瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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 宝寿寺-札所となる一の宮
 
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六十二番の宝寿寺は町の中にあって、家並に埋没してしまっているといっては、言葉が過ぎるかもしれませんが、そんなふうです。
 宝寿寺の御詠歌は非常に古い御詠歌だとかもいます。
「さみだれのあとに出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かは」
という御詠歌は、かなり古いかたちです。
御詠歌から、このお寺はもとは白坪というところにあり「一の宮」と呼ばれていた。白坪にあったときは、玉の井という霊水が湧いていたということがわかります。

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 縁起には、かなり古い時代に「伊予一之宮」の法楽所として成立したと書かれています。神様にお経を上げることを法楽、お経を上げるところを法楽所と呼びました。宝寿寺は香園寺の旧寺地があった大日と、川を隔てた中山川の河口の白坪に、まず建立されました。ここも海に近かったとかもいます。

 聖武天皇が金光明最勝王経を奉納して、道慈律師という人が講讃させたと縁起に書いてあるので、道慈あるいは大安寺と関係があったのかもしれません。
道慈律師は、中国に渡って十八年留まったのち、
養老元年(七一七)に翻訳された、いわばホットニュースのような求聞持法をもって翌年養老二年に戻ってきた人です。
   中国で善無畏三蔵が、養老元年に当たる年に虚空蔵求聞持経を訳経したことは、はっきりしています。善無畏三蔵は密教八祖の一人で、インドから中国に来てたくさんの密教教典を訳しました。善無畏三蔵が翻訳した密教教典は「雑密」と呼ばれています。虚空蔵さん、薬師さん、あるいは吉祥天のような一つ一つの仏様について、それぞれ功徳や拝み方を説いたものが雑密です。
  
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 次に出てくる不空三蔵という人は、『大日経』や『金剛頂経』を訳します。

このお経は、仏様を曼荼羅の中に配列して、この仏様はこの位置だ、この仏様は阿弥陀様と同じだ、この仏様は大日如来と同じだという理論を付けて整理したものです。このころになると、雑密はすでにほとんど翻訳し尽くされました。仏像を拝観するときの唱え方を書いたものなどは、殼初に翻訳されています。
 だいたい宗教の始まりは、人間の苦痛をいかにして救うかということで、すでに正倉院に残されている写経に出ているほどで、中国でも朝鮮でも日本でも、自分たちを幸福にずるもの、苦痛を除くものが殼初に翻訳されたことがわかります。 
ところが、弘法大師以前に仏様の配列ができました。
弘法大師は善無畏のあとで中国に来た不空三蔵あるいは一行阿闇梨か翻訳したお経をもって帰ります。雑密は、それぞればらばらです。弘法大師がもって帰ったものは統合したものですから、思想になります。これが密教の二つの流れです。いま曼荼羅、曼荼羅と申しますが、これは思想としての密教ですから、わかったようでわかりません。なぜこの仏様はここで、どうしてこの仏様はここでなければならないかということはやはり謎です。 

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  空海以後の密教が正統密教だといわれています。
 
しかし、正統というと、ほかのものはみな異端になってしまいます。
そこで「両部密教」とも呼ばれています。金剛界・胎蔵界に配列するのを両部と呼びます。雑密は材料です。両部密教はそれを整理して、摩利支天のような天部はいちばん外のところに配列される、明王はその次に配列される、その次は菩薩が配列される、真ん中には如来が配列される、如来の間に菩薩や天部が配列されるという構造になったものです。
 善無畏三蔵が翻訳した虚空蔵求聞持経という呪術的なお経を道慈律師が日本にもって帰ると、燎原の火のごとくに広がりました。養老三年(七一九)に白山を開いた泰澄という実在の人物が、求聞持法をやっていることはまず間違いありません。
 日光を開いた勝道上人も求聞持法をやった記録があります。山伏をしていて文章が書げなかった勝道上人は、人を介して日光山を開いた由来を作文してくれと弘法大師に頼んでいます。
伝言を頼まれたのは下野国の国博士として下ってきていた尹博士という人です。尹博士は、おそらく「イソ」という音をもっか名前の人だったとかもいます。下野から帰ってきた尹博士の伝言を受けて、弘法大師が代わりに作文した文章が現在でも碑になって日光に残っています。
 こういうことから、弘法大師の同時代の山岳修行者の間で、求聞持法が非常に流行していた大ことがわかります。おそらく宝寿憚にも求聞持法が伝えられたために、道慈律師がここで講義をしたという話が残ったのだとかもいます。
 天養山という山号は、鳥羽上皇のころ、天養元年(一一四四)に洪水で流された伽藍を再興したということから付けられたといわれています。
 

  このお寺が一の宮と呼ばれたのは非常に大事なことです。

現在も門前の標石に「一国一宮別当宝寿寺」と彫ってあります。
四国では阿波も土佐も伊予も讃岐も一の宮はぜんぶ札所になっています。
 『四国偏礼霊場記』は、次のように書いています。
  
  此寺本尊、十一面観音なり。惣て聞所なし。推て一の宮と号す。
  いづれの神といふ事をしらず。
  一の宮記に当国の一の宮越智郡大山祇の神社とあり。即三島明神なり。
  当所もむかしは十町余も北にありしを、近来此所に移ぜりとなん。
  今は鎮守と号する一祠ときこゆ。是一の宮の余烈にや。 
 何も縁起はわからない、無理に一の宮といっているだけで、別に理由はないと書いていますが、辺路の信仰からみると、十分に納得できます。現在の寺地から北十町ートル)あまりの海岸(白坪)に大山祇神社を勧請し、これを一の宮としてあがめ、ここを霊場としたことは十分に理由があることです。
 今治市内の別宮が大三島大山祇神社を勧請して、その別当寺に南光坊があるように、白坪の一の宮の別当寺が宝寿寺です。
   
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この寺は中山川の河口にあったために、洪水にしばしば流されたようです。
天正年間に豊臣秀吉の四国攻めのときに荒廃し、寛永年間(二(二四i四四)に一柳氏が再興したとき現在地(予讃線の伊予小松駅前)に移されました。大正十年(一九二一)にもう一度移しだのは、おそらく鉄道の線路か駅にかかってしまったために、もう少し南の駅前に移されたのだとかもいます。
 このお寺は江戸時代にも無住時代があったので、四国遍路の行者宥信上人が住み込んで、付近の人に勧進しながら再興しています。明治維新で廃寺になったときも、同じように四国遍路の行者大石置遍上人が再興しています。それが大正十年に移転して現在の寺院になったわけです

香園寺の本堂は二階

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香園寺という寺名は、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀山という山号からきたものと考えられます。香園寺となったのは、教王院の「きやうわう」が「けうわう」から「けんをん」となり、「香苑」と変おったわけです。教という宇は、かかしは「けう」と読みました。教王は大日如来です。大日如来を本尊としていることから、教王院という名前が出たのだとおもいます。

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「後の世をおもへば詣れ香園寺 とめて止まらぬ白滝の水」
という御詠歌の中に「後の世」とありますが、栴檀の林でお釈迦様を火葬にしたら煙が非常にいい香りがした、その栴檀が山号になったというのが「後の世」の意味でし太う。そのあたりを考えないと、四国霊場のお寺の名前の意味はわかりません。
 「とめて止まらぬ白滝の水」と詠んだのは、
  このお寺の奥の院が白滝不動というお不動さんのあったところだからです。
奥の院の白滝不動から登って、横峰寺に上がります。
途中まではハイキングできますが、先はちょっと道が細くなります。逆に横峰から下ってくると白滝不動に出ます。ここは、奥の院に行ってみないと霊場はわからない、ということが実感できる非常に幽逞なところです。
 
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香園寺はモダンな建物でして、三階建ての二階が本堂で、
二、三百の椅子席、三階が五百名収容可能な宿坊となっております。
しかし、奥の院はじつに幽遼な昔ながらの感じがします。
ここには滝の水の信仰があって、広島や岡山からも信者が来るので、昔の遍路さんは奥の院まで行ったのだとおもいます。滝の水で手を清めると、お参りした実感がしみじみと湧いてきます。

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 縁起では、弘法大師がここを通りかかったときに栴檀の香りがしたので、大日如来を安置して教王院と号しかとなっています。ただ、この寺がもとあった場所は奥の院ではなくて、奥の院の反対側の海岸です。いまも予讃線の線路を越した北側に大日という地名が残っていて、お寺はそこから移ったという記録があります。
 そこにあった大日堂が、白滝不動で修行する人たちの納経所になって、やがて大日如来を本尊とするお寺になり、大日如来だから教王院と称し、現在の香園寺になったわけです。

 『四国偏礼霊場記』は、その他の縁起はわからないと書いているので、書いた方はもとはどこに寺があったかということを調べなかったようです。大日という場所は中山川の下流のデルタにあるので、昔は大日あたりまで水が来ていたのかもしれません。
 
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  ところが、だんだん北に向かってデルタが延びたために、現在は大日と民家の間はIキロぐらい離れています。全部草原ですから、あとがら延びてきたデルタであることがわかります。したがって、海岸にまつられていた大日如来が辺路信仰者の信仰を得て、白滝不動に合わさっていったのだろうとかもいます。

 御詠歌にある「白滝の水」は奥の院の「白滝不動」ですが、ここを奥の院とするのは、石鎚山の別当だった横峰寺との関係を示しています。昔は六十一番香園寺で札を打つということは、白滝不動で滝垢離をとることだったようです。いまでは香園寺から約ニキロ山に入った白滝不動に車で入れるようになりました。

 六十四番の石鎚山前神寺の明和六年(一七六九)の『石鎚山先達惣名帳』に香園寺の名が見えます。それ以外にお寺の記録を残した文献はありません。古くは苑という字が使われますが、明和六年には園という字が使われています。
 中世の海岸の辺路修行は、のちに山岳宗教の修験道に吸収されたかたちとなりました。山岳修行が山の神様を拝かのに対して、辺路修行は海の神様を拝みます。海洋宗教である辺路修行と山岳宗教の修験道が結合したかたちを最もよく示しているのが香園寺だとかもいます。

 また香園寺には、弘法大師がこの地に巡錫されたときに、難産に苦しか女を見て加持したところ安産できた。それで「子安大師」と呼ばれて、安産祈願の寺になったという寺伝があります。そうして全国に子安講ができて、非常に賑わっていたことが今日のお寺のすがたに関連しているとみるべきでしょう。

