瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:性空

  
弘法大師像 真如親王モデルの誕生 

前回までに見てきたように弘法大師の肖像が盛んに造られるようになったのは、鎌倉時代になってからでした。このことは遺品の数が鎌倉時代になると、各段に増えることからもうかがえます。それでは、どうして鎌倉時代に入って弘法大師像が盛んに造られるようになったのでしょうか。今回は、この謎を追いかけて見ようと思います。

空海6

テキストは「根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム」です。

 「肖像彫刻の概説書  日本の美術 10号肖像彫刻」、至文堂、一九六七年)は、鎌倉時代に肖像製作が盛んになる理由を次のように記します。

「近代以前の日本彫刻史のうえで、鎌倉時代ほど精神につらぬかれた時期はなかったといってよい。それと同時に、人間に対する興味深い観察がこれにともない、肖像彫刻あるいは肖像画のいちじるしく発達する温床が設けられることになった。」

 確かに、鎌倉時代の時代精神が肖像製作の背景にあったことはあるかもしれません。しかし、それだけでは納得できません。研究者は、別の観点からこのことについて次のように説明します。
背景要因のひとつは、鎌倉時代に、一時途絶えてい入宋僧の肖像が増大していくことです。
ここには鎌倉初期に入宋した禅宗僧侶の影響が考えられます。彼らは肖像製作が盛んであった中国の実情に触れ、それを日本に伝え、高僧の肖像が作成されるようになったと云うのです。


 例えば重源については、鎌倉時代前半期の肖像彫刻が四体遺されています。栄西や俊芿(しゅんじょう)の肖像画もあります。

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俊芿(しゅんじょう) 泉涌寺
特に俊芿については、亡くなる直前に中国人の画人によって描かれた泉涌寺本の肖像画があります。
寿福寺 | かまくら・れぽじとり
                栄西 鎌倉の寿福寺
さらに、栄西も鎌倉・寿福寺に二体の肖像彫刻の古像があります。
これら三人の僧侶は教団はちがいますが、いずれも入宋僧で、帰国後鎌倉時代の仏教史に大きな足跡を残した人物です。彼らが中国の肖像製作や最新の情報を多量に日本にもたらしたことが、肖像製作につながったと研究者は考えています。
 もちろん、奈良時代には鑑真のような中国僧の来日もありました。また空海を始めとする入唐八家のような著名な高僧たちもいました。 彼等の中には、中国の肖像製作の実情に通じていた人物もいたはずです。
円珍坐像 国宝圓城寺
円珍坐像 圓城寺
鑑真(688~763) や円珍(814~891)のように亡くなる前後に肖像彫刻が製作された人物もいます。しかし、この時期は肖像の製作が始まったばかりでその数は限られています。ところが10世紀を過ぎると入宋者が激減し、中国の肖像情報が減少します。その結果、奈良時代から平安時代半ばにかけて高まった肖像製作機運が継続せずに中折れ状態になります。そんな中で鎌倉時代になると宋元との交流が復活して、高名な中国人禅僧の来日が続くようになります。日本の禅僧も中国に赴き、修行を積んで帰国する者が数多く出てきます。禅僧の中国への渡航は明朝になっても変わりません。こうした交流は新たな肖像情報を日本にもたらし、肖像製作意欲を高めます。これが鎌倉時代半ば過ぎに禅宗の拡大と共に、肖像が数多く造られるようになる背景だと研究者は考えています。

鎌倉時代に入ると、 新たな宗教教団の誕生が相次ぎます。
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鎌倉時代は、浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗 禅宗などの諸宗派が誕生します。各宗派は信仰基盤を固め、発展していくために宗派、教団のシンボルを求めるようになります。そこで登場してくるのが、法然・親鸞・日蓮などの宗派開祖の像です。彫像は大勢の礼拝に適しているので布教面での効果は大きく需要が高まります。宗派開祖たちの肖像が数多く作られるようになったのは、新興の宗派や教団だけではありませんでした。伝統的な顕密宗派 (奈良時代以来の伝統的宗派と、平安時代に興った天台宗や真言宗などの密教宗派でも再興運動が活発化します。この動きと肖像の需要増大はリンクしているようです。
どの教団や寺院でも、祖師像の需要が高まります。
例えば、 南都では戒律の再興運動を目指してさまざま社会活動を行った西大寺の叡尊の肖像彫刻が弘安三年(1280)に造られます。

