瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:旧練兵場遺跡群

私がいつも御世話になっている宮川うどんは、幼い頃の空海が遊んだという仙遊寺が近くにあります。

旧練兵場遺跡群 拡大図
旧練兵場遺跡群 農事試験場と国立病院に挟まれたエリアが仙遊地区
古代善通寺地図
善通寺北側の黄色いエリアが仙遊エリア
旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡群
練兵場遺跡群は、漢書地理志の奴国の「分かれて百余国」の王国のひとつだったと研究者は考えています。地図からは旧金倉川や中谷川が網の目状に流れる微高地に、集落群は建ち並んでいたことが分かります。しかし、弥生時代の仙遊エリアは川の中にあったとされていたために、ノーマークだったようです。1985年7月に住宅建設中の工事現場から箱式石棺が発見されます。調査の結果、石材には線刻画が書かれていることが分かりました。今回は、この線刻画について見ていくことにします。テキストは「仙遊遺跡発掘調査報告書1986 年」です。
   
仙遊寺遺跡
仙遊遺跡 病院と農事試験場に挟まれた住宅地帯

東側が農事試験場地区、西側が病院地区で、その間の住宅地地帯が仙遊エリアになります。古代の復元図からは、仙遊遺跡のすぐ東側には旧河道があったとされます。仙遊遺跡は、「集落からややはずれの旧河道添いに造られた墓域」と研究者は考えています。

仙遊寺遺跡 箱式石棺1号
仙遊遺跡 1号箱式石棺

仙遊遺跡 組みあわせ石棺 発輝調査報告書
 箱式石棺は、頭部側に立派な石材(額石)を置き、これを挟むように左右に板石を立て、次にその石材の下端を挟むように、逆八字形に外側から板石を立てていました。この石材から線刻画が見つかります。
  線刻画が、どの段階で刻まれたかについては研究者は次のように考えています。
①石材表面は軟質なのに、移動時の傷や磨耗が認められないこと。
②葬送儀礼の一環として、被葬者を取り囲む石材に呪術的な意味を持って刻み込まれること
③以上から石材採集後、棺材として手を加える直前に墓坑付近で行われた。
それぞれの石材に線刻画は刻まれていますが、その中で目をひく人面画を見てみましょう。

仙遊寺遺跡 箱式石棺の線刻図

仙遊遺跡 組式石棺1の石材9の人面文

ひときわ目を引くように石材の真ん中に人面文が描かれています。これについて報告書は次のように記します。
1仙遊遺跡出土石棺(人面石)059

鼻や口の表現はやや暖味であるが、両耳は比較的はっきりしている。顔の入れ墨についても目を基調に施されており、この人面文の周囲にも目だけの表現らしいものが多く認められる。また、石材2の内面にも人面文が認められるが、これは顔の輪郭と目だけの表現であり、やはり人面文は目が呪的な力を発揮するようである。

これとよく似たものが愛知県安城市の亀塚遺跡の人面文を施した壷形土器です。

人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土
人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土
人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土4

人面文壺形土器 愛知県亀塚遺跡出土

これを見ると仙遊遺跡のものと、表現がよく似ています。これ以外にも入れ墨を施した人面文は各地で見つかっています。この顔は、壺の年代が弥生時代終末期(約1,800年前)なので「弥生人の顔」とされます。目の周囲に描かれた多くの線は入墨とされます。『魏志倭人伝』には「男子無大小皆黥面文身」(男は年齢に関係なく顔と体に入墨をしている)の記述を裏付ける資料になります。そして、この壺や仙遊遺跡は、ちょうど邪馬台国の時代のものになります。
 愛知県亀塚遺跡の人面文壺形土器についてHPに次のように記します。

 「人面文土器」は、弥生時代の祭祀さいしにおいて、瞳のない眼によって悪霊をにらみつけて退散させる辟(へきじゃ=魔除け)の思想などを表した特別な土器と考えられているが、その全形をうかがい知ることができる例はまれである。また、表現の精緻せいちさにおいて群を抜く優品であり、人面文部分の遺存状態も良く、弥生時代の風俗を物語る貴重な資料である。

 どうして、全身に入墨をしたのでしょうか?
一見不気味に見える瞳のないレンズ形の目
目の周囲の入墨
ヒゲまたはアゴの入墨
耳と耳飾りを持つ顔は、「辟邪(=魔除け)=禍」から身を守るためだった
と研究者は考えています。つまり、にらみつけることで悪霊を退散させようというのです。こうした人面文の出土は、全国に30点近くあるようです。しかも表現に一定の規則があるのです。文様のひとつとして「人面文」と呼ばれていますが、一種の情報が、どのように伝播、拡散したのかはよく分からないようです。
 どちらにしても入墨が災いが及ぶことを祓うとするものなら、箱式石棺を線刻画で覆うとは、被葬者を禍から守ろうとしたこととつながります。各地の人面文にみられる入墨の線条は、よく似ています。ここでは、仙遊遺跡の箱式石棺の線刻画も、被葬者に対する守護や鎮魂的願い、あるいは封鎖のために刻まれたとしておきます。
この起源になるようなものが中国の饕餮紋です。

          饕餮紋(とうてつもん) 戦国 紀元前4世紀

饕餮文は殷周代から青銅器等に用いられた怪獣の紋様です。饕は財貨をむさぼること、餮は飲食をむさぼることを意味します。大きな眼と口、角、爪などが特徴で、人を食らう凶悪な野獣とされていますが、転じてその力は邪悪なものを除くとも考えられていたようです。

次に仙遊遺跡の石材7の線刻画を見ていくことにします。
仙遊遺跡石材7 石材7外面の鳥の線刻
これは鳥の線刻というのです、私にはもうひとつよく見えてきません。羽を拡げている姿なのでしょうか。鳥の線刻については、古墳時代には死者の魂の運搬者としてよく登場するモチーフのようです。西日本の弥生遺跡では木で作った鳥の発掘例が多く、鳥を用いる習俗が稲作とともに普及していたようです。
纏向遺跡の石塚古墳周濠出土の鳥形木製品
纏向遺跡の石塚古墳周濠出土の鳥形木製品

