瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:悪魚退治伝説

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牟礼の神櫛王墓            
牟礼には宮内庁が管理する神櫛王陵墓があります。その牟礼町の文化財協会の総会で、王墓がどうして牟礼にあるのかをお話しする機会を頂きました。その時の要旨をアップしておきます。
日本武尊悪魚を退治す 第四巻所収画像000023
神櫛王の悪魚退治

この絵は、神櫛王の悪魚退治伝説の場面です。この人が神櫛王で瀬戸内海に現れた悪魚を退治しています。巨大な魚に飲み込まれて、そのなから胃袋を切り裂いて出てきた瞬間です。悪魚が海の飛び出してうめいています。
④それでは神櫛王とは何者なのでしょうか?。ちなみにここには日本武尊(ヤマトタケル)と書かれています。どうなっているのでしょうか。それもおいおい考えていくことにします。まず神櫛王ついて、古代の根本史料となる日本書紀や古事記には、どのように記されているのでしょうか見ておきましょう。

神櫛王の紀記記述
紀記に記された神櫛王記述
①まず日本書紀です。母は五十河媛(いかわひめ)で、神櫛王は讃岐国造の始祖とあります。
②次に古事記です。母は吉備の吉備津彦の娘とあります。
③の先代旧事本気には讃岐国造に始祖は、神櫛王の三世孫の(すめほれのみこと)とあります。以上が古代の根本史料に神櫛王について書かれている記述の総てです。
①書紀と古事記では母親が異なります。
②書紀と旧時本記では、初代の讃岐国造が異なります。
③紀記は、神櫛王を景行天皇の息子とします。
④神櫛王がどこに葬られたかについては古代資料には何も書かれていません。
つまり、悪魚退治伝説や陵墓などは、後世に付け加えられたものと研究者は考えています。それを補足するために神櫛王の活躍したとされる時代を見ておきましょう。

神櫛王系図
神櫛王は景行天皇の子で、ヤマトタケルと異母兄弟

 古代の天皇系図化を見ておきましょう。 
神櫛王の兄が倭建命(ヤマトタケル)で、戦前はが英雄物語の主人公としてよく登場していました。その父は景行天皇です。その2代前の十代が崇神天皇で、初めて国を治めた天皇としてされます。4代後の十六代が「倭の五王」の「讃」とされる仁徳天皇です。仁徳は5世紀の人物とされます。ここから景行は四世紀中頃の人物ということになります。これは邪馬台国卑弥呼の約百年後になります。ちなみに、倭の五王以前の大王は実在が疑問視されています。ヤマトタケルやその弟の神櫛王が実在したと考える研究者は少数派です。しかし、ヤマトタケルにいろいろな伝説が付け加えられていくように、神櫛王にも尾ひれがつけられていくようになります。神櫛王は「讃岐国造の始祖」としか書かれていませんでした。それを、自分たちの先祖だとする豪族が讃岐に登場します。それが綾氏です。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)

これが綾氏系図です。しかし、本物ではなく明治に作られた模造品です。自分が綾氏の一員であるという名望家は多く、江戸時代末から明治にかけてこのような系図の需要があって商売にもなっていたようです。この系図は、Yahoo!オークションで4万円弱で競り落とされていました。最初を見ると讃岐国野原(高松)のこととして、景行23年の事件が記されています。その系図の巻頭に記されるのが神櫛王の悪魚退治伝説です。ここを見てください。「西海土佐国海中に大魚あり。その姿鮫に似て・・・・最後は これが天皇が讃岐に国造を置いた初めである」となっています。その後に景行天皇につながる綾氏の系図が書かれています。この系図巻頭に書かれているのが神櫛王の悪魚退治伝説なのです。簡単に見ておきます。

200017999_00178悪魚退治

土佐に現れた悪魚(海賊)が暴れ回り、都への輸送船などを襲います。そこで①景行天皇は、皇子の神櫛王にその退治を命じます。讃岐の沖に現れた大魚を退治する場面です。部下達は悪魚に飲み込まれて、お腹の中です。神櫛王がお腹の中から腹をかき破って出てきた場面です。
悪魚退治伝説 八十場
神櫛王に、八十場の霊水を捧げる横波明神

①退治された悪魚が坂出の福江に漂着して、お腹の中に閉じ込められた部下たちがすくだされます。しかし、息も絶え絶えです。
②そこへ童子に権化した横波明神が現れ、八十場の霊水を神櫛王に献上します。一口飲むとしゃっきと生き返ります。
③中央が神櫛王 
③霊水を注いでいる童子が横波明神(日光菩薩の権化)です。この伝説から八十場は近世から明治にかけては蘇りの霊水として有名になります。いまは、ところてんが名物になっています。流れ着いた福江を見ておきましょう。

悪魚退治伝説 坂出
坂出の魚の御堂と飯野山
19世紀半ばの「讃岐国名勝図会」に書かれた坂出です。
①「飯野山積雪」とあるので、冬に山頂付近が雪で白く輝く飯野山の姿です。手前の松林の中にあるお堂が魚の御堂(現在の坂出高校校内) 
②往来は、高松丸亀街道 坂出の川口にある船着場。
③注記「魚の御堂(うおのみどう)には、次のように記されています。
 薬師如来を祀るお堂。伝え聞くところに由ると、讃留霊王(神櫛王)が退治した悪魚の祟りを畏れて、行基がともらいのために、悪魚の骨から創った薬師如来をまつるという。

これが綾氏の氏寺・法勲寺への起源だとします。注目したいのは、神櫛王という表現がないことです。すべて讃留霊王と表記されています。幕末には、中讃では讃留霊王、高松では神櫛王と表記されることが多くなります。これについては、後に述べます。悪魚退治伝説の粗筋を見ておきましょう。

悪魚退治伝説の粗筋
神櫛王の悪魚退治伝説の粗筋

この物語は、神櫛王を祀る神社などでは祭りの夜に社僧達が語り継いだようです。人々は、自分たちの先祖の活躍に胸躍らせて聞いたのでしょう。聞いていて面白いのは②です。英雄物語としてワクワクしながら聞けます。分量が多いのもここです。この話を作ったのは、飯山町の法勲寺の僧侶とされています。法勲寺は綾氏の菩提寺として建立されたとされます。
 しかし、悪魚退治伝説を書いた人たちが一番伝えたかったのは、この中のどれでしょうか? それは、⑤と⑥でしょう。自分たちの祖先が景行天皇の御子神櫛王で「讃岐国造の始祖」で、綾氏と称したという所です。祖先を「顕彰」するのに、これほどいい素材はありません。うまい展開です。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話だったのです。昔話の中には、神櫛王の舘は城山で、古代山城の城壁はその舘を守るためのものとする話もあります。また、深読みするとこの物語の中には、古代綾氏の鵜足郡進出がうかがえると考える研究者もいます。この物語に出てくる地名を見ておきましょう。
悪魚退治伝説移動図
悪魚退治伝説に出てくる場面地図
 この地図は、中世の海岸線復元図です。坂出福江まで海が入り込んでいます。
①悪魚の登場場所は? 槌の門、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡です。円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。ここは古代や中世には「異界への門」とされていた特別な場所だったようです。東の門が住吉神社から望む瀬戸内海、西が関門海峡 そしてもうひとつが槌の門で異界への入口とされていたようです。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。ちなみに長崎の鼻は、行者達の修行ポイントで、根来寺や白峰寺の修験者の行道する小辺路ルートだったようです。

