瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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薬王寺-金剛界を表す喩祗塔

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 二十三番の薬王寺は厄落としの寺で今は有名です。
境内には喩祇塔がすっくと建ち、この寺の景観が整いました。
喩祇塔は三五メートルというたいへん高い塔なので、ここではいちばん目立ちます。
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 高野山に行きますと、根本大塔というのがあります。
根本大塔というのは曼荼羅の中心にあって、大日如来の心臓部です。そこに大日如来がいるということになっています。喩祇塔も同じことです。高野山の根本大塔は胎蔵界を表し、喩祇塔は金剛界を表します。高野山には皆さんの目につかないところに喩祇塔示あります。
中院御坊が龍光院というお寺になっていて、喩祗塔はその裏山にあります。これを小
塔といっています。大塔・小塔を両方合わせて胎蔵界・金剛界になるわけです。

玉厨子山-薬王寺の奥の院は行場

 玉厨子山は二十三番の薬王寺の奥の院で、五四三メートルの秀麗な山です。
日和佐の港からも見えるので、日和佐港に入港する船の目当てとなっています。
 ここは薬王寺から五キロもありますが、薬王寺が火災のときに本尊がここに飛んだといっています。しかしそうではなくて、ここから本尊が薬王寺へ来たわけです。
再建される本堂の後堂に後ろ向きで帰ってきたそうで「後向薬師」として後から拝むようにできています。頂上から少し下った所に、上人入定塚があるので、漁民の安全を願って入定した上人があったのでしょう。
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遍路道が尾根筋だったときは、その尾根筋に旧道が付いていました。
玉厨子山と薬王寺と日和佐沖の立島は一直線上にあるので、立島を王子として、薬王寺と玉厨子山がまつられたのだとおもいます。海のかなだの常世の神を信仰していたときは、まず上陸した島を王子の島と呼んでいたことがだんだん分かってきました。

その道筋は、次のような経路をたどることが多いようです
① 王子の島から霊場に上がる。
② 一足飛びに海の神が山の神になる。
③ 途中に静かな山があると、その山に止まってそれから上に行く、
④ 寺ができると下りてくる
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 『阿波名所図会』には「霊山にして大道心の法師にあらざれば住しがたし」とあります。頂上から少し下がって日和佐の見えるところに上人入定塚があるので、漁民の安全を祈って入定した上人があったのだろうとおもいます。
 旧国道はその麓を通り、西河内から登ることができます。
しかし、遍路道が尾根道だった山の神が寺に戻ってくるという構造が縁起の中に出てきます。こういうところが奥の院になると、修行の場所になりました。ここもかなり険しい岩山ですから、命がけで修行する者が行道修行などをして、ついにそこで入定していますが、いまでは入定者の名前もはっきりわからなくなりました。
 

太龍寺-有名な求聞持堂は本堂の横にある

 
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この寺について『四国偏礼霊場記』にも、おそらく室町時代の初めのころにできたとおもわれる『阿波国太龍寺縁起』にも、太龍寺の舎心山という山号の本当の意味を書いています。舎心というのは心を緩めるという意味です。

 しかし、『阿波国太龍寺縁起』を見ますと、本当は身を捨てるほうの捨身だということがわかります。捨身の行われた岩を捨身岩といいます。行場にはどうしても跳ばなければ渡れない大き石があります。その間を跳ばなければなりません。飛び損ねると落ちて死にます。こういうところの行は一回では済みません。何回でもぐるぐる回るわけです。今は、南側に本が生えているので気がつきませんが、木の間を出ると断崖絶壁になっていて、行くだけでも危ないところです。ここは海からよく見えますから、火を焚けば太平洋を通る船から見えるでしょう。
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弘法大師の辺路修行ではかならず行道と捨身をしています。

弘法大師が生まれた善通寺の西に我拝師山という山があって、ここも捨身ケ岳があります。ここは落ちたら死ぬところです。空海が捨身をしたことは『阿波国太龍寺縁起』にも出ています。  
観ずるに夫れ当山の為体。嶺銀漢を挿しばさみ、天仙遊化し、薙嘱金輪を廻て、龍神棲息の谿。(中略)速やかに一生の身命を捨てて、三世の仏力を加うるにしかず。即ち居を石室に遁れ、忽ち身を巌洞に擲つ。時に護法これを受け足を摂る。諸仏これを助けて以て頂を摩す。是れ即ち命を捨てて諸天の加護に預かり、身を投じて悉地の果生を得たり。(中略)是れ偏に法を重んじて、命を軽んじ身を捨てて道に帰す。雪童昔半偶港洙めて身を羅刹に与うるや。
 ここに弘法大師の捨身のことが書かれています。
「一生の身命を捨てて」というのは、捨身をすることです。自分の命を仏に捧げることによって水遠に生きることができるのです。石室は龍の窟です。こういうように書いてあるので、捨身の行をしたことがわかります。そして、石室とか巌洞とか三重霊剛が出てきます。戦前の地図には龍の窟が出ていましたが、戦後の地図には出ていません。縁起に出ております弘法大師が行をしたところを、セメント会社に売ってしまって、窟はつぶされてしまいました。
 つまり、捨身山(身を捨てる山・捨身の行をする山)が舎心山(心を休める山)となってしまいました。
   
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嶽は別なところだという説も出ていますが、ここであることは間違いありません。
弘法大師は、大滝嶽で求聞持法をしたと書いています。
太龍寺も虚空蔵菩薩が本尊です。虚空蔵菩薩を本尊とする寺かあるところは、求聞持法をしたところです。虚空蔵菩薩は虚空のすべての力を蔵するので、虚空蔵菩薩に願えばなんでもかなえられる、求聞持法という法を修すればすべての記憶がよくなるといわれてします。
『三教指帰』には「即ち一切の教法の文義諧記することを得」と書いてあります。
 これは記憶力が良くなるということです。お経も注釈も全部暗記することができます。弘法大師はこのころ十八歳ですから、記憶力のよくなる法と聞いて、若さにまかせておもい込んでしまって、大学を捨てて修行に入ってしまうわけです。
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 太龍寺の堂舎はなかなかよく整っています。

さすがに山中の大霊場は伽藍も大きく、仁王門、六角経蔵、護摩堂、本坊、本堂があり、池の中には弁天をまつっています。立派な多宝塔がいちだんと高いところにあり、その後ろに中興堂、大帥堂があります。本堂の横の求聞持堂は、日本でいちばん有名な求聞持堂です。ということは、いちばん修法者が多いということです。求聞持堂があるので有名なのは厳島の弥山、それから高野山真別所の求聞持堂です。
 南舎心岩には不動堂が載っています。また天照大御神をまつる神明頁があります。北舎心岩には大黒堂がまつられています。これも行道にかならずあるものです。
北舎心岩の大黒堂の周りに行道の跡があります。求聞持法をやるところには行道の跡がありますが、そうおもって見ないとなかなか気がつきません。
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参考文献 五来重:四国遍路の寺

 

鶴林寺の寺名の由来は、

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弘法大師がこの山で修行中に二羽の鶴が仏像を木の上で守っているのを見つけた。
その仏像をおろすと黄金の地蔵菩薩像であった。大師はそれを胎内仏にして地蔵菩薩を作って、それを本尊とする寺を建てたということになっています。
じつは、鶴林というのは、お釈迦さんが亡くなった場所です。
したがって、お釈迦さんが亡くなった場所を寺号とし、説法した場所霊鷲山を山号にしておりますから、あきらかに釈迦信仰の寺だと考えられます。かつてこの寺が地蔵菩薩の前にお釈迦さんを本尊とする寺だったということがわかります。
 お釈迦様が亡くなられたのは践提河という川のほとりです。
お釈迦様はその川を渡るときに水を飲もうとされました。水を飲めば治ったらしいのですが、そのとき川上を牛の大群が横切っために、川の水が濁ってしまって飲めなかった、そのまま向こう岸に上がって草の上に横たわり一昼夜を過ごされて2月15日の明け方に娑羅双樹の林の中で亡くなったくなったと涅槃経には書いてあります。
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 現在、これが娑羅だという木かありますが、たんなる夏椿で娑羅双樹とは違います。仏教経典では娑羅樹の間に寝て、涅槃と同時に娑羅双樹が鶴のように真っ白になったと書かれているので、釈迦の涅槃を鶴林というのです。
 つまり鶴林寺の鶴林というのも釈迦ですし、霊鷲山は釈迦のいちばん大事な最後の説法をした場所です。そういうことで、現在本尊は地蔵菩薩ですけれども、もとは釈迦を本尊とする寺だったと推定できます。
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「しげりつる鶴の林をしるべにて 大師ぞいます地蔵帝釈」という御詠歌は、
鶴の林をしるべにお大師さんが、ここにいたという意味だとおもいます。
 地蔵というのは地獄の救済の仏です。
また帝釈天は閻魔さんの代わりの仏で、天といいますからインドの神様ですが地獄の裁判官ということになっていて、だいたい閻魔さんと同じです。そういうことで、地蔵と帝釈天というから、地獄谷の信仰があったのかもしれません。しかし、これは現在は失われてしまっているので、御詠歌も意味がとれなくなっています。
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順路をたどっていきますと四国霊場をめぐる遍路の謎が解けてきます。
 焼山寺山は西北西、太龍寺山は南東南、鶴林寺山は正東です。空海の青年時代の修行路はこの二つの山を経て、二十三番の日和佐の薬王寺で海岸に出て、それから海岸をずっと室戸岬まで出ていったものと推定できます。
 こういう順序で弘法大師が歩いたとすると、恩山寺のようなお寺は、その他の理由で札所になったと思います。空海の時代は、立江寺まで海岸だったと推定できますが、恩山寺の麓までまで水がきています。そして、恩山寺から真東に見える金磯という磯が本尊が上がった奥の院ということになります。
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「四国偏礼霊場記」は、縁起として、

弘法大師がこの山で修行中に、本尊降臨杉で二羽の白い鶴が翼で何かを覆い護るのを見た、登ってみると黄金の地蔵菩薩像があった、大師はこの小像を胎内仏として長三尺余の地蔵菩薩像を彫刻して、これを本尊とする一宇の寺を建てたと伝えています。本堂の裏にある本尊降臨杉という杉の巨木は本当に見事です。太龍寺、焼山寺とともにまことに立派な杉があるお寺です。鶴が本尊を護っていたということから鶴林寺と命名したといわれています。
 その後、真然僧正が七堂伽藍を完成したという話は、おそらく弘法大師の高野山の話をもってきたのだとおもいます。弘法大師が開いた高野山の七堂伽藍が完成するのは、弘法大師の甥御さんの真然僧正のときです。各宗の祖師は、自分の身内に俗別当と称する寺の財産の計算係をさせたりしています。東寺の俗別当は弘法大師の母方の甥に当たる一族で、今でも続いています。
 それと同じように、真然を高野山の跡継ぎにします。最初はもう一人の甥(知泉)を跡継ぎにしたのですが、この人は37歳で亡くなってしまいます。高野山の歴史を見てとってきたといえます。
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 もともとの釈迦信仰は源頼朝・義経の信仰あたりから地蔵信仰に変わります。

阿波の領主三好長治、蜂須賀家政の保護を受けますが、本尊が「矢負地蔵」と呼ばれているのは、地蔵が戦争のときに義経の身代わりになって矢を受けてくれたというので、身代わり地蔵の信仰があるからです。
 さらに、伊勢の神主が暴風で小松島まで流されたときに、船を守ってくれたのが鶴林寺の地蔵だということから、「波切地蔵」という名前ができました。
 このように、地蔵そのものも霊験が多いというので信仰されました。ところが、釈迦のほうは、仏法を説いたという以外はあまり奇瑞のない仏さんです。奇跡、奇瑞、霊験がないと、信仰が生じがたいのです。
 
