瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:打越窯跡

       十瓶山 綾奧下池南遺跡
   

  前回は十瓶山窯跡の瓦窯跡めぐりに必要な地図と予備知識を見ておきました。今回は、十瓶山窯跡群についての研究史的なものに出会いましたので紹介したいと思います。テキストは 「綾南奧下池南遺跡 発掘調査報告 1996年」です。この報告書には、西村遺跡を中心に十瓶山窯群についての概説や研究史的なものがコンパクトにまとめられて、私にはありがたい資料です。この報告書にもとづいて、十瓶山窯跡群を見ていきたいと思います。
十瓶山窯跡分布図5

 最初に、この窯跡群の呼称についてですが十瓶山(陶)窯跡群の両方が使われています。どちらの呼称を用いても問題ないのでしょうが「陶(スエ)」という地名は、堺市の陶窯跡など各地にあります。そのため、地域名をつけないと混同します。そこで森浩一氏は「その地域の中心的存在で、また窯業を象徴する十瓶山の名を採る」として、「十瓶山窯跡群」と呼んでいます。以後は、これに従いたいと思います。それでは見ていきます。
 1967(昭和42)に、府中湖造成の際に水没窯跡4基と関連窯跡2基の発掘調査が行われます。同じ年に同志社大学が十瓶山北麓窯跡の発掘調査を行っています。

十瓶山 北麓窯
十瓶山窯跡群 北麓遺跡出土の十瓶山式甕
この窯跡の調査理由として森浩一氏は次のように述べています。

「全国的にも特徴がつよくあらわれている平安時代後期と推定される甕形土器を主に生産している窯を発掘することにした」

そして森氏は出土した特徴的な広口長胴平底甕を「十瓶山式甕」と命名して、11~13世紀のものとし、十瓶山窯跡群について、次のような点を指摘します。
①十瓶山窯跡群が綾川の水運によって讃岐国府と結び付けられていたこと、その経営に国府が関与していたこと
②平安時代後期の「十瓶山式甕」が甕専業の窯で大量生産されていること。
③「十瓶山式甕」が徳島県花園窯跡でも生産されていることを紹介し、「十瓶山の工人が、ある期間この地で生産に従事していたのではないかと考えられる」と指摘した。
④瓦窯が須恵器窯とは別個にあることに注目して、讃岐国内の諸寺院からの需要や、平安京内への搬出がこのような生産体制を必要としたことも示唆した。
十瓶山  西村遺跡出土の大型甕
大型の十瓶山式甕

渡部明夫氏も森氏の視点を継承し、次のような点を指摘しました。
「一郡一窯」体制であった讃岐岐国の須恵器生産が、8世紀前半頃に十瓶山窯跡群の独占体制に急激に置き換わっていくことを、国衛権力が十瓶山窯跡群を管轄するようになったことから説明します。そして打越窯跡の開窯には、当初坂出平野の地域権力(綾氏)が介在し、国府が設置されると打越窯が国衛機構に組み込まれたと考えました。
 国衛機構下では、新たに登場した国府や国分寺・国分尼寺などでの大量需要が生まれ「陶窯跡群の国衛に対する依存は強まり、国衙による陶窯跡群の掌握も容易になされるように」なったこと、さらに各地の旧首長の地域権力が微弱になったことで各地の窯が廃絶し、十瓶山窯跡群の製品が讃岐全域 に流通することになったとします。
 また『延喜式』の規定にも触れ、貢納須恵器が十瓶山窯跡群で生産されていた可能性を指摘し、国衙の意志が十瓶山で生産に反映されやすいという状況があったことを指摘します。

十瓶山 すべっと4号窯跡出土2

さらに平安時代の須恵器生産については、「そこには革新的な面よりむしろ、伝統的・停滞的な面が強いように思われる」と判断します。
その理由として次のような点を挙げます。
①製作段階においてロクロ水挽き技法や底部糸切り技法が最後 まで導入されずに「伝統的な技法」による生産が続いたこと
②窯体構造 に大きな改良の痕跡がみられないこと
など「技術革新」が行われていないことを指摘します。そして12世紀になると、生産が急速に衰退するという変遷観が示されます。こうして次のように結論づけます。

