瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:忌部氏

端山八十八ヶ所巡礼をしていると「忌部」伝説に、よく出会いました。貞光川流域は、古代忌部氏との関係が深い所という印象を受けました。ところがいろいろな本を読んでいると、古代忌部氏の本貫は麻植郡と考えている研究者が多いことに気がつきました。麻植郡を本願とする忌部氏の氏神である忌部神社がどうして三好郡にあるのでしょうか。そこには、近世と近代の所在地を巡る争論があったようです。それを今回は見ていきたいと思います。テキストは「長谷川賢二  忌部神社をめぐって 講座麻植を学ぶ 49P」です。
講座 麻植を学ぶ(歴史編)」 | アワガミファクトリー オンラインストア │ 阿波和紙の通販

まず忌部氏について押さえておきます。
古語拾遺には「阿波忌部」と麻植の関係を次のように記します。

  天日鷲命の孫は、木綿と麻(を)と織布(あらたへ)多倍)を作っていた。そこで、天富命に日鷲命の係を率いて、土地豊かなところを求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖えた。その末裔は、いまもこの国(阿波)にいて、大嘗奉には木綿・麻布(あらたへ)及種種の物を貢っている。それ故に、郡の名は麻殖(おえ)と呼ばれる。

ここには、阿波忌部が阿波に定着して、穀・麻を播種し、木綿(穀の繊維)、麻の繊維、「あらたえ」といわれる麻布を製作し、これらを大嘗祭の年に貢納したこと、それゆえに阿波忌部の居住する地を麻殖郡と称したことが記されています。ここからは阿波忌部は麻殖郡に拠点を置いていたことがうかがえます。また、承平年間(920年前後成立)の辞書『和名類衆抄』にも、麻殖郡に「忌部郷」があったことが記されています。ここからも麻植が本貫であったことが裏付けられます。

天皇の即位儀礼の大嘗祭に奉仕した阿波忌部の氏神が忌部神社です。
古代の大嘗祭は律令体制下の「太政官→阿波国司→麻植郡司→阿波忌部」という行政ルートを通じて、忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われました。しかし、律令体制が解体すると、このルートは機能しなくなり、忌部氏も衰退します。忌部の後裔を称する人々は中世にもいて、大嘗祭への奉仕も続いたようですが、中世後期には途絶えたようです。やがて大嘗祭自体も行われなくなります。それが復活するのは17世紀後半の東山天皇の即位の時です。
 一方、近世に大嘗祭が復活したときには、阿波忌部は断絶していたので関与できませんでした。
大嘗祭と阿波との関係が「復活」するのは、大正天皇の大嘗祭のときになります。大嘗祭と阿波の関係が途絶えていた江戸時代後半に起きるのが忌部神社所在地論争です。古代の忌部神社の系譜を引く神社がどこにあったのか分からなくなり、考証や論争が繰り拡げられます。

延喜式神名帳阿波
延喜式神名帳の阿波国分

延喜5年(927)成立の『延喜式』神名式(「神名帳」)には、諸国の官社が載せられていて、これを「式内社」「式社」と呼んでいます。
ここに載せられた神社が当時の代表的な神社であったことになります。阿波を見てみると、四十六社五十座の神社が記されています。これらの中には、最有力なのは次の三社です
祈年祭に神祗官か奉幣する官瞥大社として
①麻殖郡の忌部神社
②名方部の天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめ)
③国司が奉幣する国幣大社として板野郡の大麻比古神社(おおあさひこ)
他は国幣小社です。社格からしても忌部神社は古代阿波では代表的な神社であったことが分かります。神名帳によれば、忌部神社は「或いは麻殖神と号し、或いは天日鷲神と号す」と注記されています。ここからも、阿波忌部の祖神である日鷲命を祭神とし、「麻植神」と呼ばれていたことが分かります。忌部神社が忌部郷と考えるのが自然のようです。

延喜式神名帳阿波2
            延喜式神名帳の阿波国美馬郡十二座と麻植郡分
行方知れずとなった忌部神社の所在地考証は、江戸時代後半の18紀以後になると活発化します。
そして所在地をめぐる論争となります。その経緯を見ていくことにします。
文化12年(1815)の藩撰地誌『阿波志』巻七「種穂祠」には、次のように記されています。

「元文中、山崎。貞光両村の祀官、忌部祠を相争ふ。遂に中川式部に命じて此に祀る」

ここには、麻植郡山崎村(吉野川市山川町)と美馬郡貞光村(つるぎ町)の神職の間で相論があって、麻植郡の種穂神社(古野川市山川町)を忌部神社として扱うことになったことが記されています。ここでは、争論となった場所が近代の論争地として再登場することを押さえておきます。以後、忌部神社を名乗る神社が以下のように次々と現れるようになります。
①寛保二年(1742)の『阿波国神社御改帳』には、宮島八幡宮(古野川市川島町所在)、種穂神社が忌部神社を主張
②種穂神社の神主中川家の史料から、嘉永六年(1853)に高越権現が忌部神社を称したこと
③この他にもいくつかの説がでてきますが、ここまでは麻植郡内が候補であったこと
この争論の背景には、国学が知識人の間に広がり古代への関心が高まってきたことと、忌部信仰の興隆・拡大があったようです。

端山忌部神社
端山の忌部神社(つるぎ町)(もともとは東端山村友落神社の奥山絶頂平地の小社)
そして登場するのが貞光周辺、とくに端山(つるぎ町)の忌部神社をめぐる次のような動きです。
①宝暦4年(1754)に、神職宮内伊織広重が忌部神社の系譜を主張し、神宝を「発見」したことが「美馬郡貞光村忌部神社文書.」(徳島県立図書館編出版)に記される。
②寛政5年(1792)『阿波志』編集のために神職らが集めた旧聞等をまとめた『阿波志編纂資料』には、美馬郡西端山には「忌部御類社と申伝」える「蜂巣五社大明神」や、「忌部大神宮社床と申伝」える「古社跡」があった
④類似する内容が民間地誌『阿陽記』などにもあり、西端山の項に「忌部古社」とその関連伝承・遺跡が記載されるようになる
⑤野口年長『式社略考論』は、端山の忌部神社について「いまだたしかなる拠なければ、せむすべなし。或人忌部神社の永禄四年の棟札を持伝へたれど、これにも社の所在の証なし」
⑤永禄4年(1561)の棟札とは、近代の論争において端山側の論拠となった「天日鷲尊四国一 宮」の棟札と同一物を指すようですが、現存せず。
以上のように18世紀後半から「忌部神社=端山」説を主張する動きがあったことを押さえておきます。これが大きな運動になるのが明治維新後です。
        
明治4年(1871)5月、明治政府は、全国の神社を神宮・官国幣社・府藩県社・郷村社と格付分類することにします。
そして中央の神祗官が直接管轄する官国幣社が指定されます。その一環として忌部神社も国幣中社に指定されます。これは先ほど見た『延喜式』の神名帳に従ったもので、その所在場所が分からないままでの指定でした。そのため、多くの神社が「吾こそは式内社としての古代の忌部神社なり」と名乗りを上げます。こうして近代の所在地論争の幕が開きます。

