木地師(きじし)のことが、東祖谷山村誌に載せられていました。これを今回は読書ノート代わりにアップします。まずは、木地師についてのアウトラインを「ウキ」で押さえておきます。
①木地師とは轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品(挽物)を加工、製造する職人で、ろくろ師とも呼ばれた。
②伝説では近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)に隠遁した惟喬親王が、手遊びに綱引ろくろを考案し、周辺の杣人に木工技術を伝授し、日本各地に伝わったと言う。
③惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称する人たちは「朱雀天皇の綸旨」の写しを持って、全国の山々に入り込み、7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を主張した。
④綸旨や由緒書の多くは、江戸時代の近江筒井神社の宮司・大岩助左衛門重綱の偽作であるが、木地師が各地に定住する場合に有利に働いた
⑤木地師は良質な材木を求めて20〜30年単位で、山中を転々と移動しながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。
⑥中には移動生活をやめ集落を作り、焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。
筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)と木地師
江戸時代に入ると木地師達は、次のどちらかの神社の氏子に登録されていきます
A 惟喬親王の霊社を祀った神祗官の白川家擁する君ガ畑村(東近江市君ヶ畑町)の大皇太神(鏡寺)B 神祗官の吉田家擁する蛭谷村の筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)
両社は、それぞれ自分たちを木地師の氏神と称し、競って自社の氏子に登録していくようになります。これを「氏子狩」と呼んだようです。こうして総代代理と称する勧進僧が近江からやってきて、寄進を募るようになります。これが「氏子駆」で、その寄進の「勧進帳」が両社には数多く残されています。これを見ると幕末には、木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたことが分かります。
祖谷山に木地師がいたことをしめす一番古い史料を見ておきましょう。
阿波国田井庄中西郷之内轆轤師得銭、取前御方参上、者当知行不可有相違候状如件康暦二(1343)年十二月十五日阿波守 花押国藤治部亮殿
意訳変換しておくと
阿波国田井庄中西郷の内の轆轤(ろくろ)師得銭(徳善)を、御方に与える。よって当知行について相違なきことを記す。如件①康暦二(1343)年十二月十五日②阿波守(細川頼之)花押③国藤治部亮殿
①年号は康暦(こうりゃく)2年で、1380年にあたります。南北朝時代の末期です。
②花押の上には阿波守とあります。当時の阿波守は細川頼之になります。
③宛先の国藤治部亮は、徳善治部の子になるようです。
③の国藤治部亮の父・得善治部は、河内国出身で楠木正成の臣下と称します。南朝のため軍勢を募る目的で阿波にやってきて、西祖谷山に定住し、その開墾地を得銭と名付けます。のちに徳善と改め、徳善氏を名のります。吉野南朝方として活動しますが、康暦二年(1380)に細川頼之の阿波制圧に対して降伏して、安堵状を得たようです。この時に安堵された領地が「阿波国田井庄中西郷内の轆轤(ろくろ)師得銭(徳善)」ということになります。ここからは、南北朝時代に木地師達が祖谷山の徳善に定住していたことがうかがえます。これが最も古い木地屋に関する記録になるようです。ちなみに、この前年は「康暦の政変」で、室町幕府管領の細川頼之が失脚し、讃岐の宇多津に「帰国」した年になります。細川頼之は帰国後に、阿波への南朝残党軍の攻略を進めたとしておきます。
