瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:新見荘

新見荘エリア
新見荘のエリア
新見荘は岡山県の高梁川の上流にあった荘園で、現在の新見市と神郷町に広がっていました。初めは皇室領、鎌倉時代末から東寺領となります。そのため百合文書の中に、伊予の弓削荘や播磨の黒田荘とともに多くの関係史料が伝わっているようです。特に、鎌倉時代中期と末期に、全荘にわたって検注が行われています。その時の詳しい土地台帳類が何冊も残っていて、村や耕地の状況を知る手がかりとなるようです。

新見の荘と呼ばれた荘園が、どのようにして、近世の「村」へと変化していくのでしょか。それをイラストで見ていきたいと思います。テキストは「朝日百科 日本の歴史 中世」です。

テキストでは、平安時代後期(院政期)→鎌倉時代→室町時代→江戸時代前期(元禄以前)の村の様子を、冬、春、夏、秋の季節順に描いています。一見すると左右同じような絵に見えますが、右側が平安時代後期、左側が中世になります。
新見荘1

このイラストは、ひとつの谷の模式図です。 一つの谷ごとに一つの名があり、交通路の通るサコの出口近くに屋敷があって、その中に名主の家が建ち、周囲に里畠が開かれています。谷沿いの川沿いの低湿地に水田が拓かれていて、これらを含めて屋敷のまわり一帯を垣内と呼びます。垣内の外、谷の対岸のサコには、作人が家を建て名主の水田を耕作しています。
新見荘中世1
平安末期
 山には至る所から煙がもうもうと立ち上っています。
焼き畑が行われていたようです。 焼畑耕作は山焼き、種まき、害虫駆除、収穫などあらゆる作業が、各谷・サコごとに共同で行われます。全員参加でないとできないので、名の人々を結びつける共同活動でもありました。種まき前の山焼きは、どこの谷でも同じころ行われたので、この時期の山々は白煙をあげる大火災のような光景だったのでしょう。焼畑のあとは、地面がむき出しになります。焼き畑の面積が広がれば広がるほど、わずかな雨でも土砂崩れが起きます。こうして、土地台帳類には、「崩」「流」などの耕作不能地になった注記が記されるようになります。これは土砂崩れの跡を示すもののようです。そのため交通路は、焼畑より高い所を通すようになります。山崩れを避けるために家・屋敷は、岩山の下などに建てられ、崩壊を避けるために屋敷周りには竹が植えられ、家は竹藪に囲まれるようになります。
新見荘中世2

平安末期(谷の下の方)

 一つの谷の名主は、用水源である谷や井の権利を持ち、屋敷・田畠を含む垣内を支配していました。作人は名主に従属し、作人小屋に住み、山畠耕作など共同作業を通して共同体員として働いていまします。
 しかし、中世になると作人の中にも、土を切り盛りし、ならす技術などを自らのものにして、サコの出口の新田を開発するようになります。その努力の結果、鎌倉時代中期になると名主の下から独立しようとする動きを示し始めるようになります。
谷には、それぞれ名主の名が見えます。谷の出口から大川(高梁川)までの緩傾斜地の「中須」には荘官など領主の名が見えます。名主の屋敷はやや小高い場所にあり、周囲や山腹には広大な焼畑が広がります。谷ぞいの湿地には、井(湧水・サコ)から水を引いたりして本田が開かれています。
 谷の住人は名主と作人です。名主が用水の権利を持ち、荘園主から請け負った垣内(屋敷と田畠)を支配し、迫(サコ)の小屋などに住む作人は、名主に従属する立場です。谷を取り巻く山腹には、広大な焼畑が展開されていまします。焼き畑農耕を行いながら、次第に谷田の開発を行っていったのでしょう。
 高梁川の流れに近い「中須」には荘官と、それに従属する百姓たちが住んでいまします。
これら百姓たちの実体は、谷の名主に近く、彼らはその下に作人たちを従えています。作人たちは小屋住まいです。
 注目しておきたいのは、川の中の中島は、この時代には手が入っていないことです。また、耕地と荒地の比率は、半分ずつくらいで、川の近くの低湿地はほとんど開発されない葦原状態だったことが分かります。