四国霊場60番 横峰寺 奥の院は石鎚山 

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 六十番横峰寺の奥の院は西日本随一の高峰の石鎚山(1982㍍)ですから、奥の院に参拝しようとすれば石鎚山に登らなげればなりません。石鎚信仰がよく残っている霊場の一つが横峰です。
 横峰寺の縁起には、役行者が星ヶ森で練行中に石鎚山頂に蔵王権現を見た、
蔵王権現の尊像を、行基菩薩が大日如来の胸中に納めて寺を建てた、
と書かれています。本尊の大日如来の胸の中には役行者が刻んだ蔵王権現があるので、山頂本尊は吉野蔵王堂と同じ三体の蔵王権現です。修験道には、本尊を複数でまつる性格があって、いまでも過去・現在・未来の三体をまつっています。

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 神仏分離以後の前神寺の蔵王権現も三体蔵王権現です。

 もとは山開きのときは、常住まで三体蔵王権現が上がりました。
神仏分離以後は、神社のほうは別に石土大神をまつるようになりましたが、じつは石土大神のほうが古いわげです。石土といったのは、この山が木の生えない岩峰だったからです。「いしづち」の「つ」は「の」という助詞、「ち」は霊のことですから、石の霊が龍る山だという意味です。 
なぜ現在は石鎚神社と呼ばれているかといいますと、
石土という名前は仏教的なことが伝えられているというので、仏教から分離しようとしたからです。仏教的な石鎚信仰が奈良時代の説話を集めた『日本霊異記』の最後の説話と、「六国史」の中の『文徳天皇実録』に出ています。

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   まず『日本霊異記』のほうから見ていくことにいたします。
 伊予国神野郡部内に山あり。名づけて石鎚山と号す。
是れ即ち彼の山に石槌神あるの名也。
其の山高節にして、凡夫登り到ることを得ず。
但、浄行人のみ登り到りて居住す。
昔諾楽宮廿五年天下治しし、勝宝応真聖武太上天皇の御世、
又同宮九年天下治しし、帝姫阿倍天皇(孝謙女帝)の御世、
彼の山に浄行の禅師ありて修行す。其の名を寂仙菩薩となす。其の時世の人、
道俗、彼の浄行を尊む。故に菩薩と美称す。
 ここにみえる「登り到ることを得ず」とは、登れないという意味ではなくて、登らせないという意味です。ただ、浄行人として承認を得た人だけが登りました。この文章によると、すでに弘法大師より前に寂仙菩薩という方がこの山で修行していたことがわかります。 
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帝姫天皇の御世、九年宝字二年歳の戊戌に次れる乍、
寂仙禅師、命終の日に臨んで、録文を留めて弟子に授げて告げて言はく
「我命終より以後、廿八年の間を歴て、国王の子に生まる。名を神野となす。
是を以て当に知るべし。我寂仙なることを」云々といふ。
然るに廿八年を歴で、平安の宮に天下治しし山部天皇(桓武天皇)の御世、
延暦五年歳の丙寅に次れる年、則ち山部天皇皇子(嵯峨天皇)を生む。
其の名を神野親王と為す。
嵯峨天皇の親王時代の名前と石鎚山のある場所の郡名が偶然にも一致したので、生まれ変わりだということになりました。 
 
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次に『文徳天皇実録』を見ることにいたします。

  
故老相伝ふ。伊予国神野郡に、昔高僧、名は灼然なるものあり。
  称して聖人と為す。弟子、名は上仙なるものおり。
  山頂に住止して精進練行すること、灼然より過ぐ。諸鬼等皆順指に随ふ。
  上仙嘗て従容として、親しか所の檀越に語って云く、我もと人間に在り。
  天子と同じき尊にあつて、多く快楽を受く。その時是の一念を作す。
  我れ当来(将来)に生まれて天子と作ることを得んと。
  我れ今出家し、常に禅病を治するに、余習遺るといへども、気分猶残る。
  我れ如し天子とならば、必ず郡名を以て名字と為さんと。
  其の年上仙命終す。是より先、郡下の橘の里に孤独の姥あり。
  橘の躯と号す。家産を傾け尽して上仙に供養す。
  上仙化し去るの後、競に審に問ふを得れば、泣俤横流して云く。
  吾れ和尚と久しく檀越と為る。
  願くば来生にありて倶会一処にして相親近することを得んと。
  俄に躯亦命終せり。其の後幾ばくならずして天皇誕生す。
  乳母の姓神野と有り。
  先朝の制、皇子生まるるごとに、乳母の姓を以て名と為す。
  故に神野を以て天皇の譚と為す。後に郡名を以て天皇の譚と同じ。
  改めて新居(新居浜)と名づく。このとき夫人、橘夫人(檀林皇后)と号す。
  いはゆる天皇の前身は上仙是なり。橘の躯の後身は夫人是なり。
 この文章から、弘法大師より前にすでに石鎚山が霊場として知られていたことがわかります。弘法大師も『三教指帰』という自叙伝の中で、尼さんの話を出したりしていますから、石鎚山で修行した弘法大師はそのことを知っていたとおもいます。
こういう話が伝説になって伝えられていたわけです。

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横峰のいちばんの霊場は星ヶ森です。

 横峰寺は前神寺と別当を争っていました。
どちらかというと、横峰のほうが登りやすかったようです。役行者の話が出る星ヶ森という奥の院を信仰の対象にする場合は星ヶ森を通り、弘法大師を信仰の対象にする場合は石鎚山を通ることになります。
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『四国偏礼霊場記』は、上仙を石仙菩薩という名前にして、石仙菩薩の開基だと述べています。 
当山縁起弥山前神、三所同本を用ゆ。
 此縁起、石鉄権現の事、役の行者の事、井に石仙の
  事を書たり。其文神奇孟浪なり。
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「弥山」は石鎚山の頂上のことです。
御山と書いて「ミセソ」と読んでいたのを、須弥山に合わせて「弥」という字を使うようになったわけです。「孟浪」は、でたらめという意味です。
『四国偏礼霊場記』では、弥山(石鎚山)の縁起も前神寺の縁起も横峰寺の縁起も同じ本を用いている、いろいろでからめなことを書いたのは縁起の筆者の累(嘘を言った罪)であると書いています。
 『四国偏礼霊場記』の筆者は、『日本霊異記』や『文徳天皇実録』にも上仙のことが書いてあるのを知らなかったようです。縁起のほうが、むしろ正しいといわざるをえないようです。

参考文献 五来重:四国遍路の寺
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国分寺-最勝院の薬師堂が本堂 

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なぜ四国の霊場を、八十八にしたかというのもよく聞かれる問題です。
 華厳宗の場合は十一の倍数を尊んで、六十六、九十九億、七十七天王などといっておりますから、そのあたりからきたものと考えています。
 国分寺と一の宮は四国ではいずれも霊場となっています。これは辺路修行が六十六部回国のように、国めぐりの性格をもっていたからです。しかし、天平年間に建立された国分寺が堂塔を残しているのは非常に稀であって、讃岐の場合はそのひとつです。
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  国分寺の全部が残ったわけではなくて、国分寺の中の一支院や一坊が残って、国分寺という名前を名乗っています。伊予の国分寺の場合も、民家の間に西塔の礎石が残っていることから考えると、国分寺伽藍の周囲にあったいくつかの坊が、国分寺の名を称していたということがわかります。

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現在は、最勝院の薬師堂を本堂として国分寺の名を称しています。
このほか、大事堂、金毘羅堂、庫裏、書院があります。お寺の縁起によると、智法律師が住持をしていたときに弘法大師がやってきたとされていますが、弘法大師が来た可能性はあるとおもいます。そういう縁起があるだけで、戦乱によって何回も焼かれたために、そのほかのことはよくわかりません。

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仙遊寺 もとは泉が涌くという泉涌寺です。 

 
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五十八番の作礼山仙遊寺は、栄福寺からごく近いところにあって、その間の距離は1キロ足らずではないかとおもいます。栄福寺は勝岡という八幡さんの丘の麓にありますが、仙遊寺はその丘と相対する山の上に建てられています。表参道から登ると非常に急な坂を登らなければなりません。そこから二〇〇メートルほど下ると弘法大師の加持水があります。縁起では、仙人が遊んだから仙遊寺だとありますが、そうではありません。もとは泉が涌くという泉涌寺です。
 
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  原始修験道の時代の信仰は?

日本の山岳宗教の歴史では、仏教をはじめとする外来の宗教の影響を受けない時代を原始修験道と呼んでいます。そういう時代は山の神や海の神や川の神々を御参りしていました。お寺もないころですから、洞窟の中に籠もって、神と一つになる修行をしました。そのためにすべての穢れを落とさなければなりません。山なら滝に打たれる、海なら潮浴びをするというような苦行をして人間の穢れをすべて取り去ることにより、人間に神が乗り移ると考えられました。 
これが憑依現象です。
山岳宗教では「ヒヨウエ」といっていますが、密教的にいうと即身成仏です。
神様が乗り移って、人が神の言葉を語るのですが、穢れていては神様が移ってくれません。そこで、無垢な子ども、機れのない少女、あるいは苦行によって穢れをぜんぶ落とし人に神様の霊が入ると考えたのです。伊勢の斎宮の場合も同様で、斎宮の語る言葉、すなわち託宣が神の言葉です。こういう構造をもったものを原始修験道と呼んでいます。
 
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 次の段階になると、託宣の方法に道教的・陰陽道的なものが混じってきます。
たとえば、星をまつったり、中国やインドにはいるけれども、日本にはいない龍をまつるようになるのが、初期修験道の段階です。
 さらに、役行者のころからそこに密教が大ってきます。平安時代に成立した密教を主体とする山岳宗教を中期修験道と呼んでいます。中期修験道の段階で醍醐の三宝院、園城寺、聖護院のような本山ができて教団化されていきました。
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 原始修験道や初期修験道においては厳しい辺路修行をしました。
平安中期、修験道が理論化されるにつれてい原始的な山岳修業者に代わって学問する人、あまり苦行をしない人々によって、たとえば三十三か所が開かれます。
 それ以前は役行者を除くと無名の人が多く、歴史の中に埋没しています。しかしその時代こそ本来の山岳修行・山岳宗教、辺路修行・海洋宗教が盛んだった時代です。
 まだ仏教の色彩がそう濃厚にならない時代の修行者を仙人と呼ぶ場合があります。仏教が入ってくると、行者あるいは修験者という名前で呼ばれるようになりました。
  
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お寺では仙人から仙遊寺という名前ができたといっています。

 しかし、泉から出てきた信仰だとおもいます。
霊水が湧くといわれるところは、だいたい弘法大師が活躍したところです。
弘法井戸とか大師井戸と呼ばれるものは、弘法大師と加持水が結びついた伝承です。弘法大師が現実にそういうことをされた場合もあり、されなかった場合もあるのですが、それは議論する必要のないことだと私はおもっております。

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   海洋信仰の時代は、修行者が海の見える山頂から海を礼拝しました。