「備前焼のように須恵器の中から中世陶器を生み出し、新たな生産を発展させた形跡はみられない」

これに対して、渡部氏は大型品と小型品を焼く窯が分離した平安時代中・後期の様相 を指摘 し、「 そこに分業的な生産の萌芽を認めることができるか もしれない」との+評価もしています。
十瓶山西村遺跡山原地区出土

 1975(昭和50)年頃になると国道32号綾南バイパス建設のための事前調査や周辺の宅地開発などで発掘調査数とエリアが拡大するようになります。

十瓶山  西村遺跡概念図
西村遺跡概念図

国道32号バイパス工事にともない昭和1980年前後に行われた西村遺跡の発掘調査では、中世前期を中心 とした掘立柱建物群や粘土採掘坑、融着品を含む廃棄土坑などが窯跡とともに出てきました。この結果、中世前期の十瓶山窯跡群の土器生産について、新たに多くのことが分かるようになりました。特に西村1号窯跡では、瓦と須恵器が一緒に出てきて、須恵器の実年代をめぐって多くの議論が交わされました。

須恵器 打越窯跡地図
十瓶山窯跡群のスタート地点となる打越窯跡

 その2年後の1982年 に発掘された打越窯跡では、窯自体は発掘されませんでしたが、灰原から7世紀中葉~末葉の須恵器が多量に出土しました。この結果、十瓶山窯跡群における操業開始期がここまで遡ることと、打越窯跡が十瓶山窯跡群のスタートとなることが分かりました。
 さらに1983(昭和58)年 と1994(平成5)年 に行われたすべっと窯跡群の発掘調査では、9世紀後葉~10世紀前葉の須恵器窯が大量に集中して出てきました。そこでは大型品の壷や甕を中心に焼く窯 と、小型の杯・皿を焼成するロストル式窯が並んで造られ、器種に応じて使い分けられていたことが分かってきました。

十瓶山 すべっと4号窯跡出土4
すべっと4号窯跡出土

次に十瓶山窯の須恵器編年が、どのように作られたのかを見ておきましょう。
1965年頃に、四国の古代窯業生産をまとめた六車恵一氏の依拠資料の多くは、断片的な採集品に基づくものでした。そのため須恵器の編年を体系的に示せるものではありませんでした。そんな中で、田辺昭三氏による讃岐の須恵器の編年が開始されます。
 1968(昭和43)年、府中湖造成に伴う窯跡の発掘調査によって、初めて奈良・平安時代の須恵器の変遷について、報告書では次のような「見通し」が出されます。
①庄屋原2号窯跡 と池宮神社南窯跡の資料を比較すると、形態が比較的似ている。
②丸底に近い底部をもつ無高台杯が庄屋原3号窯跡には少ないこと
③庄屋原3号窯跡に比べて池宮神社南窯跡の杯蓋天井部のツマミの方が高く突出し、天井部も段状に屈曲するなど、古式のスタイルを留めること
以上から庄屋原窯跡と、池宮神社南窯跡を比較すると、「スタイルは一致するが、器形の組み合せや細部については必ずしも形式的特徴を同じくするとは云い難い」 として、鉄鉢形の類例から庄屋原3号窯跡を大阪府陶邑窯跡群のMT21型式、岡山のさざらし奥池式に併行する時期に比定します。
 また池宮神社南窯跡や庄屋原3号窯跡の後に続くものとして、「高台が全く退化してしまったか、又は高台が付 けられても形式的になり貧弱なものでしかない」一群を指摘します。これがすべっと1号窯跡・ 田村神社東窯跡・ 明神谷窯跡のもので、直線的に立ち上がる体部・口縁部をもつ椀の存在、杯・蓋の消滅、叩き目を施した平底の瓶が現れることが特徴とします。そして、平安中期の菊花双鳥文鏡を伴出した金剛院経塚(まんのう町)から、体部の直線的な片口鉢が出土していることから、これらの一群を平安時代前期のものとします。そして、岡山の鐘鋳場窯跡と併行する時期とと考えます。
 この編年案については、いろいろな問題がありましたが、岡山や近畿の編年を念頭に置きながら設定された相対的な前後関係については、その後の編年作業の基礎になったと評価されています。

