瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:智泉

空海火葬説
            空海=火葬説
前回は史料からは、空海やその師の恵果が火葬されていることが読み取れることを見てきました。今回は空海が、どこに埋葬されたかについて見ていくことにします。

   空海には今なお生き続けているという入定留身信仰があります。
入定とは禅定(瞑想)に入ることで、空海は入滅(逝去)したのではなく入定しているというのが真言教団の立場です。例えば、次のようなエピソードが語られてきました。

 内閣総理大臣を務めた近衛文麿が、空海の廟所である高野山奥之院に参拝した時のこと。近代真言宗の高僧と呼ばれた金山穆韶師に案内され、「空海は永久に入定したまま、今もなお衆生済度のために尽力している」との説明を受けたのですが、近衛は一笑に付しました。その夕べ、金山師が近衛を訪ね、さらに入定の由縁をじゅんじゅんと説いたところ、近衛は従者にこう話したそうです。「ともかくよくわからないが、老師の努力と信念には感心した」。(「沙門空海」 渡辺照宏・宮坂宥勝著)

これが宗門および大師信者の弘法大師に対する信仰を代弁したものと云えそうです。
  そのため戦前の歴史学者・喜旧貞吉の「空海=火葬説」に対して、真言宗内から多くの反論が出されました。以後、これに正面から答えようという動きはなくタブーとされていた観があります。それが21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える書物が出されます。それが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」です。これをテキストにして、今回は空海がどこに埋葬されたのかを見ていくことにします。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院
一遍絵図の高野山奥の院
空海の廟所については、一般的に次のように云われています。
弘法大師御廟は奥之院の最も奥に位置する三間四面、檜皮葺、宝形造の建物で、一般には御廟と呼ばれている。御手印縁起付載絵図には「奥院入定廟所」と記され、廟堂(宇治関白高野山御参詣記)、高野廟堂(白河上皇高野御幸記)、高野霊廟(鳥羽上皇高野御幸記)とも記される。
空海は承和元年(834年)9月に自ら廟所を定めたといわれ、翌年3月21日寅の刻に没した。七七日(四十九日)を経て、弟子(実恵、眞雅、真如親王、眞濟、眞紹、眞然)によって定窟に奉安され、その上に五輪卒塔婆を建てて種々の梵本陀羅尼を入れ、その上に宝塔を建てて仏舎利を安置した。廟の造営にはもっぱら眞然大徳が当たった。

弘法大師空海-生涯と奥の院の秘密 | やすらか庵
                弘法大師御廟
それでは「奥の院」の廟所の存在が確認できるのは、いつからなのでしょうか。 
言い換えると、いつまで奥の院は遡ることができるかを見ておきましょう。確認できる確実な史料として、研究者が挙げるのが天永4年(1113)5月3日の日付をもつ比丘尼法薬の埋経です。この埋経は1964年の秋・開創1150年の年に、御廟周辺整備の時に出土したものです。そにには次のような語句が出てきます。
斯の経巻をもって高野の霊窟に埋め、云々
② 弥勒慈尊出性の時を期せんが為に、殊に弘法大師入定の地を占す、まくのみ。
③ 仰ぎ願わくは、慈尊兼ねて斯の願を憐憫し、伏して請うらくは、大師常に斯の経を護持し、必ず其れ三会の座席に接せんことを。
ここには「高野の霊窟」「弥勒慈惇出世の時」「弘法大師入定の地」「三会の座席」などの言葉が出てきます。これらは入定留身する大師や奥の院の御廟を意識していることが分かります。出土地が御廟のすぐ横ということからも、平安末の天永4年(1113)には、御廟が現在地にあったことが裏付けられます。
次に奥の院の存在を示すのが「御入定所」と記した「高野山図」です。   211P

