瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:時宗

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宇多津の郷照寺 四国霊場で唯一の時宗寺院

宇多津の郷照寺は、四国霊場の中で唯一の時宗寺院です。この寺については、時宗開祖の伊予出身の一遍によって時宗の拠点であったとされてきました。しかし、最近刊行された調査報告書には、この寺が時宗に改修されたのは、髙松藩初代藩主の松平頼重によってであると記されています。どうして、そう言えるのかを今回は見ていくことにします。テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。



宇多津地形復元図
DSC03878宇多津
中世の宇多津海岸線の復元図と各寺院

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中世宇多津の景観復元図

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中世の宇多津地形復元図と各寺院

6宇多津の寺院1

郷照寺の開基由来について

郷照寺縁起

 郷照寺の開基については、A「寺開基山来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
①天台宗寺院として創建後、空海の四国霊場開基の際に78番札所となり、その後の退転
②一遍が正応元年(1288)に(1239-1289)が時宗に改めて再興
③中世後半は、24代遊行上人不外(1460-1526)より讃岐国内に末寺7か寺を賜るなどの寺勢を誇った
④天正期(1573~1592)の四国兵乱により悉く焼失(「寺開基由来帳」)。
寺蔵文書であるB「開帳中記録」には、次のように記します。「開帳中記録」天明4年(1784)
①弘仁3年(812)に弘法大師による阿弥陀如来の彫像を契機に「仏光山道場寺」として開山
②天台宗恵心僧都(942-1017)の後に退転していた諸堂を、仁治4年(1243)に讃岐へ配流された僧道範(1178-1252)が「大師古跡の場」「真言止観の床」として再興
③正応元年に一遍が時宗寺院の「郷照寺」に改めたと
ふたつの縁起ともに、18世紀になって書かれたもので、札所霊場としての弘法大師空海の由緒や、一遍の晩年の伊予帰郷や讃岐・阿波の遊行(「一遍聖絵」正安元年(1299))をもとに、後世に創作され付け加えられたものと研究者は考えています。どちらにしても、これらの由緒は同時代史料ではなく、そのまま信じることはできません。 建立時期の参考になるのは、次の二点です
A 本尊の阿弥陀如来坐像が平安時代後期の作と想定されること
B 境内から古代末から中世初頭の丸瓦(工芸品4・5)が出土していること
ここからは郷照寺は、古代に遡ることはできず、中世初頭頃までの創建と研究者は想定しています。
縁起が説く弘法大師空海伝説の「道場寺」と一遍の「郷照寺」の由緒は、中世以前の諸宗派による複数坊が並立していたことを伝えるものなのでしょう。ここからは、何人もの念仏聖や廻国修験者たちが、それぞれの坊を持ってこの地で活動していたことがうかがえます。それは善通寺や白峯寺・弥谷寺でも同じで、そのような姿が中世の一般的な寺院の姿だったことを押さえておきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
            讃岐国名勝図会 宇多津

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていて、ふたつの名前を持っていたようです。
高松藩初代藩主松平頼重の命により、寛文9年(1669)に各大政所(大庄屋)に郡内の寺社を書き上げさせたC「御領分中宮由来同寺々由来」には次のように記します。

藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡 郷照寺 
一、開基永仁年中、一遍上人建立之、文禄年中、覚阿弥再興仕事」

意訳変換しておくと
「藤沢遊行上人の末寺で、時宗の鵜足郡郷照寺
 一、開基は永仁年中で、一遍上人が建立。文禄年中に、覚阿弥が再興した」
寛文年間(1661~1673)の藩政資料にも、遊行上人末寺の時宗寺院と記されています。
寺院名については、藩政史料や時宗本山との記録には「郷(江)照寺」の名称が使用されています。ところが江戸時代に刊行の四国遍路関係の案内本などには「道場寺」と記され、弘法大師ゆかりの札所と紹介されています。例えば真念の「四国辺路道指南」(貞享4年(1687)では、次のように記されています。
「讃州丸亀城下へわたる時は宇足津道場寺より札はじめよし」
「七十八番道場寺 少山上 堂ひがしむき 鵜足郡宇足津村 本尊阿弥陀 座一尺八寸
 御作おどりはね念仏 道場寺 ひやうしをそろえかねを打也」
意訳変換しておくと
「讃州丸亀城下へ船で渡るときには、宇足津道場寺から巡礼を始めるのがよい」
「七十八番道場寺は、小さな山の上にある。本堂は東向きで鵜足郡宇足津村にあり、本尊は一尺八寸の阿弥陀仏が座している。御作おどりは、念仏を唱えながら拍子をそろえ、鐘を打ち鳴らして飛び跳ねる」
  ここからは道場(郷照)寺には、時宗の念仏踊りが近世初頭まで伝わっていたことが分かります。

