瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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  大久保諶之丞が22歳(明治三年)の時に、幕末に決壊してそのまま放置されていた満濃池が約20年ぶりに再築されます。この大工事に大久保諶之丞は参加しています。そこで見たものは、長谷川佐太郎指揮下に行われる大土木工事であり、最新の土木技術でした。若き日の大久保諶之丞にとって、この時に見聞きしたことは強く印象に残ったようです。

 諶之丞が生まれた財田上ノ村戸川は、三豊市財田町の道の駅周辺になります。現在は、ここを国道32号線と土讃線が並んで通過し、戸川の南で讃岐山脈をトンネルで抜けています。これだけ見ると、戸川は「阿波街道の要衝」だったする文献がありますが、史料を確認するとそうとも云えないようです。
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阿波国絵図
例えば、1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図を見てみると、箸蔵街道も阿波街道も描かれていません。描かれているのは次の2ルートです。
⑥阿波昼間から尾野瀬山を経てのまんのう町春日への差土山ルート
⑦昼間から石仏越のまんのう町山脇への石仏越ルート
阿讃国境地形図 1700 昼間拠点

近世初頭の阿波側の拠点は昼間で、そこから讃岐側に伸びているのは春日と山脇です。
阿讃国境 山脇と戸川 天保国絵図
天保国絵図 石仏越のルートが財田上ノ村とつながっている

これが変化するのは、箸蔵寺が勃興して後のことです。箸蔵寺は修験者たちの活動で「金毘羅山の奥の院」と称して、近世後半以後に急速に教勢を伸ばしていきます。そして、先達たちが讃岐でも活発な活動を行い、箸蔵への誘引のために丁石や道しるべを建立すると同時に、参拝道の整備を行います。同時に街道を旅する人たちに無償の宿の提供なども行うなどのサービス提供を行います。この結果、参拝客の増大とともに参拝道の整備が進み、差土山ルートや石仏越ルートを凌駕するようになっていきます。そして箸蔵街道はそれまでの石仏越ルートに取って代わって、西讃地域における交通量NO1の街道に成長して行くようになります。
 もともとの箸蔵街道はまんのう町山脇から荒戸へ出て、太鼓木から石仏山に登り、二軒茶屋から箸蔵寺へ通じる道です。財田上ノ村は、石仏山への支線ルートを開き戸川をもうひとつの讃岐側の入口とします。こうして戸川は、それまでの水車の村から物流の人馬や、箸蔵寺への参詣者が往来し、阿波との交流が盛んな土地へと成長して行きます。
 それに拍車を掛けたのが明治維新です。江戸時代の阿波は原則は鎖国政策をとり、公的には讃岐との自由な商業活動は認めてはいませんでした。しかし、番所もなかったので往来は自由だったようです。明治維新になって、自由な往来が認められるようになると、阿讃山脈を越えての人とモノの移動が急速に増えます。大久保家資料の中にも、財田上ノ村と阿州間での綿代金支払いを巡る係争に関する文書や、明治三年の阿波から讃岐への煙草運送に係る運上金免除を求める嘆願書などが残されています。ここからは、明治になって急速に戸川が成長して行く様子が見えてきます。同時にその成長が、阿波との関係の深まりの中で遂げらたこともうかがえます。大久保諶之丞が19歳で明治維新を向かえた頃の上ノ村の様子とは、こんなものだったと私は考えています。若い彼にとって、地域発展(勧業)の鍵は、阿波との関係強化にある、そのためには近代的な道路整備が必要であるという認識が早くからあったとしておきましょう。
 諶之丞は、財田上ノ村周辺で、多数の道路修繕や新たな道路開設工事を、自力で行うようになります。つまり、四国新道建設以前に、彼の道路建設は始まっていたのです。諶之丞が明治18年に提出した「財田上ノ村道路開築井二修繕」には、彼が手掛けた7件の道路工事を次のように挙げています。
大久保諶之丞の開通させた道路

