瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:念仏踊り

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

  滝宮念仏踊りのひとつに坂本村念仏踊り(丸亀市飯山町)があります。
旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた坂本念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。
喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に7日7夜断食して祈願したところ7月25日から27日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

ここには菅原道真が雨乞いを祈願して、雨が降ったので百姓たちは、悦び踊ったとあります。注意して欲しいのは、雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。江戸時代の前半には、踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。もうひとつ文書を見ておきましょう。
滝宮念仏踊り3 坂本組

嘉永六(1852)年の七箇村念仏踊り(現まんのう町・琴平町)に関する史料です
 この年の七箇村念仏踊は、真野村庄屋の三原谷蔵が総触頭として、先例通りに7月7日に真野不動堂で寄合を行い、17日に満濃池の池の宮で笠揃踊を行い、その後に各村の神社で踊興行を行って、25日に滝宮に躍り込む予定で進められていました。ところが17日に池の宮で笠揃踊を行った時、西領(丸亀藩)側の村々から次のような申し入れがでます。
  先達而から照続候二付、村々用水差支甚ダ困り入申候二付、25日滝宮相踊リ、其内降雨も有之候バ同所二而御相談申度候間、先25日迄外宮々延引致候事」。

意訳変換しておくと
 春先から日照りが続き、村々の用水に差し障りがでて、水の確保に追われ困っている。ついては、25日の滝宮相踊までには、雨も降るかも知れないが雨がないときには、各村の神社での踊興行を延期したい

 簡単に言うと、旱魃で大変なので念仏踊りは雨が降るまで延期したいという申し入れです。最初に、これを呼んだときには私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「雨が降るまで、念仏踊りは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、宮々の踊興行を延期したのです。ここからは関係者の間には、雨乞いのための念仏踊であるという意識はなかったことが分かります。
  それでは念仏踊りは何のために踊られていたのでしょうか?
  念仏踊りに用いられる団扇を見てみましょう。団扇が風流化した踊念仏で主役として使用されます。滝宮神社の「念仏踊」にも下知が役大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。ここでは「願成就」となっています。「雨乞成就」ということなのでしょうか?
近畿の雨乞い踊りを見てみましょう。

石上神社

以前にお話した奈良の布留郷の郷民たちの雨乞いを、見ておきましょう。
 日照りが続くと布留郷の郷民代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供え、雨を祈願します。これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここではオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいました。名前からして念仏踊りの系譜を引くものあることがうかがえます。
ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る

とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。雨乞成就のためのものですから、このヲドリは江戸時代を通じて何回も踊られています。
布留3HPTIMAGE
なむて踊りの絵馬

文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。

この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。

1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

もうひとつ和泉国日根野荘の郷民による雨乞を見ておきましょう。
公家の九条政基は、戦乱を避けて自分の所領である和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)に「亡命」します。ここには修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。そこで見た雨乞いの様子が、彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条に、次のように記されています。
①滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②効果のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で祈祷する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
ここでも雨乞いに、民衆が踊る念仏踊りは出てきません。
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日根野庄の滝宮(現火走神社)
出てくるのは、雨が降った後のお礼です。
 降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。ここでも「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。
 本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。 ここでもうひとつ注目しておきたいことは、この踊りが村人たちの手で踊られていることです。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

その背景を、研究者は次のように指摘します。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために、高野の念仏聖たちが民衆の間に流布させた「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために創り出されたものではありません。念仏聖たちが村人たちに伝えたものです。それが先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られるようになっていました。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
 注意しなければならないのは「雨乞い」のための踊りではなかったことです。
考えて見れば、国家的な雨乞いは、空海のような真言の高僧が善女龍王に祈祷して雨を降らせるものです。民間の民雨いも、それなりの呪術力をもった山伏が行っていたのです。そこへただの村人が盆踊りで踊られている風流踊りや念仏踊りを、雨乞いのために踊っても民衆たちは効能があるとは思わなかったでしょう。念仏踊りは、雨乞い成就のお礼のために踊られたのです。

   ここには、滝宮念仏踊りとの共通点をいくつか拾い出せます。
①「村切り」前の郷エリアの郷社に奉納されている。
②布留郷全体の村々から踊りのチームが出されている
③雨乞い踊りではなく雨乞いの「満願成就のお礼」として踊るものだった。
滝宮念仏踊り2
 滝宮念仏踊り

このような視点でもう一度、滝宮念仏踊り見てみましょう
滝宮念仏踊りは雨乞い踊りである先入観を捨てると、何が見えてくるのでしょうか。考えられるのは次のような仮説です。
①中世の讃岐では高野の念仏聖や時宗聖たちによって、念仏信仰が広められ念仏踊りが広く踊られるようになっていた。これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかった。
②高野念仏聖などのプロデュースで郷村の祭礼や盆踊りで、念仏踊りが踊られるようになる。
③それが日照りの際の「満願成就のお礼」として、郷社に奉納されるようになる。
④菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社にも、各郷の念仏踊りが奉納されるようになる。
⑤戦国時代の混乱の中で、滝宮神社への躍り込みは中断する。
⑥これを復興したのが髙松藩初代藩主の松平頼重で、彼は近畿で踊られていた「南無手」踊りを知っていた上で、雨乞いのためという「大義名分」を前面に押し出し復興させた。
⑦こうして、中世の各郷村単位で編成された組が江戸時代を通じて、3年毎に滝宮神社に念仏踊りを奉納するようになる。
⑧滝宮の躍り込みの前には、各郷村の下部の村単位の神社にも奉納興行が行われ、そこには多くの見物人が押しかけた。
⑨踊り手などの構成員は、世襲制で宮座制に基づく運営が行われていた。
⑩奉納される神社にも、特権的な桟敷席が設けられ売買の対象となっていた。
一遍】ダンシング宗教レボリューション!一遍研究者の「踊り念仏」白熱教室:~国宝「一遍聖絵」をじっくり絵解き!時宗の名宝展がグッと面白くなる~#ky19b160  | 京都の住民がガイドする京都のミニツアー「まいまい京都」
一遍の踊り念仏

