瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:新堀湛甫

     金毘羅参詣名所図会  1848年
     金毘羅参詣名所図会

弘化4(1847)年に『金毘羅参詣名所図会』が発行されます。
この図会は、大坂の戯作者である暁鐘成が出版したもので、画家の浦川公佐を連れて、実際に讃岐への取材旅行をおこなっています。53歳の真夏の事なので、暑さのために大変な旅でもあったようです。 金毘羅参詣名所図会は、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。これを使って、丸亀港に上陸した暁鐘成や浦川公佐が見た19世紀半ばの丸亀街道を追体験していこうと思います。図会は全6冊で、第一巻冒頭に次のように記されています。

「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
「摂津・播磨の海辺については以前出版されたものに詳しいため、今回は備前の海辺から著すこととした」

 ここからは、上方から金毘羅船で丸亀を目指したことがことが分かります。そして「浪華川口」のあとは、一気に「虫明の迫門(せと)」に飛んで、備中の喩伽山や瀬戸の島々などがが取り上げられ、1巻目は備前で終わります。
丸亀からの金毘羅詣でが描かれるのは2巻目です。
追い風に帆を上げた金毘羅船が丸亀港に向かうシーンから始まります。
金比羅船IMG_8033

  金比羅船の構造や大きさを見ると、19世紀前半に弥次喜多コンビが金比羅詣でに乗船した船は、上廻りに屋形がなく、苫がけ船だったことは以前にお話ししました。しかし、ここに描かれた金毘羅船は垣立が高く、大型の総屋形船になっています。これは樽廻船を金毘羅船用に改造したものと研究者は考えています。文化から弘化・嘉永期の40年の間に、船も大きく典型的な渡海船になったことが分かります。定員も数人だったのが何倍にも増えたことでしょう。金比羅船にも「大量輸送」時代がやってきていたようです。 この動きをリードしたのが大坂の平野屋左吉です。彼は、もともとは安治川の川口の樽廻船問屋でした。樽廻船を金毘羅船に改造して、堺筋長堀橋南詰に発着場を設けて、金毘羅船を経営するようになり急成長していきます。

次のページを開くと、入港地の丸亀港が向かえてくれます。
  丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 金毘羅参詣名所図会

 瀬戸内海上空から南の丸亀城を眺めた構図になっています。当時の絵図の流行は俯瞰図です。立体感のある俯瞰図は居ながらにして、風景が絵図で楽しめます。ドローン映像で、旅番組の構図が大きく変わったのと同じような意味を持っていたのではないかと私は考えています。
 ここでも正面に右(西)側に福島湛甫(文化3年1806竣工)、左(東)に新堀湛甫(天保4年1833竣工)とふたつの港が描かれています。そして汐入川の河口を遡った奧には丸亀城がどーんと控えます。絵になる光景です。新堀には、2つの大きな燈籠も並んでいます。どちらかが現在の太助灯籠になるようです。

金毘羅参詣名所図会の本文を、見ておきましょう。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
金毘羅参詣名所図会 圓(丸)亀湊

