瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:我拝師山

   四国88ヶ所霊場の内の半数以上が、空海によって建立されたという縁起や寺伝を持っているようです。しかし、それは後世の「弘法大師伝説」で語られていることで、研究者達はそれをそのままは信じていないようです。
それでは「空海修行地」と同時代史料で云えるのは、どこなのでしょうか。
YP2○『三教指帰』一冊 上中下巻 空海 森江佐七○宗教/仏教/仏書/真言宗/弘法大師/江戸/明治/和本の落札情報詳細 - ヤフオク落札価格検索  オークフリー

延暦16(797)、空海が24歳の時に著した『三教指帰』には、次のように記されています。
「①阿国大滝嶽に捩り攀じ、②土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」
「或るときは③金巌に登って次凛たり、或るときは④石峯に跨がって根を絶って憾軒たり」
ここからは、次のような所で修行を行ったことが分かります。
①阿波大滝嶽
②土佐室戸岬
③金巌(かねのだけ)
④伊予の石峰(石鎚)
そこには、今は次のような四国霊場の札所があります。
①大滝嶽には、21番札所の大龍寺、
②室戸崎には24番最御崎寺
④石峯(石鎚山)には、横峰寺・前神寺
この3ケ所については『三教指帰』の記述からしても、間違いなくと研究者は考えているようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル
金山出石寺(愛媛県)

ちなみに③の「金巌」については、吉野の金峯山か、伊予の金山出石寺の二つの説があるようです。金山出石寺については、以前にお話したように、三崎半島の付け根の見晴らしのいい山の上にあるお寺で、伊予と豊後を結び航路の管理センターとしても機能していた節があります。また平安時代に遡る仏像・熊野神社の存在などから、この寺が「金巌」だと考える地元研究者は多いようです。どうして、この寺が札所でないのか、私も不思議に思います。さて、これ以外に空海の修行地として考えられるのはどこがあるのでしょうか? 今回は讃岐人として、讃岐の空海の修行地と考えられる候補地を見ていくことにします。テキストは「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」です。
武田 和昭

 仏教説話集『日本霊異記』には、空海が大学に通っていた奈良時代後期には山林修行僧が各地に数多くいたことが記されています。その背景には、奈良時代になると体系化されない断片的な密教(古密教=雑密)が中国唐から伝えられます。それが山岳宗教とも結び付き、各地の霊山や霊地で優婆塞や禅師といわれる宗教者が修行に励むようになったことがあるようです。空海が大学をドロップアウトして、山林修行者の道に入るのも、そのような先達との出会いからだったようです。
 人々が山林修行者に求めたのは現世利益(病気治癒など)の霊力(呪術・祈祷)でした。
その霊力を身につけるためには、様々の修行が必要とされました。ゲームに例えて言うなれば、ボス・キャラを倒すためには修行ダンジョンでポイントやアイテム獲得が必須だったのです。そのために、若き日の空海も、先達に導かれて阿波・大滝嶽や室戸崎で虚空蔵求聞持法を修したということになります。つまり、高い超能力(霊力=験)を得るために、山林修行を行ったとしておきます。
虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...

 以前にお話ししたように、求聞持法とは虚空蔵吉薩の真言

「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリキャマリボリソワカ」

を、一日に一万遍唱える修行です。それを百日間、つまり百万遍を誦す難行です。ただ、唱えるのではなく霊地や聖地の行場で、行を行う必要がありました。それが磐座を休みなく行道したり、洞窟での岩籠りしながら唱え続けるのです。その結果、あらゆる経典を記憶できるという効能が得られるというものです。これも密教の重要な修行法のひとつでした。空海も最初は、これに興味を持って、雑密に近づいていったようです。この他にも十一面観音法や千手観音法などもあり、その本尊として千手観音や十一面観音が造像されるようになります。以上を次のようにまとめておきます。
①奈良時代末期から密教仏の図像や経典などが断片的なかたち、わが国に請来された。
②それを受けて、日本の各地の行場で修験道と混淆し、様々の形で実践されるようになった
③四国にも奈良時代の終わり頃には、古密教が伝来し、大滝嶽、室戸崎、石鎚山などで実践されるようになった。
④そこに若き日の空海もやってきて山林修行者の群れの中に身を投じた。
 讃岐の空海修行地候補として、中寺廃寺からみていきましょう。
大川山 中寺廃寺
大川山から眺めた中寺廃寺
中寺廃寺跡(まんのう町)は、善通寺から見える大川山の手前の尾根上にあった古代山岳寺院です。「幻の寺院」とされていましたが、発掘調査で西播磨産の須恵器多口瓶や越州窯系青磁碗、鋼製の三鈷杵や錫杖頭などが出土しています。

中寺廃寺2
中寺廃寺の出土品
その内の三鈷杵は古密教系に属し、寺院の建立年代を奈良時代に遡るとする決め手の一つにもなっています。中寺廃寺が八世紀末期から九世紀初頭にすでにあったとすれば、それはまさに空海が山林修行に励んでいた時期と重なります。ここで若き日の空海が修行を行ったと考えることもできそうです。
 この時期の山林修行では、どんなことが行われていたのでしょうか。
それを考える手がかりは出土品です。鋼製の三鈷杵や錫杖頭が出ているので、密教的修法が行われていたことは間違いないようです。例えば空海が室戸で行った求問持法などを、周辺の行場で行われていたかも知れません。また、霊峰大川山が見渡せる割拝殿からは、昼夜祈りが捧げられていたことでしょう。さらには、大川山の山上では大きな火が焚かれて、里人を驚かせると同時に、霊山として信仰対象となっていたことも考えられます。
 奈良時代末期には密教系の十一面観音や千手観音が山林寺院を中心に登場します。これら新たに招来された観音さまのへの修法も行われていたはずです。新しい仏には、今までにない新しいお参りの仕方や接し方があったようです。
 讃岐と瀬戸内海をはさんだ備前地方には平安時代初期の千手観音像や聖観音立像などが数体残されています。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト

その中の大賀島寺(天台宗)の千手観音立像(像高126㎝)については、密教仏特有の顔立ちをした9世紀初頭の像と研究者は評します。

岡山・大賀島寺本尊・千手観音立像が特別公開されました。 2018.11.18 | ノンさんテラビスト
大賀島寺(天台宗)の千手観音立像

この仏からは平安時代の初めには、規模の大きな密教寺院が瀬戸内沿岸に建立されていたことがうかがえます。中寺廃寺跡は、これよりも前に古密教寺院として大川山に姿を見せていたことになります。

 次に善通寺の杣山(そまやま)であった尾野瀬山を見ていくことにします。
中世の高野山の高僧道範の「南海流浪記」には、善通寺末寺の尾背寺(まんのう町春日)を訪ねたことを、次のように記します。

尾背寺参拝 南海流浪記

①善通寺建立の木材は尾背寺周辺の山々から切り出された。善通寺の杣山であること。
②尾背寺は山林寺院で、数多くの子院があり、山岳修行者の拠点となっていること。
 ここからは空海の生家である佐伯直氏が、金倉川や土器川の源流地域に、木材などの山林資源の管理権を握り、そこに山岳寺院を建立していたことがうかがえます。尾背寺は、中寺廃寺に遅れて現れる山岳寺院です。中寺廃寺の管理運営には、讃岐国衙が関わっていたことが出土品からはうかがえます。そして、その西側の尾背寺には、多度郡郡司の佐伯直氏の影響力が垣間見えます。佐伯家では「我が家の山」として、尾野瀬山周辺を善通寺から眺めていたのかもしれません。そこに山岳寺院があることを空海は知っていたはずです。そうだとすれば、大学をドロップアウトして善通寺に帰省した空海が最初に足を伸ばすのが、尾野瀬山であり、中寺廃寺ではないでしょうか。
 ちなみにこれらの山岳寺院は、点として孤立するのではなく、いくつもの山岳寺院とネットワークで結ばれていました。それを結んで「行道」するのが「中辺路」でした。中寺廃寺を、讃岐山脈沿いに西に向かえば、尾背寺 → 中蓮寺跡(財田町) → 雲辺寺(観音寺市)へとつながります。この中辺路ルートも山林修行者の「行道」であったと私は考えています。
 しかし、尾背寺については、空海が修行を行った時期には、まだ姿を見せていなかったようです。
 さらに大川山から東に讃岐山脈を「行道」すれば、讃岐最高峰の龍王山を越えて、大滝寺から大窪寺へとつながります。
 大窪寺は四国八十八ケ所霊場の結願の札所です。

3大窪寺薬師如来坐像1

大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理前)
以前にお話したように、この寺の本尊は、飛鳥様式の顔立ちを残す薬師如来坐像(座高89㎝)で、胴体部と膝前を共木とする一本造りで、古様様式です。調査報告書には「堂々とした姿態や面相表現から奈良時代末期から平安時代初期の制作」とされています。

