瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:忌部神社

今までお話しした忌部神社をめぐる動きを、まとめてみると次のようになります

忌部神社所在地論争1

江戸時代に忌部神社本社を名乗る神社が、山崎・川田・貞光に現れ、阿波藩は川田の種穂神社を本社と認めます。しかし、明治維新になると、それは「ちゃぶ台返し」されます。
明治維新後の新政府の方針は「王政復古」でした。これは律令国家の時代に戻れというもので、神仏を分離し神道に一本化し、すべての国民を神道にまとめるというものでした。その一環として、律令時代の式内社復活が推し進められることになります。具体的には、各県で延喜式内大社・中社・小社を置くことになります。阿波でもその動きが明治5年(1872)頃から始まります。その一環として、式内社忌部神社の所在地決定が進められます。これは藩政下の18世紀半ばに起こっていた忌部神社の本社所在地をめぐる論争の再燃させることになります。阿波藩の決定が「政権交替」で「ちゃぶ台返しとなり、仕切り直されるという図式です。ただ、前回の論争で忌部本社と藩に認定された川田は、今回の論争に加わっていません。山崎と貞光の争いになります。
 この行司役を務めることになったのが名東県の役人としてに出仕していた若き日の小杉榲邨(すぎむら)です。
彼は、穏便に済ませるために新たな神社の設立を県に提案しますが、認められません。あくまで山崎か貞光か、どちらかに決定することが求められます。いろいろな史料を出して並べて考えた上で、小杉が頼るべき史料としたのが三木家文書の中の「山崎の契約」でした。この史料は鎌倉幕府滅亡直前の正慶元年(1332)の文書で、次のように記されています。
契約
阿波国御衣御殿人子細事
右件衆者、御代最初御衣殿人たるうえは、相互御殿人中、自然事あらば、是見妨聞妨へからす候、此上者、衆中にひゃう(評)定をかけ、其可有者也、但十人あらは、七八人議につき五人あらは、三人議付へきものなり、但盗。強盗・山賊、海賊、夜討おき候ては、更二相いろうへからす候上者、不可日入及、そのほかのこと、 一所見妨へからす候、但この中二いきをも申、いらんかましきこと申者あらは、衆中をいたし候へきものなり、此上は一年に三度よりあいをくわへてひやうちゃうあるへく候、会合は二月廿三日やまさきのいち、九月二十三日いちを可有定者也、契約如件
正慶元年(1332)十一月 日
 中橋西信(略押) 北野宗光(略押) 高如安行
 高河原藤次郎大夫 名高河惣五郎大夫 今鞍進十
 藤三郎(略押) 治野法橋(花押) 田方兵衛入道
 赤松藤二郎太夫  永谷吉守  大坂半六
 三木氏村(花押)
  意訳変換しておくと
阿波国御衣御殿人子細事
右の件について衆者が、御代最初御衣殿人(みぞみあらかんど)とされる以上は、御殿人の間で事が起これば、妨害するのではなく、衆中の評定で物事を決めること。例えば、十人の時には、7、8人の賛成で、五人の時には、三人の賛成で決定すること。ただし、盗み、強盗、山賊、海賊、夜討などを起こした際には、互いにかばうことをしてはならない。その他のことについては、相互扶助を旨とすべし。違乱を申すものがあればらは、衆中が集まって評議すること。ついては、一年に2度寄り合いをして評定協議を行うこと。その会合の日時と場所は、2月23日のやまさき(山崎)のいち(市)、9月23三日の定期市とする。契約については件の如し
正慶元年(1332)十一月 日
以下13人の名前と花押

 「御衣御殿人」は「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(「荒妙御衣」)のことで、これを製作する者が「御殿人」ということになります。ここからは、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団と従来はされてきました。そして以下のように理解されていきました。
①大嘗祭について麁服(あらたえ)の布を貢納する集団として「御衣(麁服)の御殿人(みぞみのあらかんど)」13人の名前が最後に連署されていること
②いろいろなことを衆中で合議し、多数決制できめること
③ 一年に二度、山崎で市がたつ二月と九月に集まり、その結束を確認すること
④その結束の中心が最後に署名している三木氏であること。
このような理解の上に立って小杉は、この契約状を「荒妙貢進をおこなう集団が山崎の王子神社に集まって、結集していた証拠」とみなしました。そして証拠史料として「古代忌部社は山崎崎の「王子神社」が式内忌部社である」とする意見を政府に提出します。明治政府の教部省政府も。これをそのまま受けいれ「王子神社」が忌部大社と一度は決定されます。

ところがこれに対して美馬郡の貞光は、次のような意見書を出して反撃に出ます。

「貞光は今は美馬郡であるが古代においては麻植郡に属しており、貞光の背後にそびえる端山の友落山に式内忌部社は鎮座していた」

この貞光側の論は江戸時代後半(18世紀段階)の忌部神社本社論争で貞光の神主が主張していたことをそのまま繰りかえしたものです。18世紀の忌部神社本社論争の再燃になります。これだけではありません。貞光側は、この文書は小杉が偽造したものとして、小杉を裁判所に訴えます。その訴状内容は、次の通りです。

この契約状はもともと三木家にあったものだが、三木家の時の当主が小杉から山崎の社を忌部大社にしたいので、自分の作った文書を三木文書に混ぜてくれと言われ、不本意ながらそれにしたがったと自首してきた。

 裁判所は貞光側の訴えを却下します。一方で明治政府の教部省は、小杉の論に間違いがあるとして、忌部大社を山崎においたことを取り消し、貞光に移転させる決定をします。この背後には、貞光側の中央政府への政治的な働きかけがあったようです。こうして明治14(1881)年には、政府の指示に従って、端山に式内忌部社を移動することが決定されます。ところが、今度は、その神社をどこに設置するかをめぐって、端山内部で内輪もめ起こり、泥沼化して動きが取れなくなってしまいます。そのため明治18年(1885)になって、解決のために取られた策が徳島市の眉山山麓に新しく忌部神社を建てることでした。端山には、摂社が建てられることになります。小杉は当初の段階で、争論があるので無理をして決めるのは良くないので、適切な地を選んで立てたらという提案していましたが、結果としてそのとおりになったことになります。
ここで奇妙に思うのは、「小杉による偽作」ということが、三木家当主の自首から始まっていることです。
三木家はもともとは、川田の種穂忌部神社の信者でした。その点では、山崎とも貞光とも関わりがない立場だったはずです。そのため紛争初期には、自分の家にあった三木家文書を小杉に見せたのでしょう。そういう意味では、当初は山崎側に立っていたことがうかがえます。それが、途中から「小杉による偽作」を主張するようになります。ここからは三木家当主が、山崎側から貞光側に立場を変えたことがうかがえます。その詳しい経緯は分かりませんが、地域間の紛争に巻きこまれた結果の行動と研究者は推測します。これらの動きからも明治の紛争は、18世紀にの藩政時代に起こっていた忌部神社本社論争の再燃版で、同じく地域間の紛争に、小杉も三木家当主も巻き込まれた被害者と云えるのかも知れません。

それでは、三木家文書の「山崎の契約書」は、貞光側が訴えたように「小杉による偽造文書」だったのでしょうか?
研究者は、幕末の池辺真榛が阿波の古文書を編集した『阿波国古文書集』のなかに、三木家の山崎の契約書が収められていることを指摘します。つまり、小杉が関わる以前から、この文書はすでに存在したのです。その点で小杉は、不当な言いがかりをつけられたことになります。裁判所の判断は、正しかったようです。

  忌部神社所在地地論争の問題点を、研究者は次のように整理しています。
①江戸時代の所在地論争の中では、古代の郷は条里制が施行された口分田のある平野地帯だけに設定されたもので、山間地帯にはなかったことが前提条件となっていた。
②それを小杉は無視して忌部郷を山間部にあると考えた。
③それは三木家文書の「山崎の市に集まって評議を開くこと」という内容が大きな決め手となった
④貞光側の「貞光はかっては麻植郡であった」という論は無理筋であり、忌部神社が山間部にあったという議論も成りたつ論ではない。

 明治の紛争終結以後についの状況と問題点を見ておきましょう。
貞光説は内紛で忌部社を迎え入れず事が出来ず、貞光から一時は姿を消してしまいます。ところが偽作とされた「山崎の契約書」は、脚光をあびて注目文書となり、偽作か本物なのかの論議が止まったまま放置され、いつのまにか「山崎=忌部郷・忌部神社」を証明する説として定着するようになります。

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山崎忌部神社 右の石柱には「式内大社 忌部神社正蹟」と刻まれている

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山崎忌部神社の説明版
山崎忌部神社の説明版には、次のように記されていました。

その正蹟(所在地)については、神社間に数々争いやもめごともあったが、忌部神社正蹟考の研究資料に基づく各方面からの考察に依って見ても忌部神社の正蹟は山崎の地であることはまず正しいと考えられる。

