瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:日本山海名産図会

 「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠」には、次のように記されています。
○生海鼡(なまこ) 𤎅海鼡(いりこ) 海鼡膓(このわた)
是れ、珍賞すべき物なり。江東にては、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤。西海にては、讃刕小豆島、最も多く、尚、北國の所々にも採れり。
 中華は、甚だ稀なるをもつて、驢馬(そば)の皮、又、陰莖を以つて作り、贋物とするが故に、彼の國の聘使、商客の、此に求め歸ること、夥し。是れは、小児の症に人參として用ゆる故に、時珍、「食物本草」には『海參』と号く。又、奧刕金花山に採る物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含む。故に是れを「金海鼡(きんこ)」と云ふ。
        意訳変換しておくと
 海鼠は珍賞すべき品で、東国では、尾張和田・三河柵の島・相摸三浦・武藏金澤に多く、西海では讃岐小豆島が最も多い。また、北國でも獲れる。中国では海鼠を、非常に貴重な物として、驢馬(そば)の陰莖で贋物が出回るほどである。そのため中国からやってきた使節団や商客は海鼠を買って歸ること夥い。これは子供の虚弱症の薬として用いるためで、李時珍の「本草草木(食物本草)」には『海參』として紹介されている。また東北の金華山沖で獲れる物は、形、丸く、色は黃白にて、腹中に砂金を含  むので「海鼡(きんこ)」と呼ばれている。

  ここからは次のようなことが分かります。
①中国では海鼠が本草草木で『海參』とされ、小児病の妙薬で朝鮮人参に匹敵するほど貴重なものであった。
②そこで長崎にやって来る中国使節団や商人たちは、海鼠を争って買って帰った。
③西日本最大の海鼠供給地が小豆島であった。
 
金華山の海鼠
                金華山沖の海鼠「海鼡(きんこ)」(栗氏千虫譜第8冊)
  海鼠はどんな風にして捕っていたのでしょうか?
 日本山海名産図会には、「讃州海鼠捕」と題された絵図も載せられています。
小豆島沖の海鼠取り
小豆島沖の海鼠取り
  海岸近くの岩礁の沖で船から玉網ですくっているようです。気になるのは右手の船の船主の漁民が筒にいれたものを海に流し込んでいる姿です。何を流しているのでしょうか? 

海鼠猟
  小豆島沖の海鼠取り(拡大図 筒から何かを海に流している)

註には次のように記されています。
○漁捕(ぎよほ)は、沖に取るには、䋄を舩の舳(とも)に附けて走れば、おのづから、入(い)るなり。又、海底の石に着きたるを取るには、即ち、「𤎅海鼡(いりこ)」の汁、又は、鯨の油を以、水面に㸃滴(てんてき)すれば、塵埃(ちり)を開きて、水中、透き明(とほ)り、底を見る事、鏡に向かふがごとし。然して、攩䋄(たまあみ)を以つて、是れを、すくふ。浅い海底の石に着いたなまこを捕るには、鯨の油を水面に落す。そうすると水中が透明となり、底が鏡のように見えるので、投網ですくう、
 
  意訳変換しておくと
○海鼠漁は、沖での漁法は、網を船の舳(とも)に附けて走れば、自然に入ってくる。また、海岸近くの岩に着いている海鼠を獲るときには、「海鼡(いりこ)」の汁か、鯨の油をを水面に㸃滴(てんてき)すると、海面の塵埃が開いて、水中が透き通って、海底が鏡のように見えるようになる。そこを玉網ですくふ。

ここからは海鼠漁には、引き網漁と玉網ですくう二つの漁法があったことが分かります。鯨油を垂らすと、海面が鏡のように開くというのは始めて知りました。引き網猟も見ておきましょう。
海鼠引き網
沖でなまこを獲るには、網を船につけて引く、これはすくい網の方法であるが、なまこを取るには他に重い石をつけて海底を引くこぎ網の方法もあった。 
海鼠引き網2
海鼠引き網

どんな海鼠を、獲っていたのでしょうか? 「和名抄」には、次のように記されています。

『老海鼡(ほや)』と云ふ物は、海参 則ち、「海鼡(いりこ)」に制する物、是れなりといへり。又、「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云ひて、斑紋(まだらのふ)あるものにて、是れ又、別種の物もありといへり。「東雅」に云、『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、「沙噀(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。いずれ、是(ぜ)なることを知らず。されど、「海男子」は「五雜俎」に見へて、男根に似たるをもつて号(なづ)けたり。

