瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:景山甚右衛門

高松電灯と牛窪求馬
            髙松に電灯を初めてともした髙松電灯と牛窪求馬
日本で最初に電灯が灯るのは明治15年のことでした。13年後に髙松に電灯を灯したのは、牛窪求馬(もとめ)で、彼は髙松藩家老の息子でした。資本金は5万円で、旧藩主の松平氏が大口の出資者です。髙松に電灯が灯ると、中讃でも電灯会社設立の動きが活発化します。ここで注意しておきたいのは「電力会社」ではなく「電灯会社」であることです。この時期の電灯会社は、町の中に小さな発電所を作って電線を引いて灯りを灯すという小規模なものです。電灯だけですから営業は夜だけです。これが近代化の代名詞になっていきます。しかし、電気代は高くて庶民には高値の花でした。誰もが加入するというものではなく、加入者は少数で電灯会社の経営は不安定だったことを押さえておきます。
     髙松に習って中讃でも電灯事業に参入しようとする動きが出ています。

中讃の電灯会社設立の動き

ひとつが多度津・丸亀・坂出の資産家連合です。その中心は、多度津の景山甚右衛門で、讃岐鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神の総帥」とも呼ばれ、資本力も数段上でした。それと坂出の鎌田家の連合体です。もうひとつが、農村部の旧地主系で、助役や村会や郡会議員を務める人達のグループです。
景山甚右衛門と鎌田勝太郎の連合ですから、こちらの方が有力と思うのですが、なぜか認可が下りたのは旧庄屋連合でした。その中心メンバーを見ておきましょう。

西讃電灯設立発起人

西讃電灯の発起人と役員達です。ここからは次のような事が読み取れます。
①発起人には、当然ですが景山甚右衛門など多度津の七福神や坂出の鎌田勝太郎などの名前がないこと②大坂企業家と郡部有力者(助役・村会議員クラスの名前があること。
③七箇村からは、増田穣三・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)の3名がいること 
実は、この会社設立には増田穣三が深く関わっており、郡部の有力者を一軒一軒訪ねて投資を呼びかけています。ここからは旧庄屋層が電力会社という近代産業に投資し、投資家へと転進していこうとする動きが見えます。当時の増田穣三は「七箇村助役」で、政治活動等を通じて顔なじみのメンバーでした。こうして資本を集めて会社はスタートします。ここでは、この電灯会社が素人の郡部の元庄屋たちの手で起業されたことを押さえておきます。しかし、この事業は難産でした。なかなか創業開始にこぎつけられないのです。その理由は何だったのでしょうか?3年経っても火力発電所ができない理由を株主総会で次のように説明しています。

西讃電灯開業の遅れ要因

資金不足で、発電機械が引き取れなかった。土地登記に時間がかかり電柱が建てられない。要は素人集団が電力会社経営を始めたのです。ある意味では「近代化受容」のための高い授業料を払っていたことになります。これに対して、いつまでたっても操業開始に至らずに、配当がない出資者たちは不満がたかまります。なんしよんやという感じでしょうか。そこで名ばかりの社長と役員の更迭が次のように行われます。

西讃電灯の役員更迭と増田穣三

赤が社長、青が役員です。③1897(明治31)年に、西讃電灯は発足し、翌年9月に発電所建設に着工します。 ④しかし、3年経っても操業できずに、その責任と取って社長が短期間で3人交代しています。そして⑤1900年10月には、役員が総入れ替えています。彼らは経営の素人集団でした。操業にこぎつけられないための引責辞任です。こうしたなかで「七箇村村長+県会議員」であった増田穣三への圧力がかかります。「なんとかせい、あんたが有利な投資先やいうきに株式を購入したんぞ。あんたが社長になって早急に営業開始せえ。」というところでしょうか。⑥1901年8月、前社長の「病気辞任(実質的更迭)」を受けて、増田穣三が社長に就任します。これは「火中の栗」をひろう立場です。この時に⑦増田家本家で従兄弟の増田一良も役員に迎え入れられています。こうして、増田穣三体制の下で操業開始に向けた動きが本格化します。そして1年後には操業にこぎつけます。西讃地域で最初に稼働した発電所を見ておきましょう。

西讃電灯 金倉寺発電所
西讃電灯の金倉寺発電所(JR金蔵寺駅北側)
創業から5年目にして、金倉寺駅の北側に完成した石炭火力発電所です。土讃線沿いに、空に煙をはく煙突が木のように描かれています。発電行程を見ておきましょう。
①貨車で石炭が運び込まれる
②線路際の井戸から水が汲み上げられて
③手前のボイラー棟で石炭が燃やされ、蒸気が起こされる。
④蒸気が発電棟に送られ弾み車を回して発電機に伝えて電気を起こす。
⑤蒸気は、レンガ積の大煙突から排出される。
⑥ボイラーの水は鉄道路線沿いの井戸より吸い上げ、温水は南の貯水池に流していた。
⑦手前の小さい建物が本社で、社長以下5人位の事務員がいた。
どうして金蔵寺に発電所が作られてたのでしょうか?

金倉寺発電所の立地条件

火力発電所の立地条件としては土地と水と原料輸送です。まず多度津の近くには安い適地が見つからなったようです。さらに港に運ばれてきた石炭輸送を荷馬車などではこぶと輸送コストがかさみます。鉄道輸送が条件になります。そうすると、もよりの駅は金倉寺です。金倉寺周辺が旧金倉川の地下水が豊富にあります。こうして、金蔵寺駅の北側が発電所設置場所として選ばれます。就任して1年で開業にこぎ着けた増田穣三の手腕は評価できるようです。それでは、営業成績はどうだったのでしょうか?

讃岐電気 開業1年目の収支決算

営業開始から1年で、契約者は480戸。収入は支出の1/3程度。累積赤字は80000円を超えています。
これに対して、増田穣三の経営方針はどうだったのでしょうか?

増田穣三の拡大策

増田穣三の経営方針は「現時点の苦境よりも未来を見つめよ」でした。「当会社の営業は近き将来に於て一大盛況を呈す可きや。期して待つ可きなり」とイケイケ路線です。その見通しは「善通寺11師団や琴平の旅館が契約を結べば、赤字はすぐにも解消する。今は未来を見据えて、投資拡大を行うべきだ」と、「未来のためへの積極的投資」路線です。
これに対して株主たちはどう動いたのでしょうか?

讃岐電気 経営上の対立

会社が設立されてから約10年。出資者は一度も配当金を受け取っていません。その間に、出資総額の12万円の内の8万円を赤字で食い潰しています。このまま増田穣三のいうように拡大路線を進めば、赤字は雪だるま式に膨らみ、その負担を求められる畏れがでてきます。株主たちは、「新体制でやり直すべき」という意見でした。そして譲三は、実質的に更迭されます。

増田穣三更迭後、西讃電灯はどのように経営の建て直しが行われたのでしょうか?

増田穣三解任後の西讃電灯

①経営陣に景山甚右衛門と武田熊造を迎えます。
②そして累積赤字を資本金で精算します。資本金全体は12万円でしたから、残りは3,4万円と言うことになります。出資者達は約2/3を失うことになります。
③これでは会社の経営ができないので、11,4万円の増資を行います。
④注目しておきたいのは、この増資引受人を5人だけに限ったことです。つまり、この電灯会社の資本・経営権をこの5人で握ったことになります。この人達が「多度津七福神」と呼ばれたメンバーです。その顔ぶれを見ておきましょう。

多度津七福神の不在地主化

1916(大正16)仲多度郡の大地主ランキングのトップ10です。一目盛りが50㌶です。
塩田家2軒、武田家が3軒、合田家、その統帥役とされたのが景山甚右衛門の7軒です。彼らは江戸末期から持ち船を持ち多度津港を拠点にさまざまな問屋活動を展開し、資本を蓄積します。そして、明治になって経済活動の自由が保障されると、近代産業に投資して産業資本から金融資本へと成長して行きます。
多度津七福人.1JPG
多度津銀行の設立者

その拠点機関となったのが多度津銀行でした。彼らは銀行経営を通じて情報交換し、より有利な投資先を選んで投資をして金融資本家に成長していきます。同時に互いに姻戚関係を結んで結びつきを強めます。この時期の地方の資本家は、地方銀行・鉄道・電力を核に成長して行く人達が多いようです。多度津銀行にあつまる資本家も、この機会に電力事業への進出を目論んだようです。そのためには営業権をもつ西讃電灯(讃岐電気)を傘下に置く必要がありました。増田穣三更迭後の経営権を握りますが、そのやり方が増資出資者を5人限定するという手法だったのです。こうして電灯会社の経営権は多度津銀行の重役達に握られたのです。その中心人物して担ぎ上げられたのが頭取の景山甚右衛門です。

景山甚右衛門と福沢桃介2
景山甚右衛門と福沢桃介
新しく社長に就任した景山甚右衛門は前経営陣の失敗に学びます。新しい産業を起業するのは素人集団には無理、プロに頼るのが一番ということです。景山甚右衛門が見込んだのが福沢桃介です。桃介は福沢諭吉の娘婿で、甲府に水力発電所を作って、それを東京に送電し「電力王」と称されるようになっていました。大都市から遠く離れた渓谷にダムを造り、水力で電気を起こし、高圧送電線で都市部に送るというビジネスモデルを打ち立てたのです。この成功を見た地方資産家達は、水力発電事業に参入しようと福地桃介のもとに日参するものが数多く現れます。桃介の協力・支援を取り付けて、資本参加や技術者集団の提供を実現しようとします。その中の一人が景山甚右衛門ということになります。こうして讃岐電気は「四国水力発電(四水)」と名称変更します。
ちなみに、この桃介の胸像は、現在の四国電力のロビーにあります。四国電力が自分の会社のルーツをどこに求めているかがうかがえます。一方、景山甚右衛門の銅像は、四国電力本社にはありません。この胸像があるのは、多度津のスポーツセンターの一角で、人々に目には触れにくいところです。

大正15(1926)の四水の送電線網です。

四水の送電線網大正15年

祖谷川出合いの三繩からの電力が池田・猪ノ鼻峠をこえて財田で分かれて、観音寺と善通寺方面に送電されています。髙松方面には、辻から相栗峠をこえた高圧電線が伸びます。こうして水力発電所で作られた安価で大量の電気を、讃岐に供給する体制が第1大戦前に整いました。

花形産業に成長した電力産業

これが第一次世界大戦の戦争特需による電力需要を賄っていくことになります。この結果、巨大な利益が四水にはもたらされることになります。10年前のほそぼそと火力発電所で電灯をともしていた時代とは大きく変わったのです。

四水本社(多度津)

景山甚右衛門の業績

こうして電力会社の経営権を握り、水力発電に大規模投資して電源開発を進め、四国水力を発展させた景山甚右衛門の業績は高く評価されるようになります。

一方、社長を退いた増田穣三はどうなったのでしょうか?
増田穣三は電灯会社設立の時には、投資を呼びかけて廻るなど中心メンバーでした。それが「資本減少」という形で出資者に大きな損益をあたえる結果になりました。このことを責める人達も現れ、増田穣三への信用は大きく傷きます。これに対して増田穣三は、どんな責任の取り方がをしたのでしょうか? 