4大窪寺薬師側面
        大窪寺本尊 薬師如来坐像(修理後)

 また弘法大師が使っていたと伝わる鉄錫杖(全長154㎝)は法隆寺や正倉院所蔵の錫杖に近く、栃木・男体山出上の平安時代前期の錫杖と酷似しています。ここからは大窪寺の鉄錫杖も平安時代前期に遡ると研究者は考えています。
 以上から大窪寺が空海が四国で山林修行を行っていた頃には、すでに密教的な寺院として姿を見せていたことになります。
 大窪寺には「医王山之図」という寺の景観図が残されています。
この図には薬師如来を安置する薬師堂を中心にして、図下部には大門、中門、三重塔などが描かれています。そして薬師堂の右側には、建物がところ狭しと並びます。これらが子院、塔頭のようです。また図の上部には大きな山々が七峰に描かれ、そこには奥院、独鈷水、青龍権現などの名称が見えます。この図は江戸時代のものですが、戦国時代の戦火以前の中世の景観を描いたものと研究者は考えています。ここからも大窪寺が山岳信仰の寺院であることが分かります。
 また研究者が注目するのが、背後の女体山です。
これは日光の男体山と対比され、また奥院には「扁割禅定」という行場や洞窟があります。ここからは背後の山岳地は山林修行者の修行地であったことが分かります。このことと先ほど見た平安時代初期の鉄錫杖を合わせて考えれば、大窪寺が空海の時代にまで遡る密教系山岳寺院であったことが裏付けられます。

 空海の大学ドロップアウトと山林修行について、私は、最初は次のように思っていました。
 大学での儒教的学問に疑問を持った空海は、父・母に黙ってドロップアウトして、山林修行に入ることを決意した。そして、山林修験者から聞いた四国の行場へと旅立っていった。
しかし、古代の山林修行は中世の修験者たちの修行スタイルとは大きく違っている点があるようです。それは古代の修行者は、単独で山に入っていたのではないことです。
五来重氏は、辺路修行者と従者の存在を次のように指摘します。
1 辺路修行者には従者が必要。山伏の場合なら強力。弁慶や義経が歩くときも強力が従っている。「勧進帳」の安宅関のシーンで強力に変身した義経を、怠けているといって弁慶がたたく芝居からも、強力が付いていたことが分かる。
2 修行をするにしても、水や食べ物を運んだり、柴灯護摩を焚くための薪を集めたりする人が必要。
3 修行者は米を食べない。主食としては果物を食べた。
4 『法華経』の中に出てくる「採菓・汲水、採薪、設食」は、山伏に付いて歩く人、新客に課せられる一つの行。

空海も従者を伴っての山岳修行だったと云います。例えば、修行者は食事を作りません。従者が鍋釜を担いで同行し、食料を調達し、薪を集め食事を準備します。空海は、山野を「行道」し、石の上や岬の先端に座って静かに瞑想しますが、自分の食事を自分で作っていたのではないと云うのです。
それを示すのが、室戸岬の御蔵洞です。
御厨人窟の御朱印~空と海との間には~(高知県室戸市室戸岬町) | 御朱印のじかん|週末ドロボー

ここは、今では空海の中に朝日入り、悟りを開いた場所とされています。しかし、御蔵洞は、もともとは御厨(みくろ)洞で、空海の従者達の生活した洞窟だったという説もあります。そうだとすれば、空海が籠もった洞は、別にあることになります。どちらにしても、ここでは空海は単独で、山林修行を行っていたわけではないこと、当時の山岳修行は、富裕層だけにゆるされたことで、何人もの従者を従えての「特権的な修行」であったことを押さえておきます。
五来重氏の説を信じると、修行に旅立つためには、資金と従者が必要だったことになります。
それは父・田公に頼る以外に道はなかったはずです。父は無理をして、入学させた中央の大学を中退して帰ってきた空海を、どううけ止めたのでしょうか。どちらにしても、最終的には空海の申し入れを聞いて、資金と従者を提供する決意をしたのでしょう。

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出釈迦寺奥の院(善通寺五岳 我拝師山)
 その間も空海は善通寺の裏山である五岳の我拝師山で「小辺路」修行を行い、父親の怒りが解けるのを待ったかもしれません。我拝師山は、中世の山岳行者や弘法大師信仰をもつ高野聖にとっては、憧れの修行地だったことは以前にお話ししました。歌人として有名で、高野聖でもあった西行も、ここに庵を構えて何年か「修行」を行っています。また、後世には弘法大師修行中にお釈迦様が現れた聖地として「出釈迦」とも呼ばれ、それが弘法大師尊像にも描き込まれることになります。弘法大師が善通寺に帰ってきていたとした「行道」や「小辺路」を行ったことは十分に考えられます。
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出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 父親の理解を得て、善通寺から従者を従えて目指したのが阿波の大瀧嶽や土佐・室戸崎になります。そこへの行程も「辺路」で修行です。尾背寺から中寺廃寺、大窪寺という山岳辺路ルートを選び、修行を重ねながら進んだと私は考えています。

  以上をまとめておきます
①空海が修行し、そこに寺院を開いたという寺伝や縁起を持つ四国霊場は数多くある。
②しかし、空海自らが書いた『三教指帰』に記されているのは、阿波大滝嶽・土佐室戸岬
金巌(金山出石寺)・石峰(石鎚山)の4霊場のみである。
③これ以外に讃岐で空海の修行地として、次の3ケ所が考えられる
  善通寺五岳の我拝師山(出釈迦)
  奈良時代後半には姿を見せて、国が管理下に置いていた中寺廃寺(まんのう町)
  飛鳥様式の本尊薬師如来をもち、山林修行者の拠点であった大窪寺

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         「武田和昭 弘法大師空海の修行値 四国へんろの歴史3P」

 高野山霊宝館【展覧会について:大宝蔵展「高野山の名宝」】
          弘法大師坐像(萬日大師像) 金剛峯寺

弘法大師を描いた絵図や像は、いまでは四国霊場の各寺院に安置されています。その原型となるものが高野山と善通寺に伝わる2枚の弘法大師絵図(善通寺御影)です。最近、善通寺ではこの御影が公開されていました。そこで、今回はこの善通寺御影を追いかけてみようと思います。テキストは「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」です。

弘法大師空海は、承和三年8(835)3月21日に高野山奥之院で亡くなります。
開祖が亡くなると神格化され信仰対象となるのは世の習いです。空海は真言宗開祖として、礼拝の対象となり、祖師像が作られ御影堂に祀られることになります。高野山に御影堂建立の記録がみられるのは11世紀ころからです。弘法大師伝説の流布と重なります。
 高野山に伝わる弘法大師絵図については、次のように伝わります。

 空海が亡くなる際に、実恵が「師の姿は如何様に有るべきか」と聞くと、「このようにあるべし」と示されたものを、真如親王が写した。

 高野山に伝わる弘法大師像は、真如親王が描いたと伝わるところから「真如親王様御影」と呼ばれるようになります。これは、秘仏なので今は、その姿を拝することはできないようです。しかし、承安二年(1171)に僧阿観により、模写されたものが大坂の金剛寺に伝わっています。
天野山 金剛寺|shoseitopapa
金剛寺の弘法大師像 高野山に伝わる弘法大師像の模写とされる

これを見ると、右手に金剛杵、左手には数珠を持ち、大きな格子の上に画面向かって左に向いた弘法大師が大きく描かれています。これを模して、同じタイプのものが鎌倉時代に数多く描かれます。

弘法大師像 文化遺産オンライン
弘法大師像(東京国立博物館) 善通寺様御影

 これに対して、真如親王様御影の画面向かって右上に、釈迦如来が描き加えたものがあります。このタイプをこれを善通寺御影と呼び、香川、岡山などの真言宗寺院に数多く所蔵されています。ここまでを整理しておきます。弘法大師像には次の二つのタイプがある
①高野山の「真如親王様御影」
②讃岐善通寺を中心とする善通寺御影で右上に釈迦如来が描かれている
史料紹介 ﹃南海流浪記﹄洲崎寺本
南海流浪記洲崎寺本

善通寺御影には、どうして釈迦如来が描き込まれているのでしょうか?
高野山の学僧道範(1178~1252)は、山内の党派紛争に関った責任を問われて、仁治四年(1241)から建長元年(1249)まで讃岐に流刑になり、善通寺で生活します。その時の記録が南海流浪記です。そこに善通寺御影がどのように書かれているのか見ていくことにします。
同新造立。大師御建立二重の宝塔現存ス。本五間、令修理之間、加前広廂間云々。於此内奉安置御筆ノ御影、此ノ御影ハ、大師御入唐之時、自ら図之奉預御母儀同等身ノ像云々。
大方ノ様ハ如普通ノ御影。但於左之松山ノ上、釈迦如来影現ノ形像有之云々。・・・・
意訳変換しておくと