1 郷照寺踊り念仏
跳ね踊る時宗の念仏踊り 中央が一遍 (一遍絵図)
滝宮念仏踊りの由来の中には「菅原道真の雨乞成就を祈念して踊られるようになった」と記されます。しかし、古代に念仏踊りはありません。念仏踊りを始めたのは、中世の一遍です。一遍によって時宗の布教手段として全国的に広がります。それが風流踊りとして、近隣の村落に受けいれられるようになります。滝宮念仏踊りの起源は、時宗の念仏踊りにあることを押さえておきます。

郷照寺には、六字名号(南無駄弥陀仏)の版木が残っています。


南無阿弥陀仏版木2 郷照寺
六字名号版木 郷照寺
   弘法大師信仰を持った念仏行者が、この版木を使って、摺写した念仏を宇多津で広めたことが分かります。ここには高野系念仏聖の存在がうかがえます。この版本が作られた室町時代末期から江戸時代初期の四国辺路(遍路)は、六十六部廻国行者、山伏、念仏行者などいろいろな宗教者が巡っていました。この中で高野聖や時宗経系念仏聖は、弘法大師信仰を持ちながら念仏行や念仏踊りを踊っていたことが分かってきました。つまり、近世以前の郷照寺は、志度寺と同じようにさまざまな宗教者が集まって布教活動の拠点となっていたのです。だから「道場寺」なのです。時宗単独の寺とは云ず、真言系や天台系などの修験者や廻国行者の活動拠点となっていたことを押さえておきます。

 志度寺や郷照寺・海岸寺などの海沿いの霊場を拠点に活動した高野聖を見ておきましょう。
高野山といえば真言密教の聖地という先入観があります。もちろん、そうなのですが高野聖の長い歴史から見ると、中世の高野山は「日本随一の念仏の山」でした。納骨と祖霊供養によって「日本総菩提所」に仕上げたのが高野聖でした。 四国霊場の志度寺や弥谷寺や郷照寺も別格霊場の海岸寺も死者が集まる寺という共通性があったようです。高野聖が死霊の集まる四国霊場の寺やってきたのは、彼らがもっとも得意とした「滅罪生善」のために遺骨を高野へ運ぶためでした。