水没窯跡の調査報告書の奈良・平安時代前期の変遷案 と、森氏らによる平安後期~鎌倉時代の変遷案を受けて、新規の窯跡採集資料も交えながら初めて開窯期から終焉 (廃窯)期までの変遷を提示 したのが渡部明夫氏です。

十瓶山窯跡編年表
十瓶山窯跡編年対照表

渡部氏は 1980(昭和55)年に、十瓶山窯跡群の須恵器を9時期 に分けて第10表のように示しました。

器種構成によって大まかな前後関係を決めて、そのうえで奈良・ 平安時代前期のものは杯・皿の形態・技法で、平安時代後期のものは甕の口縁端部形態や椀の形態によって細別するという手法がとられています。
 平安時代後期の須恵器の実年代については、西村1号窯跡で鳥羽南殿のものと同文瓦が須恵器と同時に出てきたした調査例を参考にして、西村1号窯跡を11世紀末前後とします。そしてかめ焼谷3号窯跡のものは、口縁端部にシャープさがなく、より後出的な要素をもつとして、「12世紀でもあまり下らないであろう」 と推定します。こうした一連の作業によって渡部氏は、十瓶窯跡群全体の推移を描くことに成功します。
十瓶山西村遺跡西村北地区 

 同じ頃に西村遺跡の調査を担当した廣瀬常雄氏は、この遺跡から大量に出てくる古代末~中世前期の土器編年を試みます。
これらの土器は、高台の付いた椀を中心としていましたが、同じ形態・技法でありなが ら焼成は不安定で、土師質・瓦質・ 須恵質と多様な様相を見せます。廣瀬氏 はその中でも「良好なカワラ質の土器」を「瓦質土器」と名付けて、土師器・黒色土器 とともに図10表のようなの編年表を示します。

十瓶山窯跡編年表
 廣瀬氏の編年作成の手法を見てみると、次のように遺構を3つに区分します。
土師器・黒色土器が出てくるる遺構 (遺構A)、
土師器・黒色土器・瓦質土器が出てくる遺構 (遺構 B)、
土師器・瓦質土器 を出土する遺構 (遺構 C)
そして椀以外の共伴内容を示 してA~ Cの3時期に大別できることを示します。その上で型式による細別を行っています。このようにして設定された1~9期の編年表で、西村1号窯跡灰原出土の黒色土器椀は3期に相当します。
①ここから3期を11世紀末頃
②4期は西村1号窯跡例よりも新しい須恵器甕があるので、12世紀前半
③6期の資料が出てきた溝から出土した輸入磁器から、6期を12世紀末葉~13世紀初頭。

以上の相対的な型式幅から1期は10世紀には遡らず、9期は14世紀には大きく入り込まないと想定します。この編年表によると、瓦質土器は3期に出現したことになります。このように廣瀬編年は、出土土器の一括性を考慮しながら設定されたものです。また型式的にも径
高指数がほぼスムーズな変化を示すので、ほぼ妥当なものであると評価されるようになります。

 しかし瓦質土器の系譜については、謎のままです。
瓦質土器は須恵器生産との関連があると考えられてきましたが、具体的には「どのような流れの中で生まれてくるものなのかが明確 にできなかった」と述べています。
 それは、西村1号窯跡に続くかめ焼谷 3号窯跡の年代が、「12世紀でもあまり下らない」とされ、瓦質土器生産が盛んになる頃には須恵器生産が衰退していたと理解されていたことと関連があるようです。
こうした実年代観に対して、異論が出されるようになります。
大山真充氏 は昭和60(1985)年に再検討を行い、それまでと異なった年代観を提示します。
大山氏が先ず指摘したのは、平安後期須恵器の実年代の重要な定点であった西村1号窯跡の瓦は、鳥羽南殿出土瓦とは同時代のものではないという点で、次のように述べます。
「1号窯出土瓦は鳥羽南殿出土瓦とは同文とはみなすことはできず、このため、年代推定についてもこれを白紙に戻して考えなければならないだろう」