神櫛王悪魚退治関連地図

②退治された悪魚が流れ着く場所は福江です。

「悪魚の最期の地は福江」ということになります。坂出市福江町周辺で、現在の坂出高校の南側です。古代はここまで海が入り込んでいたことが発掘調査から分かっています。古代鵜足郡の港があったとされます。
③童子の姿をした横潮明神は福江の浜に登場します。
④その童子が持ってくる蘇生の水が八十場の霊水です。
⑤そして神櫛王が讃岐国造として定住したのが福江の背後の鵜足郡ということになります。城山や飯野山の麓に舘を構えたとする昔話もあります。福江から大足川を遡り、讃岐富士の南側の飯山方面に進出し、ここに氏寺の法勲寺を建立します。現在の飯山高校の南西1㎞あたりのところです。  つまり悪魚退治伝説に登場する地名は、鵜足・阿野郡に集中していることがわかります。

悪魚退治伝説背景
綾氏の一族意識高揚のための方策は?

①一族のつながり意識を高めるために、綾氏系図が作られます。
②作られた系図の始祖とされるのが神櫛王、その活躍ぶりを物語るのが悪魚退治伝説 
③一族の結集のための法要 綾氏の氏寺としての法勲寺(後の島田寺)の建立。一族で法要・祭礼を営み、会食し、悪魚退治伝説を聞いてお開き。自分たちの拠点にも神櫛神社の建立 猿王神社は、讃留霊王からきている。中讃各地に、建立。

ここまでのところを確認しておきます。
悪魚退治伝説背景2

①神櫛王の悪魚退治伝説は、中世に成って綾氏顕彰のため作られたこと。古代ではないこと
②その聖地は、綾氏の氏寺とされる法勲寺(現島田寺)
③拡げたのは讃岐藤原氏であった(棟梁羽床氏)
つまり神櫛王伝説は、鵜足郡を中心とする綾氏の祖先顕彰のためのローカルストーリーであったことになります。東讃で、悪魚退治伝説が余り語られないのはここにあるようです。

讃岐藤原氏分布図
讃岐藤原氏の分布図(阿野郡を中心に分布)

 ところが江戸時代になると、新説や異説が現れるようになります。神櫛王の定住地や墓地は東讃の牟礼にあるという説です。神櫛王墓=牟礼説がどのように現れてきたのかは、次回に見ていくことにします。

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神櫛王の悪魚退治伝説(宥範縁起と綾氏系図の比較表)
金毘羅神=クンピーラ+神櫛王の悪魚退治伝説


参考文献
 乗松真也 「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ

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    霊山・如意山(公文山)に鎮座する櫛梨神社 
金毘羅さんの鎮座する象頭山の東を金倉川が北に向かって流れていきます。この金倉川を挟んで小高い峰峰が続きます。これが如意山です。この山の麓には中世には荘園の荘官・公文の館があったようで、公文山とも呼ばれています。この山の周辺は、古代中世からひとつの宗教ゾーンを形成していたと「町誌ことひら」は記します。
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 如意山(公文山)の西に伸びる尾根の下に鎮座するのが櫛梨(くしなし)神社です。ここにも「悪魚退治伝説」が伝わっています。前回、讃留霊王に退治された「悪魚」が、改心して「神魚」となり、金毘羅神(クンピーラ)に変身した。そこには宥範から宥雅という高野山密教系の修験者のつながりがあることを前回は紹介しました。その二人の接点が櫛梨神社になるようなのです。今回は、この神社について見てみることにします。
1櫛梨神社

 この櫛梨神社は、讃岐国延喜式内二十四社の一つです。
高松市の田村神社(讃岐国一宮)、三豊市高瀬町の大水上神社(同二宮)と並び称される古大社だとされてきました。大内郡の大水主神社と三宮、四宮の席次を争った形跡があります。古代には、周辺に有力な勢力がいたようです。目の前の霊山として崇められたであろう大麻山(象頭山)山腹には、数多くの初期古墳がありました。善通寺勢力と連合勢力を組んでいたのが、どこかの時点で「吸収合併」されたと私は考えています。それが野田院古墳の出現時ではないかと思います。それ以後も、如意山周辺は丸亀平野南部の一つの政治的宗教的拠点であったようです。中世は、ここは東国出身の薩摩守護になた島津家の荘園になっています。櫛梨神社は、その櫛梨荘の文化センターであったようです。
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「全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」には、この神社の由緒を次のように記します。
当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。景行天皇の23年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、
 付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、
櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、
城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の8年9月15日、御年120歳にて薨じ給う。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありきと。
天正7年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造営、寛文5年、氏子等により再建せらる。明治3年、随神門、同43年、本殿、翌44年幣殿を各改築、大正6年、社務所を新築す。
   
ここには次のようなことが書かれています
①神櫛皇子が、悪魚を討つために讃岐国やってきた
②櫛梨山に漂着し、これを祝うため般磐大明神を祀った。
③付近には、海に関係する地名がいくつも残っている。
④神櫛王は悪魚討伐後、城山に館を構え讃岐国造になった。⑤亡くなった後は、櫛梨山に葬り皇宮大明神と呼ばれる。
⑥旅所は旧仲南町の塩入にあり、鳥居が107基あった
⑦天正年間に、長宗我部元親の侵入で兵火に会い一切消失
 ここにも讃留霊王(神櫛皇子)の悪魚退治伝説が伝わっています。
それも、皇子の乗った船の漂着地であり、葬ったのが櫛梨山とされています。この伝説が作られた時の人々は、かつてはこのあたりまで海だったのだという意識を持っていたようです。空海生誕伝説の「屏風ヶ浦」の海の近くで空海は生まれたという当時の「地理感覚」と相通じる所がありそうです。
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 この神社の讃留霊王伝説で新味なのは「神櫛(醸酒一カムクシ)王を祭(祖先)神」として、その子孫酒部氏族が奉斎した氏神社としている点です。古くは、櫛梨山上の本台(山頂の平坦地)に社殿を構えていたといいいますが、祭神の性格からすると平地にあってしかるべき神社だと研究者は考えているようです。山上には、祠様があっただけで山そのものが神体であるされ、櫛梨山全体が信仰の対象だったのでしょう。
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 櫛梨神社には悪魚退治伝説は、史料としては伝わっていないようです。伝えられているのは善通寺誕生院の宥範の縁起の中に書かれているのです。
 2つの【悪魚退治伝説】 
 悪魚退治伝説は、南北朝期の作とされ讃岐藤原氏(綾氏)の系図「綾氏系図」に冒頭に付けられているのが知られてきました。綾氏先祖の英雄譚として、氏族の栄光を飾るものと理解されてきました。そしてこの伝説を作ったのは、文中に出てくる寺名から法勲寺の僧侶であるとされてきたのです。つまり、この『綾氏系図』は、綾氏の有力な氏寺の一つである法勲寺の縁起としての性格をもっているとされてきました。
しかし、近年になって「綾氏系図』よりも古いとされる史料が出てきたようです。それが、高松無量寿院所蔵文書の中にある応永九年(1402)3月に、善通寺誕生院住持・宥源の『贈僧正宥範発心求法縁起』(=宥範縁起」です。