   「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」から

その経緯について「大久保諶之丞君(土木之部)」(24)には、次のように記されています。
明治八、九年ノ頃、高田倉松ナル人(仲多度郡四ヶ村)ノ人卜親交アリ、時々去来ノ際、同村ノ隣地仲多度郡十郷村字山脇ヨリ本郡財田上ノ村太古木嶺ヲ経テ徳島県三好郡箸蔵寺二至ル賽道ヲ開修スルノ計二及ヒ、遂二同氏及高田氏卜率先シテ主唱者トナリ、費用ノ大半ハ氏ガ私財ヲ以テ之レニ投ジ、余ハ賽者及有志者ノ義捐二訴へ、明治十四年ノ頃二成功ヲ看ルニ至リシナリ、然レドモコノ道路タルヤ、名ハ箸蔵寺参拝者ノ便二供セシニ過キスト雖、更二支道ヲ本村二開キ、従来ノ胞庖力式ノ難路ヲ削平、勾配ヲ附シ、稽人馬交通ノ用二資セシナリ、故二阿讃両国商買ノ歓喜ヤ知ルベキナリ、之レ氏ガ道路開鑿二於ケル趣味卜効見卜併セテ感受セシモノナラン、故ニ後年氏ガ四国新道ノ企ヲ為ス、 一二爰に胚胎セルモノナルヲ見ルニ足ラン乎、

意訳変換しておくと
明治八、九年頃、大久保諶之丞は高田倉松(仲多度郡四ヶ村)と親交ができて、行き来する間柄となった。二人は協議して、仲多度郡十郷村字山脇から財田上ノ村太古木嶺を経て、徳島県三好郡箸蔵寺に至る山道を開修することになった。大久保諶之丞と高田氏は、率先して主唱者となり、費用の大半は大久保諶之氏が私財をなげうってまかない、足らずは寄進や有志者の寄付を充てた。こうして、明治14年頃に、完成にこぎ着けた。これまでの箸蔵街道は箸蔵寺参拝者の参拝道に過ぎなかったが、支道を本村に開き、従来の難路削平し、勾配を緩やかにして、人馬が通れる街道とした。これによって阿讃両国の交流は円滑になり、商人の悦びは大きかった。このことからは、大久保諶之丞氏の「趣味」が道路開鑿であったことが知れる。ここに後年の四国新道に向かう胚胎が見える。

  ここに述べられているのは、諶之丞と高田倉松が協力して開いた箸蔵参詣道のことのようです。
大久保家資料には、この新開道を描いたと思われる「箸蔵さんけい山越新開道路略図」という木版刷の絵図が残されています。
大久保誰之丞 箸蔵さんけい山越新開道路略図
「箸蔵さんけい山越新開道路略図」

旧箸蔵街道が尾根沿いに曲がりくねって描かれているのに対して、新たに開かれた新開道が太く直線的に描かれています。尾根上ではなく山腹を直線的に水平に開いたことがうかがえます。

 高田倉松について詳しいことは分かりませんが、大久保家資料には高田倉松の書状が残されており、諶之丞の日記にも度々登場してきます。また、明治13年の「讃岐国三野豊田両郡地誌略全」の財田上ノ村の項にも、次のような記述があります。
財田上ノ村 郡中の東南隅にして海岸を隔つる三里余、東北西ノ三面は山岳囲続し特に南方は高山断続して阿波国三好郡東山西山ノ両村に交り四境皆山にして地勢平坦ならず。阿波山(阿波讃岐国境にあり、俗に称して阿波山と云う)北麓に南谷。猪ノ鼻両地あり、往事は山なりしが明治三年旧多度津藩知事京極高典始て開墾し、爾来日に盛なり、其麓に渓道と呼て一線の通路あり、険際にして僅に樵猟の往来するのみ、明治十年村人大久保諶之丞の労にヨり方今は馬車を通し商旅の便をなすに至る(26)

意訳変換しておくと
財田上ノ村は三野郡中の東南隅にあり、海岸線からは三里(12㎞)あまり隔たっている。東北西の三面は山に囲まれ、特に南方は讃岐山脈を隔てて阿波国三好郡東山西山ノ両村と村境を接する。四境すべて山で、平坦な土地はない。阿波讃岐国境の阿波山北麓に南谷・猪ノ鼻がある。かつては山中であったが明治三年旧多度津藩知事京極高典の時に開墾して、その麓に渓道と呼ぶ一線の踏み跡小道があるが、険しくて樵や猟師が往来に使うだけだった。それが明治十年に大久保諶之丞の労で、道が整備され、今は馬車が通るようになり、商旅の便に役立っている。

