戸数の4割を占めていたことにも注意しておく必要があります。御手洗に来れば稼ぎ口があり、よそからの参入者を受けいれる土地柄であったのです。当然、人口流動性も高くなります。
7 御手洗 8北
  千砂子波止と住吉神社の出現が御手洗に何をもたらしたのか・
 19世紀になると御手洗には、北前船や各藩の廻船と共に、仲買商人や文人墨客など、沢山の船や人が集まる様になりました。そんな中でこの港の課題として浮かび上がってきたのが、港入口の岩礁の存在です。ここが難所となり、船を傷つけることがあったようです。そこで、幕府は広島藩に指示し、千砂子波止の着工を命じます。難工事の末、文政12年(1829)に完成した石造りの波止場は、当時「日本一無双の大波止」として、全国の船乗りに知られるようになります。
7 御手洗 波止場98北

 これの波止場の完成を契機に御手洗港は、ますます北前船が立ち寄るようになり、多くの物資が集まる巨大な経済圏の中心になっていきます。 この波止場の完成を記念して、広島藩はこの波止場に住吉神社の勧進建立計画を作成します。そして、有力者に神社建設の寄進の話を持ちかけるのです。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

住吉神社の建立資金を出したのは、だれなのでしょうか?
広島藩の勘定奉行が話を持ち込んだのは、藩の蔵本で大坂商人の鴻池善右衛門でした。善右衛門は、即座に社殿の寄付を申し出ます。彼の頭の中の算盤には、御手洗の巨大な商圏を手中に収めておこうという算段があったのかもしれません。御手洗の経済規模は、それだけの投資をしても惜しくないものに成長していたのです。
  こうして造営は、鴻池家の寄進によって進められることになります。社殿寄付の話がまとまると、天保元年(1830)年5月から境内の埋め立てが始まります。 工事の材料入手や夫役が「波止鎮守社住吉大神宮寄進帳」に詳しく残されています。
 埋め立てに先だって海辺に長さ30間の石垣が築かれます。石垣のために1446石の石が付近の村から寄進されています。寄進したのは予州北浦、御調郡鰯島、安芸郡坂村、安芸郡呉村、瀬戸田村、大長村、大河原田村などの有力者30名です。船で、御手洗に運ばれてきたのでしょう。
 次に、埋立作業の人夫のことが記されます。
付近の東野村、沖浦村、中野村、明石方村、原田村、大串村、大長村、豊島村、久比村、大浜村、斎島の島じまの庄屋が世話方になり千人を超える人夫が集められ工事が始まります。さらには、芸予諸島以外の山陽側の田万里村、小阪村、七宝村、竹仁村、小泉村の庄屋も世話方となり、工事に力をかし、人夫を送り込んできます。御手洗の商圏エリアの有力庄屋たちが協力していることがうかがえます。   
 そして、地固めの際には茶屋の遊女が総出で繰り出し、華やかな踊りを披露して、港は祭り気分に湧きたったようです。その姿をひと目見ようと、近在近郷より見物入が舟を仕立てて群をなしてやってきたと記されています。新しい港の完成と、その守り神となる住吉神社の勧進事業は、一大イヴェントに仕立てられていきます。人を呼び込むことが、港町や門前町の必須課題なのです。
  海が埋め立てられ造成されると、上棟式が行なわれます。
鴻池氏の寄進になる社殿の材は、大阪から積み出されて船で御手洗に運ばれました。同時に、大工棟梁、金具屋、屋根屋も大阪からやって来ます。波止ができ、その鎮守の住吉神社が姿を現すようになると、住吉町は御手洗の新しい表玄関となります。次々に家が建ちはじめ、紅燈あでやかな町並みが出来ていきます。この海沿いの街に建ち並んだのは、船宿と置屋だったといいます。この街並みには住吉神社の由来から住吉町と呼ばれるようになります。
  現在の住吉神社を訪ねて、その歴史を感じてみましょう
 住吉神社は御手洗の斎灘を眼前にひかえた街の南端に鎮座しています。
呉市豊町御手洗住吉町 船宿cafe若長 - 大之木ダイモ|広島、呉の ...

この境内には創建時の奉納物が数多く残されています。大坂の鴻池家により建立されたという歴史から大坂と関係したものが多いようです。まず、迎えてくれるのは境内入口に高くそびえる石造高燈寵です。これには「太平夜景」と刻まれ、天保三年(1832)、金子忠左衛門、男十郎右衛門と寄進者の名が記されています。この金子氏は、三笠屋を屋号とする御手洗の庄屋です。
 境内入口にかかる太鼓橋は、もとは木造でした。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

それを明治43年に、鞆田幸七、今田愛兵衛の寄進により、伊予の今治から石工を呼び寄せて石造りに改修しています。
 鳥居は、文政13年(1830)、大阪の和島屋作兵衛が寄進したものを、大正2年、「住吉燥浜組合」が世話人となり改修しています。
7 御手洗住吉神社3
 拝殿の前に建つ一対の狛犬には、天保4年(1833)若胡屋亀女と刻まれています。御手洗で最大の勢力を誇った遊女屋からの奉納物です。手水鉢には、文政一三年大坂岩井屋仁兵衛と寄進者の名が刻まれています。
 参道両側に建ち並ぶ30基余りの常夜燈もみごとです。
その中で、鳥居前のひときわ目立つ位置におかれた常夜燈は、文政13年多田勘右衛門が尾道の石工に刻ませたものです。多田家は、竹原屋を屋号とする御手洗の年寄を勤めた家です。ほかの常夜燈にも寄進者の名が刻まれています。その中には大阪からの海部屋、和島屋、岩片、竹雌唯、町波屋、河内屋、住吉屋、姫路屋などからの奉納があります。九州延岡の石見屋からも寄進も混じっているようです。
旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