新たに造立された大師御建立の二重の宝塔が現存する。本五間で、修理して、前に広廂一間が増築されたと云う。この内に弘法大師御影が安置されている。この御影は、大師が入唐の際に、自らを描いて御母儀に預けたものだと云う。そのスタイルは普通の御影と変わりないが、ただ左の松山の上に、釈迦如来の姿が描かれている

ここには次のような事が分かります。
①道範が、善通寺の誕生院で生活するようになった時には、大師建立とされるの二重の宝塔があったこと
②その内に御影が安置されていたこと。
③それは大師が入唐の際に母のために自ら描いたものだと伝えられていたこと
④高野山の「真如親王様御影」とよく似ているが、ただ左の松山の上に、釈迦如来が描かれていること

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空海修行の地とされる我拝師山 捨身ケ岳
道範は、この弘法大師御影の由来を次のように記します。

此行道路.、紆今不生、清浄寂莫.南北諸国皆見、眺望疲眼。此行道所は五岳中岳、我拝師山之西也.大師此処観念経行之間、中岳青巌緑松□、三尊釈迦如来、乗雲来臨影現・・・・大師玉拝之故、云我拝師山也.・・・

意訳変換しておくと
この行道路は、非常に険しく、清浄として寂莫であり、瀬戸内海をいく船や南北の諸国が総て望める眺望が開けた所にある。行道所は五岳の中岳と我拝師山の西で、ここで大師は観念経行の修行中に、中岳の岩稜に生える緑松から、三尊釈迦如来が雲に乗って姿を現した。(中略)・・大師が釈迦如来を拝謁したので、この山を我拝師山と呼ぶ。

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出釈迦寺奥の院
ここからは次のようなことが分かります。
①五岳山は「行道路」であり、行道所(行場)が我拝師山の西にあって、空海以前からの行場であったこと。
②空海修行中に雲に乗った釈迦如来が現れたので、我拝師山と呼ぶようになったこと
 
弘法大師  高野大師行状図画 捨身
          我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」
 これに時代が下るにつれて、新たなエピソードとして語られるようになります。それが我拝師山からの捨身行 「誓願捨身事」です。
六~七歳のころ、大師は霊山である我拝師山から次のように請願して身を投げます。
「自分は将来仏門に入り、多くの人を救いたいです。願いが叶うなら命をお救いください。叶わないなら命を捨ててこの身を仏様に捧げます。」
すると、不思議なことに空から天女(姿を変えた釈迦)が舞い降りてその身を抱きしめられ、真魚は怪我することなく無事でした。
これが、「捨身誓願(しゃしんせいがん)」で、いまでは、この行場は捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)と名前がつけられ、そこにできた霊場が出釈迦寺奥の院です。この名前は「出釈迦」で、真魚を救うために釈迦が現れたことに由来と伝えるようになります。

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出釈迦寺奥の院と釈迦如来

 捨身ヶ嶽は熊野行者の時代からの行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していました。西行や道範らにとっても、「捨身ヶ嶽=弘法大師修行地」は憧れの地であったようです。高野聖であった西行は、ここで三年間の修行をおこなっていることは以前にお話ししました。
ここでは、我拝師山でで空海が修行中に釈迦三尊が雲に乗って現れたと伝えられることを押さえておきます。

宝治二年(1248)に、善通寺の弘法大師御影について、高野二品親王が善通寺の模写を希望したことが次のように記されています。

宝治二年四月之比、依高野二品親王仰、奉摸当寺御影。此事去年雖被下御使、当国無浄行仏師之山依申上、今年被下仏師成祐、鏡明房 奉摸写之拠、仏師四月五日出京、九日下堀江津、同十一日当寺参詣。同十三日作紙形、当日於二御影堂、仏師授梵網十戒、其後始紙形、自同十四日図絵、同十八日終其功。所奉摸之御影卜其御影形色毛、無違本御影云々。同十八日依寺僧評議、今此仏師彼押本御影之裏加御修理云々。・・・・

意訳変換しておくと
宝治二(1248)年4月に高野二品親王より、当寺御影の模写希望が使者によって伝えられた。しかし、讃岐には模写が出来る仏師(絵師)がいないことを伝えた。すると、仏師成祐(鏡明房)を善通寺に派遣して模写することになった。仏師は4月5日に京都を出発、9日に堀江津に到着し、十一日に善通寺に参詣した。そして十三日には、絵師は御影堂で梵網十戒を受けた後に、紙形を作成、十四日から模写を始め、十八日には終えた。模写した御影は、寸分違わずに本御影を写したものであった。寺僧たちは評議し、この仏師に本御影の裏修理も依頼した云々。・・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①宝治二(1248)年に高野二品親王が善通寺御影模写のために、絵師を讃岐に派遣したこと
②13世紀当時の讃岐には、模写できる絵師がいなかったこと。
③仏師は都から4日間で多度郡の堀江津に到着していること、堀江津が中世の多度郡の郡港であったこと
④京都からの仏師が描いた模写は、出来映えがよかったこと
⑤「寺僧たちは評議し・・」とあるので、当時の善通寺が子院による合議制で運営されていたこと

善通寺御影が、上皇から「上洛」を求められていたことが次のように記されています。
此御影上洛之事
承元三年隠岐院御時、立左大臣殿当国司ノ之間、依院宣被奉迎。寺僧再三曰。上古不奉出御影堂之由、雖令言上子細、数度依被仰下、寺僧等頂戴之上洛。御拝見之後、被奉模之。絵師下向之時、生野六町免田寄進云々。嘉禄元年九条禅定殿下摂禄御時奉拝之、又模写之。絵師者唐人。御下向之時、免田三町寄進ム々。・・
意訳変換しておくと
承元三(1209)年隠岐院(後鳥羽上皇)の時代、立左大臣殿(藤原公継(徳大寺公継?)が讃岐国司であった時に、鳥羽上皇の意向で院宣で善通寺御影を見たいので京都に上洛させるようにとの指示が下された。これに対して寺僧は再三に渡って、古来より、御影堂から出したことはありませんと、断り続けた。それでも何度も、依頼があり断り切れなくなって、寺僧が付き添って上洛することになった。院の拝見の後、書写されることになって、絵師が善通寺に下向した。その時に寄進されたのが、生野六町免田だと伝えられる。また嘉禄元(1225)年には、九条禅定殿下が摂禄の時にも奉拝され、この時も模写されたが、その時の絵師は唐人であった。この時には免田三町が寄進されたと云う。

この南海流浪記の記録については、次の公式文書で裏付けられます。
承元三年(1209)8月、讃岐国守(藤原公継)が生野郷内の重光名見作田六町を善通寺御影堂に納めるようにという次のような指示を讃岐留守所に出しています。

藤原公継(徳大寺公継の庁宣
  庁宣 留守所
早く生野郷内重光名見作田陸町を以て毎年善通寺御影堂に免じ奉る可き事
右彼は、弘法大師降誕の霊地佐伯善通建立の道場なり、早く最上乗の秘密を博え、多く数百載の薫修を積む。斯処に大師の御影有り、足れ則ち平生の真筆を留まるなり。方今宿縁の所□、当州に宰と為る。偉え聞いて尊影を華洛に請け奉り、粛拝して信力を棘府に増信す。茲に因って、早く上皇の叡覧に備え、南海の梵宇に送り奉るに、芭むに錦粛を以てし、寄するに田畝を以てす。蓋し是れ、四季各々□□六口の三昧僧を仰ぎ、理趣三味を勤行せしめんが為め、件の陸町の所当を寺家の□□納め、三味僧の沙汰として、樋に彼用途に下行せしむべし。餘剰□に於ては、御影堂修理の料に充て用いるべし。(下略)
承元二年八月 日
大介藤原朝臣
意訳変換しておくと
 善通寺は弘法大師降誕の霊地で、佐伯善通建立の道場である。ここに大師真筆の御影(肖像)がある。この度、讃岐の国守となった折に私はこの御影のことを伝え聞き、これを京都に迎えて拝し、後鳥羽上皇にお目にかけた。その返礼として、御影のために六人の三昧僧による理趣三昧の勤行を行わせることとし、その費用として、生野郷重光名内の見作田―実際に耕作され収穫のある田六町から収納される所当をあて、その余りは御影堂の修理に使用させることにしたい。 

 ここからは、次のようなことが分かります。
①弘法大師太子伝説の高まりと共に、その御影が京の支配者たちの信仰対象となっていたこと、
②国司が善通寺御影を京都に迎え、後鳥羽上皇に見せたこと。
③その返礼として、御影の保護管理のために生野郷の公田6町が善通寺に寄進されたこと