増田穣三の責任の取り方.2jpg

讃岐電気社長辞任の後、村長も辞任し、その年の県会選挙にも出馬していません。公的なものから身を退いています。これが彼の責任の取り方だったと私は考えています。これは政治家生命の終わりのように思えます。ところが5年後に、景山甚右衛門引退後の衆議院議員に押されて当選しています。これは堀家虎造や景山甚右衛門の地盤を継ぐという形で実現したものです。ここにはなんらかの密約があった気配がします。


増田穣三は、電車会社の設立にも関わっています。その経緯を見ていくことにします。

讃岐電気軌道設立趣意書
讃岐電気軌道株式会社の設立趣意書
①彼が設立したのが讃岐電気軌道株式会社です。耳慣れない会社名ですが、後の琴平参宮電鉄(ことさん)のことです。琴平から坂出、多度津を結ぶチンチン電車でした。営業申請したときの社名はここにあるように「讃岐電気軌道株式会社」で、明治37年(1904)のことです。これは、増田穣三が電力会社の社長を辞任する2年前のことになります。電力会社として、電力需要先を作り出すこと、沿線沿いの電力供給権を手に入れるという経営戦略があったようです。

讃岐電気軌道 増田穣三

上図で線路が書き込まれているのが讃岐鉄道(現JR路線)です。多度津から西の予讃線は未着工で多度津駅が港の側にあります。今の多度津駅の位置ではありません。朱色が電車会社の予定コースです。坂出から宇多津・丸亀・善通寺・琴平を結んでいます。気がつくのは、多度津への路線がないことです。この時点では、多度津を飛ばして、丸亀と善通寺を結ぼうとしていたことが分かります。面白いのは、善通寺を一直線に南下するのでなく、わざわざ赤門前にまわりこんでいます。これは11師団や善通寺参拝客の利用をあてこんでいたようです。この電車会社が営業を開始するのは1922年のことになります。設立から開業までに18年の時が流れています。一体何があったのでしょうか?

讃岐電気軌道特許状 発起人
讃岐電気軌道認可特許状
①電気鉄道敷設の「認可特許状」です。
②年紀は明治43(1910)年5月20日の認可になっています。申請から認可までに6年の月日が流れています。増田穣三は1906年に電力会社の社長は辞めています。
③12名の発起人のトップが丸亀の生田さん。2番目が増田家本家で穣三の従兄弟・一良です。
④四条村の東条正平や高篠村の長谷川氏は、先ほど見た西讃電灯の発起人でもありました
⑤5番目に増田穣三の名前が見えます。その後には坂出の塩田王鎌田勝太郎、多度津の景山甚右衛門がいます。
⑥その後に県会のボスであり、衆議院議員でもあった堀家虎造がいます。その下で裏工作を担当していたのが増田穣三でした。いわば、これは中讃の主要な政治家連合という感じがします。ところがこの会社は、その後に次のような奇々怪々な動きを見せます。
認可翌年の明治44年(1911)5月に認可された営業権の譲渡承認書です。

讃岐電気軌道譲渡契約
               讃岐電気軌道特許状の転売承認書
①明治44年2月7日の年号と、総理大臣桂太郎の名があります
②譲渡先は堺市の野田儀一郎ほか大阪の実業家7名の名前が並びます。この結果、創立総会も大阪で行われた上に、本社も大阪市東区に置かれます。株式の第一回払込時に、讃岐の地元株主の株数は全体の二割程度でしかありません。つまり、先に出された開業申請書は、開業する意志がなく営業権を得た会社そのものを「転売」する目論見が最初からあったのではないか考える研究者もいます。その後、営業免許は初代社長才賀藤吉が亡くなると、以下のように権利が転売されます。
A 三重県の竹内文平とその一族
B 高知県の江渕喜三郎
C 広島県桑田公太郎
そして大正6(1917)年に、ようやく事務所が丸亀東浜町に開設され、翌年に本社が丸亀東通町に設置されるという経過をたどります。
讃岐電気軌道経営権をめぐる不可解な動き

実は、同時期にもう一枚の認可状が讃岐電気に内閣総理大臣の桂太郎から出されています。
 
讃岐電気軌道への電力供給権

発起人総代が増田穣三と大塩長平となっています。内容は讃岐電気が電車事業へ電力供給権とその沿線への電力供給を認めるものです。これからは、沿線への電力供給権を得るために電車事業を計画したことがうかがえます。つまり、線路をひく予定はこの時点ではなかったことがうかがえます。そのため電車部門は特許状だけ得て、会社も設立せずに転売した可能性があります。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。しかし、琴電の設立に関して、大西氏の動きを見ると讃岐電気軌道を反面教師にしながら起業計画を考えたことがうかがえます。

最後にJR塩入駅前の増田穣三像をもう一度見ておきます。 

増田穣三の3つの側面

増田穣三には三つの面がありました。仲南町史などでは地元で最初に国会議員となったことに重点が置かれて、他の部分にはあまり触れられていません。起業家として電力や電車産業に関わったことや、前回お話しした未生流華道の家元であったことなどはあまり触れられていません。
この銅像は亡くなる2年前の昭和14年に建てられたことは前回お話しました。ということは、着衣は彼が選んでいたことになります。

増田穣三4
増田穣三(左は原鋳造所で戦後に再建されたもの)
右側は衆議院議員時代のモーニング姿の正装です。政治家なら右の姿を銅像化するのが普通のように思います。しかし、穣三が選んだのは右手に扇子を持った着物姿です。着物を着た銅像というのは、戦前の政治家としては少ないように思います。この銅像を見ていると、増田穣三自身は華道家元としてお墓に入ろうとしていたのではないかと私には思えてきます。政治や経済界で活躍しながらも、晩年は華道や浄瑠璃を窮め、心の平安を得ていたのではないかと私は考えています。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

景山甚右衛門と福沢桃介
景山甚右衛門と福沢桃介
 多度津に設立された讃岐電気株式会社は、社長増田穣三のもとで設備投資を回収するだけの利益が上がらず、経営権が「多度津の七福神」のリーダーである景山甚右衛門に経営権を譲ることになったのは以前にお話ししました。景山甚右衛門は、「電力王」と呼ばれた福沢諭吉の娘婿の福沢桃介を社長に迎えるという形で、経営陣容を整えて祖谷川に水力発電所を作って、これを高圧送電線によって讃岐まで送電するという「水力電気開発事業」を進めることになります。

三繩発電所説明版2
電力王福沢桃介の顕彰に重点が置かれた現在の三繩発電所の説明版
 当時は石炭の値上りで各電力会社共に経営が悪化していました。そのため祖谷川の豊富な水量に目を付けて水力発電への参入を開始します。1909(明治42)年8月30日、徳島県知事に水力利用認可申請を提出し、12月27日に認可を得てると、翌年3月には工事に着工します。このあたりは、多度津の商業資本家たちが景山甚右衛門を中心として多度津銀行を組織し「金融資本」への道を歩み始めていたことが、事業展開を円滑に進められた背景です。三縄発電所の建設は、投資額からしても会社にとっても「大きな挑戦」となるので、これを期に社名を「四国水力電気」と改称しています。

三繩発電所

 三繩発電所は77万円の経費で、2年後の1912(大正元)年10月23日に完成します。
同時に、当時最先端の高圧送電線網も姿を現し、11月10日より香川県に送電されるようになります。三繩発電所の設備は次の通りです。
①高さ13m、長さ7mの堰堤で、祖谷川をせき止め、約1700mの送水トンネル建設
②下流の大水槽に導き入れ、直径2m、長さ50m鉄管四列で水を落とし、
③相交流発電機を回転させ、出力2000キロワットを送電する(後、2400キロワット増設)
三繩発電所2
三繩発電所 (1)
                現在の三繩発電所の廃墟

 ここで産み出された電力は、三好郡内の三繩村・池田町・佐馬地村・辻町・昼間村・足代村・井内谷山村で、主に香川県に供給されていくことは以前にお話ししました。それが可能になる高圧送電線の技術をアメリカから技術輸入しています。これも福沢桃介の送り込んできた技術者集団によるものです。

四水送電線(1925年)
1926年 四国水力電気の送電線網

 続いて、1925年は三繩村大利字路の出合発電所に着工します。  916P
『徳島毎日新聞』(大正14年4月12二日付)は、着工前の状況を次のように記します。
 四國水力電気株式會社の第二發電所(出合発電所)工事 いよいよ起工
前略
落差四百五尺 發電力九千 水路延長祖谷川で四千三百間 松尾川千二百間 殆ど全部隧道工事にて電氣工費を合せば四百萬円の大工事にて三月二十二日準備に着手したる。請負人は福井市の飛島文吉氏にて四國水力電氣会社大利出張所には村井技師金久保土木擔任者外事務員三十名計りにて目下工夫其他人夫等五百名程が入り込み三縄發電所より西祖谷一宇までは電氣線布設の工事中。近日起工式挙行する筈で竣工は来年十月の予定。工夫は少なくとも一千五百名を使用すべく既に数ヶ所に五六間位宛の開坑をなしあり。附近一帯は此の大工事により大いに活気を呈して居る。
祖谷川出合発電所
出合発電所
ここからは出合発電所は、西祖谷山善徳にダムをつくり、この水を一宇の上の貯水タンクに導き入れ、このタンクから約8千mのトンネルを掘って出合の中腹の小タンクに落とし、そこから四本の鉄管で123mの落差を利用して、発電機を廻すものだったことが分かります。大規模な水力発電所で作り出される安価な電力が、四水の競争力となり、他の電力会社との競争に勝ち抜いていく原動力となります。この会社が後の四国電力へと発展していきます。四国電力の百年史を見ると、「祖谷川電力開発」には、多くのページを割いていて、この事業が会社のターニングポイントとなったことを物語らせています。
 しかし、この電力開発事業が地元との紛争を引き起こしていったことについては何も触れていません。
池田町史上巻917Pには、「三縄発電所建設時の紛争」という項目を設けて、三繩村と四国水力電気株式会社(旧讃岐電気株式会社)との間の紛争を記します。ここからは、その紛争を見ていくことにします。
1909(明治42年8月30日)、三繩発電所の着工前に讃岐電気株式会社は三繩村との間に次のような契約書を取り交わしています
①祖谷川上流の木材の流下は隧道内を流すか、入口で適切な方法を設けて木材などの川流しに支障のないようにする。
②三繩村には他村へ供給する定価より減額して供給する。
これ以外にも四水は、相当額の寄付金を口約束で支払うことを申し出ていたようです。こうして両者は円満のもとに工事は着工します。ところが三繩ダムが竣工直前の1912(大正元)年9月に堰堤上部に亀裂が生じ、近くの民家が被害を受け、四水から見舞金が支払われています。この補償額をめぐって両者の関係がギクシャクし始めます。さらに発電所が完成しても事前に結んだ契約書の内容が守られません。材木の川流しのために発電用のトンネル内を流すというのは、どう考えてもできるものではありません。出来上がった材木運搬用の施設も、形ばかりで使えるものではありませんでした。京都の琵琶湖疏水のようにはいかないのです。出来ないことを、四水は約束していたことになります。
 その上に次のような種々の問題が続出します。
①土地買収のトラブル
②開通した祖谷街道の荒廃
③風俗の悪化
地元住民にとっては発電所の建設は何のメリットもなく、犠牲を強いられることばかりでした。
これに対して四水は、三繩村に2200円を寄付を申し入れています。これも事前の口約束よりも、はるかに低額だったようで、村側は受理を保留し受け取りません。
 このような中で1913年9月に、三縄村長に就任した坂本政五郎は、強気の態度で会社と交渉します。これに対して四水は、のらりくらりと要領を得ない対応をとります。村民の怒りは更に高まり、1915(大正4)4年3月18日に村民大会が三縄小学校運動場で開かれます。村民は「四国水力電気株式会社発電所撤廃期成同盟会」を組織し、「発電、送電設備で三縄村にあるものを徹頭徹尾撤廃せしむ」ことを決議します。 その理由として挙げられているのが、次の10項目です。
 一、個人有土地ヲ強制的に安価ニ買収シタル事。
 一、堰堤ノ不完全。
 一、個人(所)有土地ニ損害ヲ与ヘ居ル事。
 一、地方民ニ各種ノ横暴手段ヲナシ居ル事。
 一、上流地ノ水害・山崩壊・保安林・殖産。
 一、魚道ノ件。
 一、地方民俗ヲ悪化シタルコト
 一、負担ノ重課ヲ忍と開盤シタル道路ヲ破壊シタル事。
 一、軌道ノ設備不完全ナル事。
 一、道路変更ノ不備。
(三繩「水力電気業書類」明治三九~大正八年)
 これを受けて村民大会で、次の三項を決議します。
一、四国水力電氣株式会社へ対シノ契約基キ三繩全部電灯ノ供給ヲ要求シ 若しセサル其筋ニ訴訟提起スルコト。
二、同会社ノ事業ニシテ将来物質ノ供給の素ヨリ建築物の貸与人民供給等一切拒絶スル。
三、本村内者ニシテ従来同会社ノ雇人タルモノハ此際解雇ヲ求亦土地建物等ヲ使用セシメアルモノハ解約セシムル(三繩「水力電気業書類」明治三九~大正八年)
意訳変換しておくと
一、四水に対して契約書に基づいて、三繩村全部への電灯点灯のための設備を要求する。もし、それが実現しない場合は裁判所に訴訟すること
二、四水の事業にたいしては、今後は物資・労働力を始め、建築物の貸与などを一切拒絶する
三、三繩村村民で四水に勤めている者に関しては解雇し、借用している土地建物は解約返還すること
これを受けて村長は、村民492名の連判をとり、会社あてに上記内容の「催告状」を内容証明書付で送付しています。これに対して四水は、8月になって次のような返答書が送られてきます。
①全村への電力供給については、県の工事施行認可がないので期日は明言できない。
②電気料割引率は需要の多少によるので、調査の上決定する
村民には誠意ある回答とは受け取れなかったようで、両者の関係はさらに悪化します。これに対して、12月になると徳島県と郡が仲介に入ります。その結果、同意した和解書の内容は次の通りです。

