瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:日本史

やってきたのは塩入駅  立っているのが増田穣三像

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いまは無人駅となり乗降客もめっきり少なくなった塩入駅。
その駅前の広場の東の隅の方にぽっつりと立っている銅像。
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近づいてよく眺めてみる。
なで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いている。
 私の第1印象は、「威張っていない。威厳を感じさせない。
政治家らしくない像」で「田舎の品のあるおじいちゃん」の風情。
政治家としてよりも、華道の師匠さんとしての姿を表しているように感じる。彼は若い頃は呉服屋の若旦那ででもあったようで着物姿が似合っている。ちなみにこの像は穣三の生前80歳の時に作られたもの。増田穣三の意図を感じる。
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 増田穣三に関する資料や写真は、あまり残っていない。
 県議時代から春日の本宅を留守にして、高松で暮らすことが多かったようだ。穣三の死後は、増田家は高松に移っていたが高松空襲で消失し家財一切を失ったという。
下は県会議録等の数少ない「政治家としての増田穣三」の写真である。 
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「香川新報」は、県会議長を務めていた彼の風貌を次のように紹介している。 

「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いてその地位を表彰す」
躰は小さいが、躰の釣り合いバランスはよく、ハンサムで動きはメリハリがあり、優雅な印象を与える。鼻の下の髭と、薄い髪がそれを補う。
  写真からもその雰囲気が伝わっている。
なぜ、政治家としての壮年期の姿を銅像にしなかったのか。
代議士引退後の姿を銅像としたのは、どうしてだろうか。
この銅像を見ながら疑問が膨らんできた。

台座碑文は、次のような文で閉じられている
翁今年80にして康健壮者の如く 猶花道を嗜みて日々風雅を提唱す。郷党の有志百謀って 翁の寿像を造り 以て不朽の功労に酬いんとす。余翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾 
     昭和12年5月  東京 梅園良正 撰書
ここから分かることは生前80歳の時に建立計画が建てられたこと。それを進めたのは、当時の七箇村長でもあり県会議員でもあった増田一良で、増田本家の当主であり、穣三の従兄弟にもあたる人物である。
 揮毫したのは宮内庁の書記官で、書道関係の出版物も多く、明治の著名人の碑文を数多く残している当時著名な書道家であった松園良正である。「余翁と姻戚の間に在る関係」から増田一良から揮毫を依頼されたようだ。
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 戦後に再建された像(原鋳造にて:三豊市山本町辻)

再建されていた2つの銅像

 この銅像の台座碑文を調べていて、山下谷次の銅像と共通点があることに気づいた。年表を見ていただきたい。
1934 昭和9年9月 増田一良 第6代七箇村長就任(~昭和13年7月まで)
1936  昭和11年6月8日 山下谷次死亡
1937 昭和12年増田穣三の銅像建立(七箇村役場前)→ S18年銅像供出 
1938 昭和13年9月山下谷次の銅像建立(村会の決議で)→S18年銅像供出
1939 昭和14年2月22日 増田穣三 高松で死去(82歳)七箇村村葬により葬られた。
1952 昭和27年6月5日  山下谷次像が17回忌に旧大口小学校に再建 
1963 昭和38年3月 増田穣三像が場所を変えて塩入駅前に再建
         ?          山下谷次像が旧仲南中学校正門上に移築

 昭和9年 増田一良が七箇村長になると銅像の「生前建立計画」が進められ、それに刺激されるかのように隣村の旧十郷村でも山下谷次像の建立が行われている。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により二つ共に姿を消すことになる。
 谷次の銅像は戦後の昭和27年、17回忌に元の位置に再建された。それから十年近く遅れて、増田穣三像も再建されたが建てられたのは塩入駅前に移された。その際に、台座は以前のものを使って再建されている。
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S38年に三豊市山本町辻の原鋳造所で再建された増田穣三像。
その前に立つ穣三の長男増田収平氏の写真が残っている。

 一方、山下谷次像は仲南中学の新設後に現在地に移築された。
両銅像ともに、戦中を挟んで一度は姿を消した過去があるようだ。

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増田穣三像の台座碑文に刻まれた略歴は?(仲南町誌1319P掲載分より) 