「南海流浪記」では、御影を奉迎したのは後鳥羽上皇の院宣によるもので、免田寄進もまた上皇の意向によるとしています。ここが庁宣とは、すこし違うところです。庁宣は公式文書で根本史料です。直接の寄進者は国守で、その背後に上皇の意向があったと研究者は考えています。
空海ゆかりの国宝や秘仏などが一堂に 生誕1250年記念展示会が開幕|au Webポータル国内ニュース
善通寺御影(瞬目大師(めひきだいし)の御影) コピー版

この背景には弘法大師信仰の高まりがあります。

それは弘法大師御影そのものに霊力が宿っているという信仰です。こうして、各地に残る弘法大師御影を模写する動きが有力者の間では流行になります。そうなると、都の上皇や天皇、貴族達から注目を集めるようになるのが、善通寺の御影です。これは最初に述べたように、弘法大師が入唐の時、母のために御影堂前の御影の池に、自分の姿を写して描いたとされています。空海の自画像です。これほど霊力のやどる御影は他にはありません。こうして「一目みたい、模写したい」という申出が善通寺に届くようになります。
 この絵は鎌倉時代には、土御門天皇御が御覧になったときに、目をまばたいたとされ「瞬目大師(めひきだいし)の御影」として世間で知られるようになります。その絵の背後には、釈迦如来像が描かれていました。こうして高野山の「真如親王様御影」に並ぶ、弘法大師絵図として、善通寺御影は世に知られるようになります。ちなみに、この絵のおかげで中世の善通寺は、上皇や九条家から保護・寄進を受けて財政基盤を調えていきます。そういう意味では  「瞬目大師の御影」は、善通寺の救世主であったともいえます。
 以後の善通寺は「弘法大師生誕の地」を看板にして、復興していくことになります。
逆に言うと、古代から中世にかけての善通寺は、弘法大師と関係のない修験者の寺となっていた時期があると私は考えています。その仮説を記しておきます。
①善通寺は佐伯直氏の氏寺として7世紀末に建立された。
②しかし、佐伯直氏が空海の甥の世代に中央官人化して讃岐を去って保護者を失った。
③その結果、古代の善通寺退転していく。古代末の瓦が出土しないことがそれを裏付ける。
④それを復興したのが、修験者で勧進聖の「善通」である。そこで善通寺と呼ばれるようになった。
⑤空海の父は田公、戸籍上の長は道長で善通という人物は古代の空海の戸籍には現れない。
⑥信濃の善光寺と同じように、中興者善通の名前が寺院名となった。
⑦江戸時代になると善通寺は、「弘法大師生誕の地」「空海(真魚)の童子信仰」「空海の父母信仰」
を売りにして、全国的な勧進活動を展開する。
⑧その際に、「空海の父が善通で、その菩提のために建てられた善通寺」というストーリーが広められた。

話がそれました。弘法大師御影について、まとめておきます。
①弘法大師御影は、ひとり歩きを始め、それ自体が信仰対象となったこと
②善通寺御影は各地で模写され、信仰対象として拡がったこと。
③さらに、立体化されて弘法大師像が作成されるようになったこと。
④時代が下ると弘法大師伝説を持つ寺院では、寺宝のひとつとして弘法大師の御影や像を安置し、大師堂を建立するようになったこと。
今では、四国霊場の真言宗でない寺にも大師堂があるのが当たり前になっています。そして境内には、弘法大師の石像やブロンズ像が建っています。これは、最近のことです。ある意味では、鎌倉時代に高まった弘法大師像に対する支配者の信仰が、庶民にまで拡がった姿の現代的なありようを示すといえるのかもしれません。
今日はこのくらいにしておきます。次回は、善通寺の弘法大師絵図のルーツを探って見たいと思います。

弘法大師御誕生1250年記念「空海とわのいのり―秘仏・瞬目大師(めひきだいし)御開帳と空海御霊跡お砂踏み巡礼―」 |  【公式】愛知県の観光サイトAichi Now
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参考文献
  「武田和昭 弘法大師釈迦影現御影の由来 増吽僧正所収59P」
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   青龍古墳1

前回に青龍古墳は、平地に築造された大きな古墳で、調査前には二重の濠を有すると云われ、前方後円墳とされていました。しかし発掘調査の結果は、青龍古墳に二重の濠はなく、前方後円墳でもないことが分かりました。濠ではなく広い周庭部を持つ珍しい大円墳だったのです。それが後世の改変を受けて、現在のような周壕を持つように見える姿になっていったよです。
まずは、それが明らかになる調査過程を見ておきましょう
調査では、10㎝間隔の等高図と要所にトレンチが何本か掘られます。
青龍古墳トレンチ調査

その結果、第1トレンチ西端の埋土上層から中世の土鍋片が多数、下層からは5世紀代のものと見られる須恵器片が1点と、最下層から埴輪片を含む土師器の小片がでてきました。ここからは5世紀の造成後に中世になって、掘り返されていることが分かります。遺構底部は、周壕と呼ぶほど深くはなく、底部も平坦なのです。これを考え併せると、周濠ではなく周庭を伴う円墳の可能性が出てきました。周庭の底部は東に向かって緩やかに上がり、続けて古墳南側に露出している周堤と外濠、それぞれの延長線上で同じような遺構が出てきます。
 周堤をさらに詳しく踏査すると、崩壊した複数の箇所に中世頃の土器片が見つかります。ここからは外濠及び周堤と考えられていた遺構は、中世の改変で造られたものと推測できます。
DSC03632
青龍古墳の周庭部
 周庭部と考えられる部分の第9トレンチを見てみましょう。上層からは土鍋等、多量の中世遺物が出ています。古墳裾部まで掘っても埴輪片などは出てきません。トレンチの南端では地山が緩やかに上がり、ここに埋土以外の人工的な盛土が確認されています。ここを周庭部端とすると、その幅は11m程です。人工的な盛土は、後世に造られた周堤部のようです。古墳南側から西側にかけて残る周庭部は、かつては水田だったようですが、近年は耕作されておらず湿地化し葦が生えています。ここは湧水量が極めて多く、湧水点も極めて浅くいため湿田であったことが予想できます。
以上を整理しておくと
①青龍古墳は、周囲に浅い周庭をともなう大型古墳であった。
②中世に周庭部などの土を用いて、周囲に周堤を築いた。
③南側の周庭は湧水量が多く、水田化されて利用されてきた
④周庭部の水田の水位調整のために、畝(陸橋)が造られて小さく間仕切り化された。

以上から青龍古墳は5世紀後半に築造された後に、中世に大規模な地形の改変が行われているようです。その改変時期については、遺構から中世の土器片が出土することから、改変されたのは南北朝~戦国時代頃と報告書は推察します。

DSC03652
吉原からの天霧山
「中世の改変」とは、具体的になんなのでしょうか?
 吉原町の北西には、今は石切場となって、かつての姿を失ってしまった天霧山が目の前にあります。ここには西讃岐守護代の香川氏の居城「天霧城跡」がありました。香川氏は阿波の三好氏と対立し、その侵攻に悩まされていたのは以前にもお話ししました。16世紀後半の永禄年間には、善通寺に陣を敷いた三好勢力に対して籠城戦を強いられています。それ以外にも多くの戦闘が行われていて、付近には甲山城跡や仲村城跡等の関連遺跡があります。
青龍古墳と中世城郭

 青龍古墳は、我拝師山から張り出した尾根状地形の先端に更に7mの盛り土がされています。古墳からは周辺に視界を遮るものがないので、古墳北側に作られたテラス状平坦部に立てば正面に天霧山を仰ぎ見ることができたはずです。しかし、天霧城を攻める三好方が攻城拠点として築いた砦ではないようです。なぜなら、砦の正面は南側に、向けて武装強化されています。天霧城の出城的な性格が見られます。どちらにしても、戦国時代の天霧城攻防戦の際に、砦が置かれそのための改変を受けたと報告書は推測します。

青龍古墳地図拡大図
 
青龍古墳を中世の砦を兼ね備えた複合遺跡として考えれば、古墳の外濠とされていた遺構は堀であり、周堤は土塁だったことになります。墳丘の北側平坦部や傾斜地の構造も、納得ができます。城と云うには規模がかなり小さいので砦的なもので、にわか工事で造られた可能性もありますが、史料的に裏付けるものはありません。


一円保絵図 五岳山
善通寺一円保絵図 中央下のまんだら寺周辺が吉原地区

視点を変えれば、青龍古墳は、整然と区画された条里遺構の端にあります。
1307(徳治二)年に作成された「善通寺一円保絵図」(重要文化財)には、善通寺領を含めてこの付近の様子が記されています。この絵図が書かれた頃の善通寺は、曼荼羅寺との寺領境界をめぐる紛争がようやく確定し、新しく多くの所領が編入されました。鷺井神社は立地条件やその特異な構造から、荘園制のもとで神社でありながら他の重要な機能を果たしていた可能性があると報告書は指摘します。
一円保絵図 東部
一円保絵図