志摩に行くと、和具という海女の本拠地に八大龍王に火を上げる燈籠が現在も残っており、辺路修行者が火を焚いて海神に捧げたのだということが分かります。
 志摩今熊野では、江戸時代の中ごろから末にかけて富士浅間信仰が非常に盛んになります。富士浅間は富士山が見える範囲内における海上生活者の信仰対象です。
 富士山は、山だから山の信仰だろうとおもわれるかもしれませんが、そうではなくて海の信仰です。晴れていると大工崎から富士山が見える、あるいは船が沖に出ると見えるといっています。富士の神様が浅間さんで、本地仏は大日如来です。
 弘法大師の場合も、海に向かって火を上げたと自叙伝に書いています。
辺路修行で海を礼拝したということはまず間違いありません。
 
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海を礼拝する方法が足摺という方法です。

 のちになると、人に出し抜かれて残念だといって、駄々つ子のように駄々を踏むことだと解釈されます。すでに『平家物語』のころでさえ、海を拝む宗教があったことが忘れられてしまっています。その点では伝承は、千年前に忘れられたものを明らかにすることができるありかたい資料です。偉い坊さんや偉い学者の書いたものには出てこなくても、庶民の伝承を集めていくとわかってきます。
 そうすると、厳島神社の鳥居が海の中にある理由もわかります。いまは逆になって船で海に出て拝がむのだといっていますが、海を拝んでいたことは確かです。

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海のかなたを礼拝する山ですから、作礼山というのだとおもいます。
 山頂の石塔は経塚でしょうか。
『四国偏礼霊場記』はこのあたりの素晴らしい景色を次のように描写しています。 
遠く洽海を望めば島嶼波に認べり。左は今治の金城峙つ、
  逸景いづれの処より飛来、惟画図に対するごとしとなり。
 現在の本堂は昭和二十八年(一九五三)に再興されたもので、古いものではありません。

延命寺-宝冠の不動明王

 
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五十四番の延命寺は、五十三番の円明寺と同じ名前だったといわれています。
明治以後に同じ名前では困るというので、延命寺と直したとことがはっきりしています。
 今治から北のほうに半島が延びており、その半島と大三島の間が難所の来島海峡です。延命寺の奥の院は、眼下に来島海峡を望む山の上にあります。現在は山全体が公園になっており、車で楽にあがれますが、頂上の旧跡のあるあたりへは入れません。一歩一歩ふみしめて登ると、辺路の代表的な所だと思われてくる場所です。

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  延命寺の山号を近見山といっているのは、奥の院のある山が近見山だからです。
「くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうっすものかな」
という御詠歌の「鏡の縁」は、弧になってずっと見えている海岸線をさしているのかもしれません。ここからすべての景色が見えるということを、詠んだものかとおもいます。
 薬師如来を拝むお寺であれば、鏡に罪・機れ、病気を移して薬師様に受け取ってもらって治してもらうということで、病気平癒のために鏡を納めることがしばしば行われています。鏡と薬師如来が結びついていることはわかりますが、延命寺の本尊は不動明王です。ただ、もう一つ薬師さんがあるので、あるいはそれかもしれません。
 本堂の左手に薬師如来をまつる含霊堂(位牌堂)があるので、ぞれが御詠歌の鏡だとすれば、非常に古い御詠歌になります。
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 薬師如来を考えるならば、山の上から見ると、海岸が鏡の縁のように見える、海も山も海岸も全部、影が映って見えるという意味かとおもいます。難所を通る場合、月明りのない夜は航海が非常に困難ですから、おそらくこのお寺の常夜灯は、来島海峡を通る船の目印になった重要な灯台ではなかったかとおもねれます。

 そのために、このお寺はもとは円明寺と呼ばれました。

 薬師如来の円と燈火の明を結んで円明寺だったとおもいますが、五十三番の円明寺と混同するので、延命寺と改めたのです。本堂の左手にある含霊堂がまつっている薬師如来示おそらく奥の院の本尊です。これが辺路の寺と薬師の関係です。
 そうすると、含霊堂も山上から下ったわけです。
  
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 このお寺の本尊は宝冠の不動明王です。

 大日如来と合体した宝冠の阿弥陀如来はたまにありますが、宝冠の不動はめったにありません。それが延命寺の本尊になっています。山伏などが「大日大聖不動明王」と称えて行をするのは、大日如来と不動明半が一つになっているわけです。
 したがって、大日如来の宝冠を不動さんがかぶっているというかたちをとっているのだとかもいます。
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ここの伝承を総合すると、近見山の周りに非常にたくさんの堂があったようです。
 周りの堂舎は、もっぱら学僧だもの勉強の場でありました。その証拠の一つは、鎌倉時代に東大寺の高僧凝然が留錫して『八宗綱要』を書いたといわれていることです。「八宗綱姿」は、比常山でも高町山でも、昔の坊さんが勉強するときは、かならず素読をさせられた名著です。仏教の知識を得るのはこれを読むことから始めるのがいちばんいいのですが、漢文ですから、仮名で書いてあるものなら『沙石集』のような簡単なものを読むのがいいとかもいます。
 凝然は、たくさんの著書を残しています。
ここで『八宗綱要』を書いたということは、凝然が勉強をしている坊さんたちに講義した講義録とも考えることができるのです。そういう場所の中に、不動さんを本尊とする不動院がありました。阿弥陀様を本尊にする支院とか弥勒さんを本尊にする支院など、支院がたくさんあって、その一つの不動院の建物が比較的しっかりしていたために、長宗我部氏支配のころ焼かれたときに本尊をここに収容することになったのだとおもいます。
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泰山寺ー海の神は山の神

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 仏教以前にわれわれの遠い祖先は、何を信仰していたのか?

何に祈りを捧げていたのかは、辺路を考察することによって明らかになってくるのです。五十六番の金林山泰山寺は、正しくそういうところです。
泰山寺は松山から車で三十分ぐらいの道路に面した平凡なお寺で、もとはうしろの金輪山(金林山)に奥の院があったようです。 
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 『四国偏礼霊場記』は高野山の学僧が書いたものですから、なかなかの名文です。 
 此寺大師の開基ときこゆ。隆弊しらず。本尊地蔵菩薩大師の御作なり。
 蔀堂蕭条として、樹木おほし。簸落山華を帯、野風をのづから往来、
 数家の田村斜陽に対す。
 「隆弊しらず」は、この寺の盛衰を知らない、つまり歴史がわからないという意味です。「蔀堂」は茅葺きのお堂のことで、木がたくさん生えた寂しいところだったようです。「簸落」は、生け垣、「山華」は山の花という意味ですが、山茶花ではないかとおもいます。生け垣があったり、茅葺きのお堂があって、田んぼの中には二、三軒の家が西日を浴びて建っている寂しい情饌が描写されています。
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 山号の金林山は奥の院があった山の名前で、ほかのお寺にもよく見られるように、奥の院はかつて山の上あるしは険しい崖の上にあって、麓に納経所があったのでした。納経所には留守居の坊さんがいて、集印帳に判を押したり、遍路をしている人を泊めたりもしたわけです。

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  奥の院は海の神様をまつっています。

ただし、日本神話の中では、このあたりで出てくる神は、むしろ山の神としての性格が非常に強く見られます。天孫朧朧杵尊の子どもの彦火火出見尊の奥さんの豊玉姫、その子どもの鵬顛草葺不合尊の奥さんの玉依姫、ふたりとも海の神の娘です。
 そうして玉依姫と鵬鸚草葺不合尊との間にできた子どもが神武天皇ですから、神武天皇は山の神と海の神から生まれたということになります。ちなみに彦火火出見尊は、海彦・山彦神話の山彦です。山の神と海の神、山の信仰と海の信仰が合体していることは明らかです。
  瓊瓊杵尊は、最初は大山祗神の長女の磐長姫を娶ります。
ところが、醜い娘だったので返してしまって、妹の木花開耶姫を娶ります。
そのとき磐長姫は「自分を娶れば人間の寿命は長かったのに、木花開耶姫をもらったために人間の寿命は短くなった」といったそうです。
その磐長姫(阿奈波大明神)を泰山寺の奥の院でまつっていたということは、海の神でありながら山の神としてまつられているということです。
 
阿奈波大明神の本地は十一面観音ですから、奥の院には十一面観音をまつる龍泉寺と仙住院がありました。仙住院の不動明王は霊験あらたかで、狐憑きが落ちるという信仰があったようです。金輪山は大して高い山ではありません。最初は金輪山に登って行場をめぐって、麓の泰山寺に納経の札を納めて帰るという遍路のしかたをしていたとかもいます。
  
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龍泉寺と仙住院が修験道信仰によって成り立っていたことは、

十一面観音のほかに弘法大師、役行者、醍醐派の修験道を始めた聖宝理源大師、醍醐派でまつられている石鎚大神をまつっていることからわかります。そのほか、海の神様である弁財天をまつっています。さらに、山伏善海の遺言と称する縁起があるるといわれています。
 五十二番の太山寺も山の神様をまつっているので、泰山寺ももとは同じように太山寺といったのだとおもいます。ところが、同じ名前のお寺がいくつもあると煩わしいので、「太」という字を「泰」という字に変えました。
 そうすると、お産が安らかだということで、安産の信仰ができました。安産の地尊をまつって、「女人泰産」から泰山となったようです。したがって、現在の泰山寺の本尊は地蔵菩薩です。山麓の地蔵堂が宿坊と納経所を営んだ結果、独立して霊場になったとかもおれます。
 
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 くどく申しますが、奥の院あるいは辺路時代に戻ってはじめて遍路の意味がわかるのです。遍路の真髄を味わうためには、奥の院に登らなげればなりません。全部でなくても、奥の院をいくつか回ってみると、遍路とはこういうものだということがわかります。
     五来重:四国遍路の寺より

栄福寺-石清水八幡宮の別当寺

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五十七番の札所は、江戸時代までは石清水八幡宮でした。

明治時代の神仏分離以後、石清水八幡宮の別当寺が栄福寺という寺名を名乗ったのです。このように札所のお寺が意外に新しいという場合もあります。お寺の名前の由来は不明です。
 栄福寺は泰山寺からニキロぐらい離れたところにあります。泰山寺が山麓の集落にあるのに対して、栄福寺は八幡さんのある小高い丘の登り口に建っています。
 このように別当寺が札所になった例はかなりたくさんあります。しばしば神仏分離と申しますが、神仏分離以前はどちらかといえば神に重点を置いた信仰です。八幡様の中では宇佐八幡が縁起のうえではいちばん中心ですが、系統がいくつかあります。そのひとつに薩摩と大隅の境にあった大隅八幡がありますけれど、現在は鹿児島県の隼人町に入っています。

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 八幡さんは南のほうの海から島づたいに入ってきた神様です。