五来重「高野聖」読書メモ 四国霊場の弘法大師一尊化を進めたのは高野聖だった。 : 瀬戸の島から
高野聖
 高野聖の廻国のことを「歩く宗教家」と呼ぶ人もいます
その行装は「高野檜笠に脛高(はぎだか)なる黒衣きて」と『沙石集』にしめされたような姿で遊行し、関所通行御免の特権ももっていました。時宗の遊行聖は、旅に生き旅に死するのを本懐とし、一遍の跡を辿るものが多かったようです。六十六部の法華経を全国六十六か国の霊場に納経する六十六廻同聖も、減罪を目的に全国を回遊します。
  崇徳上皇の霊を慰めるために讃岐にやって来たと云われる西行も、「高野聖」です。
彼の讃岐行は、遊行廻国の一環とも考えられます。白峰寺参拝後には、空海の修行地とされる善通寺背後の五岳・我拝師の捨身瀧で3年も暮らしているのは、空海生誕の地で山岳修行を行うと共に、高野聖としての勧進の旅であったと研究者は考えているようです。観音寺に、やってきて長逗留した宗祗の旅も連歌師が時宗聖の一種であったことに行き当たると「ナルホドナ」と納得がいきます。
清涼寺の勧進聖人であった嵯峨念仏房の勧進願文には、「念仏者は如来の使なり」と記されます。
 中世は、村人は遊行聖が村にあらわれるまでは、先祖や死者の供養とか、家祈祷(やぎとう)・竃祓(かまどばらい)すらできなかったのです。専門教育を受けた宗教指導者は村にはいませんでした。そんな中に、遊行の聖が現れれば排除されるよりも、歓迎された方が多かったようです。
こうして、死者が集まる霊山・寺院には高野山からやってきた聖達が住み着くようになります。
そして、その寺を拠点に周辺村々への勧進活動を展開していきます。さらに中世末期から近世初頭にかけて、集落にあった小堂や小庵への遊行聖が住み着き定着がはじまります。現在の集落や字ごとに寺院ができる根っこ(ルーツ)のようです。
志度寺や弥谷寺・郷照寺に住み着いた 「聖」は、どんな人たちだったのでしょうか?
  空也以後の聖は念仏一本と、私は思っていたのですが、そうではないようです。確かに法然・親鸞・一遍が主張した専修念仏では法華経信仰と密教信仰は否定されます。そして、念仏だけを往生への道として念仏専修が王道となります。しかし、それ以前の、往生伝や『法華験記』に出てくる聖は、法華経と念仏を併せて修める者が多かったようです。さらに、これに密教呪法をくわえて学ぶ者もいました。法然とその弟子たちの信仰にも、戒律信仰や如法経(法華経)信仰が混じり合っていたと研究者は指摘します。高野聖の中には念仏と密教を併せて学ぶものが多く、修験行道と念仏は、彼らの中では一体化したものだったようです。
 ここでは次のことを押さえておきます
①志度寺や郷照寺・弥谷寺)は、さまざまな宗教者の道場(活動拠点)であった。
②そこには時宗系念仏行者や高野聖・修験者が活動していて、真言系や時宗などに区分することができなかった。
③廻国行者たちは芸能伝達者でもあり、村々にさまざまな芸能を流布した。そのなかには念仏踊りもあった。

中世にはさまざまな宗教者が混在して混沌とした宗教空間だった郷照寺も、近世になるとその様相を大きく変えます。 
貞享四年(1687)頃の真念『四国辺路道指南』には、次のように記されています。

「男女ともに光明真言、大師宝号(南無大師遍照金剛)にて回向し、其札所の歌三遍よむなり」

ここからは真言宗本来の光明真言が唱えられるようになっています。南無阿弥陀仏の念仏は、各霊場から「追放」され、弘法大師の一尊化が確立していたことがうかがえます。つまり、江戸時代初期から元禄時代にかけての間に、大きな変化があったことが分かります。郷照寺の版木は、弘法大師の多様さとそれを支えた念仏行者の存在が見えてきました。彼らの伝えた念仏踊りが、滝宮念仏踊りとして伝えられていると私は考えています。それは中世の道場寺(郷照寺)の性格を表すものなのです。

郷照寺は、道場寺とも呼ばれていた。
鵜足津湊、道場寺 第四巻所収画像000015
道場寺と表記されている郷照寺 (金毘羅参詣名所図会)
各書物には郷照寺の呼名が次のように記されています。
A 寂本の「四国編礼霊場記」元禄2年(1689)
「仏光山道場寺此寺本尊阿弥陀大師の御作鎮守社・鐘楼あり 
 いつのよ(世)りか、時衆の寺となれり」
B 四国遍礼名所図会(寛政12年(1800) 
「七十八番道場寺「仏光山江照寺」と両寺名併記
C 金毘羅参詣名所図会(弘化4年(1847)
「仏光山道場寺宇足津にあり四国遍礼第七十八番の札所なり」
D讃岐国名勝図会(嘉永7年〈1854)、
「江照寺 仏光山広徳院道場寺と云ふ 寺領五斗二升 時宗相州藤沢浄光寺末寺 
 四国八十八ヶ所の一、七十八番札所
寺院境内や周辺の道路道沿いにある明治期までの道標の多くには「道場寺」と記されているようです。 以上をどう考えればいいのでしょうか。研究者は次のように指摘します。

