瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:志度寺

 
志度寺縁起 6掲示分
志度寺縁起
志度寺には貴重な縁起絵巻が何巻もあることは以前にお話ししました。この絵巻が開帳などで公開され、そこで絵解きが行われていたようです。志度寺には勧進聖集団があって寺院の修造建築のために村々を勧進してまわったと研究者は考えています。彼らの活動を、今回は見ていくことにします。テキストは「谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起152P 聖と唱導文芸」です。
   この本の中で谷原博信氏は、次のように指摘します。
「志度寺に伝わる縁起文を見ると唱導を通して金銭や品物を調達し、寺の経済の力となった下級の聖たちの存在のあったことが読みとれる。
・この寺には七つもの縁起があって、いずれも仏教的な作善を民衆に教えることによって、蘇生もし、極楽往生もできると教説したようだ。
  志度寺縁起 白杖童子縁起・当願暮当之縁起
             白杖童子蘇生縁起
「白杖童子蘇生縁起」のエッセンスを見ておきましょう。
山城国(京都)の淀の津に住む白杖という童子は馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた。妻も子もない孤独な身の上で世の無常を悟っていた。心ひそかに一生のうち三間四方のお寺を建立したいとの念願を抱いて、着るものも着ず、食べるものも食べず、この大願を果たそうとお金を貯えていた。ところが願い半ばにして突然病気でこの世を去った。冥途へ旅立った童子は赤鬼青鬼につられ、閻魔庁の庭先へ据えられた。ご生前の罪状を調べているうちに「一堂建立」の願いごとが判明した。閻魔王は感嘆して「大日本国讃岐国志度道場は、是れ我が氏寺観音結果の霊所也。汝本願有り、須く彼の寺を造るべし」
 こういうことで童子は蘇生の機会を得て、この世に生還した。その後日譚のあと、童子は志度寺を再興し、極楽に往生した。
要点を整理しておくと
①京都の童子・白杖、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた
②貧しいながら童子は、お寺建立の大願を持ちお金を貯めていた
③閻魔大王のもとに行ったときに、そのことが評価され、この世に蘇らされた
④白杖は志度寺を建立し、極楽往生を遂げた。

 さて、この縁起がどのようなとき、どのような所で語られていたのでしょうか?
志度寺の十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵の開示が行われ絵解きが行われていたと研究者は推測します。そこには庶民に囚果応報を説くとともに、寺に対する経済的援助(寄進)が目的であったというのです。前世に犯したたかも知れない悪因をまぬかれる「滅罪」ためには、仏教的作善をすることが求められました。それは「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」などです。
「白杖童子蘇生縁起」では、貧しい童子が造寺という大業を成したことが説かれています。
「童子にできるのなら、あなたにもできないはずはない。どんな形でもいいのです。そうすれば、現在の禍いや、来世の世の地獄の責苦からのがれることができますよ」
という勧進僧の声が聞こえてきそうです。
 志度寺縁起や縁起文も、それを目的に作られたものでしょう。そう考えると、志度寺の周りには、こうした物語を持ち歩いた唱導聖が沢山いたことになります。これは志度寺だけでなく、中世の白峰寺・弥谷寺・善通寺・海岸寺なども勧進僧を抱え込んでいたことは、これまでにもお話しした通りです。
 中世の大寺は、聖の勧進僧によって支えられていたのです。
高野山の経済を支えたのも高野聖たちでした。彼らが全国を廻国し、勧進し、高野山の台所は賄えたともいえます。その際の勧進手段が、多くの死者の遺骨を納めることで、死後の安らかなことを民衆に語る死霊埋葬・供養でした。遺骨を高野山に運び、埋葬することで得る収入によって寺は経済的支援が得られたようです。
 寺の維持管理のためには、定期的な修理が欠かせません。長い年月の間は、天変地異や火災などで、幾度となく寺が荒廃します。その修理や再興に多額の経費が必要でした。パトロンを失った古代寺院が退転していく中で、中世を生き延びたのは、勧進僧を抱え込む寺であったのです。修験者や聖なしでは、寺は維持できなかったのです。
 志度の道場が、伊予の石手寺とともに修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼といったいわゆる民間宗教者の四国における一大根拠地であったことを押さえておきます。
志度寺は「閻魔王の氏寺」ともされてきました。そのため「死度(寺)」とも書かれます。
 死の世界と現世との境(マージナル)にあって、補陀落信仰に支えられた寺でした。6月16日には、讃岐屈指の大市が開かれて、近隣の人々が参拝を兼ねてやってきて、賑わったようです。志度寺の前は海で、その向こうは小豆島内海や池田です。そのため海を越えて、小豆嶋からも志度寺の市にやってきて、農具や渋団扇、盆の準備のための品々を買い求めて帰ったと云います。特に島では樒の葉は、必ずこの市で買い求めたようです。逆に、志度寺周辺からは多くの人々が、小豆島の島八十八所巡りの信者として訪れていたようです。島の内海や池田の札所の石造物には、志度周辺の地名が数多く残されています。
どちらにしても志度寺の信仰圈は、小豆島にまでおよび、内陸部にあっては東讃岐を広く拡がっていました。特に山間部は、阿波の国境にまで及んでいます。逆に、先達達に引き連れられて、四国側の人々は海を渡って、小豆島遍路を巡礼していたのです。その先達を勤めたのも勧進僧たちだったと私は考えています。
盆の九日には、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
 十日に参ると万日参りの功徳があるとされます。この日には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来る人達がいました。参詣者は、これを買って背中にさしたり、手に持って家に返ります。これに先祖の霊が乗りうつっていると伝えられます。別の視点で見ると、先祖の乗り移った樒を、志度寺まで迎えに来たとも云えます。そのため帰り道で、樒を地面などに置くことは厳禁でした。その樒は、盆の間は家の仏壇に供えて盆が終わる15日が来ると海へ流します。つまり、先祖を海に送るのです。ここからも志度寺は、海上他界信仰に支えられた寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。

  以上をまとめておきます。
①志度寺は、海上他界信仰に支えられた寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていた。
②そこでは仏教的な作善で、蘇りも、極楽往生もできると説教されるようになった。
③そのため志度の道場は、修験者、聖、唱導師、行者、優婆塞、巫女、比丘尼などの下級の民間宗教者の一大根拠地となっていった。
④彼らは開帳や市には、縁起や絵巻で民衆教化を行って、勧進活動を進めた。
⑤そのため志度寺には、絵巻物が何巻も残っている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起152P 聖と唱導文芸
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   前回お話ししたように行場は孤立したものではなく、一定の行が終わると次の行場へと移っていくものでした。修行地から次の修行地へのルートが辺路と呼ばれ、四国辺路へとつながっていくと研究者は考えているようです。今回は古代・中世の四国辺路とはどんなものであったのかを史料で見ていくことにします。テキストは、「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」です。

12世紀前半に作られた『今昔物語集』には仏教説話がたくさん収録されています。その中には四国での辺路修行を伝える物もあります。『今昔物語集』31の14、「通四国辺地僧行不知所被打」は、次のように始まります。

今昔、仏の道を行ける僧、三人伴なひて、四国の辺地と云は、伊予・讃岐・阿波・土佐の海辺の廻也、其の僧共、其(そこ)を廻けるに、思ひ懸けず山に踏入にけり。深き山に迷ひにければ、海辺に出む事を願ひけり。

意訳変換しておくと
 今は昔、仏道の修行をする僧が三人、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っていた。この僧たちがある日道に迷い、思いがけず深い山の中に入り込んでしまい、浜辺に出られなくなってしまった。

 ここには「仏道の修行をする僧」が、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っている姿が記されています。

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後白河法皇撰『梁塵秘抄』巻2の300には、次のように記されています。  
 われらが修行せしやうは、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ、常に踏む

板笈(いたおい)とは? 意味や使い方 - コトバンク
笈(おい)と修行者
ここからは、笈を背負つた修行者がその衣を潮水に濡らしながら、四国の海辺の道を巡り、次の修行地をめざしている姿が記されています。確かに阿波日和佐の薬王寺を打ち終えて、室戸へ向かう海岸沿いの道は、海浜の砂浜を歩いていたようです。太平洋から荒波が打ち寄せる海岸を、波に打たれながら、砂に足を取られながらの難行の旅を続ける姿が見えてきます。
『梁塵秘抄』巻2の298には、次のようにも記します
聖の住所はどこどこぞ
大峯  葛城  石の槌(石鎚)
箕面よ 勝尾よ 播磨の書写の山
南は熊野の那知  新官
ここには、畿内の有名な山岳修行地とともに石の鎚(石鎚山)があげられています。石鎚山も古くから修験者の行場であったことが分かります。ちなみに石鎚山と並ぶ阿波剣山の開山は近世後期で、それまでは修験者たちの信仰対象でなかったことは、以前にお話ししました。
続いて『梁塵秘抄』巻2の310には、次のように記します。
四方の霊験所は
伊豆の走湯  信濃の戸隠  駿河の富士の山
伯者の大山  丹後の成相とか
土佐の室戸  讃岐の志度の道場とこそ聞け
ここには、四国の霊山はでてきません。出てくるのは、土佐の室戸と讃岐の志度の海の道場(行場)です。修験者の「人気行場リスト」には、霊山とともに海の行場があったことが分かります。
それでは「海の行場」では、どんな修行が行われていたのでしょうか
 海の行場を見る場合に「補陀落信仰」との関係が重要になってくるようです。「補陀落信仰」の行場痕跡が残る札所として、室戸岬の24番最御崎寺、足摺岬の38番金剛福寺、そして補陀落山の山号を持つ86番志度寺を見ていくことにします。
 補陀落信仰とは『華厳経』などに説かれる観音信仰のひとつです。善財童子が補陀落山で観音菩薩に出会ったとされます。ここから補陀落山が観音菩薩の住む浄土で、それは南の海の彼方にあるとされました。玄奘の西域の中には、補陀落山という観音浄土は、南インドの海上にあるとされています。それが、中国に伝わってくると、普(補)陀落は中国浙江省舟山群島の島々だとされ、観音信仰のメッカとなります。これが日本では、熊野とされるようになります。
 『梁塵秘抄』巻第2の37に、次のように記されています。

「観音大悲は船筏、補陀落海にぞ うかべたる、善根求める人し有らば、来せて渡さむ極楽へ」

ここからは観音浄土の補堕落へ船筏で渡海するための聖地が、各地に現れていたことが分かります。その初めは、熊野三山の那智山でした。平安時代後期になると阿弥陀の極楽浄土や弥勒の都率浄土などへの往生信仰が盛んになります。それにつれて観音浄土への信仰も高まりをみせ、那智山が「補陀落山の東の門」の入口とされます。そのため、多くの行者が熊野那智浦から船筏に乗って補陀落渡海します。これが四国にも伝わります。
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観音浄土めざしての補陀落渡海
補堕落渡海の場所として選ばれたのは、大海に突きだした岬でした。
その点では、四国の室戸と足摺は、補堕落渡海のイメージにぴったりとする場所だったのでしょう。34番札所の最御崎寺が所在する室戸崎に御厨洞と呼ばれる大きな洞窟があります。ここは空海修行地として伝えられ、当時から有名だったようです。『梁塵秘抄』巻2の348には「‥・御厨の最御崎、金剛浄土の連余波」とあるので、平安時代後期には、霊場として名が知られていたことが分かります。
 『南路志』には、次のように記されています。

「補陀落山に通じて、常に彼の山に渡ることを得ん、窟内にまた本尊あり、西域光明国如意輪馬璃聖像なり」

ここからは室戸の洞窟が、補陀落山への人口と考えられていたことが分かります。ここにはかつて石造如意輪観音が安置されていました。

室戸 石造如意輪観音
如意輪観音半跏像(国重要文化財 最御崎寺)

この観音さまを「平安時代後期の優美な像で、異国の補陀落を想起させるには、まことにふさわしい像」と研究者は評します。この如意輪観音像は澄禅『四国辺路日記』には、御厨洞に安置されていたことが記されていて、補陀落信仰に関わるものと研究者は考えています。
 室戸は、以前にお話ししたように空海修行地として有名で、修験者には人気の行場だったようです。そこで行われたのは「行道」でした。行道とは、どんなことをしたのでしょうか?
① 神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回るのも行道。(小行道)
② 円空は伊吹山の「平等(行道)岩」で、百日の「行道」を行っている。
③ 「窟籠もり、木食、断食」が、行道と併行して行われる場合もある。
④ 断食をしてそのまま死んでいく。これが「入定」。
⑤ 辺路修行終了後に、観音菩薩浄土の補陀落に向かって船に乗って海に乗り出すのが補陀落渡海
  一つのお堂をめぐったり、岩をめぐるのが「小行道」です。
小さな山があると、山をめぐって行道の修行をします。室戸岬の東寺と西寺の行道岩とは約12㎞あります。この間をめぐって歩くような行道を「中行道」と名づけています。四国をめぐるような場合は「大行道」です。こうして、行道を重ねて行くと、大行道から四国遍路に発展していくと研究者は考えているようです。

