瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:明治の高松城

 1882年(M15)年12月30日の早朝に、大型ヨットが高松港にやって来ます。極東冒険旅行を行っていた英国の探検家ギルマールー行の船でした。彼が高松城で撮った4枚の写真を見てきました。今回は最後の1枚を見ていきます。
 
撮影場所の太鼓楼の位置と撮影方向を確認しておきましょう。

6 高松城 俯瞰図16

桜馬場の東南角に、当時あったのが太鼓櫓です。そこからカメラを南に向けて撮っているようです。そこには眼下の中堀は写っていません。中堀に面した侍屋敷が一番前面にあります。そして、侍屋敷の向こうに外堀があり外堀沿いに瓦町と常磐町が東西に伸びます。
写真は太鼓櫓から丸亀町方面(南側)を望んで撮影されています。
6 高松城 ケン写真2拡大4

研究者は、この写真を次のように分析しています。
①手前に写真には見えないが中堀に面した街路(御堀端)があり、その背後に武家屋敷が広がり、さらに外堀外側に町家と寺町が見える。
②背景中央には紫雲山がそびえ
③右手前に見える建物群は、江戸詰めの下級藩士の家族が住まう「江戸長屋」である。
④この屋敷地は旧大手門の前面にあたり、生駒家時代には重臣三野四郎左衛門や前野治太夫の屋敷があった。
⑤松平家に替わってからも藩主一族の松平大膳屋敷の東隣、重臣谷蔵人屋敷の西隣という重要な位置にあり、
⑥享保年間の「高松城下図」には「御用屋敷」と表記されている。
⑦絵図で「江戸長屋」と見えるのは、文化年間の「讃岐文化年間高松御城下絵図」が初見で、その後幕末を経て明治二十八年の市街地図を最終とする。
⑧おそらく元来は藩の重臣の屋敷であったものを、後に何らかの事情で藩が接収し、江戸長屋としたのであろう。
6 高松城 7

 つまり写真に写っているのは「江戸長屋」で、それはかつての重臣の広大な屋敷地であった敷地に街路を付けて分割して「長屋」化したものだというのです。
6 高松城 江戸長屋3拡大4

  研究者は、次に写真に写っている建物を平面図に起こします。
6 高松城 江戸長屋4

 写真の撮影内容と平面図を比較しながら次のように分析します。
①江戸長屋の北面(手前、図1-1・2)と南面(奥、図1-3)に長屋建物がある。北面の長屋建物は海鼠壁をもち、二棟が並んでいるが、西側建物(図1ー2)の妻壁に梁が露わになっており、柱に貫穴が見られる
②また東側建物(図1-1)の地形石が建物の外(西)側に飛び出すなどの不自然な点がある
 ここから前面の東西の長屋は、もともとは一棟の長屋建物であったと考えます。さらにこれらの建物は、かつてここが重臣の屋敷だった時に建てられたものを「転用」していると推察します。
 再度確認すると、生駒時代や松平時代初期のおおきな屋敷地が、後の時代に分割され、敷地内に街路通されます。この街路は幅三間程で、江戸長屋の中央部を屈折しながら南北に貫いています。また東西方向に細い路地が分岐します。その形状は明治28年の市街地図と一致するようです。
 平面図を見ると、街路の西側に土塀で区画された宅地が八単位(図1-a~h)あることが分かります。そこに主屋と付属屋が配されています。宅地の主屋には、草葺屋根が二棟(図1-4・5)見えます。そのうちの一棟(図1-4)は、瓦葺の庇を葺き下ろす「四方蓋造」です。草葺屋根は、南側の別の武家屋敷の主屋にも見えます。

6 高松城 江戸長屋2拡大4

 御堀端手前の街路には、五~六条ほどに盛り上げられた畝と作物が見え、畑として使用されているようです。畝の間には、石組みの井戸も見えます。
 おそらく敷地のまわりを囲む海鼠壁の長屋建物は、御用屋敷になった時に設置されたもので、その内側の建物のほとんどは江戸長屋の施設と研究者は考えているようです。確かに、建物の傷み具合から見ると、明治時代になって新築されたものではないようです。