 境内をとり囲む玉垣も住吉神社造営の時につくられたものです。
そこには多くの御手洗商人の名と共に、若胡屋、堺屋、扇屋内何某と遊女の源氏名もあります。住吉神社造営にあたり、彼女たちが競い合うように寄付をしているのが分かります。売られて来た身の行く末を案じて、神仏にすがることが唯一よりどころだったのかもしれません。
7 御手洗住吉神社5

しかし、この港の色町は「遊郭」とは、云えないと考える研究者もいるようです。
特に19世紀になって現れた住吉街は,千砂子波止の目の前に現れた歓楽街ですが、ここには「廓」がありません。女たちの生活と地域住民の間に垣根がないのです。地域住民と芸娼妓,船乗りが同じ、商店や施設を利用していました。大崎下島の若い男性が芸娼妓と懇意にしたり,芸娼妓が「地域住民の一員」として祭礼や運動会へ参加したりして、人的交流もあったといいます。これは「廓」に囲まれた遊郭とは、性格を異にします。女たちが地域に溶け込んでいたのが御手洗のひとつの特徴と云えるのかもしれません。

 19世紀初めに姿を現した新しい波止場と、その守護神である住吉神社の勧進は新しい御手洗の玄関口となりました。そして、その海沿いには歓楽街が姿を現したのです。そして、この歓楽街は機帆船の時代になっても生き残り、戦後の買収禁止法が出来るまで生きながらえていくことになります。
以上をまとめておくと
①17世紀末に埋立地に新しく常葉町が作られた。
②しかし、宝暦の大火で焼け野原になってしまった
③復興計画により同一規格の家屋が常葉町には並んで建った
④そして、この町が新しい御手洗の中心商店街となっていく
⑤18世紀初頭に新しい波止場と住吉神社が建立された
⑥そこは新しい玄関口として機能し、周辺は歓楽街となった
⑦そして、御手洗で最も最後まで活気がある場所として戦後まで存続した。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 港町御手洗の歴史一昭和33年(1958) 以前
年次
寛文 6年(1666)  御手洗への移住開始
延宝 (1673~8 1) 大長村から 18軒の商人が移住
貞享 2年(1685) 島外から商人が移住する
     4年(1707) 小倉から勧請した恵比寿神社を建て替える。
正徳 3年(1713) 町年寄役が設置される。
事保 2年(1717) 弁天~蛭子海岸線の埋め立て開始する。
事保 9年(1724) 若胡屋が広島藩から営業免許を受ける。
延享 2年(1745) 船燥場(ふなたでば)を設遣
:      年(1759)   大火が発生。
文政11年(1828) 広島藩が新たに市街地の開発を計画
文政13年(1830) 大波止ができる。大坂商人・鴻池善右衛門(広島藩蔵元)らが住吉神社を寄進
明治20年 (1887) 飛地交換分合により,大長村から独立
明治22年 (1889) 市制・町村寄せの施行で御手洗町となる。
大正 2年 (1913) 御手洗~尾道間の定期旅客線が就航
昭和33年 (1958)   売春紡止法の施行により,置屋業が廃業