 室戸岬で行われていた「行道」について、五来重は次のように記します。
室戸の東寺・西寺
① 室戸には、室戸岬に東寺(最御崎寺)、行当岬に西寺(金剛福寺)があった。
② 西寺の行当(道)岬は、今は不動岩と呼ばれている所で、そこで「小行道」が行われていた。
③ 西寺と東寺を往復する行道を「中行道」、不動岩(行当(道)岬)の行道が「小行道」。
④ 行道の東と西と考えて東寺・西寺と呼ばれ、平安時代は東西のお寺を合わせ金剛定寺と呼んでいた。
 密教では金胎両部一体だと言葉では言われます。それを辺路修行では、言葉や頭でなく躰で実践します。それは実際に両方を命がけで歩いて行道するのが修行です。こうして、西寺を拠点に行道岬に行って、金剛界とされる不動岩の周りを何百回も真言を唱えながら周り、さらには、不動明王の見守る中で海に向かって瞑想する。これを何日も繰り返す。これが「小行道」だったと研究者は考えています。さらに「中行道」は、東寺(最御崎寺)との間を何回も往復「行道」することになります。
   東寺では窟を修行の場所にして、洞窟をめぐったと考えられます。洞穴を胎蔵界、突き出たような岩とか岬とか山のようなところを金剛界とします。男と女というように分けて、両方をめぐることによって、金剛界・胎蔵界が一つになるのが金胎両部の修行です。
    
 弘法大師行状絵詞に描かれた空海の修行姿を見ておきましょう。

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金剛定(頂)寺に現れた魔物たちと瞑想中の空海
詞書には次のように記します。
  室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
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楠に仏を彫り込む空海

ここには、室戸での修行のために金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺と行場は遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、岩籠もりを行っていたことがうかがえます。
  辺路修行では、修行の折り目折り目には、神に捧げるために不滅の聖なる火を焚きました。五来重の説を要約すると次のようになります。
① 阿波の焼山寺では、山が焼けているかとおもうくらい火を焚いた。だから焼山寺と呼ばれるようになった。焼山寺が辺路修行の聖地であったことをしめす事例である。
②  室戸岬でも辺路修行者によって不滅の火が燃やされた。そこに、後に建立されたのが東寺。
③ 聖火は、海のかなだの常世の祖霊あるいは龍神に捧げたもの。後には観音信仰や補陀落伝説と結びついた。
④ これが後の山伏たちの柴灯護摩の起源になる。
⑤ 山の上や岬で焚かれた火は、海民たちの目印となり、燈台の役割も果たし信仰対象にもなる。
⑥  辺路の寺に残る龍燈伝説は、辺路修行者が燃やした火
⑦ 柳田国男は「龍燈松伝説」で、山のお寺や海岸のお寺で、お盆の高灯龍を上げるのが龍燈伝説のもとだとしているが、これは誤り。
こうした行を重ねた後に、観音菩薩の浄土とされる南方海上に船出していったのです。
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー) | ひとでなしの猫

 足摺岬の38番金剛福寺にも補陀落信仰の痕跡が残ります。
この寺には嵯峨天皇の勅額とされる「補陀落東門(補阿洛東門ふだらくとうもん)」が残されています。

金剛福寺 補陀落門
勅額とされる補陀落東門
これは、弘仁13年(822)に、空海が金剛福寺を開創した当時に嵯峨天皇より賜ったものと伝えられます。
また『土佐国雌陀山縁起』(享禄五年:1532)の金剛福寺の縁起は、次のように記します。

平安時代中期の長保年間(999~04)頃に賀東上人が補陀落渡海のために難行、苦行の末に徳を積んで、その時をまっていた。ところが弟子の日円坊が奇瑞によって、先に渡海してしまった。上人は五体投地し涙を流したと

 ここからも足摺岬が補陀落渡海のための「辺路修行地」であったことが分かります。
 鎌倉時代の『とわずがたり』の乾元元年(1302)は次のように記します。
かの岬には堂一つあり。本尊は観音におはします。隔てもなく坊主もなし、ただ修行者、行かきかかる人のみ集まりて、上もなく下もなし。
ここからは、この頃の足招岬(金剛福寺)が観音菩薩が安置される本堂があるだけで、それを管理する住職も不在で、修行者や廻国者が修行を行う行場だったことが分かります。
その後、南北朝時代の暦応五年(1342)に現本尊が造立されます。

木造千手観音立像及び両脇侍立像(県⑨) - 土佐清水市

千手観音立像(秘仏)
檜材による寄木造りで、平成の修理の際に像内から発見された墨書銘から暦応5年(1342)の作と断定。
この本尊は熊野の補陀落山寺と同じ三面千手観音です。

補陀洛山寺(ふだらくせんじ) 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町 | 静地巡礼
補陀落山寺の三面千手観音
ここからは、熊野行者によって補陀落信仰が持ち込まれたことがうかがえます。こうして、足摺岬には補陀落渡海を目指す行者が集まる修行地になっていきます。このため中世には足摺岬周辺には、修験者たちが色濃く分布し、独自の宗教圏を形作って行くようになります。その中から現れるのが南光院です。南光院は、戦国時代に長宗我部元親のブレーンとなって、讃岐の松尾寺金光院(金毘羅大権現)の管理運営を任されます。
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志度寺の扁額「補陀落山」
86番札所の志度寺は、山号を「補陀落山」と称しています。
しかし、この寺が補堕落渡海の修行地であったことを示す直接的な史料はないようです。
『志度道場縁起文」7巻の内の『御衣本縁起』の冒頭部分を見ておきましょう。
近江の国にあった霊木が琵色湖から淀川を下り、瀬戸内を流れ、志度浦に漂着し、推古天皇33年の時に、凡菌子尼法名智法が草庵に引き入れ安置した。その後、24・5歳の仏師が現れ、霊木から一日の内に十一面観音像を彫りあげた。その時、虚空から「補陀落観音やまします」という大きな声が2度すると、その仏師は忽然と消えた。この仏像を補陀落観音として本尊とし、一間四面の精合を建立したのが志度寺の始まりである。この仏師は土師黒王丸で、閻魔大王の化身でぁり、薗子尼は文殊書薩の化身であった。

P1120221志度寺 十一面観音
志度寺の本尊十一面観音
ここからは、志度寺本尊の十一面観音が補陀落信仰と深く結びついていいることが分かります。しかし、この志度浦から補陀落渡海を行った記録は見つかっていないようです。
P1120223
          志度寺の本尊十一面観音
  以上、補陀落渡海の痕跡を残す四国の行場と四国霊場の関係を見てきました。これ以外にも、讃岐には海上に筏を浮かべて瞑想修行を行っていた修行者がいたことを伝える記録が、いくつかの霊場札所に残っています。例えば、空海誕生地説の異説を持つ海岸寺(多度津町白方)や、宇多津の郷照寺などです。これらと補陀落渡海とを直接に結びつけることは出来ないかも知れませんが、海での修行の一つの形態として、突き出た半島の岩壁の上なども、行場の最適地とされていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田和昭  四国の辺地修行  四国へんろの歴史10P」
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「寺々由来」の成立時期を探る手掛りを、研究者は次のように挙げていきます。
 この書には、松平家の御廟所法然寺のことが書かれていません。前回もお話ししたように仏生山法然寺は那珂郡小松庄にあった法然上人の旧蹟生福寺を、香川郡仏生山の地に移したものです。建設は寛文八(1668)年に始まり、2年後の正月25日に落慶供養が行われています。その法然寺がこの書には登場しないので、寛文十(1670)年より前に成立していたと推測できます。ところが、ここで問題が出てきます。それはこの時に創建されていたはずの寺でも、この書には載せられていない寺があるのです。それを研究者は次のように指摘します。
①「仏生山條目」の第23條に「頼重中興仁天令建立之間、為住持者波為報恩各致登山法夏可相勤之」と定められた浄上宗の國清寺・榮國寺・東林寺・真福寺。
②頼重が万治元年に寺領百石を寄進し、父頼房の霊牌を納め、寺領三百石を寄進して菩提寺とした浄願寺
③明暦四年に、頼重が百石寄進した日光門跡末天台宗蓮門院
④頼重が生母久昌院の霊供料として寛文八年に百石を寄進した甲州久遠寺末法花宗廣昌寺
このように頼重に直接関係する寺々が、この書には載せられていないのです。これをどう考えればいいのでしょうか? その理由がよく分りません。どちらにしても、ここでは、法然寺の記載がないからと言って、本書成立を寛文十年(1670)以前とすることはできないと研究者は判断します。

結論として、本書の成立は寛文十年よりやや遅れた時期だと研究者は考えているようです。
その根拠は、東本願寺末真宗寒川郡伝西寺の項の「一、寺之證檬(中略)十五代常如上人寺号之免書所持仕候」という記述です。ここに出てくる常如という人物は、先代琢如が寛文11年4月に没した後を受けた人になります。(「真宗年表」)。そうすると、この書が成立した上限は、それ以後ということになります。また下限は、妙心寺末禅宗高松法昌寺は延宝三年十一月に賞相寺と改められます(「高松市史」)。しかし、この書には、法昌寺の名で載っています。また、延宝四年に節公から常福寺の号を与えられて真宗仏光寺派に属した(「讃岐国名勝国合」)絲浜の松林庵が載っていません。ここからは延宝2年頃までに出来たことが推測できます。

鎌田博物館の「諸出家本末帳」と「寺々由来書」を比較してみて分かることは? 
高松藩で一番古い寺院一覧表①「御領分中寺々由来書」を観てきましたが、これと「兄弟関係」にあるのが鎌田共済会図書館の②「諸出家本末帳」です。この書は昭和5年2月、松原朋三氏所蔵本を転写したことを記す奥書があります。しかし、原本が見つかっていません。この標題の下に「寛文五年」と割書されているのは、本文末尾の白峯寺の記事が寛文五年の撰述であるのを、本書全体の成立年代と思い違いしたためで、本文中には享保二(1717)年2月の記事があるので、その頃の成立と研究者は判断します。成立は、「由来書」についで、2番目に古い寺院リストになります。両者を比べて見ると、内容はほとんど同じなので、同じ原本を書写した「兄弟関係」にあるものと研究者は考えています。両者を比べてみると、何が見えてくるのでしょうか? まず配列について見ていくことにします。

寺由来書と本末帳1
由来帳と本末帳の各宗派配列
上が①の由来書、下が②の本末帳で、数字は所載の寺院数です。
①大きい違いは、「由来書」では浄土・天台・真言・禅・法華・律・山伏・一向の順なのに、「本末帳」では、一向が禅宗の次に来ていること。
②真宗内部が「由来書」では西本願寺・東本願寺・興正寺・東光寺・永応寺・安楽寺の順なのに、「本末帳」では興正寺・安楽寺・東光寺。永応寺・西本願寺・東本願寺の順序になっていること
これは「本末帳」は一度バラバラになったものを、ある時期に揃えて製本し直した。ところが欠落の部分もあって、元の姿に復元できなかったと研究者は考えています。
③掲載の寺院数は、両書共に浄土8・天台2・律12・時宗1・山伏1です。真言は105に対して59、禅宗は7と5、 真宗は129に対して121と、どれも「本末帳」の方が少いようです。
④欠落がもっとも多いのは真言宗で、仁和寺・大覚寺とも「本末帳」は「由来書」の約半数しかありません。これも欠落した部分があるようです。
「由来書」と「本末帳」の由緒記述についての比較一覧表が次の表3です。
由来書と本末帳
「由来書」と「本末帳」の由緒記述の比較
上下を比べると書かれている内容はほとんど同じです。違いを見つける方が難しいほどです。ただ、よく見ると、仁和寺末香東郡阿弥陀院(岩清尾八幡別当)末寺六ヶ寺の部分は配列や記述に次のような多少の違いがあります。
①の円満寺については「由来書」にある「岩清尾八幡宮之供僧頭二而有之事」の一行が「本末帳」にはありません。
③の福壽院について「本末帳」には、「はじめ今新町にあり、寛文七年、中ノ村天神別当になった」と述べていますが「由来書」には、それがありません。
⑤の薬師坊について「由来書」には「原本では記事が消されている」と断書しています。「本末帳」では、そこに貼紙があり、「消居」というのはこの事を指すようです。
⑥の西泉坊については、「由来書」には記事がありますが、「本末帳」にはありません。
全般にわたって見ると、多少の違いがありますが、内容は非常ににていることを押さえておきます。