西大寺の叡尊の肖像彫刻
                叡尊坐像 奈良西大寺
後年、興正菩薩と呼ばれる叡尊は大和国箕田に生まれ、はやくから仏門に入り、醍醐寺や高野山で密教を学びました。さらに東大寺で修学を積み、当時荒廃の一途を辿っていた西大寺に住み、律院として復興しました。その後、鎌倉にも戒律の種を蒔き、後の西大寺流律宗(今日の真言律宗)の隆盛の基礎を築きました。叡尊の80歳を寿して善春によって造られた西大寺の寿像がよく知られています。叡尊の肖像彫刻は、幾つかの模刻像が造られ、末寺におさめられるようになります。 

白毫寺 叡尊(興正菩薩)坐像
           叡尊坐像 白毫寺 像高74cm、檜材寄木造(国宝.鎌倉中期)

白毫寺の像は、西大寺のものを忠実に模したものとされます。模作ですが形式化が目立たず、各地の西大寺系寺院に伝わる叡尊の肖像彫刻のなかでも優れた作であり、造立時期も叡尊没後まもなくの時期と研究者は考えています。このように、本山で開祖像が造られると、そのコピー版が各地の末寺にも姿を見せるようになります。これが彫造や画像の需要背景です。

 天台宗でも宗祖を始めとして兵庫・円教寺の開山性空(910~1007)などの過去の高僧の肖像彫刻製作が行われるようになります。

性空 書写山
性空

その中でも盛んに造られたのが慈恵(じえ)大師(良源)の肖像です。

慈恵大師坐像(ヒノキ寄木内刳)弘安9年(1286年)蓮妙作。
慈恵大師坐像 東京国立博物館
慈恵大師は、元三大師(がんざんだいし)とも呼ばれ、比叡山延暦寺の中興の祖として知られます。また、中世以降は「厄除け大師」など独特の信仰を集めるようになります。「定心房(じょうしんぼう)」と呼ばれる漬物を伝え、これが沢庵漬けの始祖ともされているようです。
 このような流れを受けて真言宗でも、開祖空海弘法大師の肖像が盛んに造られるようになります。
 弘法大師像についても文献史料から平安時代にある程度の数の肖像が造られていたことが分かります。しかし、平安時代のものは少数で、本格的に肖像が造られるようになるのは、嫌倉時代に入ってからであることは、前々回に見た通りです。このことは、残された弘法大師像の製作年代からも次のように裏付けられます。
東寺御影堂に祀られる大師像

天福元年(1233)の康勝の東寺像が先駆けで、鎌倉時代後半期になると造像が活発化します。

紀美野町津川の遍照寺
永仁2年(1294) 和歌山 遍照寺 弘法大師像
弘法大師 奈良・元興寺
             正中2年(1325) 奈良・奈良・元興寺像
天台大師坐像と弘法大師像2 太興寺

大興寺(三豊市) 弘法大師坐像      建治二年(1276年)
この像は、後世に彩色されているので新しそうに見えますが13世紀後半のものです。
前回見た通り、高野山の真如親王モデルの絵画を踏襲したスタイルのものが、各地に拡がっていったことが分かります。真言宗は、いくつかの流派に分化しますが、その場合も宗祖像として、流祖像とともに末寺に祀られます。そのためにも膨大な数の弘法大師像が造られるようになります。四国遍路をしていると真言宗でない札所にも大師堂があり、そこには大師像があります。そういう意味では、大師像はいまでも需要があり造り続けられていると云えます。

以上から弘法大師像が鎌倉時代に造られるようになった背景には、次の3点が考えられます。
①鎌倉時代頃から活発化する中国との文化交流で肖像文化が伝わる
②教団の団結や教勢拡大のためのシンボルとしての祖師像の需要増大
③系列化された末寺への祖師像の安置
ただ弘法大師像は他の始祖像と比べると、その数が圧倒的にが多いようです。これに対して天台宗の始祖伝教大師最澄像は、はるかに少ないのです。そして、天台宗では、延暦寺の中興の祖・慈恵大師良源や、寺門派の始祖智証大師円の肖像の方が数多く遺っています。これらをどう考えればいいのでしょうか?