 宇佐八幡の場合も、御許山という山の笹の葉の上に幼児になって現れた神様を鍛冶翁という鍛冶屋さんが見つけたという縁起があるので、鉄の文明とともに渡ってきた朝鮮半島の神様だと考えています。高良八幡はKorea(朝鮮)から来た可能性があります。福岡県の久留米の場合は高良八幡、炭鉱地帯の田川に近い八幡は香春八幡と称しております。KOREAという言葉は高麗からきていますから、朝鮮半島から渡ってきた神様だというのが一つの説です。

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  もう一つは、南方から渡ってきた神様だという説です。

いずれにしても海の神様でありまして、海辺でまつられる場合が非常に多いわけです。志摩を歩いていると、海岸にある神社がほとんど八幡さんなので驚かされます。ただし、八幡さんが海の向こうから来たとはいわないで、海上安全の神様ということになっております。応神天皇がお腹の中にいる間に神功皇后が新羅遠征をしたというので、神功皇后あるいは応神が海上の神様になって、海上安全の神様として祭られています。が、海の向こうから来た神様、海洋宗教の神様だと考えられるものが大部分です。
 大分県の国東半島にも、王子八幡宮、奈多八幡宮、片竹八幡肖、伊石八幡宮など、海岸の八幡がいくつもあります。奈多八幡宮は大きな八幡様で宇佐八幡の別宮になっています、か、おそらく灘だとおもいますから、やはり海岸の神様です。砂浜に八幡さんがあって、沖に八限を建てています。したがって、奈多八幡はあきらかに海洋信仰であり、辺路信仰です。
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 栄福寺の石清水八幡さんもやはり海洋信仰です。

 縁起では、行教という坊さんが宇佐八幡にお参りしたところ、八幡さんが衣の袖に移って都に上りたいと託宣した、そこで都に上って、いま石清水八幡がある男山まで行ったら、八幡さんがここに鎮まるといったので、現在も男山にまつっているとされています。
 じつは、宇佐八幡はとても託宣の多い神様で、大仏造営のときの託宣は研究者のあいたで大きな課題になっているぐらいです。大神杜女という巫女が「自分は宇佐八幡である。奈良の大仏を造るのを手伝いたい」といったという話があります。杜女は巫女の称号です。大きな行列をつくって奈良に入る前に薬師寺で休んだのが薬師寺の休岡八幡、手向山に鎮座したのが干向山八幡です。
 ところが、それから三年ほどだつと、鹿島の神官が「この託宣は贋である」と発言します。あわれ杜女は島流しになったという記事が『続日本紀』に出ています。

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このように、宇佐八幡は託宣によって移動する神様です。

 行教が宇佐八幡を男山八幡に移したという話を縁起に語らせているのは、海を移動してきた八幡を表現したいのだと考えられます。正史には出てきませんが、行教が貞観元年(八五九)に宇佐八幡の神託によって山城の男山に八幡を移すときに、内海の海上が荒れてこの地に漂着した。そして山容が男山に似ていたので八幡を山頂にまつったということをいっております。
 この縁起に先立って、弘法大師がすでに海中出現の阿弥陀如来を感得したという話があるので、それと行教の話とが重なったわけです。八幡の御本地は阿弥陀如来ですから、阿弥陀如来を本尊として神宮寺ができました。この丘を勝岡といったので、勝岡八幡宮とも石清水八幡宮とも呼ばれています。阿弥陀如来をまつっていた阿弥陀堂が本地堂で、阿弥陀堂が現在の栄福寺になったということがわかります。

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 口碑によると、八幡は今治の巽(東南)の海岸の衣干というところで、海から上がったとされています。一方は行教という坊さんの固有名詞を出し、一方は名石なき海女が海岸で八幡さんを拾い上げたということになっていますが、口碑に物語性を加えて行教がまつったということになっているのでしょう。
 このように、海から上がった神様、海から上がった仏様、海のかなたから来た神様という伝承があるのは、日本の周囲がすべて海だったということで、山の宗教が成立する前に海洋宗教が存在していたということを示しています。
  
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栄福寺の阿弥陀堂のようなところは、もとは本地堂と呼ばれていました。

山岳寺院には本殿の横に必ず本地堂があります。
八幡さんもそうですが、山岳寺院は神社中心です。神仏分離のときに役人はそれを知らなかったのだろうとかもいます。別当寺は神社に付随したもので、本体はあくまでも神様です。神社の横にある本地堂は小さいものです。お坊さんは本地堂にも、神社にもお参りします。それが別当の仕事でした。お宮さんの横に別当寺を建てて、山伏なり坊さんなりがいたのが本地堂です。そういう関係を栄福寺はよく示しているとおもいます。
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『四国偏礼霊場記』は、さらに次のように記しています。  

山麓に弥陀堂を構ふ。彼地の極楽寺に異ならず。 
牛玉堂、大塔のあと及び三所に華表のあと等歴然たり。
凡城南男山の風景をのづからあり。(中略)
祭礼三ヶの神輿をわたし奉る。四十余町の京浜衣干に至る。
 「彼地」は、石清水八幡です。
「彼地の極楽寺に異ならず」とあるので、京都の石清水八幡宮の別当寺の極楽寺と同じような関係だと述べているのです。そのほか、牛玉堂や大塔がありました。
「華表」は鳥居です。三か所に鳥居があったと書いていますから、大きなお宮さんなのです。つまりこのあたりきっての大きな八幡様らしく、おまつりのときは、八幡様がお上がりになつた海岸に出ていっておまつりをしました。お旅所というのは、だいたいもとの奥の院で神が出現した場所です。お寺の縁起は行教の話を述べていますが、東浜の衣干に上がったという地元の伝承のほうがはるかに真実性があります。

 このように分析して考察していきますと、札所のお寺のできる必然性などもご理解いただげたとおもいますが、そういう点で、栄福寺はわりあいわかりやすいお寺です。
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円明寺ー賦算札のこと 

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「仲遍路」の札のあるのが五十三番の円明寺です。

太山寺と同じ西山の北側に位置しているので、奥の院はみな同じ峰だとかもいます。峰が平らなところに下がってきたところにあったようですから、このお寺は海に近かっかようです。
 縁起はほとんど未詳ですが、もと和気西山の海岸にあった寺で、これも辺路の寺であったことを示しています。奥の院は聖武天皇勅願によるとされていますが、海に面しか辺路修行者の聖地であったに相違ありません。
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 奥の院の光景は、いまも大師堂の西壁に打ちつけられている絵馬に見ることができます。ただし、住職に案内してもらわないと、なかなか気がつかないようなところです。大きい絵馬ですが、退色して、墨の描賜が残っているのみですが、昔は堂舎もかなりあり、五重塔もあったことがわかります。 
いずれにしても、以前の境内跡が海に近かったことは、はっきりしています。
いまの場所は、海とは反対側に下りてしまいました。海は西側で、お寺は西山の東側の集落の中にあります。このお寺の本尊は阿弥陀如来ですから、おそらく海上生活者の供養仏としての信仰があったのだろうとおもいます。海で死んだ人を恵比須様と呼び、恵比須様を供養すると豊漁になるということから、現在でも豊漁祈願のために南無阿弥陀仏という札を海に流しています。時宗では、賦算札という「南無阿弥陀仏」と書いた小さな札を流したり、人に与えたりいたします。  
 
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時宗を開いた一遍上人も賦算をして歩きました。

その図が『一遍聖絵』の中にたくさん出ています。
いまの時宗の本山は、神奈川県藤沢市の遊行寺で、そこにいる遊行上人が管長さんです。もとは遊行上人に任命されますと、お正月に1回しか自坊の遊行寺に帰社できません。あとは、常に遊行しないといけません。それもなかなかたいへんなことでして、三年か五年くらいで譲ってしまうようです。ただし最近では、あまり遊行しないようですが。 
 管長さんが遊行されるのは、たいてい漁村です。不漁に苦しむ村から祈願を頼まれると、大勢のお坊さんと船に乗り込んで札をを流すのです。念仏が大漁の祈願に使われるのは、海で亡くなった人の供養になるからです。
 そういう信仰を、阿弥陀如来を本尊とする海岸のお寺に見ることができます。

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   ここでもよっと脱線して、伯者大山へ行ってきたお話をいたしまし上う。
応永五年の『大山寺縁起』という非常に優れた絵巻がありましたが、残念なことに昭和初年に焼けてしまいました。幸いにして、模写が東京国立博物館に残っています。その中に難破した漁船がほのかな明かりを見て、そちらに進んでいくと大山の火だった、それで助かったという霊験談が語られています。

海で働く人々の信仰を、海岸の寺に結びつけているのです。

最近では、奥の院も火を焚かなくなりました。
志摩の青峰山という朝熊山の前山で少し海岸に近い山ですが、海からかよく見えるし、海もよく見える霊場です。そこも本尊さんが海からあがったという伝承をもっています。
 そこには火焚岩という大きな岩があって、そこで火を焚いたこともはっきりしています。ところが、火を焚くと山火事になるそうで、いまでは焚かないと聞きました。さらに高い観音岩というところにピークがあって、最近ではそこに柱を立てて電灯をつけるようになりました。ところが、うっかりつけ忘れたりすると「和尚さん、火が消えていますよ」とお寺へ漁民から電話がかかってくるそうです。それくらいみんな頼りにして、火を大事にしているのです。
 したがって、辺路修行者が海から見える聖なる火を焚くということは、十分理由のあることです。 金刀比羅さんの奥の院の常火堂の常夜灯も信仰対象です。そういう海洋信仰の構造の中の重要な部分として奥の院を考えなげればなりません。
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円明寺には寺宝とし遍路の納札があります。

弥勒菩薩の種字(シンボル)を書いて、その下に「奉納四国仲遍路同行二人 慶安三年今月今日、京樋口平人家次」と書いてあります。こういう人たちはあらかじめ納札を三十枚なり五十枚なり、あるいは八十八枚作って、それを納めて歩きました。
何月何日にそこに行くかわからないので、今月今日と書いておくと、好都合なのです。
 この家次という者が、奥州平泉の中尊寺にも納札を納めているという事実がわかりました。双方に納めた年月が二十二年隔たっています。ときどき遍路に出たのか、巡礼に出てから、二十二年以上回っていたのかわかりませんが、四国遍路と同時に平泉の中尊寺までお参りしていた人が江戸時代の初期にいたことが分かります。この事実には胸を打たれるものがあります。 
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問題は「仲遍路」です。
弘法大師の場合は太平洋岸を室戸岬から禅師峰寺、竹林寺、青龍寺と回っています。
青龍寺は本当に辺路だという感じのするところです。青龍寺は龍神を拝むことが寺の名前になりました。奥の院の下には龍の窟があり、海岸が龍の浜であり、宇佐の町から青龍寺のある半島まで渡るところが龍ノ渡です。すべて海神を信仰対象にしたお寺であることがわかります。
 ここを通って足摺岬に行きました。
岩屋寺は弘法大師の修行の跡として欠くことができません。
岩屋寺を通って石鎚山に登ります。石鎚山に登ったことも、弘法大師は自分で書いています。そうすると、四国のほぼ半分を回ることになります。太平洋岸から瀬戸内海までショートカットして回ったのが、中辺路でぱないかとかもいます。
 さらにいえば、青龍寺からいちばん近いのは岩屋寺ですから、岩屋寺までショートカットするとちょうど半分ぐらいです。そういうめぐり方が中辺路ではなかったかとおもいますが、いまのところ、もうひとつ傍証が出てきません。