那河郡円(丸)亀湊 
讃岐国北の海浜なり。大阪より海陸ともに行程凡そ五十余里、下津丼より凡そ五里。
当津は幾内条より南海道往返の喉口なるゆへ象頭山の参詣、大師霊場の遍路、其のほか南海に到るの旅客、摂州浪花津より乗船の徒は言ふも更なり。陸路を下向の輩も或は田の口下村より渡り、又は下津丼より越る等何れも此方に着岸せずと言ふ事なし。されば東雲の頃より追々浪花よりの入船、向ひ路よりの着船引もきらず。又黄昏時よりは向ひ路への渡海、登船の出帆有りて船宿の賑ひ昼夜を分ず、浜辺の蔵々には俵物の水揚産物、積送の浜出し仲仕の掛声、船子の呼声藁しく湊口には縦横に石の波戸ありて紫銅の大灯籠夜陰を照し、監船所の厳重、浜々の石灯籠、魚市の群集、御城は正面の山岳に魏々として驚悟しく、内町には市邸軒をならべ交易にいとまなく、就中、籠の細工物、渋団、円座なんど名物也とて讐家多く、旅客かならず需めて家土産とするなど街の繁栄、実に当国第一の湊と言ふべし。城下の封境、寺院、神社の類ひは後編に委しく著はせばこゝに洩す。
  意訳変換しておくと
丸亀港は讃岐国の北の海浜に位置する。大阪より海陸ともに行程およそ五十余里で、対岸の備中下津丼からは5五里程である。この港は、上方からすると南海道往来の喉口になる。そのために金毘羅象頭山の参詣、四国霊場の遍路、その他の南海への旅客など、摂州浪花津より乗船する人々が数多くいることは知られたところである。陸路山陽道を下る輩も、児島の田の口下村や、下津井から船で渡ってこの港に着岸することは言うまでもない。そのため東雲の朝から浪花からの入船や、対岸備中路よりの着船が引もきらず行き交う。また、黄昏時からは備中からの渡海や、上方への上船の出帆も多く、船宿の賑わいは昼夜を分つことがない。
 浜辺の蔵々には俵物の水揚産物が収められ、積送の浜出し仲仕の掛声や船子の呼声が賑やか飛び交う。湊口には、縦横に石の波戸(堤防)が築かれ、その上に建立された紫銅の大灯籠が夜陰を照す。監船所(船番所)が置かれ、浜々の石灯籠、魚市の群集が浮かび上がる。丸亀城は背後の山々を従えて港の正面に建つ。内町には市邸が軒をならべ交易にいとまがない。そこでは、籠の細工物、渋団、円座などの讃岐の名物などを売る店が多く、旅客は必ず土産に買い求めていく。丸亀城下町の街の繁栄は、実に当国第一の湊というにふさわしい。城下の封境、寺院、神社などは、後編に委ねることにして、ここでは省略する。
〔閑田耕筆に守興和尚が話に云ふ〕
備前の下津居より船にて丸亀へ渡る。海上丸亀近くなりてはるかむかひに五尺斗りなる黒き澪標みゆさも深かるべき所に、いかに長き木をうちこみて斯くみゆるばかりにやと怪しくて船頭にとわれしかば、船頭見てあれは大亀の首を出したるなり。空曇なく海長閑なる日はかく首を出し、あるひは全身をも現す。昔より大小二亀すみて大なるは廿畳じきほどもあらん。小なるもさのみ劣らず、此のものゝ住めるがゆへにこゝを丸亀とは名付たりと語りしと云々。

意訳変換しておくと
備前の下津居から船で丸亀に渡っていたときの話です。丸亀が近づいてきた頃に、海の上に五尺ばかりの黒い澪標が打ち込まれたように突き出ていました。それはまるで、長い木をうち込んだようにみえたので、不思議に思って船頭に聞いてみました。すると船頭は次のように応えました。
「あれは大亀が首を出しているんですわ。空に曇や風がなく、海が穏やかな日には、あんなふうに首を出します。時には、全身を現す時もあります。このあたりには、昔から大小のふたつの亀が住み着いていています。大亀は二十畳敷ほどにもなります。小亀も、それと変わらないでしょう。この亀たちが住みついているので、ここはを丸亀と名付たようです。

福島湛甫ができる前の船着きは土器川河口の「川口」と呼ばれる自然の港で、干潮時には沖で潮待ちをしなければ上陸できませんでした。

丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の川口湊

 そのため福島湛甫が作られます。もとの船着き場でであった土器川河口周辺は、宇多津・坂出から移住させられた三浦(御供所・西平山・北平山)の人々が船宿や茶屋を営業して繁盛していました。彼らはただの漁民でなく、中世以来の海上運送業も数多くいて、商業活動を行っているものもいたのです。福島に港が移動するときには、彼らも移ってきたようです。さらに金毘羅船が大型化すると、港が浅い福島湛甫では入港できなくなり、新たに新堀湛甫が作られたとようです。福島湛甫=小型船、新堀=大型船という棲み分けがあったのかも知れませんが、絵図上からは読み取ることはできません。
丸亀城 福島町3
新堀湛甫が完成する前の丸亀港と福島

福島・新堀のふたつの港から上陸した客は、まず船宿に入り、船旅の疲れをいやし、陸路の準備をします。
 弥次喜多コンビの金比羅詣での際にもお話ししたように、船宿は金毘羅船の梶取りや船主が経営したり、タイアップしていました。そのため客は、船頭に連れられてそれぞれの宿に入ります。当時の引き札を見ると、大坂と丸亀・金毘羅の船宿が数軒ずつ並んで載せられています。ここからは大坂出発時点で、丸亀や金毘羅の宿か決まっていたことが分かります。つまり「金毘羅船の乗船券+丸亀・金毘羅の宿」がセット販売されていたことになります。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋2県デジタルアーカイブ
丸亀より金毘羅・善通寺・弥谷寺道案内図 版元原田屋