江戸時代から明治時代にかけては時宗寺院としての「郷照寺」と、弘法大師ゆかりの四国霊場第78番札所である「道場寺」という2つの名称をその性格により使い分けていた

このためふたつの名前が併存していたようです。

4344102-55郷照寺
四国霊場 郷照寺 (讃岐国名勝図会)

どうして郷照寺は、江戸時代になってもふたつの寺号を使い分けたのでしょうか?
それは時宗末寺の「郷照寺」でありながら、17世紀後半になると四国遍路が盛況になり、「弘法大師古跡の場」として札所の由緒を示す「道場寺」の寺号を手放すことができなかったためと研究者は指摘します。
 「四国遍路道指南』には次のように記されています。
(大坂から船で)讃州丸亀城下へわたる時は、宇足津道場寺より札はじめよし」

ここからは全国からの金毘羅参りの盛行と併せて、畿内からの四国遍路たちは丸亀湊に上陸し、郷照寺が打ち始めの札所としていたことが分かります。そのため郷照寺には多くの遍路がやって来るようになります。それが郷照寺に経済的利益をもたらすようになります。
 寛政5年(1793)の茶堂寄進の「下津井講中」「普請中順留諸法一件書出控」や、文化7年(1810)の石垣寄進碑にみられる「備前下津井萩野屋久兵衛」、「同播磨屋喜八郎」(石造物参道4)などです。これらは備讃瀬戸対岸の備前児島下津井の寄進者達の名が刻まれています。これは当時の丸亀湊へ備瀬戸主要航路の活発な交易活動の中で捉えられるものと研究者は指摘します。

それでは江戸時代の郷照寺が本山の記録に、どのように記されているのかを見ておきましょう。
寛永10年(1633)の時宗本山の末寺帳には、郷照寺の名はありません。つまり、この時点では、郷照寺は時宗末寺ではなかったことになります。それが享保6年(1721)の七条道場の末寺帳の讃岐の項目に次のように「讃岐七ヶ寺」が記されています。
「興善寺 爾保、興勝寺 勝間、荘厳寺 一宮、江(郷)照寺 宇多津、興徳寺 太田尼、
 浄土寺 由祐尼、高称寺 観音堂尼」

 これ以降の末寺帳には郷照寺の名が記されるようになります。つまり、高松藩初代藩主の松平頼重がやってくる寛永19年(1642)以前に記された史料には時宗寺院としての郷照寺の一次史料はないようです。 それが松平頼重が寛文9年(1669)に作成させた「御領分中宮由来・同寺々由来」には、次のように記します。
「藤沢遊行上人末寺 時宗 鵜足郡郷照寺」
「寺社記」(天保4年(1833)書写)には
「一、高五斗弐升 相州藤沢山清浄光寺末寺鶴足郡宇足津村時宗郷照寺」
藩政史料には、郷照寺は藤沢市の時宗総本山の清浄光寺の末寺とされています。
そして、「寺開基由来帳」(延享5年(1748)には、次のように記します。
「一 寺領高五斗弐升 従古来附来り候処 龍雲院様御代古来之通御改御寄附候由」

ここからは高松藩主松平頼重(龍雲院)から寺領として5斗2升の経済基盤が保証さます。以後は、寺領が保護され続けてたことが分かります。

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四国霊場 宇多津郷照寺
松平頼重は政治的な意図をもって、次のような藩内の宗教政策を進めたことは以前にお話ししました。
松平頼重の宗教政策

郷照寺を時宗に改宗させて、保護を与えた背後にはなんらかの意図があったことが考えられます。
以上をまとめておくと
①郷照寺は、寺伝にあるように中世から時宗寺院であったのではない。
②髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として、時宗寺院として再整備された
 松平頼重の宗教政策については以前にお話ししました。そのなかで讃岐の真言宗勢力の抑制のために、金倉寺や白峰寺・根来寺・長尾寺などを天台宗に改宗して整備保護していました。郷照寺の時宗への改宗もなんらかの政治的な意図があったことがうかがえます。それが何なのかは、今の私には分かりません。  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。