  以上をまとめておきます。
①青龍古墳は我拝師山中腹にある曼荼羅寺あたりから平野部に低く派生した尾根の先端を利用し、5世紀後半に築造された巨大な二段築成の円墳である。
②円墳の周囲には浅く削り込み整形した幅の広い周庭帯があることが分かった。周庭帯は傾斜地に造られた墳丘を巡っているため、下方はテラス状地形になっている。
③この時期の古墳は県下では数が少なく、しかも周庭帯を持つ古墳は特異な存在である。
④周濠を有するものも数は少なく、大川町の富田茶臼山古墳の他は善通寺市の菊壕と生野カンス塚、観音寺市の青塚古墳が知られている程度でる。しかもいずれも前方円墳ある。

青龍古墳 碗貸塚古墳との比較
碗貸塚古墳(観音寺市大野原町)との比較

  青龍古墳の広大な周庭部は、規模が大き過ぎます。なんらかの特別な使用目的があった施設なのでしょう。もしそうだとすれば、前方後円墳並みに計画的に造営された古墳であり、それ相当の被葬者が考えられます。
  当時の西讃岐は善通寺周辺を中心に佐伯一族の勢力範囲でした。有岡古墳群がその一代系譜の墓所とされています。それに対して、吉原を拠点とする首長が造った青龍古墳は、佐伯氏から前方後円墳造営に制限を受けていた可能性があることは触れた通りです。そのような関係の中で、特異で凝った周庭を持った円墳が造られたとしておきましょう。
この時に調査目的は青龍古墳の規模や形態の把握であったために、墳丘部の調査は行なわれていないようです。そのため縦穴式石室の構造や副葬品については分かりません。ただ石室は崩壊部分から出ている露出状況から見ると東西方位で、その位置から二基ある可能性もあるが、古い社殿が墳丘上にあったことから破壊されている可能性も報告書は指摘します。
ある。

青龍古墳拡大図3

この調査では、これまで言われて来たような二重の濠を有する前方後円墳ではないことが分かって、残念な気持ちにもなります。しかし、周庭部を含めての全長は78mの円墳で、その規模は大きく、県下では比類ない存在です。その勢力を善通寺王国の首長は配下に組み込んでいたことになります。善通寺王国の形成過程や構造を考える上では、いろいろな手がかりを与えてくれる古墳です。

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西行1

西行といえば有名な歌人として私の中にはインプットされていました。彼の作品は、のちの連歌師宗祗や俳講師芭蕉の手本となったように、旅を生命とした吟遊詩人でもあったというのが私の西行観でした。
 ところが「西行の本業は高野聖」であったということが書かれた本に出会いました。「五来重 高野聖 13章 高野聖・西行」です。ここには「隠遁性・廻国性・勧進性・世俗性」などの視点からすると、西行は高野聖だと云うのです。その本を見ています。
崇徳院ゆかりの地(西行法師の道) - 平家物語・義経伝説の史跡を巡る
坂出市青海町

西行は、讃岐にもやって来ています。

白峰寺で崇徳上皇の怨霊を鎮めたり、弘法大師が捨身修行したと伝えられる善通寺の我拝師山で庵を結んで、三年近くの山岳修行も行っています。その合間に、記録や歌を残しています。讃岐での生活も、修行よりも、歌の方に関心が向けられることが多いようです。しかし、讃岐への旅も、芭蕉のような風雅の旅ではなく、慰霊の旅であり、四国辺路の聖地での修行であったのです。その余暇に歌は作られていました。
諸国行脚の歌人 西行が歌い歩いた道を行く | わかやま歴史物語

西行が、いつ、どこで、どのくらい修行したのかを、年表化して確認しておきましょう。
保延六年(1140)23歳 出家
久安五年(1149)32歳 高野山入山
治承四年(1180)63歳 高野山退山 
ここからは32歳から63歳まで約30年間を高野聖として、隠遁と廻国と勧進にすごし、その副産物として多くの歌をのこしたことが分かります。
高野山に入るまでの西行の姿を追ってみましょう
西行は出家して2年後の康治元年(1142)二月十五日、内大臣頼長の邸に一品経の勧進にあらわれたことが次のように記されています。
西行法師来りて云ふ。 一品経を行ふに依り、両院以下の貴所皆下し給ふ也。料紙の美悪を嫌はず、只自筆を用ふ可しと。余軽々しくは承諾せず。又余年を問ふ。答へて曰く、二十五、抑も西行は、右兵衛尉義清(のりきよ)也 重代の勇士を以て法皇に仕へ、俗時より心を仏道に入れ、家富み年若くして心無愁なり。遂に以て遁陛す。人之を歎美する也
意訳変換
西行法師がやってきて次のようなことを言った。「一品経の書写を、両院以下の貴所が全て行うことになった。紙の善し悪しにかかわらず、自筆で行うのがよい」と。私は、軽々しく承諾しなかった。そして、西行の年齢を聞いた。二十五歳と答えた。そもそも西行は、佐藤義清(のりきよ)である。彼は、勇士として法皇に仕へながら、俗事より仏道に心を奪われた者である。家は富み、年は若くしながら心は無愁で、隠遁生活を選んだのだ。これを賛美するものが多い。

ここからは次のようなことが分かります。
①西行が勧進僧として活動していること
②当時の年齢が25歳であったこと
③西行の隠遁が、世の中の人々の話題になり、賛美されていたこと
この勧進活動は、大治元年(1126)11月19日に焼亡した鞍馬寺再興のためのものだったようです。その活動の中に、西行の姿はありました。彼は宮中に顔がきいていたので、鳥羽・崇徳両上皇以下の貴族を勧進しています。
 自筆一品経というのは28人の結縁者に法華経二十八品を写してもらい、その供養料をあつめて如法経埋経供養と、別所聖の生活資縁にあてるものです。西行は、この後も東山や嵯峨を転々とします。双林寺・長楽寺・清凍寺・往生院のまわりに群れ集まる念仏聖や、勧進聖たちのあいだに混じって生活していたことがうかがえます。
 『西行物語絵巻』に描かれた彼の寓居は、聖の庵が建ちならんで商人が往き交い、子どもがが遊ぶなど、雑踏の巷です。このとき詠んだとされる歌が以下の歌です。
嵯峨にすみけるに、たはぶれ歌とて、人々よみけるを
うなゐ子が すさみにならす 麦笛の
こゑにおどろく  夏のひる臥
  絵巻には、この歌のように西行が昼寝している姿が描かれています。これは西行を隠者とするイメージではありません。聖は「仙人」ではないようです。それでは食べていけません。俗塵にまじわらなければ生活できなかったようです。出家後に西行は勧進僧になっていました。
西行4
西行 東下りの図

なぜ西行は高野山にやってきたのか
久安五年(1149)に高野山の大搭・金堂・灌頂院が雷火で焼け墜ちます。そして、勧進活動が開始されることになります。そのために、経験のある有能な勧進聖が招かれて、復興勧進にあたることになったようです。このとき西行を高野山にまねいたのは、この大火を目のあたりに見て日記に記した覚法親王(白河上皇第四皇子、堀河天皇の御弟)と、大塔再興奉行だった平忠盛だったと研究者は考えているようです。西行は、高野山と京都とのあいだを往復して、文学の才をもって貴族のあいだにまじわり、高野山の復興助力をすすめたようです。復興の総元締めである平忠盛の西八条の邸に出人りしていたことが記録されています。
 高野山復興のパトロンである平忠盛が亡くなると、その子の清盛のサロンにも出入りするようになります。こうしたサロン活動を通じて、期待された勧進目標を確実に果たしていたようです。そういう意味では彼は優秀な勧進僧であったと云えそうです。
 そして勧進活動の合間には、大峯修行や熊野那智で滝行など、聖らしい苦行も行っています。同時に、大原や東山・嵯峨の聖との往来も重ねます。とくに大原三寂といわれる寂念(藤原為業)・寂然(壱岐守頼業)・寂超(頼業の弟)および西住とは、しばしば歌論や法談をかわしていることが『山家集』にも記されています。生業の勧進、サロン活動、ロマンス、創作活動、修験など、彼の人生は充実したものだったようです。
西行2
天竜川を渡ろうとした西行が武士に鞭打ちされた話 ここでも笈を背負っています

最初にも述べたように、西行の廻国は美化されています。

そのため、一生を旅から旅へ「 一杖一笠」の生涯をおくったように思われがちです。私もそう思っていました。しかし実際には、奥羽旅行、北陸旅行、西国安芸・四国へのほかには、大峯・熊野修行などの旅行があるだけのようです。しかもそれは修行と勧進のための廻国(旅)です。
 その目的に従う限りで「異境人歓待」を受けられたのです。そのためには、高野とか東大寺とか鞍馬寺、長谷寺・四天王寺・善光寺などから出てきたという証明書(勧進帳)と、それぞれの本寺の本尊の写しやお札をいれた笈(おい)を、宗教的シンボルとして持っていなければなりませんでした。
 たとえば東大寺勧進聖には勧進帳が、高野聖には大師像のはいった笈が必需品だったのです。田亀(たがめ)は、笈を負う形に似ているというので、高野聖は「たがめ」とも呼ばれたようです。讃岐にやって来た西行も笈を背負っていたはずです。西行に笈を背負わせていない絵は、歌人としての西行をイメージしているようです。宗教歌人と捉えている作者は、笈を背負わせます。      
西行3