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地蔵菩薩以前に鶴林寺に釈迦如来がまつられていたと仮定すると、
 法華経と涅槃経を信仰する修行者の開いた山だということができます。
そういう古代寺院があったところに地蔵信仰が入ってきたものとおもわれます。
 もうひとつは、山岳信仰です。山の中に地獄谷があるので亡くなった人の霊魂が地獄で   受げる苦しみを代わってくれるという信仰があったのかもしれません。
この山の狩人が猪を射たとおもって一つの堂に入ると、地蔵菩薩の像に矢が当たって血を流していたという話は、山の神、あるいは地蔵の代受苫信仰です。その狩人が発心入道するということは、すなわち狩人の地蔵信仰が釈迦信仰にとって代おったと考えてよいのです。
 また、これが山人、修験の信仰であったことは頼朝寄進の錫杖があったことに表れています。頼朝のころにこの地蔵を守っていたのは、山岳宗教か修験山伏であったということも推定できます。
 また、伊勢の神官の福井氏の船が、暴風にあって難破しそうになったとき、この地蔵菩薩が出現して小松島に導いてくれたというのも、鶴林寺の火が見えたということをいっているのだとかもいます。そうすると、これは海洋宗教に関係があります。
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縁起では伊勢の紀伊の神主福井氏は、毎年灯明料を寄進したということになっています。この山の常灯明が海から見えて、それに導かれて助かった、それで伊勢の神官が以後毎年、灯明料を寄進したということになれば話はつながります。 

堂舎でいちばん古いのは本堂です。

慶長五年(一六〇〇)にできた建物が現在残っています。札所の建物はたいてい古いものは残っていませんが、このお寺はよく残っています。
 鎮守は熊野神社で、古い熊野信仰は海の信仰と考えてよいのですが、文政十年(1828))に再建されたものですから、あまり古くありません。本堂をもう一つ上がりますと聖天堂がありまして、ここは山神をまつったと考えられる場所です。
庫裡の半分は坊さんの住まいになり、半分は持仏堂を兼ねた大師堂です。庫裡の玄関の横に納経所があります。大師堂の右に続いて護摩堂があります。
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 いちばん古い遺物は圭頭型の高さ1メートルの町石です。
お寺の説明でぱ南北朝時代のものだといっています。高野山の町石は鎌倉時代ですが、南北朝時代の町石というのはわりあい多いものです。
 

母養山恩山寺宝樹院

 
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ここの特色は、非常にクラシックだということです。
 辺路という海岸をめぐる信仰としては、最も典型的な奥の院が海辺にあります。
恩山寺の本尊は薬師如来です。海岸の奥の院のほうも薬師如来だったとおもいますが、現在では弁天さんになっています。
 もとは女人禁制で、いまも十九番の立江寺への花折坂は女人禁制です。
この寺が衰えたときに大師が再興して母公の終老の地としました。
お母さんが善通寺から出てきて、ここに来た、母の没後、その御遺骨をこの山中に埋め、石塔を立てたといわれています。大師堂の横に弘法大師御母公の供養塔示あります。
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『四国偏礼霊場記』には、
「当寺は聖武天皇の勅に因て行基が造立し、大日山福生院密巌寺と名け、七堂甕を並べ雲に連る」とありますが、山の上ですから、それほどの名跡ではありません。
 霊場の中には学問寺といって学者・勉強する人が集まるお寺がありますが、ここはその学問寺だったようです。
いくばくならざるに時と移り、衰耗に及ぶ。時我大師登臨して再興しとし、御母終老の地とし、遂に御母の骸骨を山中に埋み、御墓を築き、石碑を立玉へり。
母養恩山の名是よりときこゆ
『四岡偏礼霊場記」には
「立江寺の道の方をつるまき坂といふ。几下にくろ藪といふあり。大師御誕生の時のむっきを几藪におさむといひ伝となり」とあります。
「くろ藪」は女人結界で、ここで花折または柴立の供養をしたと考えられます。
これ以上登れないから、そこで供養したので、花折といいました。
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 お寺からの説明をうけないとなかなか気がつきませんが、現在は本堂は頂上にあって、ここから小松島港が見下ろせ、奥の院と称する金磯の弁大森も見えます。
宝樹院のあった位置には十王堂があります。金磯がこのお寺の奥の院の場所ですから、ここに行ってみる必要があります。

行ってみると、現在は地続きになっていますが、金磯はもとは島であっただろうと考えられるところです。恩山寺のある山のすぐ下に源訟紆丿叫鎖としう仏かヤハッしる尚づこの山の朧まで水が来ていて、いま全部平野になっているところは海だったと考えて差しつかえありません。
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 弁天森の海中には、伊勢の二見浦の夫婦岩のような大きな岩があります。
伊勢の神宮も東に当たるところに大きい岩があって、そこに洞窟があります。
この場所は修行者の朧る洞窟と行道岩があるので、海洋宗教の霊場の条件を満たしています。行道というのは、これをぐるぐると回る行です。この寺の奥の院は、東のほうの海岸にある金磯の弁天森ですから、海岸に奥の院をもつ霊場として、屋島寺、八栗寺、伊予宇和島の龍光院などとともに注目に値するところです。

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立江寺-子安地蔵で有名  イメージ 1

ご詠歌は「いつかはわが住まいに弘誓の舟に乗ってお参りにくるであろう」
という意味ですが、いつかではなくて、この御詠歌をとなえている人は、いまそこに来ているわけです。弘誓の舟というのは、わが寺に御参りする人は、願いをかなえてやろうという誓いを立てたというのが弘誓で、これを舟にたとえたわけです。

 山号が橋池山ですから、大きな江、つまり海の湾を渡ってお参りするところだったかとおもいます。しかし、現在は橋池山とはいうものの池もなければ橋もありません。寺の説明では、恩山寺から立江寺までの道が二十町ぐらいあるから、橋が九つあったとのことですが、ちょっと無理があるとおもいます。あるいは寺地が移ったのかもしれません。
 縁起では、聖武天皇勅願で建てられたが、本尊地蔵菩薩は天皇の皇子の御平産の御願のためとされています。これは縁起に入れるにはたいへん都合がいいんです。聖武天皇はお子さんがたぐさん生まれましたが、お育ちになりませんでした。いちばん最後に基皇子という方が五歳くらいで亡くなります。そこで、阿部内親王という方を女帝にしたのが称徳天皇です。
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このような事情から子安地蔵ということになりました。

子安地蔵は立江寺と伊予の六十一番の香園寺に作られています。
戦前まではお産は危険をともなうものでした。
ですから、子安観音の信仰は強く、全国的な信者がいました。
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最初の本尊さんは、小さい閻浮檀金(えんぶだんごん)という像でした。

それを弘法大師が六尺の像に作ってまつります。最初の寺は、現在地から四〇〇メートルほど西の奥谷というところにありました。これが山の中のお寺で、もとの寺を奥の院としています。いま古い宝塔があります。ここを立江寺の奥の院としていますが、山の上に登れば海が見えます。現在地は村の人家の真ん中のたいへん狭いところにあります。この地に寺を建立したのは江戸時代で、藩主蛙須賀家正の建立です。
現在の本堂は万治二年(1659)の建物です。

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 恩山寺から立江寺まで九つの橋があるとのことですが、境内には橋池山の山号に当たる橋はありません。門前町に面した仁王門を入ると、正面に本堂があります。それに対して大師堂と多宝塔があります。本堂の横に観音堂と護摩堂、庫裡、客殿があります。
四国偏礼霊場記』によると、昔は八町四方の寺だったけれども、同書が書かれたころは1町半四方といいますから、いまよりも広かったようです。この本の著者も自信がなかったとみえて「此寺は聖武天皇の御建立との縁起あるよし」断定を避けています。
「境内かかしは八町四方となん。今は壱町半四方ほどあり。
本尊地蔵菩薩、是は聖武天皇御子達平産侭御願にて作らせたまふ尊像なり。
故に子安の尊像と号す。此類諸州におはぎ事なり。」
 これを見ると、あまり信用してなかったようです。
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国分寺-本尊は薬師如来

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 多くの国分寺は釈迦如来を本尊にしていますが、ここ十五番国分寺の本尊は薬師如来です。 
 「うすく濃くわけく色を染めぬれば 流転生死の秋の紅葉ば」
という御詠歌の意味もよく分かりません薄く染めたり、濃く染めたり、いろいろに分けて染めたから、秋の紅葉は薄い紅葉も濃い紅葉もあるんだろうと、生死流転の秋に一生を表したものです。秋は冬に向かっていきます。その秋の紅葉には薄いものもあれば濃いものもある、安楽な死もあれば、安楽でない死もあるという意味をこめたのかもしれませんが、よくもからない御詠歌です。
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 ここは天平九年(七三七)国分寺造立の詔によって、諸国に建立された国分寺の一つですが、その後衰退してしまいます。『四国偏礼霊場記』は次のように記しています。
いはんや千年に及ぶの今の世、小堂一宇、薬師の像を安じ、一嗚呼。
睨僣ざんか冷霞寸る叩八べたり。今此曲T’たわずらのろしに   の客僧ヽ示智の月を友とし、竹窓の風にひとり臥、
 元禄元年(一六八八)に『四国偏礼霊場記』が書かれたころは、小堂一宇しかなかったようです。その後、現在の国分寺のかたちになって復興しました。
 浪というのは食べるという意味です。霞を食べるのは山伏ですから、かつてはここも山伏の寺でした。一人の山伏が留守居をしていて、苔むした道を照らすところの月を友とし、竹で作られた窓を通って入ってくる風を受けながら一人臥すと書いているので、この人もなんとも衰えたものだとおもったのでしょう。
 
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『四国偏礼霊場記』の挿図も弥勒堂一宇に草堂があるだけで、十二個の礎石を記し、塔跡の基壇を描いています。いま礎石は一個だけ残っています。

 寛保元年(一七四一)の十月に蜂須賀藩の郡奉行の速水角五郎という人が、小松島本川にある丈六寺というこのあたりきっての曹洞宗の名刹にいた吼山養師和尚に命じて、堂宇を再建させて曹洞宗寺院としました。
したがって、現在は曹洞宗です。そののち、19世紀初頭に増築されたのが現在の伽藍です。
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   山門の正面に二層楼の本堂があります。
国分寺は二層だったろうといわれているので、そういう形にしたようです。天平時代(七二九-四九)には裳階が出ていました。法隆寺の金堂も裳階を出しているので二川に見えるのと同じです。ここは二階づくりです。
 本堂の左手に、鈍楼と国分寺の礎石一個と四国ニト四回巡礼供養塔があります。
この礎石は塔の心礎でしょう。本堂の右于に改築前の小さな堂が残っていて、鳥居沙摩明王堂となっています。これが寛保元年以前のお堂です。
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鳥居沙摩明王は殲れを祓う仏様だといわれているので、禅宗ではよく便所にまつります。大日経という密教のお経に出てくる鳥居沙摩明王は、汚いものをすべて食べてしまう、糞尿も食べてしまう仏様だということで便所にまつります。どういうわけか、札所霊場に鳥認沙摩明王堂ができています。
 その堂と本堂の間に不動明王と毘沙門天、恵比須神、耳大師の小像がまつられ、明王堂の隣に十王堂と鎮守堂があります。その南に大師堂があって札所となっています。鎮守には歓喜天(聖天)と白山大権現と秋葉大権現と喩伽大権現がまつられています。喩伽大権現をまつっているのは非常に珍しいことです。関東地方では天狗さんを喩伽大明神といっています。岡山県児島半島にも埃伽山という山があって、その近くに山伏の本拠の熊野神社があるので、そういう関係から古い天狗信仰があったのではないかとおもいます。
          