境内には切支丹灯龍があります。

   戦国時代の終わりのころに河野氏が滅亡して、加藤嘉明が入ってきます。
慶長五年白に加藤嘉明が、関ケ原の合戦に出ている間に、河野氏の遺臣が加藤嘉明を追い出そうとして反乱を起こしました。観音堂の十一面観音は、河野氏の遺臣たちのための供養仏だといわれています。
境内には切支丹灯龍があります。これも厳密にいえば切支丹灯龍であるかどうかは不明です。織部灯龍が、しばしば切支丹灯寵だといわれているからです。どうももうひとっマリア観音、切支丹灯龍と断定しにくいのです。純粋のマリア観音なら子どもを抱いた像が彫り込んであります。

太山寺―鎌倉時代の本堂 

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 松山の西に一つの山脈があります。せいぜい標高二、三百メートルと大して高くないのですが、屏風のように松山市街と海とを隔てています。山の麓にある五十二番の太山寺と五十三番の円明寺は、いずれも山の頂上に奥の院をもっています。太山寺は山懐に抱かれているので、奥の院はすぐそばですが、円明寺は和気という集落へ移りましだから、奥の院までかなり離れています。 
太山寺の御詠歌も新しいとおもいます。「太山へのぼれば汗のいでけれど 後の世思へばなんの苦もなし」という御詠歌は、いささか低俗にすぎるものがあります。
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 太山寺については、『四国偏礼霊場記』に次のような縁起が出てきます。 
当寺は天平勝宝年中聖武天皇の御建立なり。本尊は行基菩薩唐土より得玉へる十一面観音の小像なるを、長六尺の尊像を作り、其中に納められしとなり。

 いわゆる腹寵の仏像だというのは非常にありうることだとかもいます。
多くの霊場の仏像は、かつて修行者がもっていた笈本尊といわれる小さな本尊を腹脂にして作られています。このお寺は小さな仏像を本尊にして、奥の院で行をしていた修行者が始めたものだということを忘れないように、笈本尊を入れて作っているという縁起は信ずるに足るとおもいます。
  
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ここには非常に古い仏像と古い建物が残っています。

 本堂は鎌倉時代の建物で、霊場の中でも屈指の古建築です。 
縁起としておもしろいのは、豊後の国の真野長者の伝承です。ちょうど松山と相対して佐賀関があって、そのちょっと南に臼杵があります。
この臼杵の石仏は、真野長者が作ったという伝承があります。
満月寺には、延野長者の夫婦の石像と石仏を作ったといわれる法蓮土人の石像と、合わせて三つの石像があります。真野長者はもとは炭焼小五郎という炭焼きであったが、そこへ都から下ったやんごとなき姫君が嫁入りをした。持参金に小判をもってきたけれども、炭焼小五郎はこんなものは山に行ったらいくらでもあるといって、買い物に行く途中で小判を傑にして池の白鳥に当てた。帰ってきて「あんなものはいくらでもあるから捨ててきた」といった。なるほど金の山だったということで長者になったという話があります。
 炭焼きは、燃料のための炭を焼いているわけではありません。
増蝸で鉱石を溶かすための炭を焼くのが、主な仕事でした。そういう精錬法がなくなりますと、炭は塩焼きの薬として使用されます。暖房用としては、ごく少なかったようです。炭焼きですから、鉱山に関係があって金持ちになったのだとおもいます。
縁起では、豊後の国の真野長者が、船で高浜沖を通っているときに難破しそうになったが、十一面観音に助けられた、あとのほうでは御光で助けられたとなっています。そこで、滝雲山の山頂に一寺を建立して、その尊像を安置します。現在はありませんが、『四国偏礼霊場記』には滝があったと書かれておりまして、太山寺があるあたりを滝雲山と呼んだようです。
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滝雲山は三つの峰から成っていて、第一の峰が経ヶ森です。

そこに本尊の十一面観音があったというので、現在は大きな石像の十一面観音を建てています。登るのがたいへんですから、下から見ましたが、下から見て十分、見えるだけの大きな石像です。山頂は二九〇メートルくらいあるそうで、テレビ塔が立っています。   
第二峰は、護摩ヶ森です。
室戸岬にも弘法大師護摩壇岩があります。辺路修行者は聖なる火を焚いて、海のかなたにいる龍神に捧げました。それを龍燈といいます。聖なる火を焚くということがあったことは、ほぼ間違いありません。
 海洋宗教においては、火を焚きます。神の永遠不滅のシンボルともなりますから、その火を消すことはできません。そういうことで、厳島の弥山の頂上に「消えずの火」を焚いた霊火堂があるわけです。頂上に登ると、霊火堂に大きな鉄瓶がかかって、丸本が焚かれています。それを飲むと長命になるというので、広島からも飲みにいくそうです。   
第三の峰が岩ヶ森です。
これは岩石から成り立っているピークだろうとおもいます。
こういう三つの峰に包まれたように現在の太山寺があります。太山寺に本当にお参りしようとすれば、経ヶ森まで、できれば護摩ヶ森から岩ヶ森まで回って、はじめて霊場に参ったということになるわけです。
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山頂寺院が現在のところに下りたのは、

平安時代の中ごろの康平五年(一〇六二)だと書いてあります。
どういう資料があって書いたのかわかりませんが、少なくとも鎌倉時代に現在の本堂ができたのは確実です。その後、荒廃したのを河野氏が嘉元三年(一三〇五)に復興します。重要文化財になっている現在の本堂はそのときのもので、非常に立派な鎌倉時代の建築で作山寺は二つに分かれています。
 一つは、本坊庫裡のあるところです。一つは、いろいろな堂のあるところです。
江戸初期の絵では、堂が三つ描かれています。おそらく交代で住職を勤めただろうとおもいます。本堂のあるところは、本坊庫裡から約二、三百メートル上がったところです。その中間に門前町がありました。これはかなり変則です。門前町の茶店の一軒が遍路宿を経営していまして、古く珍しい建物として残っています。
 このように、ぽつんと離れていて日常の火から遠かったことが、鎌倉時代の建物が残った一つの理由だろうとおもいます。本堂は南向きで、その向かって右側に護摩堂があります。聖徳太子信仰があったようですが、その理由はわかりません。

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それから、稲荷社があります。

 稲荷は稲荷山のような山の上にできることもありますが、海辺にもたくさんあります。稲荷は食べ物の神様だということです。田んぼの食べ物は稲です。山の食べ物を豊かにする山の神が稲荷になる事例もあります。畑の食べ物を守ってくれれば、野神になります。海の食べ物を守ってくれる神様がいれば海の稲荷になります。それは恵比須になったり、稲荷になったりするのです。
   稲荷のいちばん古い名前は何かということまで追究すると、食の根「けつね」です。食のことを「け」といいます。「つ」は「の」です。根は先祖ということです。じっは大阪の言葉が正統の古語なのです。「きっね」のほうがむしろなまっているのですね。食の根を「けつね」といったのがいちばん古い稲荷の言葉で、けっして動物の狐をいうのではありません。動物の狐は別の理由から稲荷に習合してきます。

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 ここは太子信仰の盛んなところで、最近になって八角の夢殿が建てられています。それから、霊場寺院では死者供養も行われますから、位牌堂を兼ねた十王堂があります。大師堂のほかに厄除大師があります。真野長者堂は非常に古い建物です。
 古図によると、もっともっとたくさんの建物があったようです。

 太山寺には、寛永十七年の納札と、承応口年二月吉日の「奉納七ヶ所辺路同行五人」という納札が残っています。いずれも板札です。
   これは七か所だけの辺路修行があったことを示しています。
あとでお話する円明寺の「仲遍路」という納札を見ても、全部回るのではなくて、中辺路という修行のしかたがあったことがわかります。
 私は、七か所でも結構だとかもいます。それよりも、奥の院まで上がってみてはじめて辺路・遍路の実塙かわくのですから。ぜひ奥までお上がりいただきたいものです。
五来重:四国遍路の寺より
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繁多寺 一遍上人の学問寺 

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 東山の北側に行くと五十番の繁多寺があって、その隣に桑原八幡があります。
四国には八幡さんがらみの寺がたいへん多くて、石竹八幡、先祖八幡、地主八幡など、亡くなった先祖か八幡としてまつります。阿弥陀八幡などもまつられています。東山をめぐって、二つのお寺と二つの八幡があるのは、東山が聖地であったということです。   

繁多寺の奥の院は山の上のお堂でした。

昔は東山の頂上に、修行者のいるお寺かお堂があったわけです。
そこからは松山の西のほうの海が見えます。やがて大勢の信者ができて、修行者に病気を治してもらったり、占いをしてもらうようになりました。
そして、東山の行者たちが里の信者に招かれて、つまり、田んぼや畑のところに下りてきたのでしょう。山の上の寺に対する畑の寺ということから繁多寺という名が付いたとおもいます。ちなみに、そのあたりは畑寺町といわれています。
 
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行者が山の上で拝んでいたのはおそらく薬師如来です。

 南のほうに下りたのは阿弥陀如来、北のほうに下りたのは薬師如来で、薬師如来を本尊にして現在の繁多寺の伽藍ができました。ここにお参りする場合は、ぜひ山の上まで登ってみる必要があります。

   ここの御詠歌は成立年代が不明です。新しいとおもうものが古かったりします。
万こそ繁多なりとも怠らず 諸病ながれと望み祈れよ」
とご詠歌の中に「もっぱら事務繁多です」というかたちで使われる「繁多」という言葉が入っているところをみると、どうも新しいようです。
「諸病ながれと望み祈れよ」というのも、調子が低すぎますね。
 四国遍路のお寺の縁起は、孝謙天皇、称徳天皇、元明天皇と、はるか奈良時代までさかのぼります。縁起つくりの名人がいて、諸国をめぐりながらお寺の需要にこたえて縁起を作ったという話があります。江戸時代に家系図つくりの専門家がいて、「源氏にしましょうか、平家にしましょう」といったそうです。縁起もそういうものかもしれません。
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 繁多寺の縁起は、江戸時代の初期に霊場を記録した『四国偏礼霊場記』に出ているもの以外はほとんどありません。孝謙天皇の勅願によって開かれて、坊舎が三十六坊あったというのも、ちょっと定かではありません。本尊は行基の作だ、とくに護摩堂の不動明王は伝教大師が作ったものだというのは、そう書いてあるだけで、これも信用できないとかもいます。