応永20年(1413)の「高野山五番衆一味契状」には、次のように記されています。
   高野聖とりし、空口(=おい)を負ひ、諸国に頭陀せしむ
  笈が高野聖のシンボルになっていたのは、宗教的権威の象徴だったからのようです。
歴史めぐり源頼朝~西行に出会う~

西行の東大寺再興勧進
勧進聖は、一つの寺の専属ではありませんでした。依頼されれば、他寺の勧進におもむいたようです。西行は関わった最も大きい勧進は、東大寺勧進でした。治承四年(1180)12月に平重衡の南都焼打ちによって東大寺は炎上しました。その再建のために重源が大勧進空人に任命され、多数の勧進聖をあつめます。西行は重源に頼まれて、鎌倉と東北の平泉を勧進のために訪れています。これも西行の名声を利用した大口勧進(募金)であったようです。
知って楽しい鎌倉の歴史!駅からスグの史跡めぐり~頼朝公と西行法師の出逢い~ | 神奈川県 - 観光・地域 - Japaaan - ページ 2
西行と頼朝

『吾妻鏡』(文治二年(1186)八月十五日)は、次のように記されています。
二品(頼朝)鶴岡宮に御参詣、而るに老僧一人烏居の辺に徘徊す。之を怖しみ、景季を以て名字を間はじめ給ふの処、佐藤兵衛肘憲清法師なり。今の西行と号すと云々(中略)
則ち営中に招引して御芳談に及ぶ。此間、歌道並びに弓馬の事に就きて、條々尋ね仰せらるる事有り。(中略)
恩問等閑(おんもんなほざる)の間、弓馬の事に於ては具(つぶさ)に以て之を申す。即ち俊兼をして其の詞を記し置かしめ給ふ。絆終夜を専にせらると云々
意訳変換しておくと
将軍頼朝が鶴岡宮に参詣した時のことである。老僧が一人烏居の辺を徘徊している。これを怖しんだ景季が、その名を問わせると、佐藤憲清法師で、今は西行と名乗っていると云う。(中略)
すぐに営中に招き入れて、歓談に及んだぶ。この間、歌道や弓馬の事について、将軍はいろいろと尋ねられた。(中略)それに対して西行は、弓馬の道はみな忘れました。和歌についてもその奥義については私にも分かりませんと答えた。頼朝は西行が気に入って、夜通し話しをした。

 これが有名な頼朝と西行の出会いシーンです。頼朝は西行に鎌倉に滞在するようしきりにひきとめますが、西行は先を急ぐといって平泉に出かけてしまいます。
重源上人の約諾を請け、東大寺析として沙金を勧進せんが為、奥州に赴く

とありますので、奥州平泉旅行が勧進行であったことが分かります。

これには、頼朝が西行に錢別に銀作りの猫をあたえたが、門前の子供にあたえて去ったというエピソードが加わります。西行の無欲さを協調する人もいますが、旅行の荷物になるからと研究者は考えているようです。しかし『吾妻鏡』によると、この銀猫は、義経滅亡のとき平泉で発見されたと記されます。いずれが真か偽か謎が残ります。
 頼朝は、これより先にすでに(米)一万石、沙金 千両、上絹千疋を重源に贈っていましたので、このときには勧進に応じなかったようです。また、奥州平泉でも秀衡は寿永三年(1184)6月に沙金五千両を東大寺に奉加していました。西行の重ねての勧進に応じたかどうかは分かりません。関東・平泉への旅も勧進目的であったことは押さえておきたいと思います。
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西行の世俗性                           
西行の世俗性とは、具体的に妻子がいたのかどうかです。これには、次のようなふたつの見方があるようです。
①歌聖にふさわしく、まったくの清僧であるから、妻子などもってのほかで、歌のなかにあらわれる女性もたんなる文学上の交友にすぎないという立場で、『山家集』に妻子をよんだ歌が一首もないのも、妻子がいなかったことを示すものだ
②妻帯だけはみとめようとする立場
②の立場としては、次のような見解も出されています
「妻子を振り棄てたからには、一向家の事、家族の事を顧みず、直ちに山林に入って関係を絶つのかというとそうでもない。俗縁の者と居を共にせず、僧堂山林に起居して念修するだけのことで、俗縁の家族はやはり家族に相違ないから、時々会見もすれば消息も明らかにしておく」
 また、次のような説もあります。
「僧として、人前に通るまでは、分相応に多少修行をしなければならない。その期間だけは、毎日家庭から弁当をもつて通ふわけにはゆかぬから、妻子の傍を離れるとということはある。西行にもそいう期間が若干はあったろう。しかし、修行が終われば俗縁への出人は自由である」

 これだと「修行中のみの別居で、その後は妻帯可」ということになります。このような俗聖(ぞくひじり)の妻帯は、行基や空也や親鸞がそうであつたように、特殊な階級として許されていたようです。しかし、俗聖では僧位・僧官は、のぞむことができず、本寺からの衣食住の支給もありません。そのため、聖は勧進によって身をたてるほかはなかったようです。当時は「僧」にもいくつかの階級があり、清僧と俗聖の間には、明快な一線があったとしておきましょう。西行は俗聖だったのです。
和歌山県立博物館さん『大西行展~西行法師生誕900年記念』に行ってきました - 百休庵便り

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 五来重 高野聖 13章 高野聖・西行

             
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出釈迦寺奥の院
 幼い頃の空海は、我拝師山で「捨身」を行ったと伝えられています。西行もそのことを知っていて、捨身行を「追体験」するために、この山の麓に庵を結んで「修行」しています。我拝師山は、霊山・聖地として古くから修験道の信仰を集め、中世にも多くの修験者が行場としてしていたようです。切り立った瀧(断崖)に建つ奥の院は、行場の雰囲気今でも残ります。そこには、消え去ろうとしている遺跡もあります。そんな中から今回は、磨崖に刻まれた石塔と石造物をご紹介しようと思います。 
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 出釈迦寺からの参道をあえぎあえぎ30分も登ると鞍部にたどり着きます。ここまでは許可があれば車でもやってこれるようです。ここが五岳山の縦走コースでハイキングには、もってこいの山道ですが、かてはこの道が修験者達が弥谷寺から七宝山を経て観音寺へと「辺地」修行を行うのに利用した道だと私は考えています。ここから見上げる奥の院は、城塞のようにも見えます。
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ゆるぎ石
本堂へ上る参道の南側に、ゆるぎ岩と呼ばれる大きな岩があります。この岩自体が磐座で、仏教以前の弥生時代からの信仰対象になっていたのかもしれません。しめ縄が架けられて、なかなかいい雰囲気です。その前の石柱には「磨崖 五輪塔 室町時代初期」とあります。周りを見回しますが、どこにも五輪塔はありません。そして「磨崖」という言葉に気づきました。この岩に掘られているのです。よく見ると五輪塔が見えてきました。

