瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:御用日記

  以前に 坂出市史に掲載されている青海村の大庄屋・渡辺家のことを紹介しました。
御用日記 渡辺家文書
大庄屋渡辺家の御用日記

その時は、当主達の残した「御用日記」を中心に、当時の大庄屋の日常業務などが中心にお話ししました。今回は別の視点で、渡辺家と阿野北の青海村について見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世から近代における儀礼と供応食の構造 ━讃岐地域の庄屋文書の分析を通して━

渡辺家は、讃岐国阿野郡北青海付(坂出市青海町)の大庄屋でした。
まず、青海村の属していた阿野郡北を見ておきます。
阿野北は、青海村をはじめ木沢、乃生、高屋、神谷、鴨、氏部、林旧、西庄、江尻、福江、坂出、御供所の村々を構成員としました。

坂出 阿野郡北絵図
阿野北の各村々 下が瀬戸内海

阿野郡北の各村々の石高推移は、以下の通りです。
阿野郡(北條郡)村々石高
         阿野郡(北條郡)村々石高
この石高推移表からは、次のようなことが分かります。
①江戸末期の阿野那北13カ村の村高は、9500石前後であること
②石高の一番多いのは林田村の2157石、最低は御供所村の63石、青海村は563石で9番目になること。
③林田など綾川流域の村々は、17世紀中頃からの干拓工事の推進で、石高が増加していること。
④それに対して、青海・高屋・神谷などは、石高に変化がなく、減少している村もあること。
④については、米から甘藷・木綿などの換金作物への転換が進んだようです。
明治8年の戸数・人口・反別面積です。
坂出市 明治8年の戸数・人口・反別面積
阿野郡の戸数・人口・反別 明治8(1876)年

この表を見ていて、反別面積の大きい林田や坂出の戸数・人口が多いのは分かります。しかし、青海村は耕地面積が少ないのに、戸数・人口は多いのです。この背景には、このエリアが準農村地帯ではなく、塩や砂糖などの当時の重要産業の拠点地域であったことがあるようです。
青海村の産業を見ておきましょう。青海村の産業の第一は糖業でした。

坂出 阿野郡北甘藷植付畝数

上右表からは、阿野郡北の文政7年(1824)の甘藷の植付畝数は157町、その内、青海村は7、3町です。また同時期の阿野郡北の砂糖車株数(上左表)の推移を見ると、10年間で約20%も増加しています。同時期の高松藩の甘藷の作付面積は天保5年(1814)1814)が1120町で、以後も増加傾向を示します。この時期が糖業の発展期でバブル的な好景気にあったことがうかがえます。この時期の製糖業は高松藩の経済を支えていたのです。

塩の積み出し 坂出塩田
塩を積み出す船
砂糖の出荷先は、大阪・岡山、西大寺、兵庫、岸和田、笠岡、尾道、輌、広島、下関、太刀洗、三津浜(伊予)な下の瀬戸内海沿岸諸港の全域におよんでいます。砂糖や塩の積出港として、周辺の港には各地からの船が出入りしていたことがうかがえます。商業・運輸産業も育っていたようです。

 坂出は塩業生産の中心地でもありました。

坂出の塩田
坂出の塩田開発一覧
この地域の塩田の始まりは、延宝8年(1680)の高屋村の高屋塩田創築とされます。操業規模は亨保13年(1728)の「高屋浜検地帳」では「上浜 三町四反壱畝六歩、中浜 二町九反八畝五歩、下浜 壱町三反武畝六歩、畝合七町七反壱畝式拾歩」、それが30年後の宝暦8年(1758)の「高屋村塩浜順道帳」では「畝合拾町八反四畝式拾七歩、うち古浜七町七反壱畝式拾七歩、新浜三町壱反一畝歩」と倍増しています。
坂出塩田 釜屋
坂出塩田の釜屋・蔵蔵
 亨保の検地以降に新浜を増設し、操業釜数は安政2年(1855)には、少なくとも4軒以上の釜屋による塩作りが行われていたことが分かります。亨保13年の高屋浜は塩浜面積に対し浜数は100、これを49人の農民が経営し、経営面積は一戸当たり一反五畝歩の小規模で、農業との兼業が行われていたようです。青海村でも高屋浜で持ち浜四カ所を所持する浜主や、貧農層の者は、浜子などの塩百姓として過酷な塩田労働に従事していました。