この寺の由来を考察しますと、

 浄土寺と日尾八幡、繁多寺と桑原八幡があるので、もとは山から海を拝むという山岳信仰から出発したものでしょう。南の谷が空也谷であると同時に、繁多寺は一遍上人の学問寺だといわれています。時宗では一遍上人の学問寺として非常に重んじています。浄土寺に空也上人の木像があるのと同じように、繁多寺には一遍上人の木像があります。一遍上人は、空也の足跡を慕って歩くとたびたびいっておりますから、こんなかたちになったのでしょう。
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 『四国偏礼霊場記』では、鎌倉時代の中ごろの弘安年間に、聞月という住持が復興した。そののち荒廃して、江戸時代に入って龍孤(龍湖)という比丘が本願となって堂舎を修復した。それが現在のお堂だ、本堂、護摩堂、求聞持堂、仁王門、熊野権現、池中弁天堂があったとされています。
いまは本堂の左のほうの護摩堂は毘沙門堂になって、右のほうに弘法大師の大師堂があります。本堂に向かって左手に、本堂と見まがうばかりの唐破風をもった大きな建物があります。これは聖天堂(歓喜天堂)で、徳川四代将軍家綱が拝んでいた歓喜天をいただいて造ったといわれています。どういう縁故で歓喜天をもらったのかわかりませんが、龍孤が歓喜天の行者だったということに関係があるのかもしれません。
   
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歓喜天は非常に怖い仏様です。

ひとたびこれを拝み始めると、一生涯拝みっづけなければなりません。
途中でやめれば、罰が当たるといわれています。龍孤は命がけの聖天講の行者でしたから、あるとき家綱の念持仏を下賜されて、それでこのような大きな歓喜天宰が造られたのだとおもいます。
 本堂の前からは、海がよく見えます。東山の上からはもっとよく見えるので、辺路としての奥の院であったことが十分に推定されます。

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  海岸山岩屋寺 
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海から遠いのに山号は「海岸寺」

 岩屋寺は、石鎚山の南側の山懐に包まれていますから、海が見えません。
しかし、岩屋寺の山号を海岸山と付けたのは、やはりわけがあったのです。
 寺峰と洞窟が辺路修行の行場であったことは、海岸山の山号で知ることができますが、その由来として弘法大師が詠んだ歌があります。
いまの不動さんを歌った御詠歌の前に、「山高き谷の朝霧海に見て 松吹く風を波にたとへむ」という御詠歌がありました。
谷間に朝霧が立ちこめている有様は、まるで海原のようだ、だからここは海岸山だといっています。また、江戸時代の絵によると、岩屋寺にも龍燈杉があったことがわかります。したがって、海のかなだの龍神に火を捧げたといういわれもあり、海岸山と名づけたことは明らかです。

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岩屋寺はもう一つの特徴をもっています。
岩屋寺の右のほうの金剛界の峰の下に、本堂の不動堂と大師堂が並んでいます。
あたりは岩壁で、不動堂のすぐ横に仙人窟という大きな洞窟、
その少し上に阿弥陀窟という洞窟があります。
そのほか、「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟があります。窟だらけの山を子細に見ていくと、窟をつなぐ道があった形跡がうかがえます。
これは命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐった行道の痕跡だと思われます。
 
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 『四国偏礼霊場記』には、次のように書かれています。 
不動堂の上の岩窟。をのづから厨子のやうにみゆる所に仏像あり。
長四尺あまり。銅像なり。于に征鼓を持。是を阿弥陀といふ。
凡そ仏は円応無方なりといへども、諸仏の顕現、四種の身相、
経軌に出て伝持わたくしならず。故に今の仏をあやしむ人あり。
むべなりとおぼゆ。いつの比か飛来るがゆへに飛来の仏といふ。
 岩屋寺は不動堂が本堂です。「征」は念仏のときに下げてたたく鉦です。
征を下げた阿弥陀様はありませんので、おそらく空也の像ではないかとかもいます。円応無方は融通無碍と同じ意味で、丸くて何にでも応じて形を変え、定まった姿がないことです。仏様は三角にも丸にも空也にも親鸞聖人にもなるわけです。
仏の現れた姿はお経や儀軌に出ている、自分勝手に伝えるわけにはいかない、空也上人の像を建てて、これは阿弥陀様だというのはいけないと書いています。
 阿弥陀様は、江戸時代か鎌倉時代か定かではありませんが、まだ道があったころ納めた仏様で、行けなくなったので、飛んできた仏様だということになっています。
しかし、もとは人間が行って納めたに違いありません。
そういう行道があったということは、ここで辺路修行をしていたということです。

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 海岸に烏帽子岩のような岩と洞窟があると、洞窟に寵って岩をぐるぐる回る行をした痕跡が各寺の奥の院に見られます。
 日本は非常に長い海岸線をもった国です。ひとびとが内陸部で耕作をして住石以前のこと、岸に貝塚をたくさん残しながら生活していました。そういう時代に信仰の対象となったのは、海のかなたです。 海のかなたは常世と呼ばれました。常世は永遠なる世界、年を取らない世界です。二十歳で死んだ人は、いつまでたっても二十歳です。
 海岸で生活していた時代の死者の葬法は水葬だったとおもいます。
水葬された霊は海のかなだの常世に留まります。しかし、だれもそれを見たことがありません。みんな常世がどういうところか興味があるので、だれかいってきた人がいないと困るわけです。
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雄略天皇の二十二年に常世にいってきた人の名前が出てきます。

時代がひとつの物語を生んだということでしょう。その人の名は余社郡の管川の浦嶋子で、綿津見神の化身の亀に連れられて常世にいってきたというのです。また、海の神様のいる常世にいくには、何かいいことをしてお迎えを受けなければいけないということから、亀を助けたという話になっております。
 室町時代にできた御伽草子では、それが浦島太郎の話になりました。
  古く『日本書紀』では、海神そのものが女です。
海神の娘といっていますが、じつは女の神様が亀に化身して陸の男と婚姻したわけです。浦島太郎が亀を助けて船に乗せたらたちまち女に変わって、夫婦になって一緒に海神の都に行ったという話になっています。
 海神の都がのちにいう龍宮です。
『日本書紀』では蓬莱と書いて「とこよ」と読ませています。
『万葉集』の歌も『丹後風土記』も同じですから、そのころは龍宮という言葉はありません。
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龍宮という言葉が出るのは室町時代の御伽草子です。

 なぜ龍宮という発想になったのかをいろいろ考えると、法華経の巻五の提婆達多品に出てくる龍王の成仏の話がもとになっているようです。
 『風土記』などにも、海のかなたからいろいろなものがやってくるという話が出てきます。いちばんよくやってくるのは弥勒と夷です。夷は、のちになると恵比寿というめでたい字を当てたために違った感じになりますが、遠いところから来た者、つまり外国人ですから、やはり海のかなたから来るわけです。そして、陸にいる者が魚がたくさん欲しいとおもえば豊漁をもたらし、豊作にしてほしいとおもえば豊作の神になりました。お金が欲しいという要求に応じてくれるのが十日戎の戎様です。夷は民衆の要求に応じていろいろな働きをすると考えられました。

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 ところが、蓬莱という宇を書いたので、『史記』に出てくる徐福になってしまいます。徐福も海のかなたから子孫を助けにくる神様です。和歌山県新宮の駅前に徐福の墓がありますが、日本の海岸に三十にも及ぶ徐福伝説があるのは、海のかなだの祖先の霊が助けにくるという考え方があったからです。

   海洋宗教では、病気を治してほしいと願う者には、神様が薬師として現れます。
一つの決まつたかたちでは民衆のあれこれの要求に応じきれませんので、庶民信仰の仏や神はどんどん変身します。豊作にしてほしいと願うと、神様は稲荷として現れ、お金が欲しいといえば恵比寿として現れます。そういう融通無碍なところが、民衆に好まれるのです。
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そういう来訪神の考え方から辺路修行が生まれます。

海のかなたに向かって礼拝すると、要求をなんでもかなえてくれるということになりました。ただし、要求する方法があります。それが命がけの行なのです。漁師が恵比寿様をまつるときは、海に入ってたいへんな潔斎をします。海に笹を二本立ててしめ縄を回して、海に入って何べんでも潮を浴びます。それを一週間なり二十一日間続けて、はじめて神様が願いごとを聞きとどけてくださるのです。
 四国の霊場寺院の由来には、そういう行を専門に行う辺路修行者が開いたという由来があります。辺路修行者が命がけで海岸の岩をめぐったり、ときには自分の身を犠牲にしたりしたのは、そのためです。
   遍路のもとの言葉が、辺路だということがだんだんわかってきました。
紀州には大辺路・中辺路として辺路の名が残っています。現在は熊野詣には使われなくても、ずっと辺路や王子が分布しています。王子神社が太地にも串本にも周参見にも残っています。海岸の王子には、かなり大きな神社が建っているところもあります。熊野三山に参るのは、たいへん古いことのようですが、それよりも前に辺路があって、熊野三山詣は辺路の一部を利用したわけです。

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 四国でも同じように辺路修行が行われていて、その一部を青年時代の空海が越えています。『今昔物語集』は、「四国ノ辺路卜云、伊予、讃岐、阿波、土佐ノ海辺ノ廻也」と書いています。 
 「一遍聖絵」に戻りますが、ちょっと面白い話をご紹介しましょう。
  岩屋寺の巌窟に仙人が籠もる話です。
 仙人は土佐の国の女人なり。観音の効験あると聞きで、かの巌窟に寵り、
五障の女身を厭離せむ為に、経典を読誦しけるが、
法華三昧成就して飛行自在の依身を得たり。(中略)
又、四十九院の岩屋あり。父母の為に極楽を現じ給へる跡あり。
ここには非常に珍しいことに女の仙人が出てきます。
女の仙人の話は『今昔物語集』に少し出てくるだけで、極めてまれです。
五障のある女の身を捨てて、女も仙人になれるということ自体が非常におもしろいとおもいます。法華経を読誦して、法華経の行が完成すると、自由に飛行することができる肉身を獲得するのだといっています。その仙人を普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っている、このお寺にそういう仏が出現したと書いています。
 
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「一遍聖絵』の詞書に「仙人利生の為に遺骨を止め給ふ」とあります。