1出釈迦寺奥の院石造物1
 帰ってきて「出釈迦寺調査報告書」を見てみると、この磨崖五輪塔のことが次のように記されていました。
 五輪塔の総高は、134.5cmを測る。
空輪は、上部および左側の欠損が著しいため不明瞭であるが、おおむね高さ30.0cm、最大径はほぼ中央付近で26.0cmを測る。ほぼ円形で頭頂部の突起はやや大きめに成形している。空輪と風輪の境界は浅い凹線となっており、別石を意識して表現された可能性がある。
風輪は、高さ14.0cm、最大径は中央よりやや最上部で6.0cmを測る。(中略)
火輪は、中央での高さが22.4cm、最大幅47.2cmを測る。屋根の降りは緩やかで、やや外反する。軒の正面は表現されていないが、側面は表現されており、軒口は垂直に切られている。軒下端は弧状を呈し、真反りとなる。火輪と水輪の境界は表現されていない。
水輪は、高さ30.1cm、最大径が中央付近で39.8cmを測り、やや算盤形に近い球形を呈する。水輪と地輪の境界は、弱い凹線によって区別されている。
地輪は中心部で高さ29.5cm、残存状況の良い左端で8.0cm、最大幅50.0cmを測る。おそらく欠損部を復元すると火輪幅と同程度になると思われる。壁面の形状に制約されたためか、やや歪な形状となっている。右下部は壁面の盛り上がりが少なく、半肉彫ができずそのまま収束している。
  こんなところに五輪塔が刻まれていたことは知りませんでした。石柱の存在があっても、よく見ないと見えてきません。700年あまりの歴史の中で消えていこうとする遺構です。どんな人が、どんな思いで、ここに彫り込んだのでしょうか。
DSC02583
出釈迦寺奥の院 粟島神社
さらに参道を登っていくと岩盤が削平されて粟島神社が建てられています。その崖状の壁面にも「磨崖 五輪塔」の石柱が建っています。
1出釈迦寺奥の院石造物2
  近寄ってよく見ると五輪塔はふたつ並んでいて、右側を東塔、左側を西塔と呼んでいるようです。
これも報告書には次のような紹介があります。
 東塔は、総高90.6cmを測る。
空輪は、高さ19.0cm、最大径は下端付近で17.0cmを測る。西塔と比較して細長く中心線がずれるなど、歪な楕円形を呈する。風輪は別石表現されている。高さ11.3cm、最大径は上側で20.6cmを測る。風輪株は火輪上側に入り込む。
火輪は、高さ26.5cm、最大幅45.0cm(反転値)を測る。
西側は欠損のため輪郭のみが確認できる。屋根の降りはほぼ直線的である。軒の正面は表現されていないが、側面は表現されており、軒口はほぽ垂直に切られている。軒下端は弧状を呈し、真反りとなる。
水輪は、左側が大きく欠損しているため不明瞭であるが、高さ23.8cm、上端直径21.0cm、下端直径23.0cm(直径はいずれも反転値)、最大径が中央やや下側で30.0cm(反転値)を測り、やや下膨れの球形を呈する。地輪は高さ11.0cm以上、幅58.5cm以上を測る。地輪幅は明らかに火輪幅より大きい。地輪は、他の部位よりも浅めに刻まれている。下側および左右両側は、岩盤の割れや剥離などによって不明瞭である。あるいは、刻んだ当初から割れ岩盤の形状を意識して刻まなかった可能性も考慮する必要がある。また地輪の左側面は、前述の通り西塔地輪側面と共有する。
 西塔は、総高80.8cmを測る。
空輪は、高さ13.9cm、最大径は下端付近で18.0cmを測る。右側が剥落しているために不明瞭ではあるが、おおむね歪な円形となる。風輪は別石表現されている。高さ11.1cm、最大径は上側では21.1cmを測る。風輪下部は火輪上側に入り込む。
 火輪は、高さ25.4cm、最大幅45.3cmを測る。屋根の降りは若干外反する。軒の正面は表現されていないが、側面は表現されており、軒口は斜め外方へ切られている。軒下端は直線である。水輪は、高さ20.2cm、上端直径28.4cm、下端直径30.0cm(反転値)、最大径が中央付近で31.3cmを測り、筒型の形状を呈する。地輪は高さ12.3cm以上、幅62.0cm以上を測る。
地輪幅は明らかに火輪幅より大きい。
東塔同様、地輪は他の部位よりも浅めに刻まれている。下側および左側は、岩盤の剥離などによって不明瞭である。あるいは東塔と同じく、刻んだ当初から岩盤の割れ目の形状を意識して刻まなかった可能性も想定できる。また地輪の右側面は東塔地輪左側面と共有する。側面線は、上側9.0cmまでしか区画されていない。
 刻印の状態からふたつの五輪塔の先後関係は、西塔(左)が先に掘られて。その後に東塔が出来たようです。
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出釈迦寺奥の院と釈迦如来像
淡島神社の上には釣鐘堂が改修され、その南側には捨身した空海を救うために表れた釈迦如来が金色に輝いています。
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新しい奥の院のスターのように見えます。
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出釈迦寺奥の院の層塔 向こうは天霧山

 北側には「層塔」が「再建」されて姿を見せていました。
かつては、この層塔は倒壊してばらばらになって釣鐘堂の脇に、パーツとして置かれていました。由来を知る信者は「五輪さん」と呼んで信仰対象にしていたのですが、何十年(?)ぶりで組み合わせて再建されています。
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           出釈迦寺奥の院の層塔

 高さ390.0cm以上、最大幅50.0cmで下側は地中に埋っているため、正確な高さは分かりません。。側面は四方に蓮華紋が大きく刻られています。同じような層塔は、善通寺誕生院層塔や多度津町海岸寺奥ノ院層塔にもあります。 この石材は、天霧山・弥谷山から運ばれた石材が使われています。

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        出釈迦寺奥の院 釣鐘堂の層塔
  ここからは、多度津が正面に見えます。いまでも、この奥の院周辺に並んでいる玉垣等の寄進者名は多度津の人たちの名前が多いようです。古代以来、この山の北側の多度津方面から霊山として信仰されたことがうかがえます。
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我拝師山の行場

 奥の院本堂から我拝師山へ鎖場を越えてを登ると、弘法大師の捨身誓願の聖地とされているわずかな平地に出ます。

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出釈迦寺奥の院禅定宝塔

ここが「捨身ケ瀧」になるようです。ここには宝塔があります。
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最初に見たときには、何か分かりませんでした。
宝塔は基壇、基礎、塔身がきちんと組み合っているのですが笠がないのです。高さは79cm 基壇幅60cmの方形で側面で、内部は刳り抜きがあります。石材は、これも天霧石のようです。
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ここで修行を行いながら修験者が磨崖に五輪を刻み、天霧石で刻んだ石造物をここまで運び上げてきたのでしょうか。笠がなくなったかたりで捨身が瀧にある宝塔は、直立した円柱形の塔身で、天霧石製宝塔と研究者は考えているようです。
それでは作られたのはいつ頃なのでしょうか?
①鎌倉時代後期から南北朝時代の天霧石製石造物に一般的な〈天霧A〉の石材であること、
②肩の張った格狭間文様が4面に表現されていること、
③天霧石製宝塔の形態・法量で共通点が見られること、
以上から鎌倉時代後期~南北朝時代の14世紀代と研究者は考えているようです。
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香川県の石切場
 
14世紀は、白峯寺などの石造物が近畿産から地元の天霧石製に替わっていく時期でもあるようです。
白峯寺には十三重塔がふたつ並んでありますが、先に作られた塔は弘安元年銘の花崗岩製で近畿産です。後に作られたのが地元の天霧山産の石材が使われていることは先ほど見たとおりです。このふたつの塔は、よく似ていますから後から作られた天霧石製は、花岡岩製のコピーだと考えられます。天霧石の工房では13世紀初頭になると、それまで白峯寺に奉納された大和風の石造物を模倣して、近畿産に替わって製品を供給し始めます。この時期には、天霧石の職人集団は、大和石造物の特徴を取り入れられていきます。そして、天霧石製は、讃岐西半分に流通エリアを拡大します。

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天霧産石造物の瀬戸内海沿岸地域分布図
上の分布図からは15世紀になると、天霧産の石造物は瀬戸内海各地に流通エリアを拡大していったことが分かります。それが近世になると、豊島石の石造物にとって替わられます。出釈迦寺の奥の院の石造物も、天霧山の石工集団の活動が活発化する14世紀頃のもののようです。
西讃地方に残る鎌倉時代後期から南北朝時代の天霧石製石造物を見ておきましょう。
丸亀の中津八幡宝塔
①丸亀市の中津八幡神社宝塔

文化遺産データベース
②善通寺市善通寺三帝御廟宝塔、

③多度津町光厳寺宝塔、

西白方にある仏母院にある石塔
④多度津町仏母院宝塔塔身、

⑤三豊市大北墓地宝塔2基
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我拝師山と出釈迦寺奥の院 

石造物の中で石塔は、数が少ないようです。
その石塔が奥の院に建てられたのは、どうしてなのでしょうか?
基壇、基礎は内部が刳り抜かれて空洞にしている可能性もあるようです。そうだとすれば納経などが行われていた可能性もあります。この五岳の峰続きの香色山からは、有力者の経塚が出土しています。行場・修験道・経塚という3つが、ここでもそろったことになります。

 〈参考文献〉
海逼博史・松田朝由2008
「西讃岐における中世石造物の特質一善通寺旧境内所在の石造物を中心にー」
   

   




   
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 善通寺の西に並んでいる山々を五岳(ごがく)と呼びます。東から香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山のことで、我拝師山はその中央に象の頭のようなどっしりとした山容で聳えています。
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  この山の麓や谷間からは、数多くの銅剣や銅鐸類が出土しています。また、現在の農事試験場から「子どもと大人の病院」に架けては、改築工事で地下を掘る度に遺物が出土していて、この辺りが「善通寺王国の都」があった所と研究者は考えているようです。ここから見上げる五岳は、霊山としては最高です。五岳の盟主である我拝師山が古くから霊山として崇められてきたことは、この山を見ていると納得できます。
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 この山には早くから行者たちが入ってきて修行をおこなっていた気配があります。そして、空海もこの山で「行道」し、「捨身」を行ったという話が伝わっています。