 旅人は、三里(約12㎞)の道を歩いて金毘羅へ向かう身支度や携行品の準備を宿で行います。
多くの参拝客は、金毘羅だけでなく善通寺・弥谷寺の七ヶ所巡りをして、丸亀に帰ってくるルートを宿に勧められるとおりに選んだので、不用な荷物は宿に預けたようです。宿は旅人のために、飲食物の供給、休憩・娯楽場所の提供、旅行用具・土産物の販売や接待に努めます。その以前に紹介した「金毘羅案内図」を無料で手渡しながら次のように勧めたのでしょう。
「金毘羅さんだけなく、この際に弘法大師のお生まれになった善通寺もぜひご参拝を」
「弥谷寺などの七ヶ所廻りも地元では、お参りするする人が多いですよ」
「お土産は途中で買うと、手荷物になって不便ですから、船に乗る前に当店でどうぞ、お安くしますよ」

  丸亀港の船宿を出た後に描かれるのが次の絵図です。

丸亀街道 田村、田村ノ池、山北八幡宮20111108_112757093
 丸亀街道 三ッ角(みつかど)の分岐点 金毘羅参詣名所図会

  金毘羅街道を馬に乗った参拝客が馬子に引かれて集団で進んでいます。進行方向は右から左のようです。その行く先の左上に山北八幡が見えます。また、右上には田村の集落を貫いて金毘羅街道が伸びています。そして右端中央には、田村池の東側の堤防が見えているようです。ここには枝振りのいい松があり、その下には大きな道標や常夜灯が並んでます。ここは、いったいどこなのでしょうか? 最初、私には分かりませんでした。金毘羅街道は、南に伸びているものという先入観があったからです。本文を読んでみましょう。

丸亀街道 中府口・三軒家
金毘羅参詣名所図会2巻 三軒家
中府口   
城下南の出口にして則ち金毘羅参詣の道条、是より行程百五十町と云ふ。
中府村  
城下の門外にて市中続きの在領也。左右人家建ち列り農工商ともに住す。
三軒家  
中府村の中なり。昔は僅か三軒のみなりしが繁栄に付き、今は人家軒を並べり。故に其の旧名をよべり。此所より道すじ左右に分れり。右は伊予街道にして善通寺に至る者は是に赴く。左は金毘羅参詣の往還にして道標の石、奉納の石灯籠等道の傍辺にあり。象頭山参詣の道条中府口より百五十丁の間は、都て官道にひとして路径広く高低なく、老幼婦女等も悩まざるの平地なり。其の上傍らの在郷より農夫あまた馬を引いで参詣の旅客を進めて乗らしむる事、三方荒神の櫓にして馬士唄うたひ連て勇める形勢、恰も伊勢参宮の街道に髣髴たり。
意訳変換しておくと
  三軒家
中府村の中で、昔は三軒だけした家がなかった。それが今では繁栄して、人家が軒を並べるようになった。ここから道筋に行くと、街道が左右に分かれた三叉路になる。右が伊予街道を経て善通寺へつながる道である。左が金毘羅参詣の往還で、道標や燈籠などが並んでいる。

象頭山参詣の道中で、中府口より百五十丁の間は、全て官道のようなもので路径は広く高低ないので、老幼婦女等にも容易な平地である。
 その上、在郷の農夫が馬を引いて参詣旅客に乗ることを勧める。三方荒神の櫓をつけて馬子唄を謡って、連れだっていく姿は、あたかも伊勢参宮の街道を彷彿とさせる。
 ここからは、この絵図が三間茶屋のすぐ南の三叉路であることが分かります。中府の大鳥居から400m程南へ進むとあるドラッグストア前の変形十字路(三つ角)です。明治初期までは南へ直進する道はなく、ここは行き止まりでT字の三叉路でした。そのため、この辺りは三ッ角(みつかど)とも呼ばれていたようです。ここが、伊予街道との分岐点だったようです。右(南西)へ進むと伊予街道です。ここに大きな道標や常夜灯があり、金毘羅街道と伊予街道への分岐点でもあったようです。

丸亀街道地図 丸亀城周辺

 そして、金毘羅街道は、三ツ角から山北八幡方向にむけて東へ進みはじめるのです。そして、県道33号線(旧国道11号線)を横切った後、骨付き鶏「一骨」のある丸戸の交差点まで東進し、そこで方向を再び南に変えます。つまり、ここまでのルートは丸亀城の西側を迂回してことになります。丸戸の交差点からは丸亀平野の古代条里制に沿って、ほぼ真っ直ぐに南下していきます。その南下する方向に田村池と田村集落が描かれいることになるようです。

丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋6 三軒家標識

   上図が三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」

 原田屋版の案内図に描かれている三軒家の三ッ角(みつかど)を見てみましょう。背後には田村池が描かれています。そして丸亀城の中府口からの道と三叉路でまじわった所に大きな道標や常夜灯が描かれています。西に伸びる道は金倉川を越えて「永井清水」で善通寺への金比羅多度津街道と交わります。ここが永井の交差点のようです。伊予街道はさらに鳥坂方面に続きます。
丸亀より金毘羅・善通寺道案内図 原田屋7 三軒家標識
⑨の三軒家の三ツ角 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」の拡大図
丸亀方面(北)からやってくると、左側の標識には
右 イヨ
左 こんぴら江
右側の標識には、
右 弘法大師 善通寺
と記されています。
最後に、参詣者を載せている馬と馬子を見ておきましょう。
丸亀街道 田村 馬子
枠付馬(三宝荒神の櫓)に乗った参拝客
丸亀港に金比羅船が着くと、争って客引きをしたのが馬方と駕龍屋のようです。駕龍は二人で担ぐ二枚肩の打ち上げ駕龍が普通でした。馬は枠付馬で(三宝荒神の櫓という)三人まで乗れました。駄賃は三人で三分、酒代一朱でしたが、馬子たちは客の懐を見て値を付けていたようです。馬や駕寵の終点は、金毘羅二本木の銅鳥居の下で、現在の高灯籠のところです。三方荒神の櫓に揺られながら馬子唄を謡って、連れだっていく姿がここには描かれています。馬子唄がどんな歌詞で、どんなメロデイであったのかを今は知ることはできません。
  今回は三軒屋の三ッ角(みつかど)までとなりました。以下は、またの機会に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史 819P
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丸亀港2 福島湛甫・新堀湛甫
丸亀港 福島湛甫と新堀湛甫が並んで見える
 
19世紀になると金比羅船で上方からやって来る参拝客が激増して、受入港の丸亀は大賑わいとなります。そのため新たに、丸亀藩では福島湛甫や新堀湛甫を建設して、参拝客の受入対応が整備されていきます。その結果、船宿や旅籠や茶屋やお土産店などが数多く立ち並ぶようになり、観光産業が港周辺には形成されていきます。
 彼らの中には、参拝客獲得の客引きのために金毘羅案内図を無料で配布する者も現れます。これは、大坂の船宿が金毘羅船の航路図を配布していたのと同じやり方です。案内図を渡しながら次のような声かけを行ったと私は想像しています。
「金毘羅大権現だけでなく、弘法大師さんお生まれの善通寺もどうぞ、さらにはお四国めぐりの七ケ所めぐりもいかがですか」
「丸亀から帰りの船も出ますので、荷物はお預かりします、お土産は途中でお買いなると荷物になりますので、船に乗る前に当店で、是非どうぞ」
丸亀港3 福島湛甫・新堀湛甫
福島湛甫と新堀湛甫

 こうして多くの金毘羅参拝者たちは、「金毘羅大権現 + 七ケ寺巡礼」(金毘羅大権現→善通寺→甲山寺→曼荼羅寺→出釈迦寺→弥谷寺→海岸寺→道隆寺→金倉寺)を周遊巡礼して、丸亀に帰ってきました。そこで、帰路の船に乗船する前に荷物を預けたお土産店で、土産を買い込みます。
こうした動きを先取りしたのが、前回紹介した丸亀の横闘平八郎です。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
金毘羅土産所の図 当時の金毘羅土産がわかる
 彼は板木を買い取り、自分で案内図などの出版を手がけるようになります。彼の金毘羅詣でなどの案内記には、丸亀・金毘羅の名物紹介したページが載せられるようになります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。観光業から出版業への進出と云えそうです。
「金毘羅御土産所」で扱っていた当時の金毘羅名物を見てみましょう
①玉藻のつと
②五しゆ漬
③小不二みそ
④あけぼの
⑤無事郎
⑥しだやうじ
⑦にとせし
⑧ちん其扇
⑨国油煙墨       油を燃やして煤を採煙し、膠、水、香料などと混ぜ合わせて造られた墨。
⑩寿上松葉酒     松葉は「ここに天の神薬を頂き、この身は天の無限の力
⑪はら薬舎
⑫五用心
⑬直に任せて
⑭あかひむ
⑮わすれ貝
 上に挙げられているお土産が一体何であるのか残念ながら私にはよく分かりません。③がみそ、⑨が墨、⑩が滋養酒のようです。それ以外にも飴、湯婆・みそ・松茸・索麺・生姜が含まれているようですが見当も付きません。ご存じの方があったら教えて下さい。
案内図の板元と土産店を経営する丸亀の横開平八郎が出版したふたつの絵図を見てみましょう。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」 (町史ことひら5)より