高野山図 平安時代
              高野山図
高野山図2
          高野山図 江戸時代の複写

「高野山図」が、いつ成立したものなかのか押さえておきます。
①奥の院入定所が描かれているので、弘法大師御入定説成立以前ではない。
②奥の院御廟の左の丹生・高野両社は、天暦6年(952)6月に奥院廟塔が類焼
③翌7月に執行職に就いた雅真が、翌天暦7年(953)夏に奥院御廟を再興したもの(「検校帳」)
④同時に、それまで御廟橋の近くにあつた丹生・高野両社を御廟の左に移築した(『高野春秋』)ものなので、それ以後のもの
⑤絵図の下石の垣荘は、天慶9年(946)に石垣荘上下二荘に分割して以来のこと(正智院文書)
⑥東搭は天治元年(1124)10月、鳥羽上皇の高野参詣の際に完成したものなので、東搭が描かれているので、絵図の成立をそれ以前に比定することはできない。
以上からは比丘尼法薬の埋経からは、12世紀はじめには御廟はいまの奥の院に存在していたことが裏付けられます。しかし、それ以前に御廟がどこにあったかは分かりません。確かな史料がないのです。
そこで研究者が注目するのは「高野山七廟説」です。

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『紀伊続風土記』の「高野山之部」巻之十の「奥院之五 附録」には、次のように記されています。

①慶安三年(1650)頃初て七廟の名を載て、奥の院(廟所)・高野山とも、是は日本国中の大師の廟門七ヶ所あることにて、当山に七廟ある説にあらず。(中略)

②寛文の頃(1661~73)、或記に初て当山七廟の名を載て、奥の院(今の助所)・高野山)姑耶也)・遍照岡・正塔岡・大塔・御影堂・弥勒石といふ此説ありてより、好事のもの雷同して終に巷談口碑せり。             (『紀伊続風土記』四 189P)

①からは、近世になるまで七廟はなかったこと、②からは17世紀後半になって「七廟」という表現が用いられ始めたことが分かります。ここでは「七廟」というのは、近世以後の表現であることを押さえておきます。
そして「紀伊続風土記」の「高野山之部」の著者道猷も、いまの奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと次のように記します。
是らに因り猶大師の墓所を考ふるに、今山上にて七廟の説を伝ふ。其実は大師の葬処造にかくと定めかたし。或いはここならんといひし所七ケ所ありし中、今の奥院の処と定まりしとなん。然れともし廟の説によりて考ふれば、南谷宝積院の地こそ葬庭ならんかといふ。因りて書して後の考に備ふ。
意訳変換しておくと
①今日、高野山には七廟説が伝わっていて、大師の墓所はここで間違いないと言えるところはない。
②ここだあそこだと言ってきた七廟説のなかで、今の奥の院に落ち着いてきた。
③しかしながらいま一度、七つの候補地を検討すると、大師の廟所としては、市谷の宝積院の地が最も相応しいといえる。
④後世のために、あえて記しておく。        (『続真言宗全書』三六  23P)

とあって、最も有力な候補地として③の「南谷の宝積院の地」としています。さらに、割注でその根拠を次のように挙げています。(要約簡条書)
①今の高野山は、弘法大師の時代にくらべると、百倍も開かれているといえよう。
②奥の院の地は、今日でも中心部からは遠く、幽奥僻遠の地といった感じを強くうける。
③大師在世の時代にあっては、このように幽奥僻遠の地を選ぶ理由などなかったはずである。
④南谷宝積院の地は、大師が生活していた寺の向いで、遍照岡と呼ばれていた。
⑤また宝積院は、ふるくは阿逸多院といい、阿逸多坊とも呼ばれた。
⑥遍照は大師の号であり、阿逸多は弥勒菩薩の梵語である。
⑦この寺名は、大師が入定されたことに由来するとすれば、ここが大師の墓所であったと考えるのが自然である。
⑧宝積院を再建したときの記録には、次のように記されている。
境内を掘つたところ、奇怪な響きがした。寺主は不思議に想つて、さらに深く掘ったところ、五、六尺のところから一つの石函が出てきた。その一辺は一丈ばかりであった。恐れをなして、もとのように埋めてしまった、という。
⑨この記録は、この地が大師の墓所であったことの根拠といえるのではないか。
⑩ただし、今の奥の院が古くから大師の廟堂とされているので、このことは異聞としておく。