 つまり、滝宮念仏踊りのルーツは中世の踊り念仏にあるという説になります。
中世には高野の聖たちのほとんどが念仏聖化します。弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺への布教活動を行っていたことは以前に見たとおりです。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いちしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は次のように記します。
「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡小松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

念仏踊りのルーツは高野の念仏聖や時宗の躍動念仏だと研究者は考えているようです。
  また、⑧⑨⑩からは、念仏踊りがもともとは中世のムラの民俗芸能として、祭礼と結びついていたことを教えてくれます。讃岐の念仏踊りが、雨乞いと結びつけられるようになるのは、近世になってからだと私は考えています。
EDM-6 Buddhist bounceと踊り念仏 - みんなアホだね

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

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イメージ 2
綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)
  風流踊りのユネスコ文化遺産への登録が間近となってきました。全国の風流踊りを一括して登録するようです。登録後の動きに備えて、まんのう町佐文の綾子踊りの周辺も何かしらざわめいてきました
 どうして各地に残る念仏踊り等が一括化されるのでしょうか。
 各地に伝わる風流踊りのルーツをたどると念仏踊りにつながっていくからのようです。そのつながりはどうなっているのか、私にはもうひとつよく分かりません。そこで今回は、念仏踊りから風流踊りへの「成長」プロセスを見ておこうと思います。それが佐文綾子踊りの理解にもつながるようです。テキストは五来重 踊念仏と風流 芸能の起源です。
「念仏踊」は「踊念仏」の進化バージョンです。とりあえず次のように分類しておきましょう。
踊り念仏 中世の一遍に代表される宗教的な踊り
念仏踊り 近世の出雲阿国に代表される娯楽的な踊り
踊念仏は「をどり念仏」とか「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の念仏」、あるいは「踊躍念仏」とよばれていました。踊りながら太鼓や鉦(かね)を打ち鳴らし、念仏を唱えることを言います。
 起源は平安時代中期の僧空也にあるとされています。
その後、鎌倉時代に一遍(1239~1289)が門弟とともに各地を巡り歩いて、踊り念仏を踊るようになります。彼らは一念の信を起こし、念仏を唱えた者に札を与えました。このことを賦算(ふさん)と呼びます。一度の念仏で極楽往生できると約束された喜びを表現したのが「踊り念仏」であるとされています。

「踊り念仏」の画像検索結果

一遍は、興奮の末に煩悩を捨て心は仏と一つになる、と民衆に踊り念仏を勧めました。
"ともはねよ かくても踊れ こころ駒 
みだのみのりと きくぞうれしき"

という一遍の歌にもあるように、踊ることそのものによって仏の教えを聞き、それを信じることによって心にわく喜びを得るというのが一遍の踊り念仏の考え方です。
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  『国女歌舞伎絵詞』には、次のような台詞があります
今日は二月二十五日、貴賤群衆の社参の折柄なれば、かぶきをどりを始めばやと思ひ候。まづ、念仏をどりを始め申さう
ここからは、歌舞伎おどりの前に、念仏踊りが踊られていたことが
分かります。浅井了意の『東海道名所記』には、次のように記されています。
「出雲神子におくに(出雲阿国)といへる者」が五条の東の河原で「やや子をどり」をしたばかりでなく、北野の社の東に舞台をかまえて、念仏をどりに歌をまじへ、ぬり笠にくれなゐのこしみのをまとひ、売鐘を首にかけて笛、つづみに拍子を合せてをどりけり。

ここからは踊念仏が、近世に入って宗教性を失って、「やや子をどり」や「かぶきをどり」などの娯楽としての念仏踊りに変化していく様子が見えてきます。  
踊り念仏の起源を、追いかけておきましょう。
「弥陀の称名念仏」というのですから、浄土信仰にともなって発生したもであることは分かります。称名念仏は次のふたつから構成されます
①詠唱するに足る曲調
②行道という肉体的動作をともなうもの
このふたつが念仏を拍子にして踊る「踊念仏」に変化していきます。この念仏をはじめたのは比叡山の慈覚大師円仁であり、その基になったのが五台山竹林寺につたわる法照流五会念仏だったことは史料から分かるようです。
入唐求法巡礼行記(円仁(著)、 深谷憲一(訳)) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 念仏は浄土信仰の発展とともに、浄土往生をねがう念仏にかわっていきます。念仏の出発点は、詠唱(=コーラス)でした。この上に後の念仏芸能が花が開くことになるようです。ここで押さえておきたいのは、浄土教団の念仏だけが念仏ではなかったことです。
それでは当時の念仏コーラスとはどんなものだったのでしょうか?

慈覚大師円仁のつたえた五会念仏は、『浄土五会念仏踊経観行儀』に、次のように記されています。

此国土(浄土)水鳥樹林、諸菩薩衆無量音楽、於二虚空中、
一時倶和二念仏之声

そして『五会念仏略法事儀讃』には、
第一会 平声緩念  南無阿弥陀仏
第二会 平上声緩念 南無阿弥陀仏
第三会 非緩非急念 南無阿弥陀仏
第四会 漸急念    南無阿弥陀仏
第五会 四字転急念 阿弥陀仏
とあるように、緩急転の変化のある声楽であったことが分かります。でも「楽譜」はありません。つまり、寺院の中に大切のおさめられた経典の中には、残されていないということです。しかし、民間の中に広がった融通念仏には、そのコーラス性が重視されて発展していったものがあるのではないかと研究者は考えているようです。

1 融通念仏
 融通念仏
大原の良忍によって作曲された融通念仏は、念仏合唱の宗教運動だったされます。
美しい曲譜の念仏を合唱することによって、芸術的エタスタシーのなかで宗教的一体感を体験する運動です。それと同時に、その詠唱にあわせた踊念仏がおこなわれ、これが融通大念仏とよばれるようになります。これには狂言まで付くようになり、壬生狂言にも正行念仏という詠唱念仏と行道があったようです。