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」には、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、それ以後に出されたものであることが分かります。これは、前回見たように、買い求めた版木に自分の名前と一部を入れ替えただけのものです。今まで丸亀から各地への里程が記されいた左下隅の枠内には、金毘羅案内の書物9部の広告が載せられています。広告の最後には、次のように記されています。
地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横関平八郎)

  ここからは横開平八郎は、房号を碧松房といったことが分かります。また先ほどの「金毘羅土産所の図」と併せると「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。丸亀の金物屋平八郎(碧松房・横関平八郎)は、金物屋から土産店、そして出版版元へと多角経営に乗り出していたことが見えてきます。

丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5
E⑬ 象頭山喩伽山両社参詣道名所旧跡絵図

E⑬も横開平八郎の刊です。
今まで絵図に比べると上下が広い印象を受けます。そして見たことのない構図です。それもそのはずです。E⑪の下に、瀬戸内海と対岸の備中が付け加えられているのです。追加された下の部分で目立つのは、丸亀対岸の児島半島の喩迦山蓮台寺です。蓮台寺では、五流修験者たちが金比羅詣で客を喩伽山に引き込むためにいろいろな営業活動が行われるようになります。そのひとつが、金毘羅参詣だけでは「片参り」になり、楡迦山へも参詣しないと本当の御利益は得られないという巧みな宣伝です。このため19世紀半ばになると参拝客も増えます。そのために出されたのが「両参り」用のこの案内書E⑬のようです。喩伽山とタイアップして、観光開発をすすめる平八郎の経営姿勢がうかがえます。
 丸亀街道 E⑭ 町史ことひら5
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」
E⑭「金毘羅參詣案内大略圖」標題下の板元名の欄が空白です。また、左下欄も半分が真っ白です。それ以外は、横関平八郎が版木を買って発行したE⑪と全く同じもののようです。板木が摩滅して見にくくなっています。ここからは、横関平八郎の手元にあった版木が、嶺松庵に売り渡されて出されたものがこのE⑭になるようです。版木は、売買の対象でした。横関平八郎は、「金毘羅バブル」に乗って、は派手な仕事をしていたようで、経営は長続きせずに板木を手放したようです。
丸亀街道 E⑮ 町史ことひら5
E⑮「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」

 E⑮はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」にもどりました。板元は丸亀富屋町原田屋です。左下の枠の中に、丸亀より、こんひら・ぜんつうじ・いやたに・たかまつへの里程を示し、金毘羅の3度の会式、善通寺の御影供と誕生仝の期日を示したあとに、「別二御土産物品々御座候」とあります。ここからは、原田屋も金物屋平八郎と同じように、土産物経営と絵図出版をセットで行っていたことが分かります。
E⑮では、福島湛甫は見えますが、東側に新堀湛甫がまだ姿を見せていません。新掘湛甫竣工は天保4年(1833)年なので、それ以前のものになります。この図で面白いのは、左上の伊予街道の牛屋口の上に高い山と道が書かれていることです。私は最初は伊予の石鎚山かと思いました。よく見ると阿波の箸蔵寺なのです。箸蔵寺周辺は、阿波修験者の拠点で、寺院建立後に活発な布教活動を展開します。そして喩伽山と同じように、金毘羅山の参拝客を呼び込むための広報活動も展開されます。その動きを受けて、丸亀の原田屋は、ここに箸蔵寺を書き加えたことが考えられます。金物屋平八郎は備前喩伽山、原田屋は箸蔵寺の修験者たちの影響下にあったことがうかがえます。

以上を整理しておくと
①金毘羅船就航以後、金比羅参拝者は激増し、丸亀港は上方からの人々で溢れるようになった。
②それを出迎える丸亀では、金毘羅船の船頭が船宿を営み、旅籠やお土産店などが数多く現れ観光産業を形成するようになる。
③その中のお土産店の中には、金比羅詣案内パンフレットを自分の手で発行する者も現れる。
④そこには、兼業するお土産店やタイアップする旅籠などの広告が載せられ客引き用に用いられた。⑤案内図が示す参拝ルートは、丸亀から金毘羅を往復ピストンするものではなく、善通寺 + 四国霊場七ケ寺」の巡礼を奨める者であった。
⑥当時の金毘羅参拝客の多くが「金毘羅 → 善通寺 → 甲山寺 → 曼荼羅寺 → 出釈迦寺 → 弥谷寺 → 白方の海岸寺 → 道隆寺 → 金倉寺 → 丸亀」の周遊ルートを巡っていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


