4344102-55郷照寺2
           四国霊場 郷照寺(道場寺) 讃岐国名勝図会
前回は郷照(道場)寺について、史料から次のような事を見ました。
①郷照寺は寺伝にあるように、中世から時宗寺院であったのではない。
②中世は、高野聖や廻国行者たちの布教活動拠点として、さまざまな宗教活動者が混在していた。
③それが髙松藩の松平頼重の宗教政策の一環として再整備され、時宗に改宗された
今回は郷照寺と時宗本山の藤沢市の清浄光寺との関係を史料で見ていくことにします
テキストは「郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月」です。

時宗総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)について、ウキに書かれていることを要約しておきます。

時宗総本山清浄光寺 郷照寺本山

①神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院で、藤沢山無量光院清浄光寺と号す。
②明治時代からは法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人なので、 遊行寺(ゆぎょうじ)と呼ばれるようになった。また藤沢道場ともいう。
③中世の西俣野(藤沢市)の領主だった俣野氏の一族・俣野五郎景平が開基。
④景平の弟である遊行上人第四代呑海が、正中2年(1325年)に俣野領内の廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山
⑤延文元年(1356年)八代渡船が鋳造した梵鐘には「清浄光院」と陽刻がされている。
⑥永享7年(1435年)足利持氏が仏殿120坪を寄進
⑦永正10年(1513年)伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸、太田資康との戦いにより全山焼失。
⑧天順が慶長12年(1607年)に清浄光寺を再興。これは後北条氏時代の焼失から、94年後のこと。
⑨寛永8年(1631年)に江戸幕府寺社奉行へ清浄光寺は「時宗藤沢遊行寺末寺帳」を提出し、時宗274寺の総本山と認められる。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺) 郷照寺本山
時宗の総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)

「第1表」は、本山藤沢清浄光寺や京都七条道場金光寺に残る「藤沢山日鑑」「「行日鑑」「遊行在京日鑑」などの郷照寺の記録を研究者が抜き出したものです。

時宗総本山清浄光寺(遊行寺)to 

この表からは次のようなことが分かります。
①郷照寺は本山に対して年始伺い、暑中見舞い、上人相続の際、その都度、白銀などを献上している。
②僧侶昇進に関わる記録からは、両者が本山末寺の関係であったことが裏付けられる

例えば「藤沢山日鑑第6巻」安永9年7月の条を見てみましょう。
ここには、郷照寺の僧雪山の本山勤仕についての記載が次のように記されています。(要約)

雪山は高松藩寺社役所より百日間の暇をもらい本山の学寮で修養していた。その成果が良かったのか安永8年に本山の学寮主を拝命した。そこで、本山の衆役から高松藩寺社役所に雪山の「長之暇」を申し入れた。ところが松藩の寺社奉行からの回答は「他国の寺院に入ることは許可できない」というものであった。

ここからは末寺の郷照寺から本山に修行に出て、そのまま本山に残るようなシステムがあったことが分かります。しかし、それを髙松藩は認めていません。
時宗総本山清浄光寺(遊行寺) 一遍像
清浄光寺の一遍像
江戸時代の時宗の僧階と郷照寺の関係を史料で見ておきましょう。
時宗の浅草日輪寺が享和元年(1801)に幕府寺社奉行に提出した「時宗法眼井法開階級之次第」に次のように記します。
「右剃髪仕世寿十五歳以上、藤沢山 京都七條道場 遊行回国先、右三会下之内、最寄を以掛錫仕、法騰相立候」

ここからは次のような事が分かります。
①仏門に入るのは15歳以上
②修行場所は、本山の藤沢清浄光寺や京都の金光寺の他に、廻国先でもよかったこと
③掛錫(修行)の年数を経るごとに僧階を昇格すること