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大日寺-本尊は大日如来ではなく十一面観音

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 この寺は大日寺といいながら、本尊は十一面観音です。
もともとここは、一宮寺という別当寺で大日如来をまつっていました。
いまはその山を奥の院と称しています。
後に、一宮神社の横にこの寺を持ってきて十一面観音を本尊としました。
大日寺という名前を変えたらまぎらわしくなかったでしょうに、寺名はそのままで観音をまつっています。
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大日寺は鮎喰川の川岸の、本当に狭いところにある札所です。
 「四国偏礼霊場記」は、大栗山華厳院大日寺としながら、「一之宮にある故、一ノ宮寺と云」と書いています。元禄元年(一六八八)の段階では大日寺とも一宮寺ともいっていたようです。ところが『四国辺路日記』は「一ノ宮」として大日寺を扱っておりません。
 『四国辺路日記』が書かれたのは承応二年で、『四国偏社霊場記』は元禄元年に書かれています。この35年ほどの間に大日寺が別当となり札所となったことを推定することができます。『四国辺路日記』では、神社のほうに札を納め念誦読経しています。
 『四国辺路日記』には次のように記されています。
「一宮、松竹ノ茂タル中二、東向二立玉ヘリ。前二五間斗ノッリ橋在リ。
拝殿左右三間宛也。殿閣結講也。本地十一面観音也。札ヲ納メ、念誦看経シテ、 扨本来ル道工阪テ、件ノ川ヲ渡テ野坂ヲ上ル事廿余町、峠二至テ見「阿波一  国ヲー目二見ル所也」
「五間斗ノソリ橋」も神社の境内です。これを見ると、童学寺越を越えて藤井寺に出ていったことがわかります。このように、近世初期まで諸国一宮は霊場でした。
 旧寺地が奥の院となっており、鮎喰川の対岸に海見という集落にありますが行場はないようです。
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 堂舎は、鮎喰川沿いに焼山寺に入る県道の南に神社、北に大日寺と二分されています。本堂は東向きで大師堂は南向きにあり、その隣が納経所です。非常に狭い寺地に多くの石造物があります。
 なお阿波の一の宮は、大麻比古神社(別当は一番の霊山寺)ですが、『四国偏礼霊場記』は、ここを一の宮という理由は不明だと書いています。

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 讃岐の一宮寺のように、明らかに大社の神宮寺であったところあります。
しかし、この寺はかつての阿波一の宮神社の別当寺であったといいますが、阿波一の宮神社は大麻比古神社ですから、ここを一の宮というのはおかしいわけです。
実際は村社の別当です。
 このように、四国霊場寺院は神仏分離以前の神仏混淆の信仰のもとに維持されてきましたが、人為的、政治的に神仏が分けられ、同一境内が分割管理されている霊場がたくさんあります。それは十二番の焼山寺に行くとすぐわかります。
焼山寺境内の十二社神社もその例にもれず、今は神社はけっこう壊れています。

藤井寺 本尊の薬師如来は四国最古

 
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 弘法大師は太龍寺や室戸で修行を行ったと自ら書いています。その際のルートとして考えられるのは、故郷の善通寺から大窪寺に出て、そこから切幡寺に下がってきて、吉野川を渡り、この藤井寺をから焼山寺に登って行くルートです。それは現在の歩き遍路のルートと重なってきます。

 焼山寺は一つ飛び離れた山の中ですから、どっちからどう行っても、かなり戻ります。そういう場所ですから、巡礼は焼山寺に行って、それから十三番の大日寺に戻ってきて、徳烏の郊外をぐるっと回つて、小松鳥に出ていくということになります。 
  
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藤井寺は禅憎がいたところです。

本尊は薬師如来で、臨済宗妙心寺派です。
御詠歌は[色も香も無比中道の藤井寺 眞如の波の立たぬ日もなし」です。
無比は実際には無非と書かないといけません。
「色も香も無比中道」というのは、華厳経の中にある文句で、中道を説いた部分に「一色一香無非中道」という文句が出てきます。
 中道というのは、実践することによって、いいとか悪いとか、あるとかないとかという対立概念をすべて超えてしまうということです。中道という覚りを覚りきらないときは、それぞれ区別があって、これは好きだとか嫌いだとか、いいの悪いのという差別をもってしまうけれども、中道という覚りを覚ってしまうと、すべてが平等になり、差別を超えてしまうというのです。
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 「二色一香」は、色と香だげをいっているのではありません。
色・声・香・味・触という人間の五感が、それぞれ中道になるという意味です。
われわれが見たり聞いたり触れたりするものが、すべて覚りになるわけです。
 仏教という宗教が言葉をもてあそぶといわれる所以は、言葉がきれいすぎて上滑りするのではないかとおもいます。お説教でも学問のある和尚さんの話よりも、木訥な人の話のほうがよく身にこたえます。
それはさておき中道とは覚りの一つの別名だとおもいます。それがこの歌の意味です。
 藤井寺では何かあっても水が流れても、すべて中道だといっています。
この寺のご詠歌は「一色一香無非中道」という華厳経の言葉を入れた、なかなか難しいものですが、何かあってもすべて中道だという意味です。
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 縁起では弘法大師修行のところだといっています。

その遺跡が寺の後ろの八畳岩というところに残っていて、立派な杉の本があります。そこから焼山寺に行く道があるので、若き日の弘法大師が善通寺から焼山寺を経て室戸岬への辺路修行をした可能性があります。その場合はかならず通過しなければならない道です。
 
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  平安時代にはよほど栄えたらしく、本尊の薬師如来像はたいへん立派です。
久安四年(1148)という平安末期の年号が入っていて、もちろん重要文化財です。しかし、それ以外のことは不明で、天正年間の兵火ののちは復興も遅かったようです。
 『四国辺路日記しには
「地景尤殊勝也、二千門モ朽ウセテ礪ノ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ礪モ残テ所々二見タリ、今ノヅ(二問四面ノ草堂山、・……庭ノ傍二容膝斗ノ小庵在、其内方法師形ノ省一人出テ、仏像修川ノ勧進ツ云、各奉加ス」
とあるので、たいへんながめがいいところだったようです。
しかし、お寺も礎だけ、本堂も礎だけです。お寺というのは最初は庫裡です。
たいへん小さな庵があって、その後ろに仏像の破片が山のように積んであると書いているので、朽ちるままに放置しているというか、復興しなかった。廃屋がっぶれるようにこのお寺もつぶれてしまいます。
そこ一人の禅僧あるいは山伏がやってきて、この仏像だけでも復興したいというので遍路の者にお金を勧進したりして、みんなが勧進したわけです。
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 それに対して後の『四国偏礼霊場記』のほうは、禅僧がいて堂も禅宗風に造られていると記しています。『四国辺路日記』が書かれて『四国偏礼霊場記』が書かれるまでの35年余りの間に復興が進んだようです。
 その後、天保二年(1831)に焼失しますが、間もなく再建されたのが現本堂です。禅僧による復興ということは、雲水修行の間に無住の堂に留守居に入って、信者を獲得して復興すれば、その寺は禅宗になるので、修験山伏が寺をもっことは近世は少なくなります。
そのかわり修験山伏は神主になります。つまり、神社の別当寺に入って坊さんと神主とを兼ねる者が現れたわけです。

 法輪寺-釈迦の開いた転法輪から

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正覚山法輪寺は、転法輪から寺の名前が付いたとおもわれます。

仏教では説法をすることを法輪を転ずるといいます。
つまり、仏法を広めることを輪を転がすことにたとえて、転ずるといいますから、転法輪となるのです。
 転法輪を最初に問いた人は釈迦如来です。
釈迦は小さな王国の太子でしたが、山の中に入ってしまいます。
そして、尼連作河というところで五人の同志とともに修行をしていました。
しかし、どうしても覚ることができないので、釈迦はひとりで陸に上がって、菩提樹の下に座って瞑想いたします。そこでようやく覚ることができたのです。その覚りを自分で味わっておりますと、神様が大勢現れて、お前の覚りはひとりのものではない、広めなくてはならないといわれました。しかし法輪を転ずる相手がいないものですから、水の中に入って苦行中の五人を呼んで、自分の覚りの内容を話しました。
 苦行が辛くて逃げだしたとおもっていたお釈迦さんが、非常に立派な仏教の覚りを語って聞かせましたので、五人はそろって、お弟子になりました。六人の中で釈迦だけが覚れて、あとは弟子になったのです。
 
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それが仏教教団のはじまりとしてのサソガです。

 サソガを音訳して漢字にすると僧伽となります。
サソは同じという意味ですから、サソガは心を同じくする者という意味で、坊さんという意味ではありません。僧という字はサンと読みます。僧という字がニソペソですから、坊さんだと勘違いしますが、そうではありません。音を借りただけです。
 転法輪の説明をしましたが、転法輪で覚りを開いたということで正覚山という山号になります。正覚山は転法輪から出たもので、もとは白地山といったと書かれています。
 
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 御詠歌は、「大乗のひばうもとかも翻へし 転法輪の縁とこそきけ」

 小乗の教えを撤去することが転法輪です。
ありがたいお釈迦さんは立派な覚りを開いたといっているけれども、あとの連中は小乗だということです。
「大乗のひばうもとかも翻へし」というのは、大乗のほうから見た小乗に対する誹諧を翻し、転法輪の縁であるというふうに理解すべきだというのが「転法輪の縁とこそきけ」という意味です。
 なかなか仏教の知識に明るい、よい御詠歌です。

 念仏講などでは御詠歌を何の気なしに唱えていますが、御詠歌を通して仏教の理解なり信仰の理解なりができるとおもいます。御詠歌を年寄りの趣味と軽んずる人がいますが、やはり法を説くための因縁です。ですから坊さんが御詠歌を理解する力をもっていれば、正しく仏教の縁になります。
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   お釈迦様の転法輪は小乗だということを、ここでは大乗といったのです。
自分が覚ることによってはじめて他を覚らせることができるのです。
いっぽう、自分たちが覚ることはあとまわしにして、まず一般民衆を覚らせてやるというのが大衆部の主張です。じつは覚れるのだけれども、覚る一歩手前の人間に留まっていて救おうというの菩薩です。
 仏であるけれども、人間であるというのが菩薩という言葉の意味です。
ボーディは覚り、サットヴアふ生き物あるいは存在するものという意味です。
サットヴアをよく有情と訳しまして、菩薩を翻訳すると覚有情です。
菩薩という字そのものに意味はありません。

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法輪寺は縁起不明です。

本尊の釈迦如来は珍しい寝釈迦という涅槃像です。
涅槃像を拝む場合を考えますと、ひとつの流れがあります。
弾僣という人の系統はみな涅槃像を拝みます。
ただ、ここがそうであるかどうかはわかりません。

 四国霊場の中でも、七十二番の曼荼羅寺と七十三番の出釈迦寺は、どちらも山号が我拝師山で、我拝師山が礼拝の対象になっています。我拝師山というのは、弘法大師がお釈迦さんに会いたいといって崖から飛び下りて、天人が足を受けたので助かったという物語があるところです。ですから、釈迦崇拝です。

 それと同じような流れの中で、法輪寺も釈迦崇拝です。
釈迦崇拝は、涅槃像と出山の釈迦を拝みます。痩せおとろえて山から出てきた釈迦が、出山の釈迦です。その流れがこの中に入っているのではないかとおもいます。
 縁起は不明ですが、本尊も御詠歌も釈迦崇拝を表しているので、熊谷寺と同じく法華持経者の寺であったとおもわれます。とくに釈迦を拝むのは法華経です。

法華経というのは近世に入りますと、弾誓流の専修念仏者は釈迦の檀特山の久郷を苦行をに真似るようになり、出山の釈迦と寝釈迦を礼拝しました。近世の仏足石もこの和の釈迦崇拝片行者によって造立されたものと考えられます。
 仏教は苦行を否定すると一般にいわれますが、日本では法華経を読誦する行者は、あえて山林に入って苦行しました。その苦行から出てはじめて転法輪があるので、転法輪を略して法輪寺としたわけです。
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 歴史はよくわからないので、これも『四国偏礼霊場記』によるほかはありません。
『四国偏礼霊場記』は、本尊は「大師の御作、釈迦如来壱尺五寸の像ましませり」と書いていて、お寺の環境を
「深巷人なくして幽思きはまらず。樹木こゝろあるがごとく、うき世の塵もわするばかり也。今を見てむかしをおもふ。世のうつりかはるならひかくのごとし」
と描写して、たいへん寂しいお寺だ、人けがないところだ、昔は栄えたのだろうけれども、いまはすっかり衰微してしまっていると書いています。
 

   

熊谷寺-御詠歌からわかる千部法華会

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八番の熊谷寺は海洋宗教の辺路のお寺らしく海が見え幽逡で、しかも僧坊のあるお寺です。 本尊は千手観音です。千手観音は海や湖に関係があるところにたくさん見られます。千手観音の立像が帆掛け舟のように見える、手がいっぱい付いているのが扇形の帆を掛けたように見えるところから、海辺の千手観音には海の信仰、あるいは船の信仰が係わっているのかなと想像したりします。
 
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熊谷寺には千手観音と同時に補陀落信仰があります.