製塩 坂出塩田完成図2
坂出塩田
 阿野北一帯は、藩主導の次のような塩田開発を進めます。
文政10年(1827)江尻・御供所に「塩ハマ 新開地 文政亥卜年築成」、
文政12年(1829)、東江尻村から西御供所まで131、7町の新開地
その内、塩田と付属地は115、6町、釜数75に達します。ここに多くの労働者の受け皿が生まれることになります。

入浜塩田 坂出1940年
坂出の入浜塩田 1940年
以上、阿野北の青海村の農村状況をまとめておきます
①水田面積は狭く、畑作の割合が多い。
②近世初頭にやって来た渡辺家によって青海村は開拓進んだため、渡辺家の占有面積が多く、小農民が多く小作率が高い。
③19世紀になって、砂糖や塩生産が急速に増加し、労働力の雇用先が生まれ、耕地は少ないが人口は増えた。

次の阿野郡北の村政組織を見ておきましょう。
農村支配構造 坂出市

郡奉行の下代官職がいて、代官の下の元〆手代が郷村の事務を握っていました。各村々には庄屋1名、各郡には大庄屋が2名ずついました。庄屋以下には組頭(数名)、五人組合頭(―数人)を配し、村政の調整役には長百姓(百姓代)が当たりました。その他、塩庄屋・塩組頭・山守な下の役職がありそれぞれの部門を担当します。庄屋の任命については、藩の許可が必要でしたが、実際には代々世襲されるのが通例だったようです。政所(庄屋)の役割については、「日用定法 政所年行司」に月毎の仕事内容が詳述されているとを以前にお話ししました。 
庄屋の仕事 記帳

渡辺家の残された文書の多くは、藩からの指示を受けて大庄屋の渡辺家で書写されたり、記帳されて各庄屋に出されたものがほとんどです。定式化されて、月別に庄屋の役割も列挙されています。二名の大庄屋が東西に分かれ隔月毎に月番、非番で交代で勤務にあったことが分かります。

青海村の大庄屋・渡辺家について、見ていくことにします。

渡辺家系図1
渡辺家系図
渡辺家は系図によれば大和中納吾秀俊に仕え、生駒藩時代の文禄3年(1593)に讃岐国にやってきたされます。那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、
①万治2年(1659)に初代の嘉兵衛の代に青海村に定住。
②二代善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)に就任
③三代繁八は父の跡を継いだが早世したため、善次郎が再度政所就任
④繁八の弟與平次の3男藤住郎義燭を養子として家を継がせた。
⑤その子五郎左衛門義彬が1788(天明8)年12月阿野北郡大政所(大庄屋)に就役
⑥七郎左衛門寛が1818(文化15)年から大政所役を勤め、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられた。
⑦寛の弟良左衛門孟は東渡辺家の同姓嘉左衛門義信の家を継ぎ、養父の職を継いで政所となった。
寛の子五百之助詔は1820(文政3)年、高松藩に召出されて与力(100石)となり、次のような業績を残しています。
寛政7年(1795)生、安政3年(1856)没 
1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。
1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役
1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設
1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任
1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任

渡辺家系図2

   渡辺槙之助(柳平)について
1827(文政10)年生、1871年没。
1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中の大庄屋代役
1856(安政3)年 大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
  渡辺渡(作太郎)
1855(安政2)年生、山田郡六条村の大場古太郎の長男
1871(明治4)年 17才で渡辺家養子となる
讃岐国第43区副戸長(明治6年)
愛媛県阿野郡青海村戸長(明治12年)
愛媛県阿野郡県会議員(明治15年)
阿野都青海高屋村連合会議員(明治18・20年)
愛媛県議会議員(明治21年)・香川県議会議員(明治37年)などを歴任
明治23年(1890) 松山村の初代名誉村長就任 
渡は経常の才に優れ精業、塩業、製紙、船舶、鉄道、銀行、紡績など各会社の設立しています。また、神仏分離で廃寺となった白峰寺の復興、さらに金刀比羅宮の管轄となった「頓証寺」の返還運動にも力を尽くし、この功績により同境内には顕彰碑が建立されています。