以上から道猷は「空海奥の院入所説」に対して、次の3つの根拠を挙げて疑義を表明します。
A ①②③で、開創当時の高野山を考えたとき、奥の院は伽藍建立の地である壇上から遠いこと
B ④⑤⑥⑦で、南谷宝積院の地は遍照岡ともいい、古くはは阿逸多院・阿逸多坊ともいい、大師および弥勒苦薩との関係ががえること。
C ⑧には宝積院を再営したときの記録に、境内から石函が掘り出されたこと

弘法大師が入定した約1300年前の高野山を取り巻く地形を「地形復元」してみると、山上は原生林におおわれていたことが想像できます。奥の院は最初に開かれた壇上伽藍から4㎞東の原始林の中です。そこにいろいろなものを運ぶとなると、多くの困難を伴ったことが想像できます。

高野山建設2
高野山開山 (高野空海行状図画) 原始林を切り開いての建築作業で宝剣出土

しかも、当時の高野山は伽藍の堂搭も、まだほとんどは姿を見せていない「開拓地」状態です。
その際に、参考になるのが高野山第2世の真然が、どこに、どのように葬られたかです。

真然大徳廟

  真然の入滅については「高野春秋編年曹録』巻第3 寛平3年(891)の条に次のように記します。

秋九月十一日。長者真然僧正、愛染王の三摩地に住し、病無く奄然として中院において遷化す。門人、院の東方の原野に賓斂す(中略) 寿八十九   (『大日本仏教全書」131 36P)

意訳変換しておくと

秋9月11日、真然は中院(現・龍光院)の愛染王の三摩地にて、病にかかることもなく忽然と亡くなった。弟子たちは中院の東方の原野に埋葬した。齢89歳であった

ここには「院の東方の原野に埋葬」とあります。大師から50年後の真然の場合でも墓所は、いまの金剛峯寺の裏山です。
空海の甥で十大弟子の一人である智泉(ちせん)の場合を見ておきましょう。

智泉大徳 2月14日は常楽会の日として知られますが本日は智泉大徳のご命日でもあります。 また、本年は1200年目の御遠忌でもあり  智泉大徳は平安時代前期の真言宗の僧で母は弘法大師の姉と伝えられ弘法大師の甥にあたり十大弟子の一人でもあります。若くして病に倒れた甥 ...
                  知泉大徳廟 
彼も讃岐出身で、母は空海(弘法大師)の姉で阿刀氏出身と伝えられます。空海が若くして惜しまれつつ亡くなった智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にあります。知泉は、天長2年(825)に高野山で入滅ししますが、その墓所については次のように記されています。
蓋し大師在世の日には、智泉大徳、此地に一字の僧房を営んで正住し給ふ故に、当院封内羊申の角に、師の墓所あり。此地、東塔の東にして、南は蛇原を限り、東に大乗院あり
                   (『紀伊続風土記』四  375P)
ここからは空海よりも10年前に亡くなった智泉の墓所も、伽藍東塔の東どなりに作られたことが分かります。こうして見ると高野山の開山途上にある時点で、空海の墓所が遠く離れた奥の院の原始林を拓いて作られたという話には疑義があると研究者は判断します。

以上を整理・要約しておきます。
①「空海は永久に入定したまま、奥の院で今もなお衆生済度のために尽力している」という入定留身信仰がある。
②奥の院の御廟の存在を確かな史料で確認できるのは、12世紀初め以後になる。
③17世紀後半になって「高野山七廟説」が説かれ始めるようになる。
道猷は、奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと記し、最も有力な候補地として「南谷の宝積院の地」を挙げる。
⑤空海の十代弟子であった知泉や、高野山2世も東塔周辺に埋葬されている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 210P」


うどんのルーツと考えられている物には、次の4つがあるようです
その一は、昆飩(こんとん)
その二は、索餅(さくべい)
その三は、饉飩(ほうとん)                            
その四は、不屯(ぶとう)
では、このうちのどれが、饂飩の原形だったのでしょうか。饂飩のルーツを探って見ることにします。テキストは羽床正明 饂飩の由緒と智泉 ことひら65号(2000年)です。