武家屋敷の背後には、間口四間程度の町家が東西(左右)に続きます。
6 高松城 瓦町常磐町

外堀に面した町人地の片原町と兵庫町だ。写真には写っていないが、これらの町家の存在によって外堀の位置が想定できる。
と研究者は云います。規則的に東西に並ぶ町屋の存在から外堀の位置が確認できるようです。私には、もうひとつ分かりません。
また、次のようにも指摘します。
 これらに直交して、南北方向に連続する町家がある。周囲よりひときわ高く立派な町家が多いことから、城下の大手筋だった丸亀町と考えられる。第百十四国立銀行(現・百十四銀行高松支店の場所)はこの頃、既存建物を借りて営業しており、この写真のいずれかが該当するものと思われる。
 
同じように丸亀町通りの家並みも分かるといいます。 
丸亀町の北側(手前)のふたつ並ぶ二階建の洋館については、次のように云います

6 高松城 高松郵便局

 この2棟は丸亀町の北側延長上にあり、片原町・兵庫彫の町家よりもわずかに北側にあるため、外堀に架かる常盤橋よりも内側の旧武家地(内町)にあることが読み取れる。手前の建物は東(左)面に玄関庇があり、背後の建物も東(左)面にベランダがあることから、ともに東側をファサード(正面)としたことが分かる。つまり、常盤橋近くの街路西側に面して洋館が建っていたことになり、ほぼ現在の高松中央郵便局の場所に比定できる。(
 
 高松郵便局と考えられる洋館の細部については、次のように指摘します
①手前の洋館は漆喰塗りの外壁に寄棟屋根を乗せており、軒直下には分厚いコーニス(軒蛇腹)とデンティル(歯飾り)を巡らせている。
②外壁の四隅には付け柱か色漆喰による隅石がデザインされているようである。
③窓は床面から立ち上がる内開きのフランス窓で、その物外側に外開きの鎧戸(隙間が開いて通気性のある戸)が取り付けられている。
③背後の洋館は、正面側に深い軒を支える支柱が見え、ベランダを構成している。
目立つのが、その手前の白い大きな切妻屋根の建物です。
トタン葺きのようにも見えますが板葺だと研究者は云います。どちらにしても大きさの割には「簡易構造」のようにも見えます。よく見ると東(左)側の妻壁に四本の支柱に支えられた「櫓」が立ち上げられているようです。そうだとすると、この建物は芝居小屋と考えられます。内町には、明治14年に開業した芝居小屋・旭座があったといいます。その位置は
「常盤橋」「現在の高松郵便局のある場所」
とされていて、この建物の位置とほぼ一致するようです。自由民権思想家である中江兆民らがここで演説会を開き、明治を代表する俳優・川上音二郎が壮士芝居を演じたという旭座のようです。
 このように常盤橋周辺の内町や丸亀町には、郵便局や銀行、遊興施設(芝居小屋・料亭)などが姿を見せ、新たな市街地景観を作りだしていたことがうかがえます。
町家の遙か向こうに高い屋根の寺院建築が連なるエリアがあります。

6 高松城 法泉寺遠望


 城下町の南側の防衛ラインとして造られた寺町です。大きな本堂をもつ寺院に無量寿院・興正寺別院・法泉寺などがあります。写真にも寺らしい建物がいくつか見えます。寺町の一番西側の法泉寺の本堂が見えているようです。この寺は生駒家の菩提寺として作られ、広大な境内を持っていたことは以前お話ししました。
 また、旭座の遙か向こうに巨木が何本か立ち並んでいるのが分かります。これが現在の中央公園付近にあった浄願寺です。この写真が撮られた明治15年には、境内に香川郡役所と高松中学校が置かれていたようです。
「高松中学校の校舎本館は明治6年に建てられた二階建の擬洋風建築であるが、浄願寺の松林背後にかろうじて二階部分をのぞかせている」
と、研究者は教えてくれるのですが、私の写真ではそこまでは確認できません。しかし、逆に、そこまで映り込ませている写真家の技量は高かったということなのでしょう。

最後に、4枚の写真から見えてくる高松の街並みを見ておきましょう
6 高松城 ケン写真2拡大2

 町家は、本瓦葺・漆喰壁の塗屋造の中二階で、上の下横町に見られるような一階庇の高さを揃えた統一的な景観になっています。初代藩主松平頼重の時に高松城下町を描いた「高松城下図屏風」(慶安・承応頃)には板葺・土壁の平屋の町屋が続いていましたが、250年程の間に、瓦葺き、二階建てに変わってきたことが分かります。
6 高松城 江戸長屋5
「高松城下図屏風」の町屋は板葺き・平屋
この変化を後押ししたのは、享保三年(1718)の高松大火などの度重なる火災だったと考えられます。防火対策として塗屋造十瓦葺が当局から推奨ないし強制された可能性があるようです。
 城内の「東ノ丸」は、不思議な性格を持ちます。