旅行記 ・豊町御手洗の町並み - 広島県呉市豊町

  御手洗が発展期を迎えたのは、18世紀半ばすぎの寛延から19世紀初頭の享和期にかけてのようです。
寛延元年(1748) 戸数 83
明和五年(1768) 戸数106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   御手洗の戸数は、この半世紀で四倍近くに激増しています。
  シルクロード沿線のオアシス都市では、やってくるキャラバン隊商隊の数と、その都市の経済力は比例関係にあるといわれます。そのためオアシス都市は宿泊場所やサライ(市場)などの設備投資を怠りませんでした。一方、キャラバン隊へのサービスも充実させていきます。その中にお風呂や娼婦を提供する宿も含まれました。キャラバン隊に嫌われた中継都市は滅びるのです。
 この時代の瀬戸内海の港町にも同じような圧力がかかっていたように私には思えます。港町は廻船を引きつけるためにあの手この手の戦略を練ります。廻船への「客引きサービス合戦」が激化していたのです。その中で、御手洗は新しい港町でネームバリューもありません。沖往く船を引きつけ、船員たちをこの港に上陸させるための秘策が練られます。その対策のひとつが「茶屋・遊女屋」設置だったようです。この申請に対して、広島藩は許可します。
日本の町並み遺産
 そして若胡屋、堺屋、藤屋、海老屋の4軒に許可が下り、遊女屋が開かれることになります。
文政二年(1819)の「国郡志御編集下弾書出し帳」によると、
①若胡屋              40人
②堺屋(酒井屋)、藤屋(富土屋)  20人
③海老屋(のち千歳屋)       15人
の遊女を抱えていたと記されています。4軒あわせると百名ちかいの遊女がいたようです。
どんな人たちが遊女屋を開いたのでしょうか?
文化12年(1815)ころの町の記録「町用覚」に次のように記されています。
 若胡屋の元祖は権左衛門といへるものにて広嶋中の棚にありて魚の店を業とするものなりしに、いかなるゆへにや知か上ノ関二住居し、上ノ関にてはめんるい屋の株なりしよし、享保の頃より茶屋子供をつれ船後家の商売をいとなミ此湊にかよひ得意をもとめなしミをかさねしに、かねて船宿をたのミし肥前屋善六といへるものの世話となり小家をかり見せ(仮店)なと出し、いつしか此所の帳に入り住人とハなりぬ(後略)
  ここからは、次のようなことが分かります。
①若胡屋はもともとは広島城下で魚屋を営業していた海に関係ある一族のようです
②いつの頃からか上関(周防)に住み、めんるい屋の株を持って営業するようになった
③それが享保の頃に、御手洗にやって来て「船後家(?)」を営むようになった
④その後、土地の船宿の世話で陸に上がり、小家を仮店舗としてこの土地の者として登録されてるようになった。
分からないのは「茶屋子供をつれ船後家の商売」です。今は触れず後に廻します。「此の所の帳に入る」とは、正式にこの町の住人になったということのようです。
御手洗町並み保存地区 呉市豊町御手洗 | ツーリング神社巡り 狛犬 ...
もうひとつの桜屋を見てみましょう
 堺屋が御手洗に来たのは、若胡屋に少し遅れたころのようです。
 堺屋は安芸郡蒲刈の茶屋なりしか、延享寛延の頃より若胡屋に等しく此湊へ船にて後家商ひしか、陸にあかり蒲刈へかへりて正月年礼なとして此所へ来りたる事旧式たりしか、亭主増蔵栄介ふたりとも打つりきて不仕合して難渋にせまり一跡かまかり、引取しかいよく極難に降して公借なと多くなり蒲刈の手を放しきり寛政の頃至り此所へ入帳して本住居となりぬ
 意訳整理すると
① 堺屋は蒲刈(三の瀬?)の茶屋であったが延享寛延の頃に若胡屋と同じように、この港で船の「後家商い」を行うようになった。
②御手洗に出店しても40年ほどの間は、御手洗へ「住人登録」せず、正月と盆には郷里の蒲刈に帰って行事を済ませ、再び御手洗に稼ぎに来るといった形をとっていた。
③その後、御手洗に移住したが、不都合な事件に出会い難渋し、ついには蒲刈の商売を手放し、正式に御手洗の住人となった。
お知らせ: HPA・Photo・ワークス
御手洗の沖に停泊する廻船 
 若胡屋、堺屋が商売としていた「船後家」とは?
 沖に碇泊する船に小舟を漕ぎ寄せ、船乗りの身のまわりの世話や、衣服のつくろいから洗濯など一切を行ない、夜は「一夜妻」として伽をつとめるものです。どうも藩の公認以前から「後家商い」船を使ってやっていたことになります。桜屋の場合は、蒲刈から出張してきていたものが御手洗を拠点にするようになります。そしていつの間にか「陸上がり」して、人別帳に登録される正規の住人になっていたようです。面白いのは、船に女たちを載せて、よその港町に出かけ、そこに出店をもうけて、やがては住みつくという方法は、どこか「家船(えしま)漁民」に似ている感じがします。この「漂泊」は「海の民の」の子孫の姿かもしれません。彼らは、御手洗を拠点としてからも、鞆、尾道、宮島、大三島などさかんに出向いている記録が残っています。
花街ぞめき Kagaizomeki
  何のために女たちを船に積んで、港に移動していたのでしょうか
鞆、尾道、宮島、大三島に共通するのは、どこも大きな社寺があります。その祭礼の賑わいをあてこんで船で出稼ぎに行ったようです。船さえあればどこにでも行くことができ、商売もできたのです。

 四国伊予の大洲藩の船宿の建物が今も住吉町に残っています。
子孫の木村氏は、今から半世紀前に船宿のことについて、次のように語っています。
船宿の暮らしは、海を眺めているのが商売でした。沖になじみの船が見えると、まずは風呂を沸かします。風呂といっても、浴槽に狭い五衛門風呂です。船宿の主人が伝馬船に乗り、沖の船を出迎えに行きます。その時の挨拶は「風呂が沸いたけえ、おいでてつかあさい」というのが決まり文句でした。
 沖に碇泊する船の乗組員には、豆腐を手土産にするならわしでした。豆腐は、味噌汁の具とするものでしたが、船乗りは、豆腐が時化よけにきくと信じていました。
 船乗りが宿に着くと、茶湯の接待が行なわれます。宿の主人は、まずは船乗りに航海の労をねぎらいます。一休みすると、船乗りたちが風呂に入り、潮風にさらされた身体を流します。このとき置屋から遊女がかけつけてきます。遊女は、湯女として船乗りの背中を流します。
 港が夕闇につつまれると、酒宴がはじまります。船乗りのもとには、なじみの遊女がはべり、三味や太鼓もにぎやかに夜がふけるまで、宴がつづきました。戦前までの住吉町は、今日の姿からは想像のできないほどの賑わいがあり、夜ふけでも灯の消えた家は一軒もなく、船宿では大戸をおろすこともありませんでした。
 宴が終わると、船乗りたちはそれぞれ船に帰っていきます。
船頭のみが船宿で寝泊りします。次の朝、船頭は船宿に祝儀をおいて船に戻っていきます。祝儀の額については、定まった額はありません。船頭の心付けといった程度でした。船宿の収入のほとんどは、夜の飲食の代金でまかなわれていました。
「好きなオナゴがおれば、わざわざその港に寄ったものです」船宿を営んだ木村さんはそう話しています。
おちょろ船 御手洗 大崎上島

 先ほど話したように、港が繁栄するためには、あの手、この手で沖往く船を引きつける必要があったことを改めて知ります。
この話から分かることは
①船宿は、お風呂と宴会の場を提供するだけで、船員は泊まらない。泊まるのは船頭だけ
②船宿の収入の夜の飲食の代金でまかなわれていた。
③置屋から遊女が呼ばれいろいろな世話をした
④遊女たちが船を引きつける大きな役割を果たしていた
  おちょろ船 御手洗 大崎上島
 同じ頃の讃岐を見ると、次のようなことがおこなわれていた頃です。
①上方からの金比羅詣で客を迎えるためのに丸亀新港建設
②九州方面からの金比羅詣客の受入のための多度津新港建設
③金毘羅大権現の金丸座の建設と富くじ、歌舞伎上演
備讃瀬戸と芸予諸島の間には共通する「事件」が起きていたことが分かります。そして、瀬戸内海の物流は明治に向けて、さらに発展していくのです。