僧階の序列と昇進については次のように記されています。
①掛錫が4年で茶執司となり「茶執司、掛錫より四夏相満候間を茶執司と申候面、藤澤上人遂行上人而上人之侍者為政給仕申」と藤澤上人や国先にて遊行上人の側で給仕を務める役となる。
②さらに6年で十室(漢室・岩室・純室・連室・伝室・行室・学室・了室・同室・聞室・安室)となり「十室、五夏相満候後、此十室二入候、此位階面宗門之安心伝法等相承仕」とあり、この段階で時宗の修行や教学を師匠から伝授された。
③9年で五軒(慈照臥龍軒文峰軒萬生軒衆領軒)の斬号を付与され「五軒、掛八夏相調候ハマ軒号を蒙り申候、宗門之伝法宗威血脈不残相承仕、初て和尚号を付(中略)在家之引導香仕事を差許申候」とあり、時宗の伝法、宗、血脈を相伝し、和尚と称することが許された。また在家信徒の引導や葬式などの仏事を執り行うことができるとうになった。
④13年で「二常住庵等覚庵」となり「二庵掛錫合十二夏相満、此階級二相進み、庵りを蒙り(中略)此法綸旨参内差許申候」とあり、「上人号」の旨を寺社伝奏勧修寺家へ申請、皇居への参内が許されるようになる。
⑤18年で、本寮(四院)(桂光院院興院東陽院)となり「本寮,十七年之法相談、十八年二宗門之書籍之内何でも壱部講釈相済、此階級=相進み、惣じて一宗之法務、右本寮四院有之之之是を司り、本山貴主を補佐する所之老僧と相唱中、是迄末寺井所化昇進之次第二御座」とあり、僧侶の最終階となる。そして時宗の書籍の講釈や宗派の運営に携わり、本山貫主の補佐も行う。また弟子を取ることができる

 郷照寺の位牌や過去帳には、18世紀の後半になると時宗僧階の最終位の院号をもつ住持が4人登場してきます。
A 洞雲院但阿存海和尚(寂年 天明4年(1784)第33世)
B 興徳院覚阿一浄智存和尚(寂年 文政13年(1830)第35世
C 興院覚阿和尚(寂年 安政6年(1859)第36世)
D 大僧都桂光院其阿上人本空和尚(寂年 明治42年(1909)
この4人に共通するのは、本山の遊行上人の廻国の際の受け入れを行っていることです。その功績を背景に昇任を果たしたことがうかがえます。それを裏付けるのが次の宝暦10年(1760)9月の第52代遊行上人他阿から郷照寺□□相阿弥仏へ宛てた書状です。

「鵜足郷照寺義 此度建立等出精二て、地頭表殊、之外首尾能御領分動化相済、其上右勧化御城主今から御取会被下候由」

とあって、境内建物の整備に務めた功績として木蘭衣(軒号)が与えられています。ここからは地方の末寺住持にとって遊行上人の廻国などの本山勤行に励むことは、位階の昇任につながる功績として評価されていたことが分かります。
 さらに文化9年(1812)第55代一空上人の相続の前年に本山への出仕を行っていることや、万延元年(1860)年の京都七條道場金光寺の意に沿わない郷照寺住持の交代を命じた通達などからも、人事権を含む支配関係があったと研究者は考えています。ここでは、時宗本山が僧階権を握ることによって末寺の郷照寺を支配下に置き管理していたことが見えて来ます。

時宗の総本山は藤沢の遊行寺でしたが、西国を束ねる実質的本山は京都七条道場の金光(こんこう)寺でした。
 総本山の清浄光寺は法主の遊行上人が隠居した藤沢上人の住坊でした。それに対して京都の金光寺は、遊行上人が住職である寺で、西国の事実上の本寺でした。例えると、藤沢・遊行両上人の関係は、上皇と天皇の関係に置き換えると分かりやすいようです。