  ここには、諶之丞によって渓道の交通の便が改善されたことが特筆されています。
さらに「財田上ノ村道路開築井二修繕」には、「猪ノ鼻にも明治十六年ヨり道路を開築中」と記されています。
諶之丞の日記には、明治十四年十月三日「猪の鼻道荒見分」テ)、同十五年五月十八日「猪の鼻道路見分」(器)などの記述が見ます。ここからは、この頃には猪ノ鼻開鑿に着手しつつあったことうかがえます。後に、この猪ノ鼻を四国新道が通ることになります。逆の言い方をすると、以前から工事を進めていた猪ノ鼻ルートを、大久保諶之丞が四国新道計画に取り込んだとも云えます。
 以上のように、箸蔵道や渓道など、阿波への交通路を重視して、諶之丞が道路の修開築を行っていたことが確認できます。ここには「新道路開設が趣味」と書かれていますが、それだけで片付けることはできません。確かに讃岐山脈越えの峠道の整備は、大久保諶之丞の先見の明をしめすものといえそうです。それでは、これに類するような活動は他になかったのでしょうか。
 以前に土器川源流近くの阿讃峠・三頭越の金毘羅街道整備をを行った「道造り坊主=智典」を紹介しました。
 彼は生涯を金毘羅街道の整備に捧げていますが、見方を変えると「街道整備請負人のボス」という性格も見えてきました。例えば彼は明治三年段階で、「阿波の打越峠 + 多度津街道 + 三頭越」の3ケ所の大規模な工事現場を持っていました。彼は土木工事の棟梁でもあったのです。
  「勧進」を経済的視点から見ると次のように意訳できるようです。
勧進は教化と作善に名をかりた事業資金と教団の生活資金の獲得

 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。ここでは勧進聖人は、土木建築請負業の側面を持つことになります。
 勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業にも威力を発揮しました。それが、道昭や行基、万福法師と花影禅師(後述)、あるいは空海・空也などの社会事業の内実です。智典の金毘羅街道の整備にも、そのような気配が漂います。

  金毘羅街道整備の意義は?
金毘羅神は、文化文政期(1804~)の全国的な経済発展に支えられて、流行神的な金毘羅神へと成長していきます。全国各地からの参詣客が金毘羅に集り、豪華な献納物が境内に溢れ、長い参道の要所を飾るようになります。金山寺町の紅燈のゆらめき、金丸座の芝居興行と、繁栄を極めた金毘羅にも課題はありました。街道の未整備と荒廃という問題です。
嘉永6年(1853)の春、吉田松陰が金毘羅大権現にやって来ます。彼は多度津に上陸して金毘羅大権現に参拝し、その日のうちに多度津から船で帰っています。その日記帳の一節に次のように書き残しています。
「菜の花が咲きはこっていても往来の道は狭く、人々は一つ車(猫卓)を用いて荷物を運ばなければならなかった。」
 
