宝寿寺-札所となる一の宮

六十二番の宝寿寺は町の中にあって、家並に埋没してしまっているといっては、言葉が過ぎるかもしれませんが、そんなふうです。
宝寿寺の御詠歌は非常に古い御詠歌だとかもいます。
「さみだれのあとに出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かは」
という御詠歌は、かなり古いかたちです。
御詠歌から、このお寺はもとは白坪というところにあり「一の宮」と呼ばれていた。白坪にあったときは、玉の井という霊水が湧いていたということがわかります。

縁起には、かなり古い時代に「伊予一之宮」の法楽所として成立したと書かれています。神様にお経を上げることを法楽、お経を上げるところを法楽所と呼びました。宝寿寺は香園寺の旧寺地があった大日と、川を隔てた中山川の河口の白坪に、まず建立されました。ここも海に近かったとかもいます。
聖武天皇が金光明最勝王経を奉納して、道慈律師という人が講讃させたと縁起に書いてあるので、道慈あるいは大安寺と関係があったのかもしれません。
道慈律師は、中国に渡って十八年留まったのち、
養老元年(七一七)に翻訳された、いわばホットニュースのような求聞持法をもって翌年養老二年に戻ってきた人です。
中国で善無畏三蔵が、養老元年に当たる年に虚空蔵求聞持経を訳経したことは、はっきりしています。善無畏三蔵は密教八祖の一人で、インドから中国に来てたくさんの密教教典を訳しました。善無畏三蔵が翻訳した密教教典は「雑密」と呼ばれています。虚空蔵さん、薬師さん、あるいは吉祥天のような一つ一つの仏様について、それぞれ功徳や拝み方を説いたものが雑密です。

次に出てくる不空三蔵という人は、『大日経』や『金剛頂経』を訳します。
このお経は、仏様を曼荼羅の中に配列して、この仏様はこの位置だ、この仏様は阿弥陀様と同じだ、この仏様は大日如来と同じだという理論を付けて整理したものです。このころになると、雑密はすでにほとんど翻訳し尽くされました。仏像を拝観するときの唱え方を書いたものなどは、殼初に翻訳されています。
だいたい宗教の始まりは、人間の苦痛をいかにして救うかということで、すでに正倉院に残されている写経に出ているほどで、中国でも朝鮮でも日本でも、自分たちを幸福にずるもの、苦痛を除くものが殼初に翻訳されたことがわかります。
ところが、弘法大師以前に仏様の配列ができました。
弘法大師は善無畏のあとで中国に来た不空三蔵あるいは一行阿闇梨か翻訳したお経をもって帰ります。雑密は、それぞればらばらです。弘法大師がもって帰ったものは統合したものですから、思想になります。これが密教の二つの流れです。いま曼荼羅、曼荼羅と申しますが、これは思想としての密教ですから、わかったようでわかりません。なぜこの仏様はここで、どうしてこの仏様はここでなければならないかということはやはり謎です。

空海以後の密教が正統密教だといわれています。
しかし、正統というと、ほかのものはみな異端になってしまいます。
そこで「両部密教」とも呼ばれています。金剛界・胎蔵界に配列するのを両部と呼びます。雑密は材料です。両部密教はそれを整理して、摩利支天のような天部はいちばん外のところに配列される、明王はその次に配列される、その次は菩薩が配列される、真ん中には如来が配列される、如来の間に菩薩や天部が配列されるという構造になったものです。
善無畏三蔵が翻訳した虚空蔵求聞持経という呪術的なお経を道慈律師が日本にもって帰ると、燎原の火のごとくに広がりました。養老三年(七一九)に白山を開いた泰澄という実在の人物が、求聞持法をやっていることはまず間違いありません。
日光を開いた勝道上人も求聞持法をやった記録があります。山伏をしていて文章が書げなかった勝道上人は、人を介して日光山を開いた由来を作文してくれと弘法大師に頼んでいます。
伝言を頼まれたのは下野国の国博士として下ってきていた尹博士という人です。尹博士は、おそらく「イソ」という音をもっか名前の人だったとかもいます。下野から帰ってきた尹博士の伝言を受けて、弘法大師が代わりに作文した文章が現在でも碑になって日光に残っています。
こういうことから、弘法大師の同時代の山岳修行者の間で、求聞持法が非常に流行していた大ことがわかります。おそらく宝寿憚にも求聞持法が伝えられたために、道慈律師がここで講義をしたという話が残ったのだとかもいます。
天養山という山号は、鳥羽上皇のころ、天養元年(一一四四)に洪水で流された伽藍を再興したということから付けられたといわれています。
このお寺が一の宮と呼ばれたのは非常に大事なことです。
現在も門前の標石に「一国一宮別当宝寿寺」と彫ってあります。
四国では阿波も土佐も伊予も讃岐も一の宮はぜんぶ札所になっています。
『四国偏礼霊場記』は、次のように書いています。
此寺本尊、十一面観音なり。惣て聞所なし。推て一の宮と号す。
いづれの神といふ事をしらず。
一の宮記に当国の一の宮越智郡大山祇の神社とあり。即三島明神なり。
当所もむかしは十町余も北にありしを、近来此所に移ぜりとなん。
今は鎮守と号する一祠ときこゆ。是一の宮の余烈にや。
何も縁起はわからない、無理に一の宮といっているだけで、別に理由はないと書いていますが、辺路の信仰からみると、十分に納得できます。現在の寺地から北十町ートル)あまりの海岸(白坪)に大山祇神社を勧請し、これを一の宮としてあがめ、ここを霊場としたことは十分に理由があることです。
今治市内の別宮が大三島大山祇神社を勧請して、その別当寺に南光坊があるように、白坪の一の宮の別当寺が宝寿寺です。

この寺は中山川の河口にあったために、洪水にしばしば流されたようです。
天正年間に豊臣秀吉の四国攻めのときに荒廃し、寛永年間(二(二四i四四)に一柳氏が再興したとき現在地(予讃線の伊予小松駅前)に移されました。大正十年(一九二一)にもう一度移しだのは、おそらく鉄道の線路か駅にかかってしまったために、もう少し南の駅前に移されたのだとかもいます。
このお寺は江戸時代にも無住時代があったので、四国遍路の行者宥信上人が住み込んで、付近の人に勧進しながら再興しています。明治維新で廃寺になったときも、同じように四国遍路の行者大石置遍上人が再興しています。それが大正十年に移転して現在の寺院になったわけです