昔話が親から子へ、そして孫へと伝えられている間は、大きな変化や改編は行われません。しかし、外部からやって来た半俗半僧の高野聖たちの手にかかると、おおきなリメイクが行われることがよくあります。四国では四国辺路(遍路)のためにやってきた高野聖たちが昔話を縁起化・教説化がして、仏教布教のため寺の縁起として利用していたようです。そんな例として、志度寺の縁起を見てきました。
今回は志度寺縁起の創作や広報伝播に関わった高野の念仏聖たちに焦点を当ててみたいと思います。
 
志度寺の7つの縁起を呼んでいると、寄進・勧進を進め、寺の経済を支えた下級の聖たちがいたことが見えてきます。
例えば、仏教的な「作善(善行)」を民衆に教えることによって、蘇生もし、極楽往生もできると説いています。
「白杖童子蘇生縁起」を見てみましょう。
山城国(京都)の淀の津に住む白杖という童子は、馬を引いて駄賃を貰い貧しい生活をしていた馬借であった。妻も子もない孤独な身の上で世の無常を悟っていた。心ひそかに一生のうち三間四方のお寺を建立したいとの念願を抱いて、着るものも着ず、食べるものも食べず、この大願を果たそうとお金を貯えていた。
 ところが願い半ばにして突然病気でこの世を去った。冥途へ旅立った童子は赤鬼青鬼につれられ閻魔庁の庭先へ据えられた。ご生前の罪状を調べているうち「一堂建立」の願いごとが判明し、王は感嘆して

「大日本国讃岐国志度道場は、是れ我が氏寺観音結果の霊所也。汝本願有り、須く彼の寺を造るべし」

 こうして童子は、蘇生の機会を得てこの世に生還する。その後日譚のあと、童子は志度寺を再興し、極楽に往生したというのがこの縁起あらましです。
この縁起はどんな時に、どんな場所で語られていたのでしょうか?
 まず考えられるのは、志度十六度市などの縁日に参詣客の賑わう中、縁起絵を見せながら絵解きが行われていたのではないかと研究者は考えているようです。
 囚果応報を説くことは、救いの道を説くことと同時に、志度寺に対する寄進・勧進などを促しています。前世に犯したかも知れない悪因をまぬかれる(滅罪)ためには、仏教的作善が求められます。それは
「造寺、造塔、造像、写経、法会、仏供、僧供」

です。ここでは造寺という大業を果たした白杖童子を語ることで、庶民にもそうした心を植えつけ、ささやかであっても寺に寄進するようすすめるのがこの物語のドラマツルギーのように思えます。こんな説教を聞いて、人々は今の禍いや来世の地獄の責苦からのがれるために「作善」を行おうと思うようになったのでしょう。こうした話を、寺院の修造建築のために村々に出向いて説いて勧進して歩きまわった勧進僧(唱導聖)が、志度寺周辺に数多くいたようです。
志度寺縁起の「阿一入道蘇生縁起」を見てみましょう
伏見天皇の文保元年(1317)に阿一は急死します。ところがその日のうちに蘇生して冥土から帰ってきます。その理由は閻魔王宮に到着した阿一が
「偏に念佛申、後世菩提の勤を営みたらましかば、観音の蓬台に乗して、極楽へこそ参べきに、世にましはり妻子脊属をはくくまんとせしほどに一生空く茫々として夢幻のことく馳過にき」