小杉榲邨 - Wikipedia
国学者小杉饂郁
そこで重要な役割を果たしたのが阿波出身の国学者小杉饂郁(すぎむら)でした。小杉の生涯を見ておきましょう。
天保5年(1824)徳島藩中老西尾氏の家臣であった小杉明信の長男として徳島城下の住吉島に誕生
安政元年(1854)西尾氏に従って江戸に出て、
安政4年(1457)江戸の紀伊藩邸内の古学館に入門して国学を学ぶ。
           幕末期には尊王攘夷を唱えたため、藩により幽閉。明治維新に際して藩士に登用され、以後、学者あるいは学術系行政官とし活躍。
明治2年(1869)藩学である長久館の国学助教に就任
明治7年(1874)教部省に出仕し、後に文部省、東京大学、帝国博物館に勤務。『特撰神名牒』『古事類苑』などの編纂に従事
明治34年(1901)文学博士・
明治43年(1910)永眠(75歳)
大正3年(1913) 小杉編『阿波国徴古雑抄』刊行(『徴古雑抄』のうち、阿波の部の正編仝部及び続編の主要史料を収載)

忌部神社の国幣中社指定の年の明治4年(1871)8月に、小杉は、その所在地調査の報告や意見が出されています。これを見ると候補として挙げられている神社は、次の通りです。
①川田村(吉野川市山川町) 種穂社
②山崎村(山川町)忌部社  王子社
③貞光村(つるぎ町)    忌部社(東端山村友落神社の奥山絶頂平地の小社)
④宮島村(吉野川市川島町) 八幡宮
⑤西麻殖村(吉野川市鴨島町)中内明神
⑥上浦村(鴨島町      斎明神
⑦牛島村(鴨島町)     大宮

種穂忌部神社
川田村(吉野川市山川町) 種穂社
このような乱立状態を見て、小杉は「忌部神社新設」案によって打開しようという意見書を県に提出しますが採用されません。そのため官祭を開くことができず混乱が生じます。そのため一時は、忌部神社の指定を撤回し、大麻比古神社に変更するという案も浮上したようです。流石にこれには抵抗があり実現しません。

忌部神社 山崎
忌部神社(山川町山崎)
明治6年になると、小杉饂郁は「山崎村ノ神社ヲ以テ本社トスルニ決定ス」と主張するようになります。
「山崎村ノ神社」とは、②の王子社に祀られていた天日鷲社のことです。そして、翌年2月、教部省に意見書を提出します。この時の小杉の考証根拠は「不可抜ノ証文」で、「三木家文書」のうちの「阿波御衣御殿人契約状」(正慶元年1332)です。この文書は今は写本が残るのみですが、次のようなことが書かれています。(原文は漢文調を読下したもの)
契約
阿波国御衣御殿人子細の事、
右、件の衆は、御代最初の御衣御殿人たるうゑは、相互御殿人中、自然事あらは、是見妨げ聞き妨ぐべからず候、此の上は、衆中にひやう定をかけ、其れ儀有るべき者也、但し十人あらば七、八人の儀につき、五人あらば二人の儀付くべきものなり、但し盗み・強盗・山賊・海賊・夜打おき候ひては、更に相いろうべからず候上は、日入及ぶべからず、そのほかのこと、一座見妨げべかず候、但しこの中にいぎ(異議)をも申、いらん(違乱)がましきこと申物あらば、衆中をいだし候べきものなり、此上は一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也、角て契約件の如し、
正慶死年十一月 日
以下13人の名前
この文書については、研究者は次のように評します。

中世文書としては文面に違和感があるものの、文意は明確であり、在地社会で作成されたものであるがゆえの表現の乱れや写し間違いがあるとするなら、必ずしも否定的にとらえるべきではないと考える。

つまり完全な偽物ではなく、当時の情勢を伝える信用できる内容のものだという評価です。
内容を見ておくと
「御衣御殿人」は通例「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(荒妙御衣)のことで、これを製作する者が「御殿人」です。したがって、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団ということができます。
小杉が注目したのは、次の箇所です。

「一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也」

阿波忌部の子孫と称する人々が寄合を開く「やまさきのいち(山崎の市)」とは、忌部神社の門前市のことで、山崎村に忌部神社があったことになります。この「山崎=忌部神社鎮座」説に対しては、5月に異論が出されます。折目義太郎らが小杉に対し、西端山の忌部神社を認定すべきという意見を申し出ます。しかし、教部省による小杉説の検証が行われた結果、12月には大政大臣三条実美の名において、次のような決定が出されます。
「麻植郡山崎村鎮座天日鷲社ハ旧忌部神社クルヲ実検候二付自今該社ヲ忌部神社卜称シ祭典被行候」
意訳変換しておくと
「麻植郡山崎村に鎮座する天日鷲社が旧忌部神社が認められたので、これよりこの社を忌部神社と称して祭典を行うものとする。

これが小杉説に基づく政府決定でした。

これで一件落着のように思われたのですが、問題は終わりませんでした。讃岐国幣中社の田村神社権宮司・細矢庸雄が忌部神社の所在地を西端山とする考証を出して、政府決定に反駁を行い、小杉との論争となります。
さらに、これを支援するように明治10年(1877)になると、西端山を含むつるぎ町貞光一帯から運動が起こり、内務省に願書が提出されます。
その主張の骨子は次の通りです。
「式内忌部神社ノ儀、往古ヨリ阿波国麻殖郡内山吉良名御所平二御鎮座」

これには「忌部郷人民惣代」を称する村雲義直のほか、谷幾三郎、折目栄の連署があり、さらに戸長・副戸長計七名による奥書があります。ここからは個人の意向ではなく、地域有力者の政治運動として展開されたことが分かります。つまり、忌部神社問題が争論から政治問題化したのです。翌年に出された追願書以降は、東京在住の折目栄が「忌部郷惣代」とか「忌部郷諸(庶)民惣代」などと称しているので、彼が運動の中心にいたことがうかがえます。
 忌部神社=端山説の根拠は、次のような「物証」でした
①美馬郡は、もと麻植郡の一部であったとする郡境変更説などが記された『阿陽記』
②その系統の地誌、『麻殖氏系譜』
③永禄年間の「天日鷲尊四国一宮」の棟札
また、小杉が「忌部神社=山崎鎮座」説の根拠とした古文書「波御衣御殿人契約状」を偽文書とする鑑定も出されます。そして考証の結論は、「波御衣御殿人契約状」を偽文書として、「忌部神社=山崎説」を否定するものでした。こうして、明治14年(1881)に西端山御所平が忌部神社所在地と決定されます。
ところが政治問題化した忌部神社の所在地問題は、これでも終結しません。
こうなると学問的考証の手立てはなく、残された選択肢は、かつての小杉の主張であった忌部神社の新設によるしかなくなります。所在地論争は、棚上げされることになります。

徳島市勢見山の忌部神社
 徳島市勢見山の忌部神社

こうして徳島市勢見山に新たな場所が選ばれ、忌部神社を新設して明治20年(1887)に遷座祭が行われます。御所平の神社は忌部神社の摂社となりますが、山崎の神社はその系列からは外されてしまいます。その意味では、端山側の運動は一定の成果を残したと言えそうです。その後、山崎が歴史の表舞台に現れるのは、大正4年(1915)、大正天皇即位の大嘗祭の色服の「復活」の時です。織殿が山崎の忌部神社跡地に設置され、山崎の地も阿波忌部に連なる正統なな忌部神社として復活を遂げます。