鳥と人面文の組み合わせ例が、島根県出土とされる邪視文銅鐸です。

島根県出土とされる邪視文銅鐸
島根県出土とされる邪視文銅鐸2
邪視文銅鐸 弥生時代中期 22.3cm  島根・八雲本陣記念財団蔵
 
大きな目と鼻(邪視)で、先ほど見た睨み付ける目つきです。先ほど見た饕餮文と似ています。 眉とともに目尻が極端に長く表現された特徴的な眼。そして大きな鼻。そこには口の表現はありません。静かに何ものかをにらみつけているかのようなその独特な眼は、悪霊や邪悪なものすべてをにらみ威嚇する「邪視(じゃし)」を表現したものとも言われています。その下に水鳥が鋳出しています。水鳥は稲魂を祭る祭器と使用されました。
仙遊寺 箱形石棺 石材1
仙遊遺跡石材1
  こうなるとモダンアート的で、私には何が描かれているか見当も付きません。研究者は大きく描かれている扇形図形に注目します。細部まで念入りに描写されていて、下方に描かれた槍先状の図形と併せて、何か呪的な性格を持った構造物を写し取った具象図形の可能性を指摘します。また、上方には扇形の図形と一部重ねて直弧文系の図文が措かれています。どれも抽象図形で多数の直線を平行に並べたものが多く、中に片側が閉じて扇形に見えるものがあります。ここには様々な文様の原単位となっているモデルがあって、その組み合わせによって複雑な文様が構成されていると研究者は考えています。
仙遊寺遺跡 箱式石棺石材4の線刻図 2
仙遊遺跡 石材4

最後に県内の線刻画の類例を見ておきましょう。
①旧練兵場遺跡から出土した器台形土器の破片に、類似した図文
②岡古墳群中の箱式石棺の蓋石に、無数の線条からなる線刻画
③髙松市の鶴尾神社4号墳(積石の前方後円墳)では、石室内や石室周辺の墳丘上からへラ措文様を施した壷の破片。
③の中には仙遊遺跡の箱式石棺の線刻画と共通したものが多くあります。仙遊遺跡出土の土器は鶴尾神社4号墳出土の土器よりもやや古い時期のものになります。両者の関係は、どんなものだったのでしょうか?  今の私にはよく分かりません。

宮が尾古墳の線刻画5
miyagao11
宮が尾古墳の線刻画
また善通寺市内には、線刻画で有名な宮が尾古墳があります。それ以外にも10基あまりの後期古墳に線刻画が描かれています。仙遊遺跡の箱式石棺は、最も古い直弧文系図文によって装飾された墓になります。墓に呪的な線刻による装飾を施すことが弥生時代後期には成立していたこと、その線刻画古墳の原型が仙遊遺跡の箱式石棺であることを押さえておきます。

宮が尾古墳の線刻画の共通モチーフ
      善通寺周辺の線刻画の共通モチーフ 殯屋(もがりや)?
以上をまとめておきます。
①弥生時代後期の仙遊遺跡の箱式石棺には、線刻画が刻まれている。
②その中の人面文様は、入墨があり、瞳のない眼によって悪霊をにらみつけて退散させる辟(へきじゃ=魔除け)の思想がうかがえる。
③それ以外の文様も
被葬者に対する守護や鎮魂的願い、あるいは封鎖のために刻まれた
④これらの線刻画は、宮が尾古墳にも受け継がれていく要素で、善通寺王国の伝統かもしれない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

  ユネスコ登録に向けて四国霊場の調査が進んでいます。その19冊目として、金倉寺の調査報告書が図書館に並んでいたので読書メモ代わりにアップしておきます。調査報告書の一番最初の「立地と歴史」の部分を読むのは、私にとっては楽しみです。それは近年の周辺の発掘調査で分かったことが簡略、かつ的確に専門家の目で記されているからです。調査書を読んだときには気づかなかったことが、その後に出された調査報告書の「立地と歴史」で気づいたり、理解できたりすることがあります。金蔵寺周辺は、高速道路や国道11号バイパスなどで線上に大規模な発掘調査が進められ、多くの遺跡が発掘され新しい発見が続いた所です。その知見が、どのように整理されているのか楽しみです。テキストは「四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会」です。
 研究者は、まず金倉寺周辺の条里型地割に注目します。
周辺の稲木北遺跡や永井北遺跡などでは条里制溝などが確認されています。そこからはこの地域で条里制工事が始まったのは7世紀末~8世紀初頭と研究者は考えています。丸亀平野に南海道が伸びてくるのもこの時期です。この南海道を基準に条里制工事が始められ、南海道沿いに郡衙や古代寺院が姿を見せるようになります。
丸亀平野条里制5
丸亀平野の条里制 金倉川沿いには空白地帯が拡がる
ところが上図のように善通寺から金倉寺、さらに多度津にかけての金倉川の周囲には、条里地割に大きな乱れが見られます。拡大して「土地条件図」で見てみると

金倉寺周辺の土地復元
金倉寺周辺の金倉川の旧河道跡
ここからは次のような情報が読み取れます。
①東側から北側一帯にかけて、旧金倉川の氾濫原であったことを示す地割の乱れが広がっている
②金倉寺西側の土讃線沿いには、旧河道を利用した上池、中池、千代池が連なる。
③これらの池沿いに北流する旧河道の地割の乱れは幅200~300mほどと大きい。
④金倉寺の南約800m付近にある金蔵寺下所遺跡では、弥生時代や奈良時代の旧河道が検出されている。
丸亀平野の条里制3