これもやはり海の信仰です。したがって、補陀落渡海をする人は、この千手観音の像を船の舶先に付けて、風を待っていました。季節風を待っていたのでしょうが、風が同じ方向に三日も四日も一週間も吹くような気象条件のときに船出したと、平安時代の『台記」に書かれています.
 熊谷寺も海が見えますので、千手観音が海の観音としてまつられていました。
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ご詠歌の「薪とり水 熊谷の寺に来て 難行するも後の世のため」
には少し意味があります。この歌だけでは、どうして熊谷寺で薪をとるのだ、薪をとって売っていたのかということになってしまいます。しかし、このお寺には千部法華会があったという記録があるので、「薪とり」の意味がわかるのです。そういうものを踏まえて御詠歌が作られています。
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薪を取ることがすなわち難行苦行なのです。

 日本人は苦行の宗教として法華経を受け容れました。
日蓮は、法華経を読むということは迫害されることだという意味のことを何回もいっています。迫害を受けること自体が法華経を読むことだ、経文を理解することではないといっているのは、鎌倉時代の思想として非常におもしろいとおもいます。

 奈良時代以前から山岳修行者が法華経を読んでいた形跡があります。
平安時代に入りますと、法華経を実践する法華経の行者が現れます。
平安時代末期の今様の中に「妙法習ふとて、肩に袈裟掛け年経にき、峯にのぼりて木も樵りき、谷の水汲み、沢なる菜も摘みき」とありまして、薪をとったり、菜を摘んだり、水をくんだりして、自分のお師匠さんなり仏さんなりにお仕えして、はじめて法華経が自分の身に付いたという歌があります。
その歌を歌いながら、法華八講という法華経の講説をするのですが、みんなが薪を担いで本尊さんの周りをぐるぐる回るのを「薪の行道」といいます。
 それが御詠歌にある「薪とり」の意味です。
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四国の札所にまで法華経実践の千部法華会の思想が入っていたというのは、たいへんおもしろいことです。薪をとって水をくんだという「みずくむ」を「みずくま」とかけて、「水熊谷の寺に来て」となるわけです。それは同時に難行苦行ですから、「難行するも後の世のため」、難行をするのは現世のためでもあり、後の世のためでもあるという意味になります。
水をくむということから水熊谷の熊谷となったのに、この寺の縁起では、弘法大師が山中の闘伽ヶ谷という泉で熊野権現に会ったという話になっています。

ここは非常に水の豐かなところで、二つの大きな川が左と右のほうに流れています。そしてかなり坂を下りた低いところにお寺があります。その水源の闘伽ヶ谷で熊野権現に出会ったということから、また小さな熊野社もあるので、ここにも熊野の影響が及んでいるといえましょう。妙法は法華経の妙法で、妙法山は那智から海のほうに登る山です。したがって、法華経を実践する人々が熊野を開いたといっていいわけです。
  
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熊野信仰が非常に強いのは東北地方です。

 陸路を歩いていたのでは、あのように広まるわけはありません。仙台の西の名取の熊野神社は大きな神社ですが、そういうところは船で行ったらすぐの近いところです。それから、非常に熊野信仰の強いのは隠岐島です。これも船を考えないといけません。鎌倉時代にはすでに沖縄に熊野神社がありました。那覇でいちばん大きなお宮の波上宮は岬の突端にあります。
 こうしたものを縁起にするときは、弘法大師が熊野権現に出会って、という話になりますが、事実としては熊野からきた山伏たちがこういうところに寺を開いたのでした。
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修験のもつ寺に行きますと、仏像はたいてい小仏像です。

 修験たちは笈の中に小仏像を入れて持ち歩きました
山伏が落ちついて寺を開く場合は、大きな本尊を彫刻したり、あるいは彫刻してもらって、自分が携帯していた仏像を胎内仏として納めてまつりました。

 『四国徊礼霊場記』は、この寺の境内の幽逡をほめて「谷ふかく、水涼し。南海一望に入」と書いています。この場合の南海は紀伊水道です。
 鎮守は熊野社と八幡社で、このことからも修験によって維持された霊場であることがよくわかります。かなり坂を登らなければならないお寺ですが、登ると本堂があって、さらにもう一つ上に大師堂があります。

このお寺の信仰行事に法華千部読誦による開帳がありました。

これを何年かに一度やっていたけれども、『四国偏礼霊場記』を書いたお坊さんが行ったときは、毎年やらないと、とても寺が維持できないというので毎年開帳していたと書いています。
 坂の途中に羅漢堂と多宝塔がありました。ところが、本堂もすべて昭和二年に焼けて、昭和十五年に再建されました。

   

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7番の十楽寺もかつては、村の中のお寺の状態で、ここが札所だろうかとおもうような状態でした。しかし、お遍路さんはかならず十番までは行きますので、参拝者の姿は多いように見えます。
 十楽寺のように阿弥陀如来を本尊とするお寺は、八十八か寺の中で十か寺しかありません。これは四国遍路が、来世よりは現世救済や病苦からの解放をねがうからであろうとおもいます。
 それに対して、現世利益を本命とする薬師如来は二十三か寺あります。二番の極楽寺の本尊が阿弥陀如来で、弘法大師が感得したといっておりますが、同じように十楽寺も弘法大師感得と伝えています。

 昔はどこの村にも阿弥陀堂がありました。村のお堂からその地域の寺へと成長するにつれて、阿弥陀寺とか極楽寺とかに名前が変わっていきます。
 
中世末期ごろに札所が八十八になりました。

 十楽寺の場合は中世末期の天正年間(一五七三-九二)から慶長年間(一五九六五)ごろに札所になったようです。なおかつ住職がいなかった時代が長くて、山伏が留守居をしたり禅僧がいたりしたようです。
 禅僧というのは雲水のことで、雲水が諸国をめぐり歩いているうちに、無住のお寺に住み込んでしまうことは、臨済禅のほうにも曹洞禅のほうにもよくあります。草堂での修行から諸国に遊行に出まして、ゆかりのあるところに落ちついて寺持ちになった、それが禅宗の広まった理由です。

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十楽寺の場合は、阿弥陀堂が札所化して寺になりました。

十楽という名前は極楽の十楽ています。浄土教が入りますと、十の楽しみがあるといわれました。『往生要集」では浄土には十の楽しみがある、としております。

1  まず、「聖衆来迎の楽」があります。
これは仏教を信じている人が臨終を迎えるときはかならず阿弥陀如来と二十五の菩薩が迎えにくるという楽しみです。いずれにしても、『往生要集』の時代の楽しみですから、現在のわれわれの感覚とは少し違います。
2 その次の「蓮華初開の楽」は、亡くなってから受ける楽しみです。「蓮華初開の時、所有の歓楽、前に倍する百千なり」、蓮華が闘いて往生を遂げたときに、現世の楽しみの百倍、千倍の楽しみがあると説いています。
3 「身相神通の楽」は、往生を遂げたときは神通力ができてなんでもかなう、三十二相という仏様のもっている相を具して非常に美しいからだになるという楽しみです。
4 「五妙境界の楽」の五妙は、人間の五つの感覚つまり五感です。「色・声・香・味・触」といって、見る楽しみ、聞く楽しみ、嗅ぐ楽しみ、味わう楽しみ、触れる楽しみという五つの感覚のすべての楽しみを満足することができるのです。
5 次に、現世の楽しみはその楽しみが消えたときは悲哀を味わうけれども、極楽の楽しみは退くということがないというのが「快楽不退の楽」です。
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6 「引接結縁の楽」は、極楽においては神通力ができますから、その人の欲するところにどこへでも行けるという楽しみです。引接というのは仏様に導かれてどこへでも行けるということです。そして、自分が結縁したいとおもうとどなたとでも結縁できます。
7 「聖衆倶会の楽」は、この世の中では嫌な人間とも付き合いをしなければならないけですが、極楽に行けばみな立派な聖衆といわれる方ばかりですから、仏や菩薩とだけお付き介いをして楽しむことができるという楽しみです。
8 「見仏聞法の楽」は、いまの人はなかなか楽しみとしませんが、仏様の美しい姿を見たり仏様の説法を聞くことができる楽しみです。
9 「随心供仏の楽」は、われわれは仏様に供養したいとおもっても、制約があってなかなか供養できない、ところが、極楽にいれば自分が供養したいとおもうときに仏に供養でき、供養したいとかもうものを仏に供養することができるという楽しみです。
10 「増進仏道の楽」は、極楽でお説教を聞いたり、仏を供養したり、仏と交わったりしている間に、しだいに自分の心境が高まってくる、そうしている間に仏道精進をして覚りを開くことができるという楽しみです。
   だいたい往生と覚りと成仏を別々に考えがちですが、往生は成仏の前提条件です。
われわれはこの世の中では人間的な制約あるいは環境的な制約があって、おもうように成仏の修行ができません。ところが、極楽に行ったら、おもうさま修行ができるから非常に成仏しやすいということが『往生要集』に説かれています。
 この10の楽しみから阿弥陀如来を本尊とする寺の名前にしたというのが十楽寺の名前のいわれです。

 ところが、江戸時代の初めの承応二年(一六五三)ごろに、悔焉坊という人が四国をめぐった『四国辺路日記』を見ますと、「十楽寺、是モ悉ク退転ス」とあるので、江戸時代の初めは一番から十番まで非常に衰えていたようです。

 この人が旅行してから三十五年ほどたって、高野山の坊さんが四国の霊場をめぐって『四国偏礼雲場記』という記録を残したころになりますと、わずか三十五、六年の間にお寺はかなり立派になります。『四国辺路日記』よりも国偏礼霊場記』のときに寺が立派になっているのは、江戸時代に入って戦乱が収まっても、まだ日本人には遍路をするような十分な余裕がなかったのが、元禄年間(二(八八-一七〇四)に近づいてまいりますと遍路も多くなり、それだけ霊場の暮らしも良くなるということで、復興してきたのだとおもいます。

 『四国辺路日記』のほうが古いので、「堂モ形斗」とあるように、形ばかりのお堂です。「本尊阿弥陀如来、御首斗在リ」と書いているので、首のところしかなかったようです。現在の十楽寺がなかなか立派な本尊さんをもっているのは、よそから古いものをいただいてきたということになるわけです。
 