7 御手洗 ti北

 御手洗は、江戸時代になって新たに開かれた港町です。
近くには下蒲刈島に三の瀬という中世以来の有力な港町があります。それなのにどうして一軒の家もなかった所に、新しい港が短期間に姿を現したのでしょうか。
   それは、航海技術の進歩と船の大型化、そして御手洗の置かれたロケーションにあるようです。瀬戸内海航路は、中世まではほとんどが陸地に沿って航行する「地乗り」でした。現在のように出発港から目的港まで、どこにも寄港せずに一気に航海するようなことはありません。潮待ち、風待ちをしながらいくつもの港町に立ち寄りながらの航海でした。
   例えばそれまでの地乗り航路は
7 御手洗 航路ti北
①伊予津和地島から安芸の海域に入り、
②倉橋島南端の鹿老渡(かろうど)を経て
③下蒲刈島三之瀬に寄港し、
④豊田灘にはいって山陽沿岸を、竹原、三原、尾道と通って鞆へ
と進むルートが一般的でした。
 ところが、以前お話ししたように朝鮮出兵の際に軍船として用いられてた「関船」の「水押」などの造船技術が民間の廻船にも使われるようになります。今風にいうと「軍事先端技術の民間への導入」ということになるのでしょうか。また、船頭の航海技術も一気に上がります。それが北前船の登場につながるのです。腕の良い船頭の中には、それまでの潮待ち、風待ちの「ちまちま」した航海から、大崎下島の沖の斎灘を一気に走り抜けていく航路を選ぶようになったのです。これを「沖乗り」というようになります。
風待ちの港、御手洗
赤が地乗り、黄色が沖乗り航路
 沖乗りルートは
①倉橋島から斎灘を一気に渡り
②伊予大三島と伯方島にはさまれた鼻栗瀬戸をぬけ
③岩城島、弓削島を経て鞆へ
向かいます。倉橋島から大三島にかけての斎灘には、多くの島が浮かんでいます。西から下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島(以上広島県)、岡村島、小大下島、大下島(愛媛県)ですが、これらの島じまの南岸をみると、直接南風をうけるため天然の良港はなく、集落もほとんどありませんでした。それまでの多くの集落は、小島にはさまれた瀬戸にのぞんで風当たりの少ないところを選んでつくられていました。しかし、小島にはさまれた瀬戸の多くは、潮の流れが速く、上げ潮や引き潮のときは、繋船ができないほどの沿岸流が流れます。斎灘から豊田灘にかけては、北東方向に潮の流れがあり、ほとんどの瀬戸は、斎灘から北東方向を向いてぬけています。そのため大型船が湊に入ったり、係留するには不向きでした。

御手洗 (呉市) - Wikiwand
 ところが、大崎下島と岡村島にはさまれた御手洗水道は、斎灘から北西方向にぬけているのです。それに加えて御手洗水道の北には、現在は橋で結ばれている中島、平羅島、初島が並んで浮かび、潮流や風をふせぐ防波堤の役割を果たしてくれます。そのため、この瀬戸は潮の流れがゆるやかでした。大崎下島の東岸の岬の内側にある御手洗が船着場として注目されるようになったのは、そうした自然条件があったからのようです。
 沖乗りの大型船が、この海峡に入り込むようになったのは、江戸時代になってからです。
 大崎下島では、寛永一五年(1638)、安芸藩による「地詰」が行なわれています。地詰とは非公式な検地のことで、地詰帳によると御手洗地区には、
田が二町二反五畝一八歩
畠が六町四反二畝九歩、
あわせて八町六反七畝二七歩の耕地
が記録されています。しかし、屋敷は一軒も記録されていません。近くの大長や沖友の農民が、出作りの耕地として所有していたようです。 
 御手洗に屋敷割り記録が残るのは寛文六年(1666)からです。
 幕命をうけた河村瑞賢が西回り航路を開く少し前になります。しだいに北前舟の沖往く船の数が増え、なかには潮待ち、風待ちのために寄港する船も出てくるようになります。それを目あてに、大長や沖友など周辺の人びとが移り住み、にわかにまちが形づくられたようです。御手洗の屋敷割りは、制度的には寛文六年(1666)ということになっていますが、それよりも早く人々が集まり住むようになっていたようです。それは、港町といっても小さなものだったでしょう。
広島藩の藩の保護育成政策を受けた御手洗
当時は、農地をつぶして屋敷地にすることは禁止されていましたが、御手洗は特別に許されていたようです。また、海を埋め立てて屋敷をつくることも行なわれています。しかも、地子免除であったようです。ここからは広島藩が、新興港町・御手洗に人びとが移り住むことを奨励していたことがうかがえます。
御手洗の戸数が記録にあらわれるのは、それから80年後で
寛延元年(1748) 戸数83
明和五年(1768) 人家106
天明三年(1783) 戸数241
享和元年(1801) 戸数302
   と18世紀後半の半世紀で御手洗の戸数、人口は四倍近くに増加します。そこで藩は、文化五(1808)年に、御手洗の大長村からの分離独立を行い、新たに町庄屋が任命します。
 斎灘に浮かぶ芸予賭島でそれまで広島藩の重視してきた港は、下蒲刈島にある三之瀬でした。