新見荘2
右が室町時代 左が江戸時代

 中世には時代が下るにつれて、焼畑も行われなくなります。
山畠耕作が衰退したのです。その背景には、谷の迫田(さこた:谷沿いの湿地田)や高梁川の低湿地の開発があったと研究者は考えています。水田開発に伴い、山畠耕作の比重が低くなり焼畑が行われなくなったと云うのです。これは名ごとの共同作業の減少につながります。そして名の共同体解体や、作人の独立の動きを促進します。それまでの長い間の山畠耕作による山地の崩壊は、当然下流の河川沿いに土砂の堆積をもたらし、低湿地を拡大させていまします。

新見荘室町1
室町時代
 高梁川の河原に広がる低湿地を開拓するには、用・排水路を整備する必要がありまします。
この技術がなかったために、開発は遅れていまいします。
そんな中で承久3(1221)年、承久の乱で勝利を収めた鎌倉幕府は新見荘に地頭を派遣します。西遷御家人として下司に代わってやってきた東国出身の地頭は、湿地帯の広がる東国地方で開発を進めてきた経験と技術を持っていました。彼らの持っていた低湿地の用水、排水のための水路を開設する土木技術が役だったようです。この新技術で、今までは手のつけられなかった広い河原が水田開拓の対象になります。こうして河原や葦原であった低湿地が急速に水田に姿を変えていきます。

  新見荘政所跡
 
 関東からやってきた地頭は低湿地の中でも微高地を選び、開発の拠点となるところに政所④を置きます。
新見荘地頭方政所
新見荘 地頭方政所跡
 近くの川の中島には市②が立ち、地頭屋敷の近くには鍛冶屋が住みつくようになります。「中須」の下方から河原、中島など低湿地帯の水田開発は、室町時代・戦国時代とさらに拡大して行きます。この地域の中心は、川沿いに開けていきます。
 地頭方は毎月「2」の付く日(2日、12日、22日)に地図の2の上市井村(かみいちいむら)で、市庭を開くようになります。
「4」の付く日や「8」の付く日ではなく、「2」の付く日に市庭を開いたのには、次のような目論見がありました。地頭方は利益を生み出すために、まず川上の二日市庭で物資を集め、翌日に川下の①の三日市庭(現在の新見市街)で、売りに出したのです。三日市庭は二日市庭よりも規模が大きく、領家方や新見荘以外の人物とも取引をできる機会があったので、より多くの収益が見込めまします。二日市庭で集めた物資は舟に積み込まれ、その日のうちに高梁川を南に下り、翌日に三日市庭で売りに出されるという寸法です。
   ②の二日市庭は地図で見ると、地頭方の支配の拠点である③「地頭方の政所」の目と鼻の先にあります。地頭方は支配の拠点と経済・流通の中心地を、同じ場所に設けていたことが分かります。
新見荘領家政所

一方、領家方の東寺の③「領家方の政所」付近で市庭が開かれることはなかったようです。
江戸時代 

新見荘江戸時代
新見荘 江戸時代
江戸時代の大きな変化は、「中須」から河原一帯に散在していた屋敷が、すべて山ぞいの小高い場所に集中したことです。山裾への民家の集住化が起きたのです。これが近世の村の登場になります。定期的に襲ってくる洪水などへの対応策だったのかも知れません。結果としては、水田と住居が分離します。それは「生産現場と生活の場の空間的な分離」と云えるのかも知れません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 朝日百科 日本の歴史 中世

引田 新見1
 新見の荘から倉敷→塩飽→引田→兵庫→淀を経ての帰路

以前に永禄九(1566)年に「備中国新見庄使入足日記」を紹介しました。そこには、新見にあった京都・東寺の荘園の役人が、都へ帰って行くときの旅費計算記録が載せられていました。彼らは新見から高梁川を荘園専用の川船で、河口の玉島湾まで下っていました。
 今回はそれ以後の高梁川の高瀬舟の活動を見ていきたいと思います
高梁川3

