小豆島の安田の辺りの路地を歩くと醤油の匂いが漂ってきます。
この辺りには、マルキン醤油以外にも今も醤油醸造者が何軒も創業を続けています。各地域にあった醤油屋さんが姿を消した中で、小豆島の醤油倉だけが生き残ったのはどうしてなのかという疑問が昔からありました。その答えのヒントになりそうな論文に出会いましたので紹介します。テキストは「中山正太郎 明治期の小豆島土庄醤油会社の経営構造」 瀬戸内海地域研究第1号 です。
この辺りには、マルキン醤油以外にも今も醤油醸造者が何軒も創業を続けています。各地域にあった醤油屋さんが姿を消した中で、小豆島の醤油倉だけが生き残ったのはどうしてなのかという疑問が昔からありました。その答えのヒントになりそうな論文に出会いましたので紹介します。テキストは「中山正太郎 明治期の小豆島土庄醤油会社の経営構造」 瀬戸内海地域研究第1号 です。
明治を迎えたばかりの日本で、酒・醤油・味噌造などの醸造業は、地方有力者が手を出したいあこがれの産業でした。『明治七年府県別物産表』には、醸造品(酒・醤油・味噌を含む)の生産額は、3100万円余で織物の1700万円をはるかにしのいで第一位を占めています。明治前期の中心産業は、醸造業と織物業であったといえるようです。
文化元年(1804)に、小豆郡安田村の高橋文右衛門が、大坂の醤油屋近江屋及び島新へ醤油を運び出しているのが小豆島醤油の最初の記録のようです。それ以前に小豆島で醤油醸造を始めていた蔵本があったことが分かります。
明治三年(1870)には、小豆島の東部には75軒の醤油醸造家があり、諸味仕込高10699石、醤油製造石高5360石斗、西部の六ヵ村を加えると小豆島全体で約100軒の醸造家が醤油生産に従事していたことが記録から分かります。それが明治十年代になると醤油醸造家は218軒と倍以上に急増しています。約10年間で、75軒から218軒への増加というのは、どういうことなのでしょうか?
ここからは次のような事が分かります。
①香川県には394の醤油醸造所があり、②その醸生産高は61462石余、③一醤油醸造所当り平均約156石④小豆郡は、香川県内で醸造所数の55%⑤造石高の約65%を占めています。
小豆島は、他の郡が全部集まっても適わないだけの醤油屋さんがあったことになります。
香川県の全国に占める醤油生産の推移をしめしたのが表2です。
①千葉・愛知・香川のトップグルーが生産量を急激に伸ばし、市場占有率もじりじりと上げている。
②兵庫・和歌山の生産高の伸びには勢いがなく、占有率を下げている。③香川は全国市場占有率約6%前後で、大正9年には府県別順位を第3位に上げている
小豆郡の大正四年の生産規模別階層構成を示したものが表3です。
明治21年に218あった醸造所は約半数の108に減っています。生産能力は、一醸造所当り約885石に上昇していて、約6倍弱の規模に拡大してます。この中で生産能力が一番高いのはマルキン醤油で、1万石を越えていたようです。それに続いて
5000石以上が4社、
1000石以上が26社で
全体の25%近くを占めるようになっています。ここからは小豆島醤油業は、明治後期から大正期にかけて、生産規模の拡大と中小醸造所の淘汰が行われたようです。その大激変期をくぐり抜け、競争力をもった会社が生き残ったことがうかがえます。
さていよいよ土庄での醤油工場の設立です。
さていよいよ土庄での醤油工場の設立です。
明治19年~22年の企業勃興の大波は、小豆島にもやってきます。この波を受けて、安田地区の醤油醸造の隆盛に負けじと、土庄地区でも醤油会社の経営に乗り出そうとする人たちが現れます。