 塩入駅前の増田穣三像の台座碑文は、三面にわたりびっしりと刻まれている。しかし、建立から80年経ち摩耗部分もあり読み取りにくい。苦労していると「仲南町史に全文が載っとるで」と教えてくれる先達がいた。仲南町史を開いてみると確かにあった。
長くなるが全文を紹介したい。(現代文に意訳)
安政元年(1858 8月15日)生 昭和14年(1939年2月22日)没
七箇村春日の生まれで、増田伝二郎の長男。秋峰と号す。
安政5年8月15日に讃岐琴平の東南に位置する七箇村に生れた。伝次郎長広の長男で母は、近石氏。初め喜代太郎と称していたが30歳を過ぎて穣三と改名した。秋峰洗耳は譲三の号である。
幼い時から理解が早く賢く、才知がすぐれていて判断や行動もすばやかった。日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に就いて和漢の学を修め、また如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の奥義を究め遂にその流派「如松斉流」の家元を継承し多くの門下生を育てた。明治23年に、開設された村会議員となり、明治31年には2代村長に推され、琴平・榎井・神野・七箇の一町三村道路改修組合長として、道路建設等の郷土の開発に力を尽くした。明治33年には、香川県会議員に挙げられ以後、当選三回に及んだ。その間に県参事会員や副議長・議長等の要職に就き、その職務を全うした。
明治35年には、郷村小学校敷地を買収して校舎を築き、さらに児童教育の根源を定めるとともに、同村基本財産となる山村三百余町歩を購入して、山林活用と副産物の生産を図った。明治45年には、衆議院議員に初当選し、大正4年には再選し、国事に尽くした。大正11年1月には大礼参列の光栄を賜った。これより先には四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走し、土讃線のルート決定に大きな功績を残した。譲三氏は、用意周到で考え抜かれた計画案を持って事に当たるので、企画した物事が円滑に進むことが多く、多くの人々の衆望を集めていた。 

碑文から分かる経歴のポイントを押さえておこう。

 安政元年(1858 8月15日)生ということは、明治維新を10歳前後で迎えた世代ということになる。昭和14年(1939年)82歳で没ということは、太平洋戦争開戦前には亡くなっている。生まれはまんのう町(旧七箇村)春日。
明治23年 村会議員と為り(33歳)
  31年 村長に推され又(41歳)
  33年 香川県会議員に挙げられ(43歳)
    参事会員 副議長 議長等に進展して能く其職務を全うす 
  45年 衆議院議員に挙げられ(55歳)
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政治家としては30歳代で村会 






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空海に虚空蔵求聞持法を伝えたのはだれか?

虚空蔵求聞持法の梵字真言 | 2万6千人を鑑定!9割以上が納得の ...
空海の若い時代については分からないことが多いのですが、「大学」をドロップアウトして沙門として山岳修行に入っていくのも一つの謎です。真魚(空海)は、「大学」で学ぶために長岡京に出て、そこで「一沙門=僧侶」に出会い虚空蔵求聞持法を学んだと云われます。空海が虚空蔵求聞持法を学んだ師である「一沙門」とは誰なのでしょうか?

これについては2つの考え方があるようです。

『続日本後紀』や『三教指帰』などには「一沙門」としか書かれていないので具体的な人名は分からないというのが「定説」のようです。

虚空蔵求聞持法
これに対して具体的な空海の師の名前を挙げる研究者もいます。

例えば平野邦雄氏は、次のように云います
「勤操を師としたという『御遺告』の説は『続日本後紀』や『三教指帰』などには、一沙門としかないので、信用できないという人もいるが、道慈-勤操-空海という師承関係はみとめてよいのではないかと思う」
空海の師とされる「道慈-勤操」とは、何者なのでしょうか?
大岩岩雄は大著「秦氏の研究」で、渡来系秦氏の果たした役割を体系的に明らかにして行く中で、空海と秦氏の関係にも光を当ていきます。空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかを見ていくことにしましょう。 

まず虚空蔵求聞持法が、いつだれによって伝来したかです。

それが道慈だとされます。彼は大宝二年(七〇二)に入唐し、養老二年(七一八)に帰国しています。入唐中にインドの僧善無量三蔵から虚空蔵求聞持法を伝授されます。道慈は渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身です。大和郡山市額田部寺町にある額田寺は、額田氏の氏寺で境内から飛鳥時代の古瓦が出土しています。この寺には道慈が自ら彫刻して本尊にしたとされる奈良時代の乾漆虚空蔵菩薩半珈像(重要文化財)あります。
日本最古の虚空蔵菩薩像のお寺『額安寺』@大和郡山市 (by 奈良に住ん ...
 
この寺に伝わる鎌倉時代の「大塔供養願文」にも、道慈が帰国後に虚空蔵菩薩を本尊にして、額田寺を額安寺に改めたとあります。寺宝の道慈律師画像には「額安寺住職一世」と書かれています。虚空蔵菩薩像を本尊にすることによって、額田寺は額田氏の氏寺から脱皮し、寺号も額安寺となります。 

 道慈については

『続日本紀』の天平十六年十月二日条に、彼が「大安寺を平城に遷し造る」と書き、『懐風藻』の道慈伝も「京師に出で大安寺を造る」とあるように、大安寺を平城京に移築した僧でもあり、山岳密教的傾向が強かった僧侶です。
 南都七大寺 大安寺 | そうだった、京都に行こう(京都写真集)

 山城の秦氏の山岳信仰の山に愛宕権現を祀って、秦氏の愛宕山信仰を発展させたのも大安寺の僧です。
虚空蔵菩薩信仰の成立については、次のような説もあります。


また、貞観二年(八六〇)に宇佐八幡神の分霊を、山城の石清水に遷座したのも、大安寺の山岳密教系の僧です。このように、道慈の虚空蔵求聞持法と道慈が平城京に建てた大安寺は、秦氏と深くかかわっていたようです。道慈は、天平十六年(七四四)に亡くなっています。