高瀬舟といえば、川舟の一種で森鴎外の小説「高瀬舟」に登場してきます。「高瀬」は辞書では、「川の瀬の浅いところ、浅瀬」とあります。高瀬舟の名前の由来も川の浅瀬に対応できるように、舟底が浅く平らであり、いわば浅瀬舟のイメージで「高瀬舟」と呼ばれるようになったという説が一般的です。
 一方、平安時代の百科辞書「和名類聚抄」では、高瀬舟の特徴は「高背たかせ(底が深い)」とあり、川漁などする当時の小舟と比べて、やや大きくて底の深い舟であったとする説もあります。
高瀬舟模型 勝山歴史博物館

 慶長12年(1607)角倉以子(すみのくらりょうい)が、高瀬川・大堰川に、川舟を浮かべたことから、高瀬舟と呼ばれるようになったと云われます。しかし、備中の高梁川や吉井川には、それ以前から川舟が数多く往き来していたことは史料から分かります。
角倉了以は、慶長九年(1604)安南(ベトナム)航海を終えて帰国した際に、高梁川に浮かんでいる川舟を見て、このような形の舟であれば、どんな急流でも就航が可能であることに気付き、備中から舟大工や船頭をつれて京都に帰り、高瀬舟を作り、大堰川を開いて、丹波国から洛西の嵯峨へ物資を運ぶ舟を通わせたとされます。高梁川の川船が高瀬舟のモデルになったようです。
高瀬舟(京都) 船曳
京都の高瀬舟 曳舟
  
 私も何回かカヌーでこの川を下りました。今はダムが上流にあるため水量が少なくなり井倉洞あたりでは水深も浅く、場所によってはカヌーの底をこするような所もありますが、流れはゆるやかで初心者にやさしい川下りゲレンデを提供してくれます。
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高梁川

 高梁市の市街地をゆったりと流れていると、かつての川船の船頭になった気分で鼻歌まで出てきそうな気がします。成羽川と合流すると水量も一気に増えて、大河の片鱗が見えてきます。今でも川船が舫われ、川漁が行われていることがうかがえます。
DSC08328
川岸に舫われた高梁川の川船

かつての川湊らしき所が見えてきます。この川は室町時代以前からも、新見の荘園の物資や鉄などを積んだ川舟が往き交い、幕末のころには、その数130隻にも及んだといいます。
DSC08308

  グーグルで見ると、備中を北から南に流れる高梁川は、奥深い中国山地にその源を発し、瀬戸内海の水島湾に注いでいます。逆に見ると、高梁川の河口、倉敷市の水島港から川を登ると総社市、高梁市、新見市とへ中国山地の源流地帯へと続きます。この川筋を辿って新見までやってくれば、山陰地方の人たちも、高梁川を上下する高瀬舟で、倉敷へ舟で下って行くことができたことになります。高梁川は、川筋の平野を潤すとともに、人やモノの移動の動脈だったことが分かります

 「幹流高梁川船路見取図 大正六年八月調査」井上家文書 
 新見市には、高梁川沿いに、かつての船着場が保存されています。
高梁川高瀬舟船着場
新見市の船着場跡

船着場には寺院が有り、川船の管理センターの役割を果たし、荘園管理も行っていたのでしょう。新見荘には、鎌倉時代の文永八年の「検注目録」に、船人等給が出てきます。ここからは新見の荘には、何人かの河川交通の専門家、船人がいたことが分かります。また、新見の「市」のたったところは、中洲という地名です。これは、新見の町が川の中洲にできた町が起源だったことを示していると研究者は指摘します。
高梁川1
高梁の川湊と高梁川
私は新見が川船のゴールだと思っていましたが、さらに奥まで行っていたようです。津山や勝山や広島県の三次からもカヌーで下ったことがありますが、吉井川や高梁川、旭川、江ノ川のように、河口の拠点湊から奥地の内陸部の川湊まで、大小の川を体内の血管のように川が交通路として機能していたことが分かります。
DSC08347
現在の高梁市と高瀬川


高梁川の支流の成羽川の難所を開墾して河川を開いた、律宗の僧侶で実専という人がいます。
彼の記念碑が「笠神文字石」という自然石の石碑として高梁市備中町にはありました。徳治二年(1307)に、成羽善養寺の僧尊海と、西大寺の奉行代実専が中心になって、成羽川の10ヵ所の瀬を笠神船路のため開削したと刻まれています。ここに石切大工として名前が刻まれている伊行経は、鎌倉時代初期に東大寺の再建のため招かれた南宋の石工、伊行末の一族とされます。現在は新成羽川ダムのため水没してしまいました。河川交通整備のための努力が中世から続けられてきたことが分かります。
高梁川高瀬舟 井倉洞
高梁川の井倉洞付近をいく高瀬舟