円珍坐像2 国宝圓城寺
円珍坐像 圓城寺 

天台宗の祖師像の製作状況について、研究者は次のように述べています。
①慈恵大師良源像については、悪鬼をも畏怖させるような力を持つ人物という「特殊な信仰」が大きく反映していたこと
②円珍については天台宗の山門派と寺門の対立を背景に、寺門派教団では派祖としての円珍が教団のシンボルとなり、崇拝対象となっていたこと
これらが肖像が数多く造られた背景だと云うのです。
一方、真言宗における弘法大師空海の位置づけは、新派として新義真言宗が生まれても、始祖としての空海の地位は揺るぐことはありませんでした。新しい真言宗の勢力が生まれても弘法大師像は製作され、宗派の始祖の像として後世まで広く製作されていきます。さらに言えば、弘法大師信仰の広がりから、真言宗の枠組みを超え、偉大な高僧といイメージが広く世に流布します。これは、先ほど見たように四国霊場の真言宗以外の札所にも大師堂が建てられ、そこには弘法大師像が本尊として安置されるということが近代になっても進められてきたのがひとつの例かもしれません。
こうしたことも弘法大師像が鎌倉時代以降盛んに製作された要因の一つなのかもしれません。
以上をまとめたおきます。
①平安時代にも高僧肖像画は、描かれていたがその数は限られていた。
②それが鎌倉時代になると、入唐僧の激増を背景に高僧の肖像画が数多く作られるようになった。
③肖像画や彫造は、教団や流派の布教活動や信者の団結を培うものとして有用であった。
④そのため鎌倉時代に生まれた新教団は、教祖の肖像画や遺品を信仰対象(聖遺物)とした。
⑤これは旧仏教教団にも広がり、今まであまり描かれなかった高僧の肖像画が信仰対象となった。
⑥こうして真如親王モデルの弘法大師像が各地の真言寺院の大師堂に本尊として祀られることになった
⑦この背景には、弘法大師信仰を持った高野聖や真言系密教修験者の活発な活動があった。
⑧こうして讃岐でも13世紀後半頃から弘法大師像が造られ安置する寺院が現れるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
根立研介 弘法大師空海の肖像をめぐって 空海 生誕1250年記念特別展 香川県立ミュージアム
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前回は、一遍上人絵伝の伊予三島社(現大山祇神社)の詞書の前半部は、先祖越智氏のことや祖父河野通信とのかかわりなどが書かれていることを見ました。今回は、その後半を見ていくことにします。テキスト「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。
大山祇神社 (伊予三島神社)
一遍上人絵伝 伊予三島社(現大山祇神社)
後半部を要約したものを見ておきましょう。
⑥一遍が大三島を去ったあと、正応二年正月24日に供僧長観の夢の中に大明神が現われて次のように述べた。
「昔、書写の上人(性空)が参詣して(不殺生のために)鹿の贄を止めさせた。今、一遍上人が参詣して桜会の日に大行道にたちて大念仏を申し上げる。この所で衆生を済度させようとするのである。これに合力しない輩は後悔するであろう」

⑦その月の27日には地頭(代)の平忠康も神のお告げを受けた。神の詞は大略同じで、ほかにも夢想を受けた者が多くいた。
⑧そこで、2月5日に聖(一遍)を「召請」申し上げたところ、聖は6日に再び三島社に参詣し、9日には桜会が行われた。その大行道の最中に聖は、大明神が出現された山を見上げて、何の必要があって一遍をお招きになったのかと思案したが、贄をとどめるためであると思いあたった。
⑨正月と11月の魚鳥の供えをとどめることなど、人々の夢想に示されたことが多くあった。それについて何も聞いていないのに聖の言葉は一つも違いがなかった。人々は次のように語った。

「昔永観二年に叡山の堪延と性空上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。その時に、御宝殿が鳴動して『随喜、随云不殺』と唱える音があった。それ以来恒例の贄をとどめ、仏経供養を行ってきた。いままた霊夢のお告げがあって昔にかわらず感応の趣があらたかです。」

⑩そこで参詣した神官や国中の「頭人」等二七人が夢のお告げや聖の教えに従って制文を書き、連判を加えて記録した。

ここで有力者の夢の中にでてくる性空とは何者なのでしょうか? 
 