以上から「地形復元」してみると、金倉寺は東側の金倉川と西側の旧河道に挟まれた細長く紡錘状に伸びる微高地上に立地していたことが分かります。そして中世には西側の旧河道は埋没し、近世には金倉川の固定化が図られ、周辺の氾濫原は耕地化が進んだと研究者は考えています。多度津の葛原に小早川氏に仕えていた小谷氏がやってきて入植し、開拓したのもこの西側の旧金倉川跡だったようです。そして、水田開発が終わると、小谷家は水不足備えて千代池などを築造していきます。そういう意味では、古代の金倉寺は、金倉川の氾濫原の中の遊水地と化した大湿原地の中に位置していたと云えそうです。

善通寺遺跡分布図
善通寺市遺跡分布図(高速道路やバイパス沿いに発掘調査が進んだ)
次に金倉寺の古代の歴史的環境について見ていくことにします。
金倉寺の東方面には、弥生時代には中の池遺跡、龍川五条遺跡、五条遺跡などの環濠集落がありました。
丸亀平野の環濠集落
丸亀平野の環濠集落(想像図)
なかでも龍川五条遺跡は二重に環濠をめぐらした集落で、内側に竪穴建物と掘立柱建物の居住域があり、環濠の外に周溝墓や木棺墓の墓域や水田が拡がります。五条遺跡は龍川五条遺跡の北方300mに隣接し、ここにも二条の大溝跡がありました。この遺跡は龍川五条遺跡からの集落移転で成立したと研究者は考えています。それが中期なると、なぜか環濠集落は姿を消してしまいます。そして丸亀平野の中央部を避けて善通寺周辺の丘陵裾部に小規模な集落が点在するようになります。その核となるのが旧練兵場遺跡群です。ここには前期から始まって、古墳時代初頭まで長期間に渡って安定的な集落が続きます。
旧練兵場遺跡 吉野ヶ里との比較
旧練兵場遺跡は、「オトナと子どもの病院 + 農事試験場」で45万㎡と広大です。

旧練兵場遺跡 平形銅剣文化圏2

さらに弥生時代後期前半になると平形銅剣の中心として瀬戸内沿岸地域から多くの土器が搬入されています。終末期には大陸との交易を示す青銅鏡が出てきますし、集落内で鉄製品や朱の生産も行われていたことが分かっています。
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
善通寺の旧練兵場遺跡群と周辺の弥生時代の遺跡分布
まさに讃岐最大の拠点集落であり、中国史書の「分かれて百余国をなす」のひとつである「善通寺王国」とも考えられます。丸亀平野だけでなく、備讃瀬戸における人とモノの集まる拠点として大きな引力を持っていたと云えます。そしてこの王国は、古墳時代から律令時代へと安定的に継続していきます。この子孫が後に氏寺としての善通寺を建立し、空海を輩出する佐伯直氏につながる可能性が高いと研究者は考えています。
次に善通寺周辺の古墳について見ておきましょう。
青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷図
善通寺エリアの古墳が集中するのは、五岳や大麻山周辺で、弘田川流域勢力によって築造されたもののようです。中でも大麻山の山頂直下に前期前半に築かれた野田院古墳(後円部が積石塚)から、後期の王墓山古墳や菊塚古墳、終末期の大塚池古墳など、首長墓クラスの古墳が継続的かつ安定的に築かれます。これは、讃岐の他エリアの不安定さと対照的です。善通寺エリアの首長がヤマト政権との良好な関係を維持しつづけたことがうかがえますが、その要因がどこにあったのかはよく分かりません。一方、金倉寺周辺の勢力が築いた古墳というのは、見当たりません。
古墳時代中期になると旧練兵場遺跡では竪穴建物が少数ですが現れ、後期には飛躍的に増加し、大規模な集落が営まれるようになります。
旧練兵場遺跡 詳細図
旧練兵場遺跡群 古墳時代末期から古代へ 南海道が伸びてきて郡衙や古代寺院が姿を見せる。
中心は農事試験場跡の東部ですが、サテライトとして南東約l㎞の四国学院大学構内遺跡でも多数の竪穴建物が並ぶ集落が現れます。このような集落の成長の上に、佐伯直氏の氏寺とされる仲村廃寺跡(伝導寺跡)が居住区のすぐ南に白鳳時代には姿を見せます。しかし、この寺は条里制に沿っていません。条里制施行よりも前に建立されたことがうかがえます。
善通寺エリアでは、南海道に沿う位置に「官衛的建物」が見つかっています。
生野本町遺跡 
生野本町遺跡(旧善通寺西高校グランド) 整然と並ぶ郡衙的な建物配置
それが四国学院大学の南側の生野本町遺跡です。稲木北遺跡と同じような建物配置が見つかっています。この遺跡に近接した生野南口遺跡からは8世紀前葉~中葉の床面積が40㎡を超える庇付大型建物跡が確認されています。これも郡衙の付属建物のようです。あと高床式の倉庫が出れば郡衙に間違いないということになります。ちなみに、同時期の飯野山南の岸の上遺跡からは、高床式倉庫が何棟も出てきて、鵜足郡の郡衙と研究者は考えています。東から伸びてくる南海道沿いに郡衙や居館、氏寺を建てることが、ヤマト政権に認められる「政治的行為」であると当時に、住民への威信をしめすステイタスシンボルでもあったようです。そのために、いままでの旧練兵場遺跡から南海道沿いの四国学院方面に、その居館を移動させ、多度津郡衙を建設したとも考えられます。
 一方、金倉寺周辺はどうでしょうか? 
金倉寺の西約1 kmの稲木北遺跡からも郡衙的な建物群が見つかっています。8世紀前葉の大型掘立柱建物跡8棟と、それらを区画、囲続する柵列跡です。

稲木北遺跡 復元想像図2
稲木北遺跡 郡衙的な建物配置が見られる
真ん中に広場的空間を中心に品字形の建物配置がとられています。加えて大型建物を中心に対称的に建物が配置され、しかも柱筋や棟通りなどがきちんと一致しています。研究者はこれを「官衛的建物配置」と考えています。
稲木北遺跡 多度郡条里制
多度郡の2つの郡衙的建物 
A 稲木北遺跡(金蔵寺エリア)B 生野本町遺跡(善通寺エリア)