と閻魔様に述懐したためです。
 この姿を見た琥魔大王は
「汝十八日夜、志度道場三ヶ年よりうちに修造仕覧と起請文書たるか」
「讃岐国志度道場は殊勝の霊地我氏寺也。彼堂を三ヶ年よりうちに修造せむと大願を立申さは、汝を娑婆へ帰し遣へし」
 と、今後三年間で志度道場(寺)の本堂修造の起請文書を閻魔様に差し出し、娑婆(現世)に送り帰らされることになります。こうして、阿一は現世に帰り、寺の修復にあたることになります。
 ここから分かることは、閻魔様は、阿一は荒廃した志度寺の修造に当たらせるために蘇生させたのです。その裏には寺を修造するという仏教的作善があります。それが復活の機会を与えることになったようです。
先ほどの縁起の中には「讃岐国志度道場は殊勝の霊地我氏寺也」と書かれていました。志度寺は「閻魔大王の氏寺」だというのです。そのため「死(渡)度寺」とも書かれていたようです。
 志度寺は、死の世界と現世との接点で、海上他界観にもとづく補陀落信仰に支えられた寺であったようです。この寺の境内では6月16日には、讃岐屈指の大市が立ち、様々なものが集まり取引されました。陸路だけでなく瀬戸内海にも開けていたために、対面の小豆島から舟で農具を初め渋団扇、盆の準備のための品々を買い求めにやって来ました。島では、樒(しきみ)の葉を必ず買い求めたと云います。志度寺の信仰圈は小豆島にまで及び、内陸部にあっては東讃岐全域を覆っていたようです。特に山間部は、阿波の国境にまで及んでいました。
 盆の九日に、志度寺に参詣すると千日参りの功徳があると信じられていました。
さらに翌日の十日に参ると「万日参りの功徳」があると云われていたようです。この時には、奥山から志度寺の境内へ樒(しきみ)の木を売りに来るソラ集落の人たちたくさんやってきました。参詣者はこれを買って背中にさして、あるいは手に持って家に戻って来ります。これには先祖の霊が乗りうつっていると信じられていたようです。海から帰ってくる霊を、志度寺まで迎えに来たのです。帰り道に、霊の宿った樒を地面に置くことは御法度でした。樒は盆の間は、家の仏壇に供えて十五日が来ると海へ流します。先祖を再び海に帰すわけです。ここからも志度寺は「海上他界信仰」の寺で、先祖の霊が盆には集まってくると信じられていたことが分かります。まさに「死渡」寺だったのです。

「死者の渡る寺」をプロデュースしたのは、どんな集団だったのでしょうか
  それが高野聖だったようです。高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖だったと研究者は考えているようです。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があるようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

 高野聖の廻国は有名で、研究者の中には「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。
 時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。
 観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。

高野の聖は、志度寺をどのようにプロデユースしたのか?
高野聖たちがまずやらなければならなかったことは、勧進にのために知識(信仰集団)を組織し、講を結成して金品や労力を出しあって「宗教的・社会的作善」をおこなうことの功徳(メリット)を説くことでした。その反対に勧進に応じなかったり、勧進聖を軽蔑したためにうける悪報も語ります。奈良時代の『日本霊異記』は、そのテキストです。
 唱導の第1歩は、
志度寺の縁起をや諸仏の誓願や功徳を説き、
釈尊の本生(前世)や生涯を語り、
高僧の伝記をありがたく説きあかす。
これによって志度寺のありがたさを知らせ、作善に導いていく導入路を開きます。一般的には『今昔物語集』や『沙石集』が、このような唱導のテキストにあたるようです。
第2のステップは、伽藍造営や再興の志度寺の縁起や霊験を語ることです。
縁起談や霊験談、本地談あるいは発心談、往生談が地域に伝わる昔話を、「出して・並べて・くっつけて・・」とアレンジして、リニューアル・リメイクします。これらの唱導は無味乾燥な教訓でなく、物語のストーリーのおもしろさとともに、美辞麗句をつらねて人々を魅することが求められます。これが7つの志度寺縁起になるようです。
 しかし、元ネタがなければ第1話の本尊薬師如来の由来記のように、長谷寺のものをそのまま模倣するという手法も使われます。高野聖にとって、高野山に帰れば全国のお寺の情報を得ることが出来ました。先進実践例や模範由来記があれば、真似るのは当然のことです。これも文化伝播のひとつの形です。
 志度寺の海女の玉取伝説は、日本書紀に出てくる阿波の記事をリメイクしたものであることは前回お話ししました。これは出来の良い縁起っもの語りになりました。息子の栄達のために命を捧げる物語のというテーマは「愛と死」です。これほどドラマティックな要素はありません。この2つの要素を聖たちは、壮大な伝奇的構想のなかに織りこむことによって、志度寺の縁起物語を創作したのでしょう。出来が良い説経は、能や歌舞伎、浄瑠璃に変化して世俗的唱導と姿を変えていきます。これを語ったのは放浪の盲僧や山伏や、社寺の勧進聖たちでした。その際に唱導は、文字で伝えられたのではありません。語り物として口から耳へという伝えられたのです。そこでは自然と、語り口に節がつけられ、聞くものを恍惚をさせる音楽的効果が伴われるようになります。これが「説経の芸能化」なのでしょう。
縁起物語のもう一つの方向性は、軍記物(合戦談)です。人間の死ほどドラマティックなものはありません。また庶民は勇士や豪傑の悲壮な死や、栄枯盛衰に興味は集中していきます。その結果、生まれるのが『平家物語』とか『源平盛衰記』です。この一連の作業工程に、大きく関わったのが高野聖たちではなかったのかと私は考えています。

最初に思っていた方向とは、だいぶんちがう所へ来ていましたようです。今回はこのあたりで・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
谷原博信 讃岐の昔話と寺院縁起
五来重  高野の聖