貞丈雑記1~4 東洋文庫 全4冊揃

伊勢貞丈が1763年から22年間にわたって書き綴った『貞丈雑記』には、次のように記されます。

饂飩又温飩とも云ふ、小麦の粉にて団子の如く作る也、中にはあんを入れて煮たる物なり。昆飩(こんとん)と云ふはぐるぐるとめぐりて何方にも端のなきことを云う詞なり。丸めたる形くるくるとして端なき故昆飩という詞を以て、名付けたるなり。食物なる故、偏の三水を改めて食偏に文字を書くなり。あつく煮て食する故、温の字を付けて温飩とも云ふなり。是もそふめん(素麺)などの如くに、ふち高の折敷(おしき)に入れ、湯を入れてその折敷をくみ重ねて出す也。汁並び粉酷(ふんさく)さい杯をそへて出す事、さうめんまんぢうなどの如し。今の世に温どんと云ふ物は切麺也、古のうんどんにはあらず、切むぎ尺素往来にみえたり。

ここからは次のようなことが分かります。
①温飩の原形は小麦粉の団子で、中には「あん」を入れた。
②「昆飩」と呼ぶのは、細長くてぐるぐるまきで端がないのでそう呼ばれた。
③食物であるところから三水を食偏に改めて「饂飩」になり、熱くして食べるところから「温飩」と変化した。
④今の「温飩」は「切麺」というのが正しく、昔の「うんどん」とは違うものである
⑤うどんの原形は「饂鈍」である。
  ここで私が興味深く思えるのは、①の「団子の中にあんをいれた」という所です。讃岐の正月には、あん餅入りの雑煮が出てきます。このあたりにルーツがあるのでしょうか。どちらにしても古来の「饂飩又温飩」は、素麺のような切麺ではないとあります。現在のうどんからは想像できない代物であったことがうかがえます。
嬉遊笑覧(喜多村イン庭 著 ; 長谷川強 ほか校訂) / 書肆 秋櫻舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

近世後期の喜多村信節の随筆集の『嬉遊笑覧』には、次のように記されています。
按ずるに、昆飩、後に食偏に書きかへたるなり。煮て熱湯にひたして進むる故、此方にて一名温飩ともいひしなり。今世、温飩は名の取違へなり。それは温麺(うーめん)にて、あつむぎといふものなりといへり。鶏卵うどんといふは、麺に砂糖を餡に包みたるものなり。これらを思ふに、其のもと饂飩なりしこと知らる。名の取違へにもあらず。むかし饂飩にかならず梅干を添えて食したとあって、「昆飩」は食偏に改めて「饂飩」になり、熱湯に浸して食べるゆえに「温飩」となった。

ここからは次のような事が分かります。
①昆飩は、食偏の饂飩に書きかられたのは、煮て熱湯にひたして食べるからである
②今の温飩とは間違いで、正しくは温麺(うーめん=あつむぎ)と書くべきである。
③鶏卵うどんは、麺に砂糖の入った餡に包んだものである。
④ここからは、その根源は饂飩だったことが分かる。名前を取違へているのではない。
⑤むかし饂飩にかならず梅干を添えて食したと言われる。
⑥ここからも「昆飩」が「饂飩」になり、熱湯に浸して食べるゆえに「温飩」となった。
ここにも③④には、餡を入れただんご(餅)をお汁の中に入れて食べていたことが書かれています。
雑煮にあん餅を入れる風習に、何らかの関係があるのかと思えてきます。それはさておき、本論にもどると、喜多村信節も饂飩は「温飩」に由来すると伊勢貞丈の説を支持しています。
  そうだとすると現在のうどんのルーツは、中国・唐菓子の昆飩(こんとん)ということになります。それが「昆飩 → 饂飩 → 温飩 → うどん」と変化してきたというのです。これが戦前までの「定説」だったようです。しかし、これは現在では疑問が持たれるようになっています。

うどんのルーツ1
            うどんのルーツは「昆飩」説への反論
源順が930年代に著した『和名抄』は、饂飩のことが次のように記されています。

 饂飩は切り刻んだ肉を水を加えて捏ねた小麦粉で包んで、熱湯で煮たものだ。そして昆飩は豚肉・葱・胡椒などを小麦粉の生地で包んで茄でた中国料理の雲呑(わんたん)のことである。