こうして県史・市町村史では無条件で小杉の「忌部社=山崎説」が採用され、それが拡がっていきます。これを疑う議論はほとんどされていないようです。それに対して、研究者は次のような違和感を表明します。
 ひとつは天皇の即位にかかわる麁服(荒妙)貢進です。
麁服は和紙の原料と同じ格から作り出される布で、古代忌部氏がその職掌として作成していたとされます。しかし、現在麁服貢進といわれているものは18世紀になって、川田の種穂社を通して三木家作ったものを白川家に送っていることがきっかけになったものです。送っていた種穂社は、白川神道に属していました。近世の神道には吉田と白川という大きな流れがありますが、白川家は大嘗祭など朝廷の儀式を司る家でした。そこに三木家の側がその先祖が古代忌部の系譜を引いているとして、布を送っていたことにはじまります。こうしてみると今の大嘗祭の麁服貢進は、江戸時代になって川田の種穂社を舞台に作りだされたものということが分かります。古代のものとは、まったく関係がないものだと研究者は指摘します。これが、明治になってから川田の種穂社から山崎の神社でおこなわれたものに「接木」されます。明治の論争で出された小杉説「忌部神社=山崎説」にもとづいて、20世紀になって新しく語られ始めたものなのです。つまり「忌部神社=山崎説」も改めて検討してみる必要があるというのが研究者の立場です。

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山崎忌部神社の麁服祈念碑

「忌部神社=山崎説」の小杉説について、最近あらためて問い直されているのが先ほど見た「山崎の契約書」です。
この文書が小杉が偽作したものではなく、江戸時代から三木文書のなかにあったことは先ほど見ました。従来は、最後の部分に署名している13人は「御殿人」集団とされ、彼らを麁服貢進の担当者としてきました。しかし、これに対しては最近になって新たな説が提出されています。三木家当主の三木貞太郎が明治2年(1870)5月1日に書いた「乍恐奉上覚」(徳島県立博物館蔵。名西郡大粟山人菜家旧蔵文書中の「古文書綴」収))は、次のように記されています。

「御衣御殿人」という称号で忌部神孫として荒妙貢進を中古以来してきているが、新政府がその称号を認めるなら今後も麻・苧を献上したい。

ここからは、「御衣御殿人」という集団称号は18世紀後期以後三木本家を中心とした三木村和紙の生産・販売をおこなう集団であったこと、川田の種穂神社の講集団の一つとして維新に至るまで活動していたことが分かります。つまり  「御衣御殿人」は、古代の麁服貢進集団ではなく、近世の和紙の生産ギルド的集団だったことになります。そうすると、山崎の契約文書に出てくる「御衣御殿人」の実態は、三木村の近世和紙製造集団を古代にスライドさせた偽作という疑念がでてきます。さらに契約状には、この御殿人集団は、年二回山崎で市のたつ日に「寄合」を開くとありますが、その場所が山崎王子神社で開くとは書いてません。
 以上の情報を並べて考えて見ると、次のような事が見えて来ます。
①麻植郡山間部の和紙は18世紀以後、山崎に集められ、そこで藩の検査をうけた上で販売されていたこと
②御殿人の集団の実態は和紙にかかわり山崎の市で活動する三木家を中心とする和紙の生産・販売にかかわる集団であり、近世になって作られた集団であること。

18世紀末の三木家の分家で庄屋武之丞は、三木家本家救済のために、それまでの三木家文書に新偽作文書をつけ加えて三木家文書を再編成し、それにより三木家が忌部の系譜を引く南北朝期以来の伝統をもつ家であることを証明しようとしていたことは前回お話ししました。この契約状も、この御殿人集団が三木家と同じく南北朝期以来の伝統をもつ集団であることをしめすために、その一環として武之丞のもとで偽作されたものという説になります。つまり、「山崎契約状」は小杉が明治に偽作したものではありませんが、それ以前の江戸時代に作られた偽作の中世文書ということになます。それが後になっても偽作であると見抜けないまま今に至っていたと研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事


阿波忌部氏と麁服
阿波忌部氏と大嘗祭の麁服(荒妙)との関係

 前回は、中世の阿波忌部氏と大嘗祭との関係を見てきました。阿波忌部氏が姿を消すと、その氏神であった忌部神社も、鎌倉時代までには姿を消してしまったようです。そして、江戸時代になると、それがどこにあったのか分からなくなってしまいます。今回は、どのようにして忌部神社が復活したのか、それがどのような争論を生み出したのかを見ていくことにします。テキストは「丸山 幸彦 忌部大社はどこにあったのか 江戸時代の人々の模索  講座麻植を学ぶ」です。

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種穂忌部神社(山川町川田)

 姿を消していた忌部神社が最初に復活するのは、山川町の川田です。
江戸時代前期に高越寺が忌部神(天日鷲神)を奉るようになったのです。高越山は、霊山として中世以来の修験の山として信仰され、高越寺を中心とする社僧(修験者)たちが先達に率いられた登山参拝者を多数集めるようになっていたことは以前にお話ししました。こうした中で周辺の神社も、高越寺の修験者たちが管理運営していたようです。そんな中で17世紀末の元禄年間に高越寺の住職が、忌部神(天日鷲神)を祀るようになります。

天日鷲神

『日本書紀』には、天日鷲神について次のように記されています。

神代上第七段 一書第三
 粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿
意訳変換しておくと
 粟国(阿波国)の忌部の遠祖である天日鷲が
木綿ゆうを作った。

ここには天の岩戸にまつわる話のなかで、天日鷲が木綿(ゆう)を供えたとあります。「ゆう」とは、綿花から作られる木綿ではありません。木綿が登場するのは江戸時代になってからで、「ゆう」とはちがいます。ここに出てくる木綿(ゆう)は、楮の木の皮を剥いで蒸した後に、水にさらして白色にした繊維から織られた布のことです。そして木綿(ゆう)は神事に用いられ重要な役割を果たす布でもあるようです。
 天日鷲神は、天照大神が天の岩屋戸に隠れた際に、木綿で祈祷用の和幣(にぎて)を作ったとされています。その子孫は荒妙や麻の栽培を仕事とし、麻植神(おえのかみ)とも呼ばれました。ここからは忌部神には2つの顔があったことが分かります。
A 忌部神=阿波忌部氏の祖先神
B 天日鷲神=木綿で祈祷用の和幣(にぎて)を作ったとされる麻植神 

高越山の麓の川田は、近世になって和紙の生産地となり、18世紀初めには急速に発展をとげます。
16世紀末になり、細川氏・三好氏が減亡し、近世大名として蜂須賀氏が阿波に入ってきます。そんな中で平野部における藍生産はさらに発展していくことはよく知られています。同じように、近世麻植郡山間部では吉野川沿いの川田を中心に和紙生産が大きく発展します。宝永三年(1706)に徳島藩は、麻植・美馬・三好諸郡の山間部の庄屋に触書をだして和紙を藩の専売にすることを通達しています。ここからは18世紀初頭には、和紙生産が古野川流域の山間部の村々に広がっていたことが分かります。こうして、和紙の生産・集積・輸送など和紙産業の拠点が形成されていきます。
阿波藩の和紙専売制の管理下では、次のような役割分担がありました。
A 貞光は三野郡山間部の和紙集積地
B 山崎は種子山など麻植群山間部の和紙集積地
集められた和紙に藩は税金をかけて出荷販売しました。この2カ所は美馬郡・麻植郡の和紙の集散地でした。そして川田は、和紙生産の先進地です。山崎や貞光は、この時期に和紙の集積地として、賑わうようになっていたことを押さえておきます。
この経済的な活況と高越山で天日鷲神(忌部神)が復活するのが同時期であることに研究者が注目します。
『古語拾遺』の中には、和紙の起源を天日鷲神に求める説が記されていました。また、木綿(ゆう)は「楮(こうぞ)の木の皮」から作られるとされていました。楮は和紙の原料でもありました。ここからは、高越寺の住職が川田の和紙生産者を、新たに高越山の信者として組織するために紙祖としての天日鷲神を導入したのではないかと研究者は推測します。和紙産業のギルド神として、天日鷲神を新たにお迎えしたとしておきます。これを高越寺の社僧(修験者・山伏)たちが広めていきます。こうして天日鷲神への信仰は和紙生産・販売の中心地であった麻値郡・美馬郡に急速に広がっていきます。すると、天日鷲神(忌部神)を祭る神社の本社を名乗る寺社がいくつもで出来ます。こうして、古代の忌部神社が、どこにあったのかをめぐる紛争が起きます。1740年頃には、次の三社が忌部本社であると主張するようになります。
A 美馬郡貞光
B 麻植郡川田
C 麻植郡山崎