「大原の良忍」の画像検索結果

  大念仏も鎌倉時代中期には、「風流」化して娯楽本位となり、批判を浴びるようになっています。
『元亨釈書』の「念仏」には、次のように記されています。
元暦文治之間、源空法師建二専念之宗、遺派末流、或資千曲調、抑揚頓挫、流暢哀婉、感人性喜人心。士女楽聞、雑沓群間、可為愚化之一端央。然流俗益甚、  動衡二伎戯、交二燕宴之末席・(中略)
痛哉、真仏秘号、蕩 為鄭衛之末韻。或又撃二饒馨、打跳躍。不レ別二婦女、喧喋街巷其弊不足言央。
意訳変換しておくと
元暦文治(平安末の12世紀末)には、源空(法然)法師が専修念仏を起こした。その流れを汲む宗派は競って念仏を唱え、二千曲を越える念仏調が生まれた。その曲調は、抑揚があり、調べに哀調が漂い、人々の喜びや悲しみを感じるものであった。そのため男女を問わず、雑沓の群衆は、この旋律に愚化され、俗益は甚しきものがあった。これでは、伎女の踊りや宴会の末席と変わらない・(中略) 痛むべきかな、真仏秘号への冒涜である。或いは、鉦を打ち、飛びはねる者も現れる始末。男女の見境なくし、巷で行われる。

ここからは、美しい曲調で哀調を込めて切々と念仏が謡われ、鉦を打って踊念仏が踊られていた様子が伝わってきます。しかも念仏が、俗謡(鄭衛之末韻)化していたことも分かります。これに対して他宗派の僧侶や知識人からは、批判の声も上がっていたようです。しかし、一般民衆はたのしみ、歓迎していたようです。だから爆発的な拡がりを見せていくのです。こうして踊念仏は、多くの風流をくわえながら、現在各地方に見られるようないろいろな姿の風流踊念仏に成長していくことになります。
踊念仏といえば一遍がです。それでは、一遍の踊念仏はどんなものだったのでしょうか。
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『一遍聖絵』(巻四)には、 一遍の踊念仏は空也の踊念仏を継いだもと次のように記されています。
抑をどり念仏は、空也上人、或は市屋、或は四条の辻にて始行し給けり。(中略)
それよりこのかた、まなぶものをのづからありといへども、利益猶あまねからず。しかるをいま時いたり機熟しけるにや、同国(侵漑鴎)小田切の里、或武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。
意訳変換しておくと
踊念仏は、空也上人が市屋や四条の辻にて始めたものである。(中略)
空也の踊りを学び継承しようとする者もいたが、人々に受けいれられず広がらなかった。そのような中で一遍は、時至り機熟したりと信濃の小田切の里や、武士の館で聖踊りを踊り始めたところ、僧侶や民衆が数多く集めって来て、宗教的な効果が大なので、次第に継続して踊るようになった。それがひとつの恒例行事のようになった。
ここからは、一遍以前に空也の乱舞的踊念仏がおこなわれていたことが分かります。
1 空也踊り念仏
空也の念仏踊り

これに対して一遍の踊念仏は融通念仏の曲譜に合せて踊る芸能的な踊念仏だったと研究者は考えているようです。
 一遍の生涯は「融通念仏すすむる聖」(『一遍聖絵』巻三)であったし、「三輩九品の念仏」(『一遍聖絵』巻三)という音楽的念仏に堪能だったようです。三輩九品の念仏は九品念仏の中でも、声のいい能声の僧をあつめておこなうものでした。
  一遍の踊念仏は、僧の時衆と尼の時衆が混合して踊るものでした。それは後の盆踊のような趣があったでしょう。これが踊念仏の風流化に道をひらく性格のものだと研究者は考えているようです。

九品念仏は、遊行の乞食のような聖によってうたわれていたようです。            
鎌倉末期の『徒然草』(百十五段)には、次のように記されています。
宿河原といふところにて、ぼろぼろおほく集りて、九品の念仏を申しけるに、(中略)
ぼろばろといふ者、むかしはなかりけるにや。近き世に、ばろんじ、梵字、漢字など云ひける者、そのはじめなりけるとかや。世をすてたるに似て我執ふかく、仏道をねがふに似て闘語をこととす。放逸無意のありさまなれども、死を軽くし、(後略)
意訳変換しておくと
京の宿河原に、乞食のような聖が多数集まって、九品の念仏を唱えている、(中略)
ぼろばろ(暮露)などと云う者は、むかしはいなかったのに、近頃は「ばろ(暮露ん字)、梵字、漢字」など呼ばれる者たちが、その始まりとなるようだ。世捨て人にしては我執がふかく、仏道を説くに喧嘩のような言葉遣いをする。放逸無意のありさまであるが、滅罪で人々の死を軽くし、(後略)
ここには、半僧半俗の聖が九品念仏を謡っている様子が描かれています。
その姿は近世の無宿者の侠客に似た生き方をしていたようです。その名も「しら梵字」とか「いろをしと申すぼろ(暮露)」などとよばれています。暮露は「放下」(放下僧)と同じ放浪の俗聖で、禅宗系の遊行者で、独特の踊念仏を踊ったとされます。
 これに対して「鉢叩」が空也系の念仏聖なのでしょう。暮露と放下と鉢叩は『七十一番職人尽歌合』に図も歌も出ています。少し寄り道して覗いてみましょう。
1 暮露
暮露

暮露は半僧半俗の物乞いで、室町時代には尺八を吹いて物を乞う薦僧(こもそう)となります。のちの虚無僧(こむそう)はこの流れだとされ「梵論字(ぼろんじ)。梵論梵論(ぼろぼろ)」とも表記されます。

1 放下と鉢叩
放下と鉦叩き 
放下も大道芸のひとつです。
「放下」という語は、もともと禅宗から出た言葉で「一切を放り投げて無我の境地に入ること」を意味するもです。そこから「投げおろす」「捨てはなす」という意味が派生して鞠(まり)や刀などを放り投げたり、受けとめたりする芸能を行う人たちのことを指すようになります。もともとは、禅宗の聖のようです。