 代わりに大山氏が示したのが、讃岐国分寺(昭和59年度調査のSDI最下層から西村産とみられる黒色土器椀 (4期)と 和泉型瓦器椀 (尾上編年II-2期 )が同時に出土したことです。そして4期を12世紀中葉と修正します。
 その後、高速道路やバイパスに伴う大規模発掘が進むと、県内各地で中世集落の調査事例が激増します。その結果、西村9期の瓦質椀と十瓶山窯跡で作られた須恵器甕が共伴する報告が増えます。こうして、13世紀代には両者が併存関係にあったことが分かってきます。 
 この上に立って荻野繁春氏は、西村遺跡出土の瓦質捏鉢や壷などを甕同様に中世須恵器系陶器として位置付けて次のような序列を示します。
西村 2号窯跡→西村 1号窯跡→赤瀬山 2号窯跡→かめ焼谷 3号窯跡・西村遺跡山原地区N14-SK03→ 西村遺跡山原地区S5-SK01

 こうなると次には、十瓶山窯跡群の終焉期の実年代 と、「瓦質土器」の関わりを整理し直す必要が生れます。
これに応えたのが片桐氏と佐藤氏で、新たな編年案を提示します。
まず片桐氏は、讃岐の中世土器を概観する中で、西村産の瓦質土器とされてきた椀・杯・小皿を須恵器の範疇で捉え直します。続いて瓦質捏鉢も須恵器とし、形態的な変化から細かく分けます。さらに、平安前期から鎌倉時代の須恵器を消費地の資料も援用しながら13小期 に細分します。
 この際に平安時代前期の標識窯にすべっと2号窯跡やかめ焼谷1号窯跡を、また平安時代後期初頭の西村2号窯跡に先行する標識窯として団子出窯跡を想定して渡部氏の変遷観をより細分します。これらの考察を通じて、甕以外の捏鉢・壺・椀などの器種が12世紀後葉に須恵質から瓦質へ変化することを指摘します。こうして須恵器と西村産瓦質土器との系譜関係に新たな解釈を示しました。

十瓶山須恵器編年
同じ頃に佐藤氏は、十瓶山窯跡群の須恵器編年案を提示します。
編年にあたって佐藤氏は、まず器種構成上の変化から第 I~ Ⅳ期の設定を行います。その上で各時期に特徴的で普遍的な器種によって細分化し、次のように指摘します。
①第Ⅱ期に蓋杯の法量分化がはっきりとあらわれないこと
②第Ⅲ期の器種構成に輸入磁器を模倣しようとする指向が薄いこと
③第Ⅳ期への転換が器種構成の大きな断絶を伴うが、一方で捏鉢・甕に形態的な連続性も認められること
 そして、また片桐氏の指摘と同じようにⅣ段階 (12世紀中葉~後葉)に軟質製品が多くなることを西村産瓦質土器でも明らかにします。
十瓶山  西村1・2号窯跡出土

 一方、羽床正明氏は文献史学的立場から平安時代後期の十瓶山窯跡群の生産体制を考察します。
 羽床氏は平安京の鳥羽南殿から出土した讃岐系瓦が、讃岐国守高階泰仲の成功行為によって生産されたことを認めながらも、実際の瓦生産への関与は伝統的な郡司層で在庁官人でもあった綾氏によって行なわれた点をより重視し、次のように述べています。
「鳥羽南殿の造営に際して、讃岐国遥任国司高階泰仲は京にあって、任国の在庁官人に瓦を焼くよう国司庁宣を下し、その意を受けて在庁官人である綾氏が陶の須恵器 (瓦 )生産者を率いて、瓦生産に当たった」