渡辺家の宗派は、浄土真宗です。
常福寺 丸亀市田村町


菩提寺は、もともとは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。先述したように渡辺家は、那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやって来るまでの檀那寺が常福寺だったようです。しかし、明治8年(1885)に加茂村の正蓮寺(常教院)に菩提寺を移しています。墓所は青海村向の水照寺(松山院、無檀家寺)に現存します。

 丸亀市田村町の常福寺には、次のような渡部家の寄進が記録されています。
一、御本前五具足・下陣中天丼・白地菊桐七条  施主 渡辺五郎左衛門
一、御前大卓   施主 渡辺嘉左衛門(五郎左術門女婿)
― 薬医門     文化2年(1805)施主 渡辺七郎左衛門(人目凡四貰目)
一、石灯籠一対   天保5年(1834)施主 渡辺七郎左衛門(代六八0目)
一、大石水盤    天保六年(1835)施主 渡辺五百之助   代十両
一 飾堂地形一式  施主 渡辺八郎右衛門(七郎左衛門改称)
   同 五百之助  地形石20両
   同 良左衛門  10両諸入目
ここからは渡辺家の常福寺に対する深い帰依がうかがえます。

渡辺家平面図
渡辺家平面図(昭和18年頃)
坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
渡辺家の屋敷
江戸時代の渡辺家の土地所有を見ておきましょう。

青海村渡辺家の石高
渡辺家の所有耕地面積とその分布
この表からは、渡辺家の土地所有が青海村以外にも、高屋村、神谷村、林田村な下他村におよび、総〆石数は 285石にのぼることが分かります。青海村の石高が550石ほどなので、その半分は渡辺家の土地であったことになります。
 渡辺家「小作人名」から免場(組)、村別に小作人数をまとめたのが次の表です。
渡辺家の小作人数

ここからは次のようなことが分かります。
①青海村々内の免場(組)小作人は158人(実数は173人)
②他村その他は17人(同21人)
明治4(1871)年の青海村戸数は319人です。青海村の半数以上が渡辺家小作人であったことになります。
 渡辺家では、明治以降になり渡辺渡の代になると、次のような近代産業を興したり、資本参加していきます。
糖業「讃岐糖業大会社」
塩業「大蕨製塩株式会社」
製紙「讃紙株式含社」
船舶「共同運輸会社」
鉄道「讃岐鉄道株式合社」
銀行「株式会社高松銀行」
紡績「讃岐紡績会社」
このような事業の設立・運営などによって資本蓄積を行います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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中世から近世への神社の祭礼変化について、以前に次のようにまとめました。
神社の祭礼変遷

①中世は郷惣社に、各村々から組織された宮座が、祭礼行事を奉納していた。滝宮牛頭天王社へ奉納されていた北条組や坂本組の各組念仏踊りも、惣村で組織された宮座であった。
②検地で村切りが行われ、新たに登場した近世の村々は、それぞれが村社を持つようになる。
③近世半ばに現れた村社では、宮座に替わって若者組が獅子舞や太鼓台・奴などを組織し、祭礼運営の主導権をにぎるようになる。
④こうして中世の宮座による祭礼から、若者組中心の獅子舞や太鼓台が讃岐の祭礼の主役となっていく。
それでは江戸時代後半の各村々では具体的に、どんな祭礼が各村々の氏神に奉納されていたのでしょうか。これを今回は追ってみることにします。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ

テキストは、「神社の祭礼 坂出市史近世下151P」です。
  坂出市史は、最初に次のような見取り図を示します。
①江戸時代の村人たちは、神仏に囲まれて生活してたこと。村には菩提寺の他に、氏神・鎮守の御宮、御堂、小祠、石仏があり、氏神・鎮守の祭礼は、村人にとっては信仰行事であるとともに最大の娯楽でもあったこと。その祭礼を中心的に担ったのが若者たちだったこと。
②若者仲間が推進力となって、18世紀半ば以降、祭礼興行は盛んになり、規模が拡大すること。若者たちは村役人に強く求めて、神楽・燈籠・相撲・花火・人形芝居などの新規の遊芸を村祭りにとりこみ、近隣村々の若者や村人たちを招いて祭礼興行を競うようになること。
③これに対して、藩役人は「村入用の増加」「農民生活の華美化」「村外者の来村」などを楯にして、規制強化をおこなったこと。