安楽寺-駅路寺として治安取締り

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 六番の安楽寺は、蜂須賀藩が駅路寺という一つの使命を負わせたので、駅路山浄土院という名前がありました。駅路寺に指定されたため、お寺が大きくなったといわれています。実際には治安取締りのために造られた、そこへ奉行などが巡回するために造られたようです。そのときは瑞運寺と呼ばれました。ですから、この寺には安楽寺と瑞運寺という二つの名前があります。
 
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  御詠歌は「かりの世に知行争ふ無益なり 安楽国の守護をのぞめよ」

で卑俗な教訓を詠んでいます。江戸時代の話ですから、知行といっているのは大名の知行です。守護は守護・地頭の守護、安楽国は阿弥陀さんの浄土です。たくさん知行のある国の大名になりたいと争うのは益がない、阿弥陀さんの浄土の守護になったら知行を争う必要もない、仮の知行を争ってもまことの知行ではないということを御詠歌で歌っています。
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『四国辺略目記』では「安楽寺、駅路山浄上院」とあります。
が、「四国術礼需場記」では「瑠璃山日光院瑞運寺」と呼んで、もとは安楽寺だといっています。ここで瑞運寺といっているのは、街道筋の現在の安楽寺のあるところです。
 安楽寺があるのは引野という地名のところです。羅漢からずっと左のほうに来ると七條て、鍛冶川原があります。もとは鍛冶屋原まで鉄道があって、鍛冶屋原が終点でした。これはなくなってしまいました。鍛冶屋原の左の引野に安楽寺があります。
 本当に村の中です。そこに瑞兆寺という無料宿泊所の駅略寺があって、山の中の安楽寺が出てきたわけです。それで正式には瑞運寺といったけれども、一般には安楽寺といっていたので、二つの名前があったのです。
 
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  蜂須賀藩がなくなってしまったので、瑞運寺の指定は解除されて安楽寺になりました。もとは安楽寺といったというのは、奥の院が安楽寺であって、藩主より寺領を寄進されて、寺名を改めたのだといっています。一時このように称したのでしょうが、縁起としては弘法大師が薬師如来の尊像を刻んで、お寺を建てて安置したとあるだけです。
 昔、安楽寺が山の中にあった時代は境内に温泉があったので、温泉山の山号があります。その温泉も中古に人や獣の屍によって機れて止まってしまいました。いまは宿坊があって、湯をわかしています。ここの宿坊は八十八か所でいちばん大きいそうです。四百人ぐらい泊まれるといいますから、駅路寺の伝統を守っています。

 駅路寺指定は慶長三年(1598)に行われたようです。そのころの駅路寺の出来事を書いた文書によると阿波藩が5つの街道を整備し、それに沿って駅路寺を指定し、旅人の便をはかった。その代わり寺領10石が寄せられ治安維持にも当たったとされています。それ以前の歴史については明らかではありません。駅路寺以降の歴史がわかるということです。

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 本堂はじつに豪壮な鉄筋コンクリートの本堂です。八十八か所随一といわれる宿坊のほうがむしろ地味な感じです。その他の建物はありません。
   一キロ奥の山中に奥の院があります。安楽寺は、もとはこの奥の院の位置にありました。
それが街道筋の駅路寺である瑞運寺と合併して現在地に堂舎が建てられました。
 このように、札所霊場は山中から街道筋に出たものが多いとおもねれます。前に伊予の吉祥寺(六十三番札所)についていいましたように、現在、山の中にその寺地が残っています。まだ十分な調査ができていませんが、いまは街道筋に出ているお寺のもとの奥の院はかなり山の奥にあったようです。

地蔵寺-五百羅漢は釈迦信仰から

 
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五番の地蔵寺には、あとからつくった奥の院に五百羅漢があります。
五百羅漢のほうが有名になりましたので、地蔵寺は俗称羅漢寺とも呼ばれています。黒谷にある大日寺の南の羅漢寺があるところの地名は羅漢といいます。本堂の裏のかつて寺があったところを、江戸時代の半ばぐらいに地ならしをして五百羅漢を安置して奥の院としました。 

本尊は武装して馬に乗った姿をしている勝軍地蔵です。

勝軍地蔵はお地蔵さんですが慈悲だけではなくて、悪者を退治し、禍を払ってくれるという地蔵です。勝軍地蔵で有名なのは京都の愛宕山です。火伏せの神をまつる愛宕社は現在では神社になっていますが、もとは五つの山にある五つのお寺から成り立っていて、いちばん中心になるところは本地仏として勝軍地蔵をまつっています。
 地蔵寺の地蔵と愛宕が関係があるかどうか、ちょっとわかりません。地方で勝軍地蔵をまつっているところは愛宕神社ともとは一つであったというお寺がわりあい多いのですが、ここには愛宕さんはありません。

  
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 御詠歌は「六道の能化の地蔵大菩薩 導きたまへ此の世後の世」です。

 地蔵菩薩は現当二世の利益があるといわれております。
現は現世つまり現在です。当は当来、まさに来るべき、やがて来る来世という意味です。したがって、現世と来世を祓ってくれ世のどちらをも救済してくださる仏様が地蔵菩薩です。
薬師さんは現世の病気や災難を救ってくれる、阿弥陀さんは来世を救ってくれる、極楽済度をしてくれるというように役割分担になっています。地蔵さんはインドでできた時代から地獄の救済と現世の救済とを兼ねていたので、こういう歌が詠まれたのだとおもいます。
  来世を六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)としますと、
六道を救ってくださるということで、六道能化の地蔵菩薩というのが地蔵菩薩の称号です。それを御詠歌にして「六道の能化の地蔵大菩薩」と詠んでいるわけです。
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熊野系統の山伏が来て勝軍地蔵をまつった?

 地蔵寺の縁起では熊野が重要なものになっておりますが、ここには熊野系統の山伏が来て勝軍地蔵をまつったにちがいないとおもわしめるものがあります。
『四国偏礼霊場記』には「大師此所に遊び玉ふ時」とあります。
遊行すること、旅をすることを「遊び」といい、人々を導くことを遊化といいます。それを「遊び」といっているので、今でいう遊びにきたわけではありません。
 「熊野の神現じて霊木を手して授け給ひ」というのは、手ずから授けた、これで地蔵さんを作りなさいといって霊木をくださったという意味です。その神木で、一尺七寸の地蔵さんを作って、一寸八分の尊像を胎内仏としてまつったというのは、山伏の建てたお寺の縁起の一つの形式です。
 山伏が笈寵りであるところの小さな仏様をもってきて、最初はそれをまつっていだけれども、あとがら大きな仏様を作って、その胎内仏にしたわけです。しかし、胎内仏がなければ大きな仏様は魂がありません。魂が入っている、弘法大師の救済が笈仏を通して及んでいるということで、地蔵菩薩の信仰が盛んになったのです。
 
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  次いで鎌倉時代末の後宇多院のころに、再び地蔵菩薩像を刻んで大師作を胎内に寵めたといっています。後宇多院がどうして出てきたのかちょっとわかりませんが、縁起ですから、都合のよい時代や都合のよい天皇の名が出てきても、まあ不思議ではありません。 

そのときの住持は定宥という坊さんです。

『四国偏礼霊場記』は、定宥という人は霊夢によって一尺七寸の地蔵を作って一寸八分の古像を新像の胸間におさめた、そのほか阿弥陀も薬師も作った、これは熊野三座であると書いています。が、熊野の三尊は阿弥陀・薬師・地蔵ではありません。阿弥陀さんが熊野本宮の本地仏、薬師さんが熊野新宮の本地仏、千手観音が那智の本地仏ですから、正しくは阿弥陀と薬師と千手観音が熊野三山の三座です。
  そこで、「蓋、地蔵、観音、一体にてましませば」といって、観音と地蔵とは一体だ、この地蔵は観音と同じだから三尊だと無理なことをいっています。さらに、「此三尊、熊野三座になぞらヘーるらし。定宥もとより才徳信行の人なり。一夕熊野権現瑞託ありて、霊薬の剤方を示し玉ふ」とあって、このお寺には寺伝の火薬かあるということを詳しく書いて、その霊薬は万病円と称して四百余年伝来したといっています。  
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薬を家伝として作るというのも熊野修験らしいとおもいます

 最近の修験道研究の分野では、修験道と薬という研究の課題を取り上げる人がかなり多くなってきました。漢方というものがありますが、同時に修験伝来の薬がかなりあります。日本の修験道のある山には、たとえば大宰・葛城だったら陀縦尼助というように、それぞれ特色のある伝来の薬剤があります。ここの万病円も、おそらく山岳修行をする者たちが作っていたのだろうとおもいます。
 昔の山伏は地方に御札配りに来るときも、ただ御札だけを配るのではなくて、山で採った薬草を一緒に配りました。また富山の場合は、立山修験たちが薬とともに経帷子を配りました。修験道とお葬式は別のものに考えがちですか、修験道はむしろ山に入った死者の霊をまつります。『今昔物語集』によりますと、立山の地獄谷は日本中の死者の霊が集まるところだといっているので、そこから経帷子を配ると、亡くなった人が帰ってくるわけです。
 はじめは山伏が配っていたのが、だんだんと配置売薬のようなものにまで発展したようで
す。
 
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  地蔵寺の奥の院は羅漢堂です。この寺が一名羅漢寺と呼ばれるのはこの奥の院のためです。
 ただし、『四国偏礼霊場記』にも『四国辺路日記』にも出てきません。
実際には安永・天明(18世紀末)のころに造られたらしくて、実名・実聞という二人の坊さんが諸国を勧進してお金を集めて造ったのだと伝えています。しかし、ぞろぞろとあとから連れてこられたらしく、初めから五百そろっていたのではありません。最近、造立されたものもあるようです。江戸時代の遊行者の間にあった仏教復古主義の釈迦崇拝がこの羅漢信仰にも表れています。

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 大乗仏教という仏教では菩薩を信仰対象にしています。羅漢は小乗仏教の理想の仏です。すべての人が覚りを開けば社会全体が救われることになりますが、世の中の人みんなが、山の中に入って一人で修行したりすることはなかなかできませんから、結局、菩薩による往生という簡単な覚りになってしまいます。
   釈迦の覚りを開くということは、日本ではほとんどありえません。
ただ雲水の場合は僧堂にいて三年なら三年という修行をするので羅漢の覚りを開けます。雲水になると聡下石上といって、石の上に座ってじっと瞑想をして覚りを開きます。それが羅漢というものです。お釈迦様の。五百人のお弟子さんは、お釈迦様から「お前は、覚った」ということで、授記といういわば覚りの許可状のようなものをもらって羅漢になりました。ですから、釈迦崇拝がすなわち五百羅漢の崇拝になるわけです。
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 ところが、一般民衆は五百の菩薩の格好をした顔がおもしろいものですから、亡くなった人の面影を羅漢の中に探すという信仰のほうに変わっていきます。現にここの羅漢さんも亡くなった人の供養に行きます。大分の耶馬渓の羅漢寺の羅漢さんなどもそうです。亡くなった大の面影が五百の羅漢の中にかならずあるという信仰から、仏教の羅漢とは違った信仰ができますが、それを作った動機は仏教復古主義からきています。
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 正面に釈迦如来をまつります。右手にはお大師さんがあって、左手のほうに弥勒さんがまつられています。弥勒さんはお釈迦さんが亡くなって五十六億七千万年たってから出てくる仏様ですから、いまはちょうど中間の時期です。その間は羅漢さんに救ってもらうということがこの意味であったとおもいます。お釈迦さんと弥勒、羅漢さんと一緒にお大師さんをまつっているので大師堂と呼ばれます。この五百羅漢はなかなか壮観です。
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ここに遊行者がいた証拠は、淡島堂があることです。