さいたまの中心でオタク満載を叫ブログ#4|323日連続+405記事投稿達成!! MUSASHI OWL|note

  鉢叩(はちたたき)も大道芸のことですが、もともとは踊念仏を踊る時宗信徒で、空也を始祖と仰いだようです。

1  踊り念仏

   暮露と放下と鉢叩がつたえたとされる踊念仏が奥三河には残っています。
地元では、これを大念仏とか盆念仏、念仏踊、提灯踊、掛け念仏、あるいははげしい跳躍をする踊り方から「はねこみ」などと呼んでいます。道に灯される切子灯籠には、今でも「暮露」と書かれています。
はねこみは、「はねこみ」「念仏」「手おどり」の3つから構成されています。「はねこみ」は、下駄に浴衣姿の若者が初盆宅の供養や先祖供養のために、輪になって片手に太鼓を提げ、もう一方の手には太くて短い撥を持ち、笛の音に合わせて太鼓の皮と縁を交互に打ち鳴らしながら、片足で飛び跳ねながら踊ることから始まります。
 次いで、中老衆と呼ばれる年配の方が「なむあみだぶつ」となどと鉦を叩きながら、念仏を唱えあげます。最後に、円形の輪を組んで手おどりが行われます。」
「はねこみ踊り」の画像検索結果

「はねこみ」の語源は、片手に提げた太鼓を飛び跳ねながら叩き踊るところに由来があるようです。ここからは奥三河に残る踊念仏が、念仏聖や高野聖・時衆聖などによってこの地に伝えられたものであること、それを民衆が時代の中で「風流」化していったものであることがうかがえます。
 奥三河の大念仏では、暮露系の踊念仏と放下系の放下大念仏とが混在しています。
放下大念仏は、風流の大団扇を背負うのも特色でが、暮露の踊念仏の方でも団扇をもつものがすくなくないようです。それにしても、どうしてこんなおおきな団扇を背負うようになったのでしょうか。それは後で考えることにして、先に進みます。
 『七十一番職人尽歌合』では、放下は笹に短冊をつけた負い物を背負い、ササラの代りにコキリコを打っています。放下も「やぶれ僧」ともよばれたことが歌によまれています。ここからも放下と暮露は重なっていたことがうかがえます。
月見つゝ うたふ疇うなの こきりこの
竹の夜声の すみ渡るかな
やぶれ僧 えばしきたれば こめはらの
男とみてや しりにつくらん
この「やぶれ僧」から「ぼろぼろ」の名称が出たと研究者は考えているようです。そして短冊をつけた笹の負い物が、幣の切紙をつけた割竹になって、現在の踊り姿になっていることがうかがえます。
研究者は次のように指摘します。
①踊念仏の「風流」化は、このような負い物や持ち物や服装からおこり、
②詠唱念仏は和讃や法文歌から「小歌」や盆踊歌や「くどき」に変化する
4mもあるヤナギやシナイを背負ったり、大きな太鼓を胸につけたり、華美な花笠をかぶって、女装までして、盆踊歌や恋歌をうたうのを、踊念仏、大念仏と称するのはそのためだと云うのです。

1 踊り念仏の風流化

放下と暮露は、念仏の軌跡の中に大きな足跡を残しているようです。
彼らが京の河原に道場を構えて、念仏を詠唱したことは先ほど見た『徒然草』(百十五段)であきらかです。『平戸記』(仁治三年十月十三日)にも、淀の河原に九か所の念仏道場があったことが次のように記されています。(意訳のみ)
今朝、淀津に向かうために鳥羽から川舟に乗って下る。
淀には西法法師が住んでいる島がある。その他にも、9ヶ所の道場があり、九品念像を信仰している。(中略)
そのため近頃は、男女が群衆となって結縁のために集まってくる。そして見物も開かれている。
(中略) 九品道場を見てみると、美しく筆に記しがたい程である。その後、上品上生道場に向かった。ここにも多くの人々が集まっていた
ここからは、瀬戸内海の物流拠点としての賑わいを背景に、淀津には多くの宗教施設が現れていたことが分かります。西法法師は勧進聖で他は暮露の輩と研究者は考えているようです。
  このように河原に道場をかまえる九品念仏は、その他でも見られたようです。
念仏踊り -2022年- [祭の日]

尾張の知多半島の阿久比川の河原では、九品念仏の行事が行われていたようです。
 これは「虫供養」とよばれ、1950年頃までは、河原に九棟あるいは十棟の仮屋をしつらえ、弥陀三尊や来迎図、十三仏などの本尊をかけて、村の念仏講が四遍念仏や百万遍念仏を行っていたと云います。
「三河の放下大念仏」の画像検索結果

 三河の放下大念仏も、放下念仏のスタイルである「ほろ」(「ホロ背負い」)をそのままのこしています。踊子の負い物である団扇は高さ3,5m幅1.5mの大きなものです。これは「放下僧」のもつ団扇が風流化したものと研究者は考えているようです。

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 『七十一番職人尽歌合』の放下と、金春禅竹作の謡曲「放下僧」のあいだには、多生の違いがあるようですが、放下僧は勧進の頭目で、配下の輩が放下だったようです。つまり、親の仇討ちをする下野国牧野左衛門某兄弟は、兄は放下僧、弟は放下となって放浪することになっています。
この頃人の翫び候ふは放下にて候ふ程に、某(弟)は放下になり候ふべし。御身(兄)は放下僧に御なり候へ。

とあって、仇にめぐり会って次のような問答します。
「さて放下僧は何れの祖師禅法を御伝へ候ふぞ。面々の宗体が承りたく候」、
「われらが宗体と申すは、教外別伝にして、言ふもいはれず説くもとかれず。言句に出せば教に落ち、文字を立つれば宗体に背く。たゞ一葉の融る。風の行方を御覧ぜよ」
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歌謡 放下僧
ここからは、放下僧と放下は禅宗系の念仏聖であることが分かります。暮露も禅宗系です。両者の共通点が見えてきたようです。
 兼好法師が「ぼろぼろ」どもの「死を軽くして、少しもなづまざるいさぎよさ」をほめたたえていますが、これも禅から出ているようです。そして、放下僧が数珠ももたず袈裟もかけずに、団扇と杖をもっていたことが謡曲のなかにかたられています。
その団扇についての禅間答を見てみましょう
「又見申せば控杖に団扇を添へて持たれたり。団扇の一句承りたく候」
「それ団扇と申すは、動く時には清風をなし、静かなる時は明月を見す。明月清風唯動静の中にあれば、諸法を心が所作として、真実修行の便にて、われらが持つは道理なり」
ということで、お伴の放下のほうは弓矢とコキリコをもっています。
楽器事典 こきりこ
こきりこ
『七十一番職人尽歌合』の図には、背に笹竹に短冊をつけて背負っていました。これらの扇子や杖が念仏聖の手を離れて、民衆の手に渡った時から、風流化は始まります。そして放下大念仏という民俗芸能になったと研究者は考えているようです。

