瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:新撰姓氏録

      円珍が残した 和気氏の系図

 八~九世紀、讃岐の有力豪族たちは、それまでの姓を捨て自らの新しいアイデンティティーを求め、改姓申請や本貫地の変更申請をおこないます。

智弁大師(円珍) 根来寺
智証大師(円珍)坐像 根来寺
その中に、空海の佐伯家やその親族で円珍(智証大師)を出した因支首氏(いなぎのおびと)もありました。今回は円珍を出した讃岐那珂郡(現善通寺市金蔵寺町)の因支首氏が和気氏に改姓するまでの動きを追ってみましょう。 

圓城寺には、円珍の「和気家系図」が残っています。

日本名僧・高僧伝”19・円珍(えんちん、弘仁5年3月15日(814年4月8日 ...

承和年間(834~848)のもので29.4×323.3cmの景行天皇から十数代後の円珍までの系図です。全文一筆でかかれていますが、円珍自筆ではないようで、別人に書写させたことが円珍の自筆で注記されています。その上に、円珍自筆の加筆があり、自分の出身氏族について注意を払っていたこと分かります。
 これは竪系図としては、わが国最古のもので、平安時代の系図のスタイルを示す貴重な史料として国宝に指定されています。円珍が一族(叔父の家丸〔法名仁徳〕という説が有力)と協力し、先祖の系譜を整理して、近江・坂本の園城寺に残したものが、現在に伝わったようです。系図を見る前に、次の事を押さえておきます。

 伝来系図の2重構造性

祖先系譜は、次のふたつの部分に分かれます。
①複数の氏族によって共有される架空の先祖の系譜部分(いわゆる伝説的部分)
②個別の氏族の実在の先祖の系譜部分(現実的部分)
つまり、これは①に②が接ぎ木された「二重構造」になっているのです。時には3重構造の場合もあります。研究者は、接ぎ木された部分(人物)を「継いだ」と云うようです。この継がれた人物を見分けるのが、系図を見る場合のポイントになります。

さて、この系図からは何が分かるのでしょうか?

円珍系図5

まず①の伝説部分からみていきます。この系図からは円珍が武国凝別皇子を始祖とする讃岐国那珂郡の因支首(いなぎ・おびと)の一族であったことを記します。
それでは一族の始祖になる武国凝別皇子とは何者なのでしょうか?
 武国凝別命は豊前の宇佐国造の一族の先祖で、応神天皇や息長君の先祖にあたる人物になるようです。子孫には豊前・豊後から伊予に渡って伊余国造・伊予別公(和気)・御村別君やさらには讃岐の讃岐国造・綾県主(綾公)や和気公(別)がいます。そして、鳥トーテムや巨石信仰をもち、鉄関係の鍛冶技術にすぐれていたことから、この神を始祖とする氏族は、渡来系新羅人の流れをひくと指摘する研究者もいます。
 ちなみに、武国凝命の名に見える「凝」(こり)の意味は鉄塊であり、この文字は阿蘇神主家の祖・武凝人命の名にも使われています。 これら氏族は、のちに記紀や『新撰姓氏録』などで古代氏族の系譜が編纂される過程で、本来の系譜が改変され、異なる形で皇室系譜に接合されたようです。 
この系図は、何のために、だれが造ったのでしょうか
 伊予国の和気氏は、七世紀後半に評督などを務めた郡司クラスの有力豪族です。改姓によって因支首氏は和気氏に連なろうと試みたようです。その動きを年表で示すと
799年 政府は氏族の乱れを正すため各氏族に本系帳(系図)を提出するよう命じ、『新撰姓氏録』の編集に着手。
800年 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予和気公と同祖であること指名した系図を作成・提出する。しかし、この時には改姓の許可は下りず。
861年 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる
866年 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)
 改姓申請で稻木氏が主張したのは、七世紀に伊予国から讃岐国に来た忍尾別君(おしおわけのきみ)氏が、讃岐国の因支首氏の女と婚姻して因支首氏となったということです。つまり、因支首氏は、もともとは伊予国の和気氏と同族であり、今まで名乗っていた因支首氏から和気氏への改姓を認めて欲しいというものです。
 つまり、この系図は讃岐国の因支首氏が伊予国の和気氏と同族である証拠「本系帳」として作成・提出されたものの控えのようです。

800年の申請の折には、改姓許可は下りなかったようです。

 円珍の叔父に当たる空海の佐伯直氏が佐伯宿祢氏に改姓されていくのを見ながら、因支首氏(いなぎのおびと)の一族は次の申請機会を待ちます。そして、2世代後の866年に、円珍の「立身出世」を背景にようやく改姓が認められ、晴れて和気公氏を名乗ることができたのです。 改姓に至るまで半世紀が経っています。
  智証大師(円珍) 金蔵寺 江戸時代の模写
円珍(金倉寺蔵 江戸時代の模写)