 また別稿では、鎌倉・室町時代の史料にみえる「陶保」の設定目的を11世紀に燃料供給源である山林の保護するためのものとして、須恵器・瓦生産のために国衛が設定したものとします。
十瓶山 すべっと4号窯跡出土5

渡部氏は、平安時代の須恵器生産に停滞的な面を強調し、中世須恵器生産への転換を否定的に捉えました。それに対して地元の片桐孝浩氏と佐藤氏は、中世生産地への転換を積極的に捉える立場をとります。
片桐氏は、11世紀第2四半期 に大宰府周辺地域との技術的な交流の結果、「底部押し出し技法」による椀が出現すること。同時期に西村遺跡への須恵器・土師器工人が集住することによって生産組織の再編が行なわれたとします。
 佐藤氏は、時期別の窯跡分布状況から十瓶山窯跡群の生産構造について次のよう点を指摘します
①綾川に面した庄屋原窯跡群 (A一 b支群)では、8世紀前葉~10世紀前葉に継続的に窯場が操業していたこと
②十瓶山北東麓のすべっと窯跡群 (C一 e支群)では、9世紀後葉~10世紀前葉に響窯とロストル式窯による器種別の生産が行なわれたこと
③12世紀後半の西村遺跡の本格的な集落 (窯場)形成と、14世紀のかめ焼谷203号窯跡への甕生産の集約化によって、器種別分業を支える固定的な窯場経営が定着したこと
そして、③の動きを中世的な生産への転換と捉えます。

最後に十瓶山窯跡群の窯について、見ておきましょう。
十瓶山 窯跡群の断面図
十瓶山窯跡群の断面図

研究者は次のような特徴を指摘します。
①燃焼部から煙道部に至る窯体基底線が直線的であり、窯体幅に急激な変化が認められない。
②床面平均傾斜が25°前後のものが大部分で、10°前後の緩い床面傾斜いタイプの窯はない。
②規模は全長 7m前後、幅1、5m前後のものが多い。
④半地下式のものが大半であり、地上・半地上式のものはほとんど見つかっていない。
⑤窯は8世紀に採用された構造を改良することなく、終焉期を迎えている

12世紀後半以降の各地の中世須恵器生産地では、穴窯の床面傾斜が次第に緩くなる傾向があるようです。
十瓶山 窯跡群の断面図

 また分焔柱を設けたり(亀山窯)、障焔壁を備えたり(亀山窯・東播系諸窯)するなど、東海地方の姿器系陶器窯との技術交流の成果から窯体構造の改良が見られます。こうした動きと比較すると十瓶山窯の焼成技術の固定・保守的で「技術革新」が見られないようです。新たな改良点を上げるとすれば、「馬の爪」状の焼き台が12世紀に採用されているだけです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献  「綾南奧下池南遺跡 発掘調査報告 1996年」

須恵器 蓋杯Aの出土分布地図jpg
 7世紀後半は、三野・高瀬窯で生産された須恵器が讃岐全体の遺跡から出てくる時期であることは、前回に見たとおりです。「一郡一窯」的な窯跡分布状況の上に、その不足分を三豊のふたつの窯(辻・三野)が補完していた時期でもありました。7世紀後半の讃岐における須恵器の流れは、西から東へという流れだったのです。
 ところが、奈良時代になると三野・高瀬窯群の優位は崩れ、綾川町の十瓶山(陶)窯群が讃岐全土に須恵器を供給するようになります。十瓶山窯独占体制が成立するのです。これは劇的な変化でした。今回は、それがどのように進んだのかを見ていきたいと思います。  テキストは  「渡部明夫・森格也・古野徳久 打越窯跡出土須恵器について 埋蔵物文化センター紀要Ⅳ 1996年」です。 

 7世紀前半は讃岐の須恵器窯跡群と大型横穴式石室墳の分布は、郡域単位でセットになっていること、ここからは古墳の築造者である首長層が、須恵器の生産・流通面で関与していたと研究者は考えていることを、前回にお話ししました。その例を十瓶山窯群と神懸神社古墳との関係で見ておきましょう。
須恵器 打越窯跡地図