吉野川沿いの美馬郡貞光や麻植郡山崎(吉野川市山川町山崎)は、生産された和紙の集積地として発展します。川田で忌部神社本社が復活されると「忌部神社は我社なり」と、貞光と山崎の神社も名乗りを上げます。研究者が注目するのは、争論に参加していた貞光・川田・山崎の三カ所は和紙の生産・販売の拠点でもあったことです。そこには、紙祖としての天日鷲神の本社(忌部神社)の地位を獲得することで和紙の生産・販売をめぐっての優位性を確保しようとする思惑があったと研究者は指摘します。
 三社の争いに対して、阿波藩は川田の種穂社が本社と認め、貞光と山崎の神主は追放ということで決着させます。こうして政治的には川田の種穂神社が藩から忌部神社のお墨付きをもらったことになります。
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                 種穂忌部神社(山川町川田)
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                  種穂忌部神社の説明版
(もともとは多那穂大権現と称したと記されるので山伏によって開かれた神社だったことがうかがえる。)
 この論争の中で、各神社は自己の主帳を正当化するために根拠のない伝承を持ちだしたり、古代文献をねじまげる解釈をしたり、さらには裏づけになる遺品を偽造したりして、事実とはかけはなれた「由緒書」の世界を作りあげています。自分たちにとって都合のよい「あるべき歴史」の作りあげです。近世後半になると、プロの偽書制作者が現れ、依頼者の求めに応じて偽書が大量に作成される時代になっていたは以前に「椿井文書」でお話ししました。
18世紀という時代の麻値郡について、まとめておきます。
①和紙の生産地としては川田が中心であったが、山間部の三木が新興の生産地として発展していた。
②さらに山崎や美馬郡の貞光も和紙集散地として発展していた。
③これらの和紙産業の地は、和紙の先祖神である忌部神信仰を持つようになり、和紙の生産・販売をめぐっての地域間の対立が生まれていた
④地域間の経済対立を背景に、「あるべき地域の歴史」をめぐって忌部神社本社論争を生みだした。

この時の江戸時代後半(18世紀末)の忌部本社の所在地論争の争点を見ておきましょう。
A 永井精古の西麻植村広堂(吉野川市鴨島町西麻植)説
古代阿波国全体の郡郷配置を、最初に論じた上で、忌部神社は、古代の麻植郡忌部郷の平野部にあったことを主張。その上に立って、忌部郷は麻植郡東部の平野地帯だったとし、西麻値村広堂(吉野川市鴨島町西麻植)に比定
B 多田直清の鴨島村宮地(吉野川市鴨島町鴨島)説
吉野川下流域南岸の麻植郡・名西郡の古代以来の景観復元を現地調査を行った上で、忌部郷と忌部神社を麻植郡東部の平野地帯に求め、鴨島村宮地(吉野川市鴨島町鴨島)に比定。
A永井・B多田の説の前提条件としては
①古代の郷は律令国家が班田制を実施している水田が拡がる平野部にあったこと
②水田のない山間部には、古代の郷は置かれなかったこと、忌部神社も山間部にはないこと
これが忌部神社を平野地帯の鴨島地域に比定した前提条件でした。
C 野口年長の山川町山崎説
 野口年長は古代からさまざまな文献を駆使して阿波の歴史を広い側面からとらえようとした人です。 その見地から、古代忌部郷が山崎にあったとして神社も山川町山崎に比定。山の世界が発達するのは中世以後のことで、古代の忌部郷をみる際には山の世界を組み入れないこと。
野口の論は、忌部問題について押さえなければならない条件を明確にしていること、その条件も現在の歴史学の水準からみても妥当なものだと研究者は評します。しかし、文献史料がなく、位置確定にはいたらず、古代忌部社をめぐっての結論は出ませんでした。

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山崎の忌部神社
明治維新前後に忌部神社論争に関わったのが、久富憲明と生島繁高です。
D 久富の山崎神社説 
 古代忌部郷を麻植郡山間部(種野山)を中心に広がっている郷とし、古代忌部神社を山崎の忌部社に比定。
E 生島の川田種穂神社説 
 古代忌部郷を種野山を中心に比定し、古代忌部社は川田の種穂神社に比定
江戸時代の3人が比定地を平野部にしていたのに、明治のふたりは古代忌部郷を山間部に比定しています。それまでの古代忌部郷・忌部神社は平野部に限定して比定しなければならないという大原則を無視する論が明治になると出されるようになったのはどうしてなのでしょうか?                  

その背景には、種野山の三木家文書の強い影響があったようです。 
種野山は、水田はありませんが多くの山の産物を生み出す社会で、京都の冷泉家が地頭職を持ち、貴重な史料が数多く残されていました。その意味では、三木文書は中世の種野山という山の世界のあり方をしめす、全国的にみてもすぐれた中世文書と研究者は評します。しかし、この文書には18世紀後半になって三木家の先祖が南北朝期にさかのぼる古代忌部氏の系譜を引く在地領主であったことをしめすために偽作文書が混入されていると研究者は指摘します。その経緯を見ておきます。
18世紀後半になると麻植山間部の三木村が川田を追う新興の和紙生産地として成長をとげるようになります。
三木村は中世には三木名と呼ばれ、その中心に座るのが三木家でした。ところが忌部神の本社をめぐる争いがあった頃には、三木本家は衰退していたようです。それに代わって18世紀後半には分家が三代にわたって三木村庄屋役に就きます。この間に三木村は和紙の生産地として大きな発展をとげていきます。さらに三木家の分家は明治維新まで和紙の生産・販売を手がけ、販路を大阪までに拡げ大きな富を築き、本家の三木家を凌駕していくようになります。
寛政期(18世紀末)の文書に、三木家の由緒を紹介したものがあります。

三木家文書表紙

当時、三木家本家は当主と嫡男が他界したため、後継者を親戚の天田家から養子として迎えることになりました。この際に、三木家の女性たちと天田家当主・天田武之丞が、三木家の再興のために由緒に関する複数の文書を作成し、郡代等への提出書類の根拠(説明資料)としています。当時の三木家本家はたいへん苦しい状況にありました。かつては「阿波忌部」の末裔として、また「阿波山岳武士」として威風を誇っていました。ところが18世紀の終わりごろに土地取引に絡む不正事件の監督責任を問われた三木家は、庄屋役とともに身分的諸権利(小家とも夫役免除、藩主御目見等)を失います。その結果、三木家は経済的にも打撃を受け、それに当主の他界・嫡男の早世などが重なり、苦しい状況に追い込まれます。この苦境から三木家を立て直すために、三木家の女性たちは、親戚で庄屋役を引き継いだ天田家から恒太を跡取り養子として迎え、庄屋・天田武之丞を後見人とします。三木家由緒に関する文書は、郡代など諸役人に再興への助力を願い出るための重要な歴史的根拠でした。そこで三木村の庄屋武之丞は本家の三木家救済のために、それまであった文書に新規偽作文書をつけ加えて文書の再編成します。そのねらいは、三木家が忌部の系譜を引く南北朝期以来の伝統をもつ家であることを証明することにありました。こうして、三木家が阿波忌部氏の末裔であることを示す書類が何通か紛れ込んだと研究者は指摘します。その例を見ておきましょう。まず本物とされる太政官符です。

この文書は従来は、次のように説明されてきました。
三木家麁服古文書で最も古いものは、1260年の亀山天皇大嘗祭である。麁服(あらたえ)は、南北朝動乱で調進が中断されるまで、代替りの都度神祇官より太政官へ宣旨し、太政官より太政官符・官宣旨が阿波国司に対して発せられ、国司はそれぞれの写しをもって殿人三木忌部氏に麁服を依頼した。

ここで確認しておきたいのは、これらの文書は本物ではなく京から阿波国司に送られてきた太政官符の写しであることです。


三木文書の鎌倉末期文保二年(1218)九月廿六日の大政官符


               三木家文書 文保二年(1218)
九月廿六日の大政官符
大嘗祭における荒妙御衣の進上を阿波国司に命じていて、中央から従五位下の斎部(忌部)宿禰親能と神部二人が派遣されています。しかし、阿波忌部氏か荒妙を貢進したことは書かれていません。また、三木氏もここには出てきません。ここからは分かるのは、次の4点です。
①大嘗祭の麁服(荒妙)貢進は、鎌倉末期までは形式的には続いていたこと。
②中央の斎部(忌部)氏が使いとして登場しているので。この時期まで存続していたこと
③ここには、阿波忌部氏も三木氏も登場しないこと
④この太政官符の写しが残っているのは三木家であること。(阿波忌部氏の本貫は平地部の忌部郷)
逆に見ると平安時代末までには、阿波忌部と麁服貢進の関係は失われていたことになります。それに代わって作成を担当するようになったのが三木氏ということです。だから太政官符が三木家に大切に保管されてきたのです。そして、この文書からは「三木氏=阿波忌部氏の末裔」であることは証明できません。そこで新たに作られたのが次の文書群だと研究者は指摘します。