稲木北遺跡2

金蔵寺の南の下所遺跡では7世紀末~8世紀初頭、 8世紀前葉~中葉の掘立柱建物群が出てきています。
その配列は 8棟前後の建物が緩やかに直列、並列、直交する建物配置をとります。その上に、この遺跡の特徴は、金倉川の河道跡から人形、馬形、船形、刀形、斎串などの木製祭祀具が多量に出土したことです。
金倉寺下所遺跡 木製品
金倉寺下所遺跡 木製品2

金倉寺下所遺跡出土の木製祭祀具(金蔵寺下所遺跡調査報告書より)
ここからは、公的な河川祭祀がこの場所で執り行われことが分かります。今見てきた稲木北遺跡、稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡は、約1㎞四方の範囲に収まります。そうすると多度郡衛や公的な河川祭祀を執り行う官衛や地元豪族の地域支配の拠点となる郷家といった公的性格を持つ官衛が集中するエリアだったことになります。これも郡衙など官衛的施設の一部でしょう。こうしてみると、奈良時代には、官衛的な施設が善通寺と金蔵寺の2つのエリアにあったことになります。そして、金蔵寺エリアに金倉寺は現れます。
金倉寺の創建について見ておきましょう。
『日本三大実録』には、多度郡人因支首純雄らが貞観8年(866)に改姓要求を願い出て、和気公が下賜姓されたとあります。「鶏足山金倉寺縁起」には、仁寿元年(851)に円珍の父和気宅成が、その父が建立した自在王堂を官寺とすることを奏上しています。ここからは金倉寺の創建に、和気公が深く関与したことがうかがえます。また現地名の「稲木(いなぎ)」は、「因岐(いなぎ)首」の改称のようで、和気公(因岐首氏)が金倉寺周辺にいたことが裏付けられます。このことを強調して従来は、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因岐首氏(和気公氏)の本拠地という視点で説明されてきました。しかし、多度津郡司(大領)である佐伯直氏と、官位を持たない地元の中小豪族の因岐首氏では階級差も、勢力も大きく違っていたと研究者は指摘します。
1空海系図2
空海の弟や甥たち(佐伯直氏)は、地方豪族としては非常に高い官位を持つ。
円珍系図 那珂郡
円珍の因支首氏の那珂郡の系図 円珍の因支首氏には官位を持つ者はいない。
古墳時代の首長クラスの古墳分布を見ると、善通寺と金倉寺では大差があったことは見てきた通りです。金倉寺周辺では、首長墓らしきものは見つかっていません。
 両者の氏寺とされる善通寺と金倉寺を見ていくことにします。
 佐伯直氏が最初に建立したとされる仲村廃寺からは、原型に近い川原寺系軒丸瓦が出土します。その後に建立した善通寺は、方二町で白鳳期から平安期にかけての時代を超えた多彩な軒瓦が出土しています。ここからは佐伯氏が中央との良好な関係を保ちつつ、白鳳期に氏寺を創建し、それを奈良時代、平安時代にかけて継続的に維持していたことがうかがえます。それに比べて、古代の金倉寺のことはよく分かりません。採集されている瓦片は、次のとおりです。
A 奈良時代まで遡る可能性がある八葉複弁蓮華文軒丸瓦
B 平安時代前期に属する軒平瓦
C 平安時代後期から鎌倉時代に属する軒平瓦。
ここからは、金倉寺が奈良時代まで遡り、寺域の大きな移動はなかったことはうかがえます。しかし、問題なのは、奈良時代の瓦の出土量は極めて少なく、平安時代になって出土量が増加することです。ここからは奈良時代には、お堂程度の小規模な施設が設けられ、平安時代になって寺院整備がすすんだことがうかがえます。なお、軒平瓦には仲村廃寺や善通寺との同氾関係のものがあるので、佐伯直氏の援助を受けながら、因支首氏が金倉寺を建立したということは考えられます。ここでは、奈良時代に因支首氏の氏寺として建立された時の金倉寺は、善通寺に比べると遙かに規模が小さかったこと、それは当時の佐伯直氏と因支首氏の力関係によることを押さえておきます。
以上を整理して起きます。
①金倉寺周辺は、金倉川の旧河道が幾筋にもわかれて北流し、広い氾濫原で遊水地化した湿原地帯が拡がっていた。
②律令時代になると東から南海道が伸びてきて、それに直行する形で条里制工事が始まる。
③金倉寺周辺は、金倉川の氾濫原であったために対象外となり、空白地帯となっている。
④しかし、金倉寺周辺の氾濫原の微高地には、郡衙・官衛・豪族居館らしき建築物が集中する
⑤一方、善通寺エリアにも、郡衙や古代寺院が佐伯直氏によって建設される。
⑥そういう意味では、善通寺と金倉寺エリアは多度郡のふたつの政治的な中心地だったとも云える。
⑦しかし、古代寺院の規模などからすると、善通寺の佐伯直氏と金倉寺の因支首氏の間には、政治的・財政的に大きな開きがあったことが見えてくる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
四国八十八ケ所霊場七十六番札所金倉寺調査報告書 第一分冊 2022年 香川県教育委員会
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.1善通寺地図 古代pg
       
 旧練兵場遺跡とは、その名の通り戦前までは11師団の練兵場があったことから名付けられた名称です。今は東側が国の農事試験場として畑が広がっています。西側は、旧国立病院エリアになり「子どもと大人の医療センター」という長いネーミングの病院にリニューアルし、そこに看護学校や特別支援学校も併設するユニークな施設群を形成しています。かつて、ここの集中治療室で10日ほどお世話になり、その後一般病棟で過ごしたことがあります。その時に、手にした旧練兵場の分厚い調査報告書を眺めた思い出があります。
1旧練兵場遺跡5