 仙人が自分の遺骨を人々が礼拝して功徳が得られるようにと願ったことがわかります。そこから少し上がったところに仙人入定窟という洞窟があります。さらに五輪塔が一つあって、枯れてしまった木が一本あります。これが生木塔婆と呼ばれる生きている木を塔婆の形に削って、文句を書いたものです。
 生木塔婆は大窪寺など、ほかのお寺にもあります。
江戸時代の記録が生木塔婆と書いているのは「碑伝」というものを忘れてしまったことを示しています。洞窟に寵って苦行するときに、二股になった木を選んで、それを削って、自分がこの洞窟に胆ってどういう修行をしたか、これで何回目だということを書いて納めた一種の記念碑のようなものを碑伝といいます。

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 大峯山随一の秘所といわれる「笙の窟」に籠もった山伏が、笙の窟の能りぱ四度目だということと、自分と同行者の名前を書いた碑伝を、たまたま前鬼森本坊が採集しました。現在は文化財になって奈良国立博物館に寄託されていますが、このことからも碑伝を仙人人定窟に留めていたことがわかります。お寺ではそこには柿経まであったといっています。  

納経所が霊場ではありません。

 ここでみんな集印帳に判を押してもらって帰ってしまいますが、ここを上かって白山の峰から逼割禅定まで修行しなければ、辺路修行としての遍路は完成しないわけです。多くの参拝者も岩屋寺に行かれますが、逼割にまで行く人は極めて少ない。行こうとしても、あまりにも危険ですから、お寺の住職の許可を得ないと行けません。
よほど精神統一して登らないと、こんな危ないところはないとおもうくらい危ないところです。
 このように、従来は説明できなかった問題が海洋宗教という問題からわかってきます。同時に、四国遍路の謎を解く一つの方法にもなるわけです。

参考史料 五来重:四国遍路の寺

大宝寺は、もともとは岩屋寺と一つのものでした。

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町の中にある大宝寺の裏山を五㎞ぐらい行くと岩屋寺に出ます。
 この道は、今はほとんど使われなくなりました。この道を終えると『一遍聖絵』の岩屋寺の景色が見られます。これは四国霊場中の圧巻です。また、『一遍聖絵』の傑作の一つになっています。
 一遍聖絵』の詞書は、一遍の実子の聖戒が書きました。
聖戒は一遍が還俗したときに生まれた子どもで、お父さんの弟子になって十六年間お父さんと一緒に歩いています。しかし、その間に親子の名乗りをしなかった。死ぬ前に呼んで話をした以外は特別扱いしなかったというので、江戸時代から石童丸と刈萱道心の話昿一遍と聖戒の関係を下敷きにしたのだといわれています。
 聖戒は自分のお父さんの十六年の足跡を絵師を連れて歩きました。最近、円伊という絵師がどういう人であるかということもわかってきました。なかなか位の高い坊さんである円伊にその都度スケッチさせています。
 
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 このように、大宝寺と岩屋寺を奥の院と札所という関係に見立てたので、両方を合わせて菅生の岩屋と呼んでいました。その間にもう一つ古岩屋という非常に大きな洞窟があります。一遍が寵ったのはどちらかわかりませんが、寺伝では古岩屋ではないかといっています。いずれにしても、大宝寺と古岩屋と岩屋寺は一連の行場になっていました。
  
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 「一遍聖絵』は「菅生の岩屋」として大宝寺と岩屋寺の縁起を書いています。
普通、四国霊場の縁起は元禄元年に書かれた『四国偏礼霊場記』によっていますが、幸いにも大宝寺と岩屋寺については鎌倉時代の『一遍聖絵』の詞書が残っています。
 『四国偏礼霊場記』には、次のように書かれています。
此寺は文武天皇の御宇、大宝元年四月十八日、
猟師山中に人しに、岩樹撃動して紫雲峯渓に満、一所より光明閃射せり。
其所を訪ふに、忽ち一仏像あり。
即十一面観音也。生ぜる菅を斑まします。其所に就て堂やうの事をいとなみ、
菅を掩、安置し奉り、其猟師といへるもの、白日に天にのぼれり。
是を高殿明神と斎祀す。菅を斑ましますが故に、菅生山と号し、
大宝年中の事なるが故に大宝寺と称す。
 文武天皇の大宝元年は701年で、藤原京の時代です。
猟師が山の中に入ったところ、岩や木の間から光がさしていた。そこを見ると仏像があったといいますから、感得の縁起です。光るものがあったり音がしたり、つまり何らかのお示しがあって、行ってみたらそこに仏像があったというのを仏像を感得するといいます。
 「一遍聖絵」では、猟師は弓と矢をもっていたので、弓を柱にして、自分の着ていた蓑をかけて仏像をまつってお寺を建てた。両三年を隔てて行ってみると菅の根が生えて茂っていたと書いています。菅が生えたお寺だというので、最初は菅生寺と呼ばれたお寺が、のちに岩屋寺と大宝寺に分かれたわけです。大宝寺は、このことが大宝年間のことなので年号をとって、大宝寺としたと書かれています。
 その仏像は十一面観音で、『四国偏礼霊場記』では、菅を敷いて仏像を置いた、簡単なお堂のようなものを造って、さらにその上を菅で覆って安置し奉った。その猟師は天に昇って神様になった、それが高殿明神だと書いています。これは『一遍聖絵』に出てくる野口の明神と同じものを指しているとおもいます。

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 寺伝によると、元禄年間(一六八八-一七〇四)に本堂を中心に、向かって右に赤山権現と天神社、向かって左に三嶋大明神、耳戸明神、阿弥陀堂、文殊堂、百々尾権現社が一直線に並んでいたとされています。
 そのほか弁天社や十王堂、十二坊がありました。現在は十二坊はありません。
『四国偏礼霊場記』の挿絵には、登ってくる入口に一ノ王子、ニノ王子という王子社が出てきます。これも現在はありません。
 
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  じつは、山岳宗教の前に辺路をめぐる行がありました。
これがやがて辺路が遍路に変わります。
『今昔物語集』では辺地と書いていますが、江戸時代半ばに「辺路」が「へんろ」と読まれるようになり、文字も遍路に変わったのだろうとされています
 四国遍路の札所は海岸や島にあったり、海が見えたりして、海岸となんらかの関係をもっていることが条件です。太龍寺や焼山寺はかなり山の中にあるのに、ちゃんと海が見えます。   

参考文献 五来重:四国遍路の寺    

西林寺-杖淵の泉

 
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四十八番の西林寺の本尊は十一面観音です。
江戸時代初めの『四国偏礼霊場記』には
「杖淵と塀を隔ててお寺がある。本堂、鎮守がある」と書かれています。弘法大師が杖で湧かしたという杖淵という泉(弘法清水)から約二〇〇メートル離れたところに、現在の寺地があります。杖渕を奥の院としているのは、霊場寺院が変遷しか一つの実例だとおもいます。
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 鎮守は熊野三所権現です。
『四国偏礼霊場記』には「杖の淵と名づく。かかし大師此所を杖を以て加持し給ひければ、水道騰して玉争ひ砕け」とあるので、弘法清水という大師の杖の信仰からできた寺であることがわかります。
 そうすると、泉のほとりに小さな大師堂あるいは観音堂があって、そこにたまたま住んでいた勧進聖がいちばん都合のいい場所を選んで、いまの西林寺をつくりあげたということになります。いわば土地を買ったということかもしれません。
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縁起にも歴史にもそのことは出てきませんが、おそらくそういうことで、現在の寺址が杖淵から二〇〇メートルほど北西になったのだとおもいます。杖淵を奥の院としているのは旧址だからです。おそらくもとは観音堂か大師堂で、大師堂が現在の寺地の観音堂と合併して札所とたったものとおもねれます。

 『四国偏礼霊場記』では、寺と杖淵とは隣り合わせで、塀を隔てた位置にあり、本堂のほかには鎮守があるだけで、大師堂は描かれていません。つまり、もともとぱ別の寺であったものが、のちに杖淵にあった大師堂と観音堂が一緒になって、西林寺を名乗るようにたったわけです。

勧進聖達の活動と浄瑠璃寺

 
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四国に来た無名の遍路が帰るところもないので、空き寺があるとそこに寄って、空き寺を復興するために勧進をしました。新しく寺を建てるには費用が要ります。
写経をするにしても、紙や筆や硯を買う費用が必要です。
写経僧に法華経八巻なり大般若経六百巻を書いてもらうためには、お金や米を集めなければなりません。それをするのが勧進です。本来は、お前さんは念仏をしなさいと勧めることが勧進だったとかもうのですが、しかし、物を集めることも勧進です。

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 たとえば行基菩薩が山崎の橋を架げたり、木津の橋を架けたりするときも、労力を提供する人を食べさせなければなりません。もちろん材料として材木も買わなければなりません。お金平物を集めるために、これに参加した人にはこういういいことがあり、参加しなかった人にはこういうたたりがあると説いたのが、『日本霊異記』に残っている行基集団の勧進の説話だとおもいます。
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 浄瑠璃寺は元禄年間(一六八八-一七〇四)の山火事で延焼し、本尊や脇仏などをのぞいてほとんどが焼失しました。その後、尭音というお坊さんが願主となって天明年間(一七八一-八九)に再建したという伝えがあります。浄瑠璃寺に行くと、その本堂が現在も残っています。尭音は、土佐街道の八か所に橋を架け たということで、現在、松山にいちばん近いところに供養塔が建っています。
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 『四国偏礼霊場記』も、困ったとみえて「此寺興廃しらず。おしむべし」と書いています。したがって、縁起未詳です。
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宇和海の日本一細くて小さい(?)運河

遅い桜前線が四国に上陸したのを聞いて宇和海で3日ほど過ごした。
その中で出会ったのが地元の人たちが「日本一細い運河」と称する小運河。
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 宇和海というと私のイメージするのは「入り組んだリアス式の海岸と点在する漁港、その背後に天まで届くかのように伸びたみかん畑。」
写真にすればこんなイメージだ。

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 八幡浜から宇和島までの海沿いの国道378号は、タイト&ロング&ワイニングロードで手応え充分。
岬を越えると入江には集落。これがリズミカルに続く。
そんな中で奥南の奥浦で出会ったのがこの運河
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ちょうど2隻の漁船がスピードも緩めずに運河を通過していった。

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白い軌跡が運河に広がる。何か心が躍る。
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遙か遠くに付きだしているのが佐田岬の突端。
リアス式の入り組んだ半島をぐっると迂回するのを避けるために1960年代になって、宇和海では3つの運河が作られたという。もうひとつの運河にも行ってみる。