三之瀬は、広島城下の南東30㎞に位置し、ここに番所を設け用船を常備し、船頭、水夫をおいて公用に備えていました。御手洗は、城下から約45キロ離れ、伊予境に近くにあるために不便と考えられたのか、最後まで番所が設けられることはありませんでした。それが御手洗に「自由」な発展をもたらしたのかも知れません。
 御手洗のまちを歩いてみましょう。
 御手洗は、斎灘につきだした小さな岬の周囲をぐるりととりまく形で町並みがひろがっています。船が桟橋に近づくと、岬の先端に、海に向かって建てられた石鳥居が目に入ってきます。
  蛭子神社の鳥居です。
港町 | ShimaPro BLOG
明治22年の再建で、沖からのランドマークの役割を果たしていました。まずは、やってきた報告と新しい出会いを祈念して蛭子神社に向かいます。境内は、樹木もなく瀬戸の潮風が吹きぬける海辺の社といった印象です。入母屋造り瓦葺きの社殿が迎えてくれます。
境内には、一対の常夜燈を除いて古い奉納物はありません。この常夜燈は、寛政元年(1789)、御手洗で遊女屋を営む若胡屋権左衛門と、商人新屋定蔵・吉左衛門が尾道の石工につくらせて寄進したことが銘文に刻まれています。
御手洗(蛭子神社)「チョロは出て行く」の案内板 | 古今東西散歩
 蛭子神社は、御手洗の商人が篤い信仰を寄せた社であったようです。この神社がいつ創建されたかは分かりませんが「九州の小倉から勧請されたもの」と伝えられるようです。創建当初は、梁行二尺五寸、桁行三尺五寸の柿葺きの小さな祠であったと云います。
 まちの発展に歩調を合わすように社殿は改修がくりかえされ、境内が整えられていきます。記録にあらわれる最初は、宝永四年(1707)で、御手洗に町年寄がおかれたのを祝うかのように姿を現します。以後、次のように定期的な改修が行われます。
元文四年(1739)本殿の前に拝殿がつくられた。
明和四年(1764)その拝殿が新たに建て替えられる。
安永八年(1779)社殿屋根が瓦葺きに葺き替えられる。
このように改修が行なわれたのは、御手洗の港が発展し、商人たちの「資本蓄積」が行われたことが背景にあるのでしょう。
 蛭子神社の西には弁天様を祀った尾根筋が海に向かってのびています。この二つの山の鼻にはさまれたところに、天満宮が鎮座しています。ここは背後の山が谷をつくるところで地下水脈に恵まれたところです。境内には、古い井戸が掘られています。瀬戸内海を行く交易船が昔から港に求めたものは、まずはきれいな水です。絶えることのない泉があることが必須条件です。ここから南にある荒神様も窪地となり、いくつかの井戸があります。このふたつのエリアが、御手洗が港として開発される際のチェックポイントだったのでしょう。
御手洗の10の町筋について  
7 御手洗地図1
御手洗には、複雑に入りくんだ細い路地がいく本もめぐらされ、まちが形づくられています。町名を挙げると大浦、弁天町、上町、天神町、常盤町、相生町、蛭子町、榎町、住吉町、富永町の10町になるようです。
 それらのまちの表情は、それぞれ少しずつ違っています。
西方の大浦から見て行きましょう
大浦は明治中期までは、町外れで人家が三軒しかないさびし所い所だったようです。後に海岸を埋め立て家々が建ち、今日では隣の弁天町と町並みつづきになっています。かつてはここには「貯木場」があったようで、造船材をたくさん浮かべてあったと云いますが、今はその面影もありません。
  大浦の隣の弁天町は、弁財天が祀られている山の鼻付近にひろがるまちです
弁天社本殿は、間口四尺、奥行三尺程のトタン屋根の小さなな祠です。境内には材木問屋大島良造奉納の鳥居が建ち、須賀造船所奉納の手水鉢がおかれています。寄進者から海にゆかりの人びとに信仰された社なんだなと勝手に想像します。この弁天社がいつ創建されたかは分かりません。しかし、現在地に移されたのは、文化年間(1804~18年の約2百年前のことで、庄屋柴屋種次が境内地と材料を寄進して建てたものと伝えられています。
漁師が住んでいた弁天町の長屋
 今の状態からは想像しにくいのですが弁天社の地先は、もともとは海に突き出した埋め立て地でした。そして海際から奥に続く道幅二間程の細い街路には、軒が低くたれこめた長屋が並んでいたようです。長屋一戸分の間口は三間半で、なかにはそれをさらに半分に仕切った家もありました。屋敷の奥行は、六間半余りです。長屋の建物は、四間半の奥行で、いずれも裏に一間ほどの庭があり、さらにその後に奥行一間余りの納屋があります。ここには、どんな人が住んでいたのでしょうか?
 この弁天様の先の突き出した埋立地には、漁民が住んでいたと云います。御手洗は、港でありながら漁民の数は少なかったようです。それは、この港の成立背景を思い出せば分かります。何もないところに、入港する大型船へのサービス提供のために開かれた港です。漁師はもともとはいないのです。港の人口が増えるにつれて、魚を供給するために漁民が後からやって来たのです。まちのはずれの土地を埋め立て、そこに漁民が住みついたのです。漁師が活動していた港が発展した町ではないのです。ここでは後からやって来た漁師は長屋暮らしです。
7 御手洗 北川家2
   弁天様から天満宮へつながる道筋沿いの町が上町です。
 ここには、平入り本瓦葺き塗寵造りの昔ながらの町家が何軒か残っています。しかし、壁はくずれおちています。大半は「仕舞屋(しもたや)」です。辞書で引くと「1 商店でない、普通の家。2 もと商店をしていたが、今はやめた裕福な家」と出てきます。この町筋に商家はありませんが町並みや街路の様子から早い時期につくられたまちだと研究者は考えているようです。御手洗はこのあたりから次第に開けていったようです。いわば御手洗の「元町」でしょうか。

 天満宮がこの地に移されたのは、神仏分離後の明治四年のことのようです。

それまでは、満舟寺境内に三社堂があり、そこに菅原道真像が祀られていたようです。神仏分離で
明治初年に、この地に天満宮の小祠が建てられ菅原道真像が移され
大正六年に、今の社殿が建てられたようです。