研究者は表4のように一覧化して、両者の異同を次のように指摘します。
由来書と本末帳3

①志度寺の寺領は江戸時代を通じて70石でした(「寺社記」)。ところが「由来書」は40石、「本末帳」は50石と記します。「由来書」成立の17世紀後半頃は、40石だったのでしょうか。
②真言宗三木郡浄土寺の本尊の阿弥陀如来について「由来書」は安阿弥の作と記します。「本末帳」は「安阿弥」の三字が脱落したために「本尊阿弥陀之作」となってしまっています。
④法花宗高松善昌寺について、「由来書」は「日遊と申出家」の建立、「本末帳」は「木村氏与申者」の建立と記します。建立者がちがいます。
⑤真宗南条郡浄覚寺は「由来書」は「開基」の記事だけですが、「本末帳」では「開基」とともに「寺之證檬」とあります。
⑥の真宗北条郡教善寺(「本末帳」は教専寺)、⑦の真宗高松真行寺の例を見ても、真宗寺院の記事は、ほとんど例外なく「開基」と「寺之證拠」の二項があります。
⑧真宗高松覚善寺、⑨の徳法寺ともに「本末帳」では「寺之證拠」が貼紙で消されています。なお真宗の部で、「由来書」では例外なく「一、開基云々」とあるのを「本末帳」では「一、寺開基云々」とし、また「由来書」では「以助力建立仕」を「本末帳」では「以助成建立仕」という表現になっています。以上から、州崎寺の本は鎌田図書館本の直接の写しではないと研究者は判断します。
以上をまとめておくと
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、寛文九(1668)年に高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために同時期に書上げ、藩に提出させたものとされてきた。
②法然寺が載せられていないので、法然寺完成以前に成立していたともされてきた。
③しかし、法然寺完成時には姿を見せていた寺がいくつか記載されていない。それは、松平頼重に関連する寺々である。
④以上から法然寺完成の1670年以前に成立していたとは云えない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
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清少納言 鼓楼と清塚

金毘羅さんの大門の手前に時を告げた鼓楼が建っています。その下に大きな石碑があります。玉垣の向こうにあるのでほとんどの参拝客は、目の前の大門を見上げ、この石碑に気づく人はないようです。  立札には次のように書かれています。
清少納言 鼓楼と清塚立札

ここには清少納言が金毘羅さんで亡くなったこと、その塚が出てきたことを記念して建てられた石碑であることが記されます。清少納言は『枕草子』の作者であり、『源氏物語』を著した紫式部のライバルとして平安朝を代表する才女で、和歌も残しています。どうして阿波と讃岐で清少納言の貴種流離譚が生まれ、彼女の墓が金毘羅に作られたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年です。

 晩年の清少納言は地方をさまよって、亡くなったと云われるようになります。
そのため西日本の各地では彼女のお墓とそれにまつわる「清少納言伝説」が作られるようになります。才女が阿波・讃岐をさすらったというのは、貴種流離譚の一つで、清少納言の他に、小野小町や和泉式部の例があります。実際に彼女たちが地方を流浪したという事実はありません。しかし、物語は作られ広がっていくのです。それは、弘法大師伝説や水戸黄門伝説と同じです。庶民がそれを欲していたのです。
 それでは、才女の貴種流離譚を語ったのはだれでしょうか。
鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳を説くため方便に利用されるようになります。彼女たちを登場させたのは、地方を遊行する説経師や歌比丘尼や高野聖たちでした。その説話の中心拠点が播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺だったようです。式部や小町の貴種流離譚に遅れて登場するのが清少納言です。小野小町と和泉式部と清少納言は才女トリオとして貴種流離譚に取り上げられ、物語として地方にさすらうようになります。これは弘法大師伝説や水戸黄門の諸国漫遊とも似ています。その結果として清少納言が各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。それは、中世から近世にかけてのことだと研究者は考えているようです。清少納言の墓と伝えられる「あま塚」と「清塚」(きよづか)が各地に残るのは、このような背景があるようです。
四国で最も古いとされている清少納言の墓・あま塚は、阿波鳴門にあります。

清少納言 尼塚鳴門

徳島県鳴門市里浦に現存している「あま(天・尼)塚」は、清少納言の墓として広く知られています。ここではその由来が次のように伝えられます。
清少納言は、晩年に父・清原元輔(きよはらのもとすけ)の領地とされる里浦(鳴門市)に移住した。ところが地元の漁師たちに辱(はずかし)めを受けた清少納言は、それを悲しんで海に身を投げて亡くなってしまった。このあと住民のあいだに目の病気が広まり、清少納言のたたりではないかと恐れられるようになった。住民たちは、清少納言の霊をしずめようと塚を建てた。

「あま塚」の名は、女性を表わす「尼塚」を意味したといわれています。後世になってあま塚のそばに「清少庵」が建てられ、そこに住んだ尼が塚を守り供養したというのです。

 しかし、あま塚は清少納言の墓ではなく、もともとは別人のものという説もあります。
①ひとつは大アワビをとって海で命を落とした海人(あま。漁民)の男挟磯(おさし)をまつったとする「海人塚」説
②二つ目は、鎌倉時代に島流しの刑に処された土御門上皇をまつったとする「天塚」説です。
ところが江戸時代に入ると、あま塚は清少納言の墓として有名になっていきます。そして、明治以後の皇国史観では②の土御門上皇をまつったとする「天塚」説で戦前までは祀られていたようです。いまでは里浦にある観音寺があま塚を「天塚」という名で管理し、清少納言の墓として一般公開しています。
清少納言 天塚堂

この「あま塚」の①「海人塚」説をもう少し詳しく見ていきましょう
『日本書紀』允恭天皇十四年九月癸丑朔甲子条には、海女男狭磯の玉取伝説が次のように記されています。
允恭天皇が淡路島で狩りをしたが島の神の崇りで獲物はとれなかった。神は明石沖の海底の真珠を要求し、要求が満たされれば獲物はとれると告げた。そこで海底でも息の長く続く海人、男狭磯(おさし)が阿波からよばれて真珠をとることになった。男狭磯は深い海底からに真珠の入った大鮑を胞いて海上に浮かび上がったが、無理をしたためか海上に浮かび上がった時には息絶えていた。天皇は男狭磯の死をいたみ立派な墓をつくった。今もその墓は、阿波にある。

これが男狭磯の玉取伝説です。ここからは古代阿波那賀郡には、潜女(もぐりめ)とよばれる海女の集団がいたことがわかります。また、阿波からは天皇即位の年だけに限って行われる大嘗祭に、いろいろな海の幸を神餞として献上していました。『延喜式』はその産物を、鰻・鰻鮨・細螺・棘甲扇・石花だと記しています。これらはいずれも加工されたもので、アワビ、アワビのすし、小さな巻貝のシタダミ、ウエ、節足動物のカメノテであったようです。これらも那賀郡には、潜女(もぐりめ)たちによって、獲られ加工されたものだったのでしょう。

明治32年に飯田武郷があらわした日本書紀の注釈書『日本書紀通釈』には、次のように記されています。
「或人云、阿波国宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村錫山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り。是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそ云り聞正すへし」

ここからは、里浦の尼塚を里人は男狭磯の基と言い伝えてきたことが分かります。ところが日本書紀を根拠とする尼(海女)塚は、別の伝説に乗っ取られていきます。

清少納言 天塚堂2
徳島県鳴門市 天塚堂と清少納言像

それが清少納言にまつわる次のような伝説です。
清少納言が阿波に向かう途中で嵐にあって、里浦に漂着した。都生まれのひなにはまれな美人ということで、たくさんの漁民が集まってきて情交を迫った。彼女が抵抗したため、 一人の男が彼女を殺して陰部をえぐって、それを海に投げ入れた。それから間もなくその海はイガイが異常にたくさんとれるようになった。彼女が抵抗した際に「見ている者は目がつぶれる」と叫んだことが現実となり、目をやられる漁民が続出した。そこで彼女の怨念を払うため建てた塚が、今もこの地に残っている。
 
この「清少納言復讐伝説」が生まれた背景には、鎌倉初期にできた『古事談』の中の次の説話が、影響を与えているようです。それは、こんな話です。
ある時、若い公達(きんだち)が牛車にのって清少納言の家の前を通りかかった。彼女の屋敷が荒れくずれかかっているのを見て「清少納言もひどいことになったものだ」などと口々に言い合って、鬼のような女法師(清少納言?)が、すだれをかきあげて、「駿馬の骨を買わずにいるのかい」と言ったのを聞いて、公達たちはほうほうの体で逃げていった。
  
ここでは清少納言は「鬼のような女法師」として描かれています。まるで怨霊一歩手前です。清少納言がタタリ神となっていくことが予見されます。また「女法師」から彼女は、晩年は出家して尼になったという物語になっていきます。それが尼(海女)と尼塚が結び付いて、清少納言の尼塚伝説が生まれたと研究者は考えているようです。
どうやら「あま塚」は「海女塚 → 尼塚 → 天塚」と祀る祭神が変化していったことがうかがえます。
尼塚は海のほとりにあったところから、イガイとも結び付くことになります。

清少納言 イガイ
イガイ
二枚貝のイガイ(胎貝)は、吉原貝、似たり貝、姫貝、東海婦人という地方名をもっています。これらの名前からわかるように、イガイの身の形は女性の陰部に似ています。そのため女性の陰部が貝になったのが、イガイという伝説が生まれます。
尼塚の清少納言伝説は、海をはさんだ対岸の兵庫県西宮市にも伝えられています。
そこでは恋のはかなさを嘆いた清少納言は、自らの手で陰部をえぐって海に身を投げたので、陰部がイガイになったいうものです。これは阿波の伝説が伝播したものと研究者は考えているようです。
清少納言の墓所(天塚堂)/徳島鳴門 観音寺(牡丹の寺・清少納言の祈願寺)

鳴門里浦の尼塚伝説は、もともとは日本書紀に記された男狭磯にまつわるものでした。
それが時代が下るにつれて、清少納言に置き換えられ、忘れられていきます。このようなことはよくあることです。寺の境内の池の中島にあった雨乞いの善女龍王が、時代の推移とともに、いつの間にか弁才天として祀られているのをよく目にします。庶民は、常に新しい流行神の登場を望んでいるのです。神様にもスクラップ&ビルドがあったように、伝承にも世代交代があります。それは何もないとこからよりも、今まであったものをリニューアルするという手法がとられます。

 鳴門の尼塚伝説が、清少納言伝説に書き換えられていくプロセスを見ておきます。
鳴門市里浦に伝承された海人男狭磯の玉取伝説は中世になると、となりの讃岐国の志度寺の縁起にとり入れられて志度寺の寺院縁起となります。以前に紹介しましたが、再度そのあらすじを記しておきます。この物語は藤原不比等や、唐王朝の皇帝も登場するスケールの大きいものです。
藤原不比等は父鎌足の冥福を祈って興福寺を建立した。その不比等のもとへ唐の皇帝から華原馨・潤浜石・面向不背の三個の宝玉が送られてくることとなった。宝玉をのせた遣唐舟が志度沖にさしかかると、海は大荒れとなって船は難破した。海神の怒りを鎮めるため、面向不背の玉を海に投げ入れると、海は静かになった。
このことを不比等に報告すると、不比等は宝玉を取り戻す決心をして志度へやってきた。不比等は宝玉を探せないまま、いたずらに三年が過ぎたがこの頃に一人の海女と知り合った。二人の間にはまもなく男の子が生まれた。不比等は宝玉のことを海女に話した。海女は海底から海神に奪われた宝玉を取り返すことに成功したが、胸を切り裂いて傷口に宝玉をかくした時の傷のため、海上に浮かび上がった時には息絶えていた。海女の子の房前は母を弔うため、石塔や経塚を建てたがそれは今も志度寺の境内に残っている
志度寺 玉取伝説浮世絵

                 海女玉取伝説の浮世絵(志度寺縁起)