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 宥範は何者?
 宥範は櫛梨の有力豪族出身で、高野山や各地の寺院で修行を積み、晩年は善通寺復興に手腕を見せ「善通寺中興の祖」と呼ばれた名僧です。この中に、讃留霊公の悪魚退治伝説が語られているようです。
16歳で仏門に入り、高野山などに学び、当時の密教仏教界において、その博学と名声は全国に知られていたようです。善通寺復興に尽力し「中興の祖」と称されています。
 宥範は、各地ので修行を終えて翌嘉暦二年(1327)、讃岐国に帰り、
「所由有りて、小松の小堂に閑居し」
します。そして『妙印抄』三十五巻本の増補を行い3年かかって『妙印抄』八十巻本を完成させ、これを善通寺誕生院に奉じます。念願を果たして、故郷・櫛梨の小堂から象頭山の称明(名)院に移り住んでいます。生まれ故郷の櫛梨の里を、眼下にできる寺に落ち着きたかったのでしょう。こうして、八十巻を越える大著を書き終え、静かに隠退の日々を送ろうとします。しかし、それは周囲が許しませんでした。
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   善通寺中興の祖として 
  当時、善通寺は中世の荒廃の極みにありました。伽藍も荒れ果てていたようです。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
元弘年中(1331~)は、誕生院を始めとして堂宇修造にかかり、
建武年中(1334~)に東北院から誕生院に移り
建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」と研究者は考えているようです。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。「岩野」は宥範の本家筋の人物と考えられるようです。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。その有力パトロンとして、実家の岩野一族の存在が考えられます。
 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧によって奉じられていたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。
 別の研究者次のような見方も示しています
「大歳神社の北に小路の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。その伝記が弟子たちによって書かれるのは自然です。しかし、この「宥範縁起」の中に、どうして「悪魚退治伝説」が含まれているのでしょうか。悪魚と宥範の関係を、どう考えればいいのでしょうか?
宥範縁起(無量寿院系)と綾氏系図(法勲寺系)を比較してみましょう。
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それぞれの寺運興隆を目的に、作られたものですから、少しずつアレンジがされています。例えば、悪魚の表記は「神魚」と「悪魚」、凱旋地も「高松」と「坂出」のように相違点があります。どちらが、より原典に近いのか研究者もなかなか分からないようです。しかし、強いて云えば
①全体的に洗練されているのは「綾氏系図』
②西海・南海の用字の正確さや文脈の詳細・緻密さ、重厚さから『宥範縁起』の方が古風
と、宥範縁起の中にでてくる「悪魚退治伝説」の方が古いのではないかと「町史ことひら」は考えているようです。
  どちらにしても櫛梨神社に伝えられた悪魚退治伝説は、法勲寺系ではなく、高松の無量寿院系のものであることに変わりはありません。
無量寿院は、宥範が若い頃に密教僧侶として修行をスタートさせたたお寺でもあります。そして、このお寺の由来が悪魚退治伝説ならぬ「神魚伝説」であったようです。
宥範から聞いた神魚伝説は善通寺や櫛梨神社の社僧たちに語り伝えられていくようになります。
そして、櫛梨神社の例祭には、修験者の社僧(山伏)の語る縁起を聞きながら「神魚」や「櫛梨神社」への畏怖と尊崇とを新たにし、胸熱くして家路を急いだのかもしれません。この時にまだ金毘羅神は生まれていません。
 高松から琴平にかけての中讃地区の寺社の中には、似たような悪魚退治伝説がいくつか伝わっています。これらは、社寺縁起の流行する近世初頭に『宥範縁起』をテキストに広がったのではないかと研究者は考えているようです。
 このような中で人々がよく知っている「悪魚」を、神として祀ることを考える修験者があらわれるのです。それが前回お話しした宥雅です。彼は
 悪魚 → 神魚 → 金毘羅神(鰐神)
というストーリーを下敷きにして、金毘羅神を創出し、それを松尾寺の新たな守護神を作りだし、それを祀るための金比羅堂を象頭山に建立したのです。その創出は彼一人のアイデアだったかどうかは分かりません。しかし、金比羅堂建設というのは、支援者や保護者なしではできることではありません。彼は、西長尾城の城主の甥でした。つまり、長尾氏の一族です。当然、背後には長尾氏の支援があったはずです。
 以上、前回の「悪魚が金毘羅神に変身」したお話の補足をまとめておきます。
①中世の公文山周辺は、丸亀平野南部の宗教ゾーンで、そのひとつが櫛梨神社である
②櫛梨神社には「悪魚退治伝説」が伝わるが、これは宥範伝来のものである。
③もともと高松の無量寿院の由来に登場する「神魚」が、そこで修行した宥範によって伝えられレ「宥範縁起」の中に記された
④中世の櫛梨神社では、この悪魚退治伝説が社僧たちによって人々に語られるようになる。
⑤社伝由来の流行で、古い神社ではどこにも社伝が語られるようになり悪魚退治伝説を採用する神社が増える。
⑥これは法勲寺で行われていた「綾氏祖先崇拝」による団結を図る武士団への広がりと同時に、中讃地区での悪魚退治伝説の広がりをうむ
⑦この広がりを下敷きに「悪魚」をモデルに新たな「金毘羅神」が登場してくる
⑧それを進めたのが西長尾城主の甥の修験者宥雅であった。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 第5章 中世の宗教と文化

 
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金毘羅神とは何かと問われると、このように答えなさいと云う問答集が江戸時代初期に金光院院主の手で作られています。そこには、金毘羅とはインドの悪神であったクンピーラ(鰐神)が改心して、天部の武将姿に「変身」して仏教を護るようになったと説明されています。 日本にやってきたクンピーラは、薬師如来を護る十二神将の一人とされ、また般若守護十六善神の一人ともな武将姿で現れるようになります。彼は時には、夜叉神王と呼ばれ、夜叉を従え、また時には自らも大夜叉身と変化自由に変身します。仏様たちを護る頼れるスーパーヒーローなのです。 このような内容が、真言密教の難解な教義と共に延々と述べられています。
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「神が人を作ったのではない、人が神を創ったのだ」という有名な言葉からすると、この金毘羅神を創り出した人物の頭の中には、原型があったはずです。「インドの鰐神=クンピーラ」では、あまりに遠い存在です。身近に「あの神様の化身が金毘羅か」と思わせ納得させる「しかけ」があったはずです。
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 この謎に迫った研究者たちは、次のような「仮説」を出します