 その後の発掘で次のような事が明らかになってきています。
①旧練兵場遺跡は弥生時代中期中葉から継続した大規模集落である
②他地域との交流を通じて鏡片・ガラス玉・銅鏃などの貴重品を多く保有する集落である
③県内の弥生時代の銅鐸・平形銅剣等の多くの青銅器が旧練兵場遺跡周辺に集中している
④善通寺病院遺跡が竪穴住居や掘立柱建物の集中から旧日練兵場遺跡の中枢部であった
⑤竪穴住居群は生産活動や対外交渉など異なる機能をもち、大規模集落の中で計画的にレイアウトされていた
つまり、この病院の立っているところが古代善通寺王国のコア施設を構成する所であったようです。
弥生時代のこの周辺の地形は、どんな地形だったのでしょうか?
その当事の復元地形の変遷図を今回は見てみましょう。
旧練兵場遺跡は、弘田川水系と金倉川水系が合流する扇状地の扇端付近にあり、旧河道や凹地といくつかの微高地があったと研究者は考えているようです。

旧練兵場遺跡 全体図1
地図はクリックで拡大します
発掘調査から明らかになった旧河川は、地図上の黒い帯のような部分で2本あります
①旧河道1は、弘田川西岸遺跡から彼ノ宗遺跡ヘ向かう現弘田川の旧河道
②旧河道2は、仙遊遺跡東側から善通寺病院の北東部を通り北西へ流れる旧河道
①が上の地図の左下側の流れで、②が右上側の流れになります。旧練兵場遺跡の集落は、このふたつの旧河道にはさまれた微高地にあったようです。
集落の変遷を見てみましょう
弘田川の西側遺跡からは、弥生時代の遺構面から縄文時代後期土器がまとまって出てきています。また、善通寺病院の旧河道2からは、縄文時代晩期の刻目突帯文上器の出でてきています。ここからは近くに縄文人達の集落があり、ここを拠点に生活していたことがうかがえます。
旧練兵場遺跡 変遷図1

弥生時代前期~中期前葉(図2)
最初に竪穴住居・掘立柱建物が姿を見せるエリアは、
①善通寺病院区
②彼宗地区
③弘田川西岸地区
で、居住域1には50㎡を超える大型掘立柱建物が姿を見せます。遺構分布からは、この時期は彼ノ宗地区が集落の中心部だったようです。
  また、旧弘田川河床跡からは舟の櫂も出土しています。当事は小さな川船は、弘田川河口の海岸寺からこの辺りまでは上ってこられていたようです。②③は、旧弘田川沿いに立地し、小さいながら川湊的な機能も持っていたのではないでしょうか。

旧練兵場遺跡 変遷図3

 弥三時代中期後葉~末葉(図4)
 前時代と比べると、居住域が拡大し、居住域は8ヶ所に増えます。
①東の仲村廃寺地区(現ダイキ周辺)や四国農業試験場地区でも村落形成が始まる。
②居住域1・2には掘立柱建物が集中して建てられるようになり、貯蔵エリアが形成され始めたこがうかがえる。

旧練兵場遺跡 居住区1の掘立柱建物

③掘立柱建物にも、1間×1間の柱構造の大型化したものが登場し、前段階からの梁間1間タイプのものと混在して使用される。ここからは、掘立柱建物群の中での「機能分化」があったことがうかがえます。
④彼ノ宗地区の居住域8の掘立柱建物の柱穴からは、朱の精製遺物と見られる石皿が出土した。朱の原産地の徳島県名東遺跡の活動が始まるのもこの時期からで、県内でも初期の事例となります。
⑤居住域1からは、古墳時代以降の遺構に混入して扁平紐式銅鐸片が出土した。この時代に埋納された可能性が高い。
地図を見ると西側エリアでの居住区や掘立柱建物の質的量的な発展と、旧河道2を越えた東部エリアへの拡大が同時進行で進んだ時期になるようです。


旧練兵場遺跡 変遷図4
 弥生時代後期初頭~前半(図6)
 前段階と比べると、居住エリアが拡大しています。集落全体では12ケ所に増えています。この段階の居住域の広がりが「善通寺王国」のその後の集落形態の原型になるようです。
①住居が集中するのは居住域3で、人口密集率は善通寺王国でもっとも高いエリアである。
②居住域3と居住域2の間の凹地には、四国島内・吉備・西部瀬戸内・河内等の他地域からの搬入土器が集中する。
③居住域3には九州タイプの長方形で2本柱構造の竪穴住居が豊前の搬入土器ととも出てきた
④居住域2でも数は少ないが竪穴住居内から他地域からの搬入土器が出てきた。
⑤居住域2・3は、この段階で遺跡のコア単位に成長し、外部との交流に特化した機能をもつようになった。
旧練兵場遺跡 各居住区の配置図

⑥他の居住域は、竪穴住居4~7棟程度に掘立柱建物が2棟程度付属する小規模な単位と見られる(図7)。また、掘立柱建物は、本段階をもって消滅する。
旧練兵場遺跡 変遷図5
 弥生時代後期後半(図8)
居住エリアが15ケ所に増えています。この遺跡の始まり段階ではは、善通寺病院エリアの「居住域3」に遺構が集中していました。それが、この段階では分散的な傾向を示すようになります。そして居住域1~3、彼ノ宗地区の「居住域5」に主要遺構の分布が見られるようになります。「居住域3」では、多角形住居がまとまって見られます。これは「都市機能の過度集中に対する分散策」がすすんだのでしょうか。
①川向こうの四国農業試験場は大規模な発掘調査が実施されていませんが、過去のトレンチ調査にから次のような事が分かっています。
居住域8は、竪穴住居が密集
住居住域7~9、11~14は中心的な居住域を補完する小規模な居住単位
ここでも居住地8が副都心のような形で、その周辺に子集落が形成されているようです。
②居住域2で鍛冶遺構をもつ竪穴住居が1棟確認されています。小さな鍛冶規模のようですが、鉄製品を王国内で自給できるようになったようで、これ以降には確実に鉄器が増加します。
③居住域内に土器棺墓(群)が造られるようになります。人面文が描かれた仙遊遺跡の箱式石棺墓や土器棺墓も、この時期のものと研究者は考えているようです。
旧練兵場遺跡 変遷図6
弥生時代終末期~古墳時代初頭(図9)
 居住域の分布は前段階と大きな変化はないようですが、小さな居住域が姿を消して居住エリアが減っているようです。
①川向こうの仲村廃寺地区では、遺構の再編成が行われたようで竪穴住居・一部円形・多角形住居が見られますが、ほとんどが方形住居に姿を変えています。そして方形竪穴住居は、南北方向へ主軸を揃えて建てられています。なんらかの新たな「強制力」が働きはじめたようです。
②居住域1・2には一辺が約8mの大型方形住居が登場します。家族のあり方にも何らかの変化が起こっていたのかもしれません。
③貴重品として「居住域1・2・5」から鏡片が出土しています。
④「居住域3」からは水晶製の玉未成品(多角柱体)が出土しています。ここに工房があったのでしょうか。
⑤弘田川西岸地区の居住域7の大型土坑からは鍛冶炉があった痕跡があり、集落の周辺で操業していたことがうかがえます。