四国水力気株式会社は、6800円を十か年に分割で、毎年680円を三繩村に寄付する。

寄付額が2200円から三倍近くに上がっています。四水からの寄付金で、三繩村は妥協したようです。しかし、三縄村地域への電燈の点火などは未解決のままでした。根本的な解決ではなく、この和解に不満を抱く人達も多かったようです。

大正時代の送電線と鉄塔

 そのような中で第二期工事計画(出合発電所)が出てくると不穏な空気が出てきます。
1923(大正12年8月2日付の『徳島毎日新聞』は次のように報道しています。
四水に対する三縄の不平
四國水電に対する祖谷川筋第二工事損害賠償除外工事につき三好郡三縄村及西祖谷村関係地主に村会より県に対して屡々陳情せし事は既報の通りである。既に一ヶ年を経過するも何ら解決を見ざるは両村会議の不熱心の結果となし村民中は大いに不平をとなえ村当局へ解決を迫るものあり
中略
これに続いて、次のように記します。
①いまだに四水が地元に電灯点灯事業を行わないことに村民の怒りは高まっていること
②これに対して四水が誠意ある態度を見せない
③村民は大きな不満を抱き、今回の第二期工事に対して、会社の対応次第では大反対運動を起こすと息巻く者も多い。

電源開発にともなう地元の犠牲と、それに見合うメリットを補償しない四水の動きが報じられています。これは戦後の国による「地域総合開発」事業のダム建設へと引き継がれていく問題となります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 池田町史上巻917Pには、「三縄発電所建設時の紛争」
関連記事

香川県ではじめて電灯を灯したのは、牛窪求馬(もとめ)によって設立された高松電灯でした。
髙松電灯社長 牛窪求馬(うしくぼ もとめ) と副社長・松本千太郎

 髙松電灯について、以前にお話したことをまとめておきます。
①明治28(1895)年2月に設立認可、4月に設立、11月3日に試点灯、同月7日開業開始
②当初資本金は5万円で、後に8万円に増額
③社長は髙松藩家老の息子・牛窪求馬、専務は松本千太郎
④高松市内の内町に本社と火力発電所を設置
⑤汽圧80ポンドのランカシャーボイラー2基と、不凝縮式横置単笛往復機関75馬力2基によって、単相交流2線式50サイクル、1100Vスプリング付回転電機子型50 kWの発電機2台で、高圧1000V、低圧50Vの配電で電灯供給
⑥開業当時、供給戸数は294戸、取付灯数は659灯
⑦高松市内の中心部にある官公庁や会社、商店などが対象で、供給エリアは狭かった。 

設立されたばかりの明治期の四国の電灯会社の営業状況を見ておきましょう。
明治期四国の電気事業経営状況
ここからは次のような事が読み取れます。
①資本金に変化はないが、株主数は減少していること。
②架線長・線条長(送電線)は3~5割増だが、街灯基数・需要家数は、明治35年には大幅減となっていること。
③戸数は減少しているが、取付灯数は倍増していること。
こうして見ると、明治末の段階では、電線延長などの運営経費は増えているのに、契約者数はさほど増えていなかったことが見えてきます。出来たばかりの電灯会社は、急速な成長はなく、厳しい船出で「魅力ある投資先」ではなかったことを押さえておきます。

黎明期の電灯会社
黎明期の電灯(気)会社の状況
髙松電灯設立の動きを受けて、旧丸亀藩でも電灯会社の設立の動きが出てきます。 
中讃では電灯(力)会社の設立申請が、次のふたつから出されます。
①多度津の景山甚右衛門と坂出の鎌田家の連合体 
②中讃農村部の助役や村会議員(地主層)たちの「中讃名望家連合」
①の景山甚右衛門は、讃岐鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神の総帥」とも呼ばれ、資本力も数段上でした。それと坂出の鎌田家がの連合です。こちらの方が有利だと思うのですが、国の認可が下りたのは、なぜか②の中讃名望家連合でした。この発起人の中心人物のひとりが増田穣三でした。

大久保諶之丞と彦三郎
大久保諶之丞(右)と弟の彦三郎(左)
当時の会社設立への動きがどんなものだったのかを知る史料は、私の手元にはありません。そこで、約10年前の四国新道建設に向けて地元の意見をとりまとめた大久保諶之丞の動きを参考にしたいと思います。彼が残した日記から、明治17(1884)年11月2日~15日を動きを見てみましょう。この時期は、四国新道のルート決定が行われる頃で、四国新道が通過する地元有力者の意見集約が求められた時期になります。
大久保諶之丞の新道誘致運動
大久保諶之丞の新道誘致をめぐる動き(明治17年11月)

大久保諶之丞が連日のように中讃各地を廻り、有志宅を訪問していること分かります。訪問先を見ると
11月10日 長谷川佐太郎(榎井の大庄屋で満濃池再築指導者)
11日 大久保正史(多度津町大庄屋)景山甚右衛門(後の讃岐鉄道創立者)
12日 丸亀の要人 鎌田勝太郎(坂出の鎌田醤油)
13日 金倉・仲村・上櫛梨・榎井・琴平・吉野上・五条・四条の要人 
14日 宇多津・丸亀・多度津(景山甚右衛門)
15日 琴平・榎井(長谷川佐太郎)
ここからは、地域の有力者を戸別訪問し、事前の根回しと「有志会」への参加と支援依頼を行っていたことが分かります。その手順は、
①最初に、琴平の津村・榎井の長谷川佐太郎、多度津の景山甚右衛門に会って、了承をとりつける。
②次に各地区の要人宅を訪ねて協力依頼。
③その結果を報告するために再度、14日に景山甚右衛門・15日に長谷川佐太郎に訪ねている。ここからは、景山甚右衛門と長谷川佐太郎を、担ぎ上げようとしていたことがうかがえます。
 そして11月15日には、道路有志集会への案内葉書を発送しています。
「南海道路開鑿雑誌」に、「17年11月15日はかきヲ以通知之人名(同志者名簿)」と書かれ、46人の名前が記載されています。その通知の文面も収録されています。通知の日付は11月14日です。その案内状の文面は、次の通りです
拝啓、予而大久保諶之丞 御噺申上候高知新道開鑿之義二付、御協議申度候条、本月十八日午前十時揃、琴平内町桜屋源兵衛方迄、乍御苦労、御出浮被下度、就而者、御地方御有志之諸彦御誘引相成度、同時迄二必御御苦労被降度候、頓首
十七年十一月十四日
長谷川佐太郎
大久保正史
景山甚右衛門
大久保諶之丞
意訳変換しておくと
拝啓、私、大久保諶之丞が高知新道開鑿の件について、協議いたしたいことがありますので、、本月十八日午前十時、琴平内町桜屋源兵衛方まで、ご足労いただきたくご案内申し上げます。各地域の有志の方々にもお声かけいただき、揃って参加いただければ幸いです。頓首
十七年十一月十四日 
 長谷川佐太郎・大久保正史・景山甚右衛門と連名で、大久保諶之丞の名前が最後にあります。彼らの協力を取り付けたことが分かります。案内はがきが発送され、集会準備が整った11月16日には、郡長の豊田元良を観音寺に訪ね、その夜は豊田邸に泊まっています。有志集会に向けた状況報告と今後の対応が二人で協議されたのでしょう。有志会」開催に向けた動きも、豊田元良との協議にもとづいて行われていたことがうかがえます。
 案内状には、豊田元良の名前がありません。しかし、案内状をもらった人たちは、大久保諶之丞の背後には豊田元良がいることは誰もが分かっていたはずです。事前に、豊田元良の方から「大久保諶之丞を訪問させるので、話を聞いてやって欲しい」くらいの連絡があったかもしれません。それが日本の政治家たちの流儀です。そして11月18日には、琴平のさくらやで第一回目の道路有志集会が開催されます。このような形で、四国新道建設の請願運動は進められています。
讃岐鉄道や西讃電灯の設立に向けた動きも、地域の要人の自宅を訪ね歩いて、協力と出資をもとめるという形が取られたようです。
 それから約十年後の増田穣三も名望家の家を一軒一軒めぐって、電灯事業への出資を募ったようです。
その発起人の名簿を見ると、村会議員や助役などの名前が並びます。彼らはかつての庄屋たちでもありました。ここからは、農村の名望家層が鉄道や電力への出資を通じて、近代産業に参入しようとしている動きが見えてきます。
そして、次のように創立総会で決定され操業に向けて歩み始めます。
明治30年12月18日 那珂郡龍川村大字金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認。
資本金総額 十二萬圓 一株の金額 五十圓 
募集株数  二、四〇〇株
払込期限  明治31年5月5日
取締役社長 樋口 治実
専務取締役 赤尾 勘大
取 締 役 山地 善吉外三名
監 査 役 山地 健雄 富山民二郎
支配人、技師長 黒田精太郎(前高電技師長)
明治30年12月28日、西讃電灯株式会社設立を農商務大臣に出願
明治31年9月  西讃電灯株式会社創立。
明治32年1月、発電所・事務所・倉庫の用地として金蔵寺本村に三反四畝を借入
 ところがこれからが大変でした。
 高松電灯は、明治28(1895)年2月に設立認可で、4月に設立、11月3日に試点灯、11月7日開業開始で、設立認可から営業開始まで9ヶ月の短期間でこぎつけています。ところが西讃電灯は、認可から4年が経っても営業開始にたどり着けないありさました。認可から営業開始までできるだけ短期間に行うのが経営者の腕の見せ所です。その期待に応えられない経営者に対して、株主達は不満の声を上げ始めます。
西讃電灯の発起人と役員を見ておきましょう。

増田穣三と電灯会社4
西讃電灯の発起人と役員(村井信之氏作成)
上表からは、次のような事が読み取れます。

①西讃電灯発起人には、都市部の有力者がいない。

②中讃の郡部名望家と大坂企業家連合 郡部有力者(助役・村会議員クラス)が構成主体である

③七箇村からは、増田穣三(助役)・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)が参加している

④1898年9月に金倉寺に発電所着工するも操業開始に至らない。

⑤そのために社長が短期間で交代している

⑥1900年10月には、操業遅延の責任から役員が総入れ替えている。

⑦1901年8月前社長の「病気辞任」を受けて、増田穣三が社長に就任。

⑧増田家本家で従兄弟に当たる増田一良も役員に迎え入れられている。

営業開始の妨げとなっていたのは、何だったのでしょうか?