ここからは日本書紀の阿波の玉取伝説が志度寺縁起にとり入れられていることが分かります。 この縁起の成立は、14世紀前半と研究者は考えているようです。志度寺縁起の玉取伝説は、謡曲にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大織冠」となり、近世には盛んにもてはやされ流布されていきます。また当時の寺では、高野聖たちは説法のため縁起を絵解に使用し、縁日などでは民衆に語り寄進奉納を呼びかけました。こうして志度寺の玉取伝説が有名になります。
 一方で鳴門里浦の尼塚の存在は次第に忘れ去られていきます。
 本来のいわれである玉取伝説は志度寺にうばわれて、古い尼塚が残るだけで、そのいわれもわからなくなったのです。そこで、室町後期~江戸前期の間に、清少納言の尼塚伝説が作り出されたようです。

いままでの経過を整理しておきます
①日本書紀の海女男狭磯の記述から海女(尼)塚が鳴門里浦に作られる
②しかし、その伝来は忘れられ、古墓の海女塚は尼塚と認識されるようになる
③代わって残された尼塚と、晩年は尼となったとされる清少納言が結びつけられる
④鎌倉時代以来、小野小町や和泉式部など和歌にひい出た女性は、仏の功徳をとくための方便に利用されて、説経師や歌比丘尼が地方を遊行して式部や小町の説話を地方に広めていった。
⑤その説話の中心の地が、播磨国書写山であり、のちに京都誓願寺であった。
⑥式部や小町の貴種流離諄の盛行によって、清少納言までが地方にさすらうこととなった
こうして清少納言は各地に現れ、その塚や石碑が建立されるようになります。

鳴門里浦の清少納言の尼塚伝説は、江戸時代になって金毘羅さんに伝えられます。
 金刀毘羅宮の「清塚」と呼ばれる石碑の謂われを見ておきましょう
 江戸時代の宝永7年(1710)、金刀毘羅宮の大門脇に太鼓楼(たいころう)を造営しようという時のこと、そばにあった塚石をあやまって壊してしまいました。するとその夜、付近に住んでいた大野孝信という人の夢に緋(ひ)の袴(はかま)をつけた宮女が現われ、悲しげな声で訴えました。自分は、かつて宮中に仕えていたが、父の信仰する金刀毘羅宮に参るため、老いてからこの地にやってきた。しかし旅の疲れからとうとうみまかりこの小さな塚の下に埋められ、訪れてくれる人もなく、淋しい日々を過ごしている。ところが今度は、鼓楼造営のため、この塚まで他へ移されようとしている。あまりに悲しいことだ、
というものでした。そして、かすかな声で一首の和歌を詠じました。
「うつつなき 跡のしるしを 誰にかは 問われしなれど ありてしもがな」 
はっとして夢から醒めたさめた大野孝信は、これは清少納言の霊が来て、塚をこわされた恨みごとをいっているのであろうと、一部始終を別当職に申し出たので、金毘羅大権現の金光院はねんごろに塚を修めたというものです。
 塚石が出てきたから130年後の天保15年(1844)になって、金光院は高松藩士友安三冬の撰、松原義質の標篆、庄野信近の書によって、現在の立派な碑を建てます。
清少納言 石碑

清少納言 碑文


と同時に金毘羅さんお得の広報活動が展開されたようで、3年後の江戸時代後期の弘化4年(1847)に、大坂浪花の人気作家である暁鐘成(あかつきのかねなり)が出版した「金毘羅参詣名所図絵」の中に、清少納言塚が挿絵入りで次のように紹介されています。

清少納言 金毘羅参拝名所図会

清少納言の墳(一の坂の上、鼓楼の傍にあり。近年墳の辺に碑を建てり)
伝云ふ、往昔宝永の年間(1704~11)、鼓楼造立につき、この墳を他に移しかへんとせしに、近き辺りの人の夢に清女の霊あらはれて告げける歌に、うつつなき跡のしるしをたれにかはとはれじなれどありてしもがなさては実に清女の墓なるべしとて、本のままにさし置かれけるとぞ。清少納言は、 一条院の皇后に任へし官女なり。舎人親王の曾孫通雄、始めて清原の姓を賜ふ。通雄、五世の孫清原元輔の女、ゆえに清字をもってす。少納言は官名なり。長徳・長保年間に著述せし書籍を『枕草子』と号く。紫氏が『源氏物語』と相並びて世に行はる。老後に零落して尼となり、父元輔が住みし家の跡に住みたりしが、後四国に下向しけるとぞ。(後略)

  ここでは老後は零落して尼となって、四国に下ったと記されてます。そして金毘羅でなくなったことにされます。こうして金毘羅は清少納言を迎え入れることになります。

大門前・普門院・清塚・鼓楼 讃岐国名勝図会
金刀比羅宮の清塚と鼓楼・大門 (讃岐国名勝図会 1854年)

清塚は、幕末には金毘羅さんのあらたな観光名所になっていったようです。
当時は、各地で流行神や新たな名所が作り出され、有名な寺社は参拝客や巡礼客の争奪戦が繰り広げられるようになります。そんな中で金毘羅さんでは金光院を中心に、常に新たな名所や流行神を創出していく努力が続けられていたことは以前にお話ししました。この時期は、金丸座が姿を見せ、金堂工事も最終段階に入り、桜馬場周辺の玉垣なども整備され、金毘羅さんがリニューアルされていく頃でした。そんな中で阿波に伝わる清少納言伝説を金毘羅にも導入し、新たな名所造りを行おうとした戦略が見えてきます。

 ちなみに清少納言の夢を見た大野孝信は他の地に移りましたが、その家は「告げ茶屋」と呼ばれていたと云います。現在の五人百姓、土産物商中条正氏の家の辺りだったようで、中条氏の祖先がここに住むようになり、傍に井戸があったことから屋号を和泉屋と称したと云います。

清少納言伝説 概念図
清少納言伝説の概念図
清少納言伝説

清少納言の伝説についてまとめておきましょう。
清少納言にまつわる三つの伝説地、兵庫県西宮・徳島県鳴門・香川県琴平のうち、中心となるのは鳴門です。鳴門や金毘羅の伝説は鳴門から伝わったものと研究者は考えているようです。西宮の清少納言伝説はイガイによって鳴門と結び付き、琴平の清少納言伝説は古塚によって鳴門と結び付きます。
しかし、鳴門で清少納言の尼塚伝説が生まれたのは、もともとは、尼塚は海女男狭磯の玉取の偉業をたたえてつくられたものです。しかし、玉取伝説が志度寺の縁起にとり入れられて、こちらの方が本家より有名になってしまったために、新たな塚のいわれを説く伝説が必要となって生み出されたも云えます。
いわれ不明の古塚が生き残るために、清少納言が結びつけられ、尼塚を清少納言の墓とする伝説が生まれました。しかし、尼塚を海女男狭磯の墓とする伝説が消えてしまったわけもなかったようです。そういう意味では、尼塚は二つの伝説によって支えられてきたとも云えます。
 清少納言は、各地に自分の塚がつくられて祀られるようになったことをどう考えているのでしょうか。
「それもいいんじゃない、私はかまわないわよ」と云いそうな気もします。日本には楊貴妃の墓まであるのですから清少納言の墓がいくつもいいことにしておきましょう。そうやって庶民は「伝説」を楽しみ「消費」していたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
阿波・讃岐の清少納言伝説 羽床正明  ことひら52 H9年
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志度寺には「讃岐国志度道場縁起(海女玉取伝説)」とよばれる、14世紀前半につくられた縁起があることを前回はお話ししました。この「縁起」は、能にとり入れられて「海人」となり、幸若舞にとり入れられて「大職冠」となったといわれます。「讃岐国志度道場縁起」は中世芸能の担い手達からも注目されていたことがうかがえます。
 志度道場縁起は漢文で書かれているので、簡単に現代語に意訳して見ます。
 藤原鎌足がなくなって後、その子である不比等は父の菩提を弔うために、奈良に興福寺を建立してその本尊として丈六の釈迦仏を安置しようとした。その時鎌足の妹は美人の誉れが高く、そのうわさは唐にまできこえ、唐の高宗皇帝の切なる願いにより、唐にわたって皇后となっていた。
 この妹が兄の寺院建築のことを聞いて、たくさんの珍宝を送ってきた。その中に不向背の珠という天下無双の宝玉があった。これらの珍宝を積んだ船が、瀬戸内海の讃岐房前の浦(志度)にさしかかると、にわかに暴風が吹き波は荒れ狂い、船は転覆しそうになった。そこで珠を守るため珠を入れた箱を海中に沈めようとしたところ、海底から爪が長く伸び毛に蔽われた手が出てきて、その箱をうばいとってしまった。唐の使いは都に着いてその仔細を不比等に報告すると、非常に残念に思った不比等は珠がうばわれた房前の浦までやってきた。
 不比等はその地で、海底でも息の長く続く海人の娘と結婚し、三年が過ぎると二人の間に、一人の男の子が生まれた。この時になって初めて不比等は自分の素姓を明かし、唐から送られた宝玉がこの海で龍神にうばわれたことを話した。そして、その宝玉を何とかして取り返したい旨を妻に告げると、彼女は死を覚悟で珠を取って来ようとする。
その際、気にかかるのは残される子のことである。海人は自分がもし命をおとすようなことになれば自分の子を嫡子としてとり立ててくれるよう約束して、龍宮を偵察するために海にもぐって行く。
 海人は一旦海底を偵察した後で、自分が死んだら後世を弔ってほしいと遺言して多くの龍女たちに守られた玉を取り返そうとして腰に長い縄を結び付けて玉を得ることができたら、合図に縄を引くから引き上げてくれるように頼んで再び海中の人となった。舟の上では合図を今か今かと待っていると、かなりの時聞か過ぎて縄が引かれたので、急いで引き上げると海人は、玉をとられたと知った龍王が怒って追いかけ、四肢を食いちぎった無残な死体となっていた。
志度寺 玉取伝説浮世絵
海女玉取伝説の浮世絵

 海人の死体は近くの小島に安置され、人々が嘆き悲しみながらよく見ると、乳の下に深く広い疵がありその中に求める玉が押し込められていた。そこでその小島を真珠島と名づけ、島の南西の浜の小高いところにある小堂に海人の遺体を安置し、寺を建てて志度道場と名づけ、なくなった海人のために仏事供養を行なった。
 玉は不比等が都に持って帰り、興福寺の釈迦仏の眉間に納められた。海人と不比等の間に生まれた子は房前と名づけられ、十三才の時に母のなくなった房前の浦に行き、母の墓を訪れると地底より母の吟詠の声が聞こえてきたという。

 以上が縁起の、大体のあらすじです。この話については前回にもお話ししましたので、今回は、この縁起は何をよりどころに生まれてきたかに焦点を絞って見ていくことにします。

  二、書紀の玉取り伝説
 志度道場縁起のタネ本と目されるのが『日本書紀』允恭天皇十四年九月条にある次のような記述だと研究者は考えているようです。
 天皇、淡路島に猟したまふ。時に大鹿・猿・猪、莫々紛々に、山谷に満てり。炎のごと起ち蝿のごと散ぐ。然れども終日に、一の獣をだに獲たまはず。是に、猟止めて更に卜ふ。島の神、崇りて日はく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石の海の底に、真珠有り。其の珠を我に祠らば、悉。に獣を得しめむ」とのたまふ。
  爰に更に処々の白水郎を集へて、赤石の海の底を探かしむ。海深くして底に至ること能はず。唯し一の海人有り。男狭磯と日ふ。是、阿波国の長邑の人なり。諸の白水郎に勝れたり。是、腰に縄を繋けて海の底に入る。差須曳かりて出でて日さく、「海の底に大蝶有り。其の処光れり」とまうす。諸人。皆日はく、「島の神の請する珠、殆に是の腹の腹に有るか」といふ。亦人りて探く。爰に男狭磯、大腹を抱きて認び出でたり。
 乃ち息絶えて、浪の上に死りぬ。既にして縄を下して海の深さを測るに、六十尋なり。則ち腹を割く。実に真珠、腹の中に有り。其の大きさ、桃子の如し。乃ち島の神を祠りて猟したまふ。多に獣を獲たまひつ。唯男狭磯が海に入りて死りしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚く葬りぬ。其の墓、猶今まで在。とある、