忌部神社 徳島
忌部神社(徳島市)
以上をまとめたおくと
①阿波忌部の本貫地は麻殖郡で、そこに氏寺の忌部神社が鎮座していた。
②忌部氏は古代の大嘗祭において、麻などの織物を奉納する職分を持っていた。
③しかし、中世になって大嘗祭が簡略化され、ついには行われなくなるにつれて、阿波忌部も衰退し姿を消した。
④こうして阿波忌部が姿を消すと、氏神である忌部神社もどこにあったのか分からなくなった。
⑤こうした中で江戸時代後期に、国学思想が拡がると忌部神社を名乗る神社がいくつも現れ、争論を展開した。
⑥明治政府は延喜式の神名帳に基づいて、忌部神社を国幣中社に指定したが、所在地が分からなかった。
⑦そこで政府は、小杉饂郁の論証を受けて、麻植郡山崎村の天日鷲社を忌部神社と認めた。
⑧これに対して端山周辺の有志達は、組織的に「忌部神社=端山」説を政府や県に陳情し、政治問題化させた。
⑨その結果、新しく忌部神社を徳島市内に建立し、端山はその摂社とした。

ここには、ひとつの神社がどこにあったかをめぐる争論の問題があったことがわかります。忌部神社が端山にあったということは、周辺住民のアイデンテイテイの根拠になり、地域の一体化を高める動きとなって政治問題化します。このような歴史ムーブメントが端山周辺にはわき起こり、現在でも忌部伝説が語り継がれているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
長谷川賢二  忌部神社をめぐって 講座麻植を学ぶ 49P
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高越寺絵図1
             阿波高越山

阿波の修験道のはじまりは、高越山とされます。高越山修験とは、どのようなものだったのでしょうか。これについては、今までにも触れてきたのですが、今回は「阿波の修験道  徳島の研究6(1982年) 236P」をテキストにして見ていくことにします。

徳島の研究6

高越寺の宥尊が記述した「摩尼珠山高越寺私記」の高越寺旧記(1665(寛文五)年には次のように記します。

「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」

これに続く部分を要約しておきます。
①役行者が大和国の吉野蔵王権現と一体分身の聖山として、千手観音として高越山を開いたこと。
②高越山が一国一峰の山として開かれたこと。
③弘法大師が修業し、二個の木像を彫ったこと。
④聖宝僧正が修業したその模様。
⑤本山の伽藍、仏像などの五項目についての記録
②の内容をもう少し詳しく見てみると、

役行者行力勇猛、達人神通、自在権化、故感二権化奇瑞、攀上此峯 択地造壇柴燈、 阿祗備行者、有衆生済度志、廻国毎国開二阿祗禰峯、其数六十六箇所、名之謂一国一峯、摩尼珠山配其云々。

意訳変換しておくと

役行者は行力勇猛で、人と神と仏を行き来し、自在に権化(変身)することができた。そこで権化や奇瑞のためには、霊峰にのぼり、その峯の上に護摩壇を築き柴燈を焚いた。 阿祗備行者は衆生救済の志を持ち、全国を廻国し国ごとに阿祗禰峯を開いた。その数は六十六箇所におよび、これを一国一峯、摩尼珠山と呼ぶ。

江戸時代初めには、高越山は以上のように自らの存在を主張していたようです。ここには阿祗爾行者が全国の名山を修験道の山として開いたことが述べられています。全国「六十六山」を「一国一峰」として開いたともあります。修験道も、全国的にその勢力を伸ばす戦略として、大峰山への人山勧誘を行うと供に、教勢拡大のために地方にも霊山を開いて、手近に登って修業のできる「名山」を開拓していたようです。しかし、いつごろから高越山が修験道の拠点となったかについてはよく分かりません。史料的に追いかけることが出来るのは、もっと後になってからのようです。ここには、忌部氏は登場しないことを押さえておきます。
南北朝時代の高越山の修験者が熊野詣でを行っていたことが分かる史料を見ておきましょう。
高越山の麓に高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。その中の最も古いものが、1364(貞治三年)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す(名簿)」ということです。檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代から南北朝にかけて、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに「引率」していたことが分かります。高越山周辺は修験道の聖地となり、熊野行者などの修験者達がさまざまな宗教活動を行っていたとしておきます。ここにも忌部修験はでてきません。

高越山文書からは、高越山の修験道が空海・聖宝を崇める真言修験であったことが分かります。
そのため阿波の修験道は、ほとんどが当山派に属して一枚岩の団結があったと思われがちです。しかし、どうもそうではないようです。組張り(霞・檀家区域)の確保・争奪のために、各勢力に分かれて争っていた気配があるようです。

高越山と他の山・神社の争いについて、次のような話があります。

麻植郡川田町から名西郡神山町へ越える山道がある。この間の山の峰々に山の上では見られない吉野川流域の石が散在している。これは神山の上一宮大粟神社の祭神大宜都比売命が夫である伊予の三島神社の祭神大山祗に会うために神鹿に乗って行くのを、高越山の蔵王権現が嫉妬して吉野川の石を投げたからだという。今もその氏子たちは仲が悪く、神山と川田は通婚しないという。

 もう一つは、大滝山と高越山とが、吉野川を挟んで大争闘をした時に、お互に岩の投げ合いをし、両方の山の岩がまったく入れ換わるまで投げ尽してしまったという。

このふたつの説話は、高越山修験道の置かれた状況を物語っていると研究者は深読みします。 この説話からは、阿波一国が単純に当山派に統一されたとは思えません。

南北朝の頃の阿波は、中央の政争の影響をそのまま受けます。
吉野川流域の平野部は、北朝方の管領細川氏の勢力圏です。それに対して剣山を中央にして、東西にのびる山岳地帯には南朝方についた勢力がいました。
一宮城 ちえぞー!城行こまい
小笠原氏の一宮城(神山町・大日寺背後)

そのエリアを見ると東端は一宮城の小笠原氏で、南朝の勢力は鮎喰川をさか上り、川井峠を越えて木屋平に入ります。さらに保賀山峠から一宇に入り、小島峠を越えて祖谷の菅生に至り、祖谷の山岳地帯に広がっていました。
東祖谷山地図2

祖谷の小島峠
祖谷から、さらに中津山、国見山の山脈を越え銅山川沿いに伊予の南朝方へと連らなっていましす。この山岳地帯を往来しながら連絡を取ったのは修験者(山伏)たちだったとされます。彼らは秘密の文書を髪に結い込んで、伊予の西端の三崎半島まで平野に下りることなく、山中を進んでたどり着くことができたと云います。これが修験の修行の道だったのかもしれません。あるいは熊野行者が開いた参拝道だったのかもしれません。四国各地の霊山と行場を結ぶネットワークが、この時代にはあったことを押さえておきます。それをプロの修験者を辿ると「大辺路・中辺路・小辺路」と呼ばれ、近世には「四国辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 どちらにしても、南北朝の政治勢力と阿波の修験道は結びつきます。
これは土佐の長宗我部元親が修験者勢力をブレーンとして身近に置くことにもつながります。そのブレーンの中にいた修験者が、金毘羅大権現の松尾寺を任されることになるのです。話が逸れてしまいました。元に戻ります。
高越山11
吉野川からの高越山