神懸神社古墳は、坂出平野南方の綾川沿いの山間部にある古墳です。古墳の周辺は急斜面の丘陵が迫っていて、平地部は蛇行して北流する綾川が形成した狭い氾濫原(現府中湖)だけです。このような耕地に乏しい地域に、弥生時代の集落の痕跡はありませんし、この古墳以外に遺跡はありません。四国横断道建設の予備調査(府中地区)でも、遺構・遺物があまりない地域であることが分かっています。
 ということは神懸神社古墳は、耕地開発が困難な小地域に、突如として現れた古墳と云えるようです。しかも、出土した須恵器や石室構造(無袖式)からは、新規古墳の造営が激減する7世紀中葉(T K 217型式相当)になって造られたことが分かります。つまり終末期の古墳です。7世紀中葉というのは、白村江敗北の危機意識の中で、城山や屋島に朝鮮式山城が造営されている時期です。そして、大量の亡命渡来人が讃岐にもやってきた頃になります。神懸神社古墳の背景には、特異な事情があると研究者は推測します。
研究者が注目するのが、同時期に開窯する打越窯跡です。
打越窯跡は、この古墳の南西1㎞の西岸にあった須恵器生産窯です。この窯跡を発見したのは、綾川町陶在住の日詰寅市氏で、窯跡周辺の丘陵がミカン畑に開墾された1968(昭和43)年頃のことでした。分布調査で、平安時代の須恵器窯跡を確認し、十瓶山窯跡群が綾川沿いに坂出市まで広がっていたことを明らかにしました。採集された資料を、十瓶山窯跡群の踏査・研究を続けられてきた田村久雄氏が見て、十瓶山窯跡群における最古の須恵器窯跡であることが明らかにされます。
 その後、研究者が杯・無蓋高杯・甕・壺脚部の実測図を検討して、7世紀前半~中頃のものと位置づけます。つまり、打越遺跡は、十瓶山を中心に分布する十瓶山窯須恵器窯の中でもっとも古い窯跡であるとされたのです。こうして、陶窯跡群の成立過程を考えるうえで重要な位置を占める遺跡という認識が研究者のあいだにはあったようです。しかし、打越窯跡自体は開墾のため消滅したと考えられていました。
 そのような中で1981(昭和56)年になって、打越窯跡のある谷部が埋め立てて造成されることになり緊急調査が行われました。発掘調査の第5トレンチの斜面上部には、灰と黒色土を含む暗赤褐色の焼土が約10㎝の厚さに堆積していました。また、良好な灰原が残っていて、大量の須恵器が出てきたのです。出土した遺物は、コンテナ約220箱にのぼりますが、すべてが須恵器のようです。報告書は、遺物を上層ごとに分けることが困難なために、時代区分を行わずに器種で分け、次に形態によって分けて掲載されています。