念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

  滝宮念仏踊りのひとつに坂本村念仏踊り(丸亀市飯山町)があります。
旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた坂本念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。
喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、道真公は城山に7日7夜断食して祈願したところ7月25日から27日まで三日雨が降った。国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)と別当寺龍燈院(金毘羅参詣名所図会)

ここには菅原道真が雨乞いを祈願して、雨が降ったので百姓たちは、悦び踊ったとあります。注意して欲しいのは、雨乞いのために踊ったとは書かれていないことです。また、法然も出てきません。江戸時代の前半には、踊り手たちの意識の中には、自分たちが躍っているのは、雨乞い踊りだという自覚がなかったことがうかがえます。それでは何のために踊ったのかというと、「菅原道真の祈願で三日雨が降った。これを喜んで滝宮の牛頭天王神前(滝宮神社:滝宮天満宮ではない)で悦び踊った」というのです。もうひとつ文書を見ておきましょう。
滝宮念仏踊り3 坂本組

嘉永六(1852)年の七箇村念仏踊り(現まんのう町・琴平町)に関する史料です
 この年の七箇村念仏踊は、真野村庄屋の三原谷蔵が総触頭として、先例通りに7月7日に真野不動堂で寄合を行い、17日に満濃池の池の宮で笠揃踊を行い、その後に各村の神社で踊興行を行って、25日に滝宮に躍り込む予定で進められていました。ところが17日に池の宮で笠揃踊を行った時、西領(丸亀藩)側の村々から次のような申し入れがでます。
  先達而から照続候二付、村々用水差支甚ダ困り入申候二付、25日滝宮相踊リ、其内降雨も有之候バ同所二而御相談申度候間、先25日迄外宮々延引致候事」。

意訳変換しておくと
 春先から日照りが続き、村々の用水に差し障りがでて、水の確保に追われ困っている。ついては、25日の滝宮相踊までには、雨も降るかも知れないが雨がないときには、各村の神社での踊興行を延期したい

 簡単に言うと、旱魃で大変なので念仏踊りは雨が降るまで延期したいという申し入れです。最初に、これを呼んだときには私の頭の中は「?」で一杯になりました。「滝宮念仏踊りは、雨乞いのために踊られるもの」と思い込んでいたからです。ところが、この史料を見る限り、当時の農民たちは、そうは思っていなかったことが分かります。「雨が降るまで、念仏踊りは延期」というのですから。
 この西領側からの申し入れは、17日の池の宮の笠揃踊で関係者一同に了承されています。日照り続きで雨乞いが最も必要な時に、宮々の踊興行を延期したのです。ここからは関係者の間には、雨乞いのための念仏踊であるという意識はなかったことが分かります。
  それでは念仏踊りは何のために踊られていたのでしょうか?
  念仏踊りに用いられる団扇を見てみましょう。団扇が風流化した踊念仏で主役として使用されます。滝宮神社の「念仏踊」にも下知が役大団扇を振って踊念仏の拍子をとります。その団扇の表裏に「願成就」と「南無阿弥陀仏」の文字が書かれています。ここでは「願成就」となっています。「雨乞成就」ということなのでしょうか?
近畿の雨乞い踊りを見てみましょう。