高越山は、山容が美しい山です。
里から見て「おむすび山」に見える山を見上げて、人々は生活し、次第にそれを霊山と崇めるようになるというのが柳田國男の説です。それが素直に、うなづけます。人々が信仰する霊山は、支配者の祈願所にもなります。支配者の信仰を受けるようになると、いろいろな保護と特権を与えらます。南北朝の頃には、中央政権の足利氏や管領細川氏の保護を受けて教勢を拡大させます。これに対して神山の焼山寺の修験道が反抗するようになります。また近世になると新しく開山された剣山修験道が高越山に対立して活動するようになります。この対立は宗派的な対立と云うよりも山岳部と平野部のちがいによる経済的状況の反映だと研究者は指摘します。
 その対立の図式は、高越山と吉野川をはさんで北側の讃岐との境にある大滝山修験道との関係で見ておきましょう。
大滝山は南朝勢力下にあったと云われますが、それを示す証拠はないようです。同じ阿讃山系の城王山には新田氏が拠城を置いて、伊笠山周辺を往来したといわれますが、その南朝勢力が西の大滝山まで及んだとかどうかは分からないと研究者は考えています。大滝山修験者と高越山は宗派的対立よりも、その間に拡がる吉野川流域の霞場(檀那区域)をめぐって対立していたとします。 ここでは、阿波の修験道の勢力構図は、高越山を中心に、それを取りまく諸山の山伏たちの対立として形成されていったことを押さえておきます。 

最初に見た高越寺の寺僧宥尊の「摩尼珠山高越私記」(1665年)には、次のように記されていました。

「役行者=大和国の吉野蔵王権現」一体分身で、
「千手千眼大悲観世菩薩」が本尊

これと忌部氏の祖先神を「本地垂述」させることに、この書のねらいはあったようです。しかし、これスムーズに進まなかったようです。「忌部遠祖天日鷲命鎮座之事」には、次のように記されています。(要約)

「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座していたが、世間では蔵王権現を主と思い、高越権現といっている。もともとこの神社は忌部の子孫早雲家が寺ともどもに奉仕していた。ところが常に争いが絶えないので、蔵王権現の顔を立てていたが、代々の住持の心得は、天日鷲を主とし、諸事には平等にしていた。このためか寺の縁起に役行者が登山した折に天日鷲命が蔵王権現と出迎えたなどとは本意に背くことはなはだしい」

ここからは次のようなことが分かります。
①主流派は「役行者=蔵王権現(高越権現)」説
②非主流派は、「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座」していたとして、忌部氏を祖神を地神
この時期になると「忌部氏の地神」と「伝来神の蔵王権現」の主導権争いがあったようです。しかし、こうした争いも蔵王権現優位のうちに定着します。これも山伏修験道の道場としての性格だと研究者は考えています。同時に、忌部伝説を信仰する勢力がこの時期の高野山にはいたこと、忌部伝説が、高越山に接ぎ木しようとする動きは、近世になってからのものであることを押さえておきます。

 粟国忌部大将早雲松太夫高房による「高越大権現鎮座次第」には、次のように記します。

吉野蔵王権現神、勅して白く一粟国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め、諸神達集る高山なり、我もかの衣笠山に移り、神達と供に西夷北秋(野蛮人)を鎮め、王城を守り、天下国家泰平守らん」、早雲松太夫高房に詰げて曰く「汝は天日鷲命の神孫にで、衣笠山の祭主たり、奉じて我を迎へ」神託に依り、宣化天皇午(五三八)年八月八日、蔵王権現御鎮座なり。供奉三十八神、 一番忌部孫早雲松太夫高房大将にて、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供す。この時、震動雷電、大風大雨、神変不審議の御鎮座なり。蔵王権現、高き山へ越ゆと云ふ言葉により、高越山と名附けたり、それ故、高越大権現と申し奉るなり。

意訳変換しておくと
吉野の蔵王権現神が勅して申されるには、阿波国麻植郡衣笠山(高越山)は、御祖神を始め、諸神達が集まる霊山であると聞く。そこで我も衣笠山(高越山)に移り、神達と供に西夷北秋(周辺の敵対する勢力)を鎮め、王城を守って、天下国家泰平を実現させたい」、
さらに早雲松太夫高房に次のように告げた。「汝は天日鷲命の神孫で、衣笠山(高越山)の祭主と聞く、奉って我を迎えにくるべし」 この神託によって、宣化天皇午(538)年八月八日、蔵王権現が高越山に鎮座することになった。三十八神に供奉(ぐぶ)するその一番は忌部孫早雲松太夫高房大将で、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供した。この時、震動雷電、大風大雨、神変不思議な鎮座であった。蔵王権現の高き霊山へ移りたいという言葉によって、高越山と名附けられた。それ故、高越大権現と申し奉る。

ここには吉野の蔵王権現が、阿波支配のために高越山にやってきたこと、その際の先導を務めたのが忌部氏の早雲松太夫高房だったとします。ここに忌部氏が「忌部氏褒賞物語」として登場します。
ここには忌部信仰をすすめる修験者たちの思惑があったことがうかがえます。
ちなみに、この時代になると阿波忌部氏は姿を消して、氏神の忌部神社がどこにあるかも分からなくなっていたことは以前にお話ししました。

 従来は忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達で、彼らを「忌部修験」と研究者は呼んでいました。そして、「忌部修験=高越山修験集団」とされ、語られてきました。私も「高越山は忌部修験道のメッカ」と書いたこともあります。しかし、これについては近年、疑問が投げかけられていることは以前にお話した通りです。
以上をまとめておきます。
①高越山は山容もよく、古代から甘南備山として信仰対象の霊山とされてきた。
②そこへ役行者が吉野の蔵王権現を勧進し、千手観音として高越山を開山した。
③鎌倉時代になると高越山の麓には、熊野詣での先達を行う熊野行者が集住するようになり、修験者の一大勢力が形成されるようになった。
④中世になると阿波忌部氏は衰退し、氏神の忌部神社の存在すら分からなくなる。
⑤このような状態の中で「忌部修験=高越山修験集団」と考えることには無理がある。
⑥高越山修験の拡大は、大瀧山の修験者勢力などとテリトリー(霞)をめぐる対立をもたらした。
⑦これらを宗派対立と捉えるよりも、信徒集団をめぐる対立と捉えた方がいいと研究者は考えている。
⑧南北朝時代の抗争もその範疇である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「阿波の修験道  徳島の研究6(1982年) 236P」
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佐文と満濃池跡
讃岐国絵図 佐文周辺

まんのう町佐文は、金刀比羅宮の西側の入口にあたる牛屋口があった村です。角川の地名辞典には、次のように記されています。
古くは相見・左文とも書いた。地名の由来は麻績(あさぶみ)が転訛して「さぶみ」となったもので、古代に忌部氏によって開拓された土地であるという(西讃府志)
 金刀比羅官が鎮座する山として有名な象頭山の西側に位置し、古来から水利の便が悪く、千害に苦しんだ土地で、竜王信仰に発した雨乞念仏綾子踊りの里として知られている。金刀比羅宮の西の玄関口に当たり、牛屋口付近には鳥居や石灯籠が多く残っている。阿波国の箸蔵街道が合流して地内に入るので、牛屋口(御使者口)には旅館や飲食店が立ち並んで繁盛を続けた。「西讃府志」によると、村の広さは東西15町。南北25町、丸亀から3里15町、隣村は東に官田、南東に追上、南に上之、西に上麻・神田、北に松尾、耕地(反別)は37町余(うち畑4町余。屋敷1町余)、貢租は米159石余。大麦3石余。小麦1石余。大豆2石余、戸数100。人口350(男184・女166)、牛45。馬17、
伊予土佐街道が村内を通過し、それに箸蔵街道も竹の尾越を超えて佐文で合流しました。そのため牛屋口周辺には、小さな町場もあり、荷駄や人を運ぶ馬も17頭いたことを、幕末の西讃府志は記します。