 八十五番の八栗寺の場合は以空上人が淡島願人として八栗寺に来ました。淡島願人はお大師さんの絵にかいてあるような笈を背負って杖を突いて歩きました。杖の頭のところに淡島様の像と称する小さな仏像が彫ってあります。笈の中には亡くなった子どもの人形を入れて、和歌山市加太の淡嶋神社まで運んで、三月三日に流します。
 それと辺路の信仰を両方合わせた淡島願人が淡嶋から出たといいますが、じつは地方、地方に根をもっていました。地方ごとに淡島堂があって、そこから出入りしていたようです。以空上人が八栗寺をあんな大きなお寺にしたのは淡島願人が弁天さんをまつったからです。
 淡島信仰にはいろいろな民俗信仰が入っています。その中の一つが「へちま加持」です。たいていは夏場ですが、ここに行って見ておりますと、一年中「へちま加持」をしています。

大日寺  万人講こそ共同体の原理

 
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大日寺はかなり山の中に入ります。
その入口に近いところに五番の地蔵寺があります。地蔵寺はこのあたりではいちばん大きなお寺で、その奥に大日寺があるので、大日寺は地蔵寺の奥の院ではなかったかとおもいます。しかし、地蔵寺は現在では五百羅漢をまつるの奥の院をつくって関係がないように言っています。

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   大日寺の 御詠歌は、『眺むれは月白妙夜の夜半なれ たゞ島谷に黒染の袖』
というあまりわからない御詠歌です。月が煌々と照っている夜に墨染の袖の坊さんが歩いているような意味です。「たゞ黒谷に墨染の袖」では解釈のしようもありませんが、白と黒とを対照したのかもしれません。
 縁起としては『四国偏礼霊場記』に弘法大師三礼一刻(三度拝んで一つ刻む)の大日尊、つまり弘法大師が彫刻した大日如来が安置されていると書いてあるだけです。黒谷という地名をとって黒谷寺とも称しているということが同書に出ています。

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大日寺は黒谷の奥深く入った山間にある幽逡なお寺で、山門を入った正面に大日如来を安置しています。山門を入って大師堂に向かって右のほうに庫裡があります。
 『四国辺路日記』には「堂舎零落シタルヲ、当所二大童蒙ノ俗有リ、杢兵衛卜云、此仁無ニノ信心者ニテ、近年、堂ヲ結構シタルト也」とあります。

 しかし『四国偏礼霊場記』によると、安芸杢兵衛なる者が鐘を鋳てそれを鐘楼に懸けた、さらに応永年中(14世紀末)に松法師という者が夢のお告げによってこの寺を修復したということになっていまして、このほうが信用できるだろうとおもいます。

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 それから三百年後、時の住職が万人講を組織して復興します。

 万人講は、大日寺を語るときに、忘れてはならない大きな特色です。
ここでいう宗教的な建造、いわば作善は、たくさんのお金を出す必要はありません。零細な寄付をできるだけ数多くの人から集めることによって、作善の功徳が倍加されるのです。
 一人の人が一つのお寺を建てたとしますと、功徳は一つしかありません。
藤原道長が法成寺という非常に大きなお寺を建てても功徳は一つしかありません。
あるいは聖武天皇が奈良に大仏を建てても、一つしか功徳がありません。
そこで、聖武天皇は、大仏を建てるときに一握りの土でも一本の草でももってくることを許すという大仏造営の詔を出したのでした。作善をする人が一万人なら功徳は一万だというのが万人講の考え方です。

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これは共同体ですべて事を行うという共同体の原理です。

したがってそこにできたものは共同体全体の所有となりますから、功徳も分けあえるし、維持もみんなしてやっていきます。
 かりに権力者なり町豪なりが一人で建てたとしますと、彼が没落したり死んだりした場合、そのお寺がどうなるかは申しあげるまでもありません。同じように国家が建てたお寺の末路も、けっしてよいものではありませんでした。たとえば、奈良の元興寺は南都七大寺随一といわれたお寺ですが、国家が面倒をみなくなって、室町時代に一揆によって本堂が焼かれてしまうともう復興できません。江戸時代まで残った塔も雷火で焼けてしまいました。

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 元興寺にあった四つの僧坊のうち、現在も一つだけが元興寺極楽坊として残っています。三分の二だけ残ったのが元興寺極楽坊の本堂と禅室です。そこには聖だちがいて荼羅を中心にして人々を集めて勧進を行って維持してきました。その勧進のため西行が書いたという事実が残っております。大衆の支持によるものは残っても、国家によって建てられたものは残らないのです。
 薬師寺は写経で復興しようと考えました。それも作善の集積のようなものでして、それが万人講というものです。

 万人講はお寺ばかりではありません。

最近はあまり見かけませんが、山村を歩いていますと、道端に立てられた竹の筒にお金を入れる口が開いていて、「牛馬万人講」と書いてあります。続けて牛や馬を二頭死なせてしまった人が、次に買うときに万人講のお金を混ぜて買うと、牛や馬が成仏するといわれています。
 これは、みんなの支持によって馬が存在する、一人の人間のものではなくて、所有権はみんなのものだという考え方なのです。それぞれの人がごくわずかなお金を入れて、いまのお金で千円か二千円になったとしますと、あとの三十万、五十万というお金は自分が出します。万人のお金を混ぜて使えば、万人の合力だというのが、勧進あるいは万人講の論理です。

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 『四国偏礼霊場記』は、中国の龍興寺の坊さんが華厳経十万部を転読するのに十万人に勧進した、それが万人講の起こりだと書いていますが、本来は日本人のもつ共同体原理から発したものと私は考えております。
 昔は何かしようとするときはみんなで力を出しあいました。田植えひとつをとってみても、結の田植えといって、みんなで助け合います。万人講のことを知識結ともいいますが、知り合い同士が一緒になってものをするのが知識結です。十軒なら十軒がお互いに助け合って何かをするのを結同志といいました。奈良時代のお葬式もそのようであったらしいのです。
  
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漁村にも結の慣行があったことが、山比ヶ浜のような[山比]といり地名からもわかります。
漁村で地引き網を引くときは村の人が全部で地引き網を引くんです。春とか夏の適当な日に、今日は結だというと、屈強な者が網を回します。そして、引き綱を二本引っ張って、向こうとこっちとで引いて陸に網を上げるわけです。
 そのときは、労働力のない者でもそこに出ていれば分け前をもって帰れます。中国の班田収授法は労働力のある者だけですから、子どもや女や年寄りは分け前をもらえません。
しかし日本では、六歳になったら全部もらえました。そこに日本の班田収授と唐の班田収授の違いがあります。
 地引き網の結の場合は、赤ん坊を背負ってくれば二人前もらえます。小さい子どもの手を引いて一人背負って引いたら、それで三人分になるという結の概念が万人講の原理です。ですから、中国の華厳社というものとは違うということを知っておく必要があります。
ちょっと話がそれるようですが、じつはいまの会社経営にも結の概念があって、それが生涯雇用ということになるのではないかと私はおもっております。それは一方では弱みかもしれませんが、一方では日本の企業の団結の強さになるわけです。こういうと、批判的な発言をする文化人類学者がいます。しかし、いいとか悪いとかの問題ではなくて、それが日本人の根本的な生活のしかたなのです。社会の仕組みかそうである以上、ヨーロッは的な社会結合の概念や合理主義だけをもってきても、なかなか日本には定着しないと私はおもっております。

 五来重:四国遍路の寺より

金泉寺-阿波のお坊さんの学問寺

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 金泉寺は寺伝があまりはっきりしていません。
また、縁起もはっきりしません。
本尊は釈迦如来です。江戸時代に入ると、放浪者の釈迦信仰ができました。
これが金泉寺の釈迦信仰の一つの底流であうと思います。
 どうして釈迦信仰ができたかについては仏教の「原始回帰」です。

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お寺は住職ができて、どんどん発展する。
お堂がが大きくなり、坊さんが多くなる。
こうして発展的な過程をたどると形骸化されていざ、本末の仏教の精神や修行の精神を忘れてします。
そうすると行基の流れを汲む行基聖の人たちから釈迦の昔に返ろう、弘法大師の昔に返ろうという動きが発生してきます。江戸時代に入ると特に仏足石がたくさん作られるようになります。
 奈良の薬師寺の仏足石は皆さんもご存じのとおりです。
『万葉集』に仏足石の歌が入っているくらい、奈良時代には仏足石信仰がありました。途中から釈迦信仰が衰えてしまいますが、近世に入るとまた盛んになって、現在、仏足石を調べている人は三百ぐらい記録しています。とくに放浪僧が立ち寄ったようなところに仏星有があるわけです。
 
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放浪の聖たちが中心にしたのが善光寺で、善光寺聖といわれます。

したがって、善光寺にももちろん仏足石があります。それから、善光寺と非常に密接な関係のある新潟県の妙高山にも仏足石があります。いま関山という駅になっているところに、妙高修験の本拠の関山神社があります。妙高山の山頂にあったものを善光寺まで下ろしてきて、神社の境内に妙高院をこしらえていますが、妙高の修験の中に仏足石があるというのが一つです。
 
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もう一つは、寝釈迦〔釈迦涅槃像〕が江戸時代にになってからたくさん作られます。
寝釈迦は放浪者の偶像でしたから、その系統の大たちが住職をしたところにはみな釈迦涅槃像があります。それも原始回帰、すなわち釈迦唾戻ろうとする運動の一つの表れだとおもいます。
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 この寺は中世には学問寺として栄え、経処坊というところで講論が開かれました。
そういうことが釈迦如来を本尊とする金泉寺に起ったわけです。金泉寺には黄金井という泉あります。弘法大師が湧かしたのだから金泉寺となっているので、釈迦信仰と弘法大師信仰の両方をあわせてこの霊場が成立したといえるとかと思います。
御詠歌は、「極楽のたからの池を思へただ 黄金の泉すみたたへたる」となっています。現在、地蔵堂の中に泉があって、これが弘法大師が湧かした黄金井ということです。
 
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縁起は亀山法王が、ここを建てたことになっています。

『四国偏礼言場記』は、弘法大師の開基で、釈迦如来御長三尺、堂は七間四面としてします。この堂の扉の板より東を板東、内會板西として郡を分けていました。
鎮守は春日社と弁財天をまつっていた、牛頭天王社と天神社は廃亡したと同書に書かれています。亀山法皇のことが出たので、それに関連して長慶天皇の詰が出てきてしまって、長慶天皇の茸京あるというお寺の縁起になったのだろうとおもいます。
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 金泉寺は釈迦信仰から仏教の学問をする寺に変わります。

近世になりますと経処坊という名前で学問所として栄えました。
阿波と讃岐との境の讃岐側(現在は徳島県)の九一〇メートルと卜う高いところにある六十六番の雲辺寺が、讃岐のほうの学問所であったのに対して、金泉寺は阿波の坊さんだもの学問所です。そういうことがおこってくるのも、釈迦の古に帰って学問をしなければいけないという思想があったからです。
 
 金泉寺の名前のもとになった井戸は、地蔵堂になっています。ほかに閻魔堂、大師堂、奥の院があります。奥の院は大した奥の院ではありませんので、特別に取り上げるほどのことはありません。