 先述したようにここが「御手洗(みたらい)の地名発祥の地といわれるのは、きれいな湧き水があったからでしょう。そのため、ここに港町がつくられる際に、まず人家が建てられたのもこの周辺だったと研究者は考えているようです。
天神町には、瓦葺きの白壁のあざやかな御手洗会館が建っています。
日本の町並み遺産

今は公民館としてつかわれているようですが、この建物は「若胡屋」という御手洗で最も大きな遊女屋の建物を改造したものです。御手洗会館の前には、やはり白壁造りの長屋門を構えた邸宅があります。
豊町御手洗の旧金子家住宅の公開 - 呉市ホームページ
これが、御手洗の庄屋を勤めた金子家の屋敷です。このようなモニュメント的な建物が並んでいることからも、天神町が、かつての御手洗の中心であったと研究者は考えているようです。
 天神町から御手洗郵便局の角を左に折れると常盤町です。
ここは、古い町並みが一番残っている町です。妻入り本瓦葺き塗寵造りの家が軒を連ねています
①もと酒・米穀問屋を営んだ北川哲夫家
②金物屋の菊本クマヨ家
③醤油醸造を行なう北川馨家
などは御手洗商人の家構えをよく残しています。
御手洗街並みレポート

 上町と天神町が、自然の地形を利用して山麓に街並みが作られているのに対して、常盤町はどちらかというと人工的なまち並みのイメージがします。ある時代、海を埋め立てて作られた街並みではないかと研究者は考えているようです。そのため、屋敷は街路に沿って整然と区画されています。町家も、同じ時期に一斉につくられたようで、よく似た規模とデザインです。御手洗が港町として繁栄の頂点にあった時に、今までの街並みでは手狭になって埋め立てが行われ、そこに競い合うように大きな屋敷が建てられたというストーリーが描けます。そして、それまでの古い町筋の上町や、天神町に代わって、常盤町が御手洗のセンターストリートになっていったようです。
   常盤町から海に向かって三本の小路がのびています。
①旧大島薬局横の小路はやや道幅が広く、小路に沿って人家が並んでいます。ここには古い木造洋館を利用した旅館などもあり、昭和初期の港町の雰囲気が残ります。
②北川哲夫家の左右にある小路は、杉の焼板を腰壁とした土壁の建物がつづいています。港とともに繁栄をきわめた商家の屋敷構えが、小路の景観にあらわれています。
 御手洗郵便局から蛭子神社に向かう道筋が相生町です。
ここは本通りと呼ばれ、明治、大正、昭和初期にかけて、御手洗の商業の中心として賑わいをみせた通りです。この町の町家の多くは、繁盛した大正から昭和初期にかけて建て替えられたようで、、総二階建て、棟の高い家屋が多いようです。
 目印になる昌文堂は、もとは、酒・醤油の小売りをしていた家でした。それが明治42年に、本屋と新聞店として開業し、この港町に新しい時代の息吹きを伝えました。この店は、大崎下島唯一の書店で、戦前までは下島から大崎上島まで、教科書の販売独占権を持っていました。そのため店先には「国定教科書取次販売所」とケヤキ板に墨書きした古めかしい看板が、掲げられていました。
 昌文堂の三軒隣の新光堂は、時計を形どった看版が目印です。

明治
17年に神戸で時計修理の技術を修得した松浦氏が、船員が数多く立ち寄るこのまちで店をひらき、珍しかった時計を売りはじめます。時代の最先端の時計を売ることが出来る豊かさがこの港はあったのです。このように相生町は、常盤町と同時代に新しく御手洗の商業の中心地となった街並みのようです。
 ところで相生町には、伝統的な町家は二軒しか残っていません。どうしてでしょうか? 
それは、このまちが御手洗の商業地として賑わい、資本蓄積が行われ、それにともない建替えがくりかえされてきたためだと研究者は考えているようです。都会でも資本力のある店は、早め早めに店を建て替えて、お客を引きつけようとします。そのため有力な商店街に、古い建物は残りません。逆説的に云うと
「建て替えるお金がないところに古い建物が残る」
といいうことになるのかもしれません。神様はこういうプレゼントの仕方をするのかもしれません。
 蛭子神社付近が、蛭子町です。
岬を中心にコ字型の町並みがあります。御手洗商人の篤い信仰を得た蛭子神社のおひざもとのまちです。ここは相生町の町並みとつづきとなっていて、明治から昭和初期まで賑わいが残りました。
 蛭子町には、江戸時代からつづく旧家が何軒か残っています。神社裏側の七卿館は、幕末に三条実美をはじめとする七卿が宿とした家で、江戸時代に庄屋を勤めた竹原屋多田氏の屋敷跡です。
ひろしま文化大百科 - 御手洗七卿落遺跡
竹原屋多田氏の屋敷跡
 竹原屋が御手洗に移住したのは、貞享二年(1685)ですので、御手洗のパイオニア的な存在になります。また、脇屋友三家は、九州薩摩藩の船宿を勤めた家です。さらに蛭子町の町はずれにある鞆田稔家は、海鼠壁の意匠が目を引く構えで、明治期に力を蓄えた商家です。この家については前回に紹介しました。
瀬戸内海の道・大崎下島|街道歩きの旅
鞆田家
蛭子町には、昭和初期に建てられた洋館が多く残っています。鞆田家の前には、別荘として建てた洋館が海に向かって今も建っています。この洋館は、もともとは芸妓の検番としてつくられたもののようです。芸子たちがお呼びがかかるまでここで、海を見ながら過ごしていたのかもしれません。
 蛭子神社の近くで医院を開業する越智家も昭和初期の洋風建築です。
とびしま海道・山と龍馬と戦跡とロケ地:5日目(5)』大崎下島・豊島 ...
昭和になるとハイカラな建物が好まれ、競い合うように洋風建築物が現れたことが分かります。蛭子町は昭和初期には御手洗で一番モダンな雰囲気の町だったようです。
 蛭子町の南が榎町です。
Solitary Journey [1792] 江戸時代から昭和の初期までに建てられた ...