横浜きものあそび

遊行者が団扇や杖や笹竹をもってあるくことは、もともとは宗教的意味があったはずです。
団扇は「打ち羽」で、もと木の葉などを振って虫送りなどにもちいられた「仏具」だったのかもしれません。それがのちに目に見えぬ悪霊を攘却する呪具として放浪者(修験者)の持ち物になります。杖や笹もおなじような呪力をもつものでした。ある場合には、決められたところに立てて、神霊を招ぎ降ろす標し(依代)にもなったのでしょう。
ところが民衆のほうは、別の受け止め方をします。
この国の人々は、古代の銅鐸や銅剣の時代から聖なる器物を巨大化させる精神構造をもっています。そして飾り物や華美な作り物にして、人々を驚かしたり、祭の興奮をもりあげる「演出」を行ってきました。これが風流化です。団扇は、だんだん巨大化します。
 団扇を風流化した踊念仏では、三河の放下大念仏のほかに、長門市深川湯本の「南条踊」にも花団扇という大団扇の吹貫が立てられます。
「滝宮念仏踊り」の画像検索結果
滝宮天満宮の念仏踊
讃岐の滝宮天満宮の「念仏踊」(雨乞踊)にも下知役が大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。そしてのちには盆踊には団扇を腰にさしたり、手に持って踊るところまで継続されていったと研究者は考えているようです。
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滝宮念仏踊り(滝宮天満宮)

 民俗芸能としてのこった踊念仏は、ほとんどが風流の踊念仏、あるいは風流大念仏だと研究者は考えているようです。
その持ち物や服装や負い物には、それぞれ宗教的意味や呪力のあるでした。それが風流化して、意味を失っていきます。太鼓なども拍子をとるものだったのが、巨大化・装飾化して華麗に彩られます。
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滝宮念仏踊りの花傘 花梅が飾られている

花笠は、もともとは踊手が念仏に送り出される亡霊や悪霊に扮するための覆面でした。
それがいつの間にか「花笠踊」と呼ばれるように華美になっていったのです。民衆の求める方向に、どんどん変化していったのです。それがこの国の「伝統」なのかもしれません。最後に棒振踊りです。

1 棒振り踊り

  踊念仏には、棒振踊や剣を振る踊りが入り込みます。
佐文の綾子踊りにも、最初に登場するのは棒振り踊りです。これは、祭礼場を清め、結界を張るために踊られるるものと私は考えていました。しかし、別の説もあるようです。棒踊りは、悪霊退散の呪具としての棒や剣が踊念仏にとりいれられたものです。

1風流踊り 棒踊り
落合町法福寺の「念仏踊」
その原型にちかい形が、岡山県落合町の法福寺の「念仏踊」のようです。念仏の詠唱と跳躍とともに振られる棒は、六尺棒の両端に白い切紙の房をつけたもので、おそらく旅浪の山伏のボンデン(幣)であったと研究者は考えているようです。
法福寺 | 周辺観光情報 | 道の駅 醍醐の里

これをサイハライ棒として振るのは、悪霊攘却の呪力があると信じられたからです。このサイハライ棒そのものにも風流化は見られるようです。これがいっそう風流化したものを挙げてみましょう。「柏崎市女谷の綾子舞」の画像検索結果
越後柏崎市女谷の綾子舞や、
1  ayakomai

越中五箇山のコキリコ踊、
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陸中下閉伊郡川井村の少女の踊念仏がもつ「バトンのような棒」も、もともとはコキリコの竹棒のようです。
踊念仏は風流化が進み、装飾や仮装にその時代の趣向が凝らされるようになります。
しかし、おこなわれる時期や目的は変わりませんでした。宗教性を失うことはかったのです。お盆や虫送りや二百十日、あるいは雨乞、豊作祈願や豊作感謝のためにだけ催されました。それが「かぶきおどり」のような舞台芸術となって完全に芸能化する方向とはちがいました。別の見方をすると民衆の手にあるかぎりは、踊念仏の伝統は保たれたということかもしれません。念仏踊りがセットで風流踊りとしてユネスコ登録される理由も何となく分かってきました。歌舞伎と念仏踊は同じルーツを持つとしておきましょう。しかし、それは近世に袂をわかったのです。
 最後に、滝宮念仏踊や綾子踊りなどの原型となる芸能を、運んできてんできて、地域に根付かせたのはだれかを考えます。
 その由緒には、菅原道真や弘法大師とされます。しかし、実際にはこれは念仏聖達が行ったことが今まで見てきた痕跡から分かります。中世末から近世にかけて、地方の有力寺院周辺に住み着いたいろいろな宗派の念仏聖達は、その地で信者を獲得し、自立化していく以外に道を閉ざされます。彼らは念仏信仰の布教とともに、彼らの持つ芸能文化で人々の生活を豊かにする「文化活動」を始めるようになります。それが、ある所では雨乞い踊りであり、あるところでは盆踊りだったようです。さらに、獅子舞なども彼らがもたらしたものであった気配がします。修験者や念仏聖は、近世の芸能文化に大きな影響を与えているようです。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
五来重 踊念仏と風流 芸能の起源
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   前回は、近世初頭に高野聖たちが四国辺路の札所に定住していく過程を見てみました。今回は、四国辺路にとらわれずに全国の村々に、どのように定着していったのか。また、その結果として何が生まれ、何が残されているのかを見ていくことにします。
テキストは 五来重 高野聖 です。