 「仏教では人間に危害を加える悪神を仏教擁護の善神に仕立てあげて、これを祀った。その讃岐版が金毘羅神である」

 松尾寺の僧侶は中讃を中心に、悪魚退治伝説が広まっているのを知って、悪魚を善神としてまつるクンピーラ信仰を始めた。

「実質的には初代金光院院主である宥雅は、讃岐国の諸方の寺社で説法されるようになっていたこの大魚退治伝説を金毘羅信仰の流布のために採用した」

「悪魚退治伝説の流布を受けて、悪魚を神としてまつる金毘羅信仰が生まれたと思える。」
 羽床氏「金毘羅信仰と悪魚退治伝説」(『ことひら』四九号)
つまり、「讃留霊王伝説に登場する悪魚」が、金毘羅神(クンピーラ)に「変身」したというのです
Древнерусское солнцепоклонство. Прерванная история русов ...
 クンピーラはガンジス河にすむワニの化身とも、南海にすむ巨魚の化身ともいわれ、魚身で蛇形、尾に宝石を蔵していたとされます。金毘羅信仰は中讃の悪退治伝説をベースに作り出されたというのです。30年ほど前に、この文章を読んだときには、何を言っているのか分かりませんでした。今までの金毘羅大権現に関する由緒とは、まったくちがうので受けいれることが出来なかったというのが正直な所かもしれません。しかし、いろいろな資料を読む内に、次第にその内容が私にも理解できるようになってきました。整理の意味も含めてまとめておくことにします。
  讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。

この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。「大魚退治伝説」は、神櫛王が瀬戸内海で暴れる「悪魚」を退治し、その褒美として讃岐国の初代国主に任じられて坂出の城山に館を構えた。死後は「讃霊王」と諡された。この子孫が綾氏である。という綾氏の先祖報奨伝説として、高松や中讃地区に綾氏につながる一族が伝えてきた伝説です。これについては、以前に全文を紹介しましたので省略します。
この伝説については、研究者は次のような点を指摘しています
①紀記に、神櫛王は登場するが「悪魚退治伝説」はない。
②「讃留霊王の悪魚退治伝説」は、中世に讃岐で作られたローカルストーリーである。
③ この伝説が最初に登場するのは『綾氏系図』である。
④ 作成目的は讃岐最初の国主・讃留霊王の子孫が綾氏であることを顕彰する役割がある
⑤「伝説」であると当時に、綾氏が坂出の福江から川津を経て大束川沿いに綾郡へ進出した「痕跡」も含まれているのではないかと考える研究者もいる。
⑦「綾氏の氏寺」と云われる法勲寺が、綾氏の祖先法要の中核寺院であった
⑧法勲寺の修験道者が綾氏団結のために、作り出したのが「悪魚退治伝説」ではないか。
 悪魚伝説が作られた法勲寺跡を見てみましょう。
 現在の法勲寺は昭和になって再建させたものですが、その金堂周辺には大きな礎石がいくつか残っています。また、奈良時代から室町時代までのいろいろの古瓦が出でいますので、奈良時代から室町時代まで寺院がここにあったことが分かります。
 中世になると綾氏の一族は、香西・羽床・大野・福家・西隆寺・豊田・作田・柴野・新居・植松・阿野などの、各地の在郷武士に分かれて活躍します。綾氏から分立した武士をまとめていくためにも、かつてはおなじ綾氏の流れをくむ一族であるという同族意識を持つことは、武士集団にとっては大切なことでした。
 阿波の高越山周辺の忌部氏の「一族結束法」を、以前に次のように紹介しました。
高越山周辺を支配した中世武士集団は、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。
忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
ここからは忌部氏の団結のありようが次のように見えてきます
①一族の精神的連帯の場として山川町の忌部神社があった
②年に2回は忌部族が集まり定期会合・食事会を開いた
③その仕掛け人は高越山の修験者であった
阿波忌部氏のような一族団結のしくみを法勲寺(後には島田寺)の社僧(修験者)も作り上げていたはずです。
1 讃留霊王1
それの儀式やしくみを推測して、ストーリー化してみましょう。
 讃留霊王(武卵王)を共通の祖先とする綾氏一族は、毎年法勲寺へ集まってきて会合を開き、食事を共にすることで疑似血縁意識を養います。それに先立つ前に、儀式的な讃留霊王への祭礼儀式が行われます。そのためには聖なる場所やモニュメントが必要です。そこで、法勲寺の僧侶たちは近くの円墳を讃留霊王の墓とします。ここで集まった一族に悪魚退治伝説が語られ、儀式が執り行われます。そして、法勲寺に帰り食事を共にします。こうして自分たちは讃留霊王から始まる綾氏を共通の先祖に持つ一族の一員なのだという思いを武士団の棟梁たちは強くしたのではないでしょうか。こうして、法勲寺を出発点にした悪魚退治伝説は次第に広まります。
①下法勲寺山王の讃留霊王塚と讃留霊王神社
②東坂元本谷の讃留霊王神社
③陶猿尾の讃留霊王塚
②の東坂元本谷には現在、讃留霊王神社が建っています。
③の陶猿尾では、小さな小石を積み上げてつくった讃留霊王塚とよばれる壇状遺構が残ります。そして「讃留霊王(さるれおう)塚」から「猿尾(さるお)」の地名となって残っています。この他にも「讃王(さんおう)様」と呼ばれる祠が各地に残っています。このように悪魚退治伝説は、丸亀平野を中心に各地に広がった形跡があります。
1讃留霊王2

 このような装置を考え、演出したのは法勲寺の修験者たちです
彼らをただの「山伏」と考えるのは、大きな間違いです。彼らの中には、高野山で何年も修行と学問を積んだ高僧たちがいたのです。彼らは全国から集まってくる僧侶と情報交換にある当時最高の知識人でもありました。
「悪魚退治伝説」と「金毘羅神」を結びつけたのは誰でしょうか?
 小松の荘松尾寺(現琴平町)には、法勲寺の真言密教僧侶修験者と親交のある者がいました。法勲寺を中心に広がる悪魚退治の伝説を見て、このが悪魚を善神に仕立てて祀るということを実行に移した修験者です。悪魚退治伝説の舞台は坂出市の福江の海浜ですが、それが法勲寺の僧侶によって内陸の地にもちこまれ、さらに形を変えて象頭山に入っていったのです。それが金毘羅神だというのです。
  推論とだけでお話をしてきましたが、史料的な裏付けをしておきましょう。  金毘羅さんで一番古い史料は元亀四年(1573)銘の金毘羅宝殿の棟札です。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」と記されています。
 この棟札は、かつては「本社再営棟札」と呼ばれ
金比羅堂は再営されたのあり、これ以前から金比羅本殿はあった
と云われてきました。しかし、近年の調査の中で、金毘羅さんにこれより古い史料はないことが明らかとなってきました。これは「再建」ではなく「創建」の棟札と読むべきであると研究者は考えるようになっています。つまり、元亀四年(1573)に金比羅堂が初めて建てられ、そこの新たな本尊として金比羅神が祀られたということです。これが金毘羅神のデビューとなるようです。
それでは棟札の造営主・宥雅とは何者なのでしょうか?
  この宥雅は謎の人物でした。金毘羅堂建立主で、松尾寺別当金光院の初代院主なのに金毘羅大権現の正史からは抹殺されてきた人物なのです。彼を排除する何らかの理由があるのだろうと研究者は考えてきましたが、よく分かりませんでした。
 宥雅については、文政十二年(1829)の『当嶺御歴代の略譜』(片岡正範氏所蔵文書)によれば、
宥珂(=宥雅)上人様
 当国西長尾城主長尾大隅守高家之甥也、入院未詳、
 高家所々取合之節御加勢有之、戦不利後、
 御当山之旧記宝物過半持之、泉州堺へ御落去
 故二御一代之 烈に不入云」
意訳
宥雅上人は、西長尾城主長尾大隅守高家の甥で、僧門に入ったのがいつだかは分からない。伯父の高家が長宗我部元親と争った際に、高家を加勢したが、戦い不利になり、当山の旧記や宝物を持ち出して泉州の堺へ落ち延びた。このため宥雅は金光院院主の列には入れない