若者達による祭礼規模の拡大と、それを規制する藩当局という構図が当時はあったことを最初に押さえておきます。

御用日記 渡辺家文書
御用日記 阿野郡大庄屋の渡辺家
  阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。
1841(天保12)年12月条の「御用日記」には、次のような規制が記されています。
一 神社祭礼之節、練物獅子奴等古来ョリ在来之分者格別、新規之義者何小不寄堅ク停止可被申付候。尤、獅子太鼓打の子供の衣類并奴のまわし向後麻木綿の外相用セ申間敷候
一 寺社開帳市立祭礼等の節、芝居見セ物同様の義相催候向も在之哉二相聞候、去年十二月従公儀被 御出の趣相達候通猥之義無之様可破申付候
意訳変換しておくと
一 神社祭礼については、練物(行列)や獅子舞・奴など古来よりのものは別にして、新規の催しについては、何者にも関わらず禁止申しつける。なお、獅子や太鼓打の子供の衣類や奴のまわしについては、今後は麻木綿の着用を禁止する。
一 寺社の開帳や市立祭礼の芝居や見せも同様に取り扱うこと。去年十二月の公儀(幕府)からの通達に従って違反することのないように申しつける。
ここからは、次のような事が分かります。
①旧来の獅子舞や奴に加えて「新規催し」が村々の祭礼で追加されていたこと
②藩は、それらを禁止すると共に従来の獅子舞などの服装にも規制していること
③幕府の天保の改革による御触れによって、祭礼抑制策が出されて、それを高松藩が追随していること

具体的に坂出地区の祭礼行事を見ていくことにします。 坂出市史は以下の祭礼記事一覧表が載せられています。
坂出の神社祭礼一覧
  これを見ると19世紀になると、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などさまざまな興行が行われていたことが分かります。

柳田国男は、『日本の祭』の中で、祭礼を次のように定義しています。
祭礼は
「華やかで楽しみの多いもの」
「見物が集まってくる祭が祭礼」
祭の本質は神を降臨させて、それに対する群れの共同祈願を行うことにあるが、祭礼では社会生活の複雑化の過程で、信仰をともにしながら見物人が発生し、他方では祭の奉仕者の専業化を生み出した。

祭礼が行われるときには、門前に市が立ちます。
上表の「1835(天保6)年2月、坂出塩竃神社」の祭礼と市立には、門前に約40軒もの店が立ち並び、約2100人が集まったという記録が残っています。天保7年の坂出村の人口は3215人なので、その約2/3の人々が集まっていたことになります。塩浜の道具市というところが塩の町坂出に相応しいところです。
この他にも市立ては、1839(天保十)の神谷神社(五社大明神)や翌年の鴨村の葛城大明神、松尾大明神でも、芝居興行とセットで行われています。
 芝居や見世物などの興行を行う人のことを香具師とよびました
香具師は、全国の高市(祭や縁日の仮設市)で活躍して、男はつらいよの寅さんも香具師に分類されます。その商売は、小見世(小店:露店)と小屋掛けに、大きく分けられます。小屋掛けとは、小屋囲いした劇場空間で演じられる諸芸や遊戯のことです。これはさらにハジキ(射的・ダルマおとしなどの景品引き)とタカモノ(芝居・見世物・相撲など)に分けられるようです。坂出では、どんな興行が行われていたのでしょうか。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
神谷村の神谷神社(五社大明神)の史料には、次のように記されています。
天保十年四月五日、「当村於氏神明六日五穀成就為御祈願市場芝居興行仕度段氏子共ョリ申出候」
尤、入目の儀氏子共持寄二仕、村入目等ニハ不仕」
意訳変換しておくと
1839(天保十)年四月五日、(神谷村の)氏神で明日六日、五穀成就の祈願のために市立と芝居を興行を行うと氏子たちから申出があった。なお費用は氏子の持寄りで、村入目(村の予算)は使わないとのことである」

と神谷村の庄屋久馬太から藩庁へ願い出ています。祭礼の実施も庄屋を通じて藩に報告しています。また、費用は氏子からの持ち寄りで運営されていたことが分かります。費用がどこから出されるかを藩はチェックしていました。

坂出 阿野郡北絵図
坂出市域の村々
鴨村の葛城大明神の祭礼史料を見ておきましょう。

鴨部郷の鴨神社
鴨村の上鴨神社と下鴨神社
1839(天保10)年4月7日と18日、葛城大明神社の地神祭のために「市場」「芝居興行」が鳴村庄屋の末包七郎から大庄屋に願い出られ、それぞれ許可・実施されています。この地神祭の時には「瓦崎者(河原者)」といわれた役者を雇って人形芝居興行が行われています。その際の氏子の申し出では次のように記されています。
「尤、同日雨入二候得者快晴次第興行仕度」
(雨の場合は、快晴日に延期して行う予定)」