時宗総本山 京都金光寺1 書評

時宗総本山 京都金光寺1
金光寺の年表

 一遍によって開かれた時宗は、京都でも活発に布教が行われ、次々と時宗の寺院が建立されるようになります。その中で金光寺(こんこうじ)は、鎌倉時代後期の正安3年(1301)に七条東洞院(京都市下京区材木町)に建立されます。場所は、七条慶派仏師仏師定朝の屋敷跡に呑海が創建したもので、七条道場とも呼ばれ、周辺の仏師集団が信徒となっていたようです。彼らによって、優れた彫造が残されています。こうして、この寺は時宗遊行派の京都での拠点として隆盛を誇りました。現在の京都駅烏丸口のすぐ東側がその境内地でした。

時宗総本山 京都金光寺1 平面図
金光寺の境内緒堂建物絵図

 14世紀初めには、善阿が連歌師として活躍し、1461年(寛正2年)の飢饉では、金光寺の願阿弥という僧が勧進して六角堂の近くに小屋を建て、苦しむ市民に粥を施したり、五条橋の修復も行っています。
 豊臣秀吉の京都の都市改造の際には、七条仏所を他に移して拡張し、400石が与えられています。和漢三才図会では寺領197石と記します。 江戸時代には学寮が置かれ、それに隣接して火葬場が元禄年間に設けられています。しかし、明治40 年(1907)に長楽寺に合併され、跡地は民地となり、その跡形は消えてしまいました。なお、下京区本塩竈町には金光寺(市屋道場)が現存しますが、これとは別の寺院のようです。
 それでは金光寺と宇多津の郷照寺の関係を物語る史料を見ていくことにします。

郷照寺 万延元年(1860)年に作成された「[書状〕(智覚へ看住申付けるにつき)」(k-89)

「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-8987)

万延元年(1860)年に作成された書状「智覚へ看住申付けるにつき」(k-89)です。
ここには京都の七条道場金光寺より郷照寺世話人中宛に、郷照寺が無住となったため智覚を看住として取り急ぎ寺務を取らせることが記されています。ここに登場する智覚は、安政5年(1858)に作成された郷照寺の「人別御改帳」(k-60)に次のように記されています。

郷照寺 安政5年(1858)に作成された「人別御改帳」(k-60)

「鵜足郡宇足津村郷照寺 現住鵜足郡土器村出生 智隆 当年五拾八才一、同郡宇足津村出生弟子智覚当年拾六才」

ここからは智覚が第36世住持智隆(58歳)の弟子で、地元宇多津村出身で16歳であったことが分かります。その後の智覚については「郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87)次のように記されています。
「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87)
「〔書状〕(郷照寺後住に智学仰付けられたにつき)」(k-87no)

「智覚 病身に付寺務難相勤二付 後住之僧差向候処」

ここには、智覚が病身なので寺務が勤め難くなったため、後任の僧を本山の金光寺より派遣されるようになったことが記されています。ところが、これに対して智覚は、異議を唱えて次のように返答しています。

「御領法御指支之儀有之候ニ付御断 且智覚儀病気追々快方二付弟子致無話取立居候」
意訳変換しておくと
金光寺より当寺(讃岐の郷照寺)に僧を送り込むことは、藩の法に差し支える。また私自身の病気も快方に向かっているため、そのような話は無用である

これに対する本山金光寺の回答は次の通りです
「智覚儀 宗法相背候麁有之候二付 此度取上退院申付候(中略) 当寺差向智学僧江後住職被仰付候様強面御願申上候」

意訳変換しておくと
 智覚については本山金光寺の意向に沿わないことが度々あったので郷照寺からの退去を申し付ける。今後については、金光寺より智学を後任住職として派遣することを高松藩に申し出ている。

 ここからは、末寺の郷照寺の住職については、七条道場の意向に沿わない者は辞めさせ、後任を派遣する権限を本寺は持っていたことが分かります。郷照寺も時宗本山の本末関係の中にあったことが裏付けられます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
郷照寺調査報告書 第2分冊 香川県教育委員会 2026年3月
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