古墳時代前期以後
 古墳時代前期から中期後半までの期間は、遺構の分布が見られなくなり、集落は解体したようです。この集落の解体は何を意味するのでしょうか? どちらにしても古墳時代の前期から中期に善通寺王国は一度、「滅亡」したのかもしれません。そして、古墳時代中期になると再び竪穴住居群が現れ、後期には広範囲に竪穴住居群が展開するようになるのです。
 以上をまとめておくと

①旧練兵場遺跡の居住域の形成は、弥生時代中期中葉に善通寺病院地区と彼ノ宗地区を中心に始まった。
②弥生時代後期初頭から集落の拡大が始まり安定する。
③仲村廃寺地区と四国農業試験場地区の居住域が消滅・移動を繰り返しているのに対して、善通寺病院地区と彼ノ宗地区、弘田川西岸地区の居住域が安定的に営まれる
④集落の中心となる善通寺病院地区でも遺構内容の変化は著しい。
⑤掘立柱建物が消滅する後期後半以後は善通寺病院地区の居住域1が遺構分布の中心となり、同時併存で最大30棟前後の竪穴住居が分布する。
  居住域の交流・生産活動については
①他地域との交流を示す搬入土器・鏡片がある。
②後期初頭から前半期には居住域3に搬入土器が集中するが、それ以後は特に集中する居住域は見られない。
③鏡片は終末期に居住域1・2、居住域5で出土しており、中でも居住域1に集中する。
④他地域との「外交・交易機能」をはたしてした居住域3は、終末期にはその機能を居住域1に移している。
⑤後期後半期に居住域2で鍛冶炉をもつ竪穴住居、終末期には居住域7南部において鍛冶炉があった
 善通寺王国の首長達の眠る古墳群と、この村落の変遷図を結びつけるとどうなるのでしょうか。
  古墳時代の後期には、善通寺王国の「死者の谷」ともいわれる有岡の谷に、王墓山古墳や菊塚古墳が首長墓として築かれる時期でもあります。その形成母体となった村落を古墳時代後期に再生された旧練兵場跡の勢力と考えればいいのでしょうか。そうだとしても、首長の屋形らしきものは発掘からは姿を見せていないようです。善通寺の誕生院は、空海誕生の佐伯氏の館の上に建つと伝えられてきました。その伝え通り、誕生院周辺に首長の屋形はあったのでしょうか。

そして、7世紀後半には古代寺院中村廃寺が居住地10に姿を見せることになります。それは、短期間で現在の善通寺東院へと移され再建されていくようです。この2つの古代寺院の出現をどう捉えればいいのでしょうか。わかったことが増えると分からないことも、それにつれて増えるようです。まだまだ謎が多い旧練兵場遺跡と有岡古墳群と善通寺と佐伯氏の関係です。
参考文献

   
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  考古学の発掘調査報告書は読んでいて、私にとってはあまり楽しいものではありません。その学問特性から「モノ」の描写ばかりだからです。そのモノが何を語るのか、そこから何が推察できるのかを報告書の中では発掘者は語りません。それが考古学者の立ち位置なのだから仕方ないのでしょう。だから素人の私が読んでも「それで何が分かったの?」と聞きたくなる事が往々にしてあります。

善通寺史(総本山善通寺編) 書籍
 そんな中で図書館で出会ったのが「善通寺史」です。
この本は善通寺創建1200年記念事業として総本山善通寺から出版されたものですが、書き手が地元の研究者で、今までの発掘の中で分かったことと、そこから推察できる事をきちんと書き込んでいます。「善通寺史」の古代編を読みながら「古代善通寺王国」について確認しながら、膨らましたし想像やら、妄想やらを記したいと思います。
1旧練兵場遺跡89
まず丸亀平野における稲作の開始です
  丸亀平野の中でも、善通寺市付近は、稲作に適した条件を満たしていたようで、弥生時代に大きく発展した場所のひとつです。漢書地理志の「分かれて百余国をなす」と記された百余りの国のひとつだったかも知れないと近頃は思うようになりました。
丸亀平野で稲作を始めた弥生時代前期の遺跡としては
①丸亀市の中ノ池遺跡、
②善通寺市の五条遺跡
③善通寺市から仲多度郡にかけて広がる三井遺跡
などが平野の中央に散らばる形で、多数の集落遺跡が知られています。私は、これらが成長・発展し連合体を形成して、善通寺王国へ統合されていくものと考えていたのですが、どうもそうではないようです。この本の著者は次のように述べます。