雨が振ったら別の日に替えて、人形芝居は行うというのです。祭礼奉納から「レクレーション」と比重を移していることがうかがえます。

  林田村の氏神(惣社大明神)の史料を見ておきましょう。
林田 惣社神社
林田村の氏神(惣社大明神) 讃岐国名勝図会

惣社大明神では1845(弘化2)年8月19日に、地神祭・市場・万歳芝居興行の実施願いが提出されています。
以上のように、坂出の各村では、氏総代→庄屋→大庄屋→藩庁を通じて申請書が出され、許可を得た上で地神祭のために、市場が立ち、芝居や人形芝居の興行が行われていたことが分かります。その興行の多くは「タカモノ」と呼ばれる見世物だったようです。
  御供所村の八幡宮では、1834(文政七)8月12日に、翌々15日の松神楽興行ための次のような執行願が出されています。

然者、御供所村八幡宮二おゐて、来ル十五日例歳の通松神楽興行仕度、尤、初尾(初穂)之義者氏子共持寄村人目等二者不仕候山氏子共ヨリ申出候間、此段御間置可被成申候」

意訳変換しておくと
つきましたは御供所村の八幡宮において、きたる15日に例歳の松神楽の興行を行います、なお初穂費用については、氏子たちの持ち寄りで賄い、村人目からは支出しないとの申し出がありました。此段御間置可被成申候」

ここでも村費用からの支出でなく、「氏子共」の持ち寄りで賄われることが追記されています。
西庄 天皇社と金山権現2
西庄村の崇徳天皇社(讃岐国名勝図会)

西庄村の崇徳天皇社では、1834(文政7)年8月27日、湯神楽についての次の願書が出されています。
「然者、来月九日氏神祭礼二付、崇徳天皇社於御神前来月六日夜、湯神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出シ、尤、人目之義ハ村方ヨリ少々宛持寄仕候間、村入目者無御座候間、此段御間置日被下候」

意訳変換しておくと
つきましては、来月9日氏神祭礼について、崇徳天皇社の神前で6日夜、湯神楽を執行することが氏子より申出がありました。なお費用については村方より持ち寄り、村入目からの支出はありません。此段御間置日被下候」

 崇徳天皇社での湯神楽も費用は「村方ヨリ少々宛持寄仕候」で行われています。
湯立神楽(ゆだてかぐら)とは? 意味や使い方 - コトバンク
湯神楽

鴨島村の鴨庄大明神では、1858(安政5)年9月2日松神楽の執行についての次のような願書が出されています。

「然者、於当村鴨庄大明神悪病除為御祈薦松神楽執行仕度段氏子共ヨリ申出、昨朔日別紙の通、御役所へ申出候所、昨夜及受取相済候二付、今日穏二執行仕せ度奉存候、此段御聞置被成可有候」

      意訳変換しておくと
「つきましては、当村鴨庄大明神で悪病を払うための祈祷・松神楽を行うことについて氏子から申出が、昨朔に別紙の通りありましたので、役所へ申出します。昨夜の受取りなので、今日、執行させていただきます。此段御聞置被成可有候」

 前日になって氏子達は、庄屋に申し出ています。庄屋はそれを受けて、直前だったために、本日予定通りに実施させていただきますと断りがあります。
林田村の惣社大明神でも、1860(万延元)年9月12日湯神楽の執行について次の願書が出されています。
「当村氏惣社大明神於御仲前、今晩湯神楽修行仕度段御役所江申出仕候、御聞済二相成候問」

ここからはその晩に行われる湯神楽について、当日申請されています。それでも「御聞済二相成候問」とあるので許可が下りたようです。ここからは祭礼の神楽実施については、村の費用負担でなく、氏子負担なら藩庁の許可は簡単に下りていたことがうかがえます。