東祖谷山村誌は、さらに次のような推測をします。
徳善氏が南朝動乱期において、木地師たちを保護したのではないか。それは、木地師たちの持つ「職業的機動性」と「全国的なネットワーク」を活用し、熊野行者と同じように、南朝の機動部隊として飛耳張目して諜報伝令の役にあたったと研究者は推測します。木地師達は徳善氏の保護を受けて、周辺へと入植していきます。ここでは南北朝時代に、現在の徳善に「ろくろ師」の集落があったことを押さえておきます。
木地師の最初の入植地? 大歩危駅周辺の徳善・榎・西岡
①榎を中心として、吉野川対岸の山城町の六呂木・下名②榎から北東の吾橋・徳善・西岡と分裂・発展しながら、東北に移動
西岡から東に伸びる尾根づたいに祖谷川に出て、今久保・中尾・閑定の山地に小屋を構え、さらに上流へと移動していきます。彼らの活動が、記録で確認できるのは18世紀になってからです。
木地師の転居
近江筒井八幡宮の「氏子駈帳原簿第十一号」には、氏子駈巡国人が、阿波の「いや谷・一宇山・みふち(深渕)」に、享保二十(1735)年9月に入山したことが記されています。これが「氏子駈」としては、一番古い史料になるようです。そこに記されている「氏子寄進リスト」を見ておきましょう。美馬郡一宇山と三好郡祖谷谷の木地師の寄進リスト
中木屋と木屋平のリスト
ここからは、深淵・木屋平・美馬郡一宇山・三好郡祖谷山に、これだけの木地師達がいたことが分かります。ひとりの木地師は「初尾+氏子+きしん(寄進)」の3点セットとなっています。「初尾」は、 神仏に供える金銭や米です。平安時代中期ごろから「初穂」を「はつを」と発音するようになり、中世以降は「初尾」と書くようになります。氏子は「氏子料」・きしんは「寄進料」・えぼしは「烏帽子料」でしょう。
ここからは、18世紀前半になると伊勢講の御師のように、 近江筒井八幡宮の氏子駈巡国人が祖谷山周辺にもやってきて、木地屋たちから「氏子料集金」を行ったことが分かります。それから百年後の天保3年にも、氏子駈巡国人はやってきて次のような寄進リストを残しています。一番右に「同国美馬郡葛生(葛尾?)山木地師」と見えます。
1832年 名頃の木地師の寄進リスト
祖谷山の木地師たちは、どんな生活を送っていたのでしょうか
画題 祖谷山当丸絶頂望菅生名諸山年表秘録に曰く、文政11年9月卯上刻公(蜂須賀斉昌)祖谷山御見分御出。同27日未中刻御帰城。
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19世紀前半に、藩主の祖谷山巡回に従った絵師の渡辺広輝(ひろてる)が残した「祖谷山絵巻(17面)」の中には、木地師の家と題された一枚があります。題目は「木地挽小屋全図」で、遠景の註に「土佐境」とあります。この絵図からは次のようなことが読み取れます。
A ①土佐境の祖谷山山中に3軒の木地師の小屋が並んで建っている。
B ②一番右の小屋からは煙が上がり、その前に②干し物が干されている。また周りにはろくろで削った④木屑が盛り上げられている。
C 小屋の周辺には、③のような切株が数多く見えて、材料のために周辺の森が切り倒されている。
D 右から二番目の小屋には、面に⑤木材が数多く立て掛けられていている。乾燥して材料とする木材だろうか?
E 水桶と樋が見えるので、⑥水場が確保できていることが分かる
この絵に描かれた木地師の家も、主屋・作業小屋・乾燥小屋など、作業用途に応じて建てられていた気配がします。そうだとすると、ここにいるのは一家族だけになります。
御出仏山・明神山方面(祖谷山絵巻)
弘化四年(1847)2月、医師陳々斉の随筆・診療日録『俗話集』には、当時の木地小屋のことが次のように記します。