三木家文書 偽文書
            近世に作成され偽書とされる中世文書
く正慶元年(1332年)にいただいた太政官符案。光厳天皇の大嘗会に関するもの
 下す   勅使御殿人三木右近胤
右 彼の右近胤においては、往古より勅使御殿人として課役を致す之上は、向後更に長老等の濫妨を致すべからざる之由、御勅使殿仰せ下され被候也。乃て執建件のごとし、
正慶元年(1332年)12月1日  御代官(花押) 
  勅使神祇権少副(しょうふ)斎部(花押)
意訳変換しておくと
  勅使御殿人の三木右近胤に次の通り下す
右近胤は、古くより勅使御殿人として課役(麁服貢進)を果たしてきた。今後も長老等がその職務の遂行を妨害しないように、(京の)御勅使殿より仰せ下された。執建件のごとし。
正慶元年(1332年)12月1日  御代官(花押) 
 勅使神祇権少副(しょうふ)斎部(花押)
ここには勅使神祇権少副である中央の斎部(忌部)氏勅使御殿人」の三木右近胤(三木家)に対して課役(麁服)を貢納するために身分保障していることが記されています。先ほど見たように太政官符には三木氏は登場しません。これがあって、はじめて「三木氏=斎部氏の子孫」が証明されます。しかし、この文書には次のような疑問点があるようです。
①「勅使御殿人」「長老」と云う用語は中世に使われたものではなく、近世の和紙生産者ギルドの長として使われたものであること
②14世紀初めには、「勅使神祇権少副の斎部」氏は姿を消していたこと
③書いているのが地元の「御代官」で、それを認めているのが中央の忌部氏というおかしな形式で、
太政官符よりは、格がはるかに下がること。
④三木家の職務遂行を妨害する勢力があったこと

三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
偽書が作成される経緯については、「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 四国中世史研究14号 2017)」に詳しく記されていますので、そちらを御覧ください。

江戸時代には家の先祖や村の歴史を美化するために由緒書などを偽作することは当たり前のように行われていました。
Amazon.co.jp: 椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) : 馬部 隆弘: 本

延喜式内社をめぐる争論などでは、自社を有利にするための偽文書が組織的に行われ、そのプロもいたことは「椿井偽文書」で明らかにされています。偽文書によって、自分の所の神社が有利になるのなら「やったもん勝ち」でした。考証学が発達していない時代には、それが見抜けなかったのです。自社が延喜式内社の争論などでは、後になっても偽作であると見抜けないままになっていることが数多くあります。戦後に書かれた市町村史などは、史料考証をきちんと行わず従来の説がそのまま転用され、それが今も「定説化」していることが散見します。こうして幕末から明治にかけては、三木文書に偽作文書が混入されていることが分からないままに、真実の中世文書とみなされ重視されるようになっていきます。久富・生島の論も、その延長線上にあると研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①古代の麁服(あらたえ)貢納は、律令行政システムの「神祇官(中央の忌部(斎部)氏 → 阿波国衙 → 麻植郡衙 → 阿波忌部」という指示ルートで動いていた
②しかし、中世になると中央忌部氏が衰退して新たに神祇官に就いた氏族は、阿波に直接使者を派遣して麁服を確保するようになる。
③その際に、麁服制作に当たったのは古代の阿波忌部氏ではなく、山間部の種野山の三木家であった
④三木家にはこの時の太政官符が残されているが、これは三木家が阿波忌部氏の子孫であることを証明するものではなかった
⑤そこで江戸時代後半に三木家が危機的な状況に陥ったのを救うために、三木家が古代忌部氏の末裔であることを阿波藩に討ったえでることになった時に、「三木家=古代忌部氏の末裔」を証明するいくつかの偽文書が紛れ込まされた。
⑥それが後に、「三木家=古代忌部氏」となり一般に拡がった。
阿波忌部氏年表

明治維新を迎えると、明治政府は復古政策のもと『延喜式』に記された古代式内社の復活を目指します。
その結果、阿波でもどこにあるかわからなくなっていた式内社忌部神社の所在地決定が求められます。それに対応することになったのが名東県の役人としてに出仕していた小杉𥁕邨です。彼は式内忌部社を麻植郡山崎の忌部社に決定します。これに対して美馬郡貞光から異論がだされ論争となります。
 これは十八世紀半ばに起こっていた忌部神社の本社所在地をめぐる論争の再燃です。藩の決定が「政権交替」で「ちゃぶ台返し」で、再燃するという図式です。ただ、前回の論争で忌部本社と藩に認定された川田は、今回の論争に加わっていません。山崎と貞光の争いになります。結果は山崎は敗れ、貞光に忌部社は移座されることになります。ところがその後、貞光側の内紛もあり、結局は「中立地帯」の徳島市に移座されることになります。
この論争で小杉は、三木家文書の忌部関係文書を根拠にして、古代忌部郷を種野山という山間部を中心に広がるとしました。つまり「忌部神社=山崎説」です。政治的な決着では、この説は否定されたのですが学問的には、この説はその後の研究者達に受けいれられていき、定説として定着します。これに対して、幕末の野口の原則であった「忌部郷・忌部神社は条里制が施行されていた平地にある」を無視したもので、「学問的には成りたたない論になっている」と研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山 幸彦 忌部大社はどこにあったのか 江戸時代の人々の模索  講座麻植を学ぶ
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 四国中世史研究14号 2017年
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端山八十八ヶ所巡礼をしていると「忌部」伝説に、よく出会いました。貞光川流域は、古代忌部氏との関係が深い所という印象を受けました。ところがいろいろな本を読んでいると、古代忌部氏の本貫は麻植郡と考えている研究者が多いことに気がつきました。麻植郡を本願とする忌部氏の氏神である忌部神社がどうして三好郡にあるのでしょうか。そこには、近世と近代の所在地を巡る争論があったようです。それを今回は見ていきたいと思います。テキストは「長谷川賢二  忌部神社をめぐって 講座麻植を学ぶ 49P」です。
講座 麻植を学ぶ(歴史編)」 | アワガミファクトリー オンラインストア │ 阿波和紙の通販

まず忌部氏について押さえておきます。
古語拾遺には「阿波忌部」と麻植の関係を次のように記します。

  天日鷲命の孫は、木綿と麻(を)と織布(あらたへ)多倍)を作っていた。そこで、天富命に日鷲命の係を率いて、土地豊かなところを求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖えた。その末裔は、いまもこの国(阿波)にいて、大嘗奉には木綿・麻布(あらたへ)及種種の物を貢っている。それ故に、郡の名は麻殖(おえ)と呼ばれる。

ここには、阿波忌部が阿波に定着して、穀・麻を播種し、木綿(穀の繊維)、麻の繊維、「あらたえ」といわれる麻布を製作し、これらを大嘗祭の年に貢納したこと、それゆえに阿波忌部の居住する地を麻殖郡と称したことが記されています。ここからは阿波忌部は麻殖郡に拠点を置いていたことがうかがえます。また、承平年間(920年前後成立)の辞書『和名類衆抄』にも、麻殖郡に「忌部郷」があったことが記されています。ここからも麻植が本貫であったことが裏付けられます。

天皇の即位儀礼の大嘗祭に奉仕した阿波忌部の氏神が忌部神社です。
古代の大嘗祭は律令体制下の「太政官→阿波国司→麻植郡司→阿波忌部」という行政ルートを通じて、忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われました。しかし、律令体制が解体すると、このルートは機能しなくなり、忌部氏も衰退します。忌部の後裔を称する人々は中世にもいて、大嘗祭への奉仕も続いたようですが、中世後期には途絶えたようです。やがて大嘗祭自体も行われなくなります。それが復活するのは17世紀後半の東山天皇の即位の時です。
 一方、近世に大嘗祭が復活したときには、阿波忌部は断絶していたので関与できませんでした。
大嘗祭と阿波との関係が「復活」するのは、大正天皇の大嘗祭のときになります。大嘗祭と阿波の関係が途絶えていた江戸時代後半に起きるのが忌部神社所在地論争です。古代の忌部神社の系譜を引く神社がどこにあったのか分からなくなり、考証や論争が繰り拡げられます。