祭礼一覧表に出てくる相撲奉納を見ておきましょう。
御用日記に出てくる角力奉納をまとめたのが次の一覧表です。
坂出の相撲奉納一覧
御用日記の相撲奉納一覧表
ここからは次のような事が分かります。
①1821年から43年までの約20年間で相撲奉納が7回開催されていたこと
②奉納場所は、鴨神社や坂出八幡宮など
③各村在住の角力取によつて奉納角力が行われたこと
④「心願」によって「弟子兄弟共、打寄」せで行われていたこと
⑤「札配」や「木戸」銭は禁止されていること。
近世後期の坂出周辺の村々に角力取がいて、彼らが「心願」で神社への奉納角力に参画していたことを押さえておきます。
  以上をまとめておきます。
①江戸時代後半の19世紀になると、坂出の各村々の祭礼では、獅子舞や太鼓台以外にも、相撲・市・万歳興行・湯神楽・松神楽・盆踊り・箱提灯などのさまざまな行事が奉納されるようになっていた。
②これらの奉納を推進したのは中世の宮座に替わって、村社の運営権を握るようになった若者組であった。
③レクレーションとしての祭礼行事充実・拡大の動きに対して、藩は規制した。
④しかし、祭礼行事が村費用から支出しないで、氏子の持ち寄りで行われる場合には、原則的に許可していた。
⑤こうして当時の経済的繁栄を背景に、幕末の村社の祭礼は、盛り上がっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    神社の祭礼 坂出市史近世下151P

坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋 渡辺家
阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、代々の当主が書き残した「御用日記」が残されています。
渡邊家は初代嘉兵衛が1659(万治2)年に青梅村に移住してきて、その子善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)になります。その後、1788(天明8)年に阿野北郡大政所(大庄屋)になり、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられています。渡部家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「大庄屋御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。

御用日記 渡辺家文書
御用日記(渡辺家文書)
 この中に「庄屋の心構え」(1825(文政8年)があります。

「大小庄屋勤め向き心得方の義面々書き出し出し候様御代官より御申し聞かせ候二付き」

とあるので、高松藩の代官が庄屋に説いたもののを書写したもののようです。今回は高松藩が、庄屋たちにどのようなことを求めていたのか、庄屋たちの直面する「日常業務」とは、どんなものだったのかを見ていくことにします。テキストは「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」です
 高松藩の代官は、庄屋にその心構を次のように説いたようです。
・(乃生村)庄屋は、年貢収納はもちろん、その他の収納物についても日限を遵守し納付すること
・村方百姓による道路工事などについては、きちんと仕上げて、後々に指導を受けたりせぬように
・村方百姓の中で、行いや考えに問題がある者へは指導し、風儀を乱さないように心得よ
・御用向きや御触れ事などは、早速に村内端々まで申し触れること。
・利益になることは、独り占めするのではなく、村中の百姓全体が利益になるように取り計うこと。
・衣類や家普請などは、華美・贅沢にならないように心がけること
・用水管理については、村々全体で取り決めて行うこと
・普請工事については優先順位をつけて行うこと
ここからは法令遵守、灌漑用水管理、藩への迅速な報告、賞罰の大庄屋との相談、普請工事の誠実な遂行、藩からの通達などの早急な伝達・周知、などの心得が挙げられています。
これに他の庄屋に伝えられていた項目を追加しておきます。
⑩何事についても百姓たちが徒党を組んで集会寄合をすることがないようにする。(集会・結社の取り締まり)
⑪道や橋の普請などに、気を配り
⑫村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮し
⑬小間者に至るまで、村の百姓達の戸数が減らないように精々気を付け
⑭村の風儀の害となる者や、無宿帳外の者については厳重に取りしまること
ここからは、年貢を納めることが第一ですが、それ以外にも村方のことはなんでも庄屋が処理することがもとめられていたことが分かります。
それでは、庄屋の年間取扱業務とはどんなものだったのでしょうか?
文政元(1818)の「御用日記」に出てくる「年間処理事項」を挙げて見ると次のようになります。
正月
  古船購入願いを処理、
  氏部村の百姓の不届きの処理、
  用水浚いの願いの処理
  白峯寺寺中の青海村真蔵院の再建処理
2月 郡々村々用水浚いの当番年の業務処理
  青海村の上代池浚い対応処理
3月 二歩米額の村々への通知、
  江戸上屋敷の焼失への籾の各村割当処理、
  林田村の百姓が養子をもらいたいとの願いの処理
  吹き銀、潰れ銀売買について公儀書付の周知と違反者への処理
  村人間の暴行事件の対応・処理
  政所(庄屋)役の退役処理
  捨て牛の処理
4月
藩の大検見役人の巡検への対応
他所米の入津許可の処理
新しい池の築造手配
5月
他所米入津の隣領への抜売禁上の通達処理
郷中での出火
神事、祭礼などでの三つ拍子の禁止申し渡し
村人のみだりに虚無僧になることの禁上の通達
普請人夫の賃金待遇処理
6月
高松松平家中の嫡子が農村へ引っ越すことについての対応、
出水浚・川中掘渫などの検分と修復のための予算処置
五人組合の者共の心得の再確認と不心得者の取締り
昨年冬の高松藩江戸屋敷焼失についての大庄屋の献金額の調整
7月
御口事方が林田裏で行う大砲稽古への手配
盆前の取り越し納入の手配
遍路坊主の白峰境内での自殺事件の処理
正麦納の銀納許可について対応
村人の金銭貸借への対処
殺人犯の人相書きの手配
三ヶ庄念仏踊りの当番年について、氏部など各村への連絡
照り続きにつき雨乞修法の依頼
北條池の用水不足対応
香川郡東東谷村の村人の失踪届対応
商売開業願への対応
盗殺生改人の支度料処理
8月 他所米の入津対応や御用銀の上納対応
9月 大検見の役人への村別対応手配
10月 高松と東西の蔵所へ11月収めの年貢米(人歩米)納入について藩からの指示の伝達
11月 年貢米未進者の所蔵入れの報告
   阿野郡北の牢人者の書き上げ報告
12月 村人の酒造株取得と古船の売買
以上を見ると、自殺・喧嘩・殺人から養子縁組の世話、池や用水管理・雨乞いに至るまで、庄屋は大忙しです。以前にお話したように、庄屋は「税務署 + 公安警察 + 簡易裁判所 + 土木出張所 + 社会福祉事務所」などを兼ねていて、村で起こることはなんでも抱え込んでいたのです。だから村方役人と呼ばれました。村に武士達は、普段はやって来ることはなかったのです。ただ、戸籍書類だけは、お寺が担当していたとも云えます。
讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録 <収蔵資料目録>(瀬戸内海歴史民俗資料館 編) / はなひ堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋
瀬戸内海歴史民俗資料館編
『讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録』1976年)。