    金毘羅船 4
金比羅船
延享元年三月(1744)に、「金毘羅船」の運行申請が大坂の船問屋たちから金毘羅大権現の金光院に提出されます。その結果、「日本最初の旅客船航路」とされる金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。以後、金毘羅信仰の高揚と共に、金毘羅船は年を追う毎に繁昌します。こうして、金毘羅船をめぐって、船舶・船宿・観光出版・お土産店など新たな観光産業が形成されていくようになります。 
金毘羅船 苫船
「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)

19世紀初め出版された弥次喜多コンビの金比羅詣では、大坂の船宿で金比羅船の往復チケットを購入しています。その際には、どこで買っても同一料金で、原則は往復チケットになっていました。行きも帰りも同じ船に乗ることが原則だったようです。また、大坂の船宿で、金比羅チケットを購入したときに、丸亀や金毘羅の提携宿も決まるシステムだったのは以前にお話ししました。
 こうして増える参拝客をめぐる攻防戦が船宿や指定宿・お土産店屋で繰り広げられるようになります。その際の広告媒介が航路案内図であり、丸亀から金毘羅への参拝案内図であったようです。

丸亀に上陸した参拝客は、ふたたび丸亀から帰路の船に乗ります。そのために手荷物を預かったり、案内図を無料で配布することで、購買客をふやす戦略を採るようになります。この結果。お土産店などが案内図作成を行うようになります。今回は丸亀で配布された金毘羅参拝案内図を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」です。

丸亀街道 E① 町史ことひら5
E① 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」クリックで拡大します
E①はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」とあり、このシリーズの初版になるようです。
全体をみて気づくのは丸亀ー琴平の丸亀参拝道だけが描かれているのではないことです。弥谷寺や善通寺が金比羅参拝の「巡礼地」として描かれています。先ほども述べたように、この絵図は丸亀に上陸したときに宿やお土産店などで、参拝客に配布されたようです。参拝者に対しては、丸亀・琴平間の往復ではなく、「金毘羅大権現 + 四国巡礼の七ヶ所廻り」が奨められていたことがうかがえます。丸亀から琴平を目指し、善通寺を経て弥谷寺にお参りし、白方の海岸寺から多度津を経て丸亀に戻ってくると云う周遊ルートが売り出されていたようです。それは、金比羅舟の営業戦略でもあったようです。丸亀で下船したお客を、帰路も乗船させるために、金比羅船は往復チケットを販売します。そのため善通寺・弥谷寺をめぐる周遊ルートが売り出されてのではないかと私は考えています。
E①を、もうすこし具体的に見ておきましょう。
①板元名はない
②丸亀城下の見附屋の蘇鉄が注記されていて、港などは描かれていない。
③丸亀ー金毘羅間の丸亀街道沿いの飯野山などの情報は、何も記されていない。
④金毘羅の門前町から本社までの比率が長く詳細である
⑤桜の馬場が長く広く描かれている。その柵は、木製で石の玉垣ではない
⑥善通寺は五重塔と本堂だけで、周辺の門前町は描かれていない。
⑦弥谷寺は「いやだに」と山名だけ
⑧多度津の情報はなにもない
⑥の善通寺の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月のことです。関東からやってきた廻国行者が善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして10年の勧進活動の後に完成します。建設計画から約80年余の月日を要しています。ここからは、この絵図が書かれたのは、それ以後であることが分かります。ちなみに丸亀福島湛甫が完成するのがその2年後になります。残念ながら絵図には、福島湛甫はエリア外になっています。丸亀街道 E② 町史ことひら5
E② 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E②は、左下欄外に「文化十四(1817)丁丑年 十二月中旬調之 大野」と墨書があるので、それ以前のものであることが分かります。丸亀街道沿いについては、飯野山が描かれ郡家や公文あたりの情報量も増えてきました。それでも左半分は、金毘羅さんのエリアです。
これだと、鞘橋を渡ってすぐに仁王門があることになります。桜の馬場が長すぎます。
 丸亀街道 E③ 町史ことひら5
E③ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E③は、今までのもととは、俯瞰視点が大きく変わりました。そして家並みなどもしっかりと描き込まれて、情報量も格段に増えました。例えば、左下に「丸亀ヨリこんひらご二り(里) 一ノ坂ヨリ山上下一二十六丁 内町ヨリ善通寺へ七十五丁(以下略)」と各地への里程が書かれています。
 そして、E③には「板本谷一」と板元名が記されます。坂本谷一は、天保初年刊行の「丸亀繁盛記」にも「象頭山・四國巡路の書閲は板本谷一にとどまり」とあるので、当時は有名な絵図屋であったようです。
 描かれた時期は、丸亀に文化三年(1806)に完成した福島湛甫が見えます。また、金毘羅門前町の二本木に小さな鳥居が見えます。ここに江戸の鴻池儀兵衛などによって鳥居が立てられるのは天明七(1787)年のことです。
  また、丸亀のライバル港である多度津港が描かれています。しかし、多度津港新湛甫が完成するのは、天保9年(1838)のことです。まだ桜川河口に船は係留されているようです。
丸亀街道 E⑥ 町史ことひら5
     E⑥ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
 E⑥は、街道が木道のように描かれ、分かりやすくなったことと、丸亀・金比羅・善通寺などの町屋の道筋が描き込まれるようになったのが特徴です。版元は右下に御免板元・吉田屋某と見えます。金毘羅山をみると、金堂が大きくなって描かれています。金堂が完成するのが弘化2年(1845)年ですので、それ以後のもののように思えます。しかし、金堂は瓦葺きのようにも思えます。瓦葺きで葺かれた後に、設計上の問題から銅板葺に改修されています。そうだとすると、1840年よりも前のことになります。以下気づくことをあげておくと次のようなことが分かります。
①多度津街道の終点である高藪に鳥居が描かれていること
②鞘橋を渡った後の内町。金山寺町などが表記されていること
③善通寺は赤門筋が門前町化し、南には街並みはみられないこと
丸亀街道 E⑨ 町史ことひら5大原東野
E⑨