佐文は、1640年の入会林の設定の際に有利な条件で、郡境を越えた麻山(大麻山の西側)の入会権を認められていることを以前にお話ししました。この背景を今回は見ていくことにします。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺
讃岐那珂郡 赤い短冊が3つあるのが金比羅 その南が佐文 
 1640(寛永十七)年に、お家騒動で生駒家が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。
この時に幕府から派遣された伊丹播磨守と青山大蔵は、讃岐全域を「東2:西1」の割合で分割して、高松藩と丸亀藩の領分とせよという指示を受けていました。その際に両藩の境界となる那珂郡と多度郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が後に起ることを避けるために、寛永十八(1641)年十月に、関係村々の庄屋たちの意見書の提出を求めています。これに応じて各村の庄屋代表が確認事項を書き出し提出したものが、その年の10月8日に提出された「仲之郡より柴草刈り申す山の事」です。 
入会林の覚え書き 1641年

意訳変換しておくと
仲之郡の柴木を苅る山についての従来の慣例は次の通り
松尾山   苗田村 木徳村
西山 櫛無村 原田村
大麻山 与北村 郡家村 西高篠村
一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる
一、三野郡の麻山の柴草は、鑑札札で子松庄が刈ることを認められている
一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている
一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる
寛永拾八年巳ノ十月八日

ここには、芝草刈りのための従来の入会林が報告されています。注意しておきたいのは、新たに設定されたのでなく、いままであった入会林の権利の再確認であることです。ここからは中世末には、すでに大麻山や麻山(大麻山の西側)には入会林の既得権利が認められていたことがうかがえます。

DSC03786讃岐国絵図 中讃
讃岐国絵図(丸亀市立資料館) 
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山とされています。
また、三野郡「麻山」(大麻山の西側)は、仲郡の子松庄(現在の琴平町周辺)の住人が入山して「札にて刈り申す」山と記されています。札は入山の許可証で、札一枚には何匁かの支払い義務を果たした上で、琴平の農民たちの刈敷山となっていたことが分かります。
  大麻山は、仲郡、多度郡と三野郡との間の入会地だったようです。
ちなみに象頭山という山は出てきません。象頭山は近世になって登場する金毘羅大権現(クンピーラ)が住む山として名付けられたものです。この時代には、まだ定着していませんでした。
ここで押さえておきたいのは、4条目の「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」です。
仲郡の佐文(現在、まんのう町佐文)の住人は、札なしで自由に麻山の柴を刈ることができると書かれています。麻山と佐文とは隣接した地域ですが郡境を越えての入山になります。佐文には特別の既得権があったようです。佐文が麻山を鑑札なしの刈敷山としていたことを押さえておきます。
 庄屋たちからの従来の慣例などを聞いた上で、伊丹播磨守と青山大蔵少は、新たに丸亀藩主としてやってきた山崎甲斐守に、引継ぎに際して、次のようなの申し送り事項を残しています。
入会林の覚え書き2 1641年

意訳変換しておくと
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。
一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。
一、仲郡の大麻山での草柴苅については、従前通りとする。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。
一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと
一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。
一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。右如書付相定者也

紛争が起らないように、配慮するポイントを的確に丸亀藩藩主に伝えていることが分かります。入会林に関係のあるのは、3・4番目の項目です。3番目の項目については、那珂郡では大麻山、三野郡では麻山と呼ばれる山は、大麻山の西側のになるので、今後の混乱・騒動を避けるためには、境界ラインを明確にするなどの処置を求めています。
4番目は、大麻山の入会権については多度郡・那珂郡・三野郡の三郡のものが入り込むようになるので、混乱を避けるために鑑札を配布した方がいいというアドバイスです。
 こうして大麻山と麻山に金毘羅領や四条・五条村・買田村・七箇村などの子松庄およびその周辺の村々が芝木刈りのために出入りすることが今までの慣例通りに認められます。子松庄の村々では麻山へ入るには入山札が必要になります。札は「壱枚二付銀何匁」という額の銀が徴収されていたと研究者は考えています。
 「佐股組明細帳」(高瀬町史史料編)に佐股村(三豊市高瀬町)の入会林について、次のように記されています。
「先規より 財田山札三枚但し壱枚二付き三匁ツヽ 代銀九匁」

これは、入会地である財田山への入山利用料で、3枚配布されているので、一年間で三回の利用ができたことになります。鑑札1枚について銀3匁、3枚配布なので 3匁×3枚=銀9匁となります。
 麻村では8枚の山札使用、下勝間村では4枚の使用となっています。財田山は、固有名詞ではなく財田村の山といった広い意味で、佐俣や麻村・下勝間村は、財田の阿讃山脈の麓に柴草を取りに入るために利用料を払っていたということになります。同じ三野郡内でも佐股、上・下麻、下勝間村は、財田の刈敷山に入るには「札」が必要だったことを押さえておきます。
 各村への発行枚数が異なるのは、どうしてでしょうか?
 各村々と入会林との距離の遠近と牛馬の数だと研究者は考えています。麻村の場合は、秋に上納する山役米について、次のように記されています。
「麻村より山札出し、代米二て払い入れ申す村、金毘羅領、池領、多度郡内の内大麻・生野・善通寺・吉田両村・中村・弘田・三井、三野郡の内上高瀬・下高瀬」

山役を納めなければならない村として、金毘羅領、池領の村々と多度郡・三野郡の各村が挙がっています。これらは先ほど見た「山入会に付き覚書」の中に出ている地域です。ここからは、1640年以後、大麻山・麻山への入山料がずっと続いていたことが分かります。

他の村の刈敷山に入るときには有料の鑑札を購入する必要があったようです。
そのような中で「佐文の者は、先年から鑑札札なしで(三野郡の麻山の柴木を)苅る権利を認められている」という既得権は、特異な条件です。どのようにして形成されたのでしょうか。その理由を考えてみます。

佐文1
西讃府志 佐文の地誌部分

西讃府志には、佐文について次のように記します。
「旧説には佐文は麻積で、麻を紡ぐことを生業とするものが多いので、そうよばれていた」

麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となったと伝えます。ここからは、西隣の麻から派生した集団によって最初の集落が形成されたと伝えられていたようです。確かに佐文は地理的に見ても三方を山に囲まれ、西方に開かれた印象を受けます。古代においては、丸亀平野よりも高瀬川源流の麻盆地との関係の方が強かったのかもしれません。
佐文5
佐文と麻の関係

麻盆地を開いた古代のパイオニアは忌部氏とされ、彼らが麻に建立したのが麻部神社になります。これが大麻山の西側で、その東側の善通寺市大麻町には、大麻神社が鎮座します。
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大麻神社
 大麻神社の由来には、次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっている。

ここには阿波忌部氏が讃岐に進出し、三豊の粟井を拠点としたこと、そこから笠田・麻を経て大麻神社周辺へ「移住・進出」したと伝えます。
大麻神社随身門 古作両神之像img000024
大麻神社の古代神像 