6 高松城 ケン写真2
 東ノ丸は海側は、堅固に造られています。しかし、写真で見た通り町家と接する東面と南面は、低い石垣上に土塁があるだけです。多聞櫓は乗っていませんでした。これでは中堀を挟んだ北浜の町家からは、内部が丸見えだったはずです。北浜から東ノ丸北半部に入る枡形も形式的なもので、実戦性はありません。つまり、城下に対して「開放的な空間」のようにみえます。どうしてでしょうか?
 それは、ここにあった米蔵の運用上のためだったと研究者は考えているようです。
 年貢米の集積と上方への輸送のために港(内町港)が使われました。東の丸の作事舎は、資材や労働力の確保のため中堀を挟んだ町人地・北浜界隈との結び付きなくしては運用できなかったようです。そのために、隣接する港や町人地に対して開かれた構造を採らざるを得なかったのでしょう。そのために本来の軍事施設という性格が時代と共に薄れていったと研究者は考えているようです。

最後に4枚の写真から高松の「近代都市」への萌芽を探してみましょう
 明治期になって建てられた建造物が集中する地域は、次の3ヶ所でした。
①常盤橋周辺、
②内町港口から北浜恵美須神社にかけての地域
③東浜港口と八重垣新地、
それらの性格は
①は旧武家地の再開発であり、公共建築(高松郵便局)と商業施設の混在した街並みが形成されていました。武家地と町人地を繋ぐ常盤橋周辺が新たな市街地形成の求心力をもった地域であったことを窺わせてくれました。
②・③は港湾の開発で、
②では海運(汽船)・漁業(魚問屋・魚市場)の拠点、
③では新たな遊興地である遊郭が形成
されていました。汽船の寄航地である内町港は、江戸時代以来の港に「田中の波止」が加えられた程度で、ヒルー・ギルマールが乗ってきた大型ヨット(客船)は、沖合に停泊していました。
 ここからは、明治15年の段階では、汽船が安全に停泊できる泊地もなかったことがうかがえます。本格的な市街地と港湾の近代化は、第三次香川県が成立し、鉄道網と港湾がセットで整備されていく明治二十年代以降になるようです。

おわりに
 香川では、明治十年代の営業が確認できる写真師は1名しかいないようです。明治15年の高松では、写真自体が珍しいものだったのです。香川の写真師が野外で撮影した明治前半の写真は、ほとんど見つかっていないようです。これは、湿板で風景を撮影できる技術を持った写真師が香川にはいなかったためだと研究者は考えているようです。
6 高松城 天守閣1
 それに対して、幕末から明治前期にかけて、外国人向けに販売された写真は、数多く見つかっています。しかし、香川県内のものになると少なくなります。あってもほとんどは金刀比羅宮や寒霞渓など名所の写真です。
 今回発見された写真は、撮影年月日もはっきりしている上に、細かいところまではっきりと識別できます。これほど鮮明に高松城・城下をとらえたものは、今までにありませんでした。
 四枚の写真は、城郭を中心とする江戸時代の姿と、それを突き崩し始めた近代都市としての高松城下の姿が重なって写し込まれていました。

   参考文献
野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号2006年

 
6 高松城 天守閣2
今まで一番古いとされてきた天守閣の写真

2005(H17)年3月に、ケンブリッジ大学図書館が、高松城の写真を所蔵しているということが分かりました。それは、写真集の出版準備を進めていた平凡社より県立ミュージアムへの問い合わせがきっかけだったようです。問い合わせの内容は、同大学所蔵の写真のうち「名古屋城」というタイトルがつけられた写真があるが、高松城の間違いではないかというもので、合わせて「讃岐高松」というタイトルがついた写真3枚が送付され、現在の場所等が分かれば教えてほしいというものだったようです。
 「名古屋城」というタイトルが付けられた写真は高松城天守閣の写真であり、残り3枚は高松城内から城下を撮影したものと分かりました。明治初期の高松城天守閣の写真は、それまで一枚しか見つかっていませんでした。
6 高松城 4

1882年の高松城の天守閣から見ていくことにしましょう。
テキストは「野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年」です
 