これが男狭磯の玉取り伝説で す。意訳しておきましょう。

 天皇が淡路島に猟に行ったときに大鹿・猿・猪、などが山谷に満ちて炎のようにたち、蝿のように散る。しかし、一日が終わっても、1頭の獣さえ捕らえることはできない。そこで、猟を止めて占った。島の神が云うには、「獣が獲れないのは、私の仕業である。赤石(明石)の海の底に、真珠がある。それを我に奉ずれば、たちまち獲物は得ることができるようにしよう」と云う。
 そこで処々の白水郎(海に潜るのが上手な漁師)を集めて、赤石の海の底を探がした。海は深くて底まで潜れるものがいない。唯一、海人の男狭磯が潜れるという。彼は阿波国の長邑の人で、どこの白水郎よりも潜ることにすぐれていた。腰に縄を繋けて、海の底に入って行った。海から出てきて云うには「海の底に大きな蝶々貝があります。その中から光がしますと云う。人々が口をそろえて言うには、「それこそが島の神が求めている珠にちがいない」いいます。そこで男狭磯は、また海に探く潜り、大腹を抱いて上がってきましたがすでに息絶えていました。縄を下して海の深さを測ってみると六十尋あった。貝の腹を割ると、まさに真珠が中にあった。その大きさは桃の実ほどもある。これを島の神に捧げて猟をしたところ、たちまちにして多くの獣を得ることができた。男狭磯が海に入って、亡くなったことを悲しみ、墓を作り厚く葬むった。其の墓は今もあると云う。

これが、男狭磯の玉取り伝説です。
物語のポイントは、志度道場縁起も書紀の允恭紀・男狭磯も、息の長く続く秀れた海女がいて、海中深く潜って珠を得た後に、亡くなるという点では全く一緒です。
 幕末から維新にかけて書かれた「日本書紀通釈」によると、
「或人云、阿波国人宮崎五十羽云、同国板野郡里浦村鰯山麓に古蹟あり。里人尼塚と云り、是海人男狭磯の墓也と、土人云伝へたりとそと云り、聞正すへし」
これも意訳すると
「伝承では、阿波の人・宮崎五十羽が伝えるには、板野郡里浦村鰯山の麓に古蹟がある。。里人は「尼塚」と呼ぶ。これが海人・男狭磯の墓であると地元の人たちは伝る」

ここからは江戸末期から明治の初め頃にかけて、阿波の板野郡には男狭磯の墓と伝承される古蹟があったことが分かります。この古蹟は今もあり、鳴門市里浦には尼塚と呼ばれる宝飯印塔があるようです。
 この古蹟の伝承書紀に載せられているのですから、それよりも古いことは明らかです。
『延喜式』巻七、神祗の大嘗祭の条には、
 阿波国、一漱並布一端、木綿六斤、年色十五缶し瓢根合漬十五缶、乾羊蹄、躊鴉、橘子各十五簸皿剋・鰻鮨十五増、細螺、輯甲羅、石花等廿増特認四・其幣五色薄絢各六尺、倭文六尺、木綿、麻各二尺、葉薦一枚、作具鏝、斧、小斧各四具、鎌四張、刀子四枚、範二枚、火讃三枚、並壇濁、及潜女心曜造酒

とあって、天皇即位の大嘗祭には、阿波忌部と那賀郡の海女たちによって、いろいろの神饌が差し出されていたことが分かります。
 允恭紀に出てくる海人・男狭磯も那賀郡(長邑)の人で、『延喜式』でも那賀郡に海女の集団がいたことがわかるので、男狭磯の物語は那賀郡の海女集団によってつくられ伝承されたと研究者は考えているようです。
 そして、この海女集団は大嘗祭の神饌の献上を通して、阿波忌部とも密接な関係にあったようです。男狭磯の物語は、那賀の海女と阿波忌部氏の間に、伝承されてきた物語であるという仮説が出来そうです。
 阿波忌部は麻殖・名方・板野の三郡に分布していたといわれ、板野郡に男狭磯の墓と伝えられる古蹟があるのは自然です。それでは、この阿波忌部と那賀郡の海女の間で伝承された物語が、どのようにして中央に伝えられ、『日本書紀』に採録されるようになったのでしょうか。
 男狭磯の物語は書紀にあって、古事記にはありません。
そこで、『阿波国風土記』は720年以前に成立し、紀の編者はこれを見て書紀の中にとり入れたということも考えられます。そうすると『阿波国風土記』は、諸国の『風土記』の中でも、成立年代の早い方の一つであったことになります。

以上を時代順に並べると次のようになるようです。
①阿波には古くから那賀郡の海女の集団と忌部によって伝承される男狭磯の物語があった。
②この説話は板野郡の尼塚を中心にして伝承され、中世になって志度道場縁起の中にとり入れられた
③それが、さらに能「海人」や幸若舞にもとりいれられ、中世芸能として発展した
  
 以上をまとめておきましょう
①阿波の那賀郡には古くから、那賀の潜女とよばれる海女の集団がいて、男狭磯の物語を伝承していた
②この海女の集団は、大嘗祭の神饌を通して阿波忌部と密接な関係を持ち、そのため男狭磯の物語は忌部にも伝えられた
③それが板野郡に尼塚という伝承地となって伝えられるようになった
④この男狭磯の物語は、『阿波風土記』の中にとり入れられ、さらに『日本書紀』の中にとり入れられることになった。
⑤男狭磯の物語は、今は伝わっていない『阿波国風土記』の一つの物語であった可能性がある。
⑥中世になって阿波の男狭磯の物語が隣国の讃岐・志度寺の縁起の中にとり込まれた。
 それが志度道場縁起である
⑦志度道場縁起は、能にとり入れられて「海士」となり、幸若舞にとり入れられて「大職冠」となった。「海士」は世阿弥の頃からあった古曲であると云われます。中世には讃岐も阿波も管領となった細川氏の支配地でしたから、志度道場縁起が能にとり入れられる素地があったのかもしれません。このように、海人の玉取り伝説は、古代に遡る可能性のある古い物語のようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明 海人の玉取伝説と志度寺縁起    ことひら
    -古代伝承の継受を中心に1

 昔話が親から子へ、そして孫へと伝えられている間は、大きな変化や改編は行われません。しかし、外部からやって来た半俗半僧の高野聖たちの手にかかると、おおきなリメイクが行われることがよくあります。四国では四国辺路(遍路)のためにやってきた高野聖たちが昔話を縁起化・教説化がして、仏教布教のため寺の縁起として利用していたようです。そんな例として、志度寺の縁起を見てきました。
今回は志度寺縁起の創作や広報伝播に関わった高野の念仏聖たちに焦点を当ててみたいと思います。
 
志度寺の7つの縁起を呼んでいると、寄進・勧進を進め、寺の経済を支えた下級の聖たちがいたことが見えてきます。
例えば、仏教的な「作善(善行)」を民衆に教えることによって、蘇生もし、極楽往生もできると説いています。
「白杖童子蘇生縁起」を見てみましょう。
山城国(京都)の淀の津に住む白杖という童子は、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた馬借であった。妻も子もない孤独な身の上で世の無常を悟っていた。心ひそかに一生のうち三間四方のお寺を建立したいとの念願を抱いて、着るものも着ず、食べるものも食べず、この大願を果たそうとお金を貯えていた。
 ところが願い半ばにして突然病気でこの世を去った。冥途へ旅立った童子は赤鬼青鬼につれられ閻魔庁の庭先へ据えられた。ご生前の罪状を調べているうち「一堂建立」の願いごとが判明し、王は感嘆して

「大日本国讃岐国志度道場は、是れ我が氏寺観音結果の霊所也。汝本願有り、須く彼の寺を造るべし」

 こうして童子は、蘇生の機会を得てこの世に生還する。その後日譚のあと、童子は志度寺を再興し、極楽に往生したというのがこの縁起あらましです。
この縁起はどんな時に、どんな場所で語られていたのでしょうか?
 まず考えられるのは、志度十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵を見せながら絵解きが行われていたのではないかと研究者は考えているようです。
 囚果応報を説くことは、救いの道を説くことと同時に、志度寺に対する寄進・勧進などを促しています。前世に犯したかも知れない悪因をまぬかれる(滅罪)ためには、仏教的作善が求められます。それは
「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」

です。ここでは造寺という大業を果たした白杖童子を語ることで、庶民にもそうした心を植えつけ、ささやかであっても寺に寄進するようすすめるのがこの物語のドラマツルギーのように思えます。こんな説教を聞いて、人々は今の禍いや来世の地獄の責苦からのがれるために「作善」を行おうと思うようになったのでしょう。こうした話を、寺院の修造建築のために村々に出向いて説いて勧進して歩きまわった勧進僧(唱導聖)が、志度寺周辺に数多くいたようです。
志度寺縁起の「阿一入道蘇生縁起」を見てみましょう
伏見天皇の文保元年(1317)に阿一は急死します。ところがその日のうちに蘇生して冥土から帰ってきます。その理由は閻魔王宮に到着した阿一が
「偏に念佛申、後世菩提の勤を営みたらましかば、観音の蓬台に乗して、極楽へこそ参べきに、世にましはり妻子脊属をはくくまんとせしほどに一生空く茫々として夢幻のことく馳過にき」

と閻魔様に述懐したためです。
 この姿を見た琥魔大王は
「汝十八日夜、志度道場三ヶ年よりうちに修造仕覧と起請文書たるか」
「讃岐国志度道場は殊勝の霊地我氏寺也。彼堂を三ヶ年よりうちに修造せむと大願を立申さは、汝を娑婆へ帰し遣へし」
 と、今後三年間で志度道場(寺)の本堂修造の起請文書を閻魔様に差し出し、娑婆(現世)に送り帰らされることになります。こうして、阿一は現世に帰り、寺の修復にあたることになります。
 ここから分かることは、閻魔様は、阿一は荒廃した志度寺の修造に当たらせるために蘇生させたのです。その裏には寺を修造するという仏教的作善があります。それが復活の機会を与えることになったようです。
先ほどの縁起の中には「讃岐国志度道場は殊勝の霊地我氏寺也」と書かれていました。志度寺は「閻魔大王の氏寺」だというのです。そのため「死(渡)度寺」とも書かれていたようです。
 志度寺は、死の世界と現世との接点で、海上他界観にもとづく補陀落信仰に支えられた寺であったようです。この寺の境内では6月16日には、讃岐屈指の大市が立ち、様々なものが集まり取引されました。陸路だけでなく瀬戸内海にも開けていたために、対面の小豆島から舟で農具を初め渋団扇、盆の準備のための品々を買い求めにやって来ました。島では、樒(しきみ)の葉を必ず買い求めたと云います。志度寺の信仰圈は小豆島にまで及び、内陸部にあっては東讃岐全域を覆っていたようです。特に山間部は、阿波の国境にまで及んでいました。
 盆の九日に、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
さらに翌日の十日に参ると「万日参りの功徳」があると云われていたようです。この時には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来るソラ集落の人たちたくさんやってきました。参詣者はこれを買って背中にさして、あるいは手に持って家に戻って来ります。これには先祖の霊が乗りうつっていると信じられていたようです。海から帰ってくる霊を、志度寺まで迎えに来たのです。帰り道に、霊の宿った樒を地面に置くことは御法度でした。樒は盆の間は、家の仏壇に供えて十五日が来ると海へ流します。先祖を再び海に帰すわけです。ここからも志度寺は「海上他界信仰」の寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。まさに「死渡」寺だったのです。

「死者の渡る寺」をプロデュースしたのは、どんな集団だったのでしょうか
  それが高野聖だったようです。高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖だったと研究者は考えているようです。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があるようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

 高野聖の廻国は有名で、研究者の中には「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。
 時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。
 観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。