性空 書写山
性空
『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次のように記します。
性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や肥前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。
980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列。
早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があった。
1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。
性空について整理しておくと、次の通りです。
①はじめ比叡山に登って天台教学を学んだが、それにあきたらず、
②日向国霧島山や筑前日背振山に籠り、「山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者」で
③播磨国の書写山円教寺を開いた山林修験者

霧島にある 性空上人の像と墓: ジオパークくろちゃんのブログ
霧島の性空像 山林修行者の姿

詞書後半には「永観二年に叡山の堪延と性空上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。」とあり、性空が三島社に参詣したと書かれています。

しかし、「性空上人伝」や「一乗妙行悉地菩薩性空上人伝」などには、三島神社に立ち寄ったことは書かれていません。ただ、円教寺の縁起や「播磨国飾磨郡円教寺縁起等事」には、筑前国背振山で修行をした後に書写山に帰る途中で伊予国に立ち寄ったこと、書写山で二、三年を過ごした後、もう一度伊予国へ赴いたことが記されています。どちらが本当か分かりませんが、伊予国との縁が全くなかったわけではないようです。三島社の側では、著名な参詣人の一人として性空の名を記録にとどめています。
 このように詞書の後半は、人々の夢想を借りる形で、性空らによる贄の停止が語られます。これをうけて一遍が再び贄を停止するという話が、桜会などの祭礼とからめて語られています。

伊予三島社に性空が登場してくる話は、どのようにしてできあがったのでしょうか?。
またそれは何を意味しているのであろうか。
実は、詞書の性空の話も、三島社の縁起を取り込んで書かれたものであること研究者は指摘します。
 
 伊予三島神社の根本史料としては、三島社の末社にあたる臼杵三島神社(愛媛県内子町)の「臼杵本三島神社記録」(「臼杵本」と略記)が挙げられます。

内子町臼杵 三島神社 | 何処へ行くんだ! 土佐瑞山
臼杵三島神社(愛媛県内子町)

この冒頭に「伊予国臼杵谷」、「伊予国寒水山三島大明神御垂跡」とあることからもわかるように、もともとは臼杵三島神社の縁起として書き始められています。それが二条目以降は本社三島社の緑起・記録に替わります。内容は年代ごとに本家・領家・地頭・神主の変遷を簡略に記した記事が大部分です。そのほかにも、性空や能因の参詣、社殿の焼失や造営などについても記述しており、領主の変遷を中心にしながら三島社にかかわるできことをまとめた縁起・記録です。
 末尾には、「芋時正和五年□月廿八日三嶋殿御人之時以其御本写畢」と記されています。ここから正和五年(1316)に三島社の「御本」を写したものであることが分かります。内容的にも、正和五年の書写として矛盾はないことから、三島社に伝えられていた縁起・記録を鎌倉末期に写したものと研究者は判断します。もちろん縁起・記録なので問題はありますが、少なくとも鎌倉期の記述については、かなり信憑性が高いとされます。
  「臼杵本」には、性空のことが次のように記されています。
円融院御時永観二年岬二月廿二日、播摩国書写山性空上人詣□堪延阿闇梨講師不殺生戒経誦□七日内第三日有神感云、随喜々々、随云□殺可依之、供僧妙尊并社司等国方就披露申、被止生贄之供、引替仏経供養、桜会井二季御祭仏経供養自是始ル
意訳変換しておくと
  円融院の永観二年二月廿二日、播摩国の書写山性空上人と叡山の堪延上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。その時に、御宝殿が鳴動して『随喜、随云不殺』と唱える音があった。そこで参詣した社僧や神官や国中の「頭人」は相談して、恒例の贄を止めて、仏経供養を行うことにした。これが桜会や御祭仏経供養の始まりである。