 とあって、
①長宗我部元親の讃岐侵攻時の西長尾(鵜足郡)の城主であった長尾大隅守の甥
②長宗我部侵入時に堺に亡命
③そのために金光院院主の列伝からは排除された
と記されています。金毘羅創設記の歴史を語る場合に
「宥雅が史料を持ち出したので何も残っていない」
と今まで云われてきた所以です。
 ここからは長尾家の支援を受けながら金毘羅神を創りだし、金比羅堂を創建した宥雅は、その直後に「亡命」に追い込まれたことが分かります。
その後、高松の無量寿院から宥雅に関する「控訴史料」が見つかります 
堺に「亡命」した宥雅は、長宗我部の讃岐撤退後に金光院の院主に復帰しようとして、訴訟を起こすのです。彼にしてみれば、長宗我部がいなくなったのだから自分が建てた金比羅堂に帰って院主に復帰できるはずだという主張です。その際に、控訴史料として自分の正当性を主張するために、いろいろな文書を書写させています。その文書類が高松の無量寿院に残っていたのです。その結果、宥雅の果たした役割が分かるようになってきました。このことについては、以前お話ししましたので要約します。

金毘羅神を生み出すための宥雅の「工作方法」は?
①「善通寺の中興の祖」とされる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための文書加筆(偽造)
②松尾寺に伝来する十一面観音立像の古仏(滝寺廃寺の本尊?平安時代後期)を、本地仏として、その垂迹を金毘羅神とする。その際に金比羅神は鎌倉時代末期以前から祀られていたと記す。
③「康安2年(1362)足利義詮、寄進状」「応安4年(1371)足利義満、寄進状」など寄進状五通(偽文書)をねつ造し、金比羅神が古くから義満などの将軍の寄進を受けていたと泊付けねつ造

この創設工作の中で、宥雅が出会ったのが「神魚」だったのではないかと研究者は考えているようです。
 法勲寺系伝説が「悪魚」としているのに高松の無量寿院の縁起は「神魚」と記しているようです。宥雅は「宥範=金比羅堂開祖」工作を行っている中で、宥範が書き残した「神魚」に出会い、これを金毘羅神を結びつけのではないかというのです。もともとの「大魚退治伝説」は、高松の無量寿院の建立縁起として、その霊威を示すために同院の覚道上人が宥範に語ったものとします。
 つまり宥雅が参考にしたのは法勲寺の「悪魚退治伝説でなく、それに先行する『宥範縁起』中の無量寿院系の伝説」だとします。そして、宥範の晩年を送った生地の櫛梨神社に伝わる「大魚退治伝説」は、この『宥範縁起』から流伝したものと考えるのです。整理しておきましょう。
①「悪魚退治伝説」は 法勲寺 →  宥雅の金比羅堂
②「神魚伝説」  は 高松の無量寿院の建立縁起 → 宥範 → 宥雅の金比羅堂
ルートは異なりますが、宥雅が金毘羅(クンピーラ)の「発明者」であることには変わりありません。
 金毘羅神とは何かと問われて「神魚(悪魚)が金毘羅神のルーツだ」と答えれば、当時の中讃の人々は納得したのではないでしょうか。何も知らない神を持ち出してきても、民衆は振り向きもしません。信仰の核には「ナルホドナ」と思わせるものが必要なのです。高野山で修行積んだ修験者でもあった宥雅は、そのあたりもよく分かった「山伏」でもあったのです。そして、彼に続く山伏たちは、江戸時代になると数多くの「流行神」を江戸の町で「創作」するようになります。その先駆け的な存在が宥雅であったとしておきましょう。

 宥雅のその後は、どうなったのでしょうか。
これも以前にお話ししましたので結論だけ。生駒家に訴え出て、金毘羅への復帰運動を展開しますが、結局帰国はかなわなかったようです。しかし、彼が控訴のために書写させた文書は残りました。これなければ、金毘羅神がどのように創り出されてきたのかも分からずじまいに終わったのでしょう。
最後にまとめておきます
①讃留霊王の悪魚退治伝説は「綾氏系図」とともに中世に法勲寺の修験者が作成した。
②讃留霊王顕彰のためのイヴェントや儀式も法勲寺の手により行われるようになった
③綾氏を出自とする武家棟梁は、「悪魚退治伝説」で疑似血縁関係を意識し組織化された。
④綾氏系の武士団によって「悪魚退治伝説」は中讃に広がった
⑤新しい宗教施設を象頭山に創設しようとしていた長尾家出身の宥雅は、地元では有名であった「善通寺の中興の祖」とされるる宥範を、「金比羅堂」の開祖にするための工作を行っていた。
⑥その工作過程で高松の無量寿院の建立縁起に登場する「神魚」に出会う
⑦宥雅は「神魚(悪魚)」を金毘羅神として新しい金比羅堂に祀ることにした。
⑧こうして、松尾寺の守護神として「金毘羅神」が招来され、後には本家の松尾寺を凌駕するようになる。
⑨宥雅は、土佐の長宗我部侵攻の際に、堺に亡命した。後に帰国運動を起こすが認められなかった。
⑩自分の創りだした金毘羅神は、長宗我部元親の下で「讃岐の鎮守府」と金光院が管理していくことになる。
⑪時の権力者の宗教政策を担うことを植え付けられた金光院は、生駒・松平と時の支配者との関係をうまくとり、保護を受けて発展していく

以上です おつきあいいただき、ありがとうございました。

   
5讃岐国府と国分寺と条里制
 讃岐国の始祖とされる讃留霊王(神櫛王)の由緒を語る伝説があります。この伝説は「悪魚退治伝説」、「讃留霊王伝」などと呼ばれ、中世から近世にかけての讃岐の系図や地誌などにもたびたび登場します。私もこれまでに何回かとりあげましたが、今回は視点を変えて地名から地理的なアプローチを行っている研究を紹介します。