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やって来たのは三浦半島の細木運河。
北側の宇和島湾と北灘湾を結ぶ小運河だ。
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橋の上から北側には佐田岬が思ったよりも近く見える。海は青く透明度も高い。
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南側には、山桜を背負った蒋渕(こもぶち)小学校がランドマークタワーのように立つ。
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食事のために立ち寄ったこもてらすの海に突き出したテラスから望むとこんな光景になる。
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運河と知らなければ、離れていた島を橋が結んで陸続きになった図と思えるだろう。
そんな小さな運河を漁船が頻繁に行き来する。
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私にとって贅沢な空間と時間を過ごす。
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帰路、半島のスカイラインからは満開に近づく山桜の向こうに、宇和島に寄港していたクルージング船が出航して行くのが見えた。

愛媛宇和海 遊子水荷裏(ゆす みずがうら)の段畑  

      じゃがいもの収穫・運搬風景


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  水荷浦の一番奥の畑のお堂に通じる道を登っていきます。

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4月所従の陽光の中、
岩場を登るように手を使いながらソラに続く段畑の道をたどると・・
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葉が黄色くなったジャガイモの収穫作業が始まっていました。
畑から掘り出された芋は、モノレールに乗せられて麓へ
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土から掘り出され昔ながらの藁駕籠に入れられたジャガイモは、春の光がまぶしそう。
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お堂の上の芋たちはまだ葉っぱが青々、まだまだ土の中で過ごします。
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階段があるので昔ながらに前後に振り分けて背負棒で背負って下ろします。
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自動車の入ってこれない狭い通路は、運搬車で・・
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そして軽トラの荷台に運ばれてきました。
畑から掘り出されて、ここまでだけでもこれだけの手間がかかります。
北海道の十勝で見た機械掘りのジャガイモ収穫作業とは大違いです。
小さいけれど宇和の直射日光と海からと石垣からの反射光を浴びたジャガイモは美味しいそうです。
今年は4月16日が「ふるさとだんだんまつり」。
そこで売られるために、これからが収穫が本格化するようです。
 

愛媛県宇和海 遊子水荷裏(ゆすみずがうら)の段畑

宇和島の南に西に突き出す三浦半島。そこに段畑が残るという。暖かくなってきた4月の初旬に訪ねてきた。

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遠景はこんな感じ。近くから見てみよう。
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水荷裏のだんだん茶屋までやってきた。
見上げていても、もうひとつ印象が沸いてこない。やはり登ってみないと・・。
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高くなるにつれて前の海が青く輝き出す。石灰質系の白い石垣とじゃがいもの緑とが目にしみる。
海に向かって立つ半円形のコロッセウムのようにも見えてくる。

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青い空に向かって、石垣にははしごがかかる。ソラへのはしごだ。
ここでも畑に出かけることを「ソラに行く」と言ったという。
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こんどは要塞の城壁のようにも見えてきた。あっちこっちの千枚田も見てきたが、狭さと石垣の高さは半端でない。
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近世に真鰯の浜として開かれた半農半漁の浦が食糧確保のために少しづつ開いた畑は戦後の食料不足期にはまさに天に到った。琉球芋から養蚕のための桑畑、戦後には麦畑から現在では早堀のジャガイモへと畑の主役を替えながら

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今では想像も付かない多大の労働力が、この畑に投入された。一枚の写真がそれを私たちに伝える。
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私の好きなお堂が見える。お堂に続く道をたどる。
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前に広がる海にはさまざまな養殖筏が浮かぶ。
若い頃は海に出て魚を相手に、老いては段畑に上がり畑を耕して生きてきたという。
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ジャガイモの葉が黄色くなっている。収穫のシーズンを迎えているようだ。
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お堂の向こう側に続く段畑では収穫が行われていた。
収穫・運搬の様子は、次回に


つつら折れの道を針葉樹林帯を抜けると稜線が近づいてくる。
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稜線直下の谷沿いにはブナ林が残る。
葉を落とし、冬を迎える準備は完了。
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稜線へと道は続く。
秋の空の青さがまぶしい。
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稜線に出るとすぐに看板が・・
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この分岐点をすこし上がった所にある駐車場に車をおいて、歩くことにする。
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林道を歩き振り返るとこんな光景。
石鎚の山脈(やまなみ)がこんな風に見えるとは・・・
思いもかけなかった光景に呆然。
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石鎚から一の森、黒森への稜線が美しい。

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松山の南の皿が嶺、今治に続く高縄半島の山々も見える。

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東には石灰岩採取のために山容を変えた鳥形山も・・

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南にはのっぺり、のんびりと四国カルストが横たわる。
車に乗っていては、こんなにゆっくりと山を眺めってはいられない。
歩くことによって出会えた光景かもしれない。

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林道は笠取山駐車場まで続いている。
この横の笹道を登ると・・・
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笠取山山頂 
いとも簡単に山頂に立ててしまう。
しかし、ここからの光景は素晴らしい。
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稜線は私の大好きな笹の原と大展望+青空=最高の気分です
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笠取山へは、内子町の小田深山渓谷からの登山道も整備されています。
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大川嶺に続く笹の稜線です。
茂っているのはツルギミツバツツジだそうです。
5月末には素晴らしい光景が見えると聞きました。
久住の深山霧島に負けないと地元の人は言います。
機会を見つけてやって来たいという気持ちがわき出します。

この稜線を大川嶺まで歩いて行きます。
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天空に続く笹の稜線です。
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あっけないほど簡単に大川嶺につきました。
もっと歩いていたいと思わせる道です。
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ここからは久万高原がよく見えます。
逆に察すると、久万高原からこの山は「神山」と
なりうる山かもしれないと思ったりしました。
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駐車場に向けての下山路
石鎚が正面に見えました。
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天空の笹の原の山がお手軽に楽しめる大川嶺でした。

9月早朝の瓶が森 2つの山小屋跡を訪ねて

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   瓶が森の駐車場に車を入れて石鎚をビール片手に眺める。
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今晩はここで野宿。
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楯を横にしたような石鎚に朝日が照らす。
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早朝の笹の原を「独り占め」する目論見で足を伸ばす。
誰もいない。高原の小鳥のさえづりのみが耳に入る。
駐車場の向こうには、子持ち権現がぽつんと見える。
笹の原の中の道は草刈りされたばかりで歩きやすい。山の歌を歌いたくなる。
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白石小屋への分岐点。顔を洗うために瓶壺に降りていく。
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瓶壺の水で顔を洗う。顔だけでなく全身を浸して修験者のように清めたい処だが、冷たそうなので辞めておく。
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この木 何の木?
コメツガでもモミでもない。葉はマツ。五葉松?
まさかこんなところに???
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白石小山に人の気配はない。
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しかし、第二キャンプ場は笹が刈られ幕営可能状態。
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お気に入りの場所で読書と早いお昼寝タイム
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第一キャンプ場へ向かう。
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  瓶が森ヒュッテは廃墟化して「倒壊注意」の貼り紙あり。
そのそばを黙祷をするかのように頭を落として通り抜けていく。
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このキャンプ場からの石鎚は最高。
重いザックをかついでたどり着いたときの安堵感をいまでも思い出す。
蛇口をひねれど水は出ず。
されど、次は水を担ぎ上げてもここで「野宿」したいという気になる。
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氷見二〇〇〇石の笹の原にガスがかかり始め、石鎚も見えなくなっていく。
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ふと足下を見るとリンドウの花が・・

「生きている鳥たちが飛び回る山を 
あなたに残しておいてやれるだろうか父さんは
近づいてごらんなさい リンドウの花があるでしょう。」
昔歌った歌を自然と口ずさんでいた。

瓶が森の笹の原を独り占めする贅沢な時をいただいたことを、山の神に感謝!

西条 下津池のお堂と棚田

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西条から南へ国道をたどると笹ヶ峰への分岐点である下津池。このあたりは止呂峡と呼ばれ深い渓谷が続く。
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笹ヶ峰林道への橋の上にごろりと寝っ転がっているとミサゴが上空を横切った。大昔、重いザックを背負ってこの橋を何度も渡った。
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付近を歩いていると、お堂が見えてきた。収穫間際の稲田に囲まれた緑の屋根がお洒落に思えてくる。
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用水路を流れ落ちてくる水の響きがあちらこちらから聞こえてくる。
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「風穴」という道しるべに誘われて棚田を上がってみる
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用水路を流れ落ちてくる水の響きがあちらこちらから聞こえてくる。 はるか上流より導水した用水路が棚田の上部を通っている。そこから各棚田へ用水が供給されている。
             
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                                                           。

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ぼくM.DAXのたかしです。

青い空がいっぱいに広がった下、瓶が森を登ります。


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四国笹がいっぱい広がってきもちいい!(^^)!


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でも、足の短い僕には歩きにくい。

こんな時には、もう少し足が長くてもいいなと思ったりする(-_-;)


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ここから見える石鎚山は、ぼくも「最高!」だと思う。

昼ご飯の後、ぼんやりと眺めていました。


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瓶が森の頂上から眺めた稜線です。

紅葉は少し遅れているそうです。


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最後に、稜線からの石鎚です。

「ドウダンツツジの紅葉が綺麗」とお母さんが呟いていました。

ぼく、最後までしっかりと歩きました。

その様子はこちらの動画でご覧ください。

http://videocast.yahoo.co.jp/player/blog.swf?vid=288230376151906697
たかしとキョン  愛媛の瓶が森に登るM・DAX

東黒森山のアケボノツツジ
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先日、横峰寺から石鎚を「遙拝」していて、山が呼んでいる気がしてきました。

遍路を中断、手頃に稜線に立てる東黒森にやってきました。

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四国笹の稜線を歩いていると、ピンクの花が目に入ります。

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近づいてみます。

葉が出る前、花だけが風にゆらゆらしています。

あけぼのつつじのようです。

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五月の青空をバックに、風に揺られています。

枝にぶら下がってダンスをしているようで、見ていて飽きません。(*^_^*)

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まわりは芽吹きの瞬間

傾いた太陽の光を浴びて、若葉が行灯のように見えます。

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山の裾野から新緑が駆け上がっている。

そんな風に思えた東黒森山(1750㍍)でした。


アケボノツツジについて、詳しく知りたい方はこちらへどうぞ
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/sympetalae/ericaceae/akebonotsutsuji/akebonotsutsuji.htm 
岡山理科大 植物生態研究室のHPです。

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愛媛県の四国霊場60番横峰寺の境内。花で埋められています。

何の花なんでしょう(?_?) 

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太子堂の前、お遍路さんが般若心経を唱えています。

その向こうには、シャクナゲの花が満開です。

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標高が700㍍を越えるここでは、花期が遅いようです。

おじぞうさんに降りかかるように、咲いています。

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寺を後に、杉木立の道を石鎚山の遙拝所に向かいます。

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標高750㍍「星が森」です。

江戸時代末期に設置された鳥居の向こうに石鎚が見えます。

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新緑が石鎚の裾野から駆け上がっています。

頂上付近は今,芽吹きの季節を迎えているようです。

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