ここからは昆飩の製造過程の中に「包丁で切る」という工程がないことが分かります。しかし、うどんには「包丁で切る」工程があります。「包丁で切る」という工程を含まない饂飩をうどんのルーツにはできないと研究者は考えているようです。ここから昆飩(こんとん)は、うどんのルーツではないとします。
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次にみていくのが唐菓子の索餅(さくべい)です。
索餅は小麦粉に水を加えて捏ねて手で引き伸ばしたもの二本を撚って縄のようにして、油で揚げた菓子です。奈良時代後期には、索餅は今日の干し饂飩のようなものになり、別名を麦索といい、売買されていたようです。
『正倉院文書』に「索餅茄料」とあり、『延喜式』には「索餅料」として糖(水飴)・小豆・酢・醤・塩・胡桃子をあげています。ここからは、小豆・糖を用いて菓子として食べ、酢・醤・塩・胡桃子などで味をつけて惣莱として食べていたとようです。

索餅も手で引き伸ばしてつくられるもので、製造過程の中に「包丁で切る」という工程はありません。饂飩の原形ではなかったとしておきます。ところが室町~江戸時代に登場する索餅は、その姿を変えて細くて素麺のようなものになっています。
『多聞院日記』文明十年(1418)五月二日条には次のように記されています。

「麦ナワト云フハ素麺ノ如くナル物也」

とあります。江戸時代中期の百科辞書「和漢三才図会』にも「按ずるに索餅、俗に素麺と云ふ也」とあって、麦素(索餅)が素麺のようなものであったことが分かります。奈良時代後期にの菓子の索餅から、千し饂飩に似た麺類の索餅に「変身」していたようです。これを別名「麦索」と呼んだようです。江戸時代になっても菓子と麺類、この二つの索餅が食べられていたことがうかがえます。現在、素麺の少し太いものを冷麦と呼んでいますが、室町~江戸時代の麺類の方の索餅は、丁度現在の冷麦のようなものであったと研究者は考えているようです。
3番目の饉飩(ほうとん)を見ておきましょう。
中国で六世紀前半に成立した『斉民要術』は、饉飩(ほうとん)を次のように記します。

「小麦粉に調味した肉汁を加えて捏ね、親指程の大さにして、二寸程の長さに切り、手の平で薄く伸ばして、熱湯で茄でたもの」

これが『和名抄』には「干麺方切名也」であるとして、短冊状の扁平なもので、現在の群馬県のひもかわうどんのように長い帯のようなうどんだったことがうかがえます。

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群馬のひもかわうどん
藤原頼長の日記『台記別記』には、次のように記します。

「仁平元年(1151))八月、左大臣で氏の長者でもある頼長が春日大社に参詣した時、参道に問口六間(約11m)の饉飩をつくるための仮の小屋を建てて、伎女十二人を配し、楽人が酎酔楽を演奏するのに合わせて、伎女たちに饉飩をつくらせて、小豆の汁をそえて食べた」

この小豆の汁は糖(水飴)や甘葛(蔦の樹液を煮つめてつくった甘味料)が使われ、甘くしたことが考えられます。このように、平安末期に頼長の食べた饉飩は菓子としての性格が濃いものであったようです。

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  今でも山梨県では、小豆の汁粉の中に「ほうとう」を入れた「小豆ほうとう」をハレの日に食べる習慣があるそうです。また、ほうとうにはきな粉や飴をまぶして食べることから菓子としての性格があるようです。これは、先ほど見たように古代の貴族達が饉飩を菓子として食べていたことと関係するのかも知れないと研究者は考えているようです。