延喜式神名帳阿波
延喜式神名帳の阿波国分

延喜5年(927)成立の『延喜式』神名式(「神名帳」)には、諸国の官社が載せられていて、これを「式内社」「式社」と呼んでいます。
ここに載せられた神社が当時の代表的な神社であったことになります。阿波を見てみると、四十六社五十座の神社が記されています。これらの中には、最有力なのは次の三社です
祈年祭に神祗官か奉幣する官瞥大社として
①麻殖郡の忌部神社
②名方部の天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめ)
③国司が奉幣する国幣大社として板野郡の大麻比古神社(おおあさひこ)
他は国幣小社です。社格からしても忌部神社は古代阿波では代表的な神社であったことが分かります。神名帳によれば、忌部神社は「或いは麻殖神と号し、或いは天日鷲神と号す」と注記されています。ここからも、阿波忌部の祖神である日鷲命を祭神とし、「麻植神」と呼ばれていたことが分かります。忌部神社が忌部郷と考えるのが自然のようです。

延喜式神名帳阿波2
            延喜式神名帳の阿波国美馬郡十二座と麻植郡分
行方知れずとなった忌部神社の所在地考証は、江戸時代後半の18紀以後になると活発化します。
そして所在地をめぐる論争となります。その経緯を見ていくことにします。
文化12年(1815)の藩撰地誌『阿波志』巻七「種穂祠」には、次のように記されています。

「元文中、山崎。貞光両村の祀官、忌部祠を相争ふ。遂に中川式部に命じて此に祀る」

ここには、麻植郡山崎村(吉野川市山川町)と美馬郡貞光村(つるぎ町)の神職の間で相論があって、麻植郡の種穂神社(古野川市山川町)を忌部神社として扱うことになったことが記されています。ここでは、争論となった場所が近代の論争地として再登場することを押さえておきます。以後、忌部神社を名乗る神社が以下のように次々と現れるようになります。
①寛保二年(1742)の『阿波国神社御改帳』には、宮島八幡宮(古野川市川島町所在)、種穂神社が忌部神社を主張
②種穂神社の神主中川家の史料から、嘉永六年(1853)に高越権現が忌部神社を称したこと
③この他にもいくつかの説がでてきますが、ここまでは麻植郡内が候補であったこと
この争論の背景には、国学が知識人の間に広がり古代への関心が高まってきたことと、忌部信仰の興隆・拡大があったようです。

端山忌部神社
端山の忌部神社(つるぎ町)(もともとは東端山村友落神社の奥山絶頂平地の小社)
そして登場するのが貞光周辺、とくに端山(つるぎ町)の忌部神社をめぐる次のような動きです。
①宝暦4年(1754)に、神職宮内伊織広重が忌部神社の系譜を主張し、神宝を「発見」したことが「美馬郡貞光村忌部神社文書.」(徳島県立図書館編出版)に記される。
②寛政5年(1792)『阿波志』編集のために神職らが集めた旧聞等をまとめた『阿波志編纂資料』には、美馬郡西端山には「忌部御類社と申伝」える「蜂巣五社大明神」や、「忌部大神宮社床と申伝」える「古社跡」があった
④類似する内容が民間地誌『阿陽記』などにもあり、西端山の項に「忌部古社」とその関連伝承・遺跡が記載されるようになる
⑤野口年長『式社略考論』は、端山の忌部神社について「いまだたしかなる拠なければ、せむすべなし。或人忌部神社の永禄四年の棟札を持伝へたれど、これにも社の所在の証なし」
⑤永禄4年(1561)の棟札とは、近代の論争において端山側の論拠となった「天日鷲尊四国一 宮」の棟札と同一物を指すようですが、現存せず。
以上のように18世紀後半から「忌部神社=端山」説を主張する動きがあったことを押さえておきます。これが大きな運動になるのが明治維新後です。
        
明治4年(1871)5月、明治政府は、全国の神社を神宮・官国幣社・府藩県社・郷村社と格付分類することにします。
そして中央の神祗官が直接管轄する官国幣社が指定されます。その一環として忌部神社も国幣中社に指定されます。これは先ほど見た『延喜式』の神名帳に従ったもので、その所在場所が分からないままでの指定でした。そのため、多くの神社が「吾こそは式内社としての古代の忌部神社なり」と名乗りを上げます。こうして近代の所在地論争の幕が開きます。

小杉榲邨 - Wikipedia
国学者小杉饂郁
そこで重要な役割を果たしたのが阿波出身の国学者小杉饂郁(すぎむら)でした。小杉の生涯を見ておきましょう。
天保5年(1824)徳島藩中老西尾氏の家臣であった小杉明信の長男として徳島城下の住吉島に誕生
安政元年(1854)西尾氏に従って江戸に出て、
安政4年(1457)江戸の紀伊藩邸内の古学館に入門して国学を学ぶ。
           幕末期には尊王攘夷を唱えたため、藩により幽閉。明治維新に際して藩士に登用され、以後、学者あるいは学術系行政官とし活躍。
明治2年(1869)藩学である長久館の国学助教に就任
明治7年(1874)教部省に出仕し、後に文部省、東京大学、帝国博物館に勤務。『特撰神名牒』『古事類苑』などの編纂に従事
明治34年(1901)文学博士・
明治43年(1910)永眠(75歳)
大正3年(1913) 小杉編『阿波国徴古雑抄』刊行(『徴古雑抄』のうち、阿波の部の正編仝部及び続編の主要史料を収載)

忌部神社の国幣中社指定の年の明治4年(1871)8月に、小杉は、その所在地調査の報告や意見が出されています。これを見ると候補として挙げられている神社は、次の通りです。
①川田村(吉野川市山川町) 種穂社
②山崎村(山川町)忌部社  王子社
③貞光村(つるぎ町)    忌部社(東端山村友落神社の奥山絶頂平地の小社)
④宮島村(吉野川市川島町) 八幡宮
⑤西麻殖村(吉野川市鴨島町)中内明神
⑥上浦村(鴨島町      斎明神
⑦牛島村(鴨島町)     大宮

種穂忌部神社
川田村(吉野川市山川町) 種穂社
このような乱立状態を見て、小杉は「忌部神社新設」案によって打開しようという意見書を県に提出しますが採用されません。そのため官祭を開くことができず混乱が生じます。そのため一時は、忌部神社の指定を撤回し、大麻比古神社に変更するという案も浮上したようです。流石にこれには抵抗があり実現しません。

忌部神社 山崎
忌部神社(山川町山崎)
明治6年になると、小杉饂郁は「山崎村ノ神社ヲ以テ本社トスルニ決定ス」と主張するようになります。
「山崎村ノ神社」とは、②の王子社に祀られていた天日鷲社のことです。そして、翌年2月、教部省に意見書を提出します。この時の小杉の考証根拠は「不可抜ノ証文」で、「三木家文書」のうちの「阿波御衣御殿人契約状」(正慶元年1332)です。この文書は今は写本が残るのみですが、次のようなことが書かれています。(原文は漢文調を読下したもの)
契約
阿波国御衣御殿人子細の事、
右、件の衆は、御代最初の御衣御殿人たるうゑは、相互御殿人中、自然事あらは、是見妨げ聞き妨ぐべからず候、此の上は、衆中にひやう定をかけ、其れ儀有るべき者也、但し十人あらば七、八人の儀につき、五人あらば二人の儀付くべきものなり、但し盗み・強盗・山賊・海賊・夜打おき候ひては、更に相いろうべからず候上は、日入及ぶべからず、そのほかのこと、一座見妨げべかず候、但しこの中にいぎ(異議)をも申、いらん(違乱)がましきこと申物あらば、衆中をいだし候べきものなり、此上は一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也、角て契約件の如し、
正慶死年十一月 日
以下13人の名前
この文書については、研究者は次のように評します。

中世文書としては文面に違和感があるものの、文意は明確であり、在地社会で作成されたものであるがゆえの表現の乱れや写し間違いがあるとするなら、必ずしも否定的にとらえるべきではないと考える。

つまり完全な偽物ではなく、当時の情勢を伝える信用できる内容のものだという評価です。
内容を見ておくと
「御衣御殿人」は通例「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(荒妙御衣)のことで、これを製作する者が「御殿人」です。したがって、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団ということができます。
小杉が注目したのは、次の箇所です。

「一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也」

阿波忌部の子孫と称する人々が寄合を開く「やまさきのいち(山崎の市)」とは、忌部神社の門前市のことで、山崎村に忌部神社があったことになります。この「山崎=忌部神社鎮座」説に対しては、5月に異論が出されます。折目義太郎らが小杉に対し、西端山の忌部神社を認定すべきという意見を申し出ます。しかし、教部省による小杉説の検証が行われた結果、12月には大政大臣三条実美の名において、次のような決定が出されます。
「麻植郡山崎村鎮座天日鷲社ハ旧忌部神社クルヲ実検候二付自今該社ヲ忌部神社卜称シ祭典被行候」
意訳変換しておくと
「麻植郡山崎村に鎮座する天日鷲社が旧忌部神社が認められたので、これよりこの社を忌部神社と称して祭典を行うものとする。