須恵器 打越窯跡出土須恵器2
打越窯跡出土の須恵器分類図
 打越窯跡から出てきた須恵器はTK48型式相当期のもので、先ほど見た神懸神社古墳の副葬品として埋葬されていたことが分かってきました。神懸神社古墳には初葬から追葬時期まで、打越窯跡からの須恵器が使われています。見逃せないのは室内から窯壁片が出ていることです。両遺跡の距離からみて、偶然混入する可能性は低いでしょう。何かの意図(遺品?)をもって石室内に運び込まれたと研究者は考えています。
須恵器 打越窯跡出土須恵器
          打越窯跡出土の須恵器
 打越窯跡で焼かれた須恵器(7世紀)をみると、器壁の薄さや自然釉の厚さなどから、整形、焼成技術面で高い技術がうかがえるようです。讃岐では最も優れたに工人集団が、ここにいたと研究者は考えています。どのようにして先進技術をもった工人たちが、ここにやってくることになったのでしょうか。それは、後で考えることにして先に進みます。
 以上から、この古墳に眠る人たちは打越窯跡の操業に関わった人たちであった可能性が高いと研究者は考えます。
彼らは窯を所有し、原料(粘土・薪)を調達し、工房を含めた窯場を維持・管理する「窯元」的立場の階層です。想像を膨らませるなら、彼らは時期的に見て白村江敗戦後にやってきた亡命技術者集団であったかもしれません。ヤマト政権が彼らを受けいれ、阿野北平野の大型石室墳の築造主体(在地首長層=綾氏?)に「下賜」したというストーリーが描けそうです。それを小説風に、描いてみましょう。
 綾氏は、最先端の須恵器生産技術をもった技術者集団を手に入れ、その窯を開く場所を探させます。立地条件として、挙げられのは次のような点です。
①綾川沿いの川船での輸送ができるエリアで
②須恵器生産に適した粘土層を捜し
③周辺が未開発で照葉樹林の原野が広がり、燃料(薪)を大量を入手できる所
④綾氏の支配エリアである阿野郡の郡内
その結果、白羽の矢が立てられたの打越窯跡ということになります。
 こうして、7世紀後半に打越窯で須恵器生産は開始されます。ここで作られた須恵器は、綾川水運を通じて、綾氏の拠点である阿野北平野や福江・川津などに提供されるようになります。しかし、当時の讃岐の須恵器市場をリードしていたのは三豊の辻窯群と三野・高瀬窯群であったことは、前回見たとおりです。この時点では、打越窯では他郡への移出が行えるほどの生産規模ではなかったようです。

須恵器 府中湖
府中ダムを見晴らす位置にある神懸神社
 窯を開設したリーダーが亡くなると、下流の見晴らしのいい場所に造営されたのが神懸神社古墳です。
その副葬品は、打越窯で焼かれた須恵器が使われます。また、遺品として打越窯の壁の一部が埋葬されます。それは、打越窯を開いたリーダーへのリスペクトと感謝の気持ちを表したものだったのでしょう。打越窯での生産は、その後も継続して行われます。そして、一族が亡くなる度に追葬が行われ、その時代の須恵器が埋葬されました。
  そうするうちに、打越窯跡周辺の原野を切り尽くし、燃料(薪)入手が困難になってきます。窯の移動の時期がやってきます。周辺を探す中で、見つけたのが十瓶山周辺の良質で豊富な粘土層でした。彼らは打越窯から十瓶周辺へ生産拠点を移します。こうして十瓶山窯群の本格的な操業が開始されていきます。
須恵器 讃岐7世紀の窯分布図
讃岐の須恵器生産窯(7世紀)

 7世紀後半には、讃岐では大規模な須恵器生産窯の開設が進みます。那珂郡の奧部の満濃池東岸窯跡や香南の大坪窯跡群のように、原料不足のためか平野部の奧の丘陵地帯に開かれる窯が多くなるのが特徴です。こうして発展の一途をたどるかにみえた讃岐の須恵器窯群です。
 ところが、8世紀になると一転してほとんどの窯が一斉に操業停止状態になります。そんな中で、陶窯跡群だけが生産活動を続け、讃岐の市場を独占していきます。各窯群を見ておく、庄岸原窯跡・池宮神社南窯跡・北条池1号窯跡などをはじめとして、北条池周辺に8世紀代の窯跡が集中し、盛んな窯業活動を展開します。
 須恵器生産窯の多くが奈良時代になると閉じられるのは、どうしてでしょうか?
その原因のひとつは、7世紀中頃に群集墳築造が終わり、副葬品としての須恵器需要がなくなったことが考えられます。もうひとつは、この現象の背景には、もっと大きな変化があったと研究者は考えています。それは、律令支配の完成です。各地で須恵器生産を管理していた地域首長たちは、律令体制下では各郡の郡司となっていきます。郡司はあくまで国衙に直属する地方官にすぎません。古墳時代の地域支配者(首長)としての権力は制限されます。また、律令時代にすべての土地公有化され、燃料となる樹木の伐採を配下にいる須恵器工人に独占させ続けることができない場合もでてきたかもしれません。原料である粘土と、燃料である薪の入手が困難になり、生産活動に大きな支障が出てきたことが考えられます。
 これに対して陶窯跡群は、讃岐で最も有力な氏族である綾氏によって開かれた窯跡群でした。
 陶窯跡群の周辺には広い洪積台地が発達しています。これは須恵器窯を築造するためには恰好の地形です。しかも洪積台地は、水利が不使なためにこの時代には開発が進んでいなかったようです。そのため周辺の丘陵と共に照葉樹林帯に覆わた原野で、豊富な燃料供給地でもあったことが推測できます。さらに、現在でも北条池周辺では水田の下から瓦用の粘土が採集されているように、豊富で品質のよい粘土層がありました。原料と燃料がそろって、水運で国衙と結ばれた未開発地帯が陶周辺だったことになります。