「はるかの谷間より同じくヲヲイと答えるにぞ嬉しくも、さては是なん木地屋の家居より答えるならんと思ひつつ、行けども行けども時ならぬ霧がくれにして、行先き一向さだかならねども折々人の声も聞へける程に、間ものふ心ざす方へ無恙(つつがなく)当(到か)着して、うろ/ヽ見廻し見れば、二間半四方程の小屋二軒あり、いづれも桜や槙などの皮にて屋根を葺き、ぐるりの囲いも同じく、殊に滝の端に細長き木にて椰をあみたるうへゝ、彼木の皮をしき、其上へむしろ様の物を並べてある也。さて西方が亀吉とかいふ木地師也。東方は鶴太といふて、則ち此も疱瘡を病居るなり。いかさま八畳敷程もあるらん、坐の真中に大なるいろりをあけてあり。すさましき措木をくべて、中々暖かなる事なり。肝心の二便場(便所)をととへば、此所は一向、作付植物などいたさぬゅへ、不浄は無用の事故、彼(かの)小屋外の棚端より居捨て給へときけば、おかしくも又恐ろしく、いかさまと、こはごわ覗けば、誠に波風荒き海原に小船をつけし心地して、几そ二十四五間もあるべき滝下を望めば、中々、二便の気もなくならん」
意訳変換しておくと
「はるかの谷間からヲヲイと答えてくれることが嬉しく、これが木地屋の家からの返答だろうと思いつつ足を運ぶ。しかし。行けども行けども、霧が深く、行先は一向に見えてこない。折々、人の声が聞へてくるので、その声を頼りに、こちらだと思う方へ向かっていくと、なんとか到着した。うろうろと見廻して見れば、二間半四方程の小屋が二軒ある。どちらも桜や槙などの樹皮で屋根を葺いている。周りの囲いは、滝の端に細長き木で棚を編んで、木の皮をしき、その上へむしろのような物を並べてある。二軒の内の西方が亀吉という木地師で、東方は鶴太といい、疱瘡を患っている。中に入ると、八畳敷ほどの広さの坐の真中に、大きな囲炉裏が開けてあります。そこに多くのほだ木がくべられていて、暖かい。便場(便所)はどこかと問うと、ここでは一切、作物を作らないので、不浄は無用のことで、この小屋外の棚端からしたらよかろうとのこと。おかしくも恐ろしく、家のそばの滝をこわごわと覗き込んでみると、波風の荒い海原に小船を着けるような心地して、およそ25間も下の滝壺が見えてくる。これを見て、便気もなくなってしまった。」
ここからは次のようなことが分かります。
①二間半四方の小屋が二軒あって、木地師と疱瘡患者が生活していた
②小屋は樹皮の皮で屋根が葺かれている。
③大きな囲炉裏があって、ほだ木が大量にくべられてる。
④家は滝のすぐ近くに建っていたこと。
小島峠から菅生・久保方面(祖谷山絵巻)
大正11年(1922)折口信夫は木地屋のたたずまいを、次のように詠んでいます。(『折口信夫全集』第廿六巻 中公文庫版)高く来て、音なき霧のうごき見つ木むらにひびく、われのしはぶき篇深き山澤遠き見おろしに頼静音して、家ちひさくあり澤なかの木地屋の家にゆくわれのひそけき歩みは 誰知らめやも
有瀬(祖谷山絵巻)
近世阿波の漆器工業は、美馬郡半田村の敷地屋を中心に展開していきます。
竹内久雄が史料提供し、また自らも執筆した『うるし風土記 阿波半田』を見ておきましょう。享保二十年(1725)11月、土佐韮生(香美郡物部村)久保山に、筒井八幡宮の巡国人が到着し、周辺の木地屋から上納金を集金します。その中に、次のような記録があります。
一、三分 初尾 半田村二而ぬし屋(塗物師) 善六」『享保二十乙卯九月吉祥日 宇志こか里帳』(筒井八幡宮原簿十一号)
ここからは、善六がもともとは物部の木地師であったのが、半田に移って、「ぬし屋 (塗物師)」となっていたことが分かります。同時に享保の終り(1725年)には、半田地方に各地の木地師から白木地が送り込まれ、塗りにかけていたと研究者は考えています。
それから約20年後の宝暦八年(1758)に、半田漆器業の開祖といわれる敷地屋利兵衛が、31歳で半田村油免に漆器の店を開きます。その後、七人の兄弟と力を合わせて、家業は軌道に乗せます。そのころには三好・美馬両郡には、25世帯の木地師が住んでいたと云います。それが開業から42年後には、家族を含め304人に増えています。急速な発展ぶりがうかがえます。初代利兵衛は、天明元年に54歳で亡くなると、その子の亀五郎が15歳で稼業を継ぎます。敷地屋の略系を示すと、次頁のようになる。