高野聖の地方定着していく方法のひとつは、荒地の開墾開発です。
越中の中新川郡山加積村(現、上市町)の開谷と護摩堂の二集落は、高野聖による開村を伝える集落です。そして、開谷には踊念仏系の棒踊や太刀踊がのこっています。ここからは踊念仏と高野聖と関係がうかがえます。
越中是安村松林寺の、『文政七年書上帳』には、松林寺の先祖について次のように記されています。

祖先は「高野山雲水知円」という者で、文禄二年(1593)以前に越中砺波郡山田野に小庵をかまえて定住した。このとき神明宮も一緒にまつったが、文禄二年に修験道をまなんで、神明宮の別当になった。宝暦12年(1761)に山号寺号を免許されて、山田山松林寺と称した

ここからは高野聖が修験者に「転進」し、神社の別当社の社僧として定着したことがわかります。
 これとおなじような例は越中高宮村法船寺にもあります。
沙円空潮が、六十余州をめぐって経廻したのち、この寺にはいり住職となったようです。そして、過去帳に「南無大師遍照金剛」と書かれています。注目したいのは、ここでも後に修験道をまなんで氏神の別当を勤めていることです。先の松林寺住職も法船寺住職も明治維新の神仏分離後は、神職に転じています。ここには、次のような流れが見えてきます。

①高野聖→ ②修験道者 →③地域の神社別当職の真言系僧侶 →④明治以後の神職

  また、越中には高野聖のつたえたものとおもわれる踊念仏系の願念坊踊が分布しています。
2016願念坊踊り | 見て来て体験メルヘンおやべ:富山県小矢部市観光協会
越中願念坊踊
 
越中願念坊踊で有名なのは、石動(いするぎ)町(小矢部市)綾子のものです。
ここでは黒衣に小袈裟・白脚絆・白足袋・白鉢巻の僧形の踊り手や、浴衣の下に錦のまわしを締め込んだ踊り手が、万燈梨花傘を立てて踊ります。花笠は二段に傘を立て、音頭取りはその傘の柄をたたいて音頭をとるのは住吉踊とおなじです。楽器は拍子木と三味線です。こうした願念坊踊は婦負郡八尾町付近、上新川郡大沢野町大久保でも行われていたようで、このときには伊勢音頭が謡われたようです。

 伊勢音頭をうたいながら願人坊踊をするところは、長野県下伊那郡天龍村坂部の冬祭です。これの芸能の始まりに、高野聖が関わったと研究者は考えているようです。
願人坊主(がんにんぼうず) : あるちゅはいま日記
「天狗のごり生(しょう)」と呼ばれた願人坊主の大道芸。
「ごり生(御利生)」とは神仏への祈念などに応じて、ご利益を与えること。
願人坊主は手製の鳥居を描いた箱を持ち歩き、鳥居から飛び出した狐の首を伸ばしたり縮めたりして銭を乞うた。

 越中の中新川・婦負・東砺波・西砺波では、祭礼行列に「願念坊」という仮装道化が現れます。
「オドケ」とか「スリコン」、または「スッコン棒」と呼ばれる黒衣に袈裟の坊主頭で、捕粉木やオシャモジやソウケ(宗)をもって道化踊をします。これを「スッコン棒」とも「願人」とも云います。スッタカ坊主やスタスタ坊主は「まかしょ」ともいい、高野聖の異称のようです。また江戸時代には高野聖は「高野願人」ともよばれていました。ここからは、これらの仮装道化も高野聖や願人坊が伝えた念仏踊の道化だったことが分かります。そして、越中砺波地方には、高野聖の碑が各地にのこります。
八郎潟町〉願人踊 ▷エネルギッシュな踊りを繰り広げる | webあきたタウン情報
八郎潟町の願人踊り

願人坊踊は願念坊踊とか道心坊踊ともよばれるもので、もともとは卑猥な踊りをして人をわらわせるものでした。
この「願人」とは鞍馬願人や淡島願人などもいて、有名社寺への代願人(「まかしょ」)たちのことです。願人は、代参人として喜捨をえていたので、高野聖だけをさすわけではありません。しかし近世にはいって、高野山へかえることのできなくなった高野聖の大部分が、願人の群に入っていたようです。その数は相当数にいたことが予想できます。
彼らは、生活の糧を何に求めたのでしょうか。研究者は次のように指摘します。
  門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。

地域に定着した高野聖は、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。念仏踊や雨乞踊りなど風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったという仮説が示されます。本当なのでしょうか。史料的な裏付けはあるのでしょうか。
住吉踊とは - コトバンク
住吉踊り

『浮世の有様』(『日本庶民生活史料集成』第11巻、三一書房、昭和45年)には、次のように記されています。
躍り(伊勢踊)の手は、願人坊主、手を付て願人躍りの如く、
三味線・太鼓・すりがね等にてはやし、傘をさし、
住吉躍りのごとし

意訳変換しておくと
伊勢踊の手の動きは、願人坊主(高野聖)が(振り付けて)た願人踊りとよく似ている。三味線・太鼓・摺鐘などではやし、傘をさすのは住吉踊りのようでもある。

ここからは、高野聖が関わった願人踊りが、伊勢踊りや住吉踊りの起源になっていることがうかがえます。高野聖たちは「願人」として、風流踊念仏から伊勢踊や住吉踊り、そして住吉踊りの変化した阿波踊までも関係していたことを研究者は指摘します。

住吉踊り奉納2015 : SENBEI-PHOTO
住吉踊り

そのような役割を、どうして高野聖が果たすことができたのでしょうか。
研究者は次のように指摘します。

 高野聖が遊行のあいだに、雨乞や虫送り、あるいは非業の死者や疫病の死者の供養大念仏があれば、その世話役や本願となって法会を主催し、踊念仏を振り付けることからおこったのであろう。

 つまり、雨乞いや虫送りの年中行事や、ソラの集落のお堂で行われた庚申信仰から、死者供養の盆踊りまで地域の人たちの生活に根付いた信仰行事を、新たに作り上げる役割を果たしたのが高野聖であったのです。つまり、僧侶や神主などの宗教者よりも、彼らは庶民信仰に近い位置にいたことがおおきいと研究者は指摘します。

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聖は、仏教が庶民化のために生み出された宗教者のひとつのスタイルでした。