山本剛氏「高瀬舟と船頭並びに筏渡船」には、高梁川の川船のことが記されています。
その中に川船で瀬戸内海を渡り、金毘羅詣りをした話が載せられています。
高瀬舟といえば底の浅い川舟です。川船で海を越えるというのが驚きです。その話を見ていくことにします。守田寿三郎翁は、次のように語っています。
「明治30年頃、村長であった父瞭平が、川口石蔵さんの新造船で金昆羅詣りに招待された。帰りには、玉島から強い南風を帆いっぱいに受けたので、玉島を朝出て昼頃には水内に着いた」

高瀬舟の進水祝いに金毘羅詣でに出掛けたようです。高梁川の河口から出港し、海を越えているようですがどこの湊に入ったかは分かりません。帰りは玉島港からは、折りから吹き始めた南風を受けて川を上ったことが分かります。

高梁川高瀬舟 金毘羅詣で

 別の船頭は、次のように語っています。
「高瀬舟で四国へ渡るには、潮が引き始めると、潮に乗って玉島を出港した。追手風が吹くときに帆を揚げて、本舵操縦して渡った。途中、本島へ着くと潮待して、潮が満ち始めると、潮に乗せて舟を出し、追手風が調子よく吹くときには潮待しなくても渡れるときもあった。風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半くらいで渡ることができた。潮待ちして海を渡るときは、丸亀まで六時間、多度津へは七時間くらいかかった。
 昼間、海を渡っていて、突風にさらされ、もうこれまでと絶望したことが幾度かあった。その時は、 一番近い島影に退避して、風の治まるのを待った。昼間は突風が起きる危険があるので、穏やかな風の吹く夜を選んで渡ることが多かった。風の強く吹く時には「風待ち」といって、港や島影で、二日でも三日でも風の静まるのを待った」

ここからは次のようなことが分かります。
①引潮にのって玉島を出て本島で潮待ちして、満ち潮になると丸亀をめざした
②追風だと潮待ちなしで坂出まで2時間半
③潮待ちして本島経由だと丸亀へ6時間、多度津へ7時間
④昼間の突風を避けるために、穏やかな風の吹く夜が選ばれた。
⑤強風の時には「風待ち」のために、何日でも待った

潮待ちに本島(塩飽)に立ち寄っています。
そういえば「備中国新見庄使入足日記」の東寺の僧たちも、本島で長逗留していたことを次のように記していました。
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。そして、塩飽(本島)の湊で10月11日まで長逗留しています。これは、上方への便船を待っていたようです。本島が潮待ちの湊として機能していたことがうかがえます。
ここで疑問なのは、「風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半」とあり、坂出も寄港対象となっている点です。多度津・坂出は金毘羅船の帰港地として栄えていましたが、坂出がでてくるのがどうしてなのか私には分かりません。
備中松山城 城と町家と武家屋敷
高梁川の高瀬舟(高梁市)
高梁川で使っていた舟の大きさは、全長五十尺(約15m)、幅七尺(約2m)で舟底は浅いものでした。
いくら穏やかな瀬戸内海とは云え、風が吹けば波が立ちます。特に突風に会うと転覆する危険がありました。平底の川舟で波や風のある海を渡るのは、細心の注意が必要だったようです。高瀬舟の船頭たちは、遥か海上から金毘羅さんに向かって手を合わせ、航行中の安全を祈願してから船を出したと云います。そこまでして自分の船で、海を渡り金毘羅さんへの参拝することを願っていたのでしょう。金毘羅信仰の強さを感じます。
まにわブックス
旭川の高瀬舟
 高梁川は備中松山城の城下町である高梁から上流は川幅も狭くなり、落ち込みの急流もあって、危険箇所がいくつもあったようです。それが慶安三年(1650)藩主水谷勝隆が新見まで舟路を整備し安全性が増します。そのため輸送量が増えるとともに、山陰地方の人々が、新見まで出てきて、高瀬舟で瀬戸内海に出るというコースも取られるようになります。金昆羅詣りに使われた記録も残っています。
高梁川 -- 高瀬舟