これが小杉説に基づく政府決定でした。

これで一件落着のように思われたのですが、問題は終わりませんでした。讃岐国幣中社の田村神社権宮司・細矢庸雄が忌部神社の所在地を西端山とする考証を出して、政府決定に反駁を行い、小杉との論争となります。
さらに、これを支援するように明治10年(1877)になると、西端山を含むつるぎ町貞光一帯から運動が起こり、内務省に願書が提出されます。
その主張の骨子は次の通りです。
「式内忌部神社ノ儀、往古ヨリ阿波国麻殖郡内山吉良名御所平二御鎮座」

これには「忌部郷人民惣代」を称する村雲義直のほか、谷幾三郎、折目栄の連署があり、さらに戸長・副戸長計七名による奥書があります。ここからは個人の意向ではなく、地域有力者の政治運動として展開されたことが分かります。つまり、忌部神社問題が争論から政治問題化したのです。翌年に出された追願書以降は、東京在住の折目栄が「忌部郷惣代」とか「忌部郷諸(庶)民惣代」などと称しているので、彼が運動の中心にいたことがうかがえます。
 忌部神社=端山説の根拠は、次のような「物証」でした
①美馬郡は、もと麻植郡の一部であったとする郡境変更説などが記された『阿陽記』
②その系統の地誌、『麻殖氏系譜』
③永禄年間の「天日鷲尊四国一宮」の棟札
また、小杉が「忌部神社=山崎鎮座」説の根拠とした古文書「波御衣御殿人契約状」を偽文書とする鑑定も出されます。そして考証の結論は、「波御衣御殿人契約状」を偽文書として、「忌部神社=山崎説」を否定するものでした。こうして、明治14年(1881)に西端山御所平が忌部神社所在地と決定されます。
ところが政治問題化した忌部神社の所在地問題は、これでも終結しません。
こうなると学問的考証の手立てはなく、残された選択肢は、かつての小杉の主張であった忌部神社の新設によるしかなくなります。所在地論争は、棚上げされることになります。

徳島市勢見山の忌部神社
 徳島市勢見山の忌部神社

こうして徳島市勢見山に新たな場所が選ばれ、忌部神社を新設して明治20年(1887)に遷座祭が行われます。御所平の神社は忌部神社の摂社となりますが、山崎の神社はその系列からは外されてしまいます。その意味では、端山側の運動は一定の成果を残したと言えそうです。その後、山崎が歴史の表舞台に現れるのは、大正4年(1915)、大正天皇即位の大嘗祭の色服の「復活」の時です。織殿が山崎の忌部神社跡地に設置され、山崎の地も阿波忌部に連なる正統なな忌部神社として復活を遂げます。

忌部神社 徳島
忌部神社(徳島市)
以上をまとめたおくと
①阿波忌部の本貫地は麻殖郡で、そこに氏寺の忌部神社が鎮座していた。
②忌部氏は古代の大嘗祭において、麻などの織物を奉納する職分を持っていた。
③しかし、中世になって大嘗祭が簡略化され、ついには行われなくなるにつれて、阿波忌部も衰退し姿を消した。
④こうして阿波忌部が姿を消すと、氏神である忌部神社もどこにあったのか分からなくなった。
⑤こうした中で江戸時代後期に、国学思想が拡がると忌部神社を名乗る神社がいくつも現れ、争論を展開した。
⑥明治政府は延喜式の神名帳に基づいて、忌部神社を国幣中社に指定したが、所在地が分からなかった。
⑦そこで政府は、小杉饂郁の論証を受けて、麻植郡山崎村の天日鷲社を忌部神社と認めた。
⑧これに対して端山周辺の有志達は、組織的に「忌部神社=端山」説を政府や県に陳情し、政治問題化させた。
⑨その結果、新しく忌部神社を徳島市内に建立し、端山はその摂社とした。

ここには、ひとつの神社がどこにあったかをめぐる争論の問題があったことがわかります。忌部神社が端山にあったということは、周辺住民のアイデンテイテイの根拠になり、地域の一体化を高める動きとなって政治問題化します。このような歴史ムーブメントが端山周辺にはわき起こり、現在でも忌部伝説が語り継がれているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
長谷川賢二  忌部神社をめぐって 講座麻植を学ぶ 49P
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高越山11
                                      
 阿波にはいくつかの霊山と呼ばれる山があります。
たとえば、古来祖霊があつまる所とされている神山町の焼山、阿南市の太竜寺山、阿波郡市場町の切幡山、板野郡上板町の大山などが挙げられますし、漁民の信仰をあつめた阿南市津の峯町の津の峰なども霊地です。やがてこれらの霊山の中には、海を越えてやって来た熊野派修験者が、吉野川に沿って活動を展開して、修験の霊山となったところもあります。修験の霊山に「弘法大師伝説」が、付け加えられ四国霊場に「成長」していったお寺もあります。前回は、讃岐山脈の大滝山を取り上げました。そして、大滝山は、高越山と仲が悪かったという話を紹介しました。
高越寺絵図1
 今回は、大滝山のライバルだった高越山を見ていきます。
 高越山は忌部氏とむすびついて「忌部修験」ともいえる独自の修験を生み出した山です。この山の修験道との結びつきは古く、剣山以前から盛えた修験の霊場です。これに対して大滝山は、前回紹介したように空海や聖宝の活躍をとく真言修験の山です。そして、どうやらこの両山は中世から近世にかけて、阿波の修験道を二分する勢力を持っていたようです。
 
高越山1

高越山は吉野川の流れる山川町にそびえ立つ1123メートルの高峰で、古くから「阿波富士」と呼ばれる眺めのいい山です。里の人たちが仰ぎ見る甘南備山として、古くから信仰を集めた霊山であることが一目見ると分かります。今は林道をたどれば里から1時間足らずで山の南側の駐車場にたどり着くことができます。境内から見える景色は絶景で、眼下を「四国三郎」吉野川が西から東へ悠々と流れていきます。遠く鳴門の潮路をへだてて、淡路島の山波や、その向こうの紀伊半島まで望むことができます。
 しかし、昔は下から歩いて登って来ました。

高越山4

途中の「万代池」の周辺には行場が見られます。この池から東に200メートルほど小路を行くと、「覗き岩」の行場があります。これは山腹に数百メートルの岩波があって、岩上に腹這って覗くのでこの名があるそうです。この岩場には鉄梯子が架けられていて、行者や元気な若者はこの梯子で上り下りしていたようです。

高越山3

 本道に戻ってさらに登ると、「黒門」があます。この辺りから左へ小路を入れば、「せり割り」の行場です。十余メートルの二つの大岩がせり割りを造って切立っています。参拝者達は、この割れ目を登り、二つの岩石にかけた丸木橋をわったといいます。これも行の一つだったのでしょう。 ここからは、寺に近く鐘の音が頭上に響いてきます。
高越山5

 山門の下は御影の石段、数十段、仁王の門をくぐると敷石が正面の本堂に通じています。昭和十四年一月二十八日に大火があり、立ち並んでいた本堂・拝殿・回廊・通夜堂・庫裏・大師堂が焼失。わずかに仁王門・鐘楼が災難から免れました。仁王門の階上におかれていた重要文化財「涅槃図」や、その他の寺宝は助かったそうです。

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  この本堂は昭和24(1949)年に戦後の物資の乏しい中、地元の人々の強い願で再建されました。先ず第1に感じるのは、本堂が見慣れないスタイルだということです。よく見ると、本殿に前殿を接合し,前殿に向拝を付けて建立されています。
高越寺2

じっくりと見ていると大きな唐破風は、堂々と力強く感じます。きらびやかな装飾が目をひく本堂には,金剛蔵王尊脇仏として千手観音と修験者のヒーローである役行者が祀られています。本殿入り口の扁額は木彫で,15代藩主蜂須賀茂昭の直筆といわれています。国内安定化の一貫でしょうが、江戸時代には阿波藩からの保護もありました。
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 本堂の彫刻群は美馬郡(現美馬市)脇町拝原,十世彫師三宅石舟斎の大作です。これは石舟斎最後の作品となったようです。山門は,第28世良俊上人の起請によるもので,県下五大重層門の一つとされています。この寺院への人々の信仰の強さが伝わって来ます。

高越寺1

このお寺の「修験道の伝統」は、いつ頃から始まるのでしょうか?
 寛文五年(1665)、高越寺の住僧宥尊によって書かれた「摩尼珠山高越寺私記」には、次のように記されています。

「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」

 ここからは、江戸初頭ころの、この寺の姿がうかがえます。役行者ー吉野蔵王権現という修験道の流れが見られます。      
 
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さて、この寺のことをしるした最初の記録は、密教小野流のうちの金剛王院流の祖として知られる聖賢の『高野大師御広伝」(元永元年[1118])のようです。ここには阿波国高越山寺(現在の高越寺)について、次のように記します。
大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々」