 E⑨はそれまでと「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」とタイトルが変わりました。それまでの絵図と比べると、描写が写実的で細密でレベルがぐーっと上がった印象を受けます。絵師の大原東野は、奈良の小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍の出身です。京都・大坂で画業活動を行った後に、文化元年(1804)に金毘羅へ移り住み、いろいろな作品を残しています。この人のすごいところは、それだけでなく金毘羅参詣道修理のために「象頭山行程修造之記」を配布して募金活動による街道整備も行っていることです。上方で活躍していた画家が「地方移住」して、残した絵図になるようです。金毘羅周辺の建物構成がきちんと描かれ、後の模範となる作品と評価されます。

この絵図の注目点は他にもあります。タイトルがそれまでの「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」から「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」に変更されています。それに伴い弥谷寺が消えました。善通寺の比重も低くなっているように見えます。うっすらぼやけてこの絵図では本堂も五重塔も見えないようです。実は、文化元年(1804)に再建された五重塔は、天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。5年後の弘化2年(1845)に再建に着手しますが、完成するのは約60年後の明治35年(1902)のことになります。
 一方丸亀港に目を転じると、文化三年(1806)に完成した福島湛甫は見えますが、天保4年(1833)に竣工の丸亀新掘湛甫は、まだ姿を見せていないようです。
丸亀城 福島町3
福島湛甫 (新堀湛甫が姿は見せるのは1833年)

   この絵図には私たちの感覚からすると、金比羅詣案内図に弥谷寺がどうして描き込まれるのという疑問がありました。それが消えたのがこの絵図です。その代わりに登場させたのが「金毘羅並びに七所霊場」です。地元でお参りされた「四国霊場七ケ所詣 + 金毘羅大権現」ということになります。
丸亀街道 E⑩ 町史ことひら5
 E⑩「金毘羅參詣案内大略画」

E⑩「金毘羅參詣案内大略画」は、E⑨と板元が同じ大津屋です。
大津屋は、四国遍路の書物「四國遍路御詠歌道案内」「四國蜜験尋問記」の出版にも関係し、宝暦13年(1762)には「四國遍礼絵図」の板木を買い求めて、文化四年(1807)に、草子屋佐々井二郎右衛門の名で新しく刊行しています。
 丸亀の横開平八郎は、金毘羅参詣や四国遍路のことに強い関心を持っていたようで、大阪の二軒の草子屋と相合版でE⑨・E⑩図を出したことになります。彫工は、どちらも丸亀の成慶堂になっています。なお、この絵図のタイトルは、「金毘羅参詣案内大略圖」です。E⑨を更に進めて、「七ヶ所参り + 金毘羅大権現」から四国辺路巡礼にあたるルートがなくなりました。丸亀街道が、大阪・金毘羅の参詣道最後の道として、大切なものであるとの意識が強くなってきたものと研究者は指摘します。地図の中に描かれた情報は、E⑨と変わりないように見えます。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」は標題も板元もE⑩と同じです。
ただ違うのは、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、E⑩の改訂版と云えそうです。もうひとつ今までと違うところは、左下の枠内の記事のようです。これまでは、ここには丸亀から各地への里程が記されていました。それが金毘羅関係の書物九部の広告が出されています。これは初めての試みです。広告の書物の中には「金毘羅參詣海陸記」も入っています。広告の後には、次のように記されています。