幕末から明治にかけて、金刀比羅宮の課題は街道整備にあったようです。それをいち早く認識した山間部の地域リーダーたちは、阿波と道路整備を「地域起こしの起爆剤」と捉えたようです。財田上ノ村の大久保諶之丞の戦略も、これらの先進地の動きに学んだものであった云えそうです。
 もうひとつ気になるのは箸蔵寺の思惑と動きです。
箸蔵寺は「金毘羅山の奥の院」と称して、多くの山伏たちを擁し、讃岐にも先達として送り込んでいました。彼らは讃岐側に多くの山伏たちが定着し、布教活動とともに箸蔵寺への参拝道整備にも日常的に関わります。三豊の伊予街道を歩いていると、金毘羅標識と並んで箸蔵寺への標識となる燈籠や丁石が今でも数多く残っています。このように箸蔵街道は、信仰の道でもありました。諶之丞と協力して新たに箸蔵参詣道(水平道)を開いた高田倉松という人物も、箸蔵寺の山伏関係の有力者ではなかったのかと、私は想像しています。それを裏付ける史料はありません。
 以上をまとめておくと
①幕末から明治にかけて、阿讃山脈越の峠道の新たな整備が各地で行われるようになった。
②それは増える人とモノへの対応や、金毘羅参拝者の誘致など、地域振興策の一部として行われた。
③財田上ノ村若き指導者・大久保諶之丞も、そうした時代の動きに対応するように周辺街道の整備を行っていた。
④それが四国新道構想へとつながっていく。
四国新道構想は、何もないところから生まれたのではなく、それまでの地道な取組の上に提唱されたものあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「松村 祥志  四国新道構想具体化までの道のリ ~大久保諶之丞関係資料の調査報告   ミュージアム調査研究報告第11号(2020年3月)」
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久保谷の大師堂                                            
まんのう町を南北に貫く国道438号は、三頭トンネルが出来るまでは行き止まりの国道でした。今は長いトンネルを抜けるとわずかの時間で美馬・郡里へつながるようになりました。しかし、かつては讃岐山脈の険しい峠道を越えて行く姿が戦前までは見られたようです。今回は、まんのう町と美馬町をつないだ三頭越の峠道のお堂を見ていくことにします。
三頭越え 久保谷の大師堂

三頭トンネルの入口の手前が久保谷です。
土器川の支流に架かる橋が三頭越の入口になります。久保谷川はかつては郡境で、川の南は鵜足郡勝浦、北は阿野郡川東でした。この久保谷橋を渡った所に、二間四方の大師堂があります。その祭壇中央に阿弥陀如来を、右側に寄せ木造りの大師座像を、左側には、舎利仏と呼ばれている仏像が祀られています。舎利仏像の厨子には
「安政七(1860)年庚申二月吉日厨子一具 発起人 美馬郡猿坂長江善太」

と書かれています。安政の大獄のあった時期に、峠の向こうの美馬猿坂の住人によって寄進されたもののようです。祭壇の左偶には、数枚の祈祷札が立て掛けられてありますが、下の方から腐食が進んでいるようです。祈祷札の中に、
①「安政第五(1858)年、奉修不動明王護摩供養二日 二月占良日」、
②「慶応第二(1866)年 奉修不動明王護摩供養三日」
の二枚の祈祷札があります。
 その他にも
③明治四年と明治十四年の、「金毘羅宮奉二夜三日祈祷 講中安全守護所」
の祈祷札もあります。
①②は、ここで山伏たちが不動明王に護摩祈祷を行っていたことがうかがえます。③は、金毘羅大権現の大祭に、祈祷が行われていたことが分かります。①②③や舎利仏も幕末から明治にかけてのものなので、この時期に大師堂が創建されたのかもしれません。
DSC07393

 実は昔の大師堂は、今ある場所から50m久保谷へ入った所にあったようです。昔の大師堂の前には広場があって、毎年にぎやかに盆踊りが行われていたといいます。この旧大師堂は、昭和13(1938)年の洪水で流されてしまいました。そのため講中の人たちの手によって、新しい敷地を求めて建てられたのが現在の大師堂だそうです。
むかし栄えた久保谷の金毘羅堂
 そして、橋の手前に金毘羅堂はあったようです。その金比羅堂の正面には金毘羅さんを祀り、右に舎利仏像、左に善光寺石仏が安置され、踏込みの土間に沿って、広い縁があり、板張りの座の中央のいろりには大きな茶釜がかけられていました。土地の人はそれを「金の錐子」と呼んでいたそうです。
DSC07392大師堂より
大師堂から景色