6 高松城 天守閣1
 三ノ丸外側の曲輪・桜の馬場の桜門のあたりから本丸天守を撮ったものです。今まで知られていた写真と同じ方向・角度で撮られています。三層四階地下一階の天守です。外壁の白い漆喰のはげ落ちている所も同じです。ここからは、ふたつの写真は、ほぼ同じ時期に撮影されたことが分かります。
 研究者は次のように指摘します。
「最上階(四階)の東面南隅外壁と、二階東面北側の連子窓周辺の漆喰損傷状況を見ると、従来の写真の方がケンブリッジ大学の写真よりもわずかに剥落が進行していることが分かり、先に撮影されたようである。」
ということで、高松城天守閣を写した一番古い写真となるようです。
この写真からは、次のような特徴や状態が見て取れるようです
①初層が石垣から大きくせり出していること、
②三層の四階が三階よりもはみ出す「南蛮造」であること
③初層・二層の軒裏には軒と壁を斜めに架け渡す方杖で、
④四階の飛び出した床は二段に重ねられた片持梁で支えられている
⑤外壁は漆喰が剥落し、初層には小舞が露出している箇所もある
⑥大棟がへたっている以外は軒の歪みも少なく、構造自体はさほど老朽化していない
天守の西側に重なって見えるのが本丸です。
ここには、地久櫓などと天守を連結する多聞櫓が巡っていたと云われます。しかし、写真の左端に見える本丸南東隅には多聞櫓はありません。天守曲輪手も見えません。そこには、草が生い茂っています。明治になって、破却されたようです。
 また天守台右奥に見えるニノ丸東面には、石垣上に漆喰塗りの白い土塀が見えます。しかし、それも奥(北)側の黒櫓に近い箇所では倒壊したまま放置されているようです。 研究者は
「このほか、ニノ丸北西隅に建つ二層の廉櫓がおぼろげながら見える。」
と云うのですが私には分かりません。

6 高松城 天守閣3
現在の天守閣跡の石垣 

この写真を撮影した英人旅行家ギルマールは、『旅行日誌』の中で、高松城の荒廃ぶりに強い興味を示しています。この写真からも天守閣の壁や披雲閣の屋根など老朽化が見て取れます。桜馬場も草や芝木が伸び放題です。ギルマールは
「草木があまりにも生い茂っているので、我々は道に迷ったほどである」
と記しいます。大がかりな撮影道具を持って歩くのは難しく、機材を設置して撮影が出来る場所も限られたようです。
 明治を迎えた時にすでに老朽化していましたが、陸軍が使用しなくなって以降、さらに荒廃が進んだようです。
 この写真が撮影されたのは明治15年ですが、その2年後の明治17年には取り壊されます。三ノ丸御殿が取り壊された時期については分からないようですが、この写真には写っていますから明治15年まではあったことが確認できます。天守閣と同時期に取り壊されたと考えられます。

6 高松城 天守閣1
 
この写真の右側の石垣上に見えるのが三の丸の多聞櫓のようです。
写真には入っていませんが、多聞櫓はさらに右側に伸びて三ノ丸正門である桜御門に繋がっていました。
「節子下見板の外壁と垂木を波形に塗り込んだ軒裏は、桜御門と同じ」

と研究者は指摘します。多聞櫓は、三の丸南東角の龍櫓を起点に北と西に延びていたようです。
6 高松城6 天守閣3

 私が興味があるのは実は、お城よりもこれを撮した人たちです。
どんな人たちが、どんな目的で高松までやってきて、この写真を撮ったのでしょうか。今ではスマートフォンの普及で写真撮影は日常化していますが140年前には、写真撮影は高度な最先端技術でした。この時期、日本ではまだ乾板が普及していなくて、湿板がつかわれていたようです。これには、撮影器具が数多く必要でしかも大型です。そのため野外撮影は事実上はできなかったようです。そのためギルマールが高松城で撮った写真も4枚だけです。
 4枚の写真がどのようにして撮られたのか見ていくことにします。
高松城天守閣を撮した写真は、ヒルー・ギルマール(1852~1933)が、ケンブリッジ大学地理学部に寄贈したものです。
 彼はケンブリッジ大学で医学博士の学位を取得しますが、医師にはならず、旅行家、博物学者、地理学者として世界各地を旅行し、後半生は地理学関係の出版・編集などに携わったようです。
 彼を旅行家として有名にしたのが、30歳の時に自前のヨット・マーケーザ号での冒険旅行でした。その旅行記『マーケーザ号のカムチャッカおよびニューギニアへの巡航‥台湾、琉球およびマレー群島の記述を含めて』が高く評価されます。彼は『旅行日誌』をつけ、家族などに宛てた手紙も保管するように依頼しています。ここからは最初から旅行記として出版するつもりで、詳細な記録をしていたようすがうかがえます。このため日本旅行中に撮影された写真の撮影場所や撮影日が特定できます、このことが、写真の持つ史料的価値を非常に高いものにしていると研究者は考えているようです。

ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真 マーケーザ号の日本旅行の通販/臼井 ...