地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横開平八郎)

  ここからは横開平八郎は房号を碧松房といったことが分かります。金毘羅案内書の名著「金毘羅山名勝図絵」は、大阪の石津亮澄の著作で、大原東野と横開碧松が校者を担当しています。東野は画家なので挿絵担当で、碧松は地理の案内をしたようです。この二人によって、金毘羅参拝絵図にも新風がもたらされたようです。ちなみに別の絵図には、次のように記されています。
「讃岐名産絵図小売おろし所、名物土産舗 丸かめ(丸亀)かや町 金物崖平八郎」

ここからは「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。金物崖平八郎(碧松房)は、観光業の多角経営者であったようです。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
E⑫「金毘羅土産所之圖」       120P
E⑫は仁尾・覚城院の南月堂三の「象頭山金毘羅大権現迢験記」の奥付にある図のようです。もともと、この書は明和六年(1769)、京都の梅村市兵衛・菊屋安兵衛・梅村宗五郎の相合版で出版されました。それを文政二年(1819)12月、丸亀の横闘平八郎が板木を買い取り、自分の名で出版します。その時に、この図を入れ、また丸亀・金毘羅の名物を四ページにもわたって広告します。
当時の金毘羅名物が、飴・湯婆・松茸・索麺・生姜などであったことが分かります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。
DSC06659
右側が福島湛甫 左手前が新堀湛甫


以上をまとめておきます。

①18世紀半ばに金比羅船が就航すると、クルージング気分で参拝できる金比羅詣での人気は急速に高まった。
②18世紀後半から19世紀かけて金比羅船関連の船宿・土産物・旅籠・観光出版業なども急成長し、同時に参拝客をめぐる競争も激化した。
③丸亀でも金比羅船にやって来る参拝客に、お土産店などが参拝案内図を無料配布するようになった。
④そのため案内図は、お土産店などが板元になって作成されたものが多くなる。
⑤その案内図の初期のものは、丸亀と金比羅のピストン往復詣ででなく善通寺周辺の四国霊場七ケ所巡りを奨める内容であった。そのため善通寺や弥谷寺が大きく扱われている。
⑥一方、丸亀港のライバルである多度津港の扱いは非常に小さいものとなっている。
⑦19世紀に半ば近くになってくると、弥谷寺や善通寺の比重は次第に低くなり、かわって対岸の備中児島の喩伽山を取り上げる絵図や、阿波の箸蔵寺を取り上げる案内図も出てくる。これも営業戦略のひとつであったようだ。
金毘羅 町史ことひら

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
金毘羅周辺の建造物出現年表
天明2年1782 高藪の鳥居建立。
天明8年1788 二本木銅鳥居建立。
寛政元年1789 絵馬堂上棟。
寛政6年1794 桜の馬場に鳥居建立。多度津鶴橋に鳥居建立。
寛政10年1798 備中梶谷、横瀬に燈籠寄進。
寛政11年1799 丸亀中府に石燈籠建立。
文化元年 1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 薬師堂を廃して金堂建築計画。福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化10年1813 金堂起工式。
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九撰、「讃岐象頭山金毘羅詣」
文政10年1827 大原東野筆、「金毘羅山名勝図会」。
天保2年 1831 金堂初重棟上げ
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 金堂銅屋根葺き終了。多度津須賀に石鳥居建立。
                        善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
天保14年1843 仁王門修覆上棟。金堂厨子上棟。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
           善通寺五重塔に再建に着手。
弘化4年 1847 暁鐘成、「金毘羅参詣名所図会」。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永5年 1852 愛宕町天満宮再建上棟。
安政元年 1854 満濃池、堤切れ。
    道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
  高燈籠建立願い。大地震、新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
安政2年 1855 新町に石鳥居建立。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政5年 1858 高燈籠台石工事上棟。
安政6年 1859 一の坂口鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。大水、大風あり札之前裏山崩れる。
文久元年 1861 内町本陣上棟。
文久2年 1862 阿州講中、大門から鳥居まで敷石寄付。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。
武州佐藤佐吉、本地堂前へ唐銅鳥居奉納。
  旗岡に石鳥居建立。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
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