 旧金比羅堂は、三頭峠から足下の悪い沢沿いの谷道を下って来た人や、これから峠道を登ろうとする人々にとって格好の休み場でした。接待された茶を飲みながら旅の話に花を咲かせ、阿讃の情報交換場となっていたようです。久保谷の土地が阿讃を往来する人々の旅宿となり、休憩所となり、情報交換の場となり、お互いに金毘羅信仰を温めあう聖地であったことを、物語ってもいます。琴平以南で最も活気のある金毘羅堂としてにぎわっていたようです。そしてまた、金毘羅信仰の一つの拠点として色々な行事が行われていたのです。それが先ほど見た明治の金毘羅宮の祈祷札や、幕末の不動明王護摩供養札からもうかがえます。幕末から大正ごろまで、この地では金毘羅信仰が盛んで、関連イヴェントが行われていたことを教えてくれます。
 しかし、昭和に入ると鉄道網の整備が進むにつれて金毘羅詣客が、この街道を利用することが少なくなり、これらの行事も次第に行われなくなったようです。金毘羅堂も老朽化がひどく、戦後の昭和21(1946)年頃には取り払われたようです。中にあった仏や御札は、再建された大師堂や境内に移されました。
  現在の太子堂境内には、いろいろな石仏や祈念碑が並んでいます
向って右の山際に、堂から順に、手洗鉢・舟型石仏三体と金毘羅祠が祀られています。

DSC07389久保谷金比羅堂

手洗鉢は正面に31㎝の○金が刻まれていて、もともとは金毘羅堂にあったものだそうです。石仏三体(地図図79)は、一番奥が、一光三尊形式で信濃善光寺と刻銘された慶応三年(1867)のもので、やはり旧金毘羅堂にあったものです。
DSC07390善光寺

この石仏については
「光背に厚く彫り出された化仏も立体的で美しく、地方作とは思えない秀作」
と評価されているようです。
   その右側に、西国三十三番観音霊場一番札所那智寺の石仏があります。
DSC073913つの石仏

この久保谷から、三頭越を越えて阿波の三頭神社まで、ミニ西国三十三観音霊場の石仏が丁石を兼ねて街道沿いに置かれていました。ただ制作年号が分かるのはこの像だけのようです。久保谷から数えて、三頭越の峠までを16丁で16番目になります。33丁目の三頭神社では峠すぎの17番から33番までの石仏が迎えてくれていたようです。
三頭越え 標識

当時は、三頭越ルートの道が改修されていた頃になります。改修の成功を願い、道中の安全を祈って、阿波の人たちが寄進したものと研究者は考えているようです。
   境内の一番手前は、二十四輩の二十四番の石仏です。
これも三十三観音の1番と一緒に、もともとは橋の向こう側の旧金毘羅堂付近にあったようです。
どうして、西国巡礼1番と関東巡礼24番の石仏が並んでいるのでしょうか?
①関東二十四輩の石仏達は、落合から久保谷までの路に、一丁毎に建てられていた
②西国三十三番観音霊場の石仏は、久保谷から阿波の三頭神社までに一丁毎に建てられていた
つまり、久保谷の旧金比羅堂が、関東二十四輩の最後の札所であり、西国の最初の札所でもあったようです。金比羅堂が関東霊場と西国霊場の「ジャンクション」だったのです。久保谷までは二十四輩に、久保谷からは西国三十三観音に、旅人は守られていたということでしょうか。
三頭越え 丁石

  ちなみに、いまは久保谷から三頭越までは四国の道として整備されていて、道標や案内板も設置されています。ゆっくり歩いても2時間足らずで峠にたどり着くことができます。

 久保谷までの二十四輩で残っているのは21体で、もとの位置にあると思われるのは20・22・23・そして久保谷の金毘羅堂跡の4つです。これを丁石と考えて、旧道に配列すると、川東の林付近がスタート地点で一番札所があったことになるようです。林からは、険しい谷あるいは山道を久保谷まで街道は進んできます。行方不明になったり、動いている石仏(丁石)は、旧道が消えてしまった部分に当たるようです。

三頭越 丁石配置
現在残っている丁石

  しかし、西国ミニ巡礼は分かりますが、なぜ関東二十四輩の石仏達が設置されたのでしょうか?
それは、この三頭越の峠道を整備した僧侶の出自と関わっているようです。
DSC07386道路修繕碑