意訳変換しておくと
○『老海鼡(ほや)』は、「海鼡(いりこ)」のことである。また「生鮮海鼡(なまこ)」は俗に「虎海鼡(とらこ)」と云って、斑紋様のあるもので、別種のものとも云える。「東雅」には次のように記す。『「適齋(てきさい)訓蒙圖會」には、(しやそん)」を「ナマコ」とし、「海參(かいじん)」を「イリコ」とす。若水は「沙噀」・「沙蒜(しさん)」・「塗筍(としゆん)」を「ナマコ」とし、「海男子(かいだんし)」・「海蛆(かいそ)」を「イリコ」とす』云々。どれが正しいかよく分からない。しかし、「海男子」は「五雜俎」に載せられていて、男根に似ているのでそう呼ばれるようになったようだ。

海鼠2
「栗氏千虫譜第8冊」「黒ナマコ」又は「クロコ」

当時の海鼠は、どのようにして食されていたのでしょうか?
今の私たちは海鼠と云えば、そのまま切って生身で酒の肴にして食べます。しかし、生鮮魚介類の冷凍などが出来なかった時代には、海鼠はまったく別の方法で食べられていたようです。その加工方法を見ていくことにします。
『日本山海名産図会』は、なまこの加工については次のように記します。
煎海鼠(いりこ)に加工するには、 𤎅(い)り乾(ほ)すの法は、腹中(ふくちう)、三條の膓(わた)を去り、數百(すひやく)を空鍋(からなべ)に入れて、活(つよ)き火をもつて、煮ること、一日、則ち、鹹汁(しほしる)、自(おのづ)から出(い)で、焦黑(くろくこげ)、燥(かは)きて硬く、形、微少(ちいさ)くなるを、又、煮ること、一夜(や)にして、再び、稍(やゝ)大きくなるを、取り出だし、冷(さ)むるを候(うがゝ)ひ、糸につなぎて、乾し、或ひは、竹にさして、乾(かわか)したるを、「串海鼡(くしこ)」と云ふ。また、大(おほ)いなる物は藤蔓(ふじつる)に繋ぎ、懸ける。是れ、江東及び越後の產、かくのごとし。小豆島の產は、大(おほい)にして、味、よし。薩摩・筑刕・豊前・豊後より出づるものは、極めて小なり。

意訳変換しておくと
  海鼠を乾す手順は、①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、②數百を空鍋に入れて、強火で煮ること一日。すると鹹汁(しほしる)が出て、黒く焦げ、乾いて硬くなり、縮んで小さくなる。それをまた煮ること一夜、今度は少し大きくなったものを取り出だし、③冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
 また、大きいもの藤蔓(ふじつでつないで懸ける。これは東国や越後でも同じ手法である。小豆島のものは大型で、味がいい。薩摩・筑紫・豊前・豊後産のものはこれに比べるとはるかに小さい。
ここには小豆島近海の海鼠は大型で、味もいいと評価されています。小豆島産海鼠は、品質がよかったようです。
  ここには煎海鼠(いりこ)加工の手順が次のように記されています。

海鼠加工


海鼠加工1
①腹の中の三條の腹膓(はらわた)を取って、

海鼠加工2
②空鍋に入れて、強火で煮ること一時間。
鹹汁が出て、縮んで小さくなったものをまた煮ること一夜、
海鼠加工3

海鼠加工4

④冷えてから糸につないだり、竹にさして乾かす。これを「串海鼡(くしこ)」と云う。
⑤小豆島のものは他国のものと比べると大型で、味がいい。
つまり小豆島の海鼠加工品は、評判がよく競争力があって市場では高く売買されたようです。
海鼠の加工品である煎海鼠(いりこ)は、どのように流通したのでしょうか?
 実は、これらが国内で流通することはなかったのです。
俵物
俵物
高校日本史では、俵物として長崎貿易での重要品として煎海鼠(いりこ)・干鮑・鱶鰭の三品を挙げます。1697(元禄10)年から金銀銅の決済に代えて、清国向けの重要輸出品になります。そのために俵物は幕府の統制品となり、抜げ売りや食用までも禁じられました。中国への輸出用のために生産されたのです。その集荷には長崎の俵物元役所があたりました。そして全国の各浦に生産量が割り当てられ、公定価格で取引されます。しかも割当量も過大であり、漁師のいない村や原料の海鼠を産しない村まで割り当てられました。他領から購入したり、家島漁師を雇って製造しても目標は達成できません。例えば松山藩の割当ては約5000斤でした。しかし、天保~弘化期10年間の出荷率は、幕府割当量の約6割に留まっています。
第40回日本史講座のまとめ② (田沼意次の政治) : 山武の世界史
 