増田穣三 電灯会社営業開始の遅れ
電灯会社営業開始の遅れの要因
明治34(1901)年7月7日、讃岐電気株式の株主への報告書  には、問題点として上のようなことが挙げられています。第1には、設立資金が期限までにおもうように集まらなかったことです。そのために発注されていた発電機の納入ができず、再発注に時間が取られます。発注先が確定し、設計図が送られてくるまでは発電所にも本格的な着工はできません。また、電柱を発注しても、それを建てるための土地買収や登記までプロセスが考えられていなかったようです。
 設立当初の社長や経営者達は、他県の人物で香川県にはやって来なかった人もいるようです。技術者たちも頻繁に交代しています。責任ある経営が行えていなかったということでしょう。つまりは、素人集団による設立準備作業だったようです。そのため創業開始は、延べ延べになり、株主達の不満の声は、出資を募った増田穣三に向けられます。増田穣三は、当時は七箇村村長と県会議員を兼ねる立場でした。株主達からは「あんたが責任を持ってやれ」という声が沸き上がります。このような声に押されて、増田穣三が第4代社長に就任し開業を目指すことになります。これが明治35(1902)年8月のことでした。
このような事情を 「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」(明治37年刊行)は、次のように記します。

  入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや

 意訳変換しておくと
  電気会社の社長として、その経営に携わって「水責火責」の責苦や「電気責の痛苦」などの経営能力に絶えうる能力があるのだろうかと危ぶむ声もある。「義気重忠を凌駕」するのも、増田穣三先生の耐忍や勇気であろう。

増田穣三の経営者としてのお手並み拝見というところでしょうか。
 増田穣三は社長就任後の翌年明治36(1903)年7月30日に営業開始にこぎ着けます。この時の設備・資本金は次の通りです。
①発電所は金蔵寺に建設され、資本金12万円、
②交流単相3線式の発電機で60kW、2200Vで丸亀・多度津へ送電
③点灯数は483灯(終夜灯82灯、半夜灯401灯)
この時に金倉寺に増田穣三によって建設された本社と発電所を見ておきましょう。
高松発電所に続いて香川で2番目に建設された金倉寺火力発電所は、金蔵寺駅北側の東隣に隣接して建設されたようです。明治40(1907)年頃の様子が、次のように記されています。
金倉寺発電所(讃岐電気)
金倉寺発電所(西讃電灯)
金蔵寺駅の北側を東西に横切る道より少し入り込んだ所に煉瓦の四角い門柱が二つ立っていた。門を入った正面には、土を盛った小山があり、松が数本植えられていた。その奥に小さな建物と大きな建物があり、大きな建物の屋根の上には煙突が立ち、夕方になると黒い煙が出ていた。線路の西側には数軒の家があったが、東側には火力発電所以外に家はなく一面に水田が広がり、通る人も稀であった。

 この記録と絵からは、次のような発電行程が推定できます。

金倉寺発電所2
金倉寺発電所の発電行程

讃岐電気本社・発電所2
讃岐電灯の本社
どうして多度津や丸亀でなく金蔵寺に発電所を建設したのでしょうか?それは石炭と水の確保にあったようです。

金倉寺発電所立地条件
金倉寺火力発電所の立地条件

石炭は丸亀港や多度津港に陸揚げ可能でしたが、港近くには安価で広く手頃な土地と水が見つからなかったようです。港から離れた所になると、重い石炭を牛馬車大量に運ぶには、運送コストが嵩みます。そこで明治22年に開通したばかりの鉄道で運べる金蔵寺駅の隣接地が選ばれます。
 火力発電は、石炭で水を熱して蒸気力でタービンを廻します。そのため良質の水(軟水)が大量に必要となります。金倉寺周辺は、旧金倉川の河床跡がいくつもあり、地下水は豊富です。金倉寺駅の西1㎞には、以前にお話しした永井の出水があります。金倉寺駅周辺も、掘れば良質な湧き水が得られるとを、人々は知っていました。

文中の「夕方になると煙突から黒い煙が出る」というのは、当時の電力供給は電灯だけで、動力用はありません。そのため社名も「高松電灯」や「西讃電灯」でした。夕方になって暗くなると石炭を燃やして、送電していたのです。つまり、明るい昼間には操業していなかったのです。一般家庭での電気料金は月1円40銭ですの、現在に換算すると数万円にもなったようです。そのため庶民にはほ程遠く、電気需要が伸びませんでした。そのため架線延長などの設備投資を行っても契約戸数は増えず、経営は苦しく赤字が累積していくことになります。
設立当初の収支決算は次の通りです。

電灯会社の収支決算 開業年

 収入が支出の三倍を超える大赤字です。
これに対して増田穣三の経営方針は「未来のためへの積極的投資」でした。
 日露開戦を機に善通寺第11師団兵営の照明電灯化が決定し、灯数約千灯が発注されます。これに対して、増田穣三は「お国のために」と採算度外視で短期間で完成させ、善通寺方面への送電を開始します。さらに翌年の明治38(1905)年には琴平への送電開始し、電力供給不足になると150㌗発電機を増設し、210㌗体制にするなど設備投資を積極的に行います。
明治の石炭価格水表
明治の石炭価格推移
 しかし、待っていたのは日露戦争後の石炭価格の高騰で、これが火力発電所の操業を圧迫するようになります。さらにこれに追い打ちをかけたのが日露戦争後の恐慌に続く慢性的な不況でした。会社の営業成績は思うように伸びず、設立以来一度も配当金が出せないままで赤字総額は8万円を越えます。
 ここに来て「未来のための積極投資」を掲げて損益額を増大させる増田穣三の経営方針に対する危機感と不安が株主たちから高まり、退陣要求へとつながります。
増田穣三 電灯会社の経営をめぐる対立
電灯会社の経営戦略をめぐる対立

こうして明治39(1906)年1月に、増田穣三は社長を辞任します。
増田穣三の責任の取り方

そして、2ヶ月後には七箇村村長を辞任し、次の県議会選挙には出馬しませんでした。私は、これは増田穣三なりの責任の取り方であったのではないかと思います。
 「それまでの累積赤字を精算する」ということは、資本金12万から累積赤字84000円が支払われるということになります。そして、残りの36000円が資本金となります。つまり、株主は出資した額の2/3を失ったことになります。    
    電灯会社設立に向けて、投資を呼びかけたのは増田穣三です。「資本減少」という荒治療は、出資者である名望家の増田穣三に対する信用を大きく傷つける結果となります。穣三自身も責任を痛感していたはずです。それが、村長や県会議員からも身を退くという形になったのではないかと私は考えています。これが政界からの引退のようにも思えるのですが、5年後には衆議院議員に出馬し当選します。ちなみに、景山甚右衛門はこの時に地盤を三土忠三に譲って代議士を引退します。そして四国水力発電所の三繩発電所の建設に邁進していくことになります。
増田穣三・景山甚右衛門比較年表 後半

増田穣三と景山甚右衛門の年譜(村井信之氏作成)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展 四国電力事業史319P
関連記事

増田穣三と電灯会社設立の関係年表
1894 明治27年 増田穣三が七箇村助役就任(36歳)→M30年まで
1895 明治28年 近藤秀太郎や増田穣三らによって電灯会社設立計画が進む。
1897 明治30年 西讃電灯会社(資本金12万円)設立 → 開業に手間取る
1899 明治32年 3・7 増田穣三が県会議員に初当選(41歳)
 4月26日 増田穣三が七箇村長に就任(41歳)→M39年まで7年
1900 明治33年10月21日 経営刷新のため臨時株主総会において、役員の総改選
1901 明治34年8月 増田穣三が讃岐電気株式会社の第4代社長に就任 
1902 明治35年7月30日 讃岐電気株式会社が電灯営業を開始(設立から6年目)
11師団設立等で電力需要は増加するも設備投資の増大等で経営は火の車。設立以来10年間無配。
   
1903 明治36 増田一良 黒川橋の東に八重山銀行設立。出資金5000円
1904  明治37年7月 増田穣三が株主総会で決算報告。野心的な拡張路線で大幅欠損
   9月 讃岐電気が善通寺市への送電開始。翌38年8月には琴平町にも送電開始。
1905 明治38年  日露戦争後の不況拡大
   8月 讃岐電気が琴平への送電開始
      電力供給不足のため150㌗発電機増設。新設備投資が経営を圧迫
  11月1日 県会議長に増田穣三選任(~M40年9月)(43歳)
1906 明治39年1月 増田穣三が讃岐電気社長を辞任
   3月 増田穣三 七箇村村長退任    
1907  9月25日 第3回県会議員選挙に増田穣三は出馬せず 
   10月7日 臨時県議会開催 蓮井藤吉新議長就任  増田穣三県会議長退任
    9月 讃岐電気軌道株式会社設立。発起人に、増田一良・増田穣三・東条正平・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
1912(明治45・大正1年)5月 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 景山甚右衛門は、選挙地盤を三土忠造に譲って政界引退

第八回 史談会 増田穣三と景山甚右衛門

今回のお話しは、讃岐の電力会社の創設過程と、それが四国水力発電会社として成長して行くまでの話になります。近代産業としての発電事業を根付かせる苦労を、増田穣三は背負います。それを水力発電の導入によって発展させていくのが多度津の景山甚右衛門です。ふたりの動きについてのお話しが聞けます。興味と時間のある方を歓迎します。
場所が吉野公民館に変更になっています。注意してください。
関連記事

琴平以南に電灯が点ったのは百年前 そこには増田穣三・一良の姿が・

大久保諶之丞と景山甚右衛門
注意 いつもと会場が違っています。グーグルで確認してください。
旧吉野小学校の前の公民館です。

史談会の御案内です。
前回に続いて伊東悟氏による大久保諶之丞についてのお話しです。大久保諶之丞は、「多度津七福人のドン」と言われる景山甚右衛門との書簡を数多く残しています。今回は二人の交わした書簡に焦点を絞ってのお話しです。そこには従来の四国新道や讃岐鉄道建設をめぐって語られてこなかった内容も聞けるかも知れません。興味と時間のある方の来場を歓迎します。

DSC03831

約70年前(1955年)の多度津港の「出帆御案内」の時刻表です。
ここには、関西汽船と尼崎汽船の行先と出帆時刻・船名が次のように掲げられています。
①志々島・粟島  つばめ丸
②六島(備後)  光栄丸
③笠岡          三洋丸
④福山 大徳丸
⑤鞆・尾道 大長丸
⑦大阪・神戸   明石丸
⑧神戸・大阪   あかね丸
尼崎汽船は3便で
⑨笠岡      きよしま丸
⑩福山 はつしま丸
⑪瀬戸田 やまと丸(随時運航)