 この寺では太子堂で善の綱が引かれています。

善光寺が開帳の年には開帳の期間だけ善の綱を引きます。
善光寺の場合二か月ぐらいの開帳の間は庭の貞ん中に回向柱という大きな角柱を立てます。本尊はまったく出せませんので扉から白いサラシを何反とつないで紐にして回向柱まで引っ張っています。
 古い伝承を調べてわかったことですが、いちばん元のところは本尊の手ですから、綱につながると本尊とと握手したことになります。したがって、善の綱は縁の綱ともいわれるくらい縁がつながるわけです。  
   しかし、善の綱のほうが正しいとおもいます。善とは作善のことです。
つまり、社会的にも信仰的にも何かいいことをすることです。いちばん簡単なのはお金をあげることですから、もとはお賽銭を紙に包んで水引で縛って善の綱にさげたので、大きな開帳ならびっしりとおひねりがさがったとおもいます。
 そもそもはお賽銭は紙に包んであげるもので、裸のままであげるものではなかったのです。それを忘れてしまって、寮銭箱にザラザラと放り込むようになりました。本尊に裸の銭を放り込かのは、本当は失礼に当たります。善の綱に紙に包んだお餐銭をさげたという伝承をもっているところがあるので、善の綱はそういう意味をもっていたことがわかります。

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 ただ、縁の綱といわれる理由もたしかにあります。お葬式のときに女の人がお棺から縁の綱を引くのは、死者とのつながりを表していて、それはそれでいいのです。また挽歌は縁の綱を引きながら唱えるものだということになってしますが、要するに、縁がつながっているということです。
 もとは本尊の開帳のときに善の綱を引きましたが、ここの場合は大師堂にいつも善の綱を引いているそうです。そういうことで、金泉寺はたいへん珍しいことに、善の綱を引いているお寺です。

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 『四国辺路日記』では本尊は三如来だといっていますが、お釈迦さんのほかは別に挙げておりません。それから、この寺には住持がいると書いています。江戸時代の初期までは住持のいない寺のほうが多かったと考えないといけません。遍路の人をお世話するために、あるいは本尊さんにお花やお水をあげるために、留守居の人がときどきいるとしうのが霊場の現実の姿だったようです。

ソラの集落 穴吹町口山字淵名の古民家を訪ねて
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四国一の清流といわれる穴吹川が東に谷を刻むソラの集落 渕名。
緩やかに張り出す尾根を選んで民家や畑が散在している。

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間近に迫った冬に向けて、畑が耕されている。
ここには、奥行きの狭い土地に対応した間取りを持つ古い民家が数多く残っている。そのひとつを訪ねて見た。

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やってきたのは渕名集落の北のはずれに建つ民家。
家の前の茅場は刈り取られている。

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 この地域は南北朝時代に当地に来た新田家の一族を先祖とする家が多い。周辺にも、新田神社がある。

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屋号は「上屋敷」
家紋は「五瓜(ごり)に四目菱(よつめびし)」

当家の下にあった庄屋の「大舘」も今は無い。
 
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 江戸時代には藍作をし、その後阿波葉タバコを昭和60年ごろまで生産していたという。タバコは天日干しの後、主屋の屋根裏につり、イロリの煙で茅葺き屋根とともに乾燥させた。


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 主屋の東に並ぶムシヤは、下から火をたき屋根上部の煙出しから排気する構造で、タバコを蒸した。現在ムシヤは内部が改装されて物置になっている。

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 屋敷は、標高440m 程の北斜面にあり、東から倉庫、ムシヤ、主屋・カマヤ・フロ、ハナレ、牛屋、少し離れてキナヤ(木納屋)が並んでいる。
 急傾斜に建つため家屋の配置は、奥行きの狭い敷地に線上に並べる形となる。
そのため住居自体も奥行きが浅く、部屋を線上に並べる「中ネマ三間取り」が代表的な間取りとなっている。

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 北入り右勝手の主屋は「四間取り」で、外壁から半間入った本桁から奥行三間×間口六間をで「サブロク」と呼ばれている。
「オモテ」は竹の天井の上に塗り土を置いたヤマト天井だ。

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建築は1800年ごろといわれるが、大黒柱があることから、もう少し新しいとされる。
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かつての調査時にはかやぶき屋根で「草が生え、こけむした屋根が印象的である」と記されているが現在は、改修されている。

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 展望が開かれた東方面には、流れ行く吉野川とその向こうに淡路島が見えた。

参考文献 徳島県郷土研究発表会紀要第45号     穴吹町の民家

穴吹から天空(ソラ)の集落 渕名・家賀の秋を訪ねて
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やって来たのは穴吹川の西の尾根沿いの中野集落。
ススキが風に吹かれて、おいでおいでをしているように揺らいでいる。
これは耕作放棄で荒れた畑にススキが生えているとも見えるが・・・。

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こちらでは、ススキが刈り取られ、集めて積まれ「コエグロ」にされている。

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ここにも、刈り取られたススキとコエグロ。

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そしてその後から新芽を伸ばすススキの株。
こんな風景がソラの集落では、この時期に到るところで見ることが出来る。

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 納屋や倉庫に「保存」されている茅やススキもある。

ススキはこの後、どのように利用されるのだろうか?
そして、コエグロは何のために作られているのだろうか?

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秋深まる山々と冬支度の進む渕名集落を後にする。

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県道255号の峠を越えてやってきたのは、貞光川沿いの家賀集落。

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翌日11月13日が児宮神社の大祭で、幟が立てられ、祭りの準備が完了していた。

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この神社も趣がある。
「かつては200軒近くの家々があり、下の川からこの上まで続く畑に阿波煙草を植え育てていた。そのお陰で、この本殿も作られたし、祭りも賑やかだった。今は、そこに杉や檜が植林され、山に還ってしまった。」
と祭りの準備を終えた総代さんが呟く。

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ここでも茅場のススキは刈り取られ、コエグロが仲良くふたつ夫婦のように建てられている。
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こちらは剪定が終わったばかりのお茶畑。
そこには石墨の祠が顔をのぞかせる。
生活の中に、祖先神等の信仰が根付いている。

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ここには肥場・肥野・肥山と呼ぶ採草地がある。
秋にカヤ刈りを行い、コエグロを作り保存する。
春が来るとそのカヤを畑に敷いて、土の流出を防ぐ。

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 傾斜がきついソラの畑は、これをしないと土が下へ下への落ちていく。

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 それ以外にもカヤを敷くと、施肥や、雑草防止、保水力、保温力、ミミズなどの微生物などを増やす効果もあるという。

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 ソラの集落では、カヤ(ススキ)は、「コエ」と呼ぶ。
採草地(カヤ場)も、人々は「コエバ」(肥場)、「コエノ」(肥野)、コエヤマ「肥山」だ。そして、カヤ刈りは「コエカリ」だ。
つまり、カヤは金肥や化学肥料に頼らず、身近の自然の中から生み出してきた大切な肥料なのだ。

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冬がもうそこまで感じられるソラの集落だった。




紅葉が山々から下りてきて、ソラの集落までやって来ている。



(肥場

美馬市穴吹町 中野・渕名の天空(ソラ)のお堂を訪ねて、その起源を考える。 
 端山霊場巡礼を一巡したので、その周辺の天空(ソラ)の集落とお堂めぐりを開始。今回は清流穴吹川の西側の尾根の集落を訪ねてみることにした。

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穴吹町から小学校の上の道を登っていく。
中野集落にある仏成寺に御参りして、ここから上へ伸びる道を歩く。

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家の前のカヤ場(肥場・肥野・肥山)と呼ばれる採草地から、カヤが刈り取られ、コエグロが作られている。冬の準備が進められている。

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茅場の向こうに赤い屋根のお堂が見えてきた。

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消防屯所の上の丘に、中野集落のお堂はあった。
登ってみよう。

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オレンジ色の屋根が青い空に映える。
お堂は誰が、何のために、いつ頃から立て始めたのだろう?
貞光のお堂が寛政5年(1793)の夏、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が祖谷を旅行した時の紀行文に出てくる。(意訳)
26日、朝、貞光を出て西南の高山にのぼった。その山は険しく岩場もあり、足を痛めた。汗をぬぐいながらようやく頂上に着いたが、そこには五間四方の辻堂があった。里人に聞くと折々に、人々が酒さかなを持って、ここに集り、祈りを捧げたあとに、日一日夜一夜、詠い舞うという。万葉のいわゆる筑波山歌会に似ている。深山には古風が残っているものだと思った。 
ここからは集落の人たちが氏堂に集まり酒食持参し、祖霊の前で祈り・詠い・踊るという。祖霊と交歓する場としてのお堂の古姿が見えてくる。

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吹き抜けのお堂からは、吉野川の河口付近を経て淡路島も望めるようだ。
 氏堂の発生については
最初は、景観のよい所を先祖の菩提所として、いろいろな祈りを捧げていた。やがて草葺小堂が建てられ、日ごろからお祈りしている石仏の本尊が安置される。さらに先祖への祈願の建物としてお堂が現れる。

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 江戸時代のキリスト教禁制とセットになった仏教保護政策とからんで、阿波藩は庶民のお堂建立を奨める。その結果、修験者や僧侶の指導で、経済的に安定してきた元禄時代頃より各集落で建立されるようになった。お堂の棟札からも裏付けられるという。

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 大きな集落では複数建てたり、7、8戸の小部落でも建てている。競うように各集落で建てらた風潮があったようだ。
 当時の庶民負担は大きかったはずだ。にもかかわらず修築、屋根の葺替等が世代を超えて引き継がれてきた。里のお堂が姿を消す中、ソラの集落では今日に到るまで神社とならぶ信仰施設として健在である。

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中野堂近くの民家では、庭先に干し柿をつるす作業が始められていた。

 お堂を維持する力となったのは祖霊への信仰心。
中祖谷地方では、旧盆のゴマ供養が今に続いている。
那賀郡沢谷では盆には「火とぼし」の行事が行われ、念仏供養をしている。いまはすたれているが戦前までは、お盆にはお堂の庭で「まわり踊」が行われ先祖の霊の供養をしていたという。

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次にやって来たのは西山集落のお堂。ここからの展望も素晴らしい。

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 山村を旅行する場合、宿のない所ではお堂に泊って旅をしたという。現在でいえば無料宿泊所のような役割をはたし、村人もこれを認めていたという。

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 ソラのお堂めぐりをしていて気付くのは、庚申信仰の影響が見られること。庚申塔や光明真言を何万遍唱えたことを示す碑文が数多く残る。しかし、庚申講を今でも開いている集落は殆どない。

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このお堂に導いてくれたことに感謝を捧げる。

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いろいろなことを考えながら煩悩まみれのお堂巡りが続く。


参考文献 
荒岡一夫         お堂の発生について 松尾川流域の庶民信仰の一端
徳島県郷土研究発表会紀要第18号
  
 





2016 ラフテングプレ世界大会 徳島県吉野川

吉野川を見ながら樹上散歩を楽しんでいました。

10月10日(月)来年、吉野川で開催予定の世界ラフテング大会の国内選考会を兼ねた大会がありました。
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スタート視点は大歩危のウエストウエスト。大会期間中は展望台が無料開放されていました。
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快晴の吉野川に、ラフテングが集められ13:30分のスタートに向けて準備が整えられています。
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ここにはモンベルのお店も入っています。ラフテングやカヤックの受付も行っています。私もカヤック講座受講の際にはお世話になりました。
今回新しくこんな施設も登場していました。
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樹間に張られたロープの上をゆらりゆらり。歓声が谷に響きます。
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すぐそばは吉野川。
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踏み出す足に緊張感が張り詰めているのが分かります。
父親と楽しむ子どもの姿が多かったように思います。体験型のスポーツのひとつといえるのかもしれません。いい経験してるなと感じました。
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その前をアンパンマン列車が通過していきます。

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 スタートまでの時間を、吉野川の流れを眺めながら過ごしました。

 「三好町史」を原付バイクに詰め込んで、東山詣でが続く。
 
今日のミッションは「葛籠から樫の休場(二本杉)を経て大川山までの林道ツーリング」だ。まんのう町塩入から入り、県道4号(丸亀ー三好線)を財田川の源流沿いにツーリング。原付はスピードが出ないために、いろいろなものをゆっくりと眺められるし、考えられる。狭いソラの集落の道にも入って行きやすい。最適だ。