「大麻神社」の社伝には、次のような記述もあります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
ここには阿波と讃岐の忌部氏の協力関係と「麻」栽培がでてきます。また讃岐忌部氏が毎年800本の矛竿を中央へ献上していたことが記されています。讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようですし、武器にも転用できます。 善通寺の古代豪族である佐伯直氏は、軍事集団出身とも云われます。ひょっとしたら忌部氏が作った武器は、佐伯氏に提供されていたのかもしれません。
 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる大麻山周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。 讃岐忌部は、中央への貢納品として樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたと考えられます。讃岐忌部の居住地として考えられるのが、次の神社や地名周辺です。
①粟井神社 (観音寺市大野原町粟井)
②大麻神社 (善通寺市大麻町)
③麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
④忌部神社   (三豊市豊中町)
⑤高瀬町麻 (あさ)
⑥高瀬町佐股(麻またの意味)
⑦まんのう町佐文(さぶみ、麻分(あさぶんの意味)
 佐文と大麻山
大麻山を囲むようにある忌部氏関係の神社と地名

佐文を含む大麻山周辺は、忌部氏の勢力範囲にあったことがうかがえます。
大麻山をとりまくエリアに移住してきた忌部氏は、背後の大麻山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、大麻山は忌部氏の支配下にあって、樫など木材や、麻栽培などが行われていたとしておきましょう。そのような大麻山をとりまくエリアのひとつが佐文であったことになります。当然、古代の佐文は、その背後の「麻山」での木材伐採権などを持っていたのでしょう。それは律令時代に郡が置かれる以前からの権利で、三野郡と那珂郡に分離されても「麻山」の権利は持ち続けたます。それが中世になると小松郷佐文でありながら、三野郡の麻山の入会林(刈敷山)として認められ続けたのでしょう。
讃岐国絵図 琴平 佐文周辺2
讃岐国図(生駒藩時代)
生駒藩の下で作られた讃岐国絵図としては、もっとも古い内容が描かれているとされる絵図で佐文周辺を見てみましょう。
  多宝塔などが朱色で描かれているのが、生駒藩の保護を受けて伽藍整備の進む金毘羅大権現です。その西側にあるのが大麻山です。山の頂上をまっすぐに太い黒線が引かれています。これが三野郡と那珂郡の郡境になります。赤い線が街道で、金毘羅から牛屋口を抜けると「七ケ村 相見」とあります。これが佐文のようです。注目して欲しいのは、郡境を越えた三野郡側にも「麻 相見」があることです。
 ここからは、次のようなことが分かります。
①佐文が「相見」と表記されたこと
②「相見」は、かつては郡を跨いで存在したこと
西讃府志には「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)が転訛して「さぶみ」となった」と記されていました。これは、西讃府志の記述を裏付ける史料になります。

麻部神社
麻部神社 (三豊市高瀬町麻)
以上をまとめておくと
①大麻山周辺は、木工加工技術を持った讃岐忌部氏が定着し、大麻神社や麻部神社を建立した。
②大麻山は、忌部氏にとって霊山であると同時に、木工原料材の供給や麻栽培地として拓かれた。
③大麻山の西側の拠点となった麻は、高瀬川沿いに佐文方面に勢力エリアを伸ばした。
④そのため佐文は「麻績(あさぶみ)、或いは麻分(あさぶん)」とも呼ばれた。
⑤麻の分村的な存在であった佐文は、麻山にも大きな権益を持っていた。
⑥律令時代になって、大麻山に郡境が引かれ佐文と麻は行政的には分離されるが文化的には、佐文は三野郡との関係が強かった
⑦中世になると佐文は、次第に小松(郷)荘と一体化していくが、麻山への権益は保持し、入会権を認められていた。
⑧そのため生駒騒動後の刈敷山(入会林)の再確認の際にも、「仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている」と既得権を前提にした有利な入会権を得ることができた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  

      
高越山11
                                      
 阿波にはいくつかの霊山と呼ばれる山があります。
たとえば、古来祖霊があつまる所とされている神山町の焼山、阿南市の太竜寺山、阿波郡市場町の切幡山、板野郡上板町の大山などが挙げられますし、漁民の信仰をあつめた阿南市津の峯町の津の峰なども霊地です。やがてこれらの霊山の中には、海を越えてやって来た熊野派修験者が、吉野川に沿って活動を展開して、修験の霊山となったところもあります。修験の霊山に「弘法大師伝説」が、付け加えられ四国霊場に「成長」していったお寺もあります。前回は、讃岐山脈の大滝山を取り上げました。そして、大滝山は、高越山と仲が悪かったという話を紹介しました。
高越寺絵図1
 今回は、大滝山のライバルだった高越山を見ていきます。
 高越山は忌部氏とむすびついて「忌部修験」ともいえる独自の修験を生み出した山です。この山の修験道との結びつきは古く、剣山以前から盛えた修験の霊場です。これに対して大滝山は、前回紹介したように空海や聖宝の活躍をとく真言修験の山です。そして、どうやらこの両山は中世から近世にかけて、阿波の修験道を二分する勢力を持っていたようです。
 
高越山1

高越山は吉野川の流れる山川町にそびえ立つ1123メートルの高峰で、古くから「阿波富士」と呼ばれる眺めのいい山です。里の人たちが仰ぎ見る甘南備山として、古くから信仰を集めた霊山であることが一目見ると分かります。今は林道をたどれば里から1時間足らずで山の南側の駐車場にたどり着くことができます。境内から見える景色は絶景で、眼下を「四国三郎」吉野川が西から東へ悠々と流れていきます。遠く鳴門の潮路をへだてて、淡路島の山波や、その向こうの紀伊半島まで望むことができます。
 しかし、昔は下から歩いて登って来ました。

高越山4

途中の「万代池」の周辺には行場が見られます。この池から東に200メートルほど小路を行くと、「覗き岩」の行場があります。これは山腹に数百メートルの岩波があって、岩上に腹這って覗くのでこの名があるそうです。この岩場には鉄梯子が架けられていて、行者や元気な若者はこの梯子で上り下りしていたようです。

高越山3

 本道に戻ってさらに登ると、「黒門」があます。この辺りから左へ小路を入れば、「せり割り」の行場です。十余メートルの二つの大岩がせり割りを造って切立っています。参拝者達は、この割れ目を登り、二つの岩石にかけた丸木橋をわったといいます。これも行の一つだったのでしょう。 ここからは、寺に近く鐘の音が頭上に響いてきます。
高越山5

 山門の下は御影の石段、数十段、仁王の門をくぐると敷石が正面の本堂に通じています。昭和十四年一月二十八日に大火があり、立ち並んでいた本堂・拝殿・回廊・通夜堂・庫裏・大師堂が焼失。わずかに仁王門・鐘楼が災難から免れました。仁王門の階上におかれていた重要文化財「涅槃図」や、その他の寺宝は助かったそうです。

IMG_2646

  この本堂は昭和24(1949)年に戦後の物資の乏しい中、地元の人々の強い願で再建されました。先ず第1に感じるのは、本堂が見慣れないスタイルだということです。よく見ると、本殿に前殿を接合し,前殿に向拝を付けて建立されています。
高越寺2

じっくりと見ていると大きな唐破風は、堂々と力強く感じます。きらびやかな装飾が目をひく本堂には,金剛蔵王尊脇仏として千手観音と修験者のヒーローである役行者が祀られています。本殿入り口の扁額は木彫で,15代藩主蜂須賀茂昭の直筆といわれています。国内安定化の一貫でしょうが、江戸時代には阿波藩からの保護もありました。
IMG_2654