  また、「三島社縁起」にも、次のように記されています。
永観二年二月廿一日、書写聖(性)空上人堪然大徳相共、毎日之生贄鹿一頭被申止、同和尚請講四巻経給剋、自天稲種雨下、取其種令耕作、至当代無断続、毎年二月九日、号桜会御神事、四月十一日祭魚鳥懸給、玉澄和尚奉請、致精誠御祈祷在之

意訳変換しておくと
永観二年二月廿一日、書写山の聖(性)空上人と叡山の堪然大徳がともに当社にやってきて、生贄に鹿一頭を捧げているのを止めるように申し入れた。生け贄にかわって仏講を開き仏典四巻を読経した。すると天から稲の種子が降り、その種を植えて耕作するようになった。これを祝って毎年二月九日に行われる神事を桜会と呼んでいる。4月11日の魚鳥懸給、玉澄和尚奉請、致精誠御祈祷在之

二つを比べて、研究者は次のように考えています。
①表現に違いはあるが、内容はほぼ同じで、もともとは同じ内容の原伝承があること。
②それを異なった形でそれぞれ筆録したのが「臼杵本」や「縁起」であること。
③「聖絵」の詞書も同じようにその原伝承を取り入れつつ書かれたもの

ここで研究者が注目するのは、「臼杵本」と詞書の間にも同じ文言があることです。
それは「臼杵本」の「随喜々々、随云□殺」と、詞書の「随喜、随云不殺」です。ここにも聖戒が縁起や伝承を取り入れる際に、単に神社で耳にしたことを書くのではなく、「臼杵本」など典拠となるものとそばに置いて執筆を進めていたことがうかがえます。聖戒は、縁起だけを題材にして詞書をまとめ上げたのもなさそうです。
もうひとつ研究者が注目するのは、詞書に供僧長観、地頭(代)平忠康などの人物固有名詞が登場してくることです。この二人は何者なのでしょうか?
供僧長観の名は他の史料で確認することはできませんが、三島社の供僧の例としてはいくつかの記述があります。最も古い者は「臼杵本」の中に、永観二年(984)、性空の参詣のとき贄の停止を行った人物として出てくる供僧妙尊です。近世の「御鎮座本縁」は、妙尊は神主為澄の二男で、社辺に一寺を建てて、それがのちの東円坊となり、妙尊が供僧の初めである、と解説を加えています。この時代から三島神社では神仏混淆が始まったことがうかがえます。

 また「臼杵本」は、保延二年(1136)6月に「大宮」を造営したときの供僧が勝鑑で、「院主」と「検校」を兼帯したと記します。そして「御鎮座本縁」は、供僧妙尊と勝鑑が社の傍らに「神供寺」、大通智勝仏等をまつる「仏供寺」を建立し、それ以後上官社家の二男を供僧とするようになったと述べています。 これらを見ると10~12世紀ころの三島社では、神仏習合が進み、供僧が置かれたことがうかがえます。同時に近世三島社では、東円坊や神宮寺など神社に付属する堂舎の起源をこれに求めていたことが分かります。
 その後、一遍参詣の直前の弘安九年(1286)2月に、悲田院領伊予国井於、同船山、角村等での三島社神人の妨を停止させる旨の某御教書が三島庄の神官・供僧等あてに出されています。ここからは東寺の三島社神人たちが、周辺地域で紛争を起こしていたことが分かります。逆に見ると、この頃になると供僧は神官たちは社領の経営に関与して「俗人化」していたことになります。詞書に見える長観も、このような流れのなかに位置づけることができる人物ということになります。
次に、神の「示現」をうけたとされる地頭代平忠康についても見ておきましょう。
まず、地頭代平忠康はどこの地頭なのかということです。これは宣陽門院領三島庄だと研究者は判断します。「臼杵本」は建久二年(1191)に「宣陽門女院、後白河院乙姫宮」が三島庄の本家となったと記します。これは同年十月の長講堂目録のなかに三島庄が含まれていることによって裏付けられます。
 また年未詳ですが、鎌倉期の伊予の荘園の面積を列挙したと思われる伊予国内宮役夫工米未済注文には、「三嶋御領嶋々八十九町一反小」とあります。これが三島庄だと研究者は考えています。これらの島々はのちに三島七島などと呼ばれるようになります。三島社自体も、そのような荘園支配の対象となっていたことを押さえておきます。多くの有力寺社が神社と社領が一体となって荘園化し、皇室や権門によって領知されるという形態が三島社でも見られるのです。
三島庄の地頭について「臼杵本」は、次のように記します。
建久八年四月四日三嶋地頭始御補任 北条四郎嗣相模守御事也、御代官藤七盛房下着上下廿九人
ここには建久八年(1197)に北条義時(鎌倉幕府の第2代執権)が最初の地頭となり、代官藤七盛房がやってきたと記します。建久八年といえば、義時は25歳で、時政の子として幕府内での存在感を大きくしていたころです。この記述を、そのまま信じることはできません。
「臼杵本」には次のような記述もあります。