明治21年1月25日、大森弁蔵や三枝重太郎ら土庄地域の有力者ら七名は、小豆島土庄醤油会社創立発起人申令規約を作成し調印します。この申合規約には、次のように約されています。
一 当会社ハ有限責任トシ、資本金ハ金壱万円トス。一 前項資本金ハ之ヲ弐百株二分割シ壱株五拾円トス。一 株金受持及募集方法ハ左ノ如シ。弐百株之内百弐拾弐株 発起人二於テ受持此内訳四拾株 大森 弁蔵弐拾株 三枝 林造弐拾株 三枝 重太郎拾五株 原田 清四郎拾弐株 三枝 定蔵拾 株 大森 八蔵五 株 原田 安八弐百株之内七拾八株 他ヨリ募集ス。(中略)一 当社倉庫・器機・宅地ハ発起人之内原田安八現今所持ノ
宅地・畑・倉庫及器機〔座敷釜床ヲ除キ〕一切代価七百
円ニテ購求シ、之二副築及増設ヲ加フルモノトス。一 当会社発起人中所持シ 醤油製造用家屋及器機ハ、相当
直段ヲ以テ当社ヱ購入スルモノトス。但、値段ハ発起人
中二於テ相談之上之ヲ定ム。(後略)
ここからは次のような事が分かります。
①会社は有限責任会社で、資本金は一万円
②うち6100円は発起人7名が受け持ち、他を一般から募集しています。
③倉庫・器機・土地等は、原田安八所持のものを七〇〇円で購入し、
④発起人の醤油製造用の家屋・諸器機類は、相当の直段で購入
こうして設立された会社は、同年4月13日に開業届を県庁に提出し、同月16日には臨時株主総会を開き、社則・業務細則等を議定し、同月18日開業式典を開くという手順で開業へと歩みます。
新しく設立された醤油会社の経営に当たったのは、誰でしょうか
当初の役員は、表四の通りです。社長の大森弁蔵は、自ら塩・大豆・小麦・薪等を商う商人で、後には小豆島紡績会社や小豆島銀行を設立した企業家です。また県会議員・同議会議長を務めた名望家でもあったようです。三枝重太郎・太田耕治も県会議員等を歴任した人物で、他の人も手広く商業を営んだ地元の有力者達のようです。
この内、三枝定蔵・林蔵・重太郎らは、以前から醤油醸造業を営んでいました。また、三枝定蔵と大森弁蔵は義理の兄弟にもなります。三枝の醤油醸造所で培ってきた技術や販売先をベースにして、資本を集めてより規模を大きくして行こうという話が身内の大森氏と三枝氏の間でまとまったのかもしれません。
この内、三枝定蔵・林蔵・重太郎らは、以前から醤油醸造業を営んでいました。また、三枝定蔵と大森弁蔵は義理の兄弟にもなります。三枝の醤油醸造所で培ってきた技術や販売先をベースにして、資本を集めてより規模を大きくして行こうという話が身内の大森氏と三枝氏の間でまとまったのかもしれません。
こうして公募された株式状況を示したものが表5です。これが新会社の株主たちと云うことになります。
大森弁蔵・亀太郎・角平・三枝林蔵・定蔵・重太郎・原田清四郎・安八・太田耕治・森亀齢治らの役員及びその一族らは、予定通りの304株分の6080円を払い込み、株式を所有します。その他の人たちが残りの株式を購入しています。
⑤の九富森太郎は600円を出資していますが、小江で海運業を営む人物で、醤油をこの会社から買込み輸送した海運業者でもありました。 この表からは出資の呼びかけに応じたのは、土庄の有力な商人や海運業者・名望家・企業家であったことが分かります。ほぼ全額地元資本によって設立された醤油屋さんのようです。
⑤の九富森太郎は600円を出資していますが、小江で海運業を営む人物で、醤油をこの会社から買込み輸送した海運業者でもありました。 この表からは出資の呼びかけに応じたのは、土庄の有力な商人や海運業者・名望家・企業家であったことが分かります。ほぼ全額地元資本によって設立された醤油屋さんのようです。
新たに船出した土庄の醤油会社に、大波が打ち寄せます
原料の大豆・小麦・塩の価格変動です。大豆・小麦の一石当りの価格の変動と総購入量を示したものが図1です。