それは仏教の姿をとりながら、仏教よりも庶民に奉仕する宗教活動を優先しました。そのため聖たちは必要とあれば、仏教を捨てても庶民救済をとったのです。これは、求道者とか護法者とかいわれる高僧たちが、庶民を捨てても仏教をとったのとは、まったく正反対だと研究者は指摘します。そのため聖を、仏教のモノサシでとらえようとすると異端的な存在として、賤視さたようです。そしてある意味では、善通寺の我拝師山で修行を行ている西行も勧進聖であったようです。

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聖と庶民をむすぶのは庶民信仰です。
庶民信仰は、教理や哲学などの難しい話なしに、庶民の願望である現世の幸福と来世の安楽をかなえてくれます。庶民信仰を背負って、民衆の間を遊行したのが高野聖だったのかもしれません。彼らは、祈祷や念仏や踊りや和讃とともに、お札をくばるスタイルを作り出します。弘法大師師のお札を本尊に大師講を開いてきた村落は四国には数多くあります。また、高野聖は念仏札や引導袈裟を、持って歩いていました。ここからは、庶民信仰としての弘法大師信仰をひろめたのも、高野聖でした。さらに以前にお話しした庚申信仰も、彼らが庚申講を組織していったようです。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
滝宮念仏踊り
こういう視点で、讃岐の民俗芸能を改めて見返してみるといろいろと新しい事が見えてきます。
例えば念仏踊りです。現在の由来では、菅原道真や法然との結びつきが説かれています。しかし、これを高野聖によってプロデュースされたものという仮説を立てれば、次のように見えてきます。
①近世において、善如(女)龍王信仰に基づいて真言寺院による雨乞祈祷の展開。それに対して、庶民側からの雨乞行事の実施要求を受けた高野聖(山伏)による雨乞念仏踊りの創始
②宮座中心の祭りに代わって、獅子と太鼓打を登場させ祭りを大衆化させたのも高野聖
③佐文の綾子踊りも風流踊りと弘法大師信仰を結びつけたののも、高野聖

今まで見てきたように、高野聖と里山伏は非常に近い存在でした。

修験者のなかで、村里に住み着いた修験者のことを里山伏または末派山伏(里修験)と言います。村々の鎮守社や勧請社などの司祭者となり、拝み屋となって妻子を養い、田畑を耕し、あるいは細工師となり、鉱山の開発に携わる者もいました。そのため、江戸時代に建立された石塔には導師として、その土地の修験院の名が刻まれたものがソラの集落には残ります。
 高野聖が修験道を学び修験者となり、村々の神社の別当職を兼ねる社僧になっている例は、数多く報告されています。近世の庶民信仰の担当者は、寺院の僧侶よりも高野聖や山伏だったことがうかがえます。


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諏訪大明神念仏踊(まんのう町諏訪神社)

高野聖そのものが、神としてまつられた所もあるようです。
 三河の北設楽郡東栄町中在家の「ひじり地蔵」は、ここへ子供を背負った高野聖がきて窟に住んでいたと云います。やがて重病で親子とも死んだので、これを「ひじり地蔵」としてまつるようになります。子供の夜晴きや咳や腫れ物に願をかけ、旗をあげるものがいまも絶えないといいます。
大林寺
 おなじ三河の南設楽郡鳳来町四谷の大林寺の「お聖さま」も、廻国の高野聖が重病になってここにたどりつき、村人がこれを手厚く世話したと伝えられます。童達と仲良くした聖は亡くなる時に次のような話を残します。
「・・私は死んでも魂はこの村に残って、この村の繁栄と皆さんの病気を治してあげます。病気になったら私の名を3べん呼んで下さい。治ったら私の好きな松笠を・・・・・・・・」
 お聖様が亡くなってからも、お聖様の評判は一層高くなり、近郷の村々にまで伝わって行き、お願いに来る人や、お礼参りに来る人でにぎわい、お墓は松笠で埋まってしまう程でした。やがて心ある村人によって聖神(ひじりがみ)としてお祠が建てられ、さらに大林寺の横に聖堂(ひじりどう)が建てられ、参詣者があとを絶たない。
鳳来の伝説(鳳来町文化協会発行)より引用

聖の名を三度よんで松笠をあげてくれれば、いかなる難病も治してあげようと云い残して亡くなったようです。
聖堂(大林寺)
大林寺住職は、この聖のために聖堂を建ててまつり、また神主・夏□八兵衛は、これを「聖神」として祀ったと伝えられます。
聖神宮
昔から高野聖と笠は、深い関係があるので、笠のかわりに松笠をあげて願をかけたようです。
聖堂には松笠がいまでも供えられています。


神としてまつられた高野聖は、四国の土佐長岡郡本山町にいます。
この聖の子孫は本山町の門脇氏で、 一枚の文書が残っています。(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年) ここには「衛門四郎という山伏」が出てきます。この人物は、弘法大師とともに四国霊場をひらいた右衛門三郎との関係を語っていた高野聖だったようです。
門脇家に残る「聖神文書」は、これを次のように記しています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ
山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキ
をくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置
きのをつにツキ ヘび石に ツカイノ
すがたを のこし
とをのたにゑ きたり
ひじリト祭ハ 右ノ神ナリ
わきに けさころも うめをく
わかれ 下関にあり
きち三トユウナリ
門脇氏わかミヤハチマント祭
ツルイニ ヽンメヲ引キ
八ダイ流尾 清上二すべし
    宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、
奥大田へやって来て、 杖を置いて
木能津に着いて、蛇石に誓い 
鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。
聖が祀ったのは 右ノ神である。
その脇の袈裟や衣も埋めた
分家は 下関にある。吉三という家である
門脇氏の若宮八幡を祀り
井戸(釣井)注連縄を引き、
八大龍王を清浄に祀ることするること
 この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」とまつったと記されています。
 土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社とされてきました。本山町のものは、高野聖が自分の形見をのこして、聖神として祀ったことが分かります。
日吉大社御朱印②(日吉大社上七社権現) | 出逢いは風の中
聖真子(ひじりまご)社のお札