 本堂の彫刻群は美馬郡(現美馬市)脇町拝原,十世彫師三宅石舟斎の大作です。これは石舟斎最後の作品となったようです。山門は,第28世良俊上人の起請によるもので,県下五大重層門の一つとされています。この寺院への人々の信仰の強さが伝わって来ます。

高越寺1

このお寺の「修験道の伝統」は、いつ頃から始まるのでしょうか?
 寛文五年(1665)、高越寺の住僧宥尊によって書かれた「摩尼珠山高越寺私記」には、次のように記されています。

「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」

 ここからは、江戸初頭ころの、この寺の姿がうかがえます。役行者ー吉野蔵王権現という修験道の流れが見られます。      
 
IMG_2665

さて、この寺のことをしるした最初の記録は、密教小野流のうちの金剛王院流の祖として知られる聖賢の『高野大師御広伝」(元永元年[1118])のようです。ここには阿波国高越山寺(現在の高越寺)について、次のように記します。
大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々」

 ここからは高越寺は四国霊場ではありませんが、12世紀初頭に大師信仰の霊場として存在していたことが分かります。大師信仰のあるこの寺が、どうして四国八十八霊場にならなかったのかは、私にとっては大きな謎のひとつです。
高越寺4

次に古い史料は南北朝の14世紀後半のものです。
鎌倉時代から江戸時代にかけて、高越山の麓で高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の所蔵した古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。この文書の最も古いものが、貞治三年(1364)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す」ということで、檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代には、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに連れて行っていく「熊野行者」たちがいたことが分かります。同時に、高越山周辺は修験道の聖地となり修験者達のさまざまな宗教活動が展開されていた事がうかがえます。

IMG_2657

 次に、高越寺の名前が見えるのは、戦国時代の天文二十一年(1551)の「天文約書」のようです。その全文を紹介します。
   定条々
  阿波国 念行者修験道法度之事
一、喧嘩口論可為停止之事  
一 庸賊道衆なふるへがらす之瀋
一、淵国一居住之 山伏駈出之励、於国中二特料仕義可為停止、但遠国之衆各別也
一、其音行者之内、大峰之願参御座侯所、為余人不可到之事                 
一、於念行者之内、何之衆成共、立願被服侯共、其念行者二可被上之事
一 御代参之事、大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越何之御代参成共、念行者指置不可参之事
一、御沙汰事、依方聶買不申、御中評儀次第二可仕侯、此人数何様之儀出来候共、注進次第二飯米持二而可打寄事
右条々、従先年有来候雖為御法度、近年狼二罷成候条、得国司御意相改侯間、此度能々相守候事尤二侯。若、於相背者、御衆中罷出可為停止者也。依而如件。
    天文弐拾壱壬子年十一月七日
 会定柿原別当坊 岩倉白水寺 大西畑栗寺 河田下之坊 麻植曾川山 牛嶋願成寺 浦妙楽寺 大粟阿弥陀寺 田宮秒福寺 別宮長床 大代至願寺 大谷下之坊 河端大唐国寺 高磯地福寺 板西南勝房 板西蓮花寺矢野 千秋房 蔵本川谷寺 一之宮岡之房 合拾九人
  ここでは、阿波の念仏修験道者の法度(禁止)項目が、一堂に会した修験者達によって再確認されています。内容から当時の修験者の様子を知ることができます。ここで注目したいのは。法度6条です。ここには修験者が檀那衆に頼まれて代参する霊山としてあげられているのが「大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越」の5つなことです。ここには石鎚や剣はありません。剣山が修験者にとって霊山として開発されるのは近世も後半になってからだったことは、以前に述べました。 
 また合意した19寺の中に、前回に大滝山の下寺的存在であったと紹介した「岩倉白水寺」が2番目に見えます。そして、大滝寺の名前は見えません。

高越山行場入口

 また高越寺には室町時代を降らないと思われる
木造の理源大師像があります。
聖宝(理源大師)NO3 吉野での山林修行と蛇退治伝説 : 瀬戸の島から
醍醐寺の理源大師像
この像は等身大の立派なお姿で、前後の二材矧ぎという古風な寄木造りです。ちなみに理源大師は、醍醐修験道の開山者で、修験者の崇拝を集めていました。こんなに立派な像は、県内には他にはありません。
 また、このころから高越寺は、東の大峯に対して自らを西山と呼びはじめています。
このような「状況証拠」から、高越寺は中世阿波国における修験道のメッカであったと研究者は考えているようです。

IMG_2659

修験道は、どういう風に高越山に根付いたのでしょうか?
高越山をとり巻く地域は、麻植郡山川町・美郷村・美馬郡木屋平村などです。これらの地は古代、忌部氏領域であったとされます。中世にそれらの地域を支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。

山﨑忌部神社1

忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
山﨑忌部神社3 天岩戸神社の神籠石(こうごいし)

 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
IMG_2653

 こうして「忌部修験道」とも呼ぶべき修験道の阿波的な形態が生まれます。羽黒山・英彦山・白山などと同じ成行きと言えます。修験道が背負うべき神が、阿波では忌部の神となったのです。
江戸時代に書かれたと思われる「高越大権現鎮座次第」には冒頭に次のように述べています。
吉野蔵王権現神勅に曰く。粟(阿波)国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め諸神達の集る高山なり。我も彼も衣笠山に移り、神達と共に西夷北狭を鎮め、下城を守り、天下国家の泰平を守らんと宣ひ、早雲松太夫高房に詰めて曰く。
 「汝は天日鷲命の神孫にて衣笠の祭主たり、我を迎え奉れ」と、神記にて、宣化天皇午八月八日、蔵王権現御鎮座也。供奉に三十八神一番は忌部孫早雲松太夫高房大将にて大長刀を持ち、御先を払ひ、雲上より御供す。此の時震動、雷電、大風大雨、神変不審議之御鎮座也。蔵王権現高き山へ越ゆると云ふ言葉により、高越山と名附たり、夫故、高越大権現と奉
  中候。……
とあります。「吉野蔵王権現が衣笠山(高越山)に降臨した際、天日鷲命の神孫である忌部の孫の早雲松太夫が御先を払って雲上より御供した」という表現は、先ほど述べた「修験道が忌部の諸神と融合した」ということと重なります。
 江戸期の享保年中(1716~36)に、阿波国内神名帳作成をきっかけとして、「忌部公事」と呼ぶ問題が起きます。これは『延喜式神名帳』の忌部神社の正統を決める事件でした。その際に自らが正統だと名乗り出た多くの神社の中に、高越大権現も入っていました。当時の神仏習合の有り様をよく示しています。

高越山8


参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道

 

                                     

金刀比羅神社の鎮座する象頭(ぞうず)山です

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丸亀平野の東側から見ると、ほぼ南北に屛風を立てたような山塊が横たわります。この山は今では琴平側では象頭山(琴平山)、善通寺市側からは大麻山と呼ばれています。江戸時代に金毘羅大権現がデビューすると、祭神クンピーラの鎮座する山は象頭山なのでそう呼ばれるようになります。しかし、それ以前は別の名前で呼ばれていました。象頭山と呼ばれるようになったのは金毘羅神が登場する近世以後のようです。
 
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真っ直ぐな道の向こうが善通寺の五岳山 その左が大麻山(丸亀宝幢寺池より)