大東寺の大楠が高くそびえ、ここには仕舞屋が並んでいます。満舟寺の石垣もみごとで、苔むした石が、野面積みで高く積みあげられています。
満舟寺石垣/豊地区 - 呉市ホームページ
 大東寺から海岸に沿って南にのびる町並みが住吉町です
まちの南端には住吉神社が祀られています。ここは斎灘に面したところて南風をまともにうける所で、台風などの時には被害が出ました。そのため御手洗がひらかれた時には、人家もないところでした。
 ところが文政11年(1828)に、ここに波止が築造されると、ここは御手洗の新しい玄関口なり人家が建ちこむようになります。船もこの波止場に着いたり、沖に停泊してここから渡船で行き来するようになります。波止のたもとに大坂から勧進された住吉神社が祀られたのは、その時期のことのようです。
 住吉町の山側が、富永町です。
このまちの裏手は小さな谷となっていて地下水脈に恵まれた土地のようです。この町の由来は、よく分からないようです。あまり商業が盛んでもなく、仕舞屋が並んでいます。
    隣の住吉町は船宿や置屋が建ち並びぶようになり、歓楽街として発展するようになります。この港には、オチョロ船という小舟が夜になると現れました。
おちょろ船 御手洗 大崎上島
船に遊女を乗せて沖に碇泊する船に漕ぎ寄せるのです。遊女は、船乗りの一夜妻をつとめました。彼女たちを船乗りは「オチョロ」と呼んだようです。この富永町は、このオチョロを乗せた伝馬船を漕ぐことを生業とした「チョロ押し」が多く住むまちだったと云われます。

         
大崎下島は、 大長みかんの島として知られています
今はとびしま街道のいくつかの橋で結ばれ呉市の一部となっています。芸予諸島のこの島も半農半漁の村で、明治の初め頃までは桃の木が山に多かったそうです。明治の終り頃に、温州ミカンの栽培が始まってから大きく変貌していきます。
大崎下島 - Wikipedia

 みかんのブランド化に成功するきっかけが選果機の導入だったといいます。
みかんは箱につめて出荷しますが、昭和の初め頃は、下の方には小さいのをつめ、上の方に大きなのを並べるのがあたりまえで、これをアンコとよんでいたそうです。買う方も不平を言いながらも、それを商習慣の一つとして受け取っていた時代です。このような「小さな不正」は、みな当前えに思っていたのです。
 そんな中で大正の終り頃、アメリカ農務省の嘱託として渡米した田中長三郎博士は、アメリカで機械選果機を見て感心します。これを輸人して選果して品質をそろえたら、きっと市場の信用を得て商品の価値を高めるだろうと考えました。そこで、3台の選果機を買って日本に送ります。その機械を導入して機械選果をはじめたのが、静岡・和歌山と大長だったようです。中には
「高い機械を買って選果して粒をそろえて売るのは、粒の小さいものが売れなくなり割に合わないし、もうからない」
という声も強かったようです。しかし、実際に選果機でより分けて大きさをきめ、それにあわせた定価をつけてみると、買う方は安心して買えるのでかえって信用が高まり「大長ミカン」のブランド力がいちじるしく上がったのです。
大長みかん Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
 プライドを持った農民たちは美味しいミカン作りに熱中するようになります。
売り上げも上がるので生産意欲もあがり、それまでサツマイモが植えられていた畑に次々とみかんの苗木を植えられるようになります。畑が足らなくなると、今度は誰も住まない沖の島々も買いとって、そこをミカン畑にしていったのです。そして
「大長のミカン畠は三〇〇ヘクタールであるが、島外にはそれ以上のミカン畑がある」
とまで言われるようになります。
島の末子相続がもたらしたものは?
 この島の人たちが、島外にミカン園をひろげるようになったのは、もう一つ原因があるといわれます。それはこの島の末子相続の風習です。長男が嫁をもらうと、少々の土地をもらって分家します。長男たちは、みかんを植えれば収益はあがるので、無人島に土地を買い足たし開墾して、みかん畑にしていきました。
 末子相続の風習は、芸予の漁民の間に昔からあったようで、そうした漁民たちが陸上りすると、その風習が農村社会にも引き継がれたようです。そのため、島では兄弟の関係がフラットで家長制度が緩かったと民俗学者は云います。
 大長のみかん農家は船を利用して、他の島々へ耕作に出かけていきました。
大崎下島・大長』を写真と紀行文で紹介 | 島プロジェクト

そのため大長の港は、かつては農耕船がいっぱい舫われていました。


寅さんも「難波の恋の物語」のロケシーンでムームーを行商したことがあります。この時はバックに多くの農耕船が映り込んでいました。しかし、今はその港に耕作船の姿はほとんど見られなくなりました。港の近くの公園に、一艘の耕作船が引き上げて展示されていました。
 ちなみに分家したみかん農家の長男たちが屋敷を求めたのが御手洗です。
ここにはかつての港町として栄え、大旦那の屋敷や店が軒を並べていました。しかし、昭和になるとその繁栄にも陰りが見え始め、歯が抜けるように商人たちは屋敷を残し御手洗から出て行きました。その後に移り住んだのが大長のみかん農家の長男たちだったようです。御手洗の街歩きをしていると、大きな商家風の建物に出会います。しかし、今そこに住んでいるのは商家の子孫たちばかりではないようです。

7 御手洗 北川家2
その中の一軒「北川家」をのぞいてみましょう。
瀬戸内海航路で「沖乗り」が行われるようになり、御手洗が潮待ち港として発展し始めるのは、江戸時代の後半になってからです。それまでここは、何もない海岸だったようです。港町の繁栄に引かれて周辺の大長から移り住む有力者が出てきます。北川家もそんな一軒だったようです。