 この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑のあとが斜面いっぱいにのこっていたと云います。今ではすっかり萱藪におおわれています。しかし、耕地の一番上に、袈裟と衣を埋めたという聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)は残っているようです。

本山町付近では、始祖を若宮八幡または先祖八幡としてまつることが多いので、聖神と同格になります。
若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじで、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。
 また自分の持物を形見として、誓願をのこすというスタイルもあったようです。それも遊行者を神や仏を奉じて歩く宗教者、または神や仏の化身という信仰からきているのでしょう。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
 川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行のあとだった研究者は考えているようです。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡と研究者は考えています。そうだとすれば、大師堂が高野聖の活動跡とすることは無理なことではないようです。

以上をまとめておくと
①高野山が全国的霊場になったのは、高野聖の活躍の結果であった。
②高野聖は高野山の経済と文化の裏方として中世をささえてきたが、つねにいやしめられ迫害される存在でもあった。
③高野山は真言宗の総本山としてのみ知られているが、かつては念仏や浄土信仰の山でもあった
④日本総菩提所の霊場となった高野山と庶民をつないだのが高野聖であった。
⑤弘法大師信仰は、高野聖が庶民のなかに広めた
⑥官寺的性格の高野山は、「密教教学の山で真言宗徒の勉学と修行の場」であり、庶民にとっては垣根が高く、無縁の存在だった。
⑧一方、高野聖たちは、弘法大師を「真言宗の開祖」というよりも、「庶民の病気を癒やす、現世の救済者」と捉えた。
⑨その結果、聖たちによって高野山は極楽浄土往生をたしかにするところとして納骨供養の山として流布され、弘法大師信仰が広められたた。
⑩近世の高野聖は、地域への定着を迫られ、村々の文化的宗教的行事のプロデューサーの役割を果たすようになる。
⑪それが念仏踊りの風流化、獅子舞の導入、庚申講の組織化などにつながった。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   参考文献

阿野郡の郷
阿野郡坂本郷

喜田家文書には坂本念仏踊り編成についても書かれています

 坂本郷踊りは、かつては合計十二ヶ村で踊っていたようです。ところが、黒合印幟を立てる役に当たっていた上法軍寺と下法軍寺の二村の者が、滝宮神社境内で間違えた場所に立てたため坂本郷の者と口論になり、結局上法軍寺・下法軍寺の二村が脱退して十ケ村で勤めることとなったとあります。十ヶ村とは、次の通りです。

東坂元・西坂元・川原・真時・東小川・西小川・東二村・西二村・東川津・西川津

   
川津・二村郷地図
        坂本郷周辺(讃岐富士の南東側)
これは近世の「村切り」以前の坂本郷のエリアになります。ここからは近世の村々が姿を現すようになる前から念仏踊りが坂本郷で踊られていたことがうかがえます。中世の念仏踊りにつながるもののようです。
 江戸時代に復活してからは3年に一度の滝宮へ踊り入る年は、毎年7月朔日に東坂本・西坂本・川原・真時の四ヶ村が順番を決めて、十ヶ村の大寄合を行って、踊り役人などを相談で決めました。

滝宮の念仏踊り | レディスかわにし

 念仏踊りは、恒例で行われる時と干ばつのために臨時に行う時の二つに分けられます。臨時に行う時は、協議して随時決めていたようです。この時には、大川山頂上に鎮座する大川神社に奉納したこともあったようです。三日間で関係神社を巡回したようですが、次のスケジュールで奉納されました。 
一日目 坂元亀山神社 → 川津春日神社 → 川原日吉神社 →真時下坂神社
二日目 滝宮神社 → 滝宮天満宮 → 西坂元坂元神社 → 東二村飯神社
三日目 八幡神社 → 西小川居付神社 → 中宮神社 → 川西春日神社

次に念仏踊りの構成について見てみましょう。

 1725(享保十)年の「坂元郷滝宮念仏踊役人割帳」という史料に次のように書かれています。
一小踊   一人 下法    蛍亘     丁、 三二
一小踊   二人 卓小川  一小踊    二人 西小川
一小踊   二人 東ニ   ー小踊    二人 西二
一小踊   二人 東川津  一小踊    二人 西川津
一鐘打 二十一人 東坂元  一鐘打   二十人 川原
一鐘打   八人 真時   一鐘打   十六人 西坂元
一鐘打ち  八人 下法   一鐘打    十人 上法
一團  二十一人 東坂元  一團    二十人 川原
一團    八人 真時   一團    十六人 西坂元
一團    八人 下法   一合印       真時
一合印      下法   一小のほり  三本 下法
一小のほり 八本 西川津  一小のはり  十本 卓川津
一小のほり 八本 卓ニ   ー小のほり  八本 西二
一小のほり 六本 西小川  一小のほり  六本 卓小川
一のほり  五本 上法   一笠ばこ       西二
一笠ほこ     康ニ   ー長柄    三本 卓坂元
一長柄   三本 川原   一長柄    一本 真時
一長柄   三本 西坂元  一赤熊鑓   二本 西小川
一赤熊鑓  二本 卓小川  一赤熊鑓   二本 西川津
一赤熊鑓  二本 下法   一赤熊鑓   二本 上法
一赤熊鑓  二本 東ニ   ー赤熊鑓   二本 西二
一大鳥毛  二本 川原   一大鳥毛   二本 西小川
スタッフは326の大集団になります。
佐文の綾子踊りに比べると、規模が遙かに大きいことに改めて驚かされます。これだけのスタッフを集め、経費を賄うことはひとつの集落では出来なかったでしょう。かつての坂元郷全体で雨乞い踊りとして、取り組んできたことが分かります。

滝宮念仏踊り2

いつまで踊られたいたのでしょうか? 

坂本組念仏踊りは『瀧宮念仏踊記録』に明治8年まで踊った記録が残っています。また、地元史料には明治26年の踊役割帳が残っていますので、そこまでは確実に行われていたことが分かります。
その後、昭和になって三年(1928)七年、十年、十三年、十六年と行われ、太平洋戦争後の二十八年、三十一年と日照りの時には踊られ、三十四年を最後に中断しました。復活したのは昭和五十六年に「坂本念仏踊保存会」が設置されてからです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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