彼の記録からその足取りを追ってみると、次のようになります
1回目は、明治15年6月28日から琉球滞在を経て、7月4日から29日間マーケーザ号を横浜に碇泊させ関東近辺を旅行、その後函館を経てカムチャッカ半島に向かって出港するまでです。
その行程は横浜をスタートして、宮ノ下、箱根、吉田、河口湖、甲府、昇仙峡、甲府、鰍沢、身延山、富士川、蒲原、鎌倉、横浜と廻っています。
2回目は、カムチャッカから
9月27日 函館に戻り、
10月6日 横浜に至る。
そして東京から日光、下諏訪などを経て名古屋に至り、伊勢、和歌山を経て、神戸に碇泊し、その間京都・奈良・大阪を回り、瀬戸内海へと進みます。高松に立ち寄った後に宮島、松山を経由して九州に向かい、伊万里・長崎・熊本を回り、
翌明治16年1月31日に長崎から中国に向けて出発するという行程です。さすが英国の貴族の「冒険旅行」です。当時の日本人の残した、こんな旅行記や冒険記はありまでん。
2度目の日本滞在中に立ち寄った場所は次の通りです。
横浜、東京、宇都宮、日光、妙義山、碓氷峠、下諏訪、飯田、時又、天竜川、二俣、名古屋、瀬戸、横浜、伊勢、勝浦、那智、大島、神戸、京都、琵琶湖、奈良、神戸、高松、宮島、松山、伊万里、長崎、熊本、阿蘇山、栃木、長崎を訪れています。
   高松への寄港は2度目の滞在中に神戸から宮島へ向かう途上のことだったようです。
 全ての場所で撮影しているようではありません。写真として残っている被写体は、次の通りです。
第一国立銀行、増上寺、不忍池、浅草寺、吹上御苑、鎌倉大仏、鶴岡八幡宮、富士屋ホテル、東照宮、名古屋城、伊勢神宮、京都御所、西本願寺、三十三間堂、方広寺の梵鐘、清水寺、東大寺、興福寺、春日大社、大阪城、高松城、厳島神社、伊予松山城、熊本城
  これらは、ギルマールが撮影したものと私は思っていました。ところがそうではないようです。
日本人の写真技師を雇い入れて、同行させているのです。
 ギルマールの旅行に随行したのは、横浜の写真師臼井秀三郎です。
彼の正確な生没年は分かりませんが、伊豆下田の生まれで、同じ下田出身で、文久二年(1862)に横浜で写真館を開業した下岡蓮杖の弟子です。臼井は、師匠の下岡蓮杖より写真術を学び、遅くとも明治8年には横浜で開業していたことが分かっています。
 臼井がギルマールの旅行に随行することになったきっかけは、ギルマールが初めて横浜に上陸した際に、琉球で撮影した乾板の現像を写真館スティルフリート&アンダーセン(日本写真社)に依頼したことから始まります。この写真館の写真師ジョンー・ダグラスは、臼井に写真術を教授した人物です。臼井を雇用した経緯の詳しいことは分かりませんが、乾板の現像を依頼したことをきっかけに、ギルマールが日本人写真師を求めていることを知ったダグラスが臼井を紹介したというストーリーが考えられます。
 帰国後の出版を考えていたギルマールが、日本の写真を大量に持ち帰るためには、日本で写真師を雇う必要がありました。そうすればギルマールにとって、自分の仕事を軽減し、質の高い写真を手に入れることができます。一方、外国人向けに、日本の名所写真を販売していた臼井にとっては、販売できる写真の種類を増やすチャンスです。両者にとって悪い話ではありません。
 