 北川家の祖は吉郎右衛門で、もともとは大長の農家です。
末子相続によって、大長の家をついだのは次男兵次で、長男恵三郎が御手洗に出て商いを営むようになります。その後を継いだ喜兵衛は問屋商人として財をなし屋号を「北喜」とします。過去帳から喜兵衛は文化期に生またことが分かりますから、その活躍は天保期からあとの19世紀前半から半ばになるようです。喜兵衛の
①三男 定助が「北喜」をつぎ、
②五男 豊助が分家して「北豊」を興します。
「北豊」は廻漕店を営み、豊助の子利吉の代には、大正丸、北川丸をもち、御手洗と尾道のあいだを往き来して、廻船問屋として活躍します。
 その後、分家の成功を見て大長の本家をつぎ農業にいそしんだ兵次の孫仁太郎も御手洗に出て商いを営みだします。その家が「北仁」です。仁太郎は弘化期の生まれですから、その活躍は幕末の慶応から明治にかけてのことと考えられます。「北仁」は、蓄えた財力をもとでに金融業も営み、次第に大崎下島の土地を買い集めます。
 昭和になって廻船業が衰退すると「北仁」の当主は、商売をやめますが島は出て行きませんでした。先祖が手に入れた土地でみかん作りに乗り出すのです。みかん農家として島に生きる道を選んだ「北仁」の屋敷が残っています。この家は、常磐町の中ほどの海側に奥深くのびた作りになっています。
7 御手洗 北川家
②間口は約四間余りで、主屋の北に庭園があり、土蔵・離れ座敷が奥に建つ。別棟は渡り廊下で結ばれている。
③離れ座敷は、大正時代の建築で、入畳二室と茶室から成る数寄屋普請で、北川家が商家として全盛を誇った時代の建物。
④主尾は、妻入り塗籠造り本瓦葦きの伝統的な様式

この主屋は、北川家が御手洗進出以前に建てられていたものと研究者は考えているようです。つまり、以前に住んでいた人から買ったということでしょう。台所はのちに増築したもので、店の横の板敷きも改造した部分であるので、この増築部分を除くと、庭に沿って建屋が一列に並ぶという町家の間取りになります。
 廻船業から金融業、そしてみかん農家へと明治以後の北川家の活動の舞台となった家屋がここには、そのまま残っています。
  親子2代で御手洗の町長を務めた鞆田家を見てみましょう
7 御手洗 鞆田家
この家も幕末頃に佐藤家が立てたものを、後に鞆田家が購入したようです。佐藤家は屋号「里惣」で、幕末に船持ちとして活躍し、一代で財を築き、急成長をとげた家といわれます。その後、日清戦争を前にして軍港呉防備のために能美島に砲台が建設されることになり、「里惣」はこの仕事を請負います。ところが、工事に失敗し家運を傾けます。その際にこの「里惣」の屋敷は、そのころ金融業で羽振りの良かった鞆田家の手にわたったようです。
御手洗のクチコミ -重厚ななまこ壁の家 | 地球の歩き方[旅スケ]
 鞆田家は、それまでは住吉町に住んでいたようで屋号は「鞆幸」でした。
幕末から明治20年にかけて海産物・穀物問屋を営み、あわせて金融業にも手をひろげていた資産家です。「鞆幸」(ともこう)を名のったのは、幕末に活躍した祖父幸七に由来しているといいます。この辛七の子が市太郎で商売は行わず、医者として開業します。頼りになる
人物だったようで、明治後半には御手洗町長を勤めています。その間も、大崎上島や愛媛県岡村島、中島方面の土地を集積しています。
 市太郎の跡をついだ子は、教員となり、戦前は父と同じく町長を勤めています。先ほども云いましたが鞆田家が「里惣」(さとそう)と呼ばれる佐藤家の屋敷を買い取って、住吉町に移ったきたのは、明治三〇年ころです。
  この鞆田家の家屋を、研究者は次のように紹介しています

7 御手洗 鞆田家2
①主屋は「里惣」が全盛を誇った幕末のころのもの
②主屋は、間口四間半の妻入り塗籠造りで、脇に間口二間の平入り家屋を別棟でとりつけた造り。
③一階の開口部には当時の蔀が残されている。二階外壁の一部は、海鼠壁の凝った意匠がある。
④主屋の屋根は、寄棟桟桟瓦葺きで、御手洗の伝統的な町家の形式とは異なる。
⑤屋敷取りは、主尾の真に広い庭園を配し、土蔵、湯殿、二棟の離れ座敷を構え、それぞれが渡り廊下で結ばれている。
⑥道路をへだてた海辺には昭和10年ころに建てられた木造洋館があり、別宅としてつかわれている。
⑦主屋の間取りは通庭に沿って店、中の間、座敷の三重が一列に並ぶ
⑧台所は以前は土間につきでた板敷き、後に改造を加えて部屋とした
⑨土間の入口右手にある部屋は、市太郎が医業を営む際に用いた
御手洗の町家は、有力者の家でも通り庭に沿って部屋が二列に並ぶ造りは、ほとんどないようです。そこに中継的商業をなりわいとした問屋商人の住まいの特色があると研究者は考えているようです。

御手洗に残された有力者の家屋の遍歴を見ていると、その家を舞台に活躍した「栄枯盛衰」が見えてくるような気がします。都会では残されることのない幕末や明治の木造建築物が何軒も残っていることに驚かされると共に、そこには一軒一軒の歴史があることを改めて気づかせてくれます。
御手洗地区ガイドマップ | 田中佐知男のスケッチによる御手洗案内地図
参考文献 谷沢明 瀬戸の街並み 港町形成の研究

  

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