  「それらの集落遺跡はその後は存続せず、弥生時代中期になると人々の生活の拠点は現在の善通寺市の低丘陵丘陵部に集まり始める」

弥生前期の集落の多くは長続きせず、消えていくようです。その中で、継続していくの旧練兵場遺跡群のようです。この辺りは看護学校・養護学校・大人と子どもの病院の建設のために、発掘が毎年のように繰り返された場所です。その都度、厚い報告書が出されていますが、目を通しても分からない事の方が多くてお手上げ状態です。そのような中で「善通寺史」は、この遺跡に対して、次のような見方を示してくれます
1旧練兵場遺跡8
 旧練兵場跡出土の大型土器
もともとの「旧練兵場」の範囲は「国立病院+農事試験場」です。
そのため今までは「旧練兵場遺跡」と呼ばれてきました。しかし、
「近接した同時期の遺跡すべてをあわせて、旧練兵場遺跡
と呼んではどうかというのです。つまり、周辺の遺跡を含め範囲を広げて、トータルに考えるべきだというのです。確かに、報告書の細部を見ていても素人には分からないのです。もっと巨視的に、俯瞰的に見ていく必用があるようです。それでは、発掘順に遺跡群見て行く事にしましょう。

古代善通寺地図

1984年発掘 遺跡群西端の彼ノ宗遺跡
この遺跡群の中で最初に発掘されたエリアです。弥生時代中期から後期にかけての40棟以上の竪穴住居と小児壷棺墓一五基、無数の柱穴と土坑群がみつかり、その上に古墳時代の掘建柱建物跡二棟とそれに伴う水路が出てきました。また二重の周溝をもつ多角形墳の基底部など夥しい生活の痕跡が確認されています。ここからは、弥生から古墳時代にまで連続的に、この地に集落が営まれており、人口密度も高かったことが分かります。

1仙遊遺跡出土石棺(人面石)059
入れ墨を施した人の顔
 1985年発掘 彼ノ宗遺跡から東に約500m程の仙遊町遺跡   
ここは宮川うどんから仙遊寺にあたるエリアで、ここからは弥生時代後期の箱式石棺と小児壷棺墓三基が発見されています。このエリアは「旧練兵場遺跡内の墓域」と考えられているようです。また、箱式石棺の石材には、線刻された入れ墨を施した人の顔の絵がありました。
1旧練兵場遺跡7

『魏志倭人伝』には、倭国の入れ墨には「地域差」があったことが記されています。香川や岡山、愛知で発見されている入れ墨の顔は、よく似ています。また入れ墨石材の発掘場所が墓や井戸、集落の境界など「特異な場所」であることから入れ墨のある顔は、一般的な倭人の顔ではなく特別な力を持ったシャーマン(呪い師)の顔を描いたものではないかと考えられています。香川・岡山・愛知を結ぶシャーマンのつながりがあったのでしょうか?
旧練兵場遺跡地図 

 もうひとつ明らかになってきたのは、多度津方面に広がる平野にも数多くの集落遺跡が散在することです。
1987年発掘 旧練兵場遺跡群から北方五〇〇mの九頭神遺跡、
 弥生時代中期から後期頃の竪穴住居や小児壷棺墓・箱式石棺墓等が確認されました。
九頭神遺跡から東には稲木・石川遺跡が広がります。ここでも弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居群や墓地、中世の建物跡などが多数確認されました。さらに、中村遺跡・乾遺跡など多数の遺跡が確認されています。
これらの集落遺跡に共通するのは「旧地形上の河道と河道の間に形成された微高地」に立地すること、そして「同時期に並び立っていた」ことです。また、そのなかには周囲に環濠を廻らせたムラも登場しています。 このように同時並立していた周辺のムラ(集落遺跡)も含めてとらえようとすると「旧練兵場遺跡群」という呼び方になるようです。  
旧練兵場遺跡群周辺の弥生時代遺跡
旧練兵場遺跡周辺の弥生遺跡
旧練兵場遺跡は古代善通寺王国の中心集落だった
この遺跡の報告書を読んでみましょう。
このうち善通寺病院地区とされる微高地の 1つ では南北約 400m、 東西約 150mの範囲において中期中葉か ら終末期までの竪穴住居跡 209棟 、掘立柱建物跡 75棟、櫓状建物跡 3棟、布掘建物跡 4棟、貯蔵穴跡、土器棺墓などを検出している。他の微高地 も同程度の規模 を持つため、本遺跡が県内でも最大級の集落跡であるといえる。そうしてこれ らの遺構群は、まとまりごとに見られる属性の違いか ら機能分化が指摘 されている。
また出土遺物にも銅鐸、銅鏃、銅鏡などの青銅器、鉄器、他地域か らの搬入土器など特殊なものが数多く見られる。「旧練兵場遺跡群」(10と 近接する遺跡 (稲木遺跡、九頭神遺跡、今回報告す る永井北遺跡など)の関係については 「大規模な旧練兵場遺跡を中心 として、小規模な集落が周辺に散在する景観を復元できる」 とされ、本遺跡の周辺地域で集中して出土する青銅器を継続して入手 した中心的な拠点であつたことも指摘 されている。こうした様相から地域の中核をなす遺跡 と位置づけられている。
この遺跡が弥生時代の讃岐における最大集落であり、他地域との活発な交流・交易が行われていたようで、その中から威信財である青銅器も「継続して入手」していたと記します。

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この拠点集落が祭器として使用した青銅器について見ておきましょう。 善通寺市内から出土した青銅器の代表的なものは、次の通りです。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
①与北山の陣山遺跡で平形銅剣三口、
②大麻山北麓の瓦谷遺跡で平形銅剣二口・細形銅剣五口・中細形銅鉾一口の計八口、
③我拝師山遺跡からは平形銅剣五口・銅鐸一口、北原シンネバエ遺跡で銅鐸一口
など、数多くの青銅器が出土しています。
こうしてみると香川県内の青銅器の大半は善通寺市内からの出土であることが分かります。善通寺の讃岐における重要さがここからもうかがえます。青銅器が出土した遺跡は、善通寺から西に連なる五岳の丘陵部にあたります。これらの青銅器は、旧練兵場遺跡群や周辺部のムラが所有していたものが埋められたものでしょう。