  最初に『綾氏系図』をもとに悪魚退治伝説を意訳したものを紹介します。
 景行天皇23年、土佐の海に鰐のような姿をした大きな悪魚がいた。船を飲み込み、人々を食べた。また舟が転覆するため諸国から都へ運ばれるはずの税が海の中へと消えていった。天皇は兵士を派遣したが、兵士たちはことごとく悪魚に食べられてしまった。天皇が息子であるヤマトタケルに悪魚退治を命じたところ、ヤマトタケルは15歳になる自分の息子・霊公(別名神櫛王)に命じて欲しいと言った。天皇は喜び、ただちに霊公に命じた。
 霊公はわずか10日で土佐に到着、そこにとどまった。悪魚は阿波の鳴門へと移動、24年1月に霊公も鳴門へ向かった。3月1日、讃岐の槌の門に悪魚が現れ、船や積んでいた税を飲み込み、人々を食べた。2日後、霊公は讃岐に移動し、軍船をつくって1,000人の兵士を集めた。
 25年5月、霊公らは船を漕いで悪魚へと立ち向かうが、大口を開けた悪魚に飲み込まれてしまった。兵士は悪魚の胎内で酔って倒れたが、霊公は倒れず10日経っても平然としていた。そして霊公は胎内から火を焚いて悪魚を焼き殺し、剣を振るって肉を裂き、胎外へ出た。
   悪魚の死体は福江湊の浦へと流れ着いた。
そこで一人の童子が波打ち際に現れ、瓶に入った水を霊子に碑げた。霊公がこの水を飲んでみるとせ露のように美味だった。霊公が「この水はどこにあるのか」と問うと、童子は「八十場の水です」と答えた。霊公は「早く私をそこに連れて行って欲しい。そしてその水を兵士たちに飲ませ、元気にさせてやりたい」と言った。霊公と童子は水をくみ、悪魚の死体を破り、兵士に水を飲ませた。すると兵士達はすぐに目を覚ました。
5月5日14時、霊公は兵士を連れて上陸した、
 霊公は薬師如来の威神力で悪魚を退治することができた。霊公は病を除け九横の難を排することを誓い、浦の陸地に精舎を建てて薬師如来像を安置し、法勲寺と名付けた。以後、人々は貢物をおさめられるようになり、船舶や船員の煩いはなくなった。
 童子は日光菩薩が姿を変えた横潮明神であった。この童子の姿にちなみ浦を児ヶ浜と名付けた、水は瑠璃水、瓶は薬壷であるため、薬壷水と言った。
 霊公は鵜足郡に移住し、兵士たちから讃留霊公(讃留霊王)と呼ばれた。また、井戸の行部、田比の里布、師田の宇治、坂本の秦胤の四人の将軍がいた。人々は彼らを四天王と呼んだ。
 霊公は三男一女をもうけた。現在の首領、郡司、戸主、長者たちは、すべて三男一女の子孫である霊公の胸には阿耶の黒点があったため、子孫は綾姓を名乗った。仲哀天皇8年9月15日、霊公は123歳で亡くなった。
  讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話を要約すると 
讃留霊王は、もともとは景行天皇の子・神櫛(かんぐし)王でした。
①景行天皇時代に南海や瀬戸内海で暴れまわる巨大な怪魚がいて、神櫛王がその退治に向かった
②しかし、逆に軍船もろとも一旦これに呑み込まれた。そこで大魚の腹のなかで火を用いて弱らせ、團を切り裂いて怪魚を退治した。
③その褒賞で讃岐の地を与えられ、坂出市南部の城山に館を構えた。
④これにより諱を「讃留霊王」(讃岐に留まった霊王)と呼ばれる
⑤彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 子孫は綾姓を名乗った。
⑥彼が讃岐の国造の始祖である。
読んでいて面白いのは①②です。しかし、この話を作った人が一番伝えたかったのは、④と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
 悪魚退治伝説は中世末から近世にかけての讃岐のいくつかの史料に載せられるようになります。
このうち最も古いのは『綾氏系図』です。この系図は、景行天皇に連なる綾氏の系図で、その前段に綾氏の成立にかかわる悪魚退治伝説が載せられています。この成立時期は15世紀中葉から17世紀後葉で古代に遡ることはありません。神櫛王という名前は紀記にはありますが、悪魚退治伝説はありません。つまり、この伝説は中世讃岐で作られたお話なのです。
 しかし、この中には綾氏の歴史が語られている部分もあるのではのではないかと考える研究者もいます。つまり、綾川流域を地盤としていた古代の豪族・綾氏の「鵜足郡への進出」を深読みするのです。その仮説につきあってみることにします。その際にポイントになるのは地名のようです。
3坂出湾1
「綾氏系図」の悪魚退治説話は、伝承を重ねいくつもの書に書き写され姿を変えていきます。そのために記載内容が少しずつ異なるようになります。その辺りを含んだ上で登場する地名を見ていきましょう。
  悪魚の登場場所は? 槌の門
 悪魚出現地には土佐、鳴門、水崎などもありますが12の史料に共通するのが槌の門(椎門、槌途など)です。槌の門とは、五色台の先に浮かぶ大槌島と小槌島に挟まれた海峡のようです。確かに、小さな円錐形の二の島が海から突き出た景観は独特です。瀬戸内海を行く船からすれば、異界への関門のように思えたかもしれません。悪魚出現の舞台としては、最適の場所です。同時に、この物語が書かれた中世においても、多くの船乗り達が知っていた航海ポイントだったのでしょう。
 退治された悪魚が流れ着く場所は9/12の史料が福江としています。
残りの4史料でも悪魚の死骸が埋められるのは福江です。つまり「悪魚の最期の地は福江」ということになります。福江については前々回に紹介しました。「古・坂出湾」の西部で、西の金山・常山、東の角山に挟まれた現在の坂出市福江町周辺で、近世の埋め立て以前には大きく湾入し、瀬戸内海に面する湊がありました。
 童子の姿をした横潮明神は11/12の史料で登場し、いずれも福江の浜に登場します。
 その童子が持ってくる蘇生の水はすべての史料で八十場(安庭、八十蘇など)の水です。
現在の坂出市西庄町にある八十場の湧水は、『金毘羅参詣名所図会』(弘化4年、1847)で「国中第一の清水」と評されており、近世には広く知られていたようです。
  ここまでで、多くの史料に共通するのは、槌の門、福江、八十場の地名です。
これらの地名を地図上でみると阿野郡の沿岸地域にすべてあります。ここからは、この伝説を聞いた人たちは、少なくとも槌の門、福江、八十場の地名とその位置関係
を知っていたと推測できます。そうでないと説話は時代を超えて伝わりません。