  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
  江戸時代は、藩などの政策や法令は、文書によって庄屋に伝達されます。また、先ほど見たように庄屋は村支配のために、さまざまな種類の文書を作成し、提出を求められます。村支配のためや、訴訟・指示などの意思表明のためにも、文書作成は必要不可欠な能力となります。文書が読めない、書けないでは村役人は務まりません。年貢納税にも高い計算能力が求められます。
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。例えば、村の事案処理には、先例に照らして物事を判断することが求められます。円滑な村の運営のために、記録を作成し、保存管理することが有効なことに庄屋たちは気づきます。その結果、意欲・能力のある庄屋は、日常記録を日記として残すようになります。そこには、次のような記録が記されます。
村検地帳などの土地に関するもの
年貢など負担に関するもの
宗門改など戸口に関するもの
村の概況を示した村明細帳や村絵図など
境界や入会地をめぐる争論の裁許状や内済書、裁許絵図
これらは記録として残され、庄屋の家に相伝されます。こうして庄屋だけでなく種々の記録が作成・保存される「記録の時代」がやってきます。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。

村では、藩の支配を受けながら村役人たちが、年貢の納入を第一に百姓たちを指導しながら村政に取り組みます。百姓たちも村の寄合で評議を行いながら村を動かしていきます。

  大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓

 というのが高松藩の農村支配構造です。
大庄屋の渡辺家の「御用日記」(1818)年の表紙裏には、次のように記されています。
御年寄 谷左馬之助殿(他二名の連名)
御奉行 鈴木善兵衛殿 
    小倉義兵衛殿中條伝人 入谷市郎兵衛殿
郡奉行 野原二兵衛 藤本佐十郎 
代官  三井恒一郎(他六名連名) 
当郡役所元〆 上野藤太夫 野嶋平蔵
当時の主人が、高松藩との組織連携のために書き留めたのでしょう。この表記は、各年の御用日記に記されているようです。このような組織の中で、庄屋たちは横の連携をとりながら、村々の運営を行っていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」

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