.1善通寺地図 古代pg
 九州や大和の遺跡でも、青銅器は大きな集落遺跡の近くから出てきます。このことから善通寺周辺のムラが、祭礼に用いた青銅器を、霊山とする五岳の山々の麓に埋めたと考えられます。この時点ではムラに優劣関係はなく並立的連合的なムラ連合であったようです。それが次第にムラの間に階層性が生まれ、ムラの長を何人も束ねる「首長」が出現してくるようになります。
1善通寺王国 持ち込まれた土器

 こうしたリーダーは3世紀後半になると、首長として古墳に埋葬されるようになり、大和を中心とする前方後円墳祭祀グループに参加していきます。
首長の館跡などは、まだ善通寺周辺では見つかっていません。「子どもと大人の病院」周辺は、新築のたびに発掘調査が進みました。しかし、その東側には広大な農事試験場の畑が続きます。この辺りが善通寺王国の首長の館跡かなと期待を込めて私はながめています。

1旧練兵場遺跡3

 卑弥呼が亡くなった後の三世紀末頃に、首長墓は前方後円墳に統一されていきます。
墓制の統一は、これまで多くのクニに分かれていた日本が、前方後円墳に関わる祭礼を通じて、ひとつの統一国家となったことを示していると研究者は考えているようです。敢えて呼び名をつけるなら「前方後円墳国家の出現」と言えるのかも知れません。善通寺周辺部でも、三世紀後半に旧練兵場遺跡群を中心に飛躍的な発展があったようです。

旧練兵場遺跡地図 
旧練兵場遺跡
 それを大麻山に作られた埋葬施設の変化から見てみましょう。
 古代人には「祖先神は天孫降臨で霊山に降り立ち、死後はその霊山に帰り御霊となる」という死生観があったといわれます。大麻山は、祖先神の降り立った霊山で、自分たちもあの山に霊として帰り子孫を見守る祖霊となると考えていた人たちがいたようです。大麻山中腹では、卑弥呼と同時代のものと思われる弥生時代後期末頃の箱式石棺墓群が三〇基以上も確認されています。この中には、積石を伴うものや副葬品として彷製内行花文鏡がおさめられたものもあります。
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有岡大池から仰ぎ見る大麻山
 大麻山を霊山と仰ぎ見て、そこに墓域を設定したのはだれでしょうか。
 それは旧練兵場遺跡の首長たちだったようです。彼らが霊山と仰ぐ大麻山に、箱式石棺墓を造り始め、最終的には野田野院古墳へとグレードアップしていきます。

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大墓山古墳後円部の裾部分から出てきた箱形石棺
善通寺の前方後円墳群は、野田院古墳がスタートです。
それに先行するのが、弥生時代の箱式石棺墓になります。この間には大きな差異があります。社会的な大きな転換があったこともうかがえます。しかし、その母胎となった集落はやはり旧練兵場遺跡であったことを押さえておきます。

2野田院古墳3
    大麻山8合目の野田院古墳 向こうは善通寺五岳
 いよいよ野田院古墳の登場です。
改めて、その特徴をまとめておきましょう
①大麻山北西麓(標高四〇五m)のテラス状平坦部という全国的にも有数の高所に立地する
②丸亀平野では最古級の前方後円墳である。
③前方部は盛土、後円部は積み石で構築されている。
 野田院古墳は、特別史跡の指定に向けて発掘調査が行われました。
その調査結果は、研究者も驚くほど高度な土木技術によって古墳が造られていたことを明らかにしました。「傾斜地に巨大な石の構造物を構築する際に、基礎部を特殊な構造に組み上げていることで、変形や崩落を防いでいる」と報告書は述べます。

2野田院古墳2
野田院古墳(後円部が積石塚、前方部が盛土)

この技術はどこからもたらされたのか、言い方を変えれば、
この技術をもった技術者は、どこから来たのでしょうか?
 「古代善通寺王国」では、稲木遺跡で弥生時代後期末頃の集石墓群が確認されているようです。しかし、

「小規模な集石墓が突然に、大麻山の高い山の上に移動して、構築技術を飛躍的に進化させて野田院古墳に発展巨大化した」

というのは「技術進化の法則」では、認められません。
 類似物を探すと、海の向こうです。朝鮮半島ではこの頃、高句麗で数多くの積石塚が作られています。研究者は、善通寺の積石塚との間に共通点があることを指摘します。渡来説の方が有力視されているようです。
2野田院古墳1
野田院古墳
 野田院古墳の首長は、何者か?
  野田院古墳には、継承されている部分と、大きな「飛躍」点の2つの側面があります。継承されているのは、霊山の大麻山に弥生時代の箱式石棺墓から作られ続けた埋葬施設であるということでしょう。「飛躍」点は、その①技術 ②規模の大きさ ③埋葬品 ④動員力などが挙げられます。
 別の言い方をすれば、今までにない技術と動員力で、大麻山の今までで一番高いところに野田院古墳を作った首長とは何者かという疑問に、どう答えるのかということだと思います。
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 手持ちの情報を「出して、並べて推測(妄想)」してみましょう。
①丸亀平野では最古級の前方後円墳であり、霊山大麻山の高い位置に作られている。
 ここからは、並立する集落連合体の首長として、今までにない広範囲のエリアをまとめあげた業績が背後にあることが推測できます。その結果、今までの動員力よりも遙かに多くの労働力を組織化できた。それが古墳の巨大化となって現れた。

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②造営を可能にする技術者集団がいた。先ほど述べた高句麗系の集団の渡来定着を進め配下に入れた豪族が、「群れ」の中から抜け出して、権力を急速に強化した。
③ヤマト政権から派遣された新しい支配者がやってきて、地元首長達の上に立ち、善通寺王国の主導権を握った。それが、後の佐伯氏である。
今の時点での私の妄想は、こんなところです。 
支離滅裂となりましたが、今回はこれまでにします。
最後までおつきあいいただいてありがとうございました。
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参考文献 笹川龍一 原始古代の善通寺 善通寺史所収


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