石上神社

以前にお話した奈良の布留郷の郷民たちの雨乞いを、見ておきましょう。
 日照りが続くと布留郷の郷民代表と布留神社の爾宜が、竜王山の山中に鎮座する竜王社まで登り、素麺50把と酒一斗二升を供え、雨を祈願します。これが適えられれば、郷中総出でオドリを奉納することを神に約束します。ここではオドリは「満願成就のお礼」として踊られていたことが分かります。このオドリを「南無手踊り」と呼んでいました。名前からして念仏踊りの系譜を引くものあることがうかがえます。
ヲドリの具体的様子は、文政頃に成立した『高取藩風俗間状答』に、次のように記されています。
南無手(なむて)踊は旱魃の時に、雨乞立願の御礼に踊るので願満踊とも云う。高取城下で行われる時には、行列や会場に天狗の面や鬼の面をかぶり棒をついた警固人が先頭に立って出て、群集を払い整理する。その次に早馬と呼ばれる踊り子が小太鼓を持ち唐子衣装花笠で続く。その次は中踊と呼ばれる集団で、色々の染帷子・花笠を着け、音頭取は華笠・染帷子やしてを持ち、所々に分かれて拍子をとる。頭太鼓は唐子装束、花笠踊の内側に赤熊を被ることもあり、太鼓に合せて踊る。それに法螺貝・横笛・叩鐘が調子を合す。押には腹に大鼓を抱え、背中には御幣を負う。踊は壱番より五番までで、手をかへながら踊り、村毎に少しづつ変化させている。一村毎に分て踊る

とあり、村ごとで少しずつ踊り方を換えていたことがうかがえます。雨乞成就のためのものですから、このヲドリは江戸時代を通じて何回も踊られています。
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なむて踊りの絵馬

文政十年(1827)8月の様子を「布留社中踊二付両村引分ヶ之覚」(東井戸帝村文書)は、次のように記します。

この時は布留郷全体の村々が、24組に分けられていた。東井戸堂村・西井戸堂村合同による一組の諸役は、大鼓打四人、早馬五人、はやし二人、かんこ五人、団踊一〇人、捧ふり二人、けいご一〇人、鉦かき二人、大鼓持三人の、計四二人になる。

1組で42人のセットが24組集まったとすると、郷全体では千人以上の規模の催しであったことが分かります。踊りのスタイルを見ると、腹に大鼓を付け、背に美しく飾った神籠を負つた太鼓打も出てきます。しかし踊りの中心は、大太鼓(頭大鼓)を中心に据えて、その周囲を唐子姿の者が廻り打ちをするという芸態で、歌の数もそれほど多くはないようです。

日根荘の移りかわり | 和泉の国(泉州)日根野荘園 | 中世・日根野荘園-泉州の郷土史再発見!

もうひとつ和泉国日根野荘の郷民による雨乞を見ておきましょう。
公家の九条政基は、戦乱を避けて自分の所領である和泉国日根野荘(現大坂府泉佐野市)に「亡命」します。ここには修験の寺である犬鳴山七宝滝寺がありました。そこで見た雨乞いの様子が、彼の日記『政基公旅引付」の文亀元年(1501)七月二十日条に、次のように記されています。
①滝宮(現火走神社)で、七宝滝寺の僧が読経を行う
②効果のない場合は、山中の七宝滝寺に赴いて読経を行なう
③次には近くの不動明王堂で祈祷する
④次の方法が池への不浄物の投人で、鹿の骨が投げ込まれた
⑤それでも験のない場合は、四ヵ村の地下衆が沙汰する
ここでも雨乞いに、民衆が踊る念仏踊りは出てきません。
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日根野庄の滝宮(現火走神社)
出てくるのは、雨が降った後のお礼です。
 降雨に対し入山田村では、祈願成就に対する御礼を行なっています。それが地区単位で行われた「風流」なのです。ここでも「踊り」は祈雨のためにではなく、祈願成就の御礼のために行なうものであったようです。
 本来的には祈願が成就したあとに時間を充分にかけて準備し、神に奉納するのが雨乞踊りの基本だったと云うのです。 ここでもうひとつ注目しておきたいことは、この踊りが村人たちの手で踊られていることです。それまで芸能といえば、郷村の祭礼における猿楽者の翁舞のように、その専門家を呼んで演じられていました。ところがこの時期を境に、一般の民衆自らが演じるようになります。
宮座 日根野荘
日根野荘の宮座