 加えて、綾川河口の府中に讃岐国府が設置され、かつての地域首長が国庁官人として活躍すると、陶窯跡群は国街の管理・保護を受け、新たな社会投資や、新技術の導入など有利な条件を獲得したのではないかと研究者は考えています。つまり、陶窯跡群が官営工房的な特権を手に入れたのではないかというのです。しかも、陶窯跡群は須恵器の大消費地である讃岐国衙とは綾川で直結し、さらに瀬戸内海を通じて畿内への輸送にも便利です。
 律令体制の下では、讃岐全域が国衙権力で一元的に支配されるようになりました。これは当然、讃岐を単位とする流通圏の成立を促したでしょう。それが陶窯跡群で生産された須恵器が讃岐全域に流通するようになったことにつながります。陶窯跡群が奈良時代になって讃岐の須恵器生産を独占するようになった背景には、このように綾氏の管理下にある陶窯群に有利に働く政治力学があったようです。

 先ほど見たように陶窯跡群の中で最も古い窯跡は、打越窯でした。
当時は、
この窯で作られた須恵器が、器壁の薄さや自然釉の厚さ、整形、焼成技術などの面から見て技術的に最も優れた製品でした。それを作り出せる工人集団が存在したことになります。そして、そういう工人集団を「誘致」できたのが綾氏だったことになります。それは三野郡の丸部氏が藤原京の宮殿瓦を焼くための最新鋭瓦工場である宗吉窯群を誘致できた政治力と似通ったものだったと私は考えています。
 讃岐では最も優れたに工人集団がここにいたという事実からは、「綾氏 → 国衙 → 中央政府」という政治的なつながりが見えてきます。つまり奈良時代になると、最新技術やノウハウが国家を通じて陶窯群に独占的に注ぎ込まれたとしておきましょう。こうして陶窯跡群は、讃岐一国の需要を独占する大窯業地帯へと成長して行きます。

10世紀前半の『延喜式』には、讃岐国は備前国・美濃国など八国と共に、調として須恵器を貢納すべき事が記されています。
10世紀には、讃岐国で須恵器生産を行っていたのは陶窯跡群しかないのは、先に見てきたとおりです。陶で生産された須恵器が綾川を川船で下って、河口の林田港で海船に積み替えられて畿内に運ばれていたことになります。それは、7世紀末の藤原京の宮殿造営のための瓦が三野郡の宗吉産から海上輸送されたいことを考えれば、何も不思議なことではありません。陶窯跡群の須恵器が中央に貢納されるようになった時期や経緯は分かりません。その背景には、讃岐の須恵器生産を独占していた陶窯跡群の存在があったと研究者は考えています。官営的なとして陶窯跡群の窯業活動が国衛によって管理・掌握されていたことが、国衙にとっては都合が良かったのでしょう。
 讃岐国が貢納した須恵器は、18種類3151個になります。これだけの多種類のものを造り分ける技術を持った職人がいたことになります。7世紀後半に讃岐全体に須恵器を提供していた三野・高瀬窯群に、陶窯群が取って代わってしまったのです。
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参考文献
 「渡部明夫・森格也・古野徳久 打越窯跡出土須恵器について 埋蔵物文化センター紀要Ⅳ 1996年」 
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