東山峠から一気に男山の小川谷に架かる橋まで下る。ここから葛籠集落の入口までは広い農道が整備されている。

葛籠集落の道沿いには、行き交う人々の安全を祈ってかお地蔵さんがいくつか見受けられる。ここは東山峠越の新道が整備される明治40年までは、樫の休場を越える塩入街道の宿場的役割を果たしていたという。
葛籠が繁昌していた「気配」は、今は残された屋敷跡の立派な石垣くらいしか感じることはできない。

傾斜した畑の中に「山祗神社」が鎮座する。 祭神は大山風命
祭礼には獅子舞が奉納される。この集落も大川神社の祭礼に参加するが、香川県から多数の獅子舞がやってくる。そこで「文化的交流」が行われてきたために獅子舞は、讃岐との流れをく んでいると言われる。大川神社の信仰を通じての阿讃の交流の一コマかもしれない。
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 集落の南側は「前山」が立ちふさがり、昼間方面との交通を難しくしてきた。
明治になって昼間から東山まで新道が整備されて、葛籠から樫の休場経由の塩入街道は繁盛する。今では、それも残された屋敷跡の立派な石垣からしか察することができないが・・・

集落を抜けてさらに高みに林道を上ると、眼下にいま抜けてきた葛籠集落 
そして小川谷川の向こうに貞安が見えてくる。 
ここも天空に通じるソラの集落だ。

葛籠林道の終点。
ここから大平までは「林道 樫の休場線」が阿讃山脈の稜線の阿波側を走っている。
右へ行くと馬瓶 → 田野々 → 仲野 → 太刀野山へと吉野川へ下りて行く。。このルートも塩入街道のひとつだった。
ここを左に曲がり、樫の休場へ。
中蓮寺山の枝打ちされた明るい杉林の中を抜けていくと・・・
樫の休場に飛び出した。

北側の讃岐の眺望が開ける。
眼下に塩入集落。
その向こうに満濃池が広がる。

この峠には6本の杉が立っている。これが讃岐方面から見ると2本の大杉が並んでいるように見えるので、讃岐側の地元の人たちは「二本杉」と呼んできた。
つまり地図などの公式文書には「樫の休場」、
讃岐の地元の呼称は「二本杉」ということになろうか。
最期に、三好町史の塩入街道「樫の休場」についての記述を紹介したい。
三好町史 民俗編 309P
  東山では、北へ行くにも南へ行くにも峰を越さなければならず、東へ行くにも西へ行くにも谷を渉らなければならなかった。そこでは、道を整えて人が通ったのではなくて、人が通った足跡が自然に道としての形を整えていったと思う。

 東山からの道は、まず讃岐へ通じ、人も物資も吉野川筋へ山入するよりも讃岐へ往来したと思われる。それは小川谷に沿って昼間へ山たり、峰を越えて昼間へ山ることが地勢から見て困難であったことにもよるが、それよりも、琴平や丸亀が商業的にも、文化的・情報的にも進んでいだことによると思う。江戸時代以峰、行政的には阿波藩に属したが、それでも吉野川筋への往来が讃岐への往来と並ぶという程ではなかった。
 讃岐への道は、
① 内野から法市・笠栂を経て水谷・二本杉(旧称・樫の休場)から塩入へ。
②葛龍から水谷・二本杉を経て塩入へ。
③貞安・光清からは男山峰を越えて塩入へ。
④差山(指出)の峰を越えて財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ出ていた。
どの道も塩入や財田を径て琴平・善通寺・丸亀をめざすものであった。足が達者であった昔の人は、一日で琴平へ往復できたようである。
これらはいずれも徒歩の道であって、それぞれの集落の尾根を登って峰を通る道であった。尾根を経て峰を行く道は、最短距離を行く道であって迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかった。
 また耕地を損ずることも少なし利点があった。が、それだけに急坂が多かったし、つづら折りに曲がってもいた。足掛りだけの徒歩の道であった。荷物は背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりした。
現在とは異なり、琴平・善通寺・丸亀等の商業圈に属していた。どの集落も奥地ほど讃岐に近いので便利であり、開化の土地であった。昔は、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が続いていた。

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職場の若い人たちに混じって小歩危でラフテング
日本一の急流激流に挑戦してきました。(^_^
両岸は切り立ったゴルジュの白や緑の壁。

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ホワイトウオーターの激流にいくつも突入。

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瀬に入る前に一生懸命に漕いで勢いをつけて、後は舵とるインストラクターにまかせ。
落差が4㍍近くある激流の波を頭からかぶります。

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ゆるやかなトロ場では、水に入ってボデイーラフテング。
川の流れの中に寝っ転がって、上を見ると青い空に白い雲

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恐怖心が薄らいで、川を楽しむ遊び心がでてきます。
こちらのほうが川を直接に感じられて、私のお気に入りになりました。

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調子に乗りすぎて、こんな目にも遭いました。
吉野川の水をタップリといただきました(-_-

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最後は、川に着きだした岩の上から飛び込み(*^_^*)

激流は、ストレスや人に言えない愚痴やいろいろな悩みを
 きれいに流し落としてくれるような気がしました。
  
写真は随行したインストラクターがカヤックから撮ったものをいただきました。感謝_(_^_)_

剣山のアサギマダラ
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先週の台風4号の通過後に、徳島の剣山に行きました。

台風一過の晴天とはならず、頂上にはガスがかかっています。

ひらりひらり、空から舞い降りてくるものが目に入ります。

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細かく羽ばたかずにふわふわと滑空します。

すぐ目の前の山アザミに留まりました。

アサギマダラのようです。

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夏に日本で生まれたアサギマダラは、秋には台湾まで南下するそうです。

「渡り」をすることで有名です。

人をおそれることがない蝶のようで、何枚もシャッターを切りました。


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この蝶も、これからの「渡り」に備えているのでしょうか。


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ガスのかかった頂上です。

剣神社の祭礼が「磐倉」の下で行われていました。

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ホラ貝の音が鳴り響く「天涯の頂」でした。

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先日に続いて、藍の豪商田中家からです。

母屋の屋根は、吉野川に生えている「葦」で葺かれています。

大洪水で母屋が浸かった時には、屋根が船になる工夫があるそうです。(@_@)

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母屋の前の広場に立つキリンのような長い首。何でしょう?

「はねつるべです。藍作りに必要な水は、あれで井戸から汲み上げていました。」

=== 「裏にもありますから見てみますか」と奥さん。 === 
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母屋と倉の間の空間です。

「これは、生活用の井戸の水を汲み上げていました。」

「針葉樹で一番堅いムロの木(ネズミサシ)が使われいます。」と奥さん。


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前回紹介した青石の倉、その前の井戸、そして右の支柱がはねつるべのもの。

支柱は高さ4㍍、土の中に1,5㍍埋められているそうです。

この支柱も青石が使われています。


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最後に、これなんだと思います?

その年、最初にできた藍がスタンプのように並べて押されています。

その右に見える文字は、藍造りの各屋号

これを見れば「生産者」の藍の出来具合や技術力が分かったようです。

そのためのカタログともいうべき物のようです。

品質管理や技術革新・相互競争も取り入れられていたようです。

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徳島県吉野川の下流の藍の豪商の家屋を見学してきました。

11棟の家屋が国の指定を受けていますが、民家として今も人が住んでいます。

日曜日だけの開放ですが、知らずに平日に訪ねた私を案内していただきました。<(_ _)>


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「田中家の一つの特徴は、土台にあります」と奥さんはおっしゃります。

吉野川の氾濫に備えて、北側には高い石垣が積まれています。

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庭石として珍重される「青石」が惜しげもなく使われた上に蔵が建っています。

200年以上たっていますが、隙間がありません。

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経費のかかる「青石」ばかりでなく、こちらは鳴門の砂岩が使われています。

「この蔵には、作られた藍を保管してました」と奥さん。

私には、まるで要塞のようにも思えました。


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さきほどの外から見た蔵の入り口です。

全面に「青石」が敷き詰められているのが分かります。(*^_^*)

「石垣を敷き詰め、土台作りに20年。その上に11棟の建物が全て建つのに30年。」

「宝暦年間にひとりの頭領が、一生をかけて建てっていったようです。」

「住みながらこの建物を守る方法を選んでいます」と奥さん。


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ていねいな案内を終えて、帰り際に長屋門を出て振り返ると・・。

そこにも青石が使われていました。

藍商の財力とともに住居プランの一貫性を感じた家屋群でした(^_^)/~

高越山のオンツツジ
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先日の日曜日、徳島県の高越さんにお参りにいきました。

新緑の木々の間から朱赤に染まった所があります。

船窪のオンツツジが咲いているようです。

もう一がんばり、足をのばしてみましょう(^o^)。


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これがつつじ? 私の「ツツジ」のイメージを越えています。

「樹齢300年 樹高6㍍を越えるものもある」ようです。

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もうすこし近づいてみましょう。

「落葉低木」に分類されていますが、「低木」(?_?)

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先日紹介した「ミツバツツジ」と同じで、冬には落葉します。

花が先に咲き、後から新緑の若葉が出てきます。

そういう意味では、少し遅すぎたようです(-_-;)


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「花も終わりにけり(^_^;)

花びらが大きな幹の下に、集められているように見えました。

5月20日前後が、一番の見頃だったようです。

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雄(オン)ツツジは、その樹形が男性的ということに由来と聞いていました。

この木を見て、なるほどなと納得できた一日でした。(^_^)/~

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四国徳島県の剣山に連なる次郎笈(1929㍍)です。

かつては剣を「太郎笈(ぎゅう)」と呼んでいたようです。

そういう意味では、弟分にあたるのがこの山です。

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スーパー林道側の登山口から芽吹き始めたブナ林を抜けると・・

新緑の山並みを背負って紅紫の花が咲いています。

近づいてみましょう。

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葉に先んじて花が開いています。

「トサノミツバツツジは紫色が濃く、ツルギミツバツツジは赤色が強い」

と以前教わったことを思い出します。

剣山周辺の高山に咲く希少種のツルギミツバツツジのようです。


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こちらは葉も出かけています。

枝先に輪生する3枚の葉が分かりますか?

これが「ミツバツツジ」の名前の由来だそうです。

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こちらは花も終わり、三つ葉が青空に背伸びしています。

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ブナの大木も若葉を空一杯に広げています。

新緑まっさかりの次郎笈でした。

コバノミツバツツジとの比較は、こちらをご覧ください。
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/ericaceae/kobanomitsuba/kobamitsu.htm
岡山理科大学 植物生態研究室(波田研)のホームページです

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ぼくミニマムDXの「たかし」です。おひさしぶりです。

この前の日曜日に、スーパー林道にゆられながら次郎笈に行きました。

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車の中より、外が好き!

ここは鹿の糞も落ちているし、「熊注意!」の看板もある。

ぼくの野生を刺激する。ワクワク(^^)

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少し休憩。僕は体が小さいので30分以上は続けて、歩けません。

水の補給です。でもウルトラマンよりはましと、お母さんは褒めてくれます。

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木が少なくなって笹ばっかり。

あそこを越えるとどうなるのかな?

青い空につながっているのかな?

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「もうすぐ、頂上。もうすぐ がんばりな」と言われても・・

ぼくもう疲れました。

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やっと次郎笈頂上(1929㍍)です!(^^)!

まわりは笹の原、ぼくには何も見えません。

お母さんは、昼寝を始めてしまいました。

鹿に狸にウサギ、山鳥に出会えました。楽しかったです。

熊と人間には出会いませんでした。残念です。

たかしの山旅報告を以上で終わります。

読んでいただいてありがとうございます。_(._.)_

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