中尾佐助『料理の起源』(昭和47年)の51Pには、次のように記します。

中国華北ではアズキを軟らかに煮た汁の中にウドンを入れて煮込んだものも見た

ここからは、華北では小豆や大角豆の汁の中に饂飩を入れて、煮込んで食べていたことが分かります。日本でも平安末期に頼長は、ほうとんに小豆の汁をそえて食べ、また、山梨県では今も小豆の汁粉にほうとうを入れて食べています。そして、山梨ではうどんのことを「ほうとう」と呼んでいます。ここからは、どうやらうどんのルーツは、ほうとんの可能性が高いと研究者は考えます。
最後に不屯(ぶとう)をみておきましょう。
うどん=不屯(ぶとう)起源説を紹介する記事が『四国新聞』(2009年2月8日付)に、載せられていました。要約して紹介します。
美作大学大学院の奥村彪生氏は、「日本のめん類の歴史と文化」と題する博士論文の中で、饂飩のルーツを次のように説明します。中国料理では饂飩は雲呑(わんたん)のことで、豚肉や葱、胡椒などを小麦粉でくるんで茄でたもので、昆飩と饂飩とは似ても似つかないものである。それに対して唐代に「不純」という切り麺があつて、これが発展したのが「切麺」で宋代に盛んにつくられた。切麺が13世紀前半に、禅宗の僧侶によって日本に伝えられた。饂飩が初めて文書に登場するのは、南北朝時代の1351年の法隆寺の古文書で「ウトム」とある。その後、饂飩に関する記述は、京都の禅寺や公家の記録に頻出するようになる。饂飩は13世紀の終わり頃に、京都の禅寺で発明された。初めて記録に登場するのは奈良だが、その後の記録の多くが京都に集中しているところから、饂飩の発祥の地は京都だ。
 江戸時代の記録によると、饂飩は茄でて水洗いしてから、熱湯につけて、つけ汁につけて食べていた。現在の「湯だめ」である。禅宗の僧侶が伝えた「切麺」は中細で、湯だめにすると伸びてしまうので、伸びない太い切り麺として発明されたのが饂飩である。不純は湯につけて食べるところから「温屯」になりになり、温の三水を食偏に改めて「饂」と作字し、混飩の「飩」を参考にして「饂飩」と書くようになった(「追跡シリーズ」四五七号、うどんのルーツに新説 中世京都の禅寺で誕生?)。
うどん=不屯(ぶとう)起源説

 ここで奥村氏は饂飩の起源は、13世紀前半に禅僧にによってもたらされた切麺にあると主張します。しかし、これには次のような反論もあるようです。
①切麺という名称があるのにわざわざ「不純」を引っ張り出してうどんの語源とする必要があるのか。
②つけ汁につけて食べるようになったのは醤油が広く普及した近世中期以降の食べ方で、中世にはつけ汁の食べ方はない。なぜなら醤油がなかったから。

中世から近世前期まで、饂飩は味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、饂飩も醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。ここからも「うどん=不屯(ぶとう)」説は成立しないと研究者は考えているようです。
 
うどんの歴史文書の初見記録は奈良です。しかし、その後の記録の多くは京都に集中しています。
ここからは、うどんは奈良で発明されて、京都にいち早く伝えられ、京都から全国各地に広がっていったという仮説が考えられます。
平安時代の日本では、中国のように肉食が普及していません。そのため饉飩(ほうとん)も肉汁は使わないで、小麦粉に水を加えてこねて薄く伸ばし、包丁で短冊状に切って熱湯でゆでて、醤や塩で味をつけて惣莱として食べたり、糖や甘葛を用いて甘くした小豆の汁をそえて菓子として食べていたとしておきましょう。
 以上から羽床氏は「うどん=ほうとん起源説」を次のようにストーリー化します。

「うどん=ほうとん起源説」

①鎌倉時代に禅宗の僧侶が、点心(食事が朝・晩の二食であった時代に、二食の間に食べた軽い食事)が中国から伝えられる。
②同時に点心としてていた饉飩(ほうとん)が食べるようになる。
③しかし、饉飩は作業手順が複雑で、簡単につくれるものではなかった。
④そこで南北朝時代前半に、奈良のある僧侶が作業工程の効率化を生み出した。
⑤その行程は、水を加えてよく捏ねた小麦粉を薄く伸ばして、乾いた小麦粉を振り掛けて、くっつかないようにしてから折りたたんで包丁で切って、効率よく作るというもので、これを「ほうとん」と呼んだ。
⑥それがいつしか「ほ」が失われて、「うとん」とか「うとむ」と呼ばれるようになった。
⑦さらに「と」を濁らせて、「うどん」とか「うどむ」になった。
⑧さらに、うどんは温めて食べるところから「温飩」と書くようになり、食物であるところから三水を食偏に改めて「饂飩」と書くようになった。