3坂出湾2
 悪魚退治伝説で、イヴェントが発生する回数が多いステージは福江です。
①悪魚の死骸がなんらかの理由で福江にあり、
②横潮明神の化身である童子が現れて倒れた兵士を蘇生させ、
③魚御堂、もしくは法勲寺が建立される、
④讃留霊王が悪魚退治後に上陸したのも、文脈からは福江のようです
ここからは福江が伝説における重要ステージと考えられます。

福江 中世
坂出市史から
 
次に福江について、考古学の発掘調査を見てみることにします。
坂出市西庄
坂出市史より

 考古学者は「福江の景観復元」を次のように述べます「角山北東麓から西に伸びる浜堤げ前縁を縄文海進時の海岸線とし、以後の陸地化も遅く、古代にも浅海が広がる景観

『玉藻集』(延宝5年、1677)には天正7年(1579)、香川民部少輔が宇多津に着いて、そこから居城の西庄城に帰るくだりがあります。そこには、次のように記されています。
①「中道」と呼ばれる海側の浜堤を、潮がひいていたのでなんとか渡ることができたこと
②「中道」と陸地側の浜堤Aとの間が足も立たない「深江」であること
坂出の復元海岸線3

 浜堤Aには文京町二丁目遺跡と文京町二丁目西遺跡があります
文京町二丁目遺跡からは7世紀前葉以降の製塩土器と製塩炉や8世紀の須恵器も出土しています。文京町二丁目西遺跡では、8世紀中~後葉を中心とする土器や、畿内産の9世紀の緑粕陶器や中世後半までの土器、さらに多量の飯蛸壷が出土しています。飯蛸壷漁が行われていたのでしょう。
 両遺跡の調査結果からは、陸地側の浜堤上では7世紀前半に製塩活動が行われ、やや地点を違えて7世紀後半に飯蛸壷漁が開始、8世紀までは続きます。この間、8世紀中~後葉には、生産用具(飯蛸壷)に加えて日用雑器(須恵器など)が増えてきます。ここからは東西を山に挟まれて北向きに湾入する復元景観も含めて考えれば、8世紀中葉以降には港湾機能をもった集落がここにはあったと研究者は考えているようです。それは、『綾氏系図』にも[福江湊浦]と記されているので、これを書いた作者は福江を港として認識していたことと符合します。
坂出の復元海岸線2

下川津遺跡との関係は?
   文京町のふたつの遺跡(福江湊)から約1.5km南西の大東川下流の右岸には下川津遺跡があります。復元図のように、古代以前には下川津遺跡は直近まで海岸線が湾入し、大束川の河口に近い場所だったと研究者は考えているようです。
この遺跡は坂出IC工事に伴う発掘調査の結果、大規模で異色な集落群が出てきて注目を集めました。遺構は、周りを低地帯に挟まれた四つの微高地の上に次のように展開します。
①6世紀後葉に集落が出現
②7世紀中葉には建物が急速に増加、企画性をもつ大型建物も出現
③8世紀後半から9世紀にかけて集落規模が縮小
④9世紀後葉以降には再び建物群が再出現
建物規模や配置の企画性などから、②と④の時期は官街的な性格持ち郡衙跡とも考えられているようです。また②の時期には土師器や飯蛸壷の製作、鍛冶、紡織などの諸生産活動が活発に行われていたようです。
鎌田池2
古代の旧大束川は坂出に流れ出ていた

 浜堤A(福江湊?)と下川津遺跡を合わせてみるとどんなことが分かるの?
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下川津遺跡に集落が出現した時点、浜堤A(文京町)は製塩の場でした。下川津遺跡が官街的性格をもつ7世紀後葉~8世紀中葉には浜堤Aで飯蛸壷漁が行われると同時に港湾機能が充実し活発化したとみられます。「断絶期」を挟み、再び官管的性格が下川津遺跡に現れるのはれた9世紀後葉です。その時期も浜堤Aは継続して利用されたようです。ここからは、7世紀から中世まで両者が共に活動を続けていたことが分かります。
 ふたつの遺跡は直線距離で約1.5kmしかありません。途中に大束川(旧河道)がありますが郡衙とその外港のような関係にあったという「仮説」は考えられます。それは、国府と林田湊、善通寺と白方湊のような関係を私に思い描かせてくれます。
 この仮説を頭に入れて、再び悪漁退治伝説をみてみましょう。
悪魚退治伝説は『綾氏系図』に記され、主人公である讃留霊王もしくはヤマトタケルは綾氏の祖先とされます。このことから悪魚退治伝説は、綾氏によって生み出されたと研究者は考えているようです。綾氏は7世紀後半には有力豪族であり、8世紀にかけて阿野郡で大きな力を持っていたようです。国府が阿野郡に設置された背景には、綾氏の政治力の影響があったとも考えられます。
伝説の共通する槌の門、福江、八十場がいずれも阿野郡にあるのは、伝説と綾氏との関連性を裏付けるものです。
 一方、『綾氏系図』には法勲寺や鵜足郡の地名が出てきます。
これは綾氏の「鵜足郡への進出」が表現されていると考える研究者もいます。また
①嶋田寺本「讃留霊公胤記」にも「讃留霊王が鵜足に居住した」
②『讃岐国大日記』では「讃留霊王が鵜足津(宇多津)へ上陸」
③嶋田寺本「讃留霊公胤記」では「法勲寺か登場」
④『綾北問尋鈴』でも「悪魚の霊を鎮めるために魚御堂または法軍寺を建てた」
とあります。
法勲寺は現在の丸亀市飯山町上法軍寺・下法軍寺にあたります。この地には飛鳥時代~奈良時期の建立とされる寺院跡があり、この寺院跡が古代の法勲寺であった可能性は高いようです。『讃岐国名所図会』では、この地を法勲寺跡とし、福江にあった魚御堂を移して法勲寺としたという内容を『宇野忠春記』から引用しています。

 法勲寺が『綾氏系図』に登場することから「法勲寺は綾氏の氏寺ではないか」と考える研究者もいるようです。法勲寺跡と国府の開法寺跡からは、同文の軒瓦が出土していることも、「」法勲寺=綾氏の氏寺」説を補強します。
 福江湊の位置づけ役割については?
古代の阿野郡には、福江のほかに現在の綾川河口付近(坂出林田町)にも港湾施設があったことは前々回にお話ししました。ふたつの湊の位置を比較すると福江は阿野でも西端に位置し、国府との距離があります。しかし、福江は鵜足郡や下川津(郡衙跡?)へのアクセスが便利です。鵜足郡を流れる大束川は、古代は川船輸送にも使われていたと考えられています。そうすると大束川へ陸揚げルートとしても重要であったはずです。つまり、悪魚退治伝説で福江が重要視されているのは、福江が阿野郡と鵜足郡をつなぐ地であったからと研究者は考えているようです。綾氏が国府のある阿野郡に本拠地をもちながらも鵜足郡への影響を強めていたとするならば、伝説の中で福江が強調されていても不思議ではないというのです。
白峰寺の荘園 松山荘と西庄

以上を仮説も含めてまとめると次のようになります。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。

このように考えると古墳時代の川津周辺の前方後円墳の立地などもしやすくなります。大束川の河口から流域沿いに開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。その入口が福江湊だったというストーリーが描けるようになります。
 もうひとつ曖昧なのは、宇多津の位置づけです。宇田津が港湾機能を発揮するのはいつ頃からなのでしょうか。宇多津と福江と下川津遺跡の関係はどうなのか?
 その辺りは、また別の機会に
 参考文献
乗松真也
「悪魚退治伝説」にみる阿野郡沿岸地域と福江の重要性
        香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか



讃留霊玉の悪魚退治伝説が、どのように生まれてきたのか 

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古代寺院法勲寺跡の礎石を眺めるために讃岐富士の見える道を原付バイクを走らせていると・・
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讃留霊王(さるれお)神社が現れました。
ここに祀られている讃留霊王について、少し考えてみました。

讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話とは? 