長崎俵物方では督促と密売防止のため全国に役人を派遣して、各浦の調査・督促を行っています。そして各藩の集荷責任者の煎海鼠買集人や庄屋が集められ、割当量の調整等が行われています。まさに「外貨」を稼ぐために特化した海鼠の加工だったことが分かります。こうして、各浦の責任者にとっては、割当てられた海鼠イリコの生産確保が大きな負担となってきます。これに小豆島の庄屋たちは、どのように対応したのでしょうか? それはまた次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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紀州からやってきた鯛網漁の漁船団

秀吉が大阪城を築城しているころのことです。
小豆島沖に紀州から何艘もの漁船がやってきて、沖での漁を願い出ます。
彼らは紀州塩津浦(和歌山県)の漁民たちで、当時のハイテク技術で装備された鯛網の操業集団でした。そのさい、無断で漁場に入り込んだのではなく小豆島土庄村に入漁費を支払います。
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和歌山漁民の小豆島庄屋への約定書

 慶安四年(一六五二)に紀州塩津村(和歌山県海草郡下津町)の彦太夫らが小豆島土庄村大庄屋の笠井三郎右衛門に宛てて出した約定書です。読んでみましょう。
「貴殿鯛網の引き場預かり申すにつき進物の色々あい定むること。一つお年頭に参るとき、酒二斗……、一回二月網に参るとき……」
 漁を行う代償として、笠井家に贈る進物が約されています。大変な数の贈り物と入漁料です。鯛網がいかに大きな利益をもたらすものだったかがうかがわれます。
日付けが四月一日ですから、旧暦三月の鯛網の季節が過ぎて帰るときに次の年の入漁を約束したものでしょう。笠井家の他の文書を見ると紀州からの入漁は慶長年間から始まっていることがわかります。

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 取れた鯛を、どこへ持っで行って売ったのでしょうか。

それは大坂です。大阪ではまだ秀吉が生きていた頃に魚市場が作られています。遠くまで魚を生きたままで運べる生簀船も現れます。
大坂で売って、豊富な資金をもって他国へ出漁したのでしょうか?
そうではなく、大坂商人の前貸しを受けていたようです。
魚を捕る技術に長けた紀州漁民を経済的に大阪商人が支援していたのです。

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地元の網元達は、紀州漁民にの活躍ぶりを見ていただけでしょうか。
そうではありません。寛永二十(1643)年には豊島甲生村漁民が紀州鯛網をまねて操業を始めます。しかし、大金をはたいて大網や船を揃えますが、技術や経験ががともなわなかったため思うような漁獲が得れなかったようです。「真似してやったが失敗して借金だけが残った」と地元には伝わっています。
 したがって、当初は地元漁民が鯛網をおこなうより紀州漁民に漁場を賃貸する方が村にとっては利益が高かったようです。

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それでは、讃岐の人々は鯛大網の技術をマスターできなかったのでしょうか。
そうではありませ。リベンジが行われます。
例えば真鍋島の真鍋家文書を見ると、寛文三年(1663)、真鍋島に近い丸亀藩領の海で「鯛こぎ網のかずら場」という言い方が出てきます。こぎ網というのは、岡にこぎ寄せて捕る地漕ぎ網かもしれませんが、紀州の漁民が開発した方法です。元禄期に、真鍋島近海に紀州塩津の漁師が入漁してきたということが出てきますから、讃岐の人々が紀州の漁民に学んだようです。
そして、讃岐にも鯛網漁はしだいに普及していきます。
大槌島と香西浦の間にある榎股や大槌島と小与島の間の中住の瀬という漁場は鯛網の良漁場として知られるようになります。

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 香西 漁民は初めは紀州のやりかたを学んだ

 榎股で鯛網を行ったのは主として香西の漁民でした。
土庄の笠井家文書によると、天和三年(一六八三)という時期に香西の利兵衛という漁師が土庄沖での鯛網を願い出て請け負わせてもらっています。香西漁民は、小豆島近海に出漁して紀州のやりかたを学んだのではないでしょうか。
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高松市生島沖の榎股は、全国に知られる鯛の漁場に

それから100年ほど後に刊行された「日本山海名産図会」には讃州榎股の鯛網が紹介されて、「明石鯛・淡路鯛よりたくさん捕れる」と書かています。
榎股というの高松市生島沖の海です。ここが全国的な鯛の漁場として有名になります。紀州網の入漁から数えると200年たっています。
この間に讃岐の漁民は鯛大網の漁法をマスターし、そのトップランナーに成長していたと分かります。同時に、鯛の好漁場をめぐる漁場の対立が頻繁に起こるようになってくるのです。

参考史料 千葉幸伸 讃岐の漁業史について 香川県立文書館紀要創刊号

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