1955年の多度津港は、東は神戸・大阪、西は福山・鞆・尾道・瀬戸田まで航路が延びて、定期船が通っていたことが分かります。現在の三原港(広島県)や今治港(愛媛)のように、いくつも航路で瀬戸の港と結ばれていた時代があったようです。そんな時代の多度津港を今回は見ていくことにします。テキストは「多度津町誌629P  明治から大正の海運」です。
 まず幕末から明治にかけての瀬戸内海海運の動きを見ていくことにします。
 徳川幕府は、寛永12年(1625)以来、海外渡航用の大型船の建造を禁止していました。しかし幕末の相次ぐ外国船の来航に刺激されて、嘉永6年(1853)9月、大船建造の禁令を解きます。そして、各藩に対して大型船建造を奨励するとともに、外国より汽船を購入することを奨励するようになります。毛利藩が若い高杉晋作に上海へ艦船購入に行かせるのも、坂本竜馬が汽船を手に入れて、「海援隊」を組織するのも、こんな時代の背景があるようです。
 その結果、明治元年(1868)には、洋式船舶の保有数は次のようになっていました。
幕府44艘、各藩94艘、合計138艘、 1万7000トン余り

 明治維新政府にとっても商船隊の整備充実は重要政策でした。そこで、次のような措置をとります。
明治2年(1869)10月、太政官布告で個人の西洋型船舶の製造・所有を許可
明治3年(1870)1月 商船規則を公布して西洋型船舶所有者に対して特別保護を付与
1870年 築地波止場前を行く汽船
        築地波止場前を行く汽船(1870年)

このような汽船促進策の結果、明治4年3月までには、大阪だけで外国人から購入した船舶は16隻に達します。買入主は、徳島藩、広島藩、熊本藩、高知藩などの7藩、民間では大阪商人や阿波商人、土佐佐藩士岩崎弥太郎の九十九商会など数名です。これらの船は、各藩と大阪の間を往復して米穀その他の国産物を運ぶようになります。

瀬戸内海航路の汽船 1871年
瀬戸内海航路の汽船(1871年) 
こうして、大阪を起点として、各藩主導で次のような定期航路が開かれます。
大阪~徳島間
大阪~和歌山間
大阪~岡山間
大阪~多度津間
大阪~長崎間
旧高松藩主松平家も、讃岐~大阪間に金比羅丸を就航させています。
金刀比羅丸は、慶応4年ごろに高松藩が大阪藩邸の田中庄八郎に命じて神戸港で建造し、玉吉丸と命名した貨客船です。暗車(スクリュー)推進の蒸気船で、2本マストのスクーナー型で帆装し、40馬力でした。それが明治4年の廃藩置県で、香川県に引き継がれ、旧藩主の松平頼聡他2名に払い下げられます。それを金刀比羅丸と改称し、取り扱い方を田中庄八に委嘱し、大阪~神戸~高松~多度津間の航海を始めたようです。

品川沖の東京丸(三菱商船)1874年
1874年 品川沖の東京丸(三菱商会)

 この頃に、多度津では宮崎平治郎が汽船取り扱い業を開業します。そして凌波丸(木製、81屯)を購入して、大阪から岡山・高松を経て多度津に寄港し、更に鞆・尾道にまで航路を延ばしていました。その2、3年後には、大阪の川口屋清右衛門、神戸の安藤嘉左衛門と田中庄八の3人は共同して三港社を創立し、大阪の宗像市郎所有の太陽丸(木製、67トン)と飛燕丸で阪神・多度津間を定期航海を行うようになります。
 ここでは、明治初期には旧藩の所有船が民間に払い下げられて、大坂航路に投入され、瀬戸内海の各港と畿内を結ぶ航路が開けたことを押さえておきます。

横浜発の汽船 三菱商会
1875年 横浜発の汽船(三菱商会)
瀬戸内海を行き交う蒸気汽船が急増したのは、明治10年(1877)の西南の役前後からでした。
この内乱は、兵員や他の物資の輸送で海運業界に異常な好景気をもたらします。そして、次のような船会社が設立されます。
岡山の偕行会社
広島の広凌会社
丸亀の玉藻会社
淡路の淡路汽船
和歌山の明光会社、共立会社
徳島の太陽会社
この時期に新たに就航した汽船は110余隻、船主も70余名に達します。この機運の中で多度津港にも、寄港する汽船の数が急増します。明治14年ごろの大阪港からの定期船の出船状況を、まとめたものが多度津町史632Pに載せられています。

1881年 大阪発出船の寄港地一覧1
1981年 大阪出港の汽船の寄港地一覧表
ここからは次のようなことが分かります。
①大坂航路に就航していた汽船のほとんどが、多度津に寄港後に西に向かっている。
②岡山・高松よりもはるかに多度津に寄港する船の方が多かった。
③多度津には、毎日3便程度の瀬戸内海航路の汽船が寄港している
   山陽鉄道が広島まで伸びるのは、日清戦争の直前でした。
明治10年代には、瀬戸内海沿岸は鉄道で結ばれていなかったので汽船が主役でした。その中で多度津は「四国の玄関」として多くの汽船が寄港していたこと押さえておきます。
明治十年代の多度津港について『明治前期産業発達史資料』第3集 開拓使篇西南諸港報告書(明治14年)は、次のように記します。
多度津港
愛媛県下讃岐国多度郡多度津港ハ海底粘上ニシテ船舶外而水入ノ垢フ焚除スルニ使ニシテ毎年春2月ヨリ8月ニ至ルマデノ間タデ船ノ停泊スルモノ最多ク謂ハユル日本船ノドツクトモ称スベキ港ナリ又小汽船は毎月2百餘隻ノ出入アリ又冬節西風烈シキ時ハ小船ハ甚困難ノ処アリ港中深浅等ハ別紙略図ニ詳ナリ
戸数本年1月1日ノ調査千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人 北海道ヨリハ鯡〆粕昆布数ノ子ノ類フ輸入シ昆布数ノ子ハ本国丸亀多度津琴平等2転売ス鯡〆粕ハ本国那珂多度三野豊田部等へ転売ス。
 物産問屋3拾9軒 問屋ハ輸入ノ物品フ預り仲買ヲシテ売捌カシムルノ習慣ナリ。 定繋出入ノ船舶3百石以下5拾5艘アリ 北海道渡航3百石以上2艘アリ(中略)
地方著名産物1ケ年輸出ノ概略ハ砂糖凡8万4千5百斤 代価凡5万7千7百5拾式円5拾銭。綿凡式万目 代価凡1万円ニシテ砂糖ハ北海道又ハ大阪へ売捌 綿ハ北海道又西海道へ輸出ス
近傍農家肥料ハ近来鯡〆粕ノ類多ク地味2適セシヤ之フ用フレバ土質追々膏艘(こうゆ)ニ変シ作物生立宜ク随テ収獲多シ

  意訳変換しておくと
多度津港
愛媛県(当時は香川県はなかった)多度郡の多度津港は、海底が粘土で船に入った垢を焚除するために、毎年春2月から8月まで、「タデ船」のために停泊する船が数多い。そのため「日本船のドック」とも呼ばれる港である。小汽船の入港数は、毎月200隻前後である。ただ、冬の北西季節風が強い時には、小船の停泊は厳しい。港の深度などは別紙略図の通りである。
 多度津の本年1月1日調査によると、戸数千2百3拾戸 人口4千4百4拾1人 内男2千2百2拾5人 女2千2百拾6人
 北海道からは、鯡・〆粕・昆布・数ノ子などが運び込まれ、この内の昆布・数ノ子は、丸亀・多度津・琴平などに転売し、鯡〆粕は、那珂多度郡や三野豊田郡など周辺の農村に転売する。物産問屋は39軒 問屋は、搬入された物品を預り、仲買をして売捌くことが生業となっている。
  出入する船舶で、3百石以上の船が55艘、北海道に渡航する300以上が2艘ある(中略)
特産品としては、砂糖が約84500斤 代価凡57752円、綿約2万目 代価凡1万円。砂糖は北海道か大阪へ、綿は北海道や西海道へ販売する。近来、周辺の農家は、肥料として鯡・〆粕を多く使用するようになったので、地味は肥えて作物の生育に適した土壌となっている。
ここからは次のようなことが分かります。
①船のタデや垢抜きのために、多度津港に寄港する船が多く、「和船のドック」とも呼ばれている。以前に金毘羅参詣名所図会の多度津港の絵図には、船タデの絵が載せられていることを紹介しました。明治になっても、多度津港は「和船のドック」機能を継続して維持していたことが分かります。
②北海道からの数の子や昆布、鯡〆粕が北前船で依然として運び込まれていること
③それを後背地の農村や、都市部の金毘羅・丸亀などに転売する問屋業が盛んであること
④特産品として、砂糖や綿が積み出されていること

西南戦争を契機に、旅客船の数が急速に増えたことを先ほど見ました。
1993年 三菱と共同運輸の競争
1883年 三菱と共同運輸の競争を描いた風刺画
 汽船や航路の急速な増加は、運賃値下げ競争や無理なスピード競争での客の奪い合いを引き起こします。そのため海運業界には不当競争や紛争が絶えず、各船主の経営難は次第に深刻化していきます。
この打開策として打ちだされたのが「企業合同による汽船会社統合案」です。
 明治17年5月1日、住友家の総代理人広瀬宰平を社長として、50名の船主から提供された92隻の汽船を所有する大阪商船会社が設立されます。この日、伊万里行き「豊浦丸」、細島行き「佐伯丸」、広島行き「太勢丸」、尾道行き「盛行丸」、坂越行き「兵庫丸」の木造汽船5隻が大阪を出港します。
大阪商船
         大阪商船会社のトレードマーク
その船の煙突には、大阪商船会社のトレードマークとなる「大」の白字のマークが書き込まれていました。
 大阪商船の開業当時の航路は、大阪から瀬戸内海沿岸を経て山陽・四国・九州や和歌山への18航路でした。

大阪商船-瀬戸内海附近-航路図
大阪商船の航路
このうち香川県の寄港地は小豆島・高松・丸亀・多度津の4港です。その中でも多度津港は9本線と1支線の船が寄港しています。高松・丸亀・小豆島が2本線の船だけの寄港だったのに比べると、多度津港の重要性が分かります。この時期まで、多度津は幕末以来の「四国の玄関港」の地位を保ち続けています。