それまでは、この山は大麻山(おおあさ)と呼ばれていました。
この山は忌部氏の氏神であり、式内社大麻神社の御神体で霊山として信仰を集めていたようです。

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金毘羅大権現の鎮座した象頭山
この山の東山麓に鎮座する大麻神社の参道に立ってみます。
200017999_00083大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
大麻神社
大麻神社(讃岐国名勝図会)
すると、鳥居から拝殿に向け一直線に階段が伸び、その背後に大麻山がそびえます。この山は、祖先神が天上世界から降り立ったという「甘南備(かんなび)山」にふさわしい山容です。そして、この山の周辺は、阿波の大麻山を御神体とする忌部氏の一族が開発したという伝承も伝わります。

 大麻神社以外にも、多度郡の延喜式内雲気神社(善通寺市弘田町)や那珂郡の雲気八幡宮(満濃町西高篠)は、そこから仰ぎ見る大麻山を御神体としたのでしょう。御神体(大麻山)の気象の変化を見極めるのに両神社は、格好の位置にあり、拝殿としてふさわしいロケーションです。山自体を御神体として、その山麓から遥拝する信仰施設を持つ霊山は数多くあります。

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多度津方面からの五岳山(右)と雲がかかる大麻山
 大麻山は瀬戸内海方面から見ると、善通寺の五岳山と屛風のようにならび円錐型の独立峰として美しい姿を見せます。その頂上付近には、積み石塚の前方後円墳である野田野院古墳が、この地域の古代における地域統合のモニュメントとして築かれています。

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野田院古墳(善通寺)
その後は大麻山の北側の有岡の谷に茶臼山古墳から大墓山古墳に首長墓が続きます。彼らの子孫が古代豪族の佐伯氏で、空海を生み出したと考えられています。また、大麻山の東側山麓には阿波と共通する積石塚古墳が数多く分布していました。
 つまり現在の行政区分で言うと、大麻神社の北側の善通寺側は古墳や式内神社などの氏族勢力の存在を示す物が数多く見られます。しかし、大麻神社の南側(琴平町内)には、善通寺市側にあるような弥生時代や大規模な集落跡や古墳・古代寺院・式内社はありません。善通寺地区に比べると古代における開発は遅れたようです。

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琴平町苗田象頭山
古代においてこの山は、大麻神社の御神体として大麻山と呼ばれていたと考えるのが妥当のようです。
現在はどうなっているかというと、国土地理院の地図ではこの山の北側のピークに大麻山、中央のピークに象頭山の名前を印刷しています。そして、山塊の中央に防火帯が見えるのですが、これが善通寺市と琴平町の行政区分になっているようです。

称名寺 「琴平町の山城」より
大麻山の称名寺周辺地図
 大麻山には、中世にはどんな宗教施設があったのでしょうか?
まず、道範の『南海流浪記』には称名院や滝寺(滝寺跡)などの寺院・道場が記されています。道範は、13世紀前半に、高野山金剛峯寺執行を兼ねた真言宗の逸材です。当時の高野山内部の対立から発生した焼き討ち事件の責任を負って讃岐に配流となります。
 彼は、赦免される建長元年(1249)までの八年間を讃岐国に滞留しますが、その間に書いた日記が残っています。これは、当時の讃岐を知る貴重な資料となっています。最初は守護所(宇多津)の近くで窮屈な生活を送っていましたが、真言宗同門の善通寺の寺僧らの働きかけで、まもなく善通寺に移り住んできます。それからは、かなり自由な生活ができたようです。
 
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大麻神社参道階段
放免になる前年の宝治二年(1248)には、伊予国にまで開眼供養導師を勤めに旅行をしているほどです。この年11月、道範は、琴平の奥にある仲南の尾の背寺を訪ねます。この寺は満濃池の東側の讃岐山脈から張り出した尾根の上にある山岳寺院です。善通寺創建の時に柚(そま)山(建築用材を供給した山)と伝えられている善通寺にゆかりの深い寺院です。帰路に琴平山の称名院を訪ねたことが次のように記されています。
「……同(十一月)十八日還向、路次に依って称名院に参詣す。渺々(びょうびょう)たる松林の中に、九品(くほん)の庵室有り。本堂は五間にして、彼の院主の念々房の持仏堂(なり)。松の間、池の上の地形は殊勝(なり)。
彼の院主は、他行之旨(にて)、之を追って送る、……」
             (原漢文『南海流浪記』) 
意訳すると
こじんまりと灘洒な松林の中に庵寺があった。池とまばらな松林の景観といいなかなか風情のある雰囲気の空間であった
院主念念々房は留守にしていたので歌を2首を書き残した。
すると返歌が送られてきた
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象頭山と五岳山
 道範は、念々房不在であったので、その足で滝寺に参詣します。
「十一月十八日、滝寺に参詣す。坂十六丁、此の寺東向きの高山にて瀧有り。 古寺の礎石等處々に之れ有り。本堂五間、本仏御作千手云々」 (原漢文『南海流浪記』)
 滝寺は、称名院から坂道を一六丁ほど上った琴平山の中腹にある「葵の滝」辺りにあったようです。本尊仏は「御作」とあるので弘法大師手作りの千手観音菩薩と記しています。金刀比羅宮所蔵の十一面観音像が、この寺の本尊であったとされます。しかし、道範の記述は千手観音です。この後は、称名院の名は見えなくなります。寺そのものは荒廃してしまい、その寺跡としての「しょうみょうじ」という地名だけが遺ったようです。江戸時代の『古老伝旧記』に称名院のことが、次のように書かれています。
「当山の内、正明寺往古寺有り、大門諸堂これ有り、鎮主の社すなわち、西山村中の氏神の由、本堂阿弥陀如来、今院内の阿弥陀堂尊なり。」
 阿弥陀如来が祀られているので浄土教の寺としての称名院の姿を伝えているようです。また、河内正栄氏の「金刀比羅宮神域の地名」には
称名院は、町内の「大西山」という所から西に谷川沿いに少し上った場所が「大門口」といい、称名院(後の称明寺か)の大門跡と伝える。そこをさらに進んで、盆地状に開けた所が寺跡(「正明寺」)である。ここには、五輪塔に積んだ用石が多く見られ、瓦も見つかることがある

現在の町域を越えて古代の「大麻山」というエリアで考えると野田院跡や大麻神社などもあり、このような宗教施設を併せて、琴平山の宗教ゾーンが形作られていたようです。

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 現在の金刀比羅神社神域の中世の宗教施設については? 
プラタモリでこの山が取り上げられていましたが、奥社や葵の滝には、岩肌を露呈した断崖が見えますし、金毘羅本殿の奥には岩窟があり、山中には風穴もあると言われます。
修験者の行場としてはもってこいのロケーションです。山伏が天狗となって、山中を駆け回り修行する拠点としての山伏寺も中世にはあったでしょう。
それが善通寺 → 滝寺 → 尾の背寺 → 中寺廃寺 という真言密教系の修験道のネットワークを形成していたことが考えられます。

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もうひとつのこの山の性格は「死霊のゆく山」であったことです。
現在も琴平山と愛宕山の谷筋には広谷の墓地があります。ここは、民俗学者が言うように、四国霊場・弥谷寺と同じように「死霊のゆく山」でした。里の小松荘の住民にとっては、墓所の山でもあったのです。
 こうして先行する称名院や滝寺が姿を消し廃寺になっていく中で、琴平山の南部の現在琴平神社が鎮座する辺りに、松尾寺が姿を見せます。この寺の周辺で金毘羅神は生まれ出してくるのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 中世の宗教と文化
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