それから約20年後の宝暦八年(1758)に、半田漆器業の開祖といわれる敷地屋利兵衛が、31歳で半田村油免に漆器の店を開きます。その後、七人の兄弟と力を合わせて、家業は軌道に乗せます。そのころには三好・美馬両郡には、25世帯の木地師が住んでいたと云います。それが開業から42年後には、家族を含め304人に増えています。急速な発展ぶりがうかがえます。初代利兵衛は、天明元年に54歳で亡くなると、その子の亀五郎が15歳で稼業を継ぎます。敷地屋の略系を示すと、次頁のようになる。
半田の敷地屋略系
祖谷の木地師たちは、各峠を越えて半田の敷地屋に白木地を納入するようになります。敷地屋による白木地の独占体制ができあがっていきます。半田の漆器工業は、藩の財源増収策の一環として保護され、販路を拡げていきます。2代目亀五郎が41歳の時には、苗字帯刀、大久保姓を許されます。文化8年(1811)には、塗物裁判所を開設し、翌年には亀五郎の長男善右衛門が、漆樹植付裁判役に就いています。
嘉永3年(1850)、4四代熊太は、江戸への市場拡大を計ります。藍商の志摩利右衛門の力を借りて、藩の御用船による製品の輸送を始め、江戸の霊岸島に支店を置いて、藩の倉庫を使用して営業を行うようになります。
こうして4代目の時代には、全国40ヶ所にまで販売網を拡げます。
これは急速な白木地の需要増大を招きます。祖谷山周辺の木地師に大量の注文が舞い込むようになります。半田漆器や木地師の繁栄のピークは、この時期だったようです。
半田の敷地屋の全国販路(1851年)
こうして4代目の時代には、全国40ヶ所にまで販売網を拡げます。
これは急速な白木地の需要増大を招きます。祖谷山周辺の木地師に大量の注文が舞い込むようになります。半田漆器や木地師の繁栄のピークは、この時期だったようです。
半田漆器は幕末に一時衰退しますが、明治半ばになって敷地屋の努力で復活します。明治20年の仕入れ帳には、木地挽150戸・塗師40戸・磨師100戸・蒔絵師30戸・指物大工60戸を参加に従え、年間販売高13,8万円とあります。
半田町史には、次のように記されています。
「木地を一字から木地屋の人々が持ってきて、半田の逢坂の一部落は、その塗師の集落であった。それらは、木地と塗料を敷地屋から受取り、家族が仕上加工した。塗るだけではなし、全部半田でするようになった。白木地で庸や箱を作る一種の家具大工と、塗るだけのものが分業し、あるいは両者を兼ねるものに分れ、三者合せて、大正十四年四月の調べでは、専業百戸、副業二〇戸位い」
東祖谷山村落合の木地屋、小椋竹松(1882~1965年)は、1950年4月(69歳)の時に、次のように語っています。
「私の一日の生産
「からすばち」のときは三〇個、「菓子ぼん」は、二〇〇個、吸物搬で静付で一五〇個ぐらい。背負うときは、小さい「菓子ぼん」なら四〇〇個、もみすくいなら五〇個を背中に負い、落合峠を越え、加茂山峠を経て、半田町の木内に達し、問屋の大久保へ製品を差出した」
「これらの加工品は、すべて米麦と代えていたが、日露戦争の直後、菓子ぼん五寸三分のもので、間屋渡しが一枚五厘であった」
以前に、落合峠は「塩の道」で祖谷村消費する讃岐の塩が運ばれたことをお話しました。しかし、木地師から見ると、名頃や落合の木地師達が作った白木地が半田に向けて運ばれた道でもあったようです。「木地師の道」とも呼べそうです。
敷地屋五代の弁太郎と長男の利美は、相次いで亡くなります。
そこで分家の亀吉の子甚吉が、本家の後継となりますが、漆器工業の前途を見限って、大正15年に廃業します。こうして職人は四散し、半田漆器は衰退します。ここでは半田の漆器工業は、享保から大正末まで、祖谷の木地屋たちから、二百余年にわたって、白木地の提供を受けていたことを押さえておきます。
敷地屋五代の弁太郎と長男の利美は、相次いで亡くなります。