 上流には難所と云われる船頭泣かせの急流もありました。そのため舟の安全航行を願って、金毘羅信仰を持つ船頭が多く、お詣りも欠かさなかったようです。彼等の間では、高梁川の支流・成羽川の流れに、薪を削って「金毘羅大権現」と墨書して投げ入れ、これを拾った者が、金毘羅さんに奉納するという風習があったようです。それでも、長い歴史の内には、高瀬舟の転覆事故が発生しています。
高梁川の上流に一基の慰霊碑が残っています。
寛政七年(1795)6月8日、新見から高梁川を下った舟が、阿哲峡の広石で転覆し、金毘羅詣りの乗客15人が溺死しています。碑には、遭難した人の出身地と名が刻まれているが、その中には、地元の人以外に、雲州(島根県)の人が6人含まれています。これらの人々は山道を歩いて、新見にやってきて、ここの舟宿の高瀬舟に乗り込んだのでしょう。定員30名の客船だったようですが、阿哲峡の難所を乗り切れなかったようです。
 高梁川の中流、総社市原には、昭和20年ごろまで、高瀬舟の造船所が残っていたようです。市原には、船大工、船元、船頭、船子たちが集落をなして住居していて、殆んどの者が室町時代からの世襲であったといいます。毎日、30隻近くの高瀬舟が荷物や船客を乗せて上り下りしていました。昭和3年10月25日に国鉄伯備線が全面開通します。高梁川沿いを走る伯備線の登場は、それまでの運輸体系を一変させます。昭和15年には高瀬舟は、その姿を消してしまいます。
高梁川高瀬舟と伯備線
伯備線の開通と高瀬舟
   
高梁川を行き交う川船の船頭達の間には、いつしか金毘羅信仰がひろがりました。そして、金毘羅参りに自分の川船を操って海を渡っていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 妹尾勝美 高瀬舟で金毘羅参り ことひら52 H9年
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桶狭間の戦いが行われて数年後の永禄九(1566)年、備中新見から京都までの移動記録があります。「備中国新見庄使入足日記」です。高梁川を遡った新見は、京都の東寺の荘園でした。そこでこの荘園と東寺との間には人とモノの行き来があり、それを記録した文書ももたくさん残されています。この文書は新見荘を管理するために派遣されていた役人が、都へ帰ってくるときの旅費計算記録です。だから途中でいくらかかった、どこに泊まっていくらかかったという旅費計算がしてあります。お金が絡むことなので、丁寧に書かれています。しかし、残念ながらそれ以外の記述は何もありません。実に実務的な文書ですが、このコースの中に何故か讃岐が出てくるのです。
 戦国時代の旅費計算書を見てみましょう。
新見庄を出発して高梁川を下って松山、それから高山、それから倉敷、塩飽、引田、兵庫、堺、大坂、守口、枚方、淀、八幡(石清水八幡宮)というルートです。
引田 新見1

永禄九年(1566)備中国新見庄使入足日記
教王護国寺(東寺)文書
永禄九年九月廿一日使日記
廿一日、二日 十六文  新見より松山へ参候、同日休み
廿八日     三文 人夫 高山より舟付迄

 「永禄九年九月廿一日使日記」、これがタイトルのようです。
9月21日に新見を出発しています。歩いての移動ではありません。高梁川の川船で下っていくのです。
高梁川3
廿一日、二日、二日間で十六文、日付の後には費用が書かれます。ここでは松山の宿代のようです。
「新見より松山へ参候、同日休み」
とあります。松山は「備中松山」で今の高梁のことです。ここで休憩のようですです。