讃留霊王とは、もともとは景行天皇の御子神櫛(かんぐし)王でした。
①彼が瀬戸内海で人々を困らせていた悪魚(海賊)を退治し、海の平和を取り戻します。
②しかし、その後も京に帰らず、宇多津に本拠を構えました。
③彼の胸間には阿耶の字の點があったので、 綾を氏姓とします。
④諱を讃留霊公というのは、京師に帰らず、讃岐に留まったからです。
⑤彼が讃岐の国造の始祖です。
さて、この話を作った人は何を一番伝えたかったのでしょうか。
それは、③と⑤でしょう。つまり綾氏の祖先が讃留霊王 = 景行天皇の御子神櫛王で「讃岐の国造の始祖」であるという点です。自分の祖先を「顕彰」するのにこれほどいい素材はありません。
讃留霊王の悪魚退治というのは、もともとは綾氏の先祖を飾る話です。
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この説話は、いつごろできたかのでしょうか?

話の中に瓦経という経塚の要素が見られることから平安末期と推定できます。その頃は、古代豪族からの伝統を持つ綾氏が、中世武士団の讃岐藤原氏として生まれ変わりつつあった時代です。綾氏が一族の結束を図った時代背景があります。
先祖を同じくする伝説のヒーローの下に、集い結束を深めるというのはいつの時代にも行われます。その頃に、この説話の骨格はできあがったのではないでしょうか。

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この説話が初めて書物となったのは、いつ頃でしょう

 天正一五年(一五八七)讃岐に入った生駒親正は、法勲寺(高田寺 現飯山町)の良純に帰依し、讃岐武士の始祖としての讃留霊王を再評価し顕彰します。そのための伝説のリメイクと書物化が行われます。それを担ったのが
法勲寺 → 嶋田寺 →  弘憲寺
の学僧ラインではないでしょうか。
法勲寺は親正の子一正の代になって飯山から高松西浜に移され、今の弘憲寺になります。その弘憲寺には、近世に描かれた立派な武士の姿をした讃留霊王の肖像画が伝えられています。讃留霊王を祀っていたことがうかがえます。
 こうして、生駒藩の新参の武土層にも悪魚退治の話と綾氏=讃留霊王の子孫という話は広がっていきます。

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江戸時代になると多少余裕が出てきますから、庶民の中にも悪魚退治の話を写して読む人が現れます。そのためかいくつかの讃留霊王説話の写本が残っています。戦前に編纂された『香川叢書』には、それらの説話集の何種類かが「讃留霊公胤記」として収められています。 現時点で成立年が判明しているものを年代順に並べてみると次のようにります。
1 承応元年 1652 年 友安盛貞 『讃岐大日記』
2 享保三年 1718 年 香西成資 『南海通記』 「讃留霊記」
3 享保二十年 1735 年 書写 嶋田寺本 「讃留霊公胤記」
4 明和五年 1768 年 菊池黄山 『三大物語』
5 文政十一年 1828 年 中山城山 『全讃史』綾君世紀 「霊王記」
6 安政五年 1858 年 丸亀藩京極家 『西讃府史』 
最も古いものでも、江戸時代を遡ることはないことがわかります。
つまり讃留霊王伝説のリメイク本は、近世以後に現れたと言うことがここからも分かります。

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讃留霊王説話に熱い思いを持ち続けた人たちが香西氏です。
香西氏は戦国の戦いの中で、生駒氏が来る前に滅びてしまっています。しかし、庶民としては生き続けていました。香西氏というのは讃岐藤原氏、すなわち綾氏の直系を自負する人たちなんです。香西氏の子孫、香西成資が享保四年(一七一九)に白峯寺に奉納した『南海通記』には「綾讃留王記」が入っています。同じ讃岐藤原氏の血を引く新居直矩が寛政四年(一七九三)に香西の藤尾八幡に奉納した『香四記』にも「讃州藤家香西氏略系譜」が入っていて、讃留霊王のことが出てきます。

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讃岐のローカルヒーローを全国的認知度に高めたのは誰?

 讃留霊王説話はあくまで讃岐独自の物語で全国的には殆ど知られていませんでした。この説話がもともとは地方武士である綾氏の先祖を飾るローカルな話であったことからして、当然なことです。
   しかし、全国的に認知される機会がやってきます
   本居宣長が「古事記伝」で、この讃岐独特の説話を次のように引用したのです。
「讃岐国鵜足郡に讃留霊王と云う祠あり。そは彼の国に古き書ありて記せるは、景行天皇廿二年、南海に悪き魚の大なるが住みて往来の船をなやましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て討ち平らげ給ひて、やがて留まりて国主となり賜へる故に讃留霊王と申し奉る。これ綾氏・和気氏等の祖なりと云うことを記したり。或いは此を景行天皇の御子神櫛玉なりとも、又は大碓命なりとも云ひ伝へたり。讃岐の国主の始めは倭建命の御子武卵王の由、古記に見えたれば武卵王にてもあらむか。今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必ず鳴動するなりと、近きころ、彼の国の事どもを記せる物に云えり」
 
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 何を見て書いたのかはわからないのですが、本居宣長は讃岐で書かれた悪魚退治の本を入手して、これを書いたのでしょう。宣長が「古事記伝」で引用したことで、讃留霊王説話は全国の知識人に知られることになります。そして、明治にかけてその認知度をアップさせていきます。
   宣長の記述から次のような事が分かります
(1)讃岐に讃留霊王という祠があること。
(2 『讃留霊記』という古書があること。 
(3)倭建命の御子が讃岐に来て悪しき魚を退治し、讃留霊王と呼ばれたこと。
(4)讃留霊王は神櫛王・大碓命・武卵王の諸説があること。
(5 「讃留霊」は後の当て字で 「さるれい」の 意味は不明であること。
こうして戦前の皇国史観においては、讃留霊王は郷土の英雄として故郷学習などにも登場し、知らない人がいませんでした。そういう讃留霊王信仰の高まりの中で、元々は、八坂神社の中にあった祠が讃留霊王の古墳とされる上に建立されたのでしょう。

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