そこで分家の亀吉の子甚吉が、本家の後継となりますが、漆器工業の前途を見限って、大正15年に廃業します。こうして職人は四散し、半田漆器は衰退します。ここでは半田の漆器工業は、享保から大正末まで、祖谷の木地屋たちから、二百余年にわたって、白木地の提供を受けていたことを押さえておきます。
半田漆器を、姫田道子氏がレポートしたものが「宮本常一と歩いた昭和の日本23」に載せられています。それを最後に紹介しておきます。
ところが竹内さんの仕事場には、膳などはあっても椀は見ることができません。私はそれが気になりました。どうしてお椀がないのかしら。竹内さんのお話では、椀をつくっていたのは、専ら敷地屋という半田では唯一の漆器問屋だったらしい。そして半田周辺の山や、半田の町なかに住んでいた木地師たちがつくった椀木地は、すべてその敷地屋に納められていたといいます。独占でした。また明治20年代の記録では、逢坂には40軒の塗師屋がありましたが、そのうちのほとんどが、敷地屋の賃仕事をしていたといいます。たぶん半田のお椀の大多数は、そういう家々によってつくられたのでしょう。
車で降り立ったところは、中屋といわれる山の中腹で陽が当たり、上を見上げると更に高い尾根がとりまいています。「あそこは蔭の名(みょう)、おそくまで雪が残るところ、馬越から蔭の嶺へと尾根伝いに東祖谷山の道に通じています。昔、木地師と問屋を往復する中持人が、この下のあの道を登り、そして尾根へと歩いてゆく」と竹内さんは説明して下さると、折りしも指をさした下の道を、長い杖を持って郵便配達人が、段々畑の柔らかな畦道を確実な足どりで登って来ました。平坦地から海抜700mの高さまで点在する半田町の農家をつなぐ道は、郵便配達人が通る道であり、かつては木地師の作る椀の荒挽を運ぶ人達の生活の道でもあったのです。
半田敷地屋の生産関係図(東祖谷村誌)
東祖谷山村の落合までは直線距離で25キロ、尾根道を登り降りすると40キロ。陽の高い春から秋にかけては、泊まらずに往復してしまう中持人もいたとか。さすがプロです。しかも肩に担う天秤棒にふり分け荷物で13貫(約50㎏)という重量があり、いくつも難所があったのに町から塩、米、麦、味噌、醤油、衣料、菓子類までも持ってゆき、そして半田の里にむけての帰り道は木地師が作った木地類を持ち帰ります。運賃の駄賃をもらう専門職でした。
半田から南東の剣山の麓近くの村、一宇村葛籠までは、峠を越え尾根道をゆき渓谷ぞいの道を歩いて25キロ。竹内さんはここで昔、木地師をしていた小椋忠左ヱ門さん夫妻をさがし当てました。51年の1月と51年の秋に二度訪れております。おそらく阿波の山でこの方ひとりが半田漆器と敷地屋とに、かかわりを持った最後の木地師ではないかと思われます。
木地師の山(岳人)
以上をまとめておきます
①祖谷山の木地師は、吉野川沿いの徳善や榎・西岡に入植した
②南北朝末期の徳善氏の記録に「轆轤師得徳」と地名が出てくることが、それを裏づける。
③以後、切り尽くせば、さらに奥地に良質な木を求めて、祖谷側上流へと移動していく。
④実際の、木地師としての活動がうかがえる史料は「氏子駈帳」で、18世紀の前半に祖谷山村周辺での活動が見えてくる。
⑤19世紀には藩主お抱え絵師が残した「祖谷山絵巻」に、土佐国境附近での木地師小屋が描かれていて、活動の一端がうかがえる。
⑥祖谷山周辺の木地師は、半田の敷地屋に材料を下ろすようになり、安定的な生産活動が始まる。
⑦しかし、近代化の中で漆器の先行きに不安を感じた敷地屋は、今から約百年前の1926年に稼業を畳んだ。こうして、祖谷山村周辺の木地師たちも製品の卸先を失い、衰退していくことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
東祖谷山村誌258P 祖谷における「ろくろ師」の発生
竹内久雄編集 『うるし風土記 阿波半田』東祖谷山村誌258P 祖谷における「ろくろ師」の発生
姫田道子 半田漆器レポート? 宮本常一と歩いた昭和の日本23