高野の聖は、志度寺をどのようにプロデユースしたのか?
高野聖たちがまずやらなければならなかったことは、勧進にのために知識(信仰集団)を組織し、講を結成して金品や労力を出しあって「宗教的・社会的作善」をおこなうことの功徳(メリット)を説くことでした。その反対に勧進に応じなかったり、勧進聖を軽蔑したためにうける悪報も語ります。奈良時代の『日本霊異記』は、そのテキストです。
 唱導の第1歩は、
志度寺の縁起をや諸仏の誓願や功徳を説き、
釈尊の本生(前世)や生涯を語り、
高僧の伝記をありがたく説きあかす。
これによって志度寺のありがたさを知らせ、作善に導いていく導入路を開きます。一般的には『今昔物語集』や『沙石集』が、このような唱導のテキストにあたるようです。
第2のステップは、伽藍造営や再興の志度寺の縁起や霊験を語ることです。
縁起談や霊験談、本地談あるいは発心談、往生談が地域に伝わる昔話を、「出して・並べて・くっつけて・・」とアレンジして、リニューアル・リメイクします。これらの唱導は無味乾燥な教訓でなく、物語のストーリーのおもしろさとともに、美辞麗句をつらねて人々を魅することが求められます。これが7つの志度寺縁起になるようです。
 しかし、元ネタがなければ第1話の本尊薬師如来の由来記のように、長谷寺のものをそのまま模倣するという手法も使われます。高野聖にとって、高野山に帰れば全国のお寺の情報を得ることが出来ました。先進実践例や模範由来記があれば、真似るのは当然のことです。これも文化伝播のひとつの形です。
 志度寺の海女の玉取伝説は、日本書紀に出てくる阿波の記事をリメイクしたものであることは前回お話ししました。これは出来の良い縁起っもの語りになりました。息子の栄達のために命を捧げる物語のというテーマは「愛と死」です。これほどドラマティックな要素はありません。この2つの要素を聖たちは、壮大な伝奇的構想のなかに織りこむことによって、志度寺の縁起物語を創作したのでしょう。出来が良い説経は、能や歌舞伎、浄瑠璃に変化して世俗的唱導と姿を変えていきます。これを語ったのは放浪の盲僧や山伏や、社寺の勧進聖たちでした。その際に唱導は、文字で伝えられたのではありません。語り物として口から耳へという伝えられたのです。そこでは自然と、語り口に節がつけられ、聞くものを恍惚をさせる音楽的効果が伴われるようになります。これが「説経の芸能化」なのでしょう。
縁起物語のもう一つの方向性は、軍記物(合戦談)です。人間の死ほどドラマティックなものはありません。また庶民は勇士や豪傑の悲壮な死や、栄枯盛衰に興味は集中していきます。その結果、生まれるのが『平家物語』とか『源平盛衰記』です。この一連の作業工程に、大きく関わったのが高野聖たちではなかったのかと私は考えています。

最初に思っていた方向とは、だいぶんちがう所へ来ていましたようです。今回はこのあたりで・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起
五来重  高野の聖

1志度復元イラスト カラー

中世の港町の地形復元作業が香川県でも進んでいるようです。今回は志度を取り上げてみます。テキストは「上野 進 中世志度の景観 中世港町論の射程 岩田書院 2016年刊」です。
1志度復元イラスト 白黒
中世志度の港の位置を確認しておきましょう。港の中心は、志度寺が所在する志度浦(王の浦)と研究者は考えているようです。中世の港は宇多津や野原(高松)の発掘から分かるように、長い砂浜にいくつかの泊が並んで全体として港として機能していました。志度では
①志度浦の北西にあたる房前
②志度浦の東北にあたる小方・泊
までの範囲一帯で港湾機能を果たしていたと研究者は考えているようです。志度浦は、近世後期の『讃岐国名勝図会』に
「工の浦また房崎のうらともいへり」

と記され、近世になっても、北西の房前浦と一体的に捉えられていたことがうかがえます。

1中世志度港の復元図1

小方は、嘉慶二年(1388)に「小方浦之岡坊」で大般若経が書写されています。

ここからは、この浦に大般若経を所蔵する古寺(岡坊)があったことがわかります。中世の港の管理センターは、寺院が果たしていました。それは、
野原(現高松港)の無量寿院
宇多津の本妙寺
多度津堀江の道隆寺
仁尾の覚城寺
観音寺の観音寺
など、港と寺院の関係を見ると納得がいきます。この付近にあった岡坊も港の管理センターとしての機能を果たし、周辺には町場が形成されていたようです。
3 堀江
多度津の堀江津と道隆寺の関係を中世復元図見て見ると

瀬戸の港町形成に共通する立地条件としては、砂州が発達し、それが防波堤の役割を果たし、その背後の潟湖の砂浜に中世の港はあったようです。志度もその条件が当てはまります。志度浦の東北に位置するは、北西風をさける地の利を得た天然の良港だったでしょう。古くから停泊し宿る機能があったことから「泊」と名がつけられたとしておきましょう。
 鎌倉時代後期~南北朝時代に成立した「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」を見てみましょう。
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」
「御衣木之縁起」
1「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」

この絵からは次のようなことが分かります。
①西の房前や小方・泊には家々が集まって町屋が形成されている
②房前は、舟も描かれ、寄港場所であった。
③志度寺の南には潟湖が大きく広がっている。
④志度寺は砂堆の上に建っている
⑤潟湖の入口には、木の橋が架かっていて塩田と結ばれている。
⑥真珠島は、陸とつながっていない。
⑦志度寺周辺に町場集落があった。
1「志度寺縁起絵」の「阿一蘇生之縁起」

1「阿一蘇生之縁起」
阿一蘇生之縁起
「志度寺縁起絵」の「御衣木之縁起」と「阿一蘇生之縁起」に描かれた地形と現在の地形を比較して見てみましょう。志度の町場は、志度湾の砂堆の上にあり、砂堆の東側・南側は大きな潟(潟湖、ラグーン)跡と研究者は考えているようです。低地が広がる志度寺とその東側との間にはあきらかな段差があります。志度寺は、この安定した砂堆の上に建っています。
 それを証明するように「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも志度寺が砂堆上に描かれています。また志度寺の由来を記した「志度寺縁起」にも、志度寺の前身となる小堂について
「彼ノ島(=真珠島)ノ坤方二当り、海浜ノ沙(いさご)高洲ノ上二一小堂アり」
と記されています。これも、志度寺がやや高い砂堆の上にあったことを裏付ける史料です。
  砂堆の東側には、近世初期に塩田となり、明治40年頃まで製塩が続けられたようです。
現在も塩屋の地名が残り、塩釜神社があります。「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも真珠島の南側に塩田が見えます。中世の早い時期から小規模な塩田があったことが分かります。塩釜神社の北側には、砂洲斜面と見られる段差があります。この付近に、潟出口に面して砂洲があったようです。「御衣木之縁起」「阿一蘇生之縁起」にも、砂堆から東側の真珠島へ延びた砂洲が描かれていて、縁起絵の内容とあいます。
砂堆の南側については、中浜・田淵・淵田尻など海浜や淵に関連する地名が残ります。
とくにJR志度駅の南側一帯には低地が広がり、さらにその南方の政池団地付近は直池とよばれ、葦が繁茂する沼地だったようです。それが大正初年の耕地整理事業で埋め立てられます。このあたりまで潟湖だったのでしょう。
志度浦東北の小方は、近世には鴨部下庄村に属し、かつえは「小潟」と表記されていたようです。
その名の通りに後背地が潟跡跡で、今は低地となっています。古文書に
「鴨部下の庄はもと入江なりしも、上砂流出し陸地となれり」

とあるようです。微地形の起伏などに注意しながらこの辺りを歩いてみると、海岸沿いの街道はやや高い所にあり、潟跡跡の低地とは明らかな段差があるのが分かります。
 かつての真珠島

  真珠島は、志度と小方との間にある島でした。
海女の玉取り伝説にちなんで名づけられた島で、志度寺の由来を記した「志度寺縁起」に
「玉ヲ得タル之処、小嶋之故真珠嶋と号名ス」

と記されます。大正時代のはじめに陸続きとなり、戦後に周りが埋め立てが進み、今はは完全に陸地になってしまいました。しかし、周りを歩いてみると島の面影をとどめています。ここは志度寺の鬼門になるので、山頂(標高7,6m)に弁財天を祀るようになったので、江戸時代には「弁天」とよばれて崇敬されてきたようです。また、海にやや突き出した小高い山として、海側から近づく舟にとってはランドマークの役割を果たしていたとのでしょう。
蘇る聖地/香川県さぬき市志度町/真珠島/瀬織津姫/青龍/竜宮城/2019/10/18 |  剣山の麓よりシリウスの女神いくえと龍神・空が愛のあふれる世界を取り戻すため活動中

次に、志度の町場と道についてみてみましょう。

1志度寺 海岸線復元 街道

  町場は、東端の志度寺を起点に、海沿いに西へ向かう志度街道を軸に展開します。地図を見ると志度街道(点線)は、砂堆の頂部に作られていることが分かります。街道沿いの町場が中世前期まで遡るかは分かりませんが、守護細川氏による料所化との関連も考えられます。
しかし、戦国期以降に整備された可能性もあります。町場の起源は、発掘してみないと分からないということでしょう。
 江戸時代には、高松藩はここに、志度浦船番所や米蔵を置いていました。平賀源内の生家もこの街道沿いにあります。『讃岐国名勝図会』には真覚寺・地蔵寺など寺院や家々が志度街道に沿って密集して描かれています。
 志度寺から南の造田を経て長尾に至る阿波街道があり、志度は陸路によって後背地の長尾につながっていました。志度寺の後背地にあたる長尾には、八世紀後半に成立したといわれる長尾寺があります。志度寺と長尾寺はともに「補陀落山」という海にちなむ山号を持ちます。長尾寺が志度寺の「奥の院」であったと考える研究者もいるようで、ふたつのお寺には親密な交流があったようです。長尾寺にとって志度は、沿海岸地域に対する海の窓口の役割を果たしていたのでしょう。いまも歩き遍路は、志度寺から長尾寺、そして結願の大窪寺へと阿波街道を歩んで生きます。

中世の志度寺周辺の交通体系は、志度寺門前から海沿いの東西の道とともに、志度寺から南へ延びる道が整備されて行ったようです。志度寺は、東西・南北の道をつなぐ交通の要衝に位置し、人やモノの集散地となっていきます。中世の志度は海と陸の結節点に位置していたといえます。
 地名と地割を見ておきましょう。
砂堆にある町場は、寺町・田淵・金屋・江ノロ・新町などから構成されていたようです。その周囲に塩屋・大橋・中浜などの地名が残ります。町域の西側に新町・今新町の地名があります。ここから江戸時代の町域拡大は、志度街道沿いに西側へと進んだことが考えられます。町割は志度寺門前の空間が「本町」であったとしておきましょう。

町域は標高3mの安定した砂堆上にあり、町場周辺では塩屋~大橋が(0,6m)、中浜(1,8m)で他より低くいので、この付近に低地(潟)が広がっていたことがうかがえます。
 また、寺町と金屋の間に「城」の地名が残ります。
中世の志度城館跡(中津城跡・中州城跡)があったと伝えられますが遺構は確認されていないようです。ただ、この付近が中世領主の拠点となった可能性はあります。志度城城主は、安富山城守盛長とも、多田和泉守恒真であったともいわれているようです。
 志度街道の両側には短冊形地割が残り、明治~昭和初期の町家が散在します。街道の南北両側にも街路がありますが、町域全体を貫くものではありません。これは近代以降に、断続的に低地へ町域が拡大したことを示すようです。本来的な町割は、 一本の街路(志度街道)の両側に設定されていたと研究者は考えているようです。
志度の古い町並み

では、志度はどんな地形環境の変化を受けてきたのでしょうか?
幅広く安定した地形は、志度寺から西へ続く砂堆が古くから形成されていたことによると研究者は考えているようです。砂堆の東側・南側に入り組んで広がる潟は、その内岸が古代から寄港場所となっていた可能性があります。しかし、早くから潟湖は埋まり湿地状になっていきます。そして中世になると潟の内岸は、港湾としては使用できなくなります。一部は塩田となったようです。
 「志度寺縁起絵」のうち「御衣木之縁起」や「阿一蘇生之縁起」をもう一度見てみましょう。
潟の出口に簡単な橋が架けられ、潟の沿岸では塩田が造られています。また内陸部に広がる潟の内岸には舟がないのに、海に面した砂堆北側には舟があります。ここからは砂堆北半部が着岸可能で港機能があったようです。とくに「阿一蘇生之縁起」では、海に面した砂堆北半部の西側に舟が着岸しています。古代は、潟湖の内側が港だったのが、中世には潟が埋まって寄港場所が変化したようです。