高梁川1
高梁と高梁川
どうして松山で休息し、長逗留するのでしょうか。
当時は、松山に備中の国の守護所がありました。そこで、挨拶に上がったようです。守護所関係者に黙って通過というわけにはいかないのでしょう。ちなみに当時の備中守護は京兆家の細川氏で、本家の方の讃岐の宇多津に守護所を構える細川家の分家筋にあたるようです。そのため備中と讃岐の間に開ける備讃瀬戸は、細川氏の支配下にあったことになります。つまり、瀬戸内海の海上交通を細川家は真ん中で押さえることができていました。
備中松山というと、ずいぶん内陸に引っ込んでいるように見えますが、実は高梁川を使っての川船で瀬戸内海につながっていたことが分かります。

高梁川2
廿八日 三文 人夫 高山より舟付迄
「廿八日三文」、これは人夫賃です。荷物を運んでもらってます。
舟付というのは船着場のことです。高山は総社市高山城(幸山城・こうざんじょう)の近くにあった川港のようです。標高162mの山城からはゆっくりと流れ下る高梁川は眼下に見えます。重要輸送ルートである高梁川防備の戦略的な位置にあります。倉敷の手前までやってきたようです。
「廿八日夕、九日朝、四十文、旅籠、舟付迄」。
28日は高山に泊まって、翌日に旅籠をでて船着場に向かい、再び川船で倉敷に向けて下っていきます。

1 塩飽本島
塩飽本島(上が南)

倉敷から塩飽へ
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 
          十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て、高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。高梁川の川船の船賃は書かれていません。
ここまでは、船賃が請求されていないのはどうしてでしょうか?
高梁川は、新見庄の舟で下ってきたようです。鎌倉時代の史料から新見庄には、荘園に所属している水夫がいたことが分かります。カヌーで高梁川を下ると分かるのですが、この川は緩やかな川で初心者クラスでも川下りが楽しめます。特に高梁から下流は瀬もほとんどなく、ゆったりのんびりとした流れです。ここを昔は川船が行き来たことが納得できます。新見・松山・高梁と倉敷は高梁川でつながっていたことがよく分かります。
十文つゝの二人分
というのは二人で移動しているので経費はすべて二人分です。宿賃はどこの宿も十文です。そして150文が倉敷から塩飽までの二人分船賃です。宿代に比べると船賃が高いという気がします。塩飽のどこに着いたのかは何も書かれていません。しかし、当時の様子から考えると本島北側の笠島集落が最有力のようです。

本島笠島
「九月晦日より十月十一日迄、旅寵銭」、
9月29日から10月11日まで、塩飽での長逗留です。
ここで疑問
①なぜ塩飽にやって来たのでしょうか? 
牛窓方面から室津と山陽道沖合航路を進まないのでしょうか?
②なぜ塩飽で11日間も留まるのでしょうか。
①は、倉敷から塩飽への船賃は150文と記されますが、塩飽から次の寄港地までの船賃はありません。ここから先ほどの川船と同じように東寺の持舟を利用したことが考えられます。
本島笠島3

②については
当時は「定期客船」などはないので、商船に便乗させてもらっていました。当時の塩飽諸島は瀬戸内海という交易ハイウエーのサービスエリア的な存在で、出入りする商船が多かったのでしょう。そこに寄港する便のある東寺所属の商船の到着を待っていたのかもしれません。
十二日 十二文    米一升、舟上にて
 同日  五文     はし舟賃
十三日 舟二文    旅篭 引田
十四日  二文    同所    
十五日  二文    同所
   四十二文   米三升五合 たうの浦にて
十六日より十九日迄  同所
十九日 十文     宿賃
廿日より廿四日迄 百六十文   兵後(兵庫)にて旅篭
 壱貫百五十文 しはくより堺迄の舟賃
塩飽(本島)から引田へ
12日になって「舟の上で米を1升買った」とあります。ここから12日、塩飽のどこかの港から出港したことが分かります。
同日12日の「五文 はし舟(端舟)賃」とは、
端舟は、はしけのことのようです。港まで入港できず沖で待つ客船への渡賃が五文のようです。どこに着いたのかは翌日の旅籠代の支払先で分かります。なんと引田です。