まず、幼い空海(幼名・真魚)の捨身伝説を見てみましょう。
ある日、真魚(まお)は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。
 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。
 空海が真魚と呼ばれた幼年期に、雪山(せっちん)童子にならって、山頂から身を投げたところ、中空で天人が受け取ったいう「捨身ヶ嶽」の伝説です。
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4 捨身ケ嶽というのは捨身の行場ということです。
 『日本霊異記』には、奈良時代の辺路修行者が実際に捨身をしたことが、いくつも記されています。本元興寺の稚児が身を投げたという記事が、平安時代の中期ごろに、醍醐天皇の皇子重明親王が書いた『史郎王記』という日記の中にも出てきます。この頃は、盛んに捨身が行われていたようです。そのため養老二年(718)に出された養老律令の坊さんと尼さんを取り締まる「僧尼令」の第二十七条に、「焚身捨身を禁ず」という条があります。
 焼身自殺が焚身、高いところから飛び下りることが捨身です。惜しげもなく命を捨てる修行者が多く出たので、法律で禁止しなければならなくなったのでしょう。
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   今も大峰山で行われている「覗き」の行は、捨身の形を変えたものかも知れません。
 命綱はありますが、突き出されたときにひやっとします。そのときに新しい魂が入って生まれ変わるのだといいます。「覗きの行」は、「捨身」を真似て安全を確保した上で「擬死再生」を体験させているのかもしれません。死んでしまったら元も子もないので、死の一歩手前ぐらいの体験をさせて「生まれ変わった」とするようになったのでしょう。「今日は、これくらいでゆるしてやろか」というところでしょうか。
 死に向き合うという宗教体験をすることによって、今までとは違う自分に気づき、新しい何かを自分のものとすることがあります。現実の見方が変わり「自己確立」への道が開かれるということもあります。
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  さて、事件は現場で起きる、現場を見てから話を進めよという原則に従って、捨身ケ岳に行って見ましょう。まずは、出釈迦寺にお参りします。境内には私の知らない間に、こんな太子像がありました。ここでも空海は、虚空蔵求聞持法の修行を行ったようです。空海の行場であるという事を、お寺は掲げています。

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 この寺は、かつては捨身が嶽の遙拝所でした。それが発展してお寺に成長してきました。
出釈迦寺の本堂から整備されたアスファルトの急坂を30分ほど登ると、我拝師山と中山の鞍部にある奥の院行場・根本御堂に着きます。
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空海からおよそ3世紀後に西行も、ここへやってきて修行を行っています。
彼は鳥羽院に使える武士でしたが、23歳で出家し、高野山で修行を重ねて、真言宗の行者になっていました。西行は、仁安2年(1167)50歳の10月、空海ゆかりの讃岐の地へ修行のためにやってきます。最初に白峯にある崇徳院の墓に参ります、もうひとつの旅の目的は崇徳上皇の怨霊を沈めるためだったようです。その後、この山の麓に庵を結んで2年ほど滞在していたようです。その時に、我拝師山の捨身ケ嶽を訪れています。
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鉄の鎖をつたって登って行くと自然の石を利用した護摩壇があります。
ここからは北側に瀬戸内海が広がります。ここで聖なる火を焚いたのでしょう。
西行の『山家集』によると、捨身が嶽は「曼荼羅寺の行道所」と記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経かきて(埋)うづませめるおはしましたる山の嶺なり。はうの卒塔婆一丈ばかりなる壇築きてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおよしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、壇も二重に築きまはさいたり。のぼるほどの危うさ、ことにに大事なり。かまえては(用心して)は(這)ひまわりつきて   
廻りあはむ ことの契ぞ たのもしき
きびしき山の  ちかひ見るにも
①行場へは「世の大事にて手を立てたる」ようで、手のひらを立てたような険しい山道を大変な思いで登った
②行場には、空海が写経した経典が埋めてある
②高さ3mほどに土を盛った壇が築かれており、空海が毎日登って修行したという言い伝えがあった。
③めぐり行道のために二重の壇が築かれていた二つの壇がある
と記しています。
ここからは西行の時代には、捨身が岳が空海の青年時代の行道修行の遺蹟とされていたことがわかります。

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「登るほどの危ふさ」ときたら大変なものであり「構えて這ひまはり付きて」(這うようにしてしっかりしがみついて)壇の周りを廻ったと記します。
西行も、空海に習って壇の周りを行道していることが分かります。
 廻り行道は、修験道の「行道岩」とおなじで、空海の優婆塞(山伏)時代には、行道修行が行われていたようです。空海も、この行場を何度もめぐっる廻行道をしていたのでしょう。西行は我拝師山の由来として、行道の結果、空海が釈迦如来に会うことができたと次のように記します
 行道所よりかまへて かきつき(抱きついて)のぼりて、嶺にまゐりたれば、師(釈迦)にあはしましたる所のしるしに、塔をたておはしたりけり、 後略
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西行はなぜ我拝師山にやってきて、2年もここで修行するつもりになったのでしょうか?
『山家集』の「善通寺・我拝師修行期」には何度も「大師」(=空海)が出てきます。
先ほど述べたように、西行は、空海が行ったと信じて、3mもの高さの壇に登り、這い回るようにして修行しています。空海が捨身して釈迦如来に逢ったという捨身ヶ嶽に、しがみつくようにして登っています。西行は、空海と自分を重ねることで、空海に対して身体的な共感を作りだし、その境地に少しでも近付こう・理解しようとしているように見えます。それが、真言行者である西行にとって、宗教的修行だったのかもしれません。
 相手に近付く・理解するために疑似体験をする方法は、今の私たちも行っています。福祉教育で行われる車椅子体験などもそうかもしれません。スポーツ等であこがれのプレーヤーに近付くために、同じ練習法を取り入れるというのも同じです。状況を重ね、身体的に何とか共感を図ろうと試みることは、他者を理解し、精神的な距離を近付けるための、ひとつの方法論なのでしょう。
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話がわき道に逸れてしまいました。空海に視点をもどします。
  行道修行は、もともとは洞窟に龍る静的な禅定と、動的な行道を交互にくりかえすものです。
 四国の辺路修行者は我拝師山に来れば、西行のように近くに庵を営んで、静に禅定します。そして、一日に三回から六回の勤行には、鉄鎖をよじ登って捨身行の形をしたり、頂上で塔をめぐったりの行道をしたようです。
 
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 北から見れば平凡な山ですが、西面と南面は厳しい岩稜で霊山で「四国の辺地」の修行所に選ばれたのも納得がいきます。多分、ここでは南面の絶壁に身をのり出して、谷底をのぞく「覗きの行」が行われていたのでしょう。この「覗き」の捨身行があったから、空海七歳の捨身伝説が生まれてきたと研究者は考えているようです。

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 どちらにしろ西行がやってきた12世紀後半は、プロの修験者達が我拝師山で修行をおこなっていたことは確かなようです。そして、行場のルートは、この山から弥谷寺へ、そして七宝山へとのびていたようです。
 以前にも紹介しましたが『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎」
とあます。ここには、大師(空海)が「七宝山修行」を創始した記されています。そして、空海が観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から弥谷寺・五岳の行場を「辺路修行」しながら、山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼があったのです。
 このルートは、中世のプロの修験者の辺路修行ルートですから、山の中を行く獣道のような「辺路道」で、近世後半の「遍路」たちが歩いた遍路道とは異なるものでしょう。しかし、道は違ても観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルートは存在していたのではないでしょうか。そして、今は忘れ去られた行場がこれらの山中には埋もれていると私は想像しています。

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  空海がここで修行したとすれば、いつでしょうか?
捨身が嶽に登って、ボケーッとしながら考えた「仮説」を最後に示します
平城京の大学に上がる前に、佐伯家の氏寺・善通寺の僧侶(佐伯家一族)から影響を受けて雑密の影響を受け、ここで虚空蔵求聞持法の初歩的な行を行っていた。

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大学をドロップアウトして、その報告のために善通寺に帰省し、僧侶として生きていく事を親族に告げて、ただちに我拝師山で修行に入った。その後、大瀧・室戸への本格修行に出た。

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大学ドロップアウト後に、吉野金峰山で修行し、自分なりの一応のめあすができて善通寺に帰ってきた。そして、我拝師山での修行をしながら一族の同意を取り付け、四国巡礼に旅立った。

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大学ドロップアウト後は、佐伯家とは連絡を絶ち、各地での修行に没頭した。そして、遣唐使の一員になるために僧籍を得る必用があり、この時に善通寺には帰ってきた。遣唐使に選ばれるまでの期間に、生家(佐伯家)の「裏山」である我拝師山や弥谷寺、七宝山までの行場を廻った。
捨身ケ嶽で修行もせずに、ボケーとこんなことを、考えていました。
以上・・
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族
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