正治二年 地頭改大夫志人道殿息進士信平代官□云有慶下着。

3年後の正治二年(1200)に地頭が大夫志入道殿息進士信平に改められ、やはり地頭代がやってきたというのです。ここに登場する大夫志入道は、この頃『吾妻鏡』に、「大夫属入道」とか「大夫属入道善信」などと記される初代の門注所執事三善康信である可能性があると研究者は指摘します。三善康信については

 「京都の下級文人貴族・三善氏の生まれで、叔母が頼朝の乳母であった縁から、流人時代の頼朝に、頻繁に使者を送り京都の情勢を伝えていました。以仁王(もちひとおう)の敗走と源氏追討の命令が出ていることを頼朝に伝えたのも康信で、奥州に逃げるよう助言しています。鎌倉に下向してからは、頼朝のもと、京都でのキャリアを生かし、文書作成などの実務や寺社関係の職務に携わります。さらに訴訟機関の問注所が設置されると、初代の執事(長官)に就任し、鎌倉幕府の組織の整備に貢献しました。承久の乱が起こると、京都へ進撃することを提案した大江広元を後押しし、勝利に貢献しました。」


三善氏と三島社とのかかわりについては、「予章記」に次のように記します。

三嶋七嶋社務職等ハ全ク他ノ競望不可有事ナレトモ、京都ョリ善家ノ者ヲ進止セラルヽ事、誠無念ノ次第也、善三嶋卜云ハ飯尾末葉也、

意訳変換しておくと
  (伊予)三嶋七嶋社務職等は、領地関係に含まれないはずなのに、京都から三善家の者がやってきて管理することになった。誠に無念の次第である、善家の者と云うのは飯尾氏の末葉である、

ここからは、次のような情報が得られます。
①河野通信から三島社の社務職が没収されたこと
②京都より善家の者が派遣されて三島七島の社務職を握ったこと
③善家の者とは飯尾の末葉である
②について、「予章記」が成立した戦国になると三善氏と三島社の関係は、このように説明されていたのかもしれません。こうして見ると、三善康信の子・信平が地頭職を持っていて、その代官が現地にやってきていた可能性は高いと研究者は考えています。
以上から、平忠康が大三島とその周辺地域を荘域とする宣陽門院領三島庄の地頭代としてやってきていたと研究者は判断します。
 「臼杵本」によると、貞応二年壬午正月一日に火災が発生した際、宝殿以下の建物といっしょに「地頭殿政所」も類焼したと記します。ここからは、地頭が三島社の社殿の一角に政所を設けて、支配拠点としていたことがうかがえます。もう少し、突っ込んで云うと、三島社自体が地頭の支配拠点となっていたということです。このような例は、中世の寺社ではよくあることは以前に善通寺の例でお話ししました。
詞書後半の物語に出てくる「桜会」について見ておきましょう。
この神事の開始については、次のように説明されていました
A 「臼杵本」は、永観二年に性空と堪延が参詣して鹿の贄を止めさせた際に、それにかわって仏経供養としての桜会を始めた
B 「縁起」は、その時に天から稲の種子が降り、それを以て耕作したこと、毎年二月九日に祭礼が行われていた。
この桜会についてはかつては、「縁起」の記述を参考にして、京都紫野の今宮神社で行われる「やすらい祭り」と同じで、豊作を祈り、同時に疫病退散を析る神事であったとされてきました。 しかし、近年発見された文政十三年(1830)成立の今宮神社の社家記録には、次のように記されています。