勤操は、天平勝宝六年(七五四)に生まれていますから、

この二人の間に直接の師弟関係はありません。二人の間を結ぶのは、道慈・勤操と同じ大安寺の僧、善議(七二九~八二一)です。善議は道慈と一緒に入唐しています。この善議から勤操は、虚空蔵求聞持法を学んでいるようです。
 先ほど紹介した奈良時代に作られた額安寺の虚空蔵像の『造像銘記』には
「この虚空蔵菩薩像は、道慈が本尊としていたもので、入唐求法のとき、善無畏三蔵から虚空蔵求聞持法が伝えられ、帰国後に求聞持法を善議に授け、それは、護命ー勤操ー弘法大師によって流通された」
と記してあり、善議と勤操の間に護命が入っていることを記しています。
 護命は天平勝宝二年(七五〇)生まれで、勤操より四歳年上で虚空蔵求聞持法を、吉野の比蘇寺で学んでいます。
 『今昔物語』巻十一の九の弘法大師の話には、
十八歳のとき大安寺の勤操僧正に会って、虚空蔵求聞持法を学び、延暦十二年に勤操僧正によって和泉国横尾山寺で受戒し、出家した
と書かれています。
南都大安寺 - 勤操忌 勤操忌厳修しました。 勤操大徳は大安寺初代別当 ...

これに対しては、先ほど述べたように『三教指帰』に「一沙門」とあるので、勤操から空海が虚空蔵求聞持法を学んだという文献を認めない人が多いようです。私が今までに読んだ文献も、この立場にたつ書物が多かったように思います。この立場の人たちは、空海の受戒が槇尾山寺で勤操によつておこなわれたという文献も認めません。空海の受戒や師については「ダーク」なままにしておこうとする雰囲気があるように私には思えます。
 仁王門 - 和泉市、槇尾山施福寺の写真 - トリップアドバイザー

空海は唐から帰国後一年か二年余、九州にいて高尾山寺に入るまで槇尾山寺にいました。

唐に渡る以前に空海がこの寺で受戒を受けたという伝承を頭に入れると、この事情はすんなりと理解できます。この辺りの「状況証拠」を積み上げて「勤操は空海の師」説を大和岩雄氏は補強していきます。そして次のように続けます。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」
「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」
 空海が帰国後、槙尾山寺-高尾山寺にいるのは、秦氏出身の勤操の存在が大きいと指摘します。 

空海から虚空蔵求聞持法を伝授されたのが讃岐の秦氏出身の道昌です。
法輪寺道昌遺業 大堰阯」の石碑(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 ...

彼は、天長五年(八二八)に神護寺(高尾山寺)で、空海によって両部濯頂を受け、その8年後には、太秦の広隆寺の別当となり、後には「広隆寺中興の祖」と呼ばれるようになります。広隆寺は山城秦氏の氏寺で、新羅から送られたといわれる国宝第一号の弥勒菩薩で有名です。また、道昌は秦氏が祀る松尾大社のある松尾山北麓の法輪寺の開
山祖師
でもあります。

道昌が葛井寺を修営し規模を拡張し、寺号を法輪寺に改めました。『源平盛衰記』著四十の伝承では、この寺は天平年中(七二九~七四九)に建立後、約百年後に道昌が、師空海の教示によりここで、百か日の虚空蔵法を行い、五月に生身の虚空蔵菩薩を体感し、一本木で虚空蔵菩薩を安置し、法号を法輪寺として、神護寺で空海自らこの像を供養したといいます。そして、一重宝塔を建て虚空蔵菩隣像を安置し、春秋2期、法会を設けて、虚空蔵十輪経を転読したとあります。
 道昌は参寵の前年に、空海から両部濯頂を受けていますが、この時に虚空蔵求聞持法を伝授され、百ヶ日の修行に入ったようです。大和の斑鳩の法輪寺には、かつて金堂に安置されていた飛鳥時代の虚空蔵菩薩立像(国宝)があります。この寺は聖徳太子の追善のため建てられた寺で「虚空蔵菩薩像のある寺=法輪寺」から、葛井寺も法輪寺に改めたようです。

以上のように虚空蔵求聞持法の継承ラインは、道慈→善儀→勤操→空海→道昌と続きます。その特徴としては

①すべて大安寺の僧であること、
②そのトップである大安寺の道慈が密教的傾向が強く、その系譜が受け継がれていること
③同時に渡来系秦氏がおおきな役割を果たしていること
最後に虚空蔵菩薩信仰の成立については、渡来集団の秦氏の星座信仰(妙見信仰)が基礎になって成立したという次のような説もあります。
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

この方が私にはすんなりと受け止められます。

 どちらにしても若き空海がエリートコースである「大学」をドロップアウトしたのは、虚空蔵求聞持法との出会いでした。それを介した人物がいたはずです。それが誰だったのか。また、その人達の属する集団はどうであったのかを知る上で、この本は私にとっては非常に参考になりました。
虚空蔵求聞持法 - 破戒僧クライマーの山歩録
参考文献 大和岩雄「秦氏の研究」大和書房

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