希少 美品 大正9年頃(1920年) 今無き海運会社 大阪商船株式会社監修 世界の公園『瀬戸内海地図』和楽路屋発行 16折り航路図  横120cm|PayPayフリマ
大阪商船航路図(大正8年)讃岐の寄港
 旅客輸送の船は、明治20年前後からはほとんどが汽船時代に入ります。
しかし、貨物輸送では、明治後期まで帆船が数多く活躍していたことは、以前にお話ししました。明治になっても、江戸時代から続く北前船(帆船)が日本海沿岸や北海道との交易に従事し、多度津港にも出入りしていたのです。
 たとえば北陸出身の大阪の回船問屋西村忠兵衛の船は、明治5年2月25日、大阪から北海道へ北前交易に出港します。出港時の積荷は、以下の通りです
酒4斗入り160挺。2斗入り55挺
木綿6箱
他に予約の注文品瀬戸物16箱・杉箸2箱
2月28日兵庫津(神戸)着 3月1日出帆
3月3日 多度津着 
多度津で積荷の酒4斗入りを102挺売り、塩4斗8升入り1800俵と白砂糖15挺を買って積み入れ、8日出帆
ところが3月21日長州福浦を出港後間もなく悪天候のため座礁、遭難。(西村通男著「海商3代」)
ここからは、明治に半ばになっても和船での北前交易は行われており、多度津に立ち寄って、塩や砂糖を手に入れていることが分かります。ところが、日本海に出る前に座礁しています。伝統的な大和型帆船は、西洋型船のような水密甲板がなく、海難に対して弱かったようです。そのため政府は、西洋型船の採用を奨励します。その結果、明治十年代には西洋型帆船が導入されるようになりますが、大和型帆船は、伝統的な航海技術と建造コストが安かったので、しぶとく生き残っていきます。そこで政府は、明治18年からの大和型500石以上の船の製造禁止を通達します。禁止前年の明治17年には、肋骨構造などで西洋型の長所を採用しながら外見は大和型のような「合の子船」とよばれる帆船が数多く造られたようです。大正初めまで、和船は貨物輸送のために活躍し、多度津港にも入港していたことを押さえておきます。ここでは明治になってすぐに帆船が姿を消したわけではないこと、
  明治20(1887)年ごろより資本主義的飛躍が始まると、海運業も大いに活気を呈するようになります。
京極藩士冨井泰蔵の日記「富井泰蔵覚帳」には、次のように記されています。
「今暁、船笛(フルイト)高く狼吠の如き、筑後川、木曽川、錦川丸の出港なり。本日三度振りなり。近村の者皆驚く」

 ここに出てくる筑後川丸(鋼製、694屯)、木曽川丸(鋼製、685屯)、錦川丸(木製、310トン)は、大阪商船の定期船です。そのトン数を見ると、700屯クラスの定期船で、明治初めから比べると、4倍に大型化し、木製から鋼製に変わっています。
 明治27年の大阪商船航路乗客運賃表によると、大阪ー多度津間の運賃は、次の通りです。
下等が95銭
中等が1円
上等は1円5銭
別室上等は2円
明治30年10月発行の「大日本繁昌記懐中便覧」には、当時の多度津の様子を次のように記されています。

多度津ハ(中略)、港内深ク,テ汽船停泊ノ順ル要津ナレバ水陸運輸ノ使ナルコー県下第1トナス。亦夕金刀比羅官ニ詣ズル旅客輩ニ上陸スベキ至艇ノ地ナレバ汽船′出入頻はなシテ常ニ煤煙空ヲ蔽ヒ汽笛埠頭ニ響キ実ニ繁栄の一要港卜云フベラ」

意訳変換しておくと
多度津は、港内の水深が深く、汽船の停泊に適した拠点港なので、水陸運輸の使用者は県下第1の港である。また金刀比羅宮へ参拝する旅客にとっては、上陸に適した港なので汽船出入は多く、常に汽船のあげる煤煙が空をおおい、汽笛が埠頭に響く。これも繁栄の証というべきである。

この他にも、香川県下の汽船問屋・和船問屋の数は、高松に8軒、坂出に1軒、小豆島に11軒、丸亀4軒で、多度津は25軒だったことも記されています。

山陽鉄道全線開通
山陽鉄道全線海開通
明治24年に山陽鉄道の姫路・岡山間が開通し、更に同34年には下関まで延長開通します。 
 それまで西日本の乗客輸送の主役だった旅客船は、これを契機に次第に鉄道にとって代わられていきます。それを年表化してみると
1895(明治28)年  山陽鉄道と讃岐鉄道の接続のために、大阪商船は玉島・多度津間に定期航路開設
1896(明治29)年 善通寺に第11師団が設置。2月に丸亀~高松間が延長開通。
1902年 大阪商船が岡山・高松間にも航路開設
1903年 岡山・高松航路を山陽汽船会社が引き継ぎ、玉藻丸を就航。同時に尾道・多度津間にも連絡船児島丸を就航。
1906年 鉄道国有化で航路も国鉄へ移管。
      尾道・多度津鉄道連絡船は東豫汽船が運航。
1910年 宇野線開通によって宇野・高松間に宇高鉄道連絡航路が開設

ここからは大阪商船が鉄道網整備にそなえて、鉄道連絡船を各航路に就航させ、それが最終的には国鉄に移管されていったことが分かります。
高松港築港(明治36年)
高松築港旅客待合所(明治36年頃)
このような動きを、事前に捕らえて着々と未來への投資を行っていたのが高松市です。
高松は、日露戦争前後から、大正時代にかけて数次にわたり港の改修、整備に努めます。その結果、出入港船が増加し、宇高鉄道連絡船による岡山経由の旅宮も呼び込むことに成功します。こうして金毘羅参拝客も、岡山から宇野線と宇高連絡船を利用して高松に入ってくるようになります。
高松港 宇高連絡船 初入港(明治43年)
明治43年 宇高航路の初航海で入港する玉藻丸

高松・多度津港の入港船舶数の推移からは、次のようなことが分かります。
多度津・高松港 入港船舶数推移

①高松港入港の船舶数は、大正時代になって約7倍に急増している
②それに対して、多度津港の入港船舶数は、減少傾向にある。
③乗船人数は明治14年には、高松と多度津はほぼ同じであったのが、大正14年には、高松は6倍に増加している。
④貨物取扱量も、大正14には高松は多度津の約8倍になっている。

四国でも鉄道網は、着々と伸びていきます。
昭和2年に、予讃線が松山まで開通
昭和10年 高徳線は徳島まで、予讃線は伊予大洲まで
      土讃線は高知須崎まで開通.
      宇高連絡航路には貨車航送船が就航。
こうして整備された鉄道は、旅客船から常客を奪って行きます。これに対して、大阪商船は瀬戸内海から遠洋航路に経営の重点を移していき、内海航路の譲渡や整理を行います。しかし、そんな中でも有望な航路には新設や、新造船投入を行っています。
昭和3年12月新設された瀬戸内海航路のひとつが、大阪・多度津線です。
大信丸 (1309トン)と大智丸(1280トン)の大型姉妹船が投入されます。この両船は昭和14年に、日中戦争の激化で中国方面に転用されるまで多度津港と大阪を結んでいました。
 昭和10年ごろの多度津港への寄港状況は、次のように記されています。
大阪商船                                          
①大阪・多度津線
(大阪・神戸・高松・坂出・多度津)に、大信丸と大智丸の2隻で毎日1航海。
②大阪・山陽線
 大阪・神戸・坂手・高松・多度津・柄・尾道・糸崎。忠海・竹原・広・音戸・呉。広島・岩国。柳井・室津・三田尻・宇部・関門に、早輌丸・音戸丸・三原丸のディーゼル客船の第1便と、尼崎汽船の協定船による第2便があり、それぞれ毎月十数回航海。
③大阪と大分線
大阪・神戸・高松・多度津・今治・三津浜・長浜・佐賀関・別府が毎日1便寄港.

瀬戸内海航路図2
瀬戸内商の船航路図

この他に、瀬戸内商船が多度津・尾道鉄道連絡船を毎日4便運航していました。 しかし、花形航路である別府航路の豪華客船は高松に寄港しましたが、多度津港には寄港しません。また、昭和初期から整備に努めてきた丸亀・坂出の両港が、物流拠点として産業港に発展していきます。その結果、多度津港の相対的な地盤沈下は続きます。
 最初に見た多度津港の「出帆御案内」の航路も、戦前のこの時期の
航路を引き継いだもののようです。

1920年 多度津港
1920年の絵はがき(多度津港)

 日中戦争が長期化し、戦時体制が強化されるにつれて船舶・燃料不足から各定期航路も減便されます。
その一方で、旅客、貨物量は減少せず、食糧や軍需物資の荷動きは、むしろ増加します。特に、大平洋戦争開戦前の昭和15年度は、港湾の利用度が飛躍的に増加し、乗降客が56万を突破し、入港船舶は2万5000余隻と戦前の最高を記録しています。これは善通寺師団の外港としての多度津港が、出征将兵や軍需物資の輸送に最大限に利用されたためと研究者は指摘します。

瀬戸内商船航路案内.2JPG

 戦時下の昭和17年2月になると、燃料油不足と効率的な物資輸送確保のために、海運界は国家管下に置かれるようになります。内海航路でも「国策」として、船会社や航路の統合整理が強力に進められます。その結果、大阪商船を主体に摂陽商船・阿波国共同汽船・宇和島運輸・土佐商船・尼崎汽船・住友鉱業の7社の共同出資により関西汽船株式会社が設立されます。

Kansailine


こうして尾道・多度津鉄道連絡航路を運行してきた瀬戸内商船も、関西汽船に委託されます。そして、昭和20年6月に多度津―笠岡以西の瀬戸内海西部を運航する旅客船業者7社が統合されて「瀬戸内海汽船株式会社」が設立されます。尾道、多度津鉄道連絡船は、この会社によって運航されるようになります。

 戦争末期になると瀬戸内海に多数投下された機雷のため、定期航路は休航同然の状態となります。
その上、土佐沖の米軍空母から飛び立ったグラマンが襲来し、航行する船や漁船にまで機銃掃射を加えてきます。こうして関西汽船の大阪~多度津航路も昭和20年6月5日以降は運航休止となります。多度津港を出入りするのは、高見~佐柳~栗島などの周辺の島々をつなぐ船だけで、それも機雷と空襲の危険をおかして運航です。ちなみに、この年には乗降客は7万9000余名、入港船舶は5000余隻に激減しています。しかもこの入港船舶のほとんどは軍用船や空襲避難のために入港した船で、定期船はわずか524隻です。それも周辺の島通いの小型船だけでした。関西汽船などの大型定期船はすべて休航し、港はさびれたままで8月15日の敗戦を迎えたようです。

1920年 多度津桟橋の尾道航路船
多度津港(1920年の絵はがき) 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「多度津町誌629P  明治から大正の海運」

 香川県で最初に汽車が走ったのはどこ?