中世志度の景観について、研究者は次のようにその特徴をまとめています。
①港町としての志度は、海浜部の砂堆の上にあった。
砂堆の東・南側には潟(入江)があって、砂丘の東側には真珠島に向かって砂洲があった。海に突き出した小高い真珠島は、海側からはランドマークとして機能した。「志度寺縁起絵」に描かれた志度の景観は、基本的に鎌倉時代末期~南北朝時代の現地の実態を踏まえて描かれている。
②中世の志度の港湾機能は、海に面した砂堆の北側にあった。
「志度寺縁起絵」には砂堆の北西に舟が着岸している。もともとは、潟の内岸の方が船着場として適地だが埋没が進んで、寄港場所を潟の内岸から海岸沿いに変化させていった。近世の『讃岐国名勝図会』には、砂堆西側の玉浦川の河日周辺に舟がつながれている様子が描かれいる。玉浦川は、砂堆背後の潟の排水を目的として近世に開削された可能性がある。
③志度湾岸には孤立した条里梨地割群が残る。志度南側は早くから耕地化されていた可能性がある。
④砂堆東側に志度寺が位置し、その門前から西側に延びる志度街道沿いに町場集落が広がる。志度寺は交通の起点であり、長尾など後背地にとっては沿海岸地域への窓口となった。志度寺は港湾の管理センターでもあった。
⑤志度湾には志度寺を中心とした志度のほか、房前・小方・泊など複数の浦があった。中世の志度はこれらの複合的な港湾から構成されていて、それぞれに町場があった。「志度寺縁起絵」には房前・小方・泊には家々が密集して描かれている。


以上から次の課題として見えてくることは
①中世讃岐の港湾には、国府の港であつた松山津をはじめ、志度や宇多津、仁尾、観音寺などがあります。これらは砂堆の背後の潟湖に船着場がありました。ところが中世には堆積作用で埋没が進み、港湾機能が果たせなくなり衰退する港もでてきます。松山津や多度津の堀江は、そうして衰退した港かもしれません。でも、潟が埋まって浅くなり、船着場・船溜りとしての機能が失われても、志度は港湾機能を維持し繁栄しています。その要因はどこにあったのでしょうか。志度の場合は、港湾の管理センターの役割を果たしていた志度寺の存在が大きかったのではないかと研究者は考えているようです。
この世とあの世の境「志度寺」 : おかやま街歩きノオト(雑記帳)

 もうひとつは、砂堆上に志度寺や多度津の道隆寺、野原(現高松)の無量寿院は建てられています。
なぜ、地盤が弱く建設適地とは思えない砂堆や砂洲に寺社がつくられたのでしょうか?
「洲浜」は絵画等のモティーフとされることが多かったようです。それは神仏の宿る聖域としての意味があったからだと研究者は指摘します。志度寺が砂堆・砂洲に位置した要因についても、聖なる場所というイメージがあったのかもしれません。
 島根県の出雲大社がわざわざ斐伊川の悪水の排水点に建てられたのも、そのコントロールを神に祈る場所であったとする指摘もあるようです。水をつかさどる寺社と潟の排水等との関係もあったのではないかと研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

テキストは「上野 進 中世志度の景観 中世港町論の射程 岩田書院 2016年刊」でした。

                                
 「兵庫北関入船納帳』(文安二年〈1445〉には、中世讃岐の港町として、引田・三本松など17の港町が記されています。これらの港町について、中世の地形を復元した作業報告が香川県立ミュージアムから出版されています。復元されている港町を見ていくことにします。
その前に、準備作業として「中世港町の要素」とは何かを押さえておきましょう。
 中世港町を構成する要素としては、次の六つです。
  ①船舶が停泊できる場所……   繋留岸壁、桟橋等
  ②積荷の積み下ろしのできる場所…… 荷揚げ場
  ③船舶の港湾周辺での航行の目標…… 寺社、城郭等
  ④港湾内施設の管理事務所……   寺社、居館、城郭等
  ⑤港町を横断もしくは縦貫する街路
  ⑥内陸部へのアクセス方法……    道路、船舶
 作業の手始めとしては、後世の干拓や埋立地を地図上で取り去り、現地でわずかな起伏等を観察します。それを地図上に復元していく根気の要る作業です。その結果、見えてきたことは、讃岐の中世港町は、次の2つがあるところに成立していたことが分かってきたようです
入り込んだ内湾する浜
②それに付随する砂堆(小規模な砂丘)
 穏やかな瀬戸内海とはいえ、天然の波止的な役割を果たす砂堆は港には有り難い存在だったのでしょう。砂堆は、海浜部の波が運ぶ砂が堆積するものと、河口部の河川が運ぶ砂が堆積するもののふたつがあります。内湾する浜と砂堆と、周辺に展開する集落について「復元地図」を見ていくことにしましょう。
 1 引田
3引田

 引田は「兵庫北関入船納帳』文安二年(1445)以下「人船納帳」)には、この港の積荷としては、塩・材木などの記載が見えます。景観地図からは大きく内湾した浜の北西部に突き出た半島の付け根あたりに中世の港が復元できます。現地踏査の結果、現在の本町周辺から北の城山に向かって、砂堆状の高まりが確認できるようです。この砂堆は、本町周辺では狭い馬の背状になっていたことがうかがえるようです。また、砂堆の北端の誉田八幡神社付近には安定した平坦地が広がります。
DSC03875引田城
 戦国時代末期に讃岐に入封した生駒氏が最初に城を築いた城山は、北西からの季節風を避ける風よけとしては有り難い存在です。こうしたことから中世の港湾施設は、現在の引田港付近にあったと研究者は考えているようです。また、この港の管理権は誉田八幡神社が持っていたと推測しています。
港からのアクセスについては、砂堆を縦断する街路を南に抜け、南海道へ接続していたようです。
また、誉田八幡神社の北から西にかけては、近代以前には、塩田が広がっていたこと、現在も水はけの悪い水田が広がることなどから、当時は、干潮時に陸地化する潟湖のような状態であったと考えています。さらに本町周辺の砂堆の西側にも低湿地が広がっていたようで、「入船納帳」に見られる積荷の塩は、このあたりの低湿地で生産されていた可能性が高いようです。
  引田は、古代から細長い砂堆の先に伸びる丘陵が安定した地形があって、その上に土地造成と町域の拡大が進められてきたようです。それは住民結合の単位としての「マチ」の領域、本町一~七丁目などに痕跡がうかがえます。このように中世の引田の集落(マチ)の形成は誉田八幡神社周辺を中心に、砂堆中央から基部に向けて進みますが「限定的」だったようです。つまり狭すぎて、これ以上の発展の可能性がなかったとも言えます。そのために戦国末期に讃岐にやって来た生駒氏は、最初に引田城に着手しますが、後には丸亀・高松に新城を築くことになるようです。
 引田は瀬戸内海を睨んだ軍事拠点としては有効な機能をもつものの、豊臣大名の城下町建設地としてはかなり狭く線状都市です。大幅な人工造成を行わなければ近世城下町に発展することはできなかったようです。
 三本松
3三本松
 三本松は、湊川河口と与田川河口との間でJR三本松駅周辺に中世の港があったようです。現地を詳細に観察すると、次のような事が見えてきます。
①三本松駅の北側に大きな砂堆1が確認できる
②現在の三本松港の東側の海岸線に、砂堆状の高まりが二つ(砂堆2・3)ある
③砂堆2・3の後背地はかなり地割が乱れているので、湊川に連続していると考えられる
④当時は湊川の河口部が現在よりもかなり東西に広がっており、河口部の縁辺に砂堆2・3が形成された
⑤砂堆2の後背地は、砂堆Iとの切れ目につながり、砂堆1の東側に大きく湾入した部分がある。
⑥この付近(現在の西ノ江付近)に港湾施設があった
⑦集落は、砂堆Iを南北に横断する街路(本町筋)とそれに直交する街路(中町筋)に沿って広がっていた。
 港湾施設へのアクセスについては、砂堆Iの後背地にも河川状の低地があり、阿波街道(南海道)からは離れているので、内陸部との交通は不便だったことがうかがえます。しかし、河川水路の利用という点から見れば、湊川上流には水主神社があり、与田川上流には与田寺などの有力寺社があります。三本松湊は、これらの寺社が管理をおこなっていたと研究者は考えているようです。

 3 志度
3志度
 志度は、海女の玉取伝説で有名な志度寺付近が、港として考えられています。
現在の弁天川やその支流の流域は浅い入江や低湿地であったようで、一番奥は現在の花池あたりまで深く入り込んでいました。入江の入口は弁天川の河口付近で、そこにはランドマークとして弁天島があったことになります。今では埋め立てられて陸地化して、ただの丘ですが、この島は「志度道場縁起」などでは、島として描かれています。また、河口付近の低湿地では、製塩が行われていたようです。
 志度寺が位置する大きな砂堆の海側に広がる浜が、港としての機能を果たしていた
と研究者は考えているようです。ここでもその中央部の志度寺が、港を管理する役割も担っていたのでしょう。港湾施設へのアクセスについては、西側から砂堆の中央部を縦断するように街路2が志度寺へ通じているので、これが主要アクセスとなっていたのでしょう。
 4 宇多津と平山
3宇多津
 宇多津は、中世においては細川氏の拠点として讃岐国における政治・経済の中心地でした。
この港町は、坂出市の綾川河口にあった松山津が、綾川の堆積作用で古代末期に港として機能しなくなったのに代わって台頭してきたようです。港の位置は、青ノ山の裾部あたりから東側の大束川河口にかけて、現在の西光寺周辺に小規模な浜が想定されています。
 平山は、聖通寺山の西側、大束川の河口の東側に広がる入江を港として利用していたと考えられます。平山と宇多津は、それぞれ丘陵を背後に持ち、丘陵にはさまれた大束川の河口は、波や風の影響が少なくいい港だったようです。特に宇多津は、中世から続く寺社が多く集まって、中世は讃岐の文化的な中心であったことは、以前紹介した通りです。
仁尾                                       
3仁尾
仁尾は燧灘に面して、いまは夕日が美しい町として有名になりました。
かつては 「兵庫北関入船納帳』には「仁保」とも書かれていたので広島県の仁保とされていましたが、その後の研究で、三豊市仁尾町であるとされるようになりました。この港は、平安時代に賀茂神社の「内海御厨」として設定されるなど、古くから栄えており、近世では、「千石船が見たけりや、仁尾へ行け」とまでいわれるほどの繁栄ぶりだったようです。
 現在の仁尾は、干拓や埋立で海岸線が大きく海側へ移動していますが、中世ごろは賀茂神社境内から南へ延びる街路付近が海岸線だったようです。当時の港としては、古江と呼ばれている北側の入江から海岸線に沿った場所が考えられます。南側は、江尻川河口付近まで延びますが、この川は河口から少し内陸部に入ったところで、大きく屈曲しているので、河口から北側に大きな砂堆があったことが推測されます。この砂堆の中央を縦断するように伸びる街路Iが主要な街路として機能していたようです。
 仁尾については、北側に賀茂神社、南側の江尻川河口付近に草木八幡神社があり、それぞれの別当職である覚城院、吉祥院などの寺社が多く残ります。かつては、この両社は対立・拮抗を関係にあったようで、両社の勢力範囲の境界付近には「境目」という字名も残っています。

中世讃岐の港町を類型化してみると
1 類型I(松山津・三野津)
 氾濫を繰り返す河口部が大きく入り込んだ入江に港湾機能をもつ港です。砂堆は小規模で、元々はは河口奥に港湾機能があったのが、堆積作用で河口が埋没し、次第に船の出入りに支障をきたし、衰退していった港です。古代の港に多く見られ、松山津や三野津があてはまります。松山津は讃岐国府、三野津は宗吉窒跡との密接なつながりありました。しかし、古代末期の内陸部での完新世段丘崖の形成など、大規模な地形環境の変化で、河口部の埋積が急速に進み、港としては姿を消していきました。
3綾川河口復元地図
2 類型Ⅱ
 小さな河川の河口部に位置し、大きな砂堆の内側の入江に港湾機能を持っていた港です。砂堆や内湾部の入江の状況により、3つに細分化しています。
Ⅱの①型 砂堆の上に集落が広がり、内湾部に港湾機能をもつ港です。三本松・方本(屋島)・観音寺などがこれにあたります。
3観音寺

Ⅱの②型 砂堆が波止の役割を果たし、砂堆上には集落がないもの。その多くは、後背地に山を控え、海との間の狭い平地に集落が展開します。そのため、内陸へのアクセスが難しい港になります。庵治・佐柳島などがこれにあたります。

3庵治
Ⅱの③型 大きく内湾した入江に砂堆が付随し、河川の河口部に港湾機能をもつ港です。砂堆の外側にも船舶の停泊機能があり、複合的な港湾施設になり、その後の発展につながった港です。宇多津・野原(高松)がこれにあたります。