円珍は814年生まれで、天安2年(858年)新羅商人の船で唐から帰国後は、しばらく郷里の金倉寺に住み、寺の整備を行っていたと言われます。改姓許可が下りたのは、この時期にあたります。金蔵寺でいた間に、一族から「改姓についての悲願」を聞いていたかもしれません。
 和気氏への改姓後は、円珍には仏や先祖の加護が働いたようです。
比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の拠点として組織化していきます。
   円珍は、園城寺では宗祖として尊崇されています。
この寺には、多くの円珍像が伝わります。

唐院大師堂には「中尊大師」「御骨大師」と呼ばれる2体の智証大師像があり、いずれも国宝にです。それらと同じように「和気家系図」は、この寺に残されたのです。手元に置いたこの系図を見ながら円珍は、自分につながる故郷の祖先を思うこともあったのでしょうか。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  新しいアイデンティティーを求め、改姓申請 
  
香川県史の年表を眺めていて気になることがいくつかあります。
そのひとつに9世紀前後に、豪族達の改姓や本貫地の変更申請が数多く見られことです。少し並べてみると
791 9・18 寒川郡凡直千継らの申請により,千継等20戸,讃岐公の姓を与えられる(続日本紀)
791 9・20 阿野郡人綾公菅麻呂ら,申請により,朝臣姓を許される(続日本紀)
791 12・10 寒川郡人佐婆首牛養らの申請により,牛養等20戸,岡田臣の姓を与えられる(続日本紀)
800 7・10 那珂郡人因支首道麻呂・多度郡人同姓国益ら,前年の本系帳作成の命に従い,伊予別公と同祖であることを言上する(北白河宮家所蔵文書)
861 11・11 佐伯直豊雄の申請により,空海の一族佐伯直氏11人.佐伯宿禰の姓を与えられる(三代実録)
864 8・6 多度郡人秦子上成・同姓弥成ら3人,秦忌寸の姓を与えられる(三代実録)
866 10・27 那珂郡人因支首秋主・道麻呂・多度郡人同姓純雄・国益ら9人,和気公の姓を与えられる(三代実録)   
867 8・17 神櫛命の子孫讃岐朝臣高作ら3人,和気朝臣の姓を与えられる(三代実録)
86711・20 三野郡刈田首種継の子安雄,紀朝臣の姓を与えられる(三代実録)

讃岐の郡司クラスの有力豪族が次々と自分の姓を変えているのです。

古代の「姓」はウジ名やカバネとリンクして、そこには豪族たちと政権との関係が刻まれています。自らの都合で変えることができるののではなく、改めるには必ず天皇の許可が必要です。どうして、自分の慣れ親しんだ姓をかえようとしたのでしょうか?
その背景には、なにがあったのでしょうか?
「寒川郡凡直」の画像検索結果

寒川郡の几直氏(おしあたい)について見てみましょう

 寒川郡は、現在の香川県さぬき市にあたります。
この地域は四・五世紀の古墳に、讃岐の他地域とは違ったヤマト王権との強い関係性が見られます。先祖が周防国佐婆郡から讃岐国に移ったという伝承もあり、一族は瀬戸内海各地で展開していたようです。
 寒川郡は、瀬戸内海を往来する南岸ルートの拠点の一つで、津田湾を経て各方面へ交通路が伸びています。瀬戸内海各地に存在する一族との交流などもあり、視線は地域の外に向きやすかったのかもしれません。古墳時代以来の王権とのつながりを背景に、都への足がかりを築いていきます。そして几直氏は、讃岐の国造に任命されます。その背景には王権とのパイプやつながりがあったことがうかがえます。 

改姓申請を行ったのは、几直千継(おしあたいのちつぐ)です。

 彼は、年少の頃に讃岐を出て、都の大学に進み四書五経を学び官僚の道を歩みます。改姓申請を行った時期には、法をつかさざる刑部省の大判事も務めるなど官僚としての栄達の地位にありました。その「立身出世」を背景に「讃岐公」の姓を申請し認められたのです。
 ちなみに年少の頃に、都の大学に入りの官僚の道をめざすというのは、後の佐伯家の真魚(空海)が辿った道でもあり、彼は先に歩いた同郷の先輩でもあります。

几直千継が「讃岐公」に改名したのはなぜでしょうか。

「讃岐公」は、出身の「讃岐」、そして国造としてのカバネである「公」を強調するような姓です。千継またはその親世代が讃岐から都に進出し、自らの出自を強調するために申請したものと思えます。
 干継の流れを汲む讃岐公氏は、その後も広直、浄直、永直、永成といった次世代が明法博士(現代でいう東京大学法学部の主任教授)を歴任するなど、代々法曹官僚を輩出し、次第に中央貴族としての地位を固めていきます。

9世紀半ばに活躍する讃岐永直(さぬきのながなお)です。

彼は、「几直」から「讃岐公」へ改姓した783年に誕生し、862年に80歳で亡くなります。空海とほぼ同時代を生きた人物です。最終の官位は従五位下でした。
 永直は「干継」の系譜を引く法学者の家柄として、駆け出しながら「祖父の七光り」で、律令の公定解釈書である「令義解」編纂に参加します。この編集には、右大臣清原夏野、菅原清公(道真の祖父)、小野篁といった文人政治家が加わり、単なる法律解釈だけでなく、文章表現としても規範となるものを目指します。「令義解」は、833年に完成しますが、この書籍が後世に与えた影響は計り知れないものがあり、何度も書写され現在に伝わります。讃岐永直は、この編集作業を通じて、律令法体系への知識を深かめていきます。同時に、後世に名を残すことになります。 