①創業直後に原料の大豆の価格が高騰した。②明治30年・36年・大正2年の三回の高騰期がある。③日露戦争期以前には、麦より大豆の方がやや割高だったのが、41年以降は小麦の方が高くなった。④大正七年の米騒動以降は、大豆・小麦ともに一石20円以上に暴騰した⑤大正9年には、大豆・小麦共に高騰し、翌年には暴落するなど、原料価格の大変動期に突入した。
安定して原料を買い付けるのが、難しい時代を迎えたと云えます。この時期に購入量が大きく増減するのは、大豆・小麦の価格変動を見ながら、価格が安くなれば購入量を多くし、価格が高くなれば購入量をひかえていることがうかがえます。
小豆島では、田畠が少なく、醤油原料としての大豆・小麦は島内で自給することはできません。そのため大半を島外から買い付けていきました。どこから買い付けていたのでしょうか。以前に、江戸時代末期に、マルキン醤油の創業者の所有する廻船の動きを紹介したことがあります。マルキンの廻船は、九州の有明海沿岸にまで出向いて小麦や大豆を買い付けていました。
明治維新を経て買付先は、どのように変化しているのでしょうか?
明治維新を経て買付先は、どのように変化しているのでしょうか?
最大の買付先は、朝鮮半島になっています。半島の小麦や大豆は国内産よりも安かったので、全体の4割を朝鮮から購入するようになっています。そして、同量を肥前、残りの15%が肥後となっています。
購入先も一番安いところから一番多く買い付けていますが、集中しないようにバランスを保ちながら買い付けているようです。
創業時に、原料買付を行っていたのは誰でしょうか
大豆購入量260石の半分を、購入しているのは社長の大森弁蔵です。小麦も購入量331石余のうち3/4を、大森弁蔵が扱っています。塩はどうでしょうか? 塩の購入量995俵のうち1/2を社長の大森弁蔵が購入しています。塩の購入先は全て小豆島の塩田地主です。
のこりの原料費となるのが薪です。購入量の半分は八代定治からの購入です。彼は、この醤油会社へ塩の1/5強を納入しています。彼は塩田を経営しながら、薪も大量に売り捌いたようです。
社長自ら原料の買付を行っていたようです。
さて、作られた醤油は、どこで売っていたのでしょうか?
醤油の販売先は、明治三〇年代では
「大阪府ヲ主トシ、兵庫・広島之二次キ、他九州・台湾等ナリ」
と記されています。大坂・神戸・広島・九州と瀬戸内海交易のエリアで販売しています。当然、船で運ばれたのでしょう。
それでは、明治25年の醤油売上先を表19で見てみましょう。
この表を見て、驚いたのは、総売上量の70%が地元小豆島関係者分に売られていることです。残りが大阪・兵庫などに販売されているのです。地元小豆島の消費用として生産されていたのかと思いましたが、そうではないようです。
それでは、明治25年の醤油売上先を表19で見てみましょう。
この表を見て、驚いたのは、総売上量の70%が地元小豆島関係者分に売られていることです。残りが大阪・兵庫などに販売されているのです。地元小豆島の消費用として生産されていたのかと思いましたが、そうではないようです。
全体の4割に近い醤油を買い上げているのは、先ほど見た⑤の九富森太郎です。彼は小豆郡四海村出身で、土庄に在住する海運業者で、会社成立時に30株600を出資していました。彼は、買い入れた醤油を小豆島で売捌いたのではないようです。神戸・大阪方面へ自分の船で運んで、売ったようです。
どうやら会社設立当社は、自前の販売網を持っていなかったので、売ってくれる地元の海運業者(仲買業者)に、半分以上を売っていたようです。