うどんは、小麦粉に水を加えて良く捏ね、様々に成形して加熱した食品です。これは中国の食文化の影響下で成立した食品で、製造過程の中に「包丁で切る」という工程を含むのは唐菓子の饉飩だけです。これが最もうどんのルーツにに近いし、うどんの語源も饉飩(ほうとん)である可能性が高いと羽床氏は考えているようです。
うどんが登場するのは、中世以降のこと 
歴史的な文書にうどんが登場するのを挙げて見ましょう

饂飩が登場するのは中世以後
①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎学林で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」として、「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」と説明
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも「饂飩」
以上から14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは、「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。

讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや

元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、うどん屋の看板をかかげられています。中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。この店以外にも2軒のうどん屋が描かれています。


1 うどん屋の看板 2jpg

讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。後に「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。
 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)など、特別な日の御馳走として、各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れてつけ汁につけて食べ、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。
 それでは、うどんは讃岐へいつ伝えられたのでしょうか。
先ほど見たように、「うどん」が日本に登場するのは室町後期の奈良地方です。それが京都で流行し、讃岐に伝えられるのは安土桃山時代と研究者は考えているようです。逆に言うと、空海の時代にはうどんは日本にはなかったのです。うどんについては、讃岐では「空海が唐から持ち帰った」という「空海伝説」が語られています。それを最後にみえおくことにします。
空海の弟子・智泉は讃岐国にうどんをを伝えたか?    
うどんの製法を智泉が讃岐に持ち帰ったというのです。智泉は滝宮天満宮(その別当寺の滝宮竜燈院)出身の僧侶と云われてきました。そのため滝宮を「うどん発祥の地」とする説があるようです。
木原博幸編「古代の讃岐』(昭和63美巧社)256頁には、智泉について次のように記されています。
智泉は延暦八年(789)に讃岐国で生まれた。父は滝宮天満宮の宮司であった菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉であった。九歳の時、空海に伴われて大安寺に入り勤操大徳に師事して延暦23年に剃髪受戒した。天長元年(824)九月には、高雄山寺の最初の定額僧の一人に加えられたが、健康にすぐれず、翌二年二月十四日、37歳の若さで高野山東南院で没した。

「讃岐に生まれた人間。空海 下」(四国新聞『オアシス』第337巻、2005五年、四国新聞社発行)には、次のように記します。
智泉は、滝宮竜燈院(現在の滝宮天満官)に嫁いだ空海の姉の子であり、大師が九歳から奈良に連れてゆき、仏教の勉強をさせた程の器。(中略)
空海は智泉を、将来は教団を任せられる人物のひとりと考えていましたが、健康を害して三十七歳で死去。
  両方とも、智泉を滝宮天満官の宮司家である菅原氏の出身で、その母を空海の姉と記します。しかし、この説には無理があると羽床氏は指摘します。なぜなら智泉が生まれたのは延暦八年(789)で、菅原道真が活躍するのはその百年後のことです。太宰府に左遷された菅原道真がなくなるのは延喜三年(903)です。つまり、智泉の時代には滝宮天満宮はまだありません。存在しない滝宮天満宮の官司家の出身することはできません。また、智泉の母を空海の姉とするのも、根拠がありませんし、年齢的にも無理があります。研究者は、次のように批判します。
「智泉を滝宮天満宮の宮司家や竜燈院の出身とする説は根拠のない虚説」
「智泉は滝宮天満官の官司家や竜燈院の出身ではなかつたし、その母が空海の姉というのも嘘」
以上をまとめておくと
①空海が中国に渡った唐の時代には、饂飩はまだ姿を見せていないので、空海が日本にうどんをもちかえることはできない。
②史料的には、饂飩のルーツが現れるのは南北朝時代前半以後のことで、讃岐には空海の弟子の智泉が持ち帰ったということもありえない。
③「滝宮=饂飩発祥の地」説は、史料に基づかない「虚説」と専門家は批判する。
2025/01/13 改訂版

参考文献 羽床正明 饂飩の由緒と智泉 ことひら65号(2000年)
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