引田 新見2
京都に向かうのにどうして引田へ?
  引田は讃岐の東端の港町です。今では香川の「辺境」と陰口をいわれたりしていますが視点を変えて「逆手にとって発想」すると、近畿圏に一番近い港町ということにもなります。そして、背後には古代のハイウエー南海道が通ります。そのため、都と讃岐の往来の一つの拠点が引田でした。
例えば
①平家物語の屋島合戦への義経ルート、
②鎌倉時代の南海流浪記の道範ルート、
など、讃岐への入口は引田です。

siragi
   引田の地理的な重要性について
引田は、南海道と瀬戸内海南航路という陸上交通と海上交通が連結ポイントになっていたようです。讃岐の人が都へ上ろうと思ったら、引田まで行けばいいわけです。そこまで行くのは、自分で歩いいく。これは、ただでいけます。そして引田から舟に乗るのです。宇多津あたりから乗ると、宇多津から引田までの船賃がかかります。だからなるべく東の方へ、東の方へと歩いて行く。そして、引田から乗るというのが中世の「作法」でした。
中世の和船
 「兵庫関雑船納帳」に出てくる引田舟を見てみましょう
当時、兵庫津(神戸港)には、海の関所が設けられていました。これを管理していたのは、東大寺です。後に春日大社、興福寺も加わります。この文書は、東大寺の図書館に残っていたもので、室町時代の終わり頃の文安二年(1455年)のものです。ここには、小さな船についての関税の台帳が載っています。一艘につき一律四五文の関税が課せられています。
『兵庫関雑船納帳』(東大寺図書館所蔵)
(文安二年(一四四五)七月)廿六日(中略)
四十五文 引田 人舟 四十五文 大木五六ハ 人舟 引田
四十五文 引田 四郎二郎    大木ハ五ハ
「人舟」とあるのは、人を運ぶ船、
「大木五十ハ」の「ハ」は一把二把の把だそうです。一束が一把になります。
大木五十把とは、何を運んでいたのでしょうか。
この舟は薪を運んでいたようです。都で使うための薪が、瀬戸内海沿岸の里山で集められ、束にして船で都に運ばれていたのです。木を運ぶ船という意味で木船と呼ばれていたようです。都の貴族達の消費生活は、燃料までもが地方からの物品によって支えられていたことが分かります。日常品が大量に瀬戸内海を通じて流通していたのです。
兵庫北関1
   兵庫北関を通過した舟が一番多い讃岐の港は?
  この表からは宇多津・塩飽・島(小豆島)に続いて、NO4に引田が入っていることが分かります。その数は20艘で、宇多津や塩飽の約半分です。
兵庫湊に入ってきた讃岐船の大きさを港毎に分類したのが下の表です。
兵庫北関2
200石を越える大型船が宇多津や塩飽に多いのに対して、引田は50石未満の小型船の活動に特徴があるようです。
  どんなものが運ばれていたかも見ておきましょう。
兵庫北関3
  積み荷で一番多いのは塩で、全体の輸送量の八〇%にあたります。
ちなみに塩の下に(塩)とあるのは塩の産地名が記入されていたものです。例えば「小豆島百石」と地名が書かれていて「地名指示商品」と研究者は呼んでいるようです。これが塩のことです。塩が作られた地名なので、( )付きで表しています。

中世関東の和船
  関東の中世和船
 こうしてみると讃岐の瀬戸内海港とは「塩の航路」と呼べるような気がしてきます。古代から発展してきた塩田で取れた塩を、いろいろな港の舟が運んでいたことが分かります。塩を中心に運ぶ「塩輸送船団」もあったようです。それは片(潟)本(古高松)・庵治・野原(高松)の船で、塩専門にしており、資本力もあったので、持船も比較的大きかったようです。
 話を引田に戻すと、引田にも中世から塩田があったので、地元産の塩を運ぶと同時に、周辺の塩も運んでいたようです。こうして引田湊は、港湾管理者としての役割を担っていた誉田八幡神社を中心に、商業資本の蓄積を進めていきます。この旅行者達がやってきてから20年後には、秀吉のもとで讃岐領主となった生駒親正は、この引田に最初の城を構えます。それは、東讃一の繁栄ぶりを見せていた湊の経済力を見抜いたからだと私は考えています。
   引田で長居しすぎたようです。結局10月12日に塩飽からやってきて、19日まで引田に逗留していたようです。引田の交易上の重要性を再確認して、今日はこれくらいしにします。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 県立文書館紀要3号(1999年)

                          

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