しかし、創業から20年近く経った明治44年の醤油売上高を示した表20を見ると、地元の小豆島への販売高は激減しています。そして、大阪が約1130石で全体の約1/2、神戸が約530石で約1/4を占めるようになっています。お得意さんを開拓し、自前の販売網を持つようになってきたことがうかがえます。
経営状態について
経営状態について
醤油屋さんの経営は、分かりにくいところがあります。原料の購入から仕込み・熟成を経て商品化するまでに最低一年数力月が必要です。そのため、その年に投入した資本が、その年内に回収されるものではありません。原料を仕込んでから商品化するまでに、長い時には3~5年もかかることもあります。さらに代金回収は、またその先になります。資金繰りが長期サイクルになるのでかなりの資金的余裕が必要なようです。
この会社の経営状態を見てみましょう
支出部門の最大品目は、原料代です。創業時の明治21年には、半分が原料費です。以後、原料費が平均すればと48%になります。2番目が諸経費で約14%です。ここには、役員・雇用人の給与、雇用人への賞励金、会議費等を含む諸雑費が含まれています。そのうち最大のものは、醤油造りに直接携わる蔵人達の給与で、支出全体の約8%に当たります。その他の主要な支出項目としては、税金の約13%、製品残品・空樽・運搬費などです。
純益金の最高額は明治23年の1819円余で、その割合は18,6%になります。これは近隣の備前児島の東近藤家の12,8%、播州竜野の円尾家の6,8%に比べても高収益をあげていたようです。その原因が、どこにあったのかは現在の所は分からないようです。今後の課題ということでしょうい。
純益金の最高額は明治23年の1819円余で、その割合は18,6%になります。これは近隣の備前児島の東近藤家の12,8%、播州竜野の円尾家の6,8%に比べても高収益をあげていたようです。その原因が、どこにあったのかは現在の所は分からないようです。今後の課題ということでしょうい。
図二は、純益金額・純益金率の推移を示したものです。
純益金率の推移をみると、次のような5つの時期に区分できます。
①明治20年代の利益率が高い時期②明治30年代前半の利益率の急激な低下③明治30年代後半の日露戦争期に回復傾向④明治41年の急激な低下、⑤その後の一時回復と大正期の低迷
この様な利益金率変動の原因を研究者は次のように考えています。
①明治20年代の高収益率確保の原因は、大豆・小麦価格の低価格安定。②明治30年代前半の落ち込みは、小麦・大豆の価格高騰③明治30年代の後半は、大豆・小麦の価格低下と日露戦争の影響④明治41年の急落は、戦後恐慌による影響と三〇年代末の原料の高騰が⑤大正期の低迷の原因は、大豆・小麦が一石一〇円を突破し、その後も暴騰を続けたこと
こうして、大正期の原料暴騰期を迎え、利益金率が大幅に低下するなかで、全国の醤油醸造業は経営の激動期を迎えることになります。
この経営の危機を乗り越えるためには、革新的生産技術の開発と新しい経営形態への脱皮が求められることになります。小豆島の醤油屋さんは、それをどのように乗り切っていったのでしょうか。
以上、まとめておきます。
① 企業勃興期の明治21年、小豆島でも新しい醤油醸造会社が、地域の有力者たちによって設立
② 小麦・大豆などの原料は、会社の役員など地元の有力商人達の手を通じて購入された。
③ 小麦・大豆は、江戸時代に引き続いて九州から買い入れているが、大豆は安価な朝鮮のものが使われるようになった。
④ 塩は明治末に台湾塩が使われるまで、地元小豆島産に限定されていた。
⑤ 醤油の販売先は、創業当初は、地元の関係者であったが、明治末期になると大阪・神戸がその中心となった。
⑥ 経営状態は原料価格に大きく左右され、大正時代に入ると利益率は悪化した。
おつきあいいただき、ありがとうございました。