その背景を、研究者は次のように指摘します。
①が郷村における共同体の自治的結束と、それによる彼らの経済力の向上。
②新仏教の仏教的法悦の境地を得るために、高野の念仏聖たちが民衆の間に流布させた「躍り念仏」の流行
③人の目を驚かせる趣向を競う「風流」という美意識が台頭
そしてなにより「惣郷の自治」のために、当事者意識を持って祭礼に参加するようになっていることが大きいようです。このヲドリは、もともと雨乞のために創り出されたものではありません。念仏聖たちが村人たちに伝えたものです。それが先祖神を祀る孟蘭綸会の芸能として、また郷民の祀る社の祭礼芸能として、日頃から祭礼で踊られるようになっていました。それを郷民が、雨乞の御礼踊りに転用したと研究者は考えているようです。
 注意しなければならないのは「雨乞い」のための踊りではなかったことです。
考えて見れば、国家的な雨乞いは、空海のような真言の高僧が善女龍王に祈祷して雨を降らせるものです。民間の民雨いも、それなりの呪術力をもった山伏が行っていたのです。そこへただの村人が盆踊りで踊られている風流踊りや念仏踊りを、雨乞いのために踊っても民衆たちは効能があるとは思わなかったでしょう。念仏踊りは、雨乞い成就のお礼のために踊られたのです。

   ここには、滝宮念仏踊りとの共通点をいくつか拾い出せます。
①「村切り」前の郷エリアの郷社に奉納されている。
②布留郷全体の村々から踊りのチームが出されている
③雨乞い踊りではなく雨乞いの「満願成就のお礼」として踊るものだった。
滝宮念仏踊り2
 滝宮念仏踊り

このような視点でもう一度、滝宮念仏踊り見てみましょう
滝宮念仏踊りは雨乞い踊りである先入観を捨てると、何が見えてくるのでしょうか。考えられるのは次のような仮説です。
①中世の讃岐では高野の念仏聖や時宗聖たちによって、念仏信仰が広められ念仏踊りが広く踊られるようになっていた。これは、庶民の芸能活動のひとつであり、当初は雨乞いとの関連姓はなかった。
②高野念仏聖などのプロデュースで郷村の祭礼や盆踊りで、念仏踊りが踊られるようになる。
③それが日照りの際の「満願成就のお礼」として、郷社に奉納されるようになる。
④菅原道真の雨乞祈願伝説の中心地となった滝宮神社にも、各郷の念仏踊りが奉納されるようになる。
⑤戦国時代の混乱の中で、滝宮神社への躍り込みは中断する。
⑥これを復興したのが髙松藩初代藩主の松平頼重で、彼は近畿で踊られていた「南無手」踊りを知っていた上で、雨乞いのためという「大義名分」を前面に押し出し復興させた。
⑦こうして、中世の各郷村単位で編成された組が江戸時代を通じて、3年毎に滝宮神社に念仏踊りを奉納するようになる。
⑧滝宮の躍り込みの前には、各郷村の下部の村単位の神社にも奉納興行が行われ、そこには多くの見物人が押しかけた。
⑨踊り手などの構成員は、世襲制で宮座制に基づく運営が行われていた。
⑩奉納される神社にも、特権的な桟敷席が設けられ売買の対象となっていた。
一遍】ダンシング宗教レボリューション!一遍研究者の「踊り念仏」白熱教室:~国宝「一遍聖絵」をじっくり絵解き!時宗の名宝展がグッと面白くなる~#ky19b160  | 京都の住民がガイドする京都のミニツアー「まいまい京都」
一遍の踊り念仏

 つまり、滝宮念仏踊りのルーツは中世の踊り念仏にあるという説になります。
中世には高野の聖たちのほとんどが念仏聖化します。弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺への布教活動を行っていたことは以前に見たとおりです。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いちしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は次のように記します。
「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡小松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

念仏踊りのルーツは高野の念仏聖や時宗の躍動念仏だと研究者は考えているようです。
  また、⑧⑨⑩からは、念仏踊りがもともとは中世のムラの民俗芸能として、祭礼と結びついていたことを教えてくれます。讃岐の念仏踊りが、雨乞いと結びつけられるようになるのは、近世になってからだと私は考えています。
EDM-6 Buddhist bounceと踊り念仏 - みんなアホだね

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山路興造 中世芸能の底流  中世後期の郷村と雨乞 風流踊りの土壌」

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