景山甚右衛門.jポスターpg

 
多度津の豪商大隅屋五代目の景山甚右衛門が東京見学で「陸蒸気」を見て、多度津から金比羅さんへ鉄道を走らせようという話がスタートしたと聞いています。本当なんでしょうか?史料で辿ってみることにします。
 
 明治 18 年(1885 年)、多度津~神戸間の定期航路の船主であった神戸の三城弥七と、多度津の豪商大隅屋の五代目景山甚右衛門が中心になって、具体的な構想が公表されます。

景山甚右衛門1
多度津資料館
全国各地で鉄道敷設の機運が高まるなか、明治20(1887)年5月24日に次のような「讃岐鉄道会社」設立の申請が、内閣総理大臣・伊藤博文に提出されています。
  『讃岐鉄道起業目論見書』(現代文に意訳))
1 名称は讃岐鉄道会社、愛媛県下の丸亀通町103番地に設置
2 線路は丸亀を起点に、中府村、津ノ森、今津、下金倉、多度郡北鴨、道福寺、多度津庄、葛原、金蔵寺、稲木、上吉田、生野、大麻を経て那珂郡琴平村に至る。
(第3、4 省略)
5 発起人の氏名住処及び発起人引受ノ株数(省略)は次の通り
 ・川口 正衛 大阪府下東区横堀壱丁目十九番地 
        讃岐国那珂郡丸亀通町百三番地寄留
 ・谷崎新五郎 大阪府下西区薩摩堀南九番地   
        同国同郡同処寄留
 ・辻 宗兵衛 大阪府下東区本町壱丁目四番地  
        同国同郡同処寄留
 ・近渾 弥助 愛媛県下讃岐国那珂郡丸亀松屋町拾四番地
 ・太田 岩造 同県同国同郡宗古町八四番地
 ・金子 数平 同県同国同郡敗町三拾弐番地
 ・氏家喜兵衛 同県同国同郡中府村四百九拾四番地
 ・島居貞兵衛 同県同国同郡地方村四百三拾九番地
 ・冨羽 政吉 同県同国同郡演町拾三番地
 ・景山甚右衛門 同県同国多度郡多度津村百三拾八番地
 ・丸尾 熊造 同県同国同郡同村四拾六番地
 ・大久保正史 同県同国同郡同村九百五九番地
 ・仁井粂吉郎 同県同国那珂郡琴平村弐百拾六番地
 ・福岡清五郎 同県同国同郡同村百八拾四番地
  二奸喜三郎 同県同国同郡同村六百弐拾弐番地
 ・大久保諶之丞 同県同国三野郡財田上ノ村百三拾三番地
発起人引受株金は 株式三百株 金高三万円也 
合計金 15万円也
   (「鉄道院文書」 讃岐鉄道の部
松井政行氏は、この出資者たちを次の3グループに分類します。
①大坂の資産家グループ
②多度津の「多度津七福人」グループ
③先年に大久保諶之丞よって組織された「四国新道グループ」
そして、設立申請までの動きを、次のように指摘します。
①鉄道建設を積極的に働きかけたのは、大阪グループ
②「多度津七福人」グループは受身的
③そこで四国新道建設を実現させた地元の資産家を引き入れた
④そして、大阪グループに対応するために景山甚右衛門を担いだ。
つまり、景山甚右衛門が讃岐鉄道建設を発案し、先頭に立って実現させていったというのは後世に書かれた「物語」のようです。

この申請書に対して、翌年の明治21年2月15日に、免許状が公布されています。
ちなみに当時は香川県はありませんでした。香川県は愛媛県に編入されていたのです。この免許を受けて、開通に向けた準備が進められることになります。
順調な滑り出しのようです。しかし、ここからが大変だったようです。地元の人たちの強硬な抗議に合うのです。真っ向から反対したのは旅館と土産物などを商う商売人であり、次に人力車の車夫たちでした。
鉄道建設に、地元はどうして反対したのでしょうか

  明治28年8月10日付けの『東京日日新聞』の記事(意訳)には、次のような背景が書かれています
全国各地からの金刀比羅神社へ参詣者は、たいていは金刀比羅町に一泊するか、昼食をとっていた。また、土産物等を買い整へるなど、同町は参詣人の落とすお金で非常に賑わっていた。ところが大久保諶之丞によって四国新道が開通し、人力車で丸亀・多度津から一日で往復することができるようになって以来は、兎角客足が止まらず、同町の商売人、旅人宿等は大不景気に見舞われている。
 その上に、鉄道が出来れば、同町はたちまち衰微していくかもしれないという不安が高まっている。このため同町の住民一同は、鉄道会社の株主などにならないのは勿論のこと、鉄道の敷地にも一寸の土地といえども決して売り渡さず、飽くまで反対・妨害しようと協議中なりと伝えられる。
  参拝客の利便性向上よりも、自分たちの利益優先というのはこの時代にも見られるようです。鉄道に反対したのは琴平の人たちばかりではなく、門前町善通寺や、港町多度津も同じような雰囲気だったようです。新しい鉄道会社が周りの温かい支援を受けて生まれたとは言えません。  
最も過激な反対行動を示したのは人力車の車夫達でした
 この時代に発行された『こんぴら参り道中安全』という旅行ガイドブックには、丸亀・多度津港に上陸した参拝客が人力車を利用する際に、次のような警告文が載せられています。 
丸亀、多度津の港から琴平までの運賃は片道 15 銭、上下(往復のこと)25 銭である。そして雨の火とか夜中は 3 銭の割増しを必要とする。が、車夫のなかには、酒手・わらじ代・蝋燭代等を客に強要するくせの悪い者も相当いるから用心すべし。万一、こうした不心得者にあった場合は宿屋に申し出るように・
 急速に人力車が普及し、金比羅詣でに利用する人たちが増えていることが分かります。鉄道開通一年後の明治 23 年の高松市の記録によると、高松市内だけで
「人力車営業人 420 名、車夫 603 名、車両台数 641 台」

とあります。香川県全体では何千台もの人力車があったようです。こんな中で、鉄道会社の計画が聞こえてきたのですから、車夫や馬方連中が「メシの喰い上げだ!」とさわぎだしすのも分かるような気がします。
イメージ 8
旧琴平駅前風景 日露戦争の戦勝報告の金比羅参りの将軍を待つ車夫達

 地元多度津では、「汽車が走ると飯の喰い上げだ」と、景山宅へ押し掛け「焼き払ってやる」と意気巻く一幕もありました。「景山コレラで死ねばよい・・」というような歌も流行ったようです。

景山甚右衛門4
 後世に書かれた評伝の中には、工事現場の陣頭指揮にあたった景山甚右衛門が、常に用心棒を連れ、腰に銃剣を釣るして、巻脚絆に地下足袋姿で臨んだと伝えるもののあります。しかし、これも俗説のようです。当時の甚右衛門の足取りを記録で見ると、彼は名東県の県議として松山に長期滞在しています。当時の地元での不穏な空気を察して、工事中には多度津に帰っていないことが分かります。どちらにしても景山甚右衛門は、鉄道開通後に人力車夫や馬方を路線工夫に採用するという案も出して問題の解決を図っています。このあたりも実務的な手腕がうかがえます。
開業に向けての重要な柱の一つは線路・駅舎等の用地買収です。
 認可を受けて2ヶ月後の明治21年4月10日に琴平村下川原で起工式が行われています。そして、突貫工事で翌年の3 月8日には多度津~琴平間を、14 日には多度津~丸亀間の工事を完成させます。わずか1年間という短期間で工事を完成させることができたのは、用地買収がスムーズに進んだことが挙げられます。それはなぜでしょうか?
 それは、琴平から多度津の線路用地が「旧四条川」の川原で、田畑でなかったためだと丸亀市史は云います。土讃線と四国新道(現国道319号)は、江戸時代初期に人工河川の金倉川へ付け替えた旧四条川の旧道跡で耕作に適さないところを買収している。この時代まで田畑となっていなかったために用地買収がスムーズに進んだというのです。
もう一つの準備は、機関車や客車の購入です。
 さて讃岐鉄道の機関車は、どこからやってきたのでしょうか。
もちろんこの時代には、国産機関車はありません。先進国から輸入するしかないのです。讃岐鐡道の蒸気機関車はドイツ製です。会社は、開業日を明治 22年(1889 年)の4月1日と決めます。そしてB 型タンク機関車3両、車31両、貨車12両をドイツ帝国のホーヘンツォレルン社(Hohenzollern)に発注します。
 ところが、機関車や客車・貨車を乗せたドイツからの船便がなかなか多度津の港に姿を見せません。 会社の幹部達は、海の彼方から機関車等を積んだ船が現れるのを、今日か明日かと待ちわびます。ようやく、船が到着したのが3月15日。当初の開業予定日には間に合いません。
 それから箱詰めの機関車や客車、部品の積み下ろし作業が始まり、器械場で組み立て作業に移ります。昼夜兼行の作業で、4月末には組立工事が完了し、5月始めから全線で連日試運転が繰り返されました。結局、開業日は5月23日とされ、約2ケ月遅れとなりました。
当日の23日には、四国初めての汽車が、多度津駅をあとに琴平駅へ向かって黒煙を吹きあげ勇ましく動き出したのです。 
ちなみに、この時に発注した「B 型タンク機関車」というのは?
イメージ 2
1889年開通時の讃岐鐡道琴平駅 神明町にあった

動輪が2 つの小さなタンク機関車で、当時のヨーロッパ諸国では駅構内の客車や貨車の入れ換え専用に使われていたものでした。「機関車トーマス」よりも小さくて可愛い機関車だったのです。
 讃岐鉄道は8年後の明治30年(1897年)、路線の高松までの延長に伴い、新たな機関車の導入が必要になります。このときも開業時と同じ機関車を10両発注しようとして、ドイツのホーエンツォレルン社に問い合わせています。同社では重役達が

「入れ換え専用の機関車を一度に 10両も発注する“讃岐鐡道”は大会社に違いない。ついでに本線用の大型機関車も購入して頂きたい。」

と、数名の技師とともに営業担当者も派遣してきました。
 ところが・・??  
多度津港へ上陸してみると、ドイツ人の技師達は我が目を疑って立ち尽くします。街も小さければ、鉄道も小さく、入れ換え用の小さな機関車が本線で列車を引っ張って走っているではありませんか・・。 もちろん、大型機関車の契約は一両も取れなかったことは云うまでもありません。それが19世紀末の日本という国の姿だったのです。
機関車メーカのホーエンツォレルン社は北ドイツのデュッセルドル(Düsseldorf)にある会社。デュッセルドルフは、ライン河に面する美しい街だそうです。

イメージ 7
 導入したホーエンツォレルン社の「入換専用」の機関車
 開通式典での大久保諶之丞の祝辞は? 
 明治22年(1889)五月二十三日、讃岐鉄道は晴れて開業の運びとなりました。開業の式典は多度津・丸亀・琴平の三か所、祝賀式典は琴平の虎屋旅館で行われました。多度津駅構内での式典に参列したのが発起人の一人、大久保諶之丞です。彼は次のように祝辞をのべ、最後に「瀬戸大橋架橋構想」を披露します。(意訳)
「今後は、この讃岐鉄道を高松に向けて延長させ、阿讃国境の山を貫いて吉野川の沿岸に線路を敷きき、徳島・高知に至る。
もう一方は、ここから西へ向かい伊予の山川を貫き、土佐の西部を巡り、高知にたどり着く。そうして四国一巡できるようになれば、人も貨物も増加し運送便も増えることは必定である。この時には、塩飽諸島を橋台そして山陽鉄道に架橋連結して、風波の心配なく(中略)
まさに南来北行東奔西走、瞬時を費せず、国利民福これより大きな事はない。(後略)」
と「大風呂敷」を広げるのです。それは人々の夢として語られ続けます。
イメージ 9
当時は愛媛県の県会議員だった大久保諶之丞 この後、四国新道開通に尽力

開通式当日の人々の熱狂ぶりは・・・ 

 開通式典は、琴平の虎屋旅館で開催されましたが参列者には無賃の乗車券が案内状に同封されました。煙火(花火)50 発が初夏の空に打ち上げられ、沿線には見物客が詰めかけます。処女列車には、多度津小学校の児童20人が招かれました。陸蒸気への乗り方がわからず、下駄を脱いだり、窓から入ったりと大騒ぎだったといいます。

イメージ 10
白銀の讃岐路の鉄路を客車を押して進む豆機関車 遠くに讃岐富士

  ハイカラの英国式帽子に洋服姿の車掌が笛を吹くと黒煙を吹きあげて陸蒸気は小さいマッチ箱の客車や貨車を引っ張り動き始めます。
満載の試乗客を喜ばせ、見守る人たちは目をみはりました。

汽車に乗れない人々も「今日は仕事休んで陸蒸気見にいかんか。」と朝から晩まで、遠方から弁当持参で汽車場(駅)や沿線へ見物人が殺到して、待合所を見たり、路線や駅員の動作までじーっと見つめます。汽車が着きかけると、ワァッと駅へ押し寄せて来て乗り降りする人を不思議そうに見ます。子供は沿線を駆け競べ、道通る人は立ち止まり、家の中から飛び出し、遠くの者は仕事をやめて駆け寄ります。だれもが初めて見る陸蒸気に見入るばかりでした。まさに、目に見える形で明治(近代文化)が四国にやってきたのです。大きなカルチャーショックだったでしょう。 
イメージ 5
多度津駅構内の小さな機関車とマッチ箱の客車