四月桜会之御祭礼八日より十五日迄、寺社家参詣仕、神前江献新茶、御祈祷相勤、寺家ハ経陀羅尼読誦法楽仕候、同十五日より二十三日迄本地仏(大通智勝仏)開帳寺社家出合申候
意訳変換しておくと
  四月の桜会の御祭礼は八日より十五日迄、寺社家が参詣し、神前に新茶を奉納し、祈祷相勤、社僧は経陀羅尼を読誦し法楽を奉納する。同十五日より二十三日まで本地仏(大通智勝仏)の開帳に寺社両家が立ち会う。

ここには、日時は『聖絵』や「縁起」の記す2月9日から4月にかわっていますが、「寺社家」出仕の祭礼がおこなわれています。そこでは神前への献茶、法楽のための読経、本地仏大通智勝仏の開帳が行われていたことが分かります。
 あらゆるいのちを大切にする不殺生という願いが、性空と一遍を結ぶ糸として見えて来ます。性空と一遍とが霊的に通い合っている、深い関係を伝えたかったとしておきます。

大通智勝仏
伊予三島神社の本地仏大通智勝仏
以上からは、研究者は次のように判断します。
①供僧長観や地頭代平忠康は、実在の人物であり三島社や三島庄の歴史の中にきちんと位置付けられること。
②桜会も聖戒が実際に見聞した祭礼であったこと
③ 詞書後半は、三島社での聖戒の実際の体験と、縁起・記録類に残されていた性空の参詣伝承を結び付けて新しい物語を作ろうとしたもの
それでは聖戒は、わざわざ性空と一遍を結びつけるような物語を伊予三島社の場面に挿入したのでしょうか。
それは、聖戒が生前の一遍が性空に対して熱い思慕の念を持っていたことをよく知っていたからだと研究者は考えています。一遍の性空に対する思いは、性空が開いた書写山円教寺に前年に参詣したときの記事からうかがえます。それを詞書は次のように記します。

DSC03542書写山圓教寺
書写山圓教寺(一遍上人絵伝)

弘安十年(1287)の春に円教寺を訪れたとき、 一遍は本尊を拝見することを望んだが、寺僧は「久住練行の常住僧」のほかは例がないとしてこれを拒んだ。そこで一遍は、本尊の意向を仰ぎたいと四句の偶文と一首の歌を棒げた。すると本尊が受け入れたのであろうか、寺僧の許しが出て本尊を拝することができた。また一遍は、「上人の仏法修行の霊徳、ことはもおよひかたし、諸国遊行の思いて、たヽ当山巡礼にあり」と述べて一夜行法して、翌朝去って行った。

ここからは、書写山参詣に対する一遍の思いがひとかたならぬものであったことがうかがえます。人跡未踏の深山幽谷をめぐりながら修行を重ね、ついに書写山で悟りを開いた性空の生涯と自らの遊行の生涯を重ね合わせるところがあったのもしれません.
また兵庫観音堂での臨終の直前に、 一遍が所持の書籍等を自ら焼き捨てたことはよく知られています。
その前に持っていた経典の少々を渡したのも書写山の寺僧でした。ここにも性空と書写山に対する思いが込められていたのかもしれません。.
 このような一遍の想いをよく知っていた聖戒は、一遍が三島社参詣しただけでは終わらすことができなかったのでしょう。性空と伊予三島社との関係、具体的には桜会の起源を通じての性空と一遍の結びつきだったとしておきます。
以上を整理しておきます。
①一遍上人絵伝の伊予三島社(現大山祇神社)参拝場面の詞書後半には、性空が桜会を始めたことが記される
②性空は比叡山で修行した後に、九州の霧島などで山岳修行を行い、播州書写山を開いた。
③一遍は性空に対して、強い尊敬の念を抱いていた。
④それを知っていた聖戒は、性空が伊予三島社にやってきて鹿の生け贄を奉納することを止めさせたエピソードを挿入した。
⑤そこに登場する僧侶や地頭は、実在性の高い人物で、当時の三島社の置かれた状況が見えてくる。⑥例えば、地頭としてやってきた平忠康は、三島社の境内に地頭舘を置いた。
⑦ここからは三島社自体が荘園支配の対象となっていて、皇室や権門によって領知されていたことことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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