 ここからは高越寺は四国霊場ではありませんが、12世紀初頭に大師信仰の霊場として存在していたことが分かります。大師信仰のあるこの寺が、どうして四国八十八霊場にならなかったのかは、私にとっては大きな謎のひとつです。
高越寺4

次に古い史料は南北朝の14世紀後半のものです。
鎌倉時代から江戸時代にかけて、高越山の麓で高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の所蔵した古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。この文書の最も古いものが、貞治三年(1364)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す」ということで、檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代には、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに連れて行っていく「熊野行者」たちがいたことが分かります。同時に、高越山周辺は修験道の聖地となり修験者達のさまざまな宗教活動が展開されていた事がうかがえます。

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 次に、高越寺の名前が見えるのは、戦国時代の天文二十一年(1551)の「天文約書」のようです。その全文を紹介します。
   定条々
  阿波国 念行者修験道法度之事
一、喧嘩口論可為停止之事  
一 庸賊道衆なふるへがらす之瀋
一、淵国一居住之 山伏駈出之励、於国中二特料仕義可為停止、但遠国之衆各別也
一、其音行者之内、大峰之願参御座侯所、為余人不可到之事                 
一、於念行者之内、何之衆成共、立願被服侯共、其念行者二可被上之事
一 御代参之事、大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越何之御代参成共、念行者指置不可参之事
一、御沙汰事、依方聶買不申、御中評儀次第二可仕侯、此人数何様之儀出来候共、注進次第二飯米持二而可打寄事
右条々、従先年有来候雖為御法度、近年狼二罷成候条、得国司御意相改侯間、此度能々相守候事尤二侯。若、於相背者、御衆中罷出可為停止者也。依而如件。
    天文弐拾壱壬子年十一月七日
 会定柿原別当坊 岩倉白水寺 大西畑栗寺 河田下之坊 麻植曾川山 牛嶋願成寺 浦妙楽寺 大粟阿弥陀寺 田宮秒福寺 別宮長床 大代至願寺 大谷下之坊 河端大唐国寺 高磯地福寺 板西南勝房 板西蓮花寺矢野 千秋房 蔵本川谷寺 一之宮岡之房 合拾九人
  ここでは、阿波の念仏修験道者の法度(禁止)項目が、一堂に会した修験者達によって再確認されています。内容から当時の修験者の様子を知ることができます。ここで注目したいのは。法度6条です。ここには修験者が檀那衆に頼まれて代参する霊山としてあげられているのが「大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越」の5つなことです。ここには石鎚や剣はありません。剣山が修験者にとって霊山として開発されるのは近世も後半になってからだったことは、以前に述べました。 
 また合意した19寺の中に、前回に大滝山の下寺的存在であったと紹介した「岩倉白水寺」が2番目に見えます。そして、大滝寺の名前は見えません。

高越山行場入口

 また高越寺には室町時代を降らないと思われる
木造の理源大師像があります。
聖宝(理源大師)NO3 吉野での山林修行と蛇退治伝説 : 瀬戸の島から
醍醐寺の理源大師像
この像は等身大の立派なお姿で、前後の二材矧ぎという古風な寄木造りです。ちなみに理源大師は、醍醐修験道の開山者で、修験者の崇拝を集めていました。こんなに立派な像は、県内には他にはありません。
 また、このころから高越寺は、東の大峯に対して自らを西山と呼びはじめています。
このような「状況証拠」から、高越寺は中世阿波国における修験道のメッカであったと研究者は考えているようです。

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修験道は、どういう風に高越山に根付いたのでしょうか?
高越山をとり巻く地域は、麻植郡山川町・美郷村・美馬郡木屋平村などです。これらの地は古代、忌部氏領域であったとされます。中世にそれらの地域を支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。

山﨑忌部神社1

忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
山﨑忌部神社3 天岩戸神社の神籠石(こうごいし)

 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
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 こうして「忌部修験道」とも呼ぶべき修験道の阿波的な形態が生まれます。羽黒山・英彦山・白山などと同じ成行きと言えます。修験道が背負うべき神が、阿波では忌部の神となったのです。
江戸時代に書かれたと思われる「高越大権現鎮座次第」には冒頭に次のように述べています。
吉野蔵王権現神勅に曰く。粟(阿波)国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め諸神達の集る高山なり。我も彼も衣笠山に移り、神達と共に西夷北狭を鎮め、下城を守り、天下国家の泰平を守らんと宣ひ、早雲松太夫高房に詰めて曰く。
 「汝は天日鷲命の神孫にて衣笠の祭主たり、我を迎え奉れ」と、神記にて、宣化天皇午八月八日、蔵王権現御鎮座也。供奉に三十八神一番は忌部孫早雲松太夫高房大将にて大長刀を持ち、御先を払ひ、雲上より御供す。此の時震動、雷電、大風大雨、神変不審議之御鎮座也。蔵王権現高き山へ越ゆると云ふ言葉により、高越山と名附たり、夫故、高越大権現と奉
  中候。……
とあります。「吉野蔵王権現が衣笠山(高越山)に降臨した際、天日鷲命の神孫である忌部の孫の早雲松太夫が御先を払って雲上より御供した」という表現は、先ほど述べた「修験道が忌部の諸神と融合した」ということと重なります。
 江戸期の享保年中(1716~36)に、阿波国内神名帳作成をきっかけとして、「忌部公事」と呼ぶ問題が起きます。これは『延喜式神名帳』の忌部神社の正統を決める事件でした。その際に自らが正統だと名乗り出た多くの神社の中に、高越大権現も入っていました。当時の神仏習合の有り様をよく示しています。

高越山8


参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道

 

                                     

       
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観音寺市の木の郷町は、讃岐忌部氏の村があったところと言われます。
 713年の風土記撰進には中国にならって
「郡郷などの地名には漢字二字から成る好名をつけよと」
の命令が出されています。それに従って「木」郷は「紀伊」郷へと表記を変えます。木の郷町の近くには、忌部氏の祖神の天太玉命をまつる粟井神社があって、忌部氏によってまつられていました。また、大麻山の山麓東側にも忌部氏の祖神、天太玉命をまつる大麻神社があります。これは木の郷町の忌部氏の一族が分かれて、この地で発展したと伝えられています。
images粟井神社

讃岐忌部氏の粟井神社
忌部(いんべ)氏は、斎部氏とも記されます。
もともとは中臣氏と共に祭祀氏族として天皇家に仕えてきた神別氏族でした。忌部氏の本拠地は、大和国高市郡金橋村忌部(現在:奈良県橿原市忌部町)辺りとされていて、現在は天太玉命神社があようです。延喜式神名帳では名神大社でしたが、その後衰退して明治時代には村社でした。 
 忌部氏は祭具の製造・神殿宮殿造営に関わっていました。
その中でも特に玉造が得意であったようです。しかし、古墳時代以後は玉造の重要度が薄れ、忌部氏の出番は少なくなっていきます。また、時代を経るに従って中臣氏が政治的な力を持つようになり、中臣氏に押されて影が薄くなっていきます。そこで、自らの祭儀における正統性を主張し、復権を図った作成されたのが『古語拾遣』です。この資料は忌部氏側の立場で作成されたものですから、注意しながら見ていきましょう。この書には
 天太玉命所率神名、天日鷲命 これは阿波国忌部氏の祖なり 手置帆負命は讃岐国忌部氏の祖 彦狭知命 紀伊忌部氏の祖 天目一箇命 筑紫・伊勢両国忌部氏の祖なり

とあって、天太玉命を祖神とする中央忌部が、阿波・讃岐・紀伊・筑紫・伊勢などの枝属を率いたととあります。手置帆負命を祖神とする讃岐忌部も、その一族であったようです。
 整理すると次のようになります。
忌部一族の祖神は天布刀玉命(あめのふとだまのみこと)
阿波忌部氏は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、
讃岐忌部氏は手置帆負命(たおきほおいのみこと)
紀伊忌部氏は彦狭知命(ひこさしりのみこと)、
安房忌部氏は天富命(あめのとみのみこと)、
  『延喜式』の臨時祭、梓木の条によると、
凡柿木千二百四十四竿。讃岐国十一月以前差二綱丁進納。
とあります。ここからは、讃岐国から毎年、矛竿を1244本も貢納することになっていたことがわかります。多くの竿を納めるので竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるほどです。
また、『日本書紀』第二の一書には、
即以紀伊国忌部遠祖手置帆負神、定為作者.彦狭知神為作者・天目一箇神為作者.天日鷲神為作木綿者.櫛明玉神為作者.(以下略)
率手置帆負、彦狭知、二神之孫、以二斎斧斎紺、始採山材・構立正殿