  開業当時の讃岐鉄道は、

社長の三城弥七(明治 24 年 3 月まで在職)以下77名の人員で、車両は例のドイツ製の可愛い機関車3両、客車31両、貨車11両でスタートします。客車は「マッチ箱」と呼ばれた定員20人の小さなもので、四両編成の客貨混合列車で運転されました。
 停車場は丸亀・多度津・吉田(同年六月十五日から「善通寺」と改称)と琴平の四か所で、丸亀から琴平行きが「上り」、反対に琴平から多度津・丸亀行きは「下り」で、現在とは逆でした。金刀比羅宮への参拝が「上り」なのです。ここにも「讃岐鉄道」が「参宮鉄道」であったこと示しています。
イメージ 6
明治40年の絵はがき 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)

明治の多度津地図

本社は桜川の横、現在の多度津町民会館(サクラート多度津)の場所にありました。かつての陣屋跡になります。
イメージ 1
開業当時の多度津駅
桜川に向かって西向きの二階建てで、一階が多度津駅、二階が本社でした。

花びし2
料亭「花びし」の背後に描かれた多度津駅
花びしの絵図には、桜川を隔てて初代の多度津駅が描かれています。
これを見ると初代の多度津駅は船を降りた人がすぐに鉄道に乗り換えられるよう、港の目の前に建設されていたことが分かります。

旧土讃線跡
旧土讃線
 ホームは、行き止まり構造の頭端式で、丸亀行きと琴平行きの二つの線路が並走して東に伸びて、旧水産高校のあたりで二つに分かれていました。丸亀行きの線路はそこからほぼ一直線に走り、堀江4丁目付近で現在線と合流します。一方、琴平方面への線路は大きく南へカーブし、予讃線や県道を横切って多度津自動車学校の方へ伸びていきます。 初代の多度津駅は、予讃線が西に伸ばす際に、現在地に移転します。
一方、初代の琴平駅も現在地ではありませんでした。神明町(今の琴平ロイヤルホテル・琴参閣付近)にありました。当時の運行時刻表によると

時刻表(明治22年7月14日朝日新聞付録
琴平-善通寺は10分、
善通寺-多度津は15分、
多度津-丸亀10分、
これに待合時間などを加えて上りが片道48分、下りが50分で、一日8往復に運行ダイヤでした。
運行運賃は?
上等・中等・下等の三段階に区分されていました。
丸亀-琴平間は上等33銭、中等22銭、下等11銭、
そのころの白米1升の値段は3銭でした。

イメージ 4
高松延長後の駅長達
 
讃岐鉄道は、開業から8年後の明治三十年(一八九七)二月二十一日に丸亀-高松間を延長開業します。
それまでの路線では、平坦な地形ばかりで何ら問題なく頑張っていたのですが、宇多津駅と坂出駅の中間の田尾坂という峠の切り通しが難所でした。満員の乗客を乗せて走るとには、よく動かなくなったようです。原因は、故障ではなく馬力不足です。そんなときには車掌は、こう言ってふれて回ったそうです。
上等のお客さまはそのままご乗車を。
中等のお客様は降りてお歩きを。
下等のお客様は降りて車の後を押して下さい。

約130年前の日本の姿です。こんな姿を経ながら現在の日本があります。
イメージ 3
明治29年 高松延長に伴う土器川鉄橋工事現場 背後は寺町?

琴平以南に電灯がついたのは百年前、誰が電気を供給したのか?

今から百年ほど前、第1次世界大戦は日本社会に「戦争景気」をもたらしました。工場ではモーターが動力として導入され、工場電化率は急速に高まります。そして家庭の電灯使用率も好景気を追風に伸びます。この追風を受けて、電力会社は電源の開発と送電網の拡大を積極的に進めます。その結果、電気事業はますます膨大な資本を必要とするようになります。第一次大戦前の大正6年頃までは産業投資額は、鉄道業・銀行業・電気事業の順でしたが,大戦後の大正14年には銀行業を追い抜いてトップに躍り出て、花形産業へ成長していきます。

 増田穣三に代わって景山甚右衛門が率いる四国水力電気は、

積極的な電源開発を進めます。吉野川沿いに水力発電所を建設しするだけでなく、徳島の他社の発電所を吸収合併し、高圧鉄塔網を建設し讃岐へと引いてくることに成功します。その結果、供給に必要な電力量を越える発電能力を持つようになります。余剰電力を背景に高松市などでは、料金値引合戦を展開して競合する高松電灯と激しく市場争いを演じるます。

しかし、目を農村部に向けると様相は変わっていました。

 四水は琴平より南への電柱の架設工事は行わなかったのです。
なぜでしょうか?
それは、設立時に認められていた営業エリアの関係です。
四水の前身である讃岐電灯が認可された営業エリアは、鉄道の沿線沿いで、東は高松、南は琴平まででした。そのため四水は、琴平より南での営業は行えなかったのです。そこで、四水から余剰電力を買い入れ、四水の営業認可外のエリアで電力事業を行おうとする人たちが郡部に現れます。四水も「余剰電力の活用」に困っていましたので、新設される郡部の電力会社に電力を売電供給する道を選びました。こうして、県下には中小の電気事業者が数多く生まれます。この時期に設立された電力会社を営業開始順に表にしてみると、次のようになります。
高松電気軌道 明治45年4月  高松市の一部、三木町の一部
東讃電気軌道 大正 元年9月 
大川電灯   大正 5年3月  大川郡の大内町・津田町・志度町・大川町
岡田電灯   大正 9年    飯山町・琴南町・綾上町
西讃電気   大正11年    多度津町と善通寺市の一部
飯野電灯   大正11年    丸亀市の南部
讃岐電気   大正12年    塩江町
塩入水力電気 大正12年4月  仲南町・財田町の一部
 この内、西讃電気、東讃電気軌道、高松電気軌道は自社の火力発電所をもっていましたがその他の電気事業者は発電所を持たない四国水力電気からの「買電」による営業でした。

 このような動きを当時県会議員を務めていた増田一良は、当然知っていたはずです。電灯の灯っていない琴平以南の十郷・七箇村と財田村に、電気を引くという彼の事業熱が沸いてきたはずです。相談するのは、従兄弟の増田穣三。穣三は当時は代議士を引退し、高松で生活しながらも、春日の家に時折は帰り「華道家元」として門下生達の指導を行っていたはずです。そんな穣三を兄のように慕う一良は、隣の分家に穣三の姿を見つけるとよく訪問しました。ふたりで浄瑠璃や尺八などを楽しむ一方、一良は穣三にいろいろなことを相談した。
 その中に、電気会社創業の話もでてきたはずです。穣三は、かつて四水の前身である讃岐電灯の社長も務め、景山甚右衛門とも旧知の関係でした。話は、とんとん拍子に進んだのではないでしょうか。

  仲南町誌には、この当たりの事情を次のように紹介しています。
大正10年 増田穣三、増田一良たち26名が発起人となり、大阪の電気工業社長藤川清三の協力を得て、塩入水力電気株式会社を設立。当初釜ケ渕に水力発電所を設設する予定で測量にかかった。しかし資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換した。買田に事務所兼受電所を設置。七箇村、十郷村、財田村、河内村を配電区域として工事を進めた。
「資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換」と書かれていますが、すでに四水からの「受電」方式を採用した電気会社がいくつか先行して営業を行っていました。「自前での水力発電所の建設を検討した」というのは、どうも疑問が残ります。
 また、「水力発電所」建設にかかる巨額費用を穣三は、「前讃岐電灯社長」としての経験から熟知していたはずです。当初から「受電」方式でいく事になっていたのではないでしょうか。にもかかわらず社名をあえて、「塩入水力電気株式会社」と名付けているところが「穣三・一良」のコンビらしいところです。

 1923(大正12)4月 七箇・十郷村にはじめて電燈が灯ります。

 設立された塩入水力電気株式会社は、資本金10万円で多度津に本店を置き、四国水力電気より電気を買い入れ、買田に配電所を設けて供給しました。家庭用の夜間電灯用として営業は夜だけです。営業エリアは、当初は七箇・十郷・財田・河内の4ケ村で、総電灯数は約1000燈(大正12年4月24日 香川新報)でした。
 旧仲南町の買田、宮田、追上、大口、後山、帆山、福良見、小池、春日の街道沿いに建てられた幹線電柱沿いの家庭のみへ通電でした。そして財田方面へ電線が架設され、四国新道沿いに財田を経て旧山本町河内まで、伸びていきます。供給ラインを示すと
 買田配電所 → 樅の木峠 → 黒川 → 戸川(ここまでは五㎜銅線)→ 雄子尾 → 久保ノ下 → 宮坂 → 本篠口 → 長野口 → 泉平 → 入樋 → 裏谷 → 河内(六㎜鉄線)へと本線が延びていました。 
これ以外の区域や幹線からの引き込み線が必要な家庭は、第2次追加工事で通電が開始されました。
そして、同年10月には1500灯に増加し、翌年(大正13年)3月末には、約2000燈とその契約数を順調に伸ばしていきます。
  春日の穣三の家は、里道改修で車馬が通行可能になった塩入街道沿いにあり、日本酒「春日正宗」醸造元でもありました。この店舗にも電線が引き込まれ、通電の夜には灯りが点ったことでしょう。電気会社の筆頭株主は増田一良であり、社長も務めました。穣三は点灯式を、どこで迎えたのでしょうか。華やかな通電式典に「前代議士」として出席していたのか、それとも春日の自宅で、電灯が点るのを待ったのでしょうか。
 かつて、助役時代に中讃地区へ電灯を点らせるために電力会社を設立し、有力者に株式購入を求めたこと、社長として営業開始に持ち込んだが利益が上がらず無配当状態が続いたこと、その会社が今では優良企業に成長していること等、穣三の胸にはいろいろな思いが浮かんできたことでしょう。
 あのときの苦労は無駄ではなかった、形はかわれどもこのような形で故郷に電気を灯すことになったと思ったかもしれません 

家庭に灯った電灯は、どんなものだったのでしょうか?

仲南町誌は次のように伝えます。 
ほとんどの家が電球1個(1ヵ月料金80銭)の契約だった。2燈以上の電燈を契約していたのは、学校、役場、駅などの公共建物や大きい商店、工場と、ごく一部の大邸宅だけであった。
 また、点燈時間は日没時から日の出までの夜間のみであった。一個の電燈で照明の需要をみたすために、コードを長くしてあちらこちらへ電球を引張り廻ったものである。婚礼や法事などで特に必要なとぎには、電気会社へ要請して、臨時燈をつけてもらった。二股ソケットで電灯を余分につけたり、10燭光契約で大きい電球をつけるなどの盗電をする者もたまにあったようで、盗電摘発のために年に何回か、不定期に不意うちの盗電検査が夜間突如として襲いきたものであった。
「盗電検査」があったというのがおもしろいです。

 ちなみに1925(大正14)年10月ごろに塩入電気が、四水から受電していた電力は60㌗アワーでした。最初は、電気は単に照明用として夜間だけ利用されていましたが、終戦後に使用の簡便なモーターが普及するようになります。財田缶詰会社などの要請で電気が昼夜とも配電されるようになったのは、戦後の1946(昭和21)年5月でした。この時同時に、塩入地区へも電気が導入されたようです。

このページのトップヘ