 以上を見てきて、改めて気付いたことをまとめておきます。
①見慣れた現在の港を基準に、中世の湊をイメージすると見えてこない
②河口やその周辺には砂堆が形成され、それが港の機能を果たしていた。
③港は港湾関係者や船乗り、交易者・商人などが「混住」する異空間を形成する
④港を管理するのは、管理能力のある僧侶達で寺院や神社が管理センターの役割を果たす
⑤中世後期には、交易ルートが布教ルートとなり各宗派の寺院が進出してくる
⑥政治的な勢力は港を直接支配下には置けていない
こんなところでしょうか。
 参考文献  北山健一郎 中世港町の地形と空間構成 「中世讃岐と瀬戸内世界」所収
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 長尾寺 もともとは志度寺と同じ寺?
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長尾寺
 
八十七番は補陀落山長尾寺です。長尾寺の中の観音院が現在本坊ですので、長尾寺観音院と「観音院」がうしろに付きます。天台宗です。補陀落山という山号がつくのはだいたい海岸のお寺で、八十六番の志度寺も補陀落山志度寺です。ですから、山号が同じということは、もとは同じ寺だったと推定できます。 
御詠歌は
あしびぎの山鳥の尾の長尾寺 
秋の夜すがらみ名をとなへよ
『四国損礼霊場記』によりますと、だいたい寺というは行基菩薩なりの開基、あるいは弘法大師の開基ということであり、この寺もその例にもれず、次のように記されています。
「聖徳太子開建ありしを、大師(弘法大師)霊をつゝしみ紹降し玉ふといへり」

聖徳太子と弘法大師を登場させるのは、もうひとつ縁起のはっきりしないことを示していると研究者は考えます。 推論すると、志度寺は熊野水軍の瀬戸内海進出の拠点港に開かれた寺のようです。それは補陀落渡海と観音信仰からも裏付けられます。その行者たちは、行場として女体山に大窪寺を開きます。志度寺と行場を結ぶ東西のルートと南海道が交わる所に、志度寺の行者の一つの院が分かれてできたのが長尾寺と研究者は考えています。
 縁起では、「
聖徳太子が始めて、弘法大師が修補した、本尊は弘法大師が作った」とあり、はっきりしないということを押さえておきます。
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 本尊の観音さんの立像は長三尺二寸、あまり太きくありません。 
大師の作也。又、阿弥陀の像を作り、傍に安じ給ふ。鎮守天照大神なり。 さし入るに二王門あり。
 熊野行者たちによって開かれた志度寺は、後には高野聖の拠点となり、死者供養のお寺になり、阿弥陀信仰が広がります。そのため分院であった長尾寺も阿弥陀信仰の拠点となります。阿弥陀の像を作った、そして観音さんのかたわらに安置したとあります。ここからも熊野行者から高野聖へ修験者の信仰が交代したことがうかがえます。
研究者が注目するのは、鎮守が天照大御神だということです。
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長尾寺
現在は長尾街道沿の街道に面して仁王門があります。

 中に入ると広い池がありますけれども、門のあたりは狭くて、両側に店屋がすぐ追っています。いまの池のあるあたりは、もとは遍路の宿で森の茂った境内だったようです。いまでも老松のみごとな庭園があります。龍や蛇が石の住に巻きついて、本尊さんを龍も蛇も拝んでいます。けれども、中世には寺が荒れていたようです。
『四国遍礼霊場記』が書かれた江戸時代の初めぐらいは、たいへん寂しい寺であった。お香やお灯明もしばしば絶えがちであったと書いています。
 戦国から安土桃山時代にかけては遍路どころではありませんが、世の中が落ちつくにつれて遍路が盛んになります。『四国損礼霊場記』が書かれたのは元禄元年です。このころにはまだ寂しいお寺であったようです。
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 江戸時代の末のころになると、遍路はふたたび衰えて、明治の初めぐらいには無住のところが多かったようです。八十八か所の中の半分ぐらいは無住だった。そこへ遍路で行った者が落ちついて、やがて住職になったというところがあります。あるいはゆかりの寺から住職が来て、そこで寺を興隆したということもありました。

 『四国領礼霊場記』は、慶長年間(1596~1615年)のころに生駒親正が豊臣秀吉から讃岐をもらって、名刹再興をしたと書いています。その次に松平氏が来るわけです。長尾寺は慶長年間ごろに再興されたものとおもわれます
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長尾寺本堂

この寺の奥の院は玉泉寺で、俗称「日限地蔵」です。

 現在でも、長尾寺の住職が隠居したら玉泉寺に入るという隠居寺になっているそうです。また、長尾寺の山号が志度寺と同じ筒陀落山であることとあわせて考察すれば、志度寺の一院が独立したという推定ができます。
87番奥の院(曼荼羅9番) 霊雲山 玉泉寺
 玉泉寺
志度寺にたくさんあった何々院、何々院の中の一つが独立して海岸から町のほうに出ていった。奥の院にあった寺が南のほうに出ていって、街道筋に長尾寺ができた。すなわち志度寺は海岸から2㎞奥まで寺域であったと考えてよいでしょう。

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この寺には、一月七日に「会陽」という行事があります。

この会陽は岡山県の西大寺の会陽と響きあっています。
つまり、長尾寺の会陽の音は西大寺のほうで聞こえる。西大寺の会陽の音は志度寺や長尾寺に響いてくる。その晩、耳を地面に付けて、足会を聞いた会は幸運があるということが、江戸時代の俳句の歳時記に善いてあります。
 四国の霊場で会陽の残っているのは善通寺と長尾寺だけです。
おそらくこれも志度寺にもとあったものを、長尾寺が継承しているのだとおもいます。
 会陽について筒単に説明しておきます。

岡山県側では、お年寄りは「エョウ」とはいわないで「エイョウ」と発音します。たいていこういう庶民参加の行事は、掛け声を行事の名前にするのです。
 西大寺の場会は、シソギ(神木・宝木)と称する丸い筒を奪い会います。
もともと筒は二つに割れています。その中に牛王宝印を巻いてあります。
それを二本入れてあります。それを筒状のもので覆って、その上をまた牛玉宝印で何枚も糊で貼っていって、離れないようにして、筒のままで何万という裸男の中に放り込む。奪い会っているうちに割れてしまうので、最後に二人の人がこれを手に入れることになります。まれに割れずに手中にいたしますと、モロシソギといって二倍の賞品がもらえます。
 長尾寺の絵巻物、で「会陽」を見ると、西大寺と同じように、やはり串牛玉をたくさん上から投げています。ですから、たくさんの人がそれを拾っていくことができます。牛王宝印というのは本尊さんの分霊です。分霊をいただいて自分の家へ持って帰っておまつりをすると、観音さんの霊が自分の家に来てくださるということになります。
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長尾寺境内
餅撒きというのがありますが、これも御霊を配る神事です。

 手わたしでいただいたのでは福がありません。
投げてもらって、みんながワーッと行って取る。争うということに功徳を認める。それが会陽というものの精神です。どうして会陽というかといいますと、西大寺の場合を見ればよくわかります。西大寺の場合はシソギ投下、牛玉宝印を投げ下ろすまで、それに参加する人々は地押しをしなければいけません。その地押しのときに「エイョ、エイョ」という掛け声をかけます。
 観音堂の横に柱が西本立っています。それはいまでも変わらないようです。
そして、梯子に手を掛けて、「エイョウ、エイョウ」と地面を踏む。近ごろは「ワッショイ、ワッショイ」になってしまったようですが、お年寄りたちは「エイョウ」といったと話しておられます。それは地面を踏むことによって悪魔を祓う。相撲の土俵で四股を踏むのと同じことです。これに手をかけるのは力士が鉄砲を踏むのと同じです。相撲と起源を同じくします。
 四股を踏むのは悪魔祓いの足踏みです。
その足踏みが「ダダ」です。東大寺のお水取の場合はダッタソといいます。これをダッタソと発音しますので、ダッタン人の舞楽というような説ができました。このときの掛け声がエイョウで、漢字を当てると「会陽」となります。           
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 そういうことで、長尾寺の会陽は志度寺の会陽が分離して長尾寺に継承された可能性があるので、長尾寺はもとは志度寺と同じところにあったと考えられます。志度寺と長尾寺の一体性は十分に考えられることです。

 長尾寺の鎮守が天照大御神であるということは、いろいろな解釈ができます

天照大御神は熊野では「若宮」としてまつられています。
もちろん、若宮は天照大御神ではないのです。熊野の三所権現はただの熊野権現です。新宮・本宮・那智の三所のほかに、横に若宮の御殿が独立している重いお宮です。
 ところが、熊野の信仰がでぎたとぎに、新宮のほうは伊井諾尊、那智のほうは伊非再尊ということにしたために、若宮は伊許諾・伊井再尊の間に生まれた子どもということになって、天照大御神になったわけです。
 そういういきさつがありまして、実際には若宮といわれるものは若王子だったのです。若一王子というものが三所権現のなかに入ったのです。那智と新宮と本宮とで位置はそれぞれ変わりますが、権現がそろうことは変わりがありません。
 若宮すなわち若王子の「王子」は海の神様です。
 したがって、長尾寺の鎮守は海の神様だということが推察されます。伊予のあたりのお寺には札所に王子があります。西行が善通寺の西にある我拝師山について書いたものの中にも「わかいし」とあるので、西行のころには、まだ若一王子が札所にあったことがはっきりしていました。
 こういういくつかの事例から、歴史的には長尾寺も志度寺の一部であって、志度寺が分離してここに来て、観音信仰と補陀落信仰とが奥までもってこられたのだという推論ができます。

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お堂については、仁王門が阿讃街道に面しています。

そこに石徐という石の柱があります。徐とは柱という意味です。
その柱にお経が書いてあるというので緩徐ともいいます。たいへんに珍しいことに、弘安六年と弘安九年の二本の経徐が残っています。お経の文字はほとんど読めませんが、年号だけは読めております。重要文化財になっています。

 本堂に向かって右のところに大師堂と薬師堂があります。
薬師信仰は海の薬師が非常に多い。その薬師信仰があるということにも、志度寺との関係が考えられます。
札所になりますと何宗でも大師堂ができます。
領主の命令によって真言宗から天台宗に変わりました。
真言宗のお寺には、常行堂はありません。常行堂は必ず天台宗にあるお堂ですので、そのときに建てられたものだろうと推定されます。しかも、志度寺に法草堂があって、常行堂のほうが分かれて長尼寺に来たと考えられます。法草堂と常行堂はいつでもペアになってあるものです。
 比叡山では現在、西塔の向かって左側に常行堂、向かって右側に法草堂があります。ここで法華ハ皿講、常行三昧が行われます。
常行三昧というのは、真ん中に阿弥陀さんを置いて念仏をうたう堂僧が、その周囲を回りながら念仏を唱える。常行三昧はやがて不断念仏というものになります。
 不断というのは、常行三昧は九十日間ずっとやめないというのが伝統だからです。したがって、ここに勤める堂憎は専門の念仏のうたい手です。そういう者が十二人なり二十四人なり四十八人なりが詰めていまして、交代で不断念仏をうたいます。こういうものができましても、江戸時代になると実際には行われないのです。

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 江戸時代になると、寺の伽藍の体裁として天台寺院だったら常行堂がある。そういうことで常行堂は建ちますが、とりたてて修行はなかったようにおもいます。ですから、ここに常行堂があるということは天台宗に変わったときに造られたと考えられます。 それから、天満天自在天堂があります。これは菅原道真をまつったものです。
特別の意味はありません。

おもしろいのは風呂があるということです。

 別所が少し離れたところにあります。大きなお寺がありますと、そこに奉仕する人たちの住むところを別所といいます。同時に、そこを風呂地といったりします。
 紀州の由良に、興国寺といって、たいへん大きなお寺がありますが、この寺に別所があります。別所に風呂という場所があります。風呂に四人の虚無憎がいました。
これが尺八の虚無僧の始まりです。いろいろな記録や興国寺の伝承にそうあります。
 このへんはちょっと謎があります。全国どこに行っても、虚無憎がいたところを風呂地といいます。虚無僧と呼ぼれる寺の奉仕者が、アルバイトというか、風呂を沸かして、人々を入れて収入としていたと考えられます。
 最近では福島の会津あたりにたくさんの風呂があり、虚無僧がいた。のちになると虚無僧そのものが尺八を吹くより風呂のほうに転業してしまうということが研究者によって明らかになっています。
 長尾寺の別所の場合は、蒸風呂で、風呂は小さいものです。薪で石を焼いて、それを水の中に放り込むやりかたでした。

五来重:四国遍路の寺より

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