 讃岐永直には、こんなエピソードが伝わっています。

  律令の刑法上の法運営をめぐって難問が発生し、中国まで使者を派遣して解釈を求めようとします。その時に明法博士の讃岐永直に問うと、簡単に解釈してしまい、使者の派遣が中止となったというのです。時の文徳天皇(在位850~858年)から「律令の宗師」と称され、都の人々が認める「大学者」になります。彼は郷土の誇りとなり、その後は永直を目標とし、讃岐国から多くの後進が続くことになります。
 9世紀後半には讃岐公香川郡出身の秦公直宗・直本の兄弟が「祖業を継ぐ」かのように、讃岐永直が築いた法曹官僚の地位を讃岐出身者が独占しながら連綿と継いでいきます。それは、まるで家業と職が結合する中世の官司請負制のようです。
秦公氏は、八八三年(元慶七)に惟宗朝臣氏に改姓します。
惟宗直本が、若きころに編纂したのが「令集解」という律令注釈書です。
これは、讃岐の大先輩の讃岐永直をはじめとする歴代の明法博士による律令注釈を集大成したものです。しかし、編纂者の直本は自分の解釈を記していません。そこには、駆け出しの若手法曹官僚として、先輩の諸説を謙虚に学ばうという姿勢が感じられます。
 この編纂には、膨大な集成作業が必要だったはずです。どうして、これが若い直本にできたのでしょうか。専門家は、「讃岐出身の法曹官僚たちによる知のネットワーク」が形成されていたことで、「令集解」の集成作業は可能となったと考えているようです。

 律令国家の完成から150年あまりたった平安時代の半ばには、当初は国家から再教育される立場にあった讃岐の豪族たちは、今度は逆に、習得したスキルをもって国家運営や実務の担い手として、時の政府の中でその存在感を増していった様子がわかります。

 最初の疑問に帰りましょう。8世紀終わり頃の延喜年間には、改姓の動きが目立つのはどうしてか? 

というのがスタートでした
 住居地名や伝統的な職名など複数を組み合わせたそれまでの氏姓から、中央の貴族として通用するような氏姓に替えるための申請、認可の記事が『続日本紀』などに数多く見られます。
讃岐国では、
国造の系譜をひく凡直氏が讃岐公氏に、
綾氏が「公」から「朝臣」に、
佐婆部首(さばべのおびと)氏が岡田臣氏に、
韓鉄師首(からかねのもちびと)氏が坂本臣氏に改姓しています。
続く九世紀の前半には讃岐公氏が讃岐朝臣氏、
そして和気朝臣氏への改姓や、佐伯連氏の改姓と
都への本貫地の移籍記事が続きます。
 ここには讃岐公が法律家一門として、中央貴族化していくことと共通する背景があります。

空海を出した多度郡の佐伯家や円珍を輩出した因支首(いなぎ)氏が和気氏と改名申請を行うのも同じような背景があったからでしょう。
 こうした変動に対し、国家は氏姓を正そうと『新撰姓氏録』の編纂をおこない、各氏族らは自らの出自について新たな先祖の系譜を作成します。
讃岐から都に出て行った豪族たちは、自らが拠って立つ位置を、国家が作り出す系譜に継ぎ足すだけでなく、地域がもつ伝統的な名族の名称継承や、新しく入った地域の地名を負うことで明確にしたのです。それは、自分が地域代表であるという自己主張であったのかもしれません。
 円珍の一族の「因岐から和気」の改姓も、
「因支の両字を以てするは、義理憑ること無し」と
「因支首という姓は、筋として意味がない」
と云っています。大化前後には地方豪族としての権威をあらわしていた因支首という姓が、平安初期のころには、たよりにならないばかりか、かえってじゃまになってきたという政治的、社会的事情があったようです。
 どちらにしろ彼らの軸足は出身の本貫地よりも、京へと移り中央貴族として生きていく道を選択した分岐点であったことを後の歴史は教えてくれます。

一方で、地域に根差していく豪族もいました。

先日紹介した三野郡の豪族・丸部氏です。
『続日本後紀』嘉祥元年(八四八)十月一日条には、従四位上の位階をもっだ丸部臣明麻呂が都での勤めを終えて帰国し三野郡司に任命され、その職を父親に譲ったとの記事があります。都へ向かい、都に定着するのではなく、自らの出身地に根を張っていく豪族たちもいたのです。
 ちなみに、丸部氏は以前に紹介したように、讃岐で最初に氏寺妙音寺を建立し、国家プロジェクトとしての藤原京造営の宮瓦の製造工場を三野町に誘致した氏族です。
 讃岐の豪族たちは、様々な方法をとって時代を生き抜いていったようです。

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