ここからは笠・盾・金(金属)・綿・玉などの祭礼用具が、各忌部氏によって「業務分担」して作成したことが分かります。また、紀伊と讃岐の忌部は、木材の切り出しや神社の建築等を通じて密接に結び付いていたこと。そして、木工技術者として讃岐忌部が竿をつくり、紀伊忌部が笠・楯をつくっていたようです。

  各国の忌部の職務分担をを整理すると次のようになります。
(中央)(天太玉命 忌蔵の管理大殿祭・御門祭等紀伊
〈地方 阿波(天日鷲命) 木綿・鹿布の製作
        讃岐(手置帆負命)矛竿の製作
        紀伊(彦狭知命) 笠・盾の製作           
    出雲(櫛明玉命) 玉の製作
    筑紫(天目一箇命)金属器の製造
    伊勢(天目一箇命)金属器の製造
 これをみればわかるように、諸国の忌部は天太玉命を遠祖とする中央忌部に率いられ、各種の神具の生産に従事していました。筑紫や伊勢の己部が金属器の製造に関係しているのは、神具としての金属器の製造です。その職務の一つとして、沖ノ島の祭祀遺跡にみられるような、金属製(金・銀・銅)ひながた品の製作などもありました。沖ノ島は、対外関係を中心とした、国家的祭祀が、四世紀以後行なわれた所で、伊勢神宮の創始も6世紀頃とされます。沖ノ島の中心的祭祀者は、宗像氏ですが、沖ノ島の祭祀遺物の中には、忌部氏によってつくられたものもあったはずです。各忌部氏が分担しながら国家の祭礼に使う神具の作成調達に当たったことが考えられます。

 このように、忌部氏は神具製作者としての性格が濃いようです
 紀伊や讃岐の忌部氏ように盾や矛竿の製作者として、軍事面を支える活躍したものもあったでしょう。讃岐の国から貢上された1244本の矛竿が、すべて、神具としての矛竿に使われたとは思えません。中には、軍事的な矛竿として利用されたものもあったでしょう。
 讃岐は、気候が温暖で、樫などの照葉樹林の成育に適した土地ですから、矛竿の貢上がされるようになったのでしょう。弥生時代の唐古遺跡から出土した農耕具の大部分は樫でつくられているといいます。材質の堅い樫は、農具として、最適だったようです。 讃岐忌部氏は、矛竿の材料である樫や竹を求めて、讃岐の地に入り、原料供給地のとなる周辺の山野を支配下に置いていったのでしょう。

 このように讃岐忌部は、中央への貢納品として、樫木の生産にあたる一方で、周辺農民の需要に応じるための、農具の生産も行なっていたとは考えられます。この讃岐忌部の居住地は、粟井神社(観音寺市粟井町)の周辺であり、条里制の基準になったとされる菩提山の山麓部にあたります。ここに、矛竿をはじめとした、木工業従事者の忌部のむらが存在したと研究者は考えています。

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 どちらにしろ讃岐忌部氏は、木材伐採や加工、建築などの他にも金属精製などの技術者集団の性格をもっていたことがうかがえます。その技術を応用すれば、神社もつくれたことでしょう。
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粟井神社(観音寺市)
忌部氏の結びつきは「血縁ではなく技術」でつながっていたと考える研究者もいます。
忌部氏は血縁ではなく技術者集団(テクノクラート)だったのではないかというのです。つまり、様々な部族や渡来人が合流していきながら、忌部を形成していったと考えるのです。
例えば「続日本紀」には讃岐国にいた百済からの渡来の鍛冶師集団である韓鍛冶師部が神奈川に集団で移住し、この地に「寒川」を形成したとの記述があります。忌部グループの一員として、讃岐からやってきた鍛冶集団が、茅ヶ崎の海岸の砂浜から砂鉄を取り出して製鉄をしたのではないかというのです。

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 讃岐忌部氏は木・金属の技術者集団?
 讃岐忌部氏が木工技術者の集団であるなら、彼らの氏神である粟井神社(観音寺市)や大麻神社(善通寺市)の社殿は、忌部氏自らの手でつくったことでしょう。

大麻神社随身門 古作両神之像img000024

ちなみに、大麻神社には平安時代後期につくられたとされる、祭神の天太玉命木像と彦火瓊々杵命木像があります。また、讃岐で最も古いと考えられる木造の獅子頭もありました。これらは木工技術者だった忌部氏の手によるものではないのでしょうか。  

大麻神社 img000023

 現在の琴平の町には、一刀彫りの職人が数多く活躍しています。この職人もひょっとすると大麻神社につながる忌部氏の木造技術者集団の流れを引くものではないか、一刀彫りの中に忌部氏の伝統が生きているのではと と考えたりすると、楽しくなってきます。
讃岐忌部氏は、どこからやって来たのでしょうか?
  大麻神社の由来には次のように記されています。
 阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。
 それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっているというのです。これも三豊の粟井方面から大麻山周辺への一族の「移住・進出」といいます。
 

0cf3f03aawai粟井神社
 粟井神社は、延喜神名式に「讃岐国刈田郡粟井神社」と記されています。
『続日本後紀』承和九年十一月乙卯条に「讃岐国粟井神預二之名神」と見え、『三代実録』貞観六年十月十五日条に「授二讃岐国正六位上粟井神従五位下一」とある古社です。祭神は忌部の祖で、阿波の一宮である大麻神社と同じ天太玉命でした。いまは社域全体にあじさいが植えられて「あじさいの神社」としても有名です。
考古学的には、粟井町射場には射場1~9号墳があります。また、粟井町から木の郷町にかけては母神1~39号墳が並び、木の郷町には十数基から成る百々古墳群もあります。6~7世紀にかかて、この地域には古墳が群集し、人口が急増し、過密な地域だったことを示します。この古墳群の中には忌部氏のものもあるのではないでしょうか。ここから大麻山の山麓へ移住が計画されたのかもしれません。

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大麻神社参道(善通寺市大麻町)

 大麻神社(善通寺市)は、延喜神名式に「讃岐国多度郡大麻神社」とあります。
『三代実録』貞観七年十月九日条に、「讃岐国従五位下大麻神授二従五位上」と見え、『日本紀略』延喜十年八月二十三日条に「授二讃岐国大麻神従四位」と記された古社です。祭神は、こちらも天太玉命でした。

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大麻神社
 考古学的には、大麻神社周辺には大麻神社周辺古墳群があります。また、大麻山の東側山腹には、小型の積石型の前方後円墳も数多くありました。積石型というタイプに阿波との共通点を指摘する研究者もいます。このように大麻神社の周辺にはかなりの数の古墳があり、これらの被葬者が忌部氏の一族だったとすると、大麻神社周辺への忌部氏の進出は古墳時代後期に行われたことになります。

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大麻神社

 「大麻神社」の社伝には、次のような記述があります。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」
「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
とあり、忌部氏の阿波からの進出と毎年800本の矛竿献上がここにも記されています。
大麻神社周辺に移住してきた忌部氏は、背後の山を甘南備山としてあがめるとともに、この山の樫などを原料にして木材加工を行ったのでしょう。近世に金毘羅大権現が台頭してくるまでは、この山は忌部氏の支配下にある大麻山だったのです。
 忌部氏の痕跡がうかがえる神社や地名を列挙しておきます。
三豊市高瀬町の麻部神社、
三豊市豊中町の忌部神社
高瀬町麻(あさ)、同町佐股(麻またの意味)、仲多度郡まんのう町佐文(さぶみ、麻分の意味)
香川県神社誌(上巻)には、
「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」
高瀬町誌に
「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたが、その後高瀬町上麻に転住し現在に至る」

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大麻神社の狛犬

 最後に、善通寺の佐伯氏との関係を見ておきましょう   
 矛竿の貢納などの管理を行っていたのは誰なのでしょうか。西讃地域では「讃岐国造」として佐伯氏が挙げられます。佐伯氏は軍事的色彩の濃い氏族といわれます。そういう意味では、武器としての矛竿貢納の管理者としては、最適です。こうして、矛竿の生産者・忌部氏と佐伯氏の関係は古くからあったと考えられます。その関係を通じて、佐伯氏がその大麻山東麓への忌部氏の一部移住を先導したとも思えてきます。こうして国造の佐伯氏の支持と承認をえて、忌部氏は粟井から笠田・麻地域へと勢力を拡大していったのではないでしょうか。
 しかし、古墳時代後期になると、三豊平野では大野原を基盤とする刈田氏が突然台頭します。そして、今まで目にすることのなかったかんす塚・角塚・平塚・椀貸塚等の大型巨石墳を次々と造営します。そして、この時期に、忌部氏の本拠地である粟井地区は、刈田氏の勢力圏と浬を接するようになります。そして、律令制の郡郷制度の中では、刈田氏の支配下に入れられてしまうのです。
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参考文献
羽床正明 忌部氏と琴平宮について      ことひら 平成7年 琴平山文化会

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