ヨットで高松にやって来た

6 高松城6 天守閣の展望pg
高松城天守閣からの屋島方面の展望 ギルマールの大型ヨットが停泊中

こうして年の瀬も押し詰まった明治15年12月30日の早朝に、神戸からギルマールー行を載せたヨットが高松港に到着します。そして『旅行日誌』の中で、高松港出発時刻を2時30分と記していますので、高松滞在は数時間程度だったようです。その大部分は撮影にかけられたのでしょう。同行した写真技師の臼井は、湿板の技法で撮影したと研究者は考えているようです。
アウトプットの手段として写真を意識する - ミニ企画展「はい、チーズ ...
この撮影技法は、よく磨いた透明なガラス板にコロジオンを塗布し、それを硝酸銀に浸して感光性を持たせ原板とします。乾燥すると感光性がなくなるため、濡れているうちに撮影・現像を行わなければなりません。野外での撮影には、薬品や暗室を携帯する必要があり、かなりの労力と技術が求められます。そのため、野外の建物などを撮った写真は非常に少ないようです。
湿板 乾板 鶏卵紙 白金紙 ピーオーピー ブロマイド紙
 ギルマールたちのヨットには、神戸から外務省の野口と小林という人物が同行していたようです。イギリスから日本へ向かうギルマールー行が、シンガポールで、駐オランダ公使の勤務を終えて帰国途中の長岡護美と知り合い、日本旅行中に役立つ紹介状のようなものを書いてもらっていました。 高松城の写真撮影の際にも、仮に陸軍や県の管理が厳しくとも、外務省の役人が二人も同行してれば、城内への立ち入りや、天守閣や櫓からの撮影も現地の許可が下りたのでしょう。
 『旅行日誌』には、撮影が終わった後に、
「骨董品をいっぱい積み込んで高松を出発した」
「我々が出かけるところはどこでも群れをなした」
とあり、ギルマールたちが、城下を歩き、骨董品を買い集めた様子がうかがえる。しかし、城下で撮影された写真は残っていません。臼井らが同行しなかったのかもしれません。

6 高松城4 天守閣3

最後に、当時の高松城の置かれた状況を見ておくことにしましょう
 高松藩は、1870(M3)年9月に、早くも老朽化した城郭楼櫓の撤去を願い出ています。翌年の4月に再度願い出て許可を得て、壊す前に最後に城内を一般公開しています。
これで建物が壊され撤去されていれば、更地になっていたはずですが、そうはならなかったようです。城内の建物を取り壊す前に廃藩置県を迎え、1871年8月、高松城は兵部省に移管されます。そして、大阪鎮台第二分営が城内に設置されることになったのです。
 2年後の1873年には、鎮台配置が改められ、全国に六鎮台十四営所が設けられます。このときには、高松の大阪鎮台第二分営は廃止され、丸亀に営所が設置されることになります。営所指定されなかった高松城郭は廃城とされ、入札による払下げが行われることになります。
高松城は営所とされなかったのに、廃城にはならなかったようです。どうしてでしょうか?
 これは、丸亀への移転に時間がかかったためのようです。丸亀営所が完成し、高松から丸亀へ軍隊が移転したのは翌年の1874年12月になります。そして、1875年8月に、丸亀歩兵第十二連隊が編成されます。そのうち第三大隊は、1879年6月まで高松に分屯します。
 以上見てきたように、高松城の天守閣や櫓は、明治初頭に老朽化による取り壊しが決定していたのに実行されずに、その後1879(M11)年まで陸軍によって使用されていたようです。
 ギルマールが訪れたのは、その4年後のことになります。つまり、陸軍が去って無人の施設で管理もされずに放置されて4年経っていたのです。桜馬場に草木がぼうぼうと茂っているのも納得がいきます。

 日清戦争を前にした1889(M21)年5月、鎮台制度は師団制度に改編され、全国18ヶ所に連隊所在地を指定します。このとき、陸軍省の管轄とされた22の城郭以外は、払い下げられることになります。高松城は、旧藩主松平頼聡に払い下げられます。
 松平家へ払い下げ後も、しばらくは放置されたようです。
 1902(M35)五年に、初代藩主頼重を祭る玉藻廟が造営され、同年桜の馬場を中心に第八回関西府県連合共進会が開催されます。その翌年に松平家の家督を相続した頼寿は、高松城を整備し、積極的に活用することによって、旧領地における基盤を確立する方向を示します。こうして前時代の遺物となってしまった高松城は、旧藩主である松平家に払い下げられた後に、再び利用の道が開かれることになります。
 ギルマールたちが見た高松城は、陸軍による使用も終え、利用価値をすべて失い、打ち捨てられた、最も荒廃した時期の姿だったようです。
 参考文献
野村美紀・佐藤竜馬
明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について
香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年

このページのトップヘ