石仏に並んで、ここには自然石の一面を削って碑文を刻んだ高さ約1,5mの石碑が2つあります。ひとつが三頭越の道路建設碑で、幅0,6m・厚さ0,4mで、碑文は片かな交りの漢丈調のものです。碑文からは読み取れませんが、琴南町史には次のような碑文が載せられています。
意訳すると、次の通りです
「当山、此ノ川ノ中央ヲ以テ阿野鵜足郡境トシ、勝浦・川東両村二接シ、往昔ヨリ谷間・三頭山ヲ越エテ通行スルノ往還、岩石間関タルノ小路ニシテ、旅人苦慮ス。牛馬鉄映(正シク行クコトガデキヌ)ノ実況ナレバ、局外ヨリ之ヲ観下スルニタヘズ。東西二奔走シ、精神フ凝ラシ、十方ノ喜捨フ以テ、国境ヨリ明神落合マデ六十町ヲ鉾削(人カデ切り開ク)セラレタリ。元治元年ヨり三星霜ヲ経テ、慶応三年仲秋営業ス
十方寄附 発起人 
大麻村茶堂    智典
勝浦村   角原 歌次
琴平町   浜野 和平
勝浦村政所 佐野十次郎
川東村   黒川 勇古
勝浦村   牛円藤之進
川東村   西岡 滝蔵
同      高尾 棟松
ここからは次のようなことが分かります
①久保谷の前を流れる土器川支流が阿野郡と鵜足郡の郡境で、勝浦・川東両村の村境でもあった。
②三頭越の往還道は、岩場の悪路で旅人が苦労していた
③そこで、国境から明神落合までの60町を切り開く工事を元治元(1864)年から3年がかりで進めて慶応三(1867)年の仲秋に完成させた。
この工事の中心人物が発起人の一番上に名前がある「大麻村茶堂   智典」と「勝浦村  角原歌次」だったようです。
DSC07385智典碑

この碑に並んで建つのが智典法師の供養塔です
この日は建設碑と同じ型の自然石の上部に、サ(聖観音)の種字を刻み、明治12卯(1879)年 旧6月19日、行年82才と刻まれています。中央に約30㎝の方形のレリーフがあり、杯を手にした人と、鶴はしを手にした人が、ともに休息する姿が見えます。苔むして表情はよく分かりませんが、その精気が全身に充ち充ちているようにも思えてきます。
 地元の人の間では、智典法師と、その最大の協力者角原歌次の二人の姿を刻んだものであると伝えられているようです。碑の下段には、世話人の氏名が次のように刻まれています。地域の集落を代表する人たちで、智典と行を共にした人々なのでしょう。
世話人 角原歌次
ヲキノ 黒川八郎平
ヨコバタ(横畑) 西岡久松
カワノオク(川奥) 杉原好尺郎
カワノオク(川奥) 高尾初衛
カワノオク(川奥) 西尾金助
ナカグマ(中熊) 佐野弘造
ナカグマ(中熊) 西岡小太郎
笠井喜二郎
ハヤシ(林) 岡坂七平
メウジン(明神) 三宅鳥造

ここからは、街道整備後の明治12年に「大麻村茶堂    智典」が82歳で亡くなったこと。それを悼んで建設費と供養碑が同時に久保谷の金比羅堂周辺に建てられたことがうかがえます。
  以上を総合すると、幕末から明治にかけての三頭越の街道は整備が進み、それに併せるように街道沿いにはミニ巡礼の石仏が丁石を兼ねて安置されていきます。同時に拠点となる久保谷には新たに金比羅堂が建立され、舎利仏や石仏などが安置されたようです。今までにない街道とお堂に、明治と共に変身していった様子がうかがえます。
DSC07383久保谷 智典

 このようなきっかけを作ったのが「道造り坊主」と呼ばれた智典だったようです。
  私は琴南町史を読んで、ここまでの情報で智典を、菊池寛作小説「恩讐の彼方に」の了海のよう人物と勝手にイメージしていました。 耶馬渓の青の洞円をうがった良海のように、この金比羅・三頭街道の難所を開くために
「破れた衣を身にまとい、唐鍬を振って黙々として一心不乱に道路を修繕する名も知らぬ僧」

といった「道造り坊主」像です。ところが、どうもそうではないことが、近年発見された史料から分かるようになりました。彼は、街道整備の請負人でその組織の棟梁であったらしいのです。その話は次回に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町史
          峠の道